第39話
「ば、晩御飯遅くなっちゃってごめんなさい!」
ミリナはキャベツと芋、そしてココットリスの肉のポトフを皿に装いながらそう言った。
リビングの時計は九時を回っていて、外はすっかり暗闇に飲み込まれている。部屋でのんびりと蹲っていたループも、素材を売って帰ってきたバレントも、少し心配そうに二人が食事を準備している様子を覗き込んでいる。
「ううん、私も一緒に昼寝、しちゃったから!」
アーリも少し慌ててポトフやパンをダイニングテーブルに運んでいる。
「まぁ、そう焦るな。私やバレントは作って貰っている立場だ」ループはそういうと、バレントの方を向いた。「そうだろう、バレント?」
「ああ、俺なんかよりずっと美味い物を作ってくれてるんだ」バレントは荷物を持って、リビングを出て行こうとする。「遅くなったくらいで気にはしないさ」
それから数分間、アーリとミリナは、バレントの手も借りながら、夕食の準備を進めた。
「よし、準備、できた」アーリは最後にボウルに入ったサラダを置いた。「さ、食べよ!」
食卓に並べられたのは、湯気の立つポトフと水々しい野菜のサラダ、ムムジカ肉のグリル、そして街で買ってきた柔らかなパンにグリルで焼き色をつけたものだ。そのどれもが、農耕地で丹念に作られた物で、サラダとスープに至っては今日貰ったばかりの新鮮なものだ。小麦は去年作られたものだが、未だにいい風味を保っている。
彼らは手を合わせ、いただきますと言うと食事を食べ始めた。
他愛もない話をしながら、ゆっくりとした遅めの夕食が始まり、家族団欒の時間は流れていく。今日は何をしていただとか、明日の朝は狩りにいくだとか、いつもと変わらない日常の会話だった。
「そういえば、農耕地に泥棒がいるらしいんだけど」アーリはふと昼間のブレックとの会話を思い出し、ループとバレントにも訊ねてみた。「バレント、ループ、何か知らない?」
彼女の言葉を聞いても、バレントは思い当たる節がないと言わんばかりに肩をすくめた。
「いや、俺らは何も知らないな。だが……」バレントは一瞬、ループの方に目をやる。「どうやら街でも怪しい人物が、出没しているらしい」
「怪しい人物ってー」ミリナが聞いた。「どんな人なんですか?」
アーリの質問に、ループが答える。
「ジェネスの話を聞く限りでは、市民を拉致しているらしいんだがな。そいつの特徴も、どこに潜んでいるかも分からないらしい」バレントはパンを一口齧る。「まぁ、言ってしまえば、そう言う奴がいるっていう街の人達の噂程度のものだな。一応、今日の街代表会議で、議題に上がったって程度だ」
「へぇー、そんな人もいるんですね」スープを啜っていたミリナが横から質問を投げる。「怪しい人物って……それが泥棒なんですかね? 一緒の人ってことかな?」
「分からないが、人間を相手にしているんだ。怪物を相手にするよりは、幾分かマシだろう」
バレントはそう言うと、再びスープとパンを口に運んだ。
「ああ、私とバレントは、明日から調査するんだ」今度はループがそう言った。「何か分かれば、二人にも共有しよう」
「うん、私も心配だから、街に行ったら注意しておくね」アーリはそう言うと、食事に戻った。
アーリとミリナは翌日、早朝に獲ったムムジカの素材を五番街に売りに来ていた。
機械怪物達の襲撃で破壊された防護壁は、月日と共に綺麗に修復され、今はその影もない。行き交う人々と道の両側の出店の店主達、走り回る子供達の姿が見える。活気に溢れる五番街の人々は、機械怪物の脅威など全く覚えていないようだ。見回りや壁の上にも兵士達はいるが、彼らの顔にでさえ、笑顔があるのだ。
訪れた平和な期間に、人々は平穏な日常を取り戻していた。怪物達の襲撃も時折あれど、通常の怪物であれば、兵士数人での対応が可能である。そのため、ここ数年の怪物被害件数はほぼゼロに等しかった。狩人が森の奥へ入って負傷を負ったり、子供達がふざけ半分に怪物達を狩りに行こうとして食われてしまったりなどの人為的な要因が引き起こした事件以外は、だが。
