第2話

 針葉樹の生い茂る深い森の奥地、フェンスに囲まれた一軒家がひっそりと立っていた。

 白い外壁に深緑色の屋根。二階建て。敷地の中には馬を留めるための厩舎と倉庫のような小屋がある。

 森の中にあるのには少し勿体無いくらいに思えるその家は、静かにそこに住まうものが帰ってくるのを待ちわびている。


 雨風にさらされ続ける鉄柵は所々赤っぽい錆びが付いており、揺れるたびにすこしキイキイと音を立てる。


 蹄の音がだんだんと家に近づいてくる。森を切り開いた道の合間から雷かと聞き違うほど地響きが二つ。


 木の影から飛び出してきたのは体長三メートルほどの白狼ループだ。


 そしてそれに続く黒と濃茶の馬だ。オクトホースと呼ばれるその馬は八本の筋肉質な脚を有し、タコのような横一文字の目を持っている。悪路にも強く、夜目も効くため、便利な移動手段として、種の発見以来人間に重宝される怪物でもあった。


 それに跨るバレントとアーリは、ループの開けたゲートの中で馬を止めた。

 ここは彼らが住む家。数年前にリフォームをしており、幾分かは綺麗になっている。


「解体場に手押し車を運んでくれ。馬を厩舎に戻してくる」

 バレントは自分の黒い馬に繋がれた荷車を外し、アーリの馬ともども、家の裏手へと連れていく。


 自分の二倍以上の体重はあろうかと思われるムムジカが寝そべった台車。少女はそれを軽々と引き、ゲートを入って直ぐ脇にある木造の小屋へ運ぶ。 


 そこは血生臭い匂いがする解体場だった。テーブルとその上のラックに生き物を解体する為の使い古されたナイフなどの器具が整然と並べられている。天井からは獲物をぶら下げるための二本のフックが垂れ下がっていて、それらは入口の巻き取り器から滑車を経由するチェーンで繋がっている。


 アーリはその部屋の中をぐるりと見渡して、フーッと息を吐き出した。世話しなく手を開いたり閉じたりして、どこか落ち着きがなさそうに見える。


 彼女の後ろから入ってきたループはその様子を数秒じーっと見ていたが、たまらなくなったように声をかけた。

「不安か、アーリ? できなそうなら——」

「大丈夫。うん、大丈夫! バレントも教えてくれると思うし……」

「……まぁまだ練習だから無理はするなよ」


 アーリはうんと頷くが、それは自分に言い聞かせているようにも見える。

 少女の初めての仕事はまだ終わっていなかった。皮を剥いで内臓などを取り出し、食べれるよう肉にする解体作業がまだ残っている。むしろこちらの方が気を遣う仕事であった。


「よし、やるぞ」

 バレントは小屋に入ってくるや否や、手際よく準備を始めた。


 解体に使うスキナーナイフとブッチャーナイフを選んで刃の状態を確認し、テーブルの上に並べた。

 今度はムムジカを引き摺り、両後ろ脚にフックをかける。

「巻き上げてくれ」

「うん」


 アーリがハンドルを回すと、二メートルほどの巨体が宙に引っ張り上げられていく。大きな角が地面の石材を引っ掻き、耳障りの悪い音を立てたかと思うと、ムムジカの体が完全に宙に浮き上がる。

 アーリもここまではやった事はあるし、バレントの解体の様子を見ていたことも、見ながら頭で自分がやるイメージを浮かべていたこともある。だが、実際に刃物をもって、解体するのは初めてだ。


「そこでいい」バレントはスキナーナイフを手に取り、アーリに手渡す。「失敗しても、うまく行かなくてもいい。やってみろ」


 アーリはナイフを取る手を出すのを一瞬躊躇った。

 初めて自分の手で生き物を殺めた少女だが、それは自らが望んだ狩人への道の第一歩だった。物心ついた時から見てきたバレントの背中に追いつこうと、本を読んだり狩りに同行して経験を積んだりなど自分なりの努力を重ねてきた。

 

 そして、今日やっとそれが実るのだ、ここで止まる理由がない。そう思うと、途端に自信が湧いてきた。


 彼女はバレントの大きく、ゴツゴツとした手からナイフを受け取るとそれをキュッと握りしめた。


「分かってると思うが、ムムジカの毛皮はそのままコートなどに使われる。綺麗に一枚で剥げるように努力してみろ。毛が多いから掻き分けながらになるが、できれば一人でやってみせてくれ」


 少女表情を強張らせたまま、小さく頷いた。


 バレントはテーブルの下に置いてある木を組み上げただけの四角い椅子を引き出し、腕を組んで腰掛けた。


 アーリは一呼吸置いてから、目を瞑って合掌する。自然のめぐみを頂く者として、自然への感謝を表す祈りを捧げるのはハンターとしてのルールでもあり、バレントの師匠であるナーディオの第一の教えでもあった。


 ふわふわとした毛皮を掻き分け、薄ピンク色をしたそのものの皮を露わにさせた。皮下の組織を傷つけないように、丁寧に一定の力をナイフに加えて縦一線に下腹部から首元にかけてを切り開いていく。白い体毛に覆われた茶色の毛皮の下から、赤く引き締まった肉と白い脂肪、体内組織を守る骨格が見えてくる。


  皮と肉の間に丁寧に数回に分けて、カーブのついた刃を滑らせるとひらひらと皮が剥がれていく。体の脇ほどまで剥げると、今度は切り込みから四肢の方向に切り込みを伸ばしていく。


