73話 寒空の交差点

 レヴィスの叫び声が乱れる中、その男は語った。

 「また無茶してやがんな、紫薇」

 久し振りに聞いたウェルディの声は紫薇にとって予想外だった。宥めるような、頼りがいのある声だった。小さく笑みを浮かべながら横顔を向ける姿はまるで紫薇の兄貴分のようだった。

 「今迄どこをほっつき歩いていた…」

 しかし紫薇は何度も店を訪れたが、その度に外れを引かされたことを思い出し、牙を剥いた。

 「おめえな、ちったあマシな言葉を寄越せよ。これでも助けに来てやったんだぜ」

 「知るか。俺の時間を返せ、歩く公害が」

 赤縞でもその言葉には驚愕した。

 「んとに可愛げがねえ砂利だな…。だがまあ、前よりかは良い面構えになったじゃねえか。妖精になって箔でも付いたか?」

 紫薇はその言葉を聞いてウェルディを睨み付けた。

 「そう睨むなよ。別にお前が妖精だった、なんて知ってた訳じゃねえんだからな。…にしてもよお」

 ひたすらに声を上げて腕に纏わり着いた火を消そうともがいているレヴィスに目をやった。

 「うるせえんだよ、おめえ…」

 ウェルディの手が差し出され、ぐっと拳を握るとそれに従ってレヴィスを焦がしていた炎が体中に広がり指の形になると、手の動きに合わせて凝縮していった。すると甘く、焦げた臭いが辺りに広がった。

 「砂利がハッパに手え出しやがって…。それを煽ったあの馬鹿もそうだが、詰めるモン詰めさせねえと示し付かねえぞ」

 仄かに額に刺さっていたウェルディの妖精のかけらが光った。

 「落とし前つけろや」

 脅しにも似た気迫を凄ませると部屋の隅が急に燃え出し、その火が線となって部屋の輪郭を覆っていった。そうして火は部屋全体を焦がしながら徐々に侵食を始め、暴走していた形而上の空間を消滅させていった。

 「形而上の存在に干渉しているのか…どうやって…」

 その答えは妖精のかけらだった。火の燃え盛りを表わすようにウェルディの妖精のかけらがぎらぎらと照っている。部屋はもう半分ほどもとの待合室に戻っていき、赤縞と紫薇を塗らしていたシロップの湖は蒸発していった。

 ウェルディが動いた。ゆっくりと宙を歩き、残った水面の上を伝いながら巨人となったレヴィスに近付いて目の前で立ち止まると、右手を唸らせた。手に火が点り、煙草をすうっと吸って息を止めるとその火の手を巨人の体の中に貫かせ、その中で何かを掴むと勢い良く引きずり出した。それは小さな、本当に幼い腕だった。その先にプランジェとそう変わらない年頃の少女が巨人の中から引きずり出され、全体像が現れると部屋は完全にもとの部屋に戻っていた。

 「これが現会長の正体って訳かい…」

 鼻の穴から煙を噴き出しながらレヴィスを床に寝かせた。

 床に転がったカラフルな飴を見付けるとウェルディは指で摘み、ぐしゃりと手で握り潰した。

 「砂利を自分好みに弄繰り回すのがお前の性癖か?」

 その視線は赤縞と紫薇に向けられた。だが実際はもっと先、二人の後ろにいつの間にか立っていたリカリスに向いていた。

 「それも偶には一興かもしれませんね。でも僕はどちらかというと年上が好みでして」

 「こいつの母親みたいな女って訳か?」

 「…まさか」

 一瞬、リカリスの目が強張ったような気がしたと紫薇は思った。そしてあのとき、レヴィスの精神の根底に見え隠れした女の姿が脳裏を過ぎった。それは三十代位の女だった。きりっとした顔立ちながら、その目にどこか妖艶な光があった。きっとレヴィスが育てば似たような顔になるのかもしれなかった。

 「兎に角だ、もうこれ以上この砂利に薬を与えるのを止めろ。んでもって会長の役職なんざ他の奴にやっちめえ。ってかお前がやりゃ良い話だろうが」

 「理事会が僕を推薦するのであれば今すぐにでも。まあ、どう転がってもそんな話は出ないでしょうけどね。それに…」

 リカリスはウェルディの傍を通り過ぎると、倒れていたレヴィスの体を持ち上げた。優しく、というよりまるで壊れ物を取り扱うように慎重過ぎる面持ちだった。

 「これは彼女が望んだ結果です。仮に僕が導いたとしても、この道を選んだのはレヴィス・グリエール・ラムナス本人だ」

 ウェルディとリカリスの視線がぶつかり合い、数秒の沈黙が流れると先に視線を逸らしたのはウェルディだった。その意味を理解するとリカリスは静かに笑い、部屋の扉に向かった。

 「お帰りの際は正面からで結構ですよ。レミアの鍵を使った方が早いでしょうがね。それでは紫薇君、またいずれ…」

 そういってリカリスは待合室から出ていった。

 「…どうして止めてやらなかった?」

 全員の代弁のように紫薇が口火を切った。

 「どんな事情であれ、本人が決めたことに口は出せねえだろ。あんなになってまでも今の役職を続ける。それだけの理由があるんだろうよ、奴さんにはな。世知辛い世の中だがな」

 残った煙草を飲み下すように吸うと吸殻を指で弾いて捨てた。

 「さて…これからどうするか。お前、俺に聞きたいことでもあんじゃねえのか?」

 紫薇は改めてウェルディを前にすると、何を聞き出したら良いのかわからくなっていた。それに全身に出来た傷が疼いて上手く考えることが出来なかった。

 「まずは傷の手当てをしてやらにゃあな。…どっか呑みに行くか」

 「いや、それなら適当な場所がある」

 「お!お前も終に酒の味が…」

 「違う、あの馬鹿の城だ」

 そういうと赤縞は小さな声で舌打ちした。

 「…城?」

 訳がわからないといった顔をして首を捻った。



 銀色の髪の毛が揺れている。少し癖のある髪質だがとても滑らかだった。希少価値の高いプラチナブロンドが六つ、そしてもう一つあった。ぴんと伸びたまつ毛まで光り、くっきりとした目の色も髪の毛と同じ色彩だった。端正な顔立ちは完全な黄金率によって配置され、唇はややふっくらしていた。

 クレシェントはそんな自分の髪の毛と目が好きだった。カラーリングや毛染めでない自然な色合いがまた周りから持てはやされる。顔の黄金比を気にしたことはなかったが、言い寄ってくる男がいれば好きになるものだ。やっと少しずつ自分のことを好きになれた矢先に、その自信を崩された瞬間だった。

 「さあみんな、お姉さんに自己紹介をしよう」

 そういうとクレシェントと同じ顔をした少女たちは一列に並んでお辞儀をした。挨拶は右から、黄色いドレスを着たクレシェントから始まった。続いて緑、橙、桃、青、赤のそれぞれ同じ声質で同じように話した。

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・バルビエーラ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・ナシュタウーグ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・ミーヴェルーア」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・リブリーン」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・セフェトリーリ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・オストウィール」

 六人のクレシェントは挨拶をし終わると、全員が同時に裾を捲って挨拶をした。クレシェントはその光景に眩暈がしそうだった。思わず足がよろけてしまう。

 「初めましてお姉様、君はクレシェント・テテノワール」

 最後にアークディンクがクレシェントの名前を呼んだところで、今ここに七人のクレシェントが出揃った。

 「貴女たちは一体…」口を震わせながらいった。

 「何を恐れることがあるのかね?この子たちは君の姉妹だ。君と同じ血肉で作られ、君と同じ父親がいる。培養液によって生み出されたから腹を痛めた母親はいないが…どうだい?感慨深いものがあるだろう」

