第30話
「兵団長! 装甲を纏うギガントータスが東の樹海より接近してくるのを確認! 至急指示を!」
「……ったく二晩連続か」
ジェネスは握っていたペンを起き、顔を顰めた。
机の横に備え付けられたパイプに向かって、彼は叫ぶ。
「総員、三番、四番、八番街側の防護壁上に配備しろ!」
その怒声はパイプを下って、駐屯している兵士達の部屋に到達する。彼らはベッドから跳ね起き、それぞれに鎧を着始めた。
「俺も前線に出よう。鎧を持って来てくれ」
「了解です!」
そういうと兵士長は廊下の奥へと消えていった。
静かな団長室の中で、ジェネスは唇を強く噛んだ。
「……まだ防護壁の強化は完了してないが……やるしかない」
彼の呟きは静かな部屋の中に吸い込まれていった。
東側の防護壁の上では火薬の炸裂が断続的に生まれている。
ジェネスが四番街から壁の上に登るための階段を上がりきると、薄暗い闇の中に巨大な亀が、ゆっくりとこちらに前進してくるのが見える。
二つの赤い目玉は真っ直ぐに四番街の方を見据え、その巨大な体が動くのに合わせて大きく上下している。
ジェネスに気づいたのか、一人の兵士が近づいてくる。
「兵団長!」
「現状を報告しろ」
「ハッ、敵は一体。ギガントータスだと思われますが、例の装甲怪物らしく、通常の弾丸は効果がないと思われます。対装甲怪物弾は指示で発射できるように、準備が完了しています」
「報告、感謝する。
「ハッ!」
その兵士は敬礼をすると、配置に戻った。
防護壁の上にずらりと等間隔に並べられた大砲。両側には一人ずつ兵士が付き、連続で砲弾を詰め込んでいる。
大砲に付いていない兵士は、ライフルを構えて怪物に銃弾を放ち続けている。
ほとんどの弾丸がギガントータスの甲羅や、四肢と頭部を覆い隠す装甲に弾き返されている。時折怪物の首や甲羅の隙間に打ち込まれた弾丸も、分厚い象のような皮膚にめり込むのみで、致命傷には至っていない。
「クソ怪物め……」
ジェネスは防護壁の
怪物は射撃で止まることもなく、防護壁の五十メートル付近まで接近していた。
「一撃で仕留めてやる」ジェネスは右手を空に伸ばした。「全砲手に告ぐ! 砲撃止め!」
火薬の炸裂音が鳴り止み、兵士一人一人の胸の鼓動が耳の横でなっているかと勘違いするほどの静寂が訪れる。
「
ジェネスの号令に砲手達は一斉に動き出す。一糸乱れぬ動作で、特殊な形状をした砲弾を装填し始めた。
砲弾の側面からは五本の鉤爪が伸びていて、先端には巨大な紅蓮のクリスタルが埋め込まれている。
ジェネスの左右からは兵士達が、「装填完了!」と叫ぶ声が聞こえてくる。
「次の号令まで待機! 確実に当てれる距離まで引き付けるぞ!」
怪物は依然として、ゆっくりとしたペースで防護壁に接近してきている。
兵士達、そしてジェネスにでさえ、チクチクと肌を刺す様な緊張が走る。
ある者は生唾を飲み込み、ある者は額に滲んだ汗を拭う。またある者は震える膝をどうにか抑えようと、呼吸を整える。
ジェネスが空に伸ばした手が小刻みに震えている。彼もまた緊張しているのだろうか。しかし、冷たい表情をどうにか保ち、顔には出さないようにしていることも伺える。
月の光を受けて艶やかに輝く砲口は、怪物に向けて静かにその役目を待っている。
緊張が最大まで高まった瞬間、ジェネスが右手を振り下ろす。
「今だ! 撃て!」
号令を合図に一斉に大砲が火を吹いた。
鼓膜を貫通し、脳が揺さぶられるほどの炸裂音。目が潰れるほどの発光。
一秒も掛からずに、
「燃やせ、燃やし尽くせ!
