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 大昔、我が国にはいじめや差別が溢れていた。国中から世界に視点を広げても人間が存在する限り、それは日常的に観察された現象だった。とくに、痛ましいのは愛に関してのいじめや差別だった。同性との愛情は磔刑にされ、異種愛は異常者として一生閉鎖病棟で拘束された時代もあった。愛は人間の根幹であるにもかかわらず、人類がいくら進歩しようとも世界の大部分では人間の異性との愛情のみが許されていたのだ。染色体XXとXYの組み合わせのみが神聖であった。

 世界各国、とくに先進国が中心となってこの問題に取り組んだ。少数派の意見を丁寧に拾い上げ、情操教育を行い、他人の痛みを知るための教育をしたつもりだった。愛と寛容を知る次世代のために。しかし、どれだけの力を尽くしても個々人の思考は変えられず、人種差別と分断は広がる一方で、ついにアジアの小国でジェノサイドが発生した。英知を集結させた最上級の教育の効果はまるでなかったのである。

 そこで、人類は思い切った行動に出た。異性愛の部分的制限である。痛みを知るための、苦痛を伴う解決策だった。

 当初、反発する人が多かったことは言うまでもない。

 女が男を愛し、男が女を愛する行為を制限するのは自然の摂理に反するし、基本的人権に抵触するから。しかし、これまで迫害され続けた当時の少数派の声の大きさがこれを上回った。けれど少数派にとってみれば、多数派の立場と交代することは本願とはいえなかった。あくまで権利の拡張と地位の向上が主張の基礎であったから、そのままでは差別の再生産をしてしまう。しかし、結果的に多くの権利が認められたことから、積極的に否定する理由を持たなかった。

 先進国や識者の意見も影響した。昔の人は自分の意見を持たなかったと資料に書いてあった。誰かの意見が自分の意見にすり替わることはよくあると、禁書でも学んだ。禁書は閲覧制限がかかっているけれど、誰かが道端に配っていることがあって、わたしはそれを拾ったのだ。当然、配った人は国家転覆罪で裁かれたのだと思う。

 そうして世論が抑圧という名の統一をされた二〇五〇年を節目に、人類は主要国を中心に通称・愛と寛容の条約を制定。新世界の黎明を宣言した。

 愛と寛容の条約に基づき、各国では法律が制定された。我が国の法律においても、例に漏れず異性愛が制限されていたが全面的な禁止ではなかった。ある程度の年齢に達すると異性とも恋愛できるその譲歩は異性愛者に対するバッファーになり得た。しかしながら、子供は指示されたタイミングでないと作れないし、わたしたち普通の人々は厳しい条件を達成しないとそもそも生殖できなかった。

 厳しい条件とは理想的な大人になるための適性試験に通過することである。学力や体力より重視されたのは合理的であること、自分の生存のために尽力することであった。大昔ではサイコパスと分類される人が強度のある進歩的な人間として模範とされた。実際、成功した国の為政者の半分はサイコパスで占められていた。

 世論、法律、適性試験。こうしてなし崩し的に体制は整っていく。

 異性愛が同性愛や異種愛に比べて行うための条件が厳しかったにもかかわらず、これまで大規模な反乱が起きなかったのには二つの理由がある。

 一つには厳格な裁きがあること。性悪説に基づき、法律を守らないものには厳しいペナルティが課せられる。その範囲は本人のみならず血族にまで及ぶ。本人においてはセンターに拘束され化学的去勢を実施後、センター職員として同じように規律を守らない市民を拘束していく。血族においては教育施設に送還され、重点的な再教育が施される。密告は奨励され、相互監視が過熱。施行当初は恨みに起因する偽りの申告があったけれど、それに対しては更なる重い処罰が科せられたことで次第に秩序を取り戻していった。

 二つ目の理由。それがこの法律の精髄だった。すなわち、同性間であれば身体的および精神的接触は対象者の意思にかかわらず制限されないということだ。これが意味するところは、誰であっても交際や性交渉の申し出を受け容れなければならないということ。

 だから、わたしの学校ではクラスメイトからの告白は断ってはいけない決まり。男子は男子同士で、女子も同様に。人間に湧き上がってくる性的欲求はそれで解消することになっている。よくよく考えてみれば、男と女の違いは染色体の違いだけであり、性産業が著しく発展した現代においては、装具を工夫したりすることで外見上の性別は簡単に調整できる。それに異性愛の絶対的禁止でもない。一縷の望みではあるが可能性は存在する。国内の弾圧や国際的圧力の高まりもあって、異性愛論者も次第に反発の声が小さくなっていった。

 友愛という文化が発展したのもこの頃だ。これはかつての恋愛とは違う現象で、友情を深めるための性交渉であった。わたしに置き換えれば、レヒメとは恋愛で、ティアとは友愛に該当するのだろうか。いずれにせよ、区分なんてわたしにとってはどうでもいいのだけれど――。

 とにかく、お互いを触りあって愛を知る。愛を学ぶ。それこそ愛と寛容の精神であり、そこで培われた受容的態度は容姿や生まれで差別されない世界を実現させた。

 少なくとも、見かけ上は。

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