二人はそんな五番街の騒がしさの中で、素材を買い取ってくれる贔屓にしている業者を訪れた。店番は慣れた手つきで、彼女達の差し出した皮、角や爪などを精査し、三枚の札をアーリに手渡した。
「ふー、今日は素材全部で三万グランだったね」アーリはお金を仕舞う。「今日はまぁまぁだったね」
「よし、アーリちゃん!」外で待っていたミリナは、出てきたアーリに話し掛けた。「ご飯食べに行こう、ちょうどお昼だし! 頑張った分、美味しいご飯食べなきゃー」
「うん」アーリはコクリと頷き、続けた。「今日は何食べたい?」
アーリとミリナは五番街を北上し、橋を渡って三番街へ歩いていく。
「そうだなぁ……ハンバーガーとかどう? ボビィーの店が新しいレシピを思いついたって聞いたよ!」ミリナが頰に人差し指を当てながら言った。「フルーツを挟んだハンバーガーらしいんだけど、結構美味しいんだって! 期間限定のメニューらしいよー」
「えーそれ美味しいの?」アーリは訝しげな表情を浮かべて言った。「お肉とフルーツでしょ? 絶対美味しくないよ……」
「うーん、美味しいかは分からないけどさー」ミリナはいつもの能天気な笑顔だ。「気になるじゃん! 行ってみよーよ!」
彼女達が三番街へ行くと、一つの店に多数の客達が群がり、列を成していた。甘く初々しいフルーツの匂いが、その屋台から漂ってくる。だが、匂いだけでここまで甘いのであれば、商品はもっと甘いのだろうと、アーリは思った。
「ねぇアーリちゃん!」ミリナはそれを見つけるなり、きらきらと目を輝かせた。「あれ、なにかなぁ! 美味しいのかなぁー?」
「んー、行ってみる?」あまり気乗りしていないが、アーリは言った。「ちょっと気にはなるし」
「うんうん!」ミリナに引っ張られていくまま、アーリは屋台に近づいていく。
「あれだけ並んでるんなら、きっと美味しい食べ物か何かでしょ!」
がやがやとうるさい人々の波に近づくと、赤い髪で若い風貌の店主が、店先で声を張り上げていた。近づくと、さらに甘い匂いが強くなり、人間以上の感覚を持つアーリには少しきつかった。
「最新のリフレッシュドリンクはいかがー! 一杯三百グランだよー! 独自のフルーツミックスで作り出したこのドリンク! 喉も
決して上手い謳い文句ではなかったが、通りがかりの人々は蛇のように長い列に、そして売っている商品に目を引かれて立ち止まっていく。
店の前に置かれた木製の長テーブルには、青く透き通った飲み物が置いてある。良く見てみると、単純な青ではなく、夜の闇に炎を翳したような藍色と橙色のグラデーションだ。
街の人々は店主に群がるように金を払っては、それを受け取っていく。かと思うと、それを一気に飲み干し、口々に美味い美味いと言い合っている。何人かはそれを飲み干した後、また列に並んでいた。かなり人気を博しているようにも見えるが、若干の異常さも感じさせる。
「へぇー、新しい飲み物かぁ」
ミリナは唇に指を当て、飲みたそうにしているのをアーリは横目で見ていた。長年の付き合いだ、彼女が何かを食べたかったり、飲みたかったりする時、彼女はこの動作をする事を、アーリは意図せず知っていた。そして、試してみるまで、彼女がこの場から離れない事も知っていた。
「飲んでみる?」アーリは財布を取り出し、いくらかミリナに手渡した。「そんなに高くないし」
「うん!」ミリナはそそくさと列に飛び込んだ。「ちょっと待ってて、アーリちゃんの分も買ってくるね」
アーリは少し怪しんで、店の方を見ていたが、列は想像以上のスピードで進んでいく。飲み物を渡して札を受け取るだけだから、早いのは当たり前だ。しかし、店主もかなりのやり手で、まるで手がもう一対あるかのような手際で、作業をこなしていく。赤っぽい液体を氷の中に注いで、その上から青い液を注いでグラデーションを作っているようだ。
ものの五分も経たない内に、ミリナは二つのカップに入った奇妙なグラデーションの飲み物を持って戻ってきた。