地面に溶け出た金属がだらだらと垂れ、道しるべのように筋を作った。
やがて、怪物は動きを緩め、防護壁の前で崩れ落ちるように動きを止めた。
訪れた完璧なる静寂。
「我々の勝利だ! 兵士諸君、よくやった!」
ジェネスの号令に、兵士達は喜びあった。
東の山の向こうからは朝日が顔を出し始めている。
気がつくと私は真っ黒な空間にいた。森でも、夜でもない。周囲には何もない闇。
私は暗闇の中で縮こまって、得体の知れない恐怖に怯えていた。
「……ーリ……アーリ」
遠くの方で誰かが私の名前を呼んでる。優しく暖かい声。
きっとお母さんだ。そう思うと不思議と勇気が湧いてきた。私は立ち上がって周囲を見渡した。
それでもお母さんの姿は見えない。
「……どこ? お母さん!」
「ここよ、アーリ!」
声はいろんな方向から聞こえてくる気がする。それらは幾重にも重なって、ぐわんぐわんと脳を揺らされて体の中で反響している。
「おか——」
そう叫ぼうとした時だった。周囲に広がる真っ暗な闇の中に、一点、赤い光が浮かび上がった。
悲鳴をあげる間も無く、それらは無数の赤い目になって、私の周りを取り囲んだ。
恐怖に苛まれ、膝がガクガクと震える。身動きの取れない私に、赤い光がジリジリと近寄ってくる。
「……きて」
別の声が私を呼んだ。
闇の中に一点の光が差し込んだ。意識がフッと揺らいだ。
「……起きて、アーリちゃん!」
大きく左右に揺さぶられ、アーリが目を覚ます。
部屋はランタンの明かりのみで薄暗く、まだ日は登っていない。
こんな時間に起こされるということは、よほどの事態なのだろう。気にするまでも無く、周囲の大気がビリビリと震えているのを感じられる。無数の足音が城の近くを走り抜けているようだ。
ミリナは慌てた様子で、アーリの顔を覗き込んでいる。
「ど、どうしたの……?」
「あ、あのね、えっと、その、凄い物音がするの! 後、ループさんがいなくなってるの」
アーリが左隣のベッドを見ると、そこに縮こまって眠っていたはずのループはいない。
「そ、外! 確認してみよ」
アーリは飛び起きて、窓へ近づいて外の景色を見た。それと同時に彼女の顔から血の気が引いていく。
真っ白な月がぽっかりと浮かぶ夜の闇。月光に照らされた砂の街を、左右に分かつ砂の道が見える。
そしてそこを闊歩する赤い目を持つ怪物の群れ。数体ではなく、数十体、数百、いやそれ以上。月明りで白く染まるはずの街が、進行する怪物達の色取り取りな毛皮に染め上げられている。
思い思いの足取りで進んでいく怪物達は、お互いを押しのけ合うことも襲い合うこともなく、真っ直ぐに西の方向を目指している。
「……ど、どういう事」
「と、とにかくバレントさんや師匠に知らせないと!」
「う、うん!」
アーリ達は部屋を飛び出し、二階にある部屋にいるはずのバレント達の元へと走った。
「ど、どこに——」
アーリは食堂側の廊下に向かおうとバルコニーの下に目をやると、そこにはバレントがいた。彼はドアの外を静かに眺めていた。
「ば、バレント! そこに居たんだ!」
「あ、ああアーリとミリナか」
バレントはバルコニーにいるミリナとアーリを交互に見ている。その目は悲しみと
「大変なんです! 怪物の大軍が——」
「ああ、知っている……」バレントは頭を抱え、首を降っている。「だが……どうする事も……できないんだ。俺らにあの数の怪物を止めることはできない、お前も対峙したなら分かるだろう……」
絶望と悲壮が混じる表情を浮かべるバレントは、力抜けたように項垂れた。
「な、何言ってんの! 街のみんなはどうなったっていいの⁈」
アーリは声を荒げた。
少女がバレントに反抗するのは初めての事だ。そして、少女にはそれが正しい事の様に思えた。
勝手な正義感だとしても、街のみんなを見捨てる事はできない。そんな残酷な選択肢は少女の中には微塵も生まれない。
