第199話 番外編 騒音苦情男after2

※98話99話のその後のお話になります。


 警備員の夜勤帰りに買った弁当を平らげた谷沢川やざわがわは敷きっぱなしの布団に転がった。

「あー……」

 一気に疲労感が襲ってくる。

 カーテンの隙間から太陽の光と、子供の声が響いてくる。その度に苦情を言うため乗り込んだ保育園でのことが頭にちらつく。

「ちっ」

 カーテンを強引に閉めて、布団にくるまる。枕元に置いていた耳栓を取り出した。友人に教わり、昼に寝る場合は使うことにしたのだ。イライラしていたり、寝不足だったりすると周りの音が頭に響くようなのだ。

 保育園の子供の声は気にならなくなってきたのだが、

「! またかよ」

 隣の部屋から子供の大きな泣き声が聞こえてきた。


「うあああああんっ」


 薄い壁を貫通してくる子供の高い声、もはや頭痛を引き起こしかねない。

 最近、このアパートに、引っ越してきた隣人には小学校低学年の子供がいるようなのだ。

 強引に耳栓をねじこむが、音源が近すぎる。

 と、その時。


「ぎゃっ……」


 ドンッという何かが壁にぶつかる音と、短いうめき声が聞こえて、静かになった。

「え」

 谷沢川は思わず耳栓を外す。途端に静まり返る隣室。

 あれだけ泣いていた子供がこんなふうに一瞬で静かになるだろうか。

 嫌な想像をしてしまい、谷沢川はゴクリと息を飲み込んだ。

 しかし、


「うっ……うあああんっ」


 再び泣き出したので、ほっとしてしまった。

「……驚かせんなよ」

 それからしばらくして、隣の子供は保育園かはたまた学校かへと出かけて行ったらしい。




 その日の夜七時過ぎ。谷沢川はあくびをしながら部屋を出た。谷沢川の部屋は二階の一番奥の部屋で、階段は一番遠いところにある。

 通路を通って、階段へ向かうと、

「ん?」

 階段のど真ん中に座り込んでいる小さな影が見えた。

「……」

 どうやら小学生らしく、隣にランドセルを置いて、膝を抱えていた。

(面倒くせぇな)

 飛び越えて行けるほど緩い階段でもない。

「おい、通りたいから少し退いてくれ」

 声をかけると小学生……もとい少女が虚ろな表情で顔を上げた。

「仕事に遅れちまう。オレみたいのに話しかけられたくねぇだろ? 退け」

 仕事以外で子供に声をかけるのは危険だ。このご時世だ。出来るだけ関わりたくない。

 しかし、彼女はぼんやりとしていて動こうとしない。

 と、ぐぅ〜という音が辺りに響き渡った。

(……さっさと帰って飯でも食えよ……)

 時間的に夕飯がまだなのだろう。

「今日」

 かすれた声、見ると少女が口を開いた。微妙に目の焦点が合っていない気がする。

「給食ない日だったの。帰ったら何も食べられなくなっちゃうから」

「給食がない日なんてあんのか。……いや、そうじゃねぇんだよ。退け」

 小学生の給食事情など、死ぬほどどうでも良いのだ。

「ごめん、おじさん、なんか力抜けて動けなくなっちゃってさ」

 小学校低学年くらいかと思っていたが、喋り方が大分大人っぽい。

(二十五でもうジジイ呼ばわりか。これだからガキはクソうぜぇ)

 キレそうになりながらもどうにか抑える。

「おじさん、205号室の人?」

「どうだかな」

「あのさ」

「んだよ」

「あたしの妹、うるさくない?」

 あの泣き声のことを言っているようだ。

「分かってんなら親に言っとけ」

「……どこかに文句言ってもいいんじゃない?」

「どこか?」

「苦情って言うの? 電話してさ」

 そう言って、少女はお腹を押さえて体を丸めた。

(いや、退けよ、クソガキ)

