74話 黄昏色の渚

 「尾崎君、もう少しで満点だったね。でも良く頑張りました」

 蓬莱寺がテストの答案を渡すとその生徒は照れ隠しに笑った。

 「次は…絵導君」

 自分の名前が呼ばれると紫薇は席から立ち上がり、教卓まで歩いていった。紫薇は今回のテストに自信があった。勉強はろくすっぽしていなかったが、まあ八割は取れるだろうと思っていたのだが、渋い顔をする蓬莱寺から答案を渡されると目を丸くした。

 「…に、二十点?」

 「うーん、日頃の努力を怠った結果だね。きちんと復習するように」

 答案の点数に釘付けになったまま紫薇は自分の席に戻っていった。

 「何点だった?」

 耳打ちするように榊原がそう聞くと紫薇は黙って点数を見せた。

 「あらら…珍しいね、絵導君がそんな点数なんて」

 「…自分でも信じられん」

 「しっかり予習と復習をしてなかったんだろ。やだねこれだからどぶ猫は」

 「お前はどうだったんだ?」

 そういうと赤縞は勝ち誇ったように九十七点の答案を見せた。

 「悪いがな、俺は天上界から落っこちたことはねえんだよ。これでも医大を目指してっからな」

 「お前が医大?そんなこと初めて聞いたぞ」

 「チンピラ大学の間違いじゃねえの?」

 野次を飛ばす節木を殴ると、赤縞は自分でも似合わないと思っているのか少し恥ずかしそうな顔をした。


 昼休みになって教室でお弁当を囲みながら、今日の話題は将来のことで盛り上がった。

 「番長が医者ねえ…モグリの方が似合いそうだけど」

 「お前ならヒットマンとか傭兵の方が似合うんじゃないか?中東なら幾らでも危険物が扱えるらしいから、そこで鍛えたら良い」

 節木と葛川が面白がってからかっているが、その意見は紫薇も同じだった。まさかあの赤縞が医者を目指しているとは思いもよらなかったのだ。

 「うるせえな、お前らが俺の病院に来たら思いっ切り治療費ふんだくってやるから覚えてやがれ」

 「あんたそれ漫画の読み過ぎだから」

 そういうと一同は笑った。

 「そういや葛川とか卯月はどうすんの?白那美は就職するんだっけ?」

 「俺は卒業したらイタリアに行って経営の勉強をする。語学力も身に着けなきゃいけないしな」

 「私は芸大に行って脚本の勉強かな。文学を扱った仕事に着きたいから」

 白那美は父親の会社で大工として働くことが決まっていた。女だからと当初は反対されていたものの、見事に両親を説得して卒業と同時に現場に入るのだという。

 「亜美は赤縞君のお嫁さんかしら?」

 「そうね、勇璃の世話を焼かなきゃいけないし、あのお屋敷にでも住もうかな」

 なんて冗談をいって女同士で高らかに笑い合った。

 「んで絵導はどうすんの?」

 「何がだ?」

 「何がだ?じゃねえよ、将来は何になりたいのですか?」

 「親父が残した遺産を使って気侭に暮らす…なんて言ったら死んだ父母に祟られそうだからな、今は保留だ」

 あの紫薇が冗談をいったとその瞬間クラスの全員が紫薇を見た。

 「なんだよ保留って、何かないの?パイロットとか宇宙飛行士とか」

 「偉く限定的な仕事だな…」

 「子供が憧れそうな仕事を選んでみました」

 「そういう問題じゃないんだが…兎に角、今は何もない。それに…」

 自分が妖精であれば身の振り方も考えなければいけないと思っていた。だがそれ以上に何をしたいのか、そんなことを考える時間がないほどここ最近は忙しかった。

 「それに何だよ?」

 「いや、何でもない。確か来週に進路相談があったな。そのときにでも決めるさ」

 「ふーん、でも絵導がなりそうな職業かあ…何だ?」

 「指示を出すのは上手だったから経営者とかじゃない?」

 「あー成程ね」

 「営業には向かなそうだな」

 「あはは、確かに」

 それぞれが紫薇の将来の姿を勝手に想像している中、紫薇は改めて思った。将来は一体、何をしているのだろうと。ただ一つだけ願いはあった。それは羽月が変わらず傍にいてくれること。今の紫薇にはそれ以外のことは思い付かなかった。


 紫薇は家に帰ってもそのことで頭がいっぱいだった。周りの人間は希望の職種や夢に向かって努力をしている。そんな中で自分だけが何もしていないという孤独感もあった。

 紫薇は霜哉の部屋に入ると会社で使っていた書類やファイルを取り出して中身をざっと調べてみた。ざっと並んだ数字の羅列やグラフを見ても何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。