 クレシェントは無意識に剣を具現化させていた。あってはならないものが目の前で起こっている。それは生物としての本能なのか、それとも自分と同じ顔を見て生理的に受け付けなかったのかはわからないが、クレシェントにとって姉妹との邂逅は喜ぶべきものではなかった。

 「お姉様、どうしてそんな危ないものを私たちに向けるの?」

 自分と同じ声が囁いている。

 「私たちのこと、嫌いなの?」

 違う、そうじゃない。

 「きっとお姉様は私たちと遊びたいのよ」

 そんなつもりなんてない。

 「私、お姉様と一緒におままごとしたい」

 そんな目で私を見ないで。

 「あ、私も。じゃあお部屋からお人形を取って来ないと。一緒に行きましょう、お姉様」

 お願い、来ないで。

 「どっちが先にお部屋に着けるか競争ね、お姉様」

 もう、耐えられない。

 何かがはち切れたようにクレシェントは狂った声を上げながら走り出した。プランジェの声も届かない。既にクレシェントの目は真っ赤に染まっていた。六人のクレシェントの目の前に到達すると、一人のクレシェントは腕を振り上げた。

 しかしそこに待っていたのは完全に無防備を晒したクレシェントたちだった。六人のクレシェントは叫び声を上げるどころか、自ら進んでクレシェントに近付き、両腕を差し出して宛ら抱っこをねだる子供のような素振りをした。途端、クレシェントの腕が止まった。振り上げた腕が何度も痙攣する。これだけ殺気を飛ばしているのに六人のクレシェントはじっとクレシェントを見上げたまま、純粋無垢な顔をした。

 「…お姉様」

 黄色いドレスを着たクレシェントが黒いドレスを着たクレシェントに縋ると他のクレシェントも続いて足や腕に抱き付いた。

 「お痛しないで、お姉様」

 「良い子にするから」

 「お姉様、どこか痛いの?」

 「嫌いになっちゃやだ」

 「お姉様の体、あったかい」

 いつの間にかクレシェントの体を大粒の汗が伝っていた。このまま少しでも腕を振るえば彼女たちの首は簡単に吹き飛んでしまうだろう。だがどう足掻いても出来なかった。六人のクレシェントの髪が、目が、声が、匂いが自分と同じなのだ。目がもとの銀色に戻っても体は固まったままだった。

 その光景を見通していたかのようにアークディンクは仮面越しに笑った。

 「クレシェント様…」

 プランジェはどうして良いのかわからなかった。余りにも異様な光景が広がっている。ただその事実を眺めていることしか出来なかった。だがそれもある人物の登場によって今度はプランジェが混乱することになってしまう。

 「あっ!帰って来た!」

 ふと急に体に抱き着いていたクレシェントたちが離れていった。ふらりと腰が砕けたようにクレシェントはその場に尻餅を着いた。妙な呼吸をしながら脂汗を出す。目は銀色になったり真紅になったりしていた。

 「遅いーっ!」

 「私たちお腹ぺこぺこー!」

 「私も!」

 クレシェントは床を眺めながら見知った匂いが鼻をくすぐるのを感じた。途端、ぐっと胸が掴まれたような気持ちになる。それはプランジェも同じだった。

 「遅くなってご免なさい」

 クレシェントとプランジェの視線がその人物に向けられる。そこにはかつて生活を共にした女が立っていた。クローシュを被り、長い髪を肩から前に流している。きっちりとした服装、黒い薔薇が描かれたブラウスにコクーン状のスカート、それらがその女性の性格を表わしていた。

 「ミューティ…」

 その言葉の後にプランジェが声を張り上げた。

 「姉さん!」

 突飛な出来事にプランジェは喜んで良いのか驚いたら良いのかわからなかった。ただ以前と変わらない、落ち着いた雰囲気がある姉の姿を見詰めているだけで、その場から動けなかった。

 「久し振りね、プランジェ。元気にしてるかしら?」

 そんなプランジェにミューティは嗜めるようにゆっくりと言葉をかけ、抱き付いている六人のクレシェントたちの頭を撫でた。

 「ど、どうして姉さんがそんな連中と…」

 「彼女はこの子達の世話役として働いて貰っているのだよ。子供たちも良く懐いてくれている。理想的にね」

 「世話役だと?」

 「そうだ。ま、雇い主は私じゃないがね」

 「なら一体誰が…」

 「決まっているだろう。この子たちと、そしてテテノワール…君の父上だ」

 「…セレスティン」

 設問を差し出されたようにクレシェントはその名前を口にした。

 「彼は私の友人でね。少しの間この子たちを預かっているのさ」

 「貴様、一体何を考えている!?」

 素早くナイフを具現化させ、刃先をアークディンクに向けた。

 「プランジェ、貴女いつからそんなはしたない子になったの?」

 「何を言っているんだ姉さん!この男は…」

 「その人は私の雇い主のご友人、無礼な真似は慎みなさい」

 姉の威厳が妹であるプランジェに圧しかかる。するとプランジェは否応にもナイフを下げてしまった。しかしその威光を振り払い、萎んでいた気力を復活させると再び声を張り上げた。

 「私はクレシェント様の従者だ!主に危害が及ぼうものなら身を持って挺する!姉さんだってその一人でしょう!?」

 「…そうね、私もその一人だった。でも今は違う、私がクレシェント・テテノワールに抱いているものは深い恨み…そして壊乱の魔姫を討たんとする復讐の権化、それが今の私なのよ」

 クレシェントの脳裏にかつてミューティに浴びせられた言葉が過ぎる。雨だというのに傘の一つも持たずに出ていった彼女の後姿が今でもはっきりと覚えていた。

 「プランジェ、あの人は私たちにとって仇なのよ?貴女それを忘れて?」

 「確かにそうだ…だがそれはクレシェント様が望んでしたことじゃない!そう、全てはデラの…いや、セレスティンの陰謀だったんだ!奴の下で働いているのなら知っている筈でしょう!」

 「それが本当でも、その手を血に染めたのには変わりないわ。それに幾ら事故とはいえ犠牲になった私の心境はどうなるの?貴女だって少なからず怨みがあったんじゃないかしら?」

 「それは…」

 心の中でプランジェは一歩引いてしまった。

 「プランジェ、どんな事情があったにせよ、彼女が人を殺してしまったのは事実。そしてそれは今も続いている。絵画で有名なエネミスクリアを殺害したのは誰だったかしら?」

 「おやおや、惨殺されたと聞きましたが、まさか君が犯人だったとは。また芸術界の花が一つ散ってしまった。まだお若いのに残念なことです」

 わざとらしく、第三者として当然の言葉を浴びせた。

 「……………………」

 口の中に鉄の味が蘇るようだった。まだ、自分は人殺しを止められていないのだとクレシェントは改めて思い知らされた。

 「罪を犯した人間は必ずその罰を受けなければならない。私のやろうとしていることが復讐だとしても、その体裁がある限り美談として昇華される。相手はあの第ゼルア級犯罪者、どう転んでも世論は私に味方するわ」

