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 壁を舐める女性が動かなくなった。養護の先生が映像を止めていた。

「リフィルさん」先生は優しくわたしを呼んだ。

「さっきから教科書を読んでいたけれど、今はこっちを見る時間なのよ。それとも質問があるのかしら」

「ないです……ごめんなさい」

「集中しなさいね」

 先生が言った瞬間、わたしは邪悪な笑みを見た気がした。

「先生」わたしは立ち上がった。

「まだ何か」

「質問ならあります。どうして、こんな制度ができたのですか? おかしいと思わなかったんでしょうか。多様性って少数の意見を拡大して、多数の意見を矮小化することなんでしょうか」

 それまで微動だにしなかったクラスの子たちは、一斉にわたしを見た。

「映像にあったでしょう」

「映像は見ました。でも、なんていうかうまく言えないですが、違和感があって」

 レヒメがさりげなくわたしの制服を引っ張る。それ以上、言うなというサイン。でも、わたしは引き下がれなくて。

「先生はどうお考えですか」

 先生はわたしを怖い顔で見た。一瞬だけだけど。すぐに、にっこりと笑う。

「いいですか、リフィルさん。わたしたちの世界は昔、とんでもないくらい野蛮でした。それがこの制度のおかげでどうかしら。いじめられることなんてないでしょう」

 先生は言った。でも、わたしには真実を直視していないように感じられた。クラスの子はのっぺりとした顔でわたしを見ている。どうして、そんなこと気にするのとひそひそ囀っている。わたしはショックだった。やっぱり、何もかもおかしかった。

「リフィルさん、いいですか」

 先生が優しく言った。わたしは項垂れるように着席した。


 その日の午後、わたしは保健室に呼ばれた。保健室にはセンターの職員と担任が並んで座っていて、養護の先生はわたしの背後に立っていた。懸念していた通り、指導があった。

「リフィル、どうしてあんなことを言ったんだ」

 担任が怒気を孕んだ口調でわたしを叱った。

「まあまあ、思春期なんでそういうこともあるでしょう。先生もあまり怒らないでやってください」

 意外にもセンター職員はわたしの肩を持ってくれた。対して、不気味だったのは養護の先生だ。わたしの背後でずっと黙っている。かと思ったら、

「先日、反乱分子に祈っていたそうですね」

「どうしてそれを」わたしは戦いた。

「カメラに残っていました。リフィルさん、事実ですか」

「はい……」そう言うのがやっとだった。

「なんでそんなことをしたんだい」

 センター職員がわたしに問うた。

「可哀想だったから、です。あの人も人間だったから、わたしはしないといけなかったんです」

 担任が机を思い切り叩く。わたしはびっくりして、さらに俯く。

「先生、落ち着いてください。生命を慈しむいい子じゃないですか」

「ですが」

「いいえ。職業柄わたしは色々な子に会っていますが、現在のリフィルさんには反乱分子に加わる潜在的な要素はないでしょう」

 センター職員の声はおなかの底にどっしりと響いた。わたしはようやく顔を上げた。この人が化学的去勢をされた人。微笑みを湛えていて穏やかな顔をしていた。外の人がわたしを救ってくれるとは思わなかった。

 センター職員の腕にあるタトゥーに気づいたのは、そのときだった。それは紛れもなく反乱分子のものだった。わたしが驚いた顔をすると、センター職員は袖を覆う。センター職員でありながら反乱分子のタトゥーを消していないのは、死を意味する。消さない選択肢などあるはずないのに。