 「一通りの知識は持っていると思っていたが、いざ社会に出ればこんなものか…。父さん、あんたにみたいになれそうにないよ」

 霜哉が座っていた椅子に寄りかかり、自分の未熟さに呆れた。

 ふと書室の扉をノックする音がした。紫薇がどうぞというと中から羽月が現れ、手にはお盆とその上にコーヒーが乗っかっていた。

 「あれ?お勉強でもしてるかと思ったのに」

 「いや、自分の無能さを呪ってたところだよ」

 紫薇はコーヒーを受け取ると一口啜った。

 「学校でね、将来のことについて皆と話したんだ。連中、しっかり自分の目標や夢を語ってた。何だか羨ましかったよ」

 「紫薇は何かやりたいことはないの?」

 「さてね、どうしたものか…ああ、こうであって欲しいと思ってることはあるよ」

 「え?何?教えて」

 予想以上に羽月が食い付いて来たので紫薇は少し照れながらいった。

 「いや、口にすると小恥ずかしいから言わない」

 「む、教えてくれなきゃ晩御飯抜きよ」

 臍を曲げる羽月に紫薇は諦めて学校で思っていたことをいった。しかしそれが思わぬ結果を引き出すことになってしまった。

 「…いや、これからも羽月がずっと傍に居てくれれば良い。それだけだよ」

 頬を赤らめながら羽月の顔を見る。そこには小さな涙を伝わせて紫薇を見詰める羽月の顔があった。それが喜びによるものではないと紫薇にはすぐにわかった。まるで全てが終わってしまったかのような、悲しく辛い涙の色だった。

 「…は、羽月?どうかしたのか?」

 突然のことに紫薇は狼狽したが、羽月はすぐに指で涙を拭った。

 「ううん、何でもないの。ただちょっと感動しちゃって…ご免なさい」

 「わ、悪い…急に変なことを言ったのが間違いだった」

 「あ、なによ変なことって」

 「いや、そういう意味じゃ…」

 「ふふっ、何てね。紫薇の気持ち、嬉しい…」

 すぐにもとの羽月に戻り、少しだけ顔を赤らめながら紫薇を見詰めた。

 紫薇は何かとても嫌な予感がした。だがそれを否定するかのようにぐっと胸に収めると、羽月と口付けを交わした。羽月の唇はいつものように柔らかかったが、ほんの少しだけ塩辛い味がした。

 二人が体を離した頃、羽月がドアを開けていたせいで玄関の扉が開いた音が聞こえた。

 「きっとプランジェちゃんね」

 「…間の悪い奴だ」

 「そういうこと言わないの」

 最後に紫薇の頬を抓って羽月は書室から出ていった。

 紫薇がその後姿を追う前に羽月の泣き顔が再び脳裏を過ぎった。妖精の触角がなくてもわかる彼女の心境。だが何故その感情に行き着くのか。それだけがわからなかった。

 紫薇が書室から出るとプランジェと鉢合わせた。そのときのプランジェの顔はやっといつもの小生意気な顔に戻っていた。

 「もう大丈夫なのか?」

 「ああ、クレシェント様には申し訳ないことをした。さっきご自宅に伺ってきたところだ。もう私に迷いはない。姉さんがクレシェント様を傷付けようものなら、この私が止める。お前にも協力して貰うぞ」

 「姉妹喧嘩に興味はないが、手伝ってやらんこともない。その代わり旨いコーヒーを作るのと、しっかり羽月さんの手伝いをしろよ」

 「勿論だ」

 そういうと紫薇とプランジェは笑い合った。

 「ああそうだ、紫薇、一つだけお前に頼みたいことがあったんだ」

 「何だ?」

 「ちょっと私と手合わせをしてくれ」

 「…お前とそんな訓練をするのも久し振りだな。良いのか?今の俺と戦えば今度はお前が地面にのたうち回ることになるぞ」

 「私がお前に劣るだと?寝言は寝て言え。大体お前はいつから剣を捨てたのだ?あれほど必死になって私が教えてやったというのに…何て恩知らずな奴だ」

 「やれやれ、小言まで戻って来た。これじゃ前の方が良かったな…」

 深い溜め息を吐いていったが、やっと元の調子に戻ったようで紫薇は嬉しくもあった。


 翌日になって二人は翠川公園に向かった。流石に庭で妖精になる訳にもいかないし、ど派手な戦闘でもしてしまえば大騒ぎになってしまう。人の寄り付かない場所として最適だった。