 「なら道徳はどうなる?私は…そんな姉さんを見たくない!」

 「道徳は飽くまで人の規範、戒律でもなければ義務でもない」

 「その通り、道徳も人によって区々だ。君は言ったね?人の数ほど思想があると。少し話はずれるが我々にとって何が善で何が悪か、これは誰にも区別することが出来ない。時代、センス、流行…様々な因子によって規範は形を変える」

 指を一つずつ動かしながら語り、最後には指をゆらゆらと動かした。

 「では相対的な規範はあり、絶対的な規範はないのか?実は一つだけある。それは人の意思だ。信念といっても良い。その規範は厄介極まりない。誰が何といおうと、何がどう変わろうとその規範は平行線を辿ったまま。その先が破滅でも浄化でもお構いなしだ。わかるかね?彼女の規範は今、自らの怨念を晴らそうとすることが絶対的な善となってしまっている。さあ、そんな彼女に君は何と声をかける?」

 「私を止めても構わないわ、プランジェ。でもその代わり貴女が壊乱の魔姫を殺すのよ。少なくとも私と貴女にはその義務と権利があるのだから」

 プランジェの視線がクレシェントに向けられる。と同時に薄れつつあった赤ん坊だった頃の記憶がプランジェに囁いた。

 人々の死塁を踏み付けながらのっそりと現れる赤い目。口元には人肉がぶら下がり、手は脂でてらてら赤く光っていた。その人ともいえぬそれが大きく声を出す。その叫びは、そう、その叫びは自らの罪を罰してくれと訴えているようだった。

 「…違う」

 その予想に反した言葉にアークディンクは目を細めた。

 「あの雄叫びは…乞いだった。本当は叫んでいたんじゃない、泣いていたんだ。自分の罪に、愚かさに」

 クレシェントはいつの間にか泣いていた。あの時と同じように。

 「姉さん、貴女の気持ち…今になってやっとわかったよ。でもそれは駄目だ。だってクレシェント様は、一度だってその罪の意識から逃げたことがないんだもの」

 嗚咽を漏らしながら、クレシェントはプランジェに頭を下げた。それで自分の罪が消える訳ではない。それでもクレシェントは頭を下げずにはいられなかった。

 「だから、私はこの人を許すよ。いつまで憎んでいたって、父さんや母さんが帰って来る訳じゃないから。姉さん…貴女だって本当はわかっている筈だ」

 ミューティはプランジェの話を聞きながらずっと唇を噛んでいた。彼女もまた思うところがあったのだろう。

 「確かに罪人は裁かれて当然かもしれない。でもその前に、当の本人が罪を悔い改めなければ何も解決しないじゃないか。ただ悲しみが渦巻くだけ、誰も救えやしないんだ。私も、姉さんも…そしてこの人も」

 それは被害者からの正当な言い分だった。そこには検事も裁判員も近付けない、真っ当な告白。それは誰の目から見ても純粋な人としての意思を感じさせた。

 「素晴らしい独白だ。正に道徳と理に適った理想形。いや、完璧だよ。…しかし些か現実味に欠ける」

 その理想を突き崩すように魔の手が忍び寄り始めた。いつしか匿名の仮面は白い、鱗が散りばめられた仮面に変わっていた。まるでその仮面は蛇を模したようだった。

 「果たしてその思想、どれ程の人間が賛同するか…人間ってのはね、そう簡単に割り切れないから面白い。言ってみりゃ意固地で間抜けなのさ」

 仮面が変わって人柄までも豹変したような口調だった。

 「だから釣り甲斐があるし、からかい易い。ミューティ、理想に囚われる必要はないよ。人間は理想的でない方が美しい。君の御霊はまだ汚れたままだ、そーだろう?」

 「…当然よ」

 そういいながらも同様は隠し切れていなかった。

 「(そろそろ助け舟を出してやらなきゃ駄目か…人間ってのは面倒な生き物だよ)」

 アークディンクは仮面の本質を演じていたが、本心でもそう思っていた。

 「さて同士諸君、ここらで締めといこうではないか」

 白蛇の仮面が今度は男の顔の型を取ったような仮面に成り代わった。物言いも強気になった。その面は、誰も気付いていなかったが、かつて競争のアレイドと呼ばれた人物の肉面だった。

 「お互い相容れぬ以上、どちらが正しいか決めねばなるまい。誰の意思が最も強いか、精神の鉄血を以っていざ戦おうではないか!我らは響詩者、自らの意思と概念を競う存在なのだ!」

 四人の視線が絡み合う。罪と罰、理想と現実。それらが交錯し、正当性を奪い合う。そんな小さな戦争を、六人のクレシェントはまるで観客のようにひっそりと眺めていた。



 ポットに入ったお湯がかたかたと音を立て、口から熱い煙を吹くとウェルディは慣れた手付きでドリップ式のコーヒーを淹れ始めた。挽いた豆がじわりとお湯を吸うと部屋いっぱいに香ばしい匂いが広がる。その匂いを確かめながらウェルディは静かにコーヒーを注いだ。

 「ほらよ、出来たぜ。水が良いんだろうな、香りがいつもより円やかになってらあ」

 そういって赤縞と紫薇の前にマグカップを置いた。

 二人はそれぞれ傷の手当てをしていたが、適当なところで作業を止めると痛みを我慢しながら手を伸ばした。手当てはクレシェントの城にあった薬草や香草を使って治療していた。

 「しかしまあ、体を壊すのも治すのも手慣れてきたもんだな。風穴が空いてんのに手療治で平気なのかよ?」

 「妖精の体になってから怪我や損傷が勝手に復元されるようになった。止血や消毒だけで十分だ」

 「俺もだ。鬼の血は何かと便利でよ、下手に兜や鎧を着るより生身の方が頑丈だ。体を鎮めりゃ傷の治りが早えしな」

 しかしそうはいっても痛覚はしっかりしていて、二人はコーヒーを啜ると傷の痛みに喘いだ。

 「二人揃って意固地なのには変わりねえな、突っ張りども」

 目を閉じながら高く笑った。

 「しかしお前が妖精だったとはね…あのときに言ったことが本当になっちまっただろ?」

 紫薇はその言葉を聞いて口を紡いだ。

 「まあ、なっちまったもんはしょうがねえ。上手いことその力を使いな」

 「…ああ」

 頷きながらも紫薇は心の中では否定してしまっていた。

 「そんなことよりも今迄どこに行っていた?奴が…デラが殺されてからあんたも煙みたいに消えていたな」

 静かに、そして問い詰めるようにぐっと間を詰めていった。

 「…仇を討とうとしていたのか?」

 しかし紫薇の予想に反してウェルディは鼻で笑うと懐から巻き煙草を取り出し、話しながら煙草を巻いた。

 「俺は仇討ちなんて面倒なことはしねえよ。静かに見送るだけだ」

 その言葉に何かしら反感があるのか赤縞はウェルディを一瞥した。

 二人の視線が合うとウェルディは出来たばかりの煙草を勧めたが、赤縞はそっぽを向いたように視線を外した。

 「無愛想な性格通り、冷てえ野郎だな。それともあのゼルアに臆病風でも吹かれたかよ?」

 「そりゃあ、現時点でゼルアは俺より強えからな」

 赤縞が半ば冗談でいったつもりだった為に紫薇が受けた衝撃は大きかった。

 固まった紫薇を置いてウェルディは煙草を咥え、火を点けた。

 「デラが本性と、妖精のかけらを使ってまでも殺せなかったんだ。他のゼルア級がどんなもんだか知らねえが、単純な闘争でいったらゼルアに敵う奴ぁいねえ。メディストアでもどうだろうな」