「どうかしましたか」

 養護の先生がめざとく、わたしの異変に気づいた。

「いいえ……」わたしはなるたけ平常心で「わたしのしたことは全部、間違っていました。ごめんなさい」

 嘘を吐いた。タトゥーのことは言えなかった。沈黙の波が広がった。

「いいでしょう。次からは気をつけるのですよ」

 それでようやくわたしは解放された。指導は「可」の評価だった。これが不可となり蓄積すると、「教育」に移行する。

「何をしているのですか。教室に戻りなさい」養護の先生が言った。

 わたしは天井を見上げる。あっ、と声を上げかけた。染みができている。真っ黒な信じられないくらいの大きな染みが。わたしは目を擦る。保健室はもう安全じゃなかった。


「面談どうだった」

 ティアがわたしに訊ねた。わたしはティアとレヒメとともに青少年会館にいた。今日は感謝祭とあって人手が少なかった。周りが静かで好都合だった。

「なんとかね」

 わたしは言葉を濁す。センター職員のタトゥーについては一切言わなかった。密告はたとえ奨励されていてもわたしの倫理観に悖るし、自分のなかでまだ消化しきれていない。

「リフィルが急にあんなこと言うから。でも、よかった。本当に。リフィルが教育されちゃったらわたしどうしたらいいか分からないわ」

 レヒメの乾いた笑いに、苦い気分が広がるのを感じた。言ってしまいたかった。わたしは、自分の考えをこの近しい友達に伝えたかった。とても苦しい。わたしは自分のなかに押し込めている思いが弾け飛ぶのを感じた。

「ねぇ、二人とも」わたしは二人の表情を真剣に見た。「わたし、やっぱりこの世界っておかしいと思う。二人も、そう思わない?」

 ティアの目が見開く。レヒメの顔が歪む。最初に口を開いたのはレヒメだった。自らの体を抱きながら、怯えた笑顔を貼りつけている。

「何言ってるの。おかしいことなんて何もないじゃない。この世界はとっても正常よ」

「それが異常だと思わない? わたしは作られた楽園に感じる」

「いいえ。思わないわ、リフィル。リフィルはきっと疲れているのね。貧血がまだ――」

「ごめん、レヒメ。本当は貧血なんかじゃない。わたしはこの体制に疲れて保健室で寝てたかったの。何も考えず……。わたし、もうね、疲れてやっていける気がしない」

「なんで? こんなに美しくて穏やかなのに、なにが不満なの」

 レヒメが戸惑いを露わにする。わたしは答えられなかった。全てが不満なんて。レヒメはわたしが黙っていることに痺れを切らし、ティアに呼びかける。

「ティアはどう思うの? ティアもこの世界が好きだよね。平和なこの世界が。リフィル、調子が悪くて変な考えしちゃってるみたい。だから、何か言ってあげてよ」

「わたしは……分からない」

 ティアのつぶやきに、レヒメは諦めのように息を吐いた。

「分からないって。そんなの……いじめも差別もない平和な世界なのに」

 レヒメは膝を抱える。膝頭が露出して、わたしは場違いにも綺麗だと思った。

 いじめや差別は確かになくなった。なによりも恥ずかしいことと刷り込まれた。わたしやレヒメは変わり者なのかもしれないけれど、そういう意味では制度の恩恵を受けている。

 でも、本当になくなったのだろうか。人が存在する限り暗い感情は沈殿し続ける。いくら発展しても心の深奥まで入り込んで操作することはできない。人は区別する生き物だから。禁止されても、教えられても真の意味でいじめや差別はなくならない。そのことにわたしよりずっと優秀な人たちが気づいていないわけがない。なのに、気づいていないふりをしている。私たちの故郷はもう手に負えないところまで来ている。

 会話が途絶えた。話すこともなかった。こんなにも静かな部屋なのに、わたしは友情が裂ける切ない音を聞いた。

 それから、わたしたちは別々に帰った。レヒメとティアは珍しく二人で帰っていた。初めてのことだった。誰も分かってくれない。わたしは二人を可能な限り遠ざけたかった。

 投光器が煌々と辺りを照らしている。夜のない国だから帰宅が遅くなっても問題もない。そもそも暴漢に襲われることだってあり得ない。わたしは充分に時間を置いて、会館を後にするまで本を読んでいた。

 

 ティアが「転校」したと知ったのは、翌日の朝会でのことだった。

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