「そ、そうですよ! 私達が助けに行かなきゃ」
ミリナも同じ様な事を思っていたのかもしれない。バレントに訴えかけるように叫んだ。
彼女達の叫びはホールに虚しく響き渡り、外を走る怪物達の足音にかき消されていった。
廊下の奥の部屋からはメルラ、三人のハンターが声に気づき飛び出してきた。
「ど、どうしたのアーリ?」
「お、お母さん! か、怪物が街に向かってるの! 助けに行かないと!」
駆け寄ってきた母親に、アーリは真剣な眼差しで訴えた。透き通った赤と紫の瞳が、母親に向けられている。
母親の目がうるうると潤み始めた。口元が小さく震えている。
「だ、だめよ……」メルラはアーリに崩れ込むように抱きついた。「やっと……出会えたアーリと……離れたく、ないもの……」
母親はアーリに抱きついたまま、震えている。子供を失う恐怖が暖かい腕を伝って、アーリに伝染していく。
「……じゃ、じゃあ、街は……街のみんなは」
アーリは震えた唇からぽつぽつとそう呟いた。
「貴方が……頑張る事じゃないわ……一緒にここで暮らしましょう……ずっと一緒よ」
「おかあさん……」
暖かい母の腕の中で少女は戸惑う。耳元で優しく囁かれる母の言葉は、アーリの胸に深く突き刺さる。
母の言葉に幼い正義感は揺れる。
街の人々と自分の幸せ。二つの重たい選択肢の乗った天秤は、少女に残酷な現実を突きつけてくる。
私が行っても何も変わらないかもしれない。街はもう既に破滅に向かっているのかもしれない。
それだったら自分はここで幸せに暮らしていても、いいのかもしれない。
気付けば少女の目からは涙が流れていた。
「あたしは行く! あたしは貧乏人で盗人だけど、街はあたしの故郷なの!」
今まで静かに事の成り行きを見守っていたミリナだったが、堰を切った様に声を荒げた。
「アーリちゃんにはここに残る理由がある、だけどあたしには無いから。あたしだけでも行く! 行かなきゃいけない!」
ミリナは荷物も持たず、転げ落ちる様に階段を駆け下り、外に出て行こうとする。
「ダメだ!」扉の前に立っていたバレントはミリナを抱き止めた。「俺は! 守れる命は全部守る! アーリも、お前もだ!」
「バレントさん! 止めないでください!」
バレントの腕の中でもがくミリナ。
その光景を見て、アーリの心が大きく揺さぶられる。
天秤が大きく左右に荒ぶり始める。
分からない。どうすればいいの。胸が苦しい。
右も左も分からない、黒と灰色の混ざり合うな混沌とした世界の中を少女は彷徨う。どうにも出来ない、ドロドロとした絶望感に溺れてしまいそうだ。ドン、ドンッと心臓が打ち付けてくる。
ふと気がつくと、胸が暖かい。首から下げていた小さなネックレスが暖かい光を放っていた。真っ暗な闇を照らすその光は、眩いばかりの光になった。
そうだ、レーラとカルネが待ってる。ジェネスさんも、ロッドさんも。
「ご、ごめん……なさい……お母、さん」
少女は気がつくと階段を駆け下りて、ミリナと一緒に外へ出ようとした。
行かなければ。少しでもみんなが逃げれる可能性があるなら。諦めちゃいけないんだ。
「アーリ! ダメよ、止まりなさい!」
「アーリ、行かせないぞ!」
二人の家族が引き止めようとするも、アーリには進むべき理由があった。
「どうして! ロッドさんもジェネスさんも! ちょっと怖いクルスさんだって! 友達も、助けなきゃ! どうして止め——」
少女の言葉を遮って、銃声が鳴り響く。
先ほどまで制止しようとしていたバレントの力がフッと抜けた。ミリナとアーリが顔を見上げると、男の額にはぽっかりと穴が空いていて、そこから血が流れ出している。
「えっ……」
アーリとミリナが驚く間もなく、バレントは膝から崩れ落ちた。
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