 乾燥した煙草が音を立て、その煙の向こう側に赤縞の顔が映った。

 「奴はその腹ん中に三人の超越者を取り込んだだけじゃなく、妖精のかけらを持ってる。その存在量がどれほどのもんかわかったもんじゃねえ」

 「そこまでの力を持って肉体が持つのか?」

 「奴はもう理の存在なのさ。死を司り、破壊と混沌の守護者だったものに襲われた際、逆にそいつを取り込んだらしい」

 そしてその片鱗が赤縞に引き継がれてしまっている。紫薇は赤縞の顔を確かめたが、赤縞は至って平然としていた。

 「いずれあんたも狙われるのか?」

 「俺が奴を殺せる程の実力を身に着けたらな。ゼルアの恐ろしいところは、その超越力じゃなく飽くなき力の渇望にある。ぎりぎりのとこまで自分を追い詰め、その窮地を脱する。以前ゼルアと戦って異界に封じることが出来たのも、その性格に依るところが大きかった」

 「…そんな奴を相手に勝算はあるのか?」

 紫薇は今になってやっとあのデラを滅ぼした存在の力を思い知らされた。そして赤縞への配慮を忘れてそんなことを口にしてしまっていた。

 「もうちっとってところだな。直に妖精のかけらが完全に支配できるようになる。そうすりゃ打率四割は固い。あとは俺の気力と根性次第だ」

 自分の命運に関することにしてもウェルディは大らかだった。そんな彼を見て紫薇の理解の範疇はとうの昔に消え去っていた。呆れているといっても良い。

 「…あんたの妖精のかけらは何を超越する?レヴィスの転換された形而上物を反したからには同じような力なんだろう?」

 「性質は似てるが別のもんだ。まあ、そんなことよりよ。ちょいとお前に伝えてやらなきゃならんことがある。今お前らが置かれている立場だ」

 「立場だと?」

 「ああ、この話はクレシェントのお嬢ちゃんにも聞いて貰いてえんだが…」

 話の区切りを付けるように城のドアが開かれる音がした。そしてクレシェントとプランジェがやって来ると面食らったような顔をした。

 「こりゃまた都合の良いこったな」

 「…店長さん」

 反射的にプランジェがクレシェントの前に立って威嚇した。普段よりも気が立っているようだった。

 「何だよ?別に噛み付いたりしやしないよ」

 「…………………」

 じっとウェルディの目を睨んでいたが、半笑いする彼の顔を見るとやがてプランジェは警戒を解き、台所に向かっていった。

 その仕草を見て紫薇はおやと思い、クレシェントに視線を向けると彼女は黙って視線を下げた。

 「どしたい?何かあったか?」

 「いえ、何でもないんです。ただちょっと疲れちゃって…あ、コーヒーあるんですね。頂いても良いですか?」

 「ああ、まだ挽いた豆がそっちに残ってる。飲みな」

 そういうとクレシェントは軽く頭を下げて台所に向かおうとしたときだった。

 「(あとで何があったのか聞かせろ)」

 矢庭に紫薇の声が頭の中に響き、クレシェントは慌てて彼の顔を見たが一睨みされると、すごすごと台所に向かった。

 黒いマグカップを机に置いてクレシェントは椅子に座った。プランジェは傍に寄ろうともせず台所でじっと立ったまま自分のコーヒーを見詰めていた。

 「さて…と、ちょいと妙な空気だが話を始めんぞ」

 そういうと一同の目がウェルディに集まった。

 「まずことの経緯を説明する前に俺がどこで何をしていたかを話してやらなきゃな。あの日、デラが死んだことを知った俺はゼルアを探し回った。野郎を殺せる人間なんてそういねえからな。そして俺はある場所でゼルアを見付け出したんだ。奴は今…妖精教祖の傍にいる」

 「フォルコットと一緒だと?何故だ?」

 「かつてデラが企んでいた、招かれざる扉を開こうとする為だ」

 「そんな…まだあれを…」

 「もとはと言えばデラがお前を女王に仕立て上げようとしたのもフォルコットの野郎に唆されたのが始まりだったからな。そのフォルコットに賛同し、面を連ねる奴はゼルアだけじゃなかった。お前の産みの親であるセレスティンもその一人なんだよ。デラはそいつを経由してお前を手に入れたって訳だ」

 「デラ…」

 手を重ねて力を強める。今も目を瞑れば優しかったデラの顔が思い浮かぶようだった。

 「他にも妙な面を着けた野郎や最近になって頭角を現してきたキジュベドもいやがった」

 その人物に心当たりがあるのかクレシェントと紫薇は目を細めた。

 「そんな奴らを目の当たりにして良く生きて帰って来れたな、おっさん」

 「当たりめえだろ?誰に向かってもの言ってんだ」

 態度が横柄な者同士気が合ったのか赤縞とウェルディは笑い合った。

 「兎角その一癖も二癖ある連中がこれからどう出るかはわからねえ。だが仮に俺がお前らのお守りをしてやったとしても、全員に娑婆の空気を吸わせてやれるか自信はねえ。それだけ今のお前らは危ねえ状態だってことを肝に命じて置け」

 全員が生唾を飲んだ。時に恐怖さえ感じるほどの年配者からの忠告は重みのある言葉だった。

 「リカリスの野郎に何を吹き込まれてるのかは知らねえが、あんまりこっちの世界に来るんじゃねえぞ。取り敢えず向こうのシマに居りゃ安全なんだからな」

 「俺は初めからそのつもりだったがな」

 横目でクレシェントを見ながら紫薇がそういうと、クレシェントはむっとした顔をした。

 「安全ね…ま、一応やることはやったんだ。そろそろ向こうに帰っても良いんじゃねえか?それに…蓬莱寺の先攻ヴィスの叫び声が乱れる中、その男は語った。

 「また無茶してやがんな、紫薇」

 久し振りに聞いたウェルディの声は紫薇にとって予想外だった。宥めるような、頼りがいのある声だった。小さく笑みを浮かべながら横顔を向ける姿はまるで紫薇の兄貴分のようだった。

 「今迄どこをほっつき歩いていた…」

 しかし紫薇は何度も店を訪れたが、その度に外れを引かされたことを思い出し、牙を剥いた。

 「おめえな、ちったあマシな言葉を寄越せよ。これでも助けに来てやったんだぜ」

 「知るか。俺の時間を返せ、歩く公害が」

 赤縞でもその言葉には驚愕した。

 「んとに可愛げがねえ砂利だな…。だがまあ、前よりかは良い面構えになったじゃねえか。妖精になって箔でも付いたか?」

 紫薇はその言葉を聞いてウェルディを睨み付けた。

 「そう睨むなよ。別にお前が妖精だった、なんて知ってた訳じゃねえんだからな。…にしてもよお」

 ひたすらに声を上げて腕に纏わり着いた火を消そうともがいているレヴィスに目をやった。

 「うるせえんだよ、おめえ…」

 ウェルディの手が差し出され、ぐっと拳を握るとそれに従ってレヴィスを焦がしていた炎が体中に広がり指の形になると、手の動きに合わせて凝縮していった。すると甘く、焦げた臭いが辺りに広がった。