「お待たせー!」ミリナが手に持った青い飲み物を手渡してきた。「星空のソーダって言うんだってー!」彼女は飲み物が入ったカップの水面に、鼻が付くほど近づけて匂いを吸い上げた。「んー、いいフルーツの匂いがするよ、飲んでみよう!」
「うん」アーリはそれを受け取って一口、口に含む。
しゅわりとした炭酸が、舌をぴりぴりと刺し、咳き込むほど刺激的なまでに甘ったるい、様々な果汁の風味が口の中に広がった。かと思うと、今まで感じた事のないほど苦い後味が口の中に残る。
まずい。少女は一口で、それが自分の味覚に合っていないと思った。
「うーん、あんまり好きじゃないかも……」アーリは顔を
アーリの問いかけに、ミリナはそれをコクコクと頷いた。返事をするのも
一思いに飲みきると、ぷはぁと呼吸し、満足げに天を仰いだ。
「すんっごい美味しいよ!」そして彼女はアーリの手の中に残っているソーダを見た。「それ、飲まないの? だったら飲んでいい?」
「う、うん、いいけ——」
アーリが返事を返すか返さないかで、ミリナはそれを掠め取るように手に取り、一気に喉の奥へと流し込んだ。
「え、あ……」
そんなに美味しいのかなぁと、少女は思いながら、ふと何かの視線を感じてそちらを見た。ジュースの店の方を路地から覗いている怪しい人影が、アーリの目に留まった。
「あれ?」アーリはそちらに歩き出す。「なんだろう……」
その人影は薄汚れたベージュのローブで全身を覆い隠し、フードを深々と被っているため、顔を窺い知ることはできない。背丈も百六十センチほどで、体格も平均的なため、性別ですらも判別する事ができない。
「え? ど、どれ?」
アーリがジュースを飲み終えたミリナの方を振り返り、また路地の方をみるとそこにいた人影は既に消えていた。まるでそこに元からいなかったかのように、忽然と姿を消していたのだ。
「あ、あれ……?」アーリは路地の方を見て言った。「さっきそこに、人がいたような……」
「どれ、どこ?」ミリナは首を傾げている。「どれのことー?」
「ちょっと待ってて!」
アーリは人影が覗いていた路地へと駆け出し、消えた人影の後を追おうとした。だが、駆け寄って路地を覗き込むと、そこには人影もなく、薄暗くじっとりとした裏道が続いていた。一人の厨房スタッフが重たい荷物を抱えて運んでいたが、急に飛び込んできた少女に驚き、一瞬身動いで荷物を落としそうになっているだけだった。
「ど、どうしたの?」ミリナはアーリの横に駆け寄ってくるなり、心配そうな声を掛けた。
「うーん、誰かいた気がしたんだけど……」アーリは冷たい路地の奥へと歩いていく。「もしかしたら、昨日バレントが言ってた、怪しい人物かもしれないね」
「ちょ、ちょっと、アーリちゃん!」ミリナはカップを持ったままだ。「本当に言ってるのー?」
アーリは怪物の力を発動させ、嗅覚と視覚、聴覚を研ぎ澄ませながら、路地の奥へと歩いていくが、そこに誰かいた形跡も見当たらない。通常ならば、匂いが輪郭を残していて、彼女はそれを捉えられるはずなのだ。ループには及ばないなりに、人間の数十倍の嗅覚を持ってしても、そこにいたであろう人物の匂いは、寸分も捉えられない。
「……居なかったのかな」アーリは首を傾げた。「見ていたはずなんだけど」
「誰が居たの?」ミリナがアーリの横に来て言った。「どんな人だった?」
「ローブを着てて、フードを深く被ってた」アーリは奥に歩いていく。「でも、顔までは見えなかったんだ」
「うーん」ミリナは後ろを付いていく。「まぁ今度見つかるかもしれないし! ね、ご飯食べに行こ!」
「……うん」アーリはどこか騒めく気持ちを抑えつけ、路地から引き摺られていく。
「すいませーん!」ミリナがカウンターの奥に向かって叫ぶ。「アップルバーガー、二つください!」
「少々お待ちくださいね」気弱そうな店主がそう返してきた。「お好きな席へどうぞー」