 「さて…妖精になったお前の実力、見せて貰おうか」

 十一月だというのにプランジェの格好は動き易いよう薄着だった。紫薇はそんな彼女の姿を見ているだけでも寒くなってしまいそうだった。

 「しかしお前スパッツに半袖って…」

 「何を言う、寒ければ乾布摩擦だ。それに子供は風の子元気の子というではないか。お前も体は大人だが、中身はまだまだ子供。服を刻まれたくなければお前も脱げ」

 暑苦しいプランジェに諭され紫薇は渋々コートを脱いだ。その途端に冷たい北風が紫薇の体を駆け抜ける。肌が捲れてしまいそうな寒さだった。

 「ここは紅蓮地獄か…」

 体を震わせながら紫薇は妖精の力を解放していった。すると不思議なことにあれだけ寒かった体が妙にぽかぽかしていった。顔と体に女の性が加わると、紫薇はいつしか臨戦態勢を取っていた。

 「ほう、触角まで生えて来たのか」

 「気を付けろよ、プランジェ」

 その言葉には確かに強い力が篭っていた。その気配を感じると、プランジェの顔は険しくなった。

 「この力、生半可な覚悟ではとても受け切れないと思え」

 その超越力を象徴するように紫薇の背中から妖精の翅が現れる。その瞬間、紫薇にもプランジェ自身にも気付かないほど、小さな光がプランジェの右目にちらついた。

 「確かにその力、驚異的だ。だが安心しろ、私の覚悟と意思は、妖精すら打ち砕く!」

 プランジェが走り出すと同時に紫薇は翅を動かして二人は殆ど同じ速度と力でぶつかり合った。翠川公園の湖に大きな波紋が生じた。プランジェの手にはナイフが携えられ、紫薇は妖精の腕を向ける。紫薇の指の間にナイフの先が音を立て、細かい鉄の塊を散らせた。

 力と力が互いに反発し合う中、瞬間的にプランジェは力を抜いて体をくねらせるとナイフの刃を滑らせて紫薇の腕を避け、そのまま片手に拳銃を呼び寄せた。その意識動作を紫薇は触角から感じ取ると、翅を曲げてその銃弾を受け止めた。

 『ビレネス・ミューネス(その眼差しに偽りなし)』

 ところがプランジェは弾を受け止められたことを気にもせず、熱した銃口を翅に近付けて近距離で光の銃弾を放った。その威力は豪快にして強烈だった。紫薇の体をその場から引き離し、二十メートルも吹き飛ばしていった。

 「見かけの割りに強力だな…」

 やっと体の移動を止め、翅の間からプランジェの様子を窺った。銃口から異様に長い硝煙が上がっていた。

 「流石にこの国で銃声は拙いか…」

 銃口に筒状のサイレンサーを装填する。その手際は少女にしては余りにも慣れた手付きだった。

 紫薇は離れた距離を殺さずに遠距離用の攻撃手段に切り替えた。手のひらを掲げると、鱗粉をその手の内に集約させていく。小さな光を灯した粉は七色の光を反射させながら拳ほどの塊となっていった。

 プランジェは紫薇の動作を目の当たりにすると、動作を見ただけで鱗粉の塊を察知し、狙いをつけられないようじぐざぐに走っていった。小さな体が稲妻のような軌跡を描きながら地面を蹴飛ばす。既にその軌跡だけしか辺りには描かれなかった。

 その俊敏な動きを前にして紫薇はまるで臆さなかった。人間の虹彩はいつしか小さなレンズが集まったような複眼となり、紫薇の瞳にはゆっくりと動くプランジェの姿が映っていた。プランジェの動きに合わせて紫薇は指先を伸ばし、手のひらから鱗粉を発射した。

 『ジュブネ・パラール(薬指から垂れた血)』

 薬指から滴った血が線となって伸びていく。琴のようなしなやかさと、ぴんと張った線の張りは一本の刀を真正面から描いたようだった。プランジェはその伸びた線の刃を薬指から伸ばしたまま撃ち出された鱗粉に向けて振りかざした。

 鱗粉の光の位相がずれ、その間を赤い線が閃くとその鱗粉は消滅していった。プランジェはそのまま速度を緩めることなく距離を縮めていった。そして紫薇との距離が目先になると低く跳び上がり、紫薇の真上を通り過ぎていった。

 紫薇の背後を取ったプランジェは再び赤い線を振りかざしながら迫る。だがそれこそ紫薇の好都合だった。紫薇は妖精の翅をこれ以上ないほど急激に肥大化させ、背中の筋肉を極限まで絞り、解放させて巨大な翅を羽ばたかせた。妖精の翅が光を反射し、まるで光の洪水のようにプランジェの視界を飲み込んでいった。