 「砂利がハッパに手え出しやがって…。それを煽ったあの馬鹿もそうだが、詰めるモン詰めさせねえと示し付かねえぞ」

 仄かに額に刺さっていたウェルディの妖精のかけらが光った。

 「落とし前つけろや」

 脅しにも似た気迫を凄ませると部屋の隅が急に燃え出し、その火が線となって部屋の輪郭を覆っていった。そうして火は部屋全体を焦がしながら徐々に侵食を始め、暴走していた形而上の空間を消滅させていった。

 「形而上の存在に干渉しているのか…どうやって…」

 その答えは妖精のかけらだった。火の燃え盛りを表わすようにウェルディの妖精のかけらがぎらぎらと照っている。部屋はもう半分ほどもとの待合室に戻っていき、赤縞と紫薇を塗らしていたシロップの湖は蒸発していった。

 ウェルディが動いた。ゆっくりと宙を歩き、残った水面の上を伝いながら巨人となったレヴィスに近付いて目の前で立ち止まると、右手を唸らせた。手に火が点り、煙草をすうっと吸って息を止めるとその火の手を巨人の体の中に貫かせ、その中で何かを掴むと勢い良く引きずり出した。それは小さな、本当に幼い腕だった。その先にプランジェとそう変わらない年頃の少女が巨人の中から引きずり出され、全体像が現れると部屋は完全にもとの部屋に戻っていた。

 「これが現会長の正体って訳かい…」

 鼻の穴から煙を噴き出しながらレヴィスを床に寝かせた。

 床に転がったカラフルな飴を見付けるとウェルディは指で摘み、ぐしゃりと手で握り潰した。

 「砂利を自分好みに弄繰り回すのがお前の性癖か?」

 その視線は赤縞と紫薇に向けられた。だが実際はもっと先、二人の後ろにいつの間にか立っていたリカリスに向いていた。

 「それも偶には一興かもしれませんね。でも僕はどちらかというと年上が好みでして」

 「こいつの母親みたいな女って訳か?」

 「…まさか」

 一瞬、リカリスの目が強張ったような気がしたと紫薇は思った。そしてあのとき、レヴィスの精神の根底に見え隠れした女の姿が脳裏を過ぎった。それは三十代位の女だった。きりっとした顔立ちながら、その目にどこか妖艶な光があった。きっとレヴィスが育てば似たような顔になるのかもしれなかった。

 「兎に角だ、もうこれ以上この砂利に薬を与えるのを止めろ。んでもって会長の役職なんざ他の奴にやっちめえ。ってかお前がやりゃ良い話だろうが」

 「理事会が僕を推薦するのであれば今すぐにでも。まあ、どう転がってもそんな話は出ないでしょうけどね。それに…」

 リカリスはウェルディの傍を通り過ぎると、倒れていたレヴィスの体を持ち上げた。優しく、というよりまるで壊れ物を取り扱うように慎重過ぎる面持ちだった。

 「これは彼女が望んだ結果です。仮に僕が導いたとしても、この道を選んだのはレヴィス・グリエール・ラムナス本人だ」

 ウェルディとリカリスの視線がぶつかり合い、数秒の沈黙が流れると先に視線を逸らしたのはウェルディだった。その意味を理解するとリカリスは静かに笑い、部屋の扉に向かった。

 「お帰りの際は正面からで結構ですよ。レミアの鍵を使った方が早いでしょうがね。それでは紫薇君、またいずれ…」

 そういってリカリスは待合室から出ていった。

 「…どうして止めてやらなかった?」

 全員の代弁のように紫薇が口火を切った。

 「どんな事情であれ、本人が決めたことに口は出せねえだろ。あんなになってまでも今の役職を続ける。それだけの理由があるんだろうよ、奴さんにはな。世知辛い世の中だがな」

 残った煙草を飲み下すように吸うと吸殻を指で弾いて捨てた。

 「さて…これからどうするか。お前、俺に聞きたいことでもあんじゃねえのか?」

 紫薇は改めてウェルディを前にすると、何を聞き出したら良いのかわからくなっていた。それに全身に出来た傷が疼いて上手く考えることが出来なかった。

 「まずは傷の手当てをしてやらにゃあな。…どっか呑みに行くか」

 「いや、それなら適当な場所がある」

 「お!お前も終に酒の味が…」

 「違う、あの馬鹿の城だ」

 そういうと赤縞は小さな声で舌打ちした。

 「…城?」

 訳がわからないといった顔をして首を捻った。



 銀色の髪の毛が揺れている。少し癖のある髪質だがとても滑らかだった。希少価値の高いプラチナブロンドが六つ、そしてもう一つあった。ぴんと伸びたまつ毛まで光り、くっきりとした目の色も髪の毛と同じ色彩だった。端正な顔立ちは完全な黄金率によって配置され、唇はややふっくらしていた。

 クレシェントはそんな自分の髪の毛と目が好きだった。カラーリングや毛染めでない自然な色合いがまた周りから持てはやされる。顔の黄金比を気にしたことはなかったが、言い寄ってくる男がいれば好きになるものだ。やっと少しずつ自分のことを好きになれた矢先に、その自信を崩された瞬間だった。

 「さあみんな、お姉さんに自己紹介をしよう」

 そういうとクレシェントと同じ顔をした少女たちは一列に並んでお辞儀をした。挨拶は右から、黄色いドレスを着たクレシェントから始まった。続いて緑、橙、桃、青、赤のそれぞれ同じ声質で同じように話した。

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・バルビエーラ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・ナシュタウーグ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・ミーヴェルーア」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・リブリーン」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・セフェトリーリ」

 「初めましてお姉様、私はクレシェント・オストウィール」

 六人のクレシェントは挨拶をし終わると、全員が同時に裾を捲って挨拶をした。クレシェントはその光景に眩暈がしそうだった。思わず足がよろけてしまう。

 「初めましてお姉様、君はクレシェント・テテノワール」

 最後にアークディンクがクレシェントの名前を呼んだところで、今ここに七人のクレシェントが出揃った。

 「貴女たちは一体…」口を震わせながらいった。

 「何を恐れることがあるのかね?この子たちは君の姉妹だ。君と同じ血肉で作られ、君と同じ父親がいる。培養液によって生み出されたから腹を痛めた母親はいないが…どうだい?感慨深いものがあるだろう」

 クレシェントは無意識に剣を具現化させていた。あってはならないものが目の前で起こっている。それは生物としての本能なのか、それとも自分と同じ顔を見て生理的に受け付けなかったのかはわからないが、クレシェントにとって姉妹との邂逅は喜ぶべきものではなかった。

 「お姉様、どうしてそんな危ないものを私たちに向けるの?」

 自分と同じ声が囁いている。

 「私たちのこと、嫌いなの?」

 違う、そうじゃない。

 「きっとお姉様は私たちと遊びたいのよ」

 そんなつもりなんてない。

 「私、お姉様と一緒におままごとしたい」

 そんな目で私を見ないで。

 「あ、私も。じゃあお部屋からお人形を取って来ないと。一緒に行きましょう、お姉様」

 お願い、来ないで。

 「どっちが先にお部屋に着けるか競争ね、お姉様」

 もう、耐えられない。

 何かがはち切れたようにクレシェントは狂った声を上げながら走り出した。プランジェの声も届かない。既にクレシェントの目は真っ赤に染まっていた。六人のクレシェントの目の前に到達すると、一人のクレシェントは腕を振り上げた。