 無言になってしまった少女に対し、舌打ちをする。

「おい、ガキ」

 顔を上げたので、ポケットから取り出したものを差し出す。

「これやるから、退くかランドセル退かせるかしろ」

 それを受け取る少女はぽかんとした。

「チョコ?」

 一口のチョコ、銀色の包装紙に包まれている。

「親に言ったら殺すぞ。早くしろ」

 少女は慌てた様子でランドセルを自分の膝へ。

 何か声をかけられたが、無視した。 



 そんなことがあった数日後。

 休みの日だった。谷沢川は夕方になり、コンビニへ行くため外出したのだが。

 アパートの敷地を出たところで塀に背を預けてぼんやりしている少女の姿があった。

 目が合ってしまう。

「おじさん、休み?」

「まぁな」

 あまり関わりたくない。さっさと行こうとしたのだが。

 何故か服の裾を掴まれた。

「! 一体なんなんだ、てめぇは」

 と、そこで視線を感じ振り返る。

「……」

 そこには保育園児の手を引いた、高校生が立っていた。近くの保育園へ怒鳴り込んだ時に遭遇した生意気な少年だ。言い負かされ、結局谷沢川が謝罪することになってしまった。

「てめ」

 奏介とあいみである。

「思わず警察に通報しそうになったんですが……何してるんですか?」

「知らんっ」

 絡まれているのはこちらだ。疑いの目を向けられることが非常に腹立たしい。

「待ってよ、おじさん。このままだと、妹が」

「は……?」

 奏介も眉を寄せた。

「どういう状況なんですか?」



 場所を移動して近くの公園。

 少女やあいみと同じくらい子供達が遊んでいるので、怪しくは見えないだろう。

「じゃあ、滑り台行こっか?」

「うん!」

 少女、もとい葛美くずみナノはあいみを連れて公園の滑り台へと駆けて行った。少し話しただけでお互い姉妹のような感覚になったのか、二人とも嬉しそうだ。

 その様子を見つつ、街灯の下で谷沢川と並んで立つ奏介。

「じゃあ、同じアパートに住んでいる住人同士、いつもの挨拶してたってことですかね?」

「挨拶なんかしねぇよ。あいつは隣に住んでるただの他人のガキだ。絡まれてんのはオレだ。つーか、なんでてめえみてぇなクソガキと話さなきゃなんねぇんだよ」

 ナノが谷沢川と離れたがらなかったので連れてきたわけだが。

「あの子、谷沢川さんに何か言いたいことがあるみたいでしたけど」

「知らねぇよ」

 吐き捨てるように言う。

「妹がどうのって言ってましたよね」

「あぁ、毎日毎日ピーピーピーピー泣いてるガキがいてな」

「泣いてる……?」

 奏介はナノを見やる。

「谷沢川さん、ちょっとあの子の話聞いてみませんか? なんかあなたのこと信用してるみたいですし」

「はぁ? あのガキがオレを信用する要素、一切ねぇだろ」

「……いや、ごもっともですけど」

 公園を出ると怪しさが跳ね上がるので、敷地内で立ち話をすることに。

「それで、君はこの人に何か言いたいことがあるんだよね

「おじさんにお願いがあるの」

「んだよ」

 谷沢川はイライラしながら聞く。

「電話してほしいの」

 震えながら言うナノ。

「どこにだよ」

「じどうそうだんじょってとこ」

 と、奏介の手を引っ張るあいみ。

「ナノちゃん達、お父さんに意地悪されてるんだって。わたしの時、みたいに」

 あいみが暗い顔をする。

「そっか……」

 奏介が深刻そうに言う。

「そーかそーか、そりゃ大変だ。オレには一切関係なくて助かったぜ。もう良いだろ」

「あ……」

 ナノが泣きそうな顔をする。奏介は呆れ顔で谷沢川を見た。

「人の心ないんですか。というか、ナノちゃんはなんでこの人にお願いしたいの?」

「この前、給食がない日に朝ごはんもらえなくて……次の日の給食まで我慢できるかわからないときにおじさんにチョコレートもらったの。妹と一緒に隠れて食べたんだけど、凄く美味しかったし、元気になったし」