 「うっ…!」

 七色の波濤、プランジェは一瞬その色に怯みそうになった。いや、正確にはその色に吸い込まれてしまうような幻覚を見た。様々な色がプランジェの意識をおぼろげにさせる。そんな中、プランジェは意識が混濁しそうになったとき、急にこめかみに鋭い痛みが走ったことで我に目覚めた。さながら警告のようなその痛みから来る違和感を抑えながら、プランジェは赤い線を振るって妖精の翅を真っ二つに切り裂いた。

 「俺の翅を…!」

 その出来事は紫薇にとって完全に想定外だった。今までどんな相手にも恐怖とその力を見せ付けてきた翅が、まるで障子紙でも切るかのように断ち切られたのだ。それは今のクレシェントを守るというプランジェの意志の強さを明確に表わしていた。逆に自尊心と優越心に気付かずに染まっていた紫薇はその次の対応に遅れ、反撃することも考えられず、ただプランジェの刀から身を守るだけで精一杯だった。

 赤い線の概念が消えたことでプランジェは実物の刀を具現化させ、妖精の腕に食い込ませた。だが妖精の腕は見た目に反して堅い毛皮に覆われていた。刀の刃から火花がこぼれるほどった。

 遅れを取った紫薇だったが、これまで伊達に戦闘を繰り返してきた訳ではなかった。追い込まれながらも冷静さを取り戻すと、人間の腕だったもう片方の腕を妖精の腕に変化させ、その手の平から燐粉を撃ち出した。

 即座にプランジェは体を飛び退かせ、後退してその燐粉を避けていった。対して紫薇は次の行動に移させないようプランジェを追いかけ、秒単位で距離を詰めると今度は自分から妖精を腕を突き出した。立場は打って変わり、今度はプランジェが妖精の腕にやられまいとぐっと力を込め、紫薇の攻撃を受け止めている。

 紫薇の力はその細腕にしては途方もないほど強かった。普段は女性と変わらない腕力しかなかったが、そのときだけは以前の筋肉質な体よりも、遥かに強い力を引き出していた。その腕力に幼いプランジェが敵う筈もなく、見る見るうちに妖精の腕はプランジェの体に近付いていった。

 あと少しで決着がつく、そう思っていた紫薇の頭に飛び込んだのは以前どこかで見たことがあるような光景だった。

 「!」

 プランジェがふっと静かな息を吐くと、紫薇の体はまるで見えない力に掴まれた様に明後日の方向に向かっていった。その動作、技術はかつて青鬼たちと戦った際に目にした研ぎ澄まされた妙技に似ていた。プランジェは訓練でその技術を独自に掴んでいた。受け流し、言葉にすれば簡単だがその動作を実戦で使うには血の滲むような努力を要する。プランジェはその妙技を窮地において使用した。

 プランジェは大急ぎで走り出し、紫薇とある程度の距離を取ると刀を消滅させて再び拳銃を呼び寄せ、時間の許す限り引き金を引き続けた。消音装置の着いた拳銃は最小限の光と音を漏らし、弾丸を滑空させる。

 紫薇はその亜音速で宙を舞う拳銃の弾を一つ一つ目で追い、堅い妖精の手の平で受け止めていった。先の潰れた鉛玉が地面に散らばり終えたときにはもう目の前にプランジェの姿はなかった。代わりに弧を描くようにしてプランジェは紫薇の周りを走っていた。

 もうプランジェの手には拳銃の姿は見当たらなかった。代わりに握られていたのは小型のコンバットナイフだった。濃い緑色の刃をちらつかせ、プランジェは走りながら狙いを定めると、短い間隔を置いてそのナイフを投げた。そしてその投げたナイフに自らの意思と概念を乗せた。

 『ファゴネーダ・ジュブネ・パラール(時にその姿は蜂のように)』

 ナイフの周りに淡い光が点り、細い傘状に形を変えると弧を描いて紫薇に襲いかかっていった。光は美しくとも鋭い一面を持った女性のようだった。

 紫薇の翅が険しく動いている。そのつど翅には小さな紫色の雷が走り、そのエネルギーは妖精の腕の先、指に集まっていった。紫薇の視界には強烈な力を持った概念が迫っている。だが蓄えられた妖精の力はその比ではなかった。紫薇が腕を一振りすると、蓄積されていた莫大な力が放出された。

 『ジュブネ・パラール・ベレチア(浅瀬に立てた誓い)』

 プランジェはその力を目の当たりにする前に全ての力を防御に注ぐ。具現化されたナイフが宙に浮かびながら時計回りに動くと、刃が円形に配置されてさながら盾のように五つ並べられた。