 しかしそこに待っていたのは完全に無防備を晒したクレシェントたちだった。六人のクレシェントは叫び声を上げるどころか、自ら進んでクレシェントに近付き、両腕を差し出して宛ら抱っこをねだる子供のような素振りをした。途端、クレシェントの腕が止まった。振り上げた腕が何度も痙攣する。これだけ殺気を飛ばしているのに六人のクレシェントはじっとクレシェントを見上げたまま、純粋無垢な顔をした。

 「…お姉様」

 黄色いドレスを着たクレシェントが黒いドレスを着たクレシェントに縋ると他のクレシェントも続いて足や腕に抱き付いた。

 「お痛しないで、お姉様」

 「良い子にするから」

 「お姉様、どこか痛いの?」

 「嫌いになっちゃやだ」

 「お姉様の体、あったかい」

 いつの間にかクレシェントの体を大粒の汗が伝っていた。このまま少しでも腕を振るえば彼女たちの首は簡単に吹き飛んでしまうだろう。だがどう足掻いても出来なかった。六人のクレシェントの髪が、目が、声が、匂いが自分と同じなのだ。目がもとの銀色に戻っても体は固まったままだった。

 その光景を見通していたかのようにアークディンクは仮面越しに笑った。

 「クレシェント様…」

 プランジェはどうして良いのかわからなかった。余りにも異様な光景が広がっている。ただその事実を眺めていることしか出来なかった。だがそれもある人物の登場によって今度はプランジェが混乱することになってしまう。

 「あっ!帰って来た!」

 ふと急に体に抱き着いていたクレシェントたちが離れていった。ふらりと腰が砕けたようにクレシェントはその場に尻餅を着いた。妙な呼吸をしながら脂汗を出す。目は銀色になったり真紅になったりしていた。

 「遅いーっ!」

 「私たちお腹ぺこぺこー!」

 「私も!」

 クレシェントは床を眺めながら見知った匂いが鼻をくすぐるのを感じた。途端、ぐっと胸が掴まれたような気持ちになる。それはプランジェも同じだった。

 「遅くなってご免なさい」

 クレシェントとプランジェの視線がその人物に向けられる。そこにはかつて生活を共にした女が立っていた。クローシュを被り、長い髪を肩から前に流している。きっちりとした服装、黒い薔薇が描かれたブラウスにコクーン状のスカート、それらがその女性の性格を表わしていた。

 「ミューティ…」

 その言葉の後にプランジェが声を張り上げた。

 「姉さん!」

 突飛な出来事にプランジェは喜んで良いのか驚いたら良いのかわからなかった。ただ以前と変わらない、落ち着いた雰囲気がある姉の姿を見詰めているだけで、その場から動けなかった。

 「久し振りね、プランジェ。元気にしてるかしら?」

 そんなプランジェにミューティは嗜めるようにゆっくりと言葉をかけ、抱き付いている六人のクレシェントたちの頭を撫でた。

 「ど、どうして姉さんがそんな連中と…」

 「彼女はこの子達の世話役として働いて貰っているのだよ。子供たちも良く懐いてくれている。理想的にね」

 「世話役だと?」

 「そうだ。ま、雇い主は私じゃないがね」

 「なら一体誰が…」

 「決まっているだろう。この子たちと、そしてテテノワール…君の父上だ」

 「…セレスティン」

 設問を差し出されたようにクレシェントはその名前を口にした。

 「彼は私の友人でね。少しの間この子たちを預かっているのさ」

 「貴様、一体何を考えている!?」

 素早くナイフを具現化させ、刃先をアークディンクに向けた。

 「プランジェ、貴女いつからそんなはしたない子になったの?」

 「何を言っているんだ姉さん!この男は…」

 「その人は私の雇い主のご友人、無礼な真似は慎みなさい」

 姉の威厳が妹であるプランジェに圧しかかる。するとプランジェは否応にもナイフを下げてしまった。しかしその威光を振り払い、萎んでいた気力を復活させると再び声を張り上げた。

 「私はクレシェント様の従者だ!主に危害が及ぼうものなら身を持って挺する!姉さんだってその一人でしょう!?」

 「…そうね、私もその一人だった。でも今は違う、私がクレシェント・テテノワールに抱いているものは深い恨み…そして壊乱の魔姫を討たんとする復讐の権化、それが今の私なのよ」

 クレシェントの脳裏にかつてミューティに浴びせられた言葉が過ぎる。雨だというのに傘の一つも持たずに出ていった彼女の後姿が今でもはっきりと覚えていた。

 「プランジェ、あの人は私たちにとって仇なのよ?貴女それを忘れて?」

 「確かにそうだ…だがそれはクレシェント様が望んでしたことじゃない!そう、全てはデラの…いや、セレスティンの陰謀だったんだ!奴の下で働いているのなら知っている筈でしょう!」

 「それが本当でも、その手を血に染めたのには変わりないわ。それに幾ら事故とはいえ犠牲になった私の心境はどうなるの?貴女だって少なからず怨みがあったんじゃないかしら?」

 「それは…」

 心の中でプランジェは一歩引いてしまった。

 「プランジェ、どんな事情があったにせよ、彼女が人を殺してしまったのは事実。そしてそれは今も続いている。絵画で有名なエネミスクリアを殺害したのは誰だったかしら?」

 「おやおや、惨殺されたと聞きましたが、まさか君が犯人だったとは。また芸術界の花が一つ散ってしまった。まだお若いのに残念なことです」

 わざとらしく、第三者として当然の言葉を浴びせた。

 「……………………」

 口の中に鉄の味が蘇るようだった。まだ、自分は人殺しを止められていないのだとクレシェントは改めて思い知らされた。

 「罪を犯した人間は必ずその罰を受けなければならない。私のやろうとしていることが復讐だとしても、その体裁がある限り美談として昇華される。相手はあの第ゼルア級犯罪者、どう転んでも世論は私に味方するわ」

 「なら道徳はどうなる?私は…そんな姉さんを見たくない!」

 「道徳は飽くまで人の規範、戒律でもなければ義務でもない」

 「その通り、道徳も人によって区々だ。君は言ったね?人の数ほど思想があると。少し話はずれるが我々にとって何が善で何が悪か、これは誰にも区別することが出来ない。時代、センス、流行…様々な因子によって規範は形を変える」

 指を一つずつ動かしながら語り、最後には指をゆらゆらと動かした。

 「では相対的な規範はあり、絶対的な規範はないのか?実は一つだけある。それは人の意思だ。信念といっても良い。その規範は厄介極まりない。誰が何といおうと、何がどう変わろうとその規範は平行線を辿ったまま。その先が破滅でも浄化でもお構いなしだ。わかるかね?彼女の規範は今、自らの怨念を晴らそうとすることが絶対的な善となってしまっている。さあ、そんな彼女に君は何と声をかける?」

 「私を止めても構わないわ、プランジェ。でもその代わり貴女が壊乱の魔姫を殺すのよ。少なくとも私と貴女にはその義務と権利があるのだから」

 プランジェの視線がクレシェントに向けられる。と同時に薄れつつあった赤ん坊だった頃の記憶がプランジェに囁いた。

 人々の死塁を踏み付けながらのっそりと現れる赤い目。口元には人肉がぶら下がり、手は脂でてらてら赤く光っていた。その人ともいえぬそれが大きく声を出す。その叫びは、そう、その叫びは自らの罪を罰してくれと訴えているようだった。