こじんまりとした店内は、カウンターが四席とテーブルがいくつかあるだけで、決して広くはなかった。石造りの内装は少し古ぼけてはいるが、味があるといえば幾分か聞こえはいい。
ミリナが席に戻ってきたのとほぼ同時に、厨房からはジュワッと肉の焼ける音が聞こえ始めた。かと思うと、香ばしい油と肉の焼ける匂いが溢れ出してくる。
しかし、アーリはご飯の事を考えていられる気分ではなかった。先ほど見た人影の事が頭にこびり付いて、思考にブレーキをかけているようだ。もしも、あの人物が街の人々を誘拐しているのであれば、取り逃がしてしまったのは良くなかったのではないか。もしかしたら今も街の誰かが居なくなって——。
「おーい」ミリナはアーリの顔の前で、手を振っている。「アーリちゃーん、大丈夫ー?」
「……ん?」宙空を見つめていたアーリはそれに気づき、視線をミリナに向けた。「ど、どうしたの、なにかあった?」
「いや、なんかぼーっとしてたから」ミリナは少し心配そう眼差しをアーリに向けていた。「さっきの事が、気になってるんでしょ? 顔を見ればわかるよー」
「うん、バレント達も言ってたし」アーリは不安げな顔を浮かべている。「もしかしたら危ない人、だったかもしれないし。でも姿も匂いも追えなかったのは、少し変だなって。普通の人間だったら、どんな人でも匂いはあるはずなのに」
「うーん、確かに危ない人、なのかもしれないけど……」ミリナはまっすぐにアーリを見て言った。「アーリちゃん一人が抱える事、じゃないと思うよ?」
「……そうだけど、やっぱり心配だよ。カルネやレーラが居なくなっちゃうかもしれないんだよ?」アーリは水の入ったコップを撫でた。「……ミリナさんも手伝ってくれる?」
「もちろん、任せてよ!」ミリナは大げさに胸を叩いて見せた。「パートナーだからね!」
アーリはゆっくりと頷いて、水を飲んだ。さっきの青いドリンクが残した甘ったるさが、喉の奥へと流されていく。
しばらく待っていると、ひょろりとした糸目のウェイターが、二つのハンバーガーを持ってきた。
「アップル・バーガー、お二つ、おまたせ致しました」彼はテーブルの上に木製の皿を二つ置いた。「それでは……ごゆっくりどうぞ」
二人はウェイターに礼を言うと、「いただきます」と言って食事を始めた。
ミリナはバーガーに勢いよくかぶりついた。彼女の口の中で、りんごがシャキシャキと音を立てている。漂ってくる肉の匂いは香ばしく、若干の甘さを感じる。
アーリは上のバンズを持ち上げ、怪しむように中身を確認した。ハンバーガーにりんごが合うわけがない、彼女はそう思っていたからだ。
柔らかいバンズの下には、りんごを丸く薄くスライスしたものが挟まっており、その下には普通のバーガーのようにパティやレタスなどが挟まっている。どうやら、トマトの代わりにアップルスライスが挟まっているようだ。そして、トマトのソースではなく、赤い半透明のソースがかけられている。それからは甘酸っぱい匂いがする。
アーリは未知のハンバーガーを持ち上げ、口に運ぶ。
「ん、美味しい!」アーリは、それに一口齧り付く。「りんごってどうなの、って思ってたけど。これ、いいかも」
一口で自分のこのレシピに対する偏見が、バラバラと崩れるのをアーリは感じた。
歯を突き立てると分厚い牛肉のパティから濃厚な肉汁が溢れだす。かと思うと、りんごとレタスのシャッキリとした食感が響き、ほのかな酸味とすっきりとした甘みが口の中で弾ける。スライストマトとは違った、りんごのスライスの甘みと酸味が新しい。さらに特製の酸味の多いソースが、味のバランスを取っている。
「うん、私はトマトよりりんごの方が好きかも!」ミリナはもう一度、大きな口を開けて齧り付く。「しかも、このりんごもブレックさんが作ったやつなんだってさ! 甘くて美味しいよねー」
彼女達はその後も談笑しながら、ゆっくりと遅めの昼食を楽しんだ。
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