 妖精の一撃はあらゆるものを飲み込んでいった。プランジェが具現化した概念など何の抵抗もなしに消滅させ、彼女の盾を破壊しにかかった。そこで初めて強い抵抗をされ、プランジェの目の前で紫電が閃いた。

 公園内に息吹く木々や植物が無音の悲鳴を上げる中、プランジェは紫電の亀裂を受け切った。アイロニーの盾もまだその場所に存在し続けている。しかし紫薇が再び腕を振ると、二つ目の亀裂がプランジェに飛びかかった。盾の隙間から紫色の光が漏れてプランジェの瞳に浮かぶ。

 紫薇は持てる全力を使って紫電の亀裂を放った。本当に殺す気で力を解放したのかもしれない。何故なら紫薇は感じ取っていた。妖精の触角を通じてプランジェの中に眠っている不滅の力を。

 破裂した紫電が空に舞い上がると紫薇は膝を着いた。大粒の汗を流して全身を蝕む疲労に辛うじて耐えている。力を使い過ぎたのだ。翅の復元や紫電の亀裂は紫薇にとって諸刃の刃と同じだった。荒い呼吸をしながら紫薇はプランジェを覆っている土煙を見て思わず笑ってしまった。姿はまだ見えない。だが確実にプランジェはその両足で立っているとわかっていた。

 雷と煙が晴れると紫薇の予想通りプランジェは立っていた。服はぼろぼろで満身創痍になりながらも闘士を燃やし続けている。プランジェはそこから更に紫薇を驚かせた。煙の中から現れたのは紫薇が見たこともない女の姿を纏い始めていたプランジェの姿だった。右目だけが黄昏色に輝きながら、プランジェの伸び切っていない手足が包まれていく。

 「プランジェ、お前は…」

 その全貌が明らかになったとき、紫薇は絶句した。そこに立っていた筈の少女は完全に別人になっていたのだ。目の大きさや顎の丸み、頬骨や鼻の形まで違った大人の女。顔付きはあどけなさのない艶やかなものだった。

 紫薇はその状況に気が動転しそうになるのを必死で食い止め、触角を動かしてプランジェの心理状態を探った。するとプラジェの内部から深い悲しみ、そしてどうしようもない羨望の心を感じ取った。大きな罪、それが彼女の心を支配していた。それがどういうものなのか紫薇はわからなかったが、紫薇は触角を通じてプランジェの心に呼びかけた。

 「(…目を覚ませ、プランジェ)」

 必死に伝心しても紫薇の声はプランジェに届かなかった。最悪なことにその伝心が意識のないプランジェのつま先を動かす要因になってしまう。

 「(私は…)」

 距離が近付くにつれてプランジェの声が微かに聞こえ始めた。紫薇は逃げることよりもその声に耳を傾けた。

 「(私は…守らなければならない…)」

 「(そうだ、お前の役目はクレシェントを守ることだろう)」

 「(でも…私にそんな資格があるのか?貴女を殺してしまった私に…)」

 「(…殺した?誰をだ?)」

 「(本当は…貴女がなるべきだった。なのに私は…)」

 ずきりと紫薇の頭に痛覚と、見たこともない映像が一瞬だけ映り込んだ。


 静かに波打つ黄昏色の渚で横たわる女性。それはプランジェと成り変わった人物だった。傍にはプランジェが握っていた日本刀が砂に刺さっていて、刃には文字が刻まれていたが血で滴っていたせいで読めなかった。


 それが誰の視界で、横たわっていたのが誰だったのか紫薇にはわからなかった。だが意識がもとに戻った時にはプランジェが目の前に立っていた。紫薇は我が身を守ることよりも必死にプランジェを正気に戻そうとした。

 「…プランジェ、戻って来い」

 そして初めてプランジェが口を開いた。がその声はプランジェのものでありながらまるで二十代の様な声質だった。

 「違う…私…は…ジニ…ス…」

 「ジニス…?」

 治った筈の傷痕から赤い雫を垂らす。その言葉を最後にプランジェは口を閉じてしまった。紫薇は何が起こっているのかわからないまま、ただその掲げられた刀を見ているしか出来なかった。疲労した体ではそこから逃げ出すことは出来なかった。そして血で滴っている刀が振り下ろされる。

 刀の光を切り裂くように青い軌跡が紫薇の視界を過ぎった。すると具現化されていたプランジェの刀はぽきりと折れ、その形を歪ませると金属音を立てて消滅していった。するとその刀が折れたと同時に黄昏色の右目に宿っていた光は失われ、もとの薄いブルーの瞳に戻ると、大人の女を装っていた姿は子供に戻っていった。

 「ちょっと何やってんのよ」

 紫薇は倒れ込むプランジェの体を受け止め、安心したように溜め息を吐きながら後ろで立っていた女に顔を向けた。そこには困った顔をしながら暴虐の右腕を掲げるジブラルがいた。