 「…違う」

 その予想に反した言葉にアークディンクは目を細めた。

 「あの雄叫びは…乞いだった。本当は叫んでいたんじゃない、泣いていたんだ。自分の罪に、愚かさに」

 クレシェントはいつの間にか泣いていた。あの時と同じように。

 「姉さん、貴女の気持ち…今になってやっとわかったよ。でもそれは駄目だ。だってクレシェント様は、一度だってその罪の意識から逃げたことがないんだもの」

 嗚咽を漏らしながら、クレシェントはプランジェに頭を下げた。それで自分の罪が消える訳ではない。それでもクレシェントは頭を下げずにはいられなかった。

 「だから、私はこの人を許すよ。いつまで憎んでいたって、父さんや母さんが帰って来る訳じゃないから。姉さん…貴女だって本当はわかっている筈だ」

 ミューティはプランジェの話を聞きながらずっと唇を噛んでいた。彼女もまた思うところがあったのだろう。

 「確かに罪人は裁かれて当然かもしれない。でもその前に、当の本人が罪を悔い改めなければ何も解決しないじゃないか。ただ悲しみが渦巻くだけ、誰も救えやしないんだ。私も、姉さんも…そしてこの人も」

 それは被害者からの正当な言い分だった。そこには検事も裁判員も近付けない、真っ当な告白。それは誰の目から見ても純粋な人としての意思を感じさせた。

 「素晴らしい独白だ。正に道徳と理に適った理想形。いや、完璧だよ。…しかし些か現実味に欠ける」

 その理想を突き崩すように魔の手が忍び寄り始めた。いつしか匿名の仮面は白い、鱗が散りばめられた仮面に変わっていた。まるでその仮面は蛇を模したようだった。

 「果たしてその思想、どれ程の人間が賛同するか…人間ってのはね、そう簡単に割り切れないから面白い。言ってみりゃ意固地で間抜けなのさ」

 仮面が変わって人柄までも豹変したような口調だった。

 「だから釣り甲斐があるし、からかい易い。ミューティ、理想に囚われる必要はないよ。人間は理想的でない方が美しい。君の御霊はまだ汚れたままだ、そーだろう?」

 「…当然よ」

 そういいながらも同様は隠し切れていなかった。

 「(そろそろ助け舟を出してやらなきゃ駄目か…人間ってのは面倒な生き物だよ)」

 アークディンクは仮面の本質を演じていたが、本心でもそう思っていた。

 「さて同士諸君、ここらで締めといこうではないか」

 白蛇の仮面が今度は男の顔の型を取ったような仮面に成り代わった。物言いも強気になった。その面は、誰も気付いていなかったが、かつて競争のアレイドと呼ばれた人物の肉面だった。

 「お互い相容れぬ以上、どちらが正しいか決めねばなるまい。誰の意思が最も強いか、精神の鉄血を以っていざ戦おうではないか!我らは響詩者、自らの意思と概念を競う存在なのだ!」

 四人の視線が絡み合う。罪と罰、理想と現実。それらが交錯し、正当性を奪い合う。そんな小さな戦争を、六人のクレシェントはまるで観客のようにひっそりと眺めていた。



 ポットに入ったお湯がかたかたと音を立て、口から熱い煙を吹くとウェルディは慣れた手付きでドリップ式のコーヒーを淹れ始めた。挽いた豆がじわりとお湯を吸うと部屋いっぱいに香ばしい匂いが広がる。その匂いを確かめながらウェルディは静かにコーヒーを注いだ。

 「ほらよ、出来たぜ。水が良いんだろうな、香りがいつもより円やかになってらあ」

 そういって赤縞と紫薇の前にマグカップを置いた。

 二人はそれぞれ傷の手当てをしていたが、適当なところで作業を止めると痛みを我慢しながら手を伸ばした。手当てはクレシェントの城にあった薬草や香草を使って治療していた。

 「しかしまあ、体を壊すのも治すのも手慣れてきたもんだな。風穴が空いてんのに手療治で平気なのかよ?」

 「妖精の体になってから怪我や損傷が勝手に復元されるようになった。止血や消毒だけで十分だ」

 「俺もだ。鬼の血は何かと便利でよ、下手に兜や鎧を着るより生身の方が頑丈だ。体を鎮めりゃ傷の治りが早えしな」

 しかしそうはいっても痛覚はしっかりしていて、二人はコーヒーを啜ると傷の痛みに喘いだ。

 「二人揃って意固地なのには変わりねえな、突っ張りども」

 目を閉じながら高く笑った。

 「しかしお前が妖精だったとはね…あのときに言ったことが本当になっちまっただろ?」

 紫薇はその言葉を聞いて口を紡いだ。

 「まあ、なっちまったもんはしょうがねえ。上手いことその力を使いな」

 「…ああ」

 頷きながらも紫薇は心の中では否定してしまっていた。

 「そんなことよりも今迄どこに行っていた?奴が…デラが殺されてからあんたも煙みたいに消えていたな」

 静かに、そして問い詰めるようにぐっと間を詰めていった。

 「…仇を討とうとしていたのか?」

 しかし紫薇の予想に反してウェルディは鼻で笑うと懐から巻き煙草を取り出し、話しながら煙草を巻いた。

 「俺は仇討ちなんて面倒なことはしねえよ。静かに見送るだけだ」

 その言葉に何かしら反感があるのか赤縞はウェルディを一瞥した。

 二人の視線が合うとウェルディは出来たばかりの煙草を勧めたが、赤縞はそっぽを向いたように視線を外した。

 「無愛想な性格通り、冷てえ野郎だな。それともあのゼルアに臆病風でも吹かれたかよ?」

 「そりゃあ、現時点でゼルアは俺より強えからな」

 赤縞が半ば冗談でいったつもりだった為に紫薇が受けた衝撃は大きかった。

 固まった紫薇を置いてウェルディは煙草を咥え、火を点けた。

 「デラが本性と、妖精のかけらを使ってまでも殺せなかったんだ。他のゼルア級がどんなもんだか知らねえが、単純な闘争でいったらゼルアに敵う奴ぁいねえ。メディストアでもどうだろうな」

 乾燥した煙草が音を立て、その煙の向こう側に赤縞の顔が映った。

 「奴はその腹ん中に三人の超越者を取り込んだだけじゃなく、妖精のかけらを持ってる。その存在量がどれほどのもんかわかったもんじゃねえ」

 「そこまでの力を持って肉体が持つのか?」

 「奴はもう理の存在なのさ。死を司り、破壊と混沌の守護者だったものに襲われた際、逆にそいつを取り込んだらしい」

 そしてその片鱗が赤縞に引き継がれてしまっている。紫薇は赤縞の顔を確かめたが、赤縞は至って平然としていた。

 「いずれあんたも狙われるのか?」

 「俺が奴を殺せる程の実力を身に着けたらな。ゼルアの恐ろしいところは、その超越力じゃなく飽くなき力の渇望にある。ぎりぎりのとこまで自分を追い詰め、その窮地を脱する。以前ゼルアと戦って異界に封じることが出来たのも、その性格に依るところが大きかった」