「あ……そうなんだ」

 奏介は少し生暖かい目で谷沢川を見る。

「優しい、んですね」

「うるせぇんだよ。あー、キレそうだぜ。で、いつまで付き合わせる気だ?」

「いや、ナノちゃんと妹、明らかに虐待されてるでしょ」

「はぁ? 虐た……」

 谷沢川は先日の壁にぶつかるような音とその瞬間に泣き声が途切れたあの一連の流れを思い出した。さすがにあの時は血の気が引いたものだ。

「心当たりあるんですね」

 谷沢川は舌打ちをした。

「ナノちゃん、そういうことはこういう人じゃなくて学校の先生とかに言った方がいいと思うよ」

 ナノは首を横に振る。

「先生は助けてくれないよ。土岐せんせ……あ、担任の先生は聞いてくれなかったし、怒られたし……最近新しくなった担任の先生もすっごく頼りないんだ」

 奏介は黙る。

(土岐って、まさか)

 嫌な名前を聞いてしまった。恐らく、最近やり合った教師のことだろう。

「ですって、谷沢川さん」

「んだよ。そんなことする義理はねぇんだよ」

「おじさん、お願いっ、昨日妹が、叩かれた後に動かなくなっちゃって、少ししたら目を覚ましたんだけど、もしそのままだったらって……。早くしないと、妹は」

 カタガタと震えだす。

「谷沢川さん、ナノちゃんはあなたに頼ってきてるんですよ。児相に電話くらいしてあげても良いじゃないですか」

「あー、分かったよ。電話な。すれば良いんだろ?」

 谷沢川はキレ気味で言った。さっさと要求を飲む方が早く解放されそうだ。

「今日してやるよ。すぐしてやる。だからもう付き纏うなよ」

 ナノは口を結んで頷いた。



 奏介はあいみ、谷沢川、ナノと共にアパートへと戻ってきた。勝手に保護するわけにも行かないのでナノは家に帰さなくてはならないだろう。

 不安ではあるが、児童相談所の対応に望みを託すしかない。

 アパート門前。

「おら、さっさと帰れ。オレはコンビニに行くんだよ」

「……谷沢川さん、なんていうか、カルシウム足りてないんじゃないですか……?」

「うるせぇ。せっかくの休みなんだぞ」

 ナノが頷いて家へ戻ろうとした時だった。

「何してんだ。ナノ」

 スーツ姿のサラリーマンが近づいてきた。優しげな印象だが、表情は冷たい。

「あ……お父さん」 

 ナノの瞳が揺らぐ。今帰りのようだ。

「母親のくせにヒノコの奴、何してんだ。帰るぞ。宿題を片付けないと勉強が出来ないだろ。……あんたら、うちの娘に絡むのは止めてくれないか。余計な時間を使わせたくない」

「……」

「ナノ」

 威圧するような声に慌ててナノが父親に近づく。

 すると、躊躇いなく頭を叩いた。

「あぐっ」

「叩かれたくないなら、しっかり勉強しろ。まったく。ヒノも一向に勉強をしようとしないし、うちの奴らと来たら」

「お、おいおっさん。さすがにガキを全力で叩くのは」

 そこまで口にして、以前自分がやろうとしていたことを思い出す。

(オレ、ガキを殴ろうした、のか)

 客観的に見れば不快な光景だ。あの時はどうかしていたのかもしれない。

 保育士に至っては殴ってしまった。

(……っ!)

 奏介はそんな谷沢川を横目で見て、

「あのー、ナノさんのお父さんですよね?」

「そうだが。大体あんたらはなんなんだ。不審者か? 通報するぞ」

「こちらのアパートに住んでる谷沢川さんの知り合いです。ていうか、通報するのはこっちですよ。そんな思いっ切り殴っちゃだめでしょ」

 ナノの父、葛美は鼻を鳴らした。

「うちの娘をどうしようと良いだろう」 

 よく聞くフレーズだ。勘違い親である。

 奏介は困ったように笑う。

「うーん。日本の法律的に殴るのは良くないですよ? あなたはお子さんもいる立派な大人なんですから、無闇に人を殴るのは良くないって分かりますよね?」

 ナノ父はピクリと眉を動かした。奏介の、小さい子を諭すような物言いにカチンと来たようだ。

「これはしつけだ。他人にどうこう言われる筋合いはない」

「なんか偉そうですけど、毎日毎日娘さんを泣かせて近所に迷惑かけてる時点でしつけ出来てないでしょ」

 奏介は冷たい視線でナノ父を見つめた。

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