 「…悪い、助かった」

 「ったく、こっちに戻ってみれば、とんでもない力を感じたものだから飛んで来たは良いけど、まさか妖精様が膝を着かされてるなんてね」

 右腕をもとに戻しながらジブラルは笑った。

 「何があったのよ?」

 「…こっちが聞きたい位だ。ジブラル、クレシェントを呼べ。奴に聞かなきゃならないことが出来た」

 ふむとジブラルは口を曲げ、懐から携帯を取り出すと耳元に近付けた。

 「あー、もしもし?クレシェント?あなた今どこにいるの?え?サロンでお昼食べてるって?じゃあ食べ終わったら…」

 ジブラルが電話をしている間に紫薇は妖精化を解いてプランジェを腕で抱きながら彼女の顔を見詰め、血で汚れていた瞼を拭いてやった。不思議なことに傷はすっかり治っていて、傷痕だけが変わらず残っていた。

 紫薇はプランジェに対して恐れはなかった。それは自分を跪かせた後でも変わらない。だが何か特別な、神聖染みた力を感じているのは確かだった。その力は今のプランジェには扱い切れないこともわかっていた。


 一行が去った後、湖の中から小さな光が浮かび上がった。大きな蛍のような光だった。その光は紫薇とプランジェの戦いを湖の中からこっそりと覗い、プランジェの右目が黄昏色に輝いた瞬間、体を震わせながら歓喜した。そしてその情報を各世界に散らばっている仲間に伝達した。



 家のリビングでは紫薇とジブラルがソファーに座ってクレシェントを待っていた。紫薇はプランジェの看病を羽月に任せ、自分でコーヒーを淹れた。味は水っぽく、味見させたジブラルがすぐに吸いかけの煙草を突っ込むほどだった。

 三十分ほどしてから家の呼出音が鳴り、紫薇はジブラルに視線を促して迎えに行かせた。

 「ご免なさい、遅くなっちゃって…」

 仕事の途中だったのか服装は制服のままだった。着ていたコートを脱いで腕にかけるとソファーに座った。

 「…それでプランジェの様子は?」

 「眠っているだけだ。そんなに心配するほどでもない、ただ一つを除いてな」

 その言葉に何かしらの予感はしていたのか思い詰めたように俯いた。

 「ジニスとは誰だ?」

 「…ジニス?」俯いていた顔が上がる。

 「そこまで至ったプランジェを見ていないか…」

 紫薇はクレシェントのその表情を見て何となく理解した。

 ふうっと煙を吐いてジブラルは吸いかけの煙草をもみ消した。

 「前から思っていたけど、プランジェの具現化能力は響詩者のそれとは別物ね。処女の庭園、もうそう呼んで良いのかわからないけど、心象世界に存在するものを完全に具現化してるんだから。もうそれ自体を超越力と見なしても良いのかもね」

 「概念の具現化はどれだけ精緻化されても物質には成り得ないからな。もとは心象世界にあるものだ、刃が欠けても弾丸を使い切っても幾らでも補充できるんだろう。そこまでは良い、だが今日俺が見たのは人間そのものを自分の体に具現化させていたことだ。あの女の姿を纏っていたと言ってもいい。あれが誰なのか、顔つきから見て親戚じゃなさそうだ」

 紫薇とジブラルは冷静に話してみせたが、二人の会話から流れた空気はプランジェが正常ではないことを悟っているようだった。

 「クレシェント、何か知っているのなら今のうちに吐き出せ。…向こうは放って置いても当分は目覚めないだろうしな」

 触角を伸ばして二階の様子を窺いながらいった。するとその触角を見てクレシェントとジブラルは驚いた顔を見せると、紫薇は慌てて引っ込めた。

 「随分と便利な体になったものね」

 「化け物らしくなってきただろう?それで、どうなんだ?」

 紫薇は問い詰めるようにいったが、クレシェントは視線を横に流すばかりで一向に口を開こうとしなかった。そんなクレシェントに紫薇は鼻で小さく溜め息を吐くと、

 「(今さら誰が何だった、そんなことで慌てふためく連中じゃない。後ろ髪を引かれる気持ちはわかるが、プランジェの姿が変わったときに誰かの視線を感じた。こんな状況だ、不安の芽は少しでも取って置きたい。…お前を呼び付けたのもそれが理由だ)」

 誰にも悟られないように静かに心の中で語りかけた。

 触角を伸ばしたとき、不意に流れた一筋の不安。それはお互いに顔を合わせたくないという気持ちからだった。それが理由で紫薇とクレシェントは余り視線を合わせようとはしていなかった。けれど最後の言葉を受けると、クレシェントはやっと観念した様に紫薇に目を向けた。