 慣れていない手つきで二十分ほど掛けて足先から首元に掛けての皮をはぎ終えた。その間、バレントもループも一言も喋らずに彼女が動かす手をただ見つめていた。


 昼前の柔らかな日差しが入り口から溢れ、少しだけ暖かくなってくる。

 

 アーリは皮をバレントの横に広げて置くと、肉と骨と内臓、頭の残ったムムジカに向き直る。


「次は内臓だ。割らないようにな」


 バレントの言葉にアーリは額に滲んできた汗を拭い、ふうと息を吐き出した。

 怪物の腸内はフンなどが溜まっていたり、毒性のある内臓を持つ物もいたりするため、細心の注意を払わなければいけない。解体の中でも、最も気を遣う部分と言ってもいいだろう。


 アーリは肛門から胸と首の境目辺りに、内臓を傷つけないようにナイフで切り込みを入れていく。骨格の中に収まった臓物が見えてくる。

 胸骨を割るゴリゴリという音が小屋の中に響く。


 腸の端を麻紐で縛り上げ、こぼれ出さないように連なった臓器の両端を切り出すと、下に置いた金属のたらいの中へでろりと臓器が落ちていく。

「よし……これでいいね」

 アーリはそれを台の上へに置き、綺麗に流水で洗ってから部位ごとに切り分けていく。

 内臓は薬や珍味として重宝される。ほとんど捨てる場所なく利用されるそれは、人間の貴重な資源であった。


 作業台の下に置いてある青い氷のような輝きを放つクリスタルの埋め込まれた箱に、部位ごとにそれを布で包んで仕舞い込んだ。 


 バレントはその様子を黙って、しかし頷きながら観察していた。


「よし、あとは頭を落として部位ごとに切り分けるだけ……」

「あと一息だな」

「うん! 難しいけど……楽しい!」

 三十分ほど黙々と作業をしていたアーリだったが、佳境を乗り越え表情を少し緩めた。


 ナイフを肉を断ち切るためのブッチャーナイフに持ち替えると、それを首に当てて叩き切るように頭を落とす。

 頭部だけでも二十キロはあるだろう。まだ幼いアーリにとってそれは大変な作業ではあったが、苦しい顔は一切見せなかった。


 立派な角は武器やアクセサリーなど幅広く利用される。角以外の部分はほとんど怪物の研究の材料になる。


 アーリは慣れない手つきなりに脚、胸肉、尻肉と大きくブロックに切り分けると、それもまた別々に布で包んでアイスクリスタルの付いた箱へしまい込んだ。箱の中から漏れ出す冷気が白い布で包まれた肉を覆い隠していく。彼女は箱を閉じると、しっかりと留め金を掛けた。


「バレント、どうだった?」



 腕を組んでいたバレントはあごひげを撫で、少し考え込んだ。

「初めてにしては上出来だ。……解体作業はな」

「どういうこと?」


 不安に狩られた表情のアーリの横でバレントは立ち上がると、肉と内臓の入った箱をトントンと叩いた。


「得た素材を売るまでがハンターの仕事だ。街へ行くぞ」

「うん!」


 大きな皮鞄の中、いっぱいに詰めたムムジカの素材の重みに顔を綻ばせるアーリは、オクトホースに揺られて家から南の方角にある街へと急ぐ。ハンターとして、そして大人として半人前なりに認められたというなににも堪え難い満足感が、普段となにも変わらない街への道を特別な光景へと変えた。


「これでバレントの役に立てるね」

「まだ半人前だが、訓練を詰めばもっとスムーズにできるようになるはずだ。俺に追いつけるかは分からないがな」


 冗談交じりにそう言ったバレントは心なしかどこか満足げな顔で馬に揺られている。


 先頭を走るループは後ろを振り返ってその笑顔を見ると、彼女もすこし顔を緩めた。


 役に立ちたい、これこそアーリが狩人になりたかった理由であった。助けられてばかりの子供のままでは居たくないという思いが、歳を重ねるたびに彼女の中で大きく根を張っていた。


 そして今日それがやっと芽を出したのだ。


 深い森を三十分走ると、目の前から明るい日差しが薄暗い世界の中へ差し込んでくる。彼らが光の中へ飛び込むと、そこには広大な平原とそこに流れる大きな川、そしてそれを取り囲む雄大な山々が見えてくる。リード川の流れる先、山の切れ間からは絵の具をこぼしたような青い海が見えている。

 そして平原の中央には周囲を高い壁に囲まれた街があった。立ち上る煙と壁よりも高い建造物がその場所の繁栄を知らしめている。


 ループが止まるのを見て、二人は森を出たすぐそばの丘の上で馬を止めた。


「また建物が増えたな」

「ループはあれ以来あまり街に来てなかったな」バレントは顎を指でなぞる。「資源が行き渡るようになったのと行動範囲が広がった事によってかなり変わっているぞ」

「ほう……それは楽しみだ。どんなうまいものにありつけるんだろうか」


 ループの言葉にアーリは続ける。

「素材を売ったお金でお昼ご飯を奮発してもいいでしょ? ね、バレント」


 バレントが振り返ると、アーリは自慢げな顔で見ていた。


 小さく笑い、バレントは馬を走らせる。


「俺より先に街に着けたらな!」

「あ、ちょっと!」


 アーリとループは少し出遅れるがバレントの後ろに付いていく。

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