 「これから話すことは…プランジェには言わないで欲しいの。それがあの子のお姉さん、ミューティとの約束だから」

 そういうと紫薇とジブラルは神妙に頷いた。

 「時おり見せるプランジェの不思議な力、私も何度か目にしたわ。それは多分、ナーガの人たちには持っていないものだと思うの」

 「それって…」

 否応にもジブラルの顔が強張った。

 「ええ、プランジェとミューティは本当の姉妹じゃないわ。ミューティが小さい頃、赤ん坊だったプランジェを見付けたそうなの。壊れた機械人形の中から…」

 「じゃあ、やっぱりプランジェは別の世界からやって来たってことなのね?」

 「断定は出来ないけど…ナーガには機械と呼ぶものはないから。その機械人形も優れた知識によって作られたものらしいわ。でもプランジェの不思議な力はきっとそんなことからじゃない。あの子は処女の庭園からして普通の人と違っていた」

 「…黄昏色の渚」

 紫薇はあのときに頭を過ぎった映像にいつの間にかタイトルを付けていた。

 「紫薇は見たのね?」

 「一瞬だったがな。妖精の触覚を出していたせいで、プランジェの深層心理を勝手に読み取った。だがあれは…」

 紫薇は言葉を詰まらせた。あの庭園はどこか普通とは違う気がする。そんな気がしてならなかった。

 「そう、あれは記憶や感情によって強く作られた心の情景、処女の庭園であって非なるもの。感情の暴発によって刻まれた心の傷と言っても過言ではないわ。きっとあの世界はプランジェがそうでありたいと心から願ってしまったイメージ。最早それは、自分にとっての呪いなのかもしれない」

 「呪い、ね…」

 その言葉の奥深さをジブラルは苦い顔をしながら、水っぽいコーヒーを飲んで嚥下した。

 「あの子とは何度か箱庭の共有を試みたの。でも隔絶された心の障壁が強過ぎて共有どころか触れられもしなかった。紫薇、前に共鳴奏歌を私と作ろうとしたわね?あのときに何故か紫薇だけは共鳴することが出来た。あのときは偶然だと思っていたけれど、今はその理解に苦しむわ。紫薇の心の種は今もプランジェに寄り添っているのでしょう?」

 「…ああ、そのお陰でプランジェの心境もわかり易い。始めは妖精の力があいつの心を無理に抉じ開けたのかと思っていた。だがあのときの俺は権兵衛に守られているだけで、妖精の力の片鱗すら見出せていなかった」

 「じゃあどうして…」

 「さあな」

 視線を斜めにして首を捻るクレシェントと紫薇を見てぽつりとジブラルが呟いた。

 「…救い」

 「…何だって?」

 「クレシェント、あなたとプランジェにとって紫薇は自分の罪を償わせてくれる救いだと感じたんじゃないかしら?あなた達はその根底に深い罪の意識が根付いている。でも紫薇はそんな罪を背負って生きろと言った。言葉は辛辣かもしれない、でもその言葉があるから、あなたは今を生きていられるのよね?」

 クレシェントはあのときに受け止めた紫薇の言葉を思い出して少しだけ口許を緩めた。

 「プランジェも…きっとそんな紫薇の姿を見てきたから無意識に心を開いたんじゃないかしら?妖精だから惹かれたんじゃなくて、紫薇のそういう悪辣な部分に心を揺れ動かされた。そうは考えられないかしらね?」

 「…褒めてるのか?それは」

 「んー、まあね」

 そういわれた後に紫薇は黙って考え込んだが、余り嬉しい気はしなかった。その紫薇に反してクレシェントは何だか無性に可笑しくなって、小さく笑うとその笑みを悟られないようにマグカップで顔を隠した。その後に紫薇が淹れたコーヒーの味を知って顔をすぐに歪めてしまった。

 「でもプランジェの世界が過去の辛い記憶によって創られたなら、一体あの子は幾つなのよ?どう見てもお子ちゃまなのに。もしかして右目の傷跡が関係してんのかしら?あの傷跡が着いたのって最近じゃなさそうだし」

 「それは…わからない。もしかしたらミューティが知っているのかもしれないけど…。そのことは黙って置いて欲しいって言われてたから…」

 次々と沸き上がる疑問を他所に、三人は微かな気配を感じ取った。階段を踏む音が二つ、小さいのと大きい音がして羽月とプランジェがリビングにやって来た。

 「…クレシェント様、いついらしたのですか?それにジブラルも…」

 プランジェが降りてきたことに一番驚いたのは紫薇だった。確かに触角を通じてプランジェの意識は深い闇の中だったのだ。それがそっくり嘘のように覚醒し、普段と変わらない足取りをしていたせいで紫薇の反応は遅れてしまっていた。

 咄嗟の言い訳を口にしたのはジブラルだった。

 「なに言ってんのよ、皆あなたがぶっ倒れたからって心配で来たんじゃない。もう良いの?体は」

 「う、うむ…。もう大丈夫だ。何だか記憶が曖昧なのが気になるが」

 「そりゃ妖精様とどんぱちやればこっちの身が持たないわよ。紫薇、あなたも少し手加減してあげないと。相手はお子ちゃまなんだから」

 「思っていた以上にその子供が手強かったんでな、むしゃくしゃしてやった」

 「ちょっと、むしゃくしゃしてって…」

 三人の会話をプランジェはどこか猜疑していたが、その後にクレシェントが会話を続けたことでどうにか誤魔化せたようだった。プランジェの右目はもとの薄いブルーの瞳に戻っていた。

 それからややあってクレシェントとジブラルは紫薇の家で夕食を取ることになり、その間でクレシェントはプランジェに家に泊まるように促した。

 「宜しいのですか?クレシェント様」

 「良いのよ、明日は仕事も休みだし、一緒にあんみつでも食べに行きましょう」

 そういうとプランジェは嬉しそうにした。


 クレシェントは玄関で紫薇に見送られるときに仮面の王の話をした。

 「どうした方が良いと思う?ノーティカ王のこと、協会に話した方が良いかしら?」

 「いや、裏が取れない以上迂闊に教えても相手にしちゃくれないさ。それにもう教えてやる義理もない。ノーティカ地方の王がどういった立場に居るにしろ、今はのんびりと座視させて貰う。どうせ用があれば奴が来るだろうしな」

 腑に落ちないのかクレシェントは何かいいたそうだった。

 「さっさと行け、手間を取ってるとプランジェに勘繰られるぞ」

 「…わかったわ」

 短い溜め息を吐いてクレシェントは玄関の扉を閉めていった。

 「さて、これからどうなるか…」

 紫薇はこれから何が起こるのだろうと不安そうに溜め息を吐いた。



 どこまでも続く雲の平原があった。白い雲は川のように絶えず動いてその隙間から見え隠れする明るい灰色の空を覆っていた。平原の中心に浮遊する球体の物質。それは途方もなく大きい。その球体は実際には丸ではなく、数え切れないほどの多面体がそう見せているだけだった。そしてその多面体は雲の流れに乗ってゆるやかな回転を続け、やがてその全身を見せると実はその半分が壊れてしまっていることを露にした。大きく捲れ上がり、無数の亀裂があって無残なものだった。

 その亀裂の中、多面体の中心に小さな光が集まっていた。薄い緑色の光が寄りそうにようにして囁き合っている。多面体の中は幾つもの層になっていて、居住区となっていた。その証拠に光が集まっている場所には観賞用の木やランプのないスタンドがあった。

 「報告によれば彼女が見付かったそうだ。今はアヴォロス・デ・アルに介在しているらしい」

 「箱舟を見失ったときには半ば諦めてしまったがそうか…生きていたか」

 「すぐにアヴォロス・デ・アルに向かいましょう。彼女にはしかるべき場所で超越力を極めて頂かなければ」

 「その件についてだが、今は見送ることに決まった」

 「何故です?やっと彼女を見付けられたというのに…」

 「ローザからの報告によればその力は殆ど目覚めていないらしい。それに…」

 「それに?」

 「信じられないことだが、我等の希望はあの片割れと生活を共にしている」

 「何とそれは…」

 「希望と絶望が入り混じるとは…由々しき事態ではないのか?ゾフィ」

 「…今は監視を続けよう。下手に干渉すれば事態は悪化するやもしれん」

 「同感だ。片割れのときのようにこの有様になっては修復に時間がかかる」

 「しかしこの機を逃せばいつまたゼルアや『妖精の僕ども(プレキュール)』が彼女を襲おうとするか。『三十六の名(コルトネリウス)』の暴走も配慮して置かなければいけないのに…もう生き残っている我々だけでは手が追い付きません。イナンだって死んでしまったのに…」

 「その件についてはニゲラに任せている。それよりも光胡屋殿…いや、アステルの様子はどうだ?」

 「存在量は既に予定の半分に達した。流石に我らが母だ、勇ましい。…性格にやや難があるのが残念だが」

 「仕方があるまい。まだアステルは子供なのだからな」

 「では各自もとの世界に戻り、作業に移れ」

 そういうと緑色の光たちは一斉にその場から去っていった。

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