 「…そんな奴を相手に勝算はあるのか?」

 紫薇は今になってやっとあのデラを滅ぼした存在の力を思い知らされた。そして赤縞への配慮を忘れてそんなことを口にしてしまっていた。

 「もうちっとってところだな。直に妖精のかけらが完全に支配できるようになる。そうすりゃ打率四割は固い。あとは俺の気力と根性次第だ」

 自分の命運に関することにしてもウェルディは大らかだった。そんな彼を見て紫薇の理解の範疇はとうの昔に消え去っていた。呆れているといっても良い。

 「…あんたの妖精のかけらは何を超越する?レヴィスの転換された形而上物を反したからには同じような力なんだろう?」

 「性質は似てるが別のもんだ。まあ、そんなことよりよ。ちょいとお前に伝えてやらなきゃならんことがある。今お前らが置かれている立場だ」

 「立場だと?」

 「ああ、この話はクレシェントのお嬢ちゃんにも聞いて貰いてえんだが…」

 話の区切りを付けるように城のドアが開かれる音がした。そしてクレシェントとプランジェがやって来ると面食らったような顔をした。

 「こりゃまた都合の良いこったな」

 「…店長さん」

 反射的にプランジェがクレシェントの前に立って威嚇した。普段よりも気が立っているようだった。

 「何だよ?別に噛み付いたりしやしないよ」

 「…………………」

 じっとウェルディの目を睨んでいたが、半笑いする彼の顔を見るとやがてプランジェは警戒を解き、台所に向かっていった。

 その仕草を見て紫薇はおやと思い、クレシェントに視線を向けると彼女は黙って視線を下げた。

 「どしたい?何かあったか?」

 「いえ、何でもないんです。ただちょっと疲れちゃって…あ、コーヒーあるんですね。頂いても良いですか?」

 「ああ、まだ挽いた豆がそっちに残ってる。飲みな」

 そういうとクレシェントは軽く頭を下げて台所に向かおうとしたときだった。

 「(あとで何があったのか聞かせろ)」

 矢庭に紫薇の声が頭の中に響き、クレシェントは慌てて彼の顔を見たが一睨みされると、すごすごと台所に向かった。

 黒いマグカップを机に置いてクレシェントは椅子に座った。プランジェは傍に寄ろうともせず台所でじっと立ったまま自分のコーヒーを見詰めていた。

 「さて…と、ちょいと妙な空気だが話を始めんぞ」

 そういうと一同の目がウェルディに集まった。

 「まずことの経緯を説明する前に俺がどこで何をしていたかを話してやらなきゃな。あの日、デラが死んだことを知った俺はゼルアを探し回った。野郎を殺せる人間なんてそういねえからな。そして俺はある場所でゼルアを見付け出したんだ。奴は今…妖精教祖の傍にいる」

 「フォルコットと一緒だと?何故だ?」

 「かつてデラが企んでいた、招かれざる扉を開こうとする為だ」

 「そんな…まだあれを…」

 「もとはと言えばデラがお前を女王に仕立て上げようとしたのもフォルコットの野郎に唆されたのが始まりだったからな。そのフォルコットに賛同し、面を連ねる奴はゼルアだけじゃなかった。お前の産みの親であるセレスティンもその一人なんだよ。デラはそいつを経由してお前を手に入れたって訳だ」

 「デラ…」

 手を重ねて力を強める。今も目を瞑れば優しかったデラの顔が思い浮かぶようだった。

 「他にも妙な面を着けた野郎や最近になって頭角を現してきたキジュベドもいやがった」

 その人物に心当たりがあるのかクレシェントと紫薇は目を細めた。

 「そんな奴らを目の当たりにして良く生きて帰って来れたな、おっさん」

 「当たりめえだろ?誰に向かってもの言ってんだ」

 態度が横柄な者同士気が合ったのか赤縞とウェルディは笑い合った。

 「兎角その一癖も二癖ある連中がこれからどう出るかはわからねえ。だが仮に俺がお前らのお守りをしてやったとしても、全員に娑婆の空気を吸わせてやれるか自信はねえ。それだけ今のお前らは危ねえ状態だってことを肝に命じて置け」

 全員が生唾を飲んだ。時に恐怖さえ感じるほどの年配者からの忠告は重みのある言葉だった。

 「リカリスの野郎に何を吹き込まれてるのかは知らねえが、あんまりこっちの世界に来るんじゃねえぞ。取り敢えず向こうのシマに居りゃ安全なんだからな」

 「俺は初めからそのつもりだったがな」

 横目でクレシェントを見ながら紫薇がそういうと、クレシェントはむっとした顔をした。

 「安全ね…ま、一応やることはやったんだ。そろそろ向こうに帰っても良いんじゃねえか?それに…蓬莱寺の先公が言ってたんだが、俺らの出席日数に立直かかってるらしいからよ」

 「…そうだな」

 紫薇は冷や汗を垂らしながら頷いた。

 「この突っ張りどもが、しっかり勉強しろよ。間違ってもヤクザと板前にはなるんじゃねえぞ。わかったな?」

 「ヤクザみてえな口の利き方の奴に言われてもよ…」

 首を捻りながらコーヒーを啜った。

 「…まずは戻るぞ。ソフィの合い鍵がどこまで保てるか知らないが、さっさとした方が良さそうだ」

 宙に先っぽのない鍵を差し出して白い扉を開けた。

 「あんたはどうするんだ?」

 「俺はもう少しこっちに残る。ぶっ壊れたデラの城の様子を見てみたいしな」

 「…ランドリアやライプスも死んだと思うか?」

 「さあな、ずっと音沙汰はねえ。せめて二人だけでも生きていて欲しいもんだが…」

 紫薇にもあのランドリアが死んだとは信じられなかった。だが本当にデラが殺されたとなると、そう思うしかなかったのかもしれない。それ以上誰かが口を開くことはなく、一向は黙って扉を潜り抜けていった。


 一行がもとの世界に戻ると時刻は夜の十一時を回っていた。紫薇が家の庭に戻って来てほっとしたのも束の間、プランジェは我先に家の中に入っていった。

 「…どうかしたのか?あの餓鬼」

 思わず赤縞が聞いてしまうほどプランジェの様子はそっけのないものだった。クレシェントは困った顔をして誤魔化した。

 「何があったのか知らねえが、後保護は任せたぜ。俺も帰って寝らァ。絵導、また明日な」

 そういって赤縞は斧を風呂敷に包むと一人で帰っていった。

 「さて…夜も遅い、送ってやる」

 「…うん」

 クレシェントと紫薇は家に入らずに庭先を出て歩き出していった。いつの間にか冷たい冬はもうそこまでやって来ていて口から出る吐息が白く霞んだ。

 紫薇は歩きながら寒さに打たれ、ぶるぶると体を震わせた。

 「寒いの苦手なのね」

 その様子が可笑しかったのかクレシェントは笑った。

 「…プランジェがあの様子だと、余程のことがあったらしいな」

 「ええ、あの子にとってとても辛いことだった。私にも…」

 今にも泣き出しそうなほどクレシェントの表情は悲痛に満ちていた。

 それからクレシェントが口を開いたのはだいぶ歩いてからだった。あのときのこともあって気不味かったからかもしれない。紫薇は途中で自販機であたたかい飲み物を買い、交差点の陸橋の上でそれを飲み干した後、やっとことの真相を聞き出した。行き交う車は途切れ途切れにその橋を通り過ぎていた。

 「…そうか、実の姉とぶつかることになればああなるのも無理はないな」

 空になった空き缶を手すりに置いて紫薇は息を吐いた。

 「プランジェは私を庇ってくれたけど、自分の中で気持ちの整理が付かないんだと思う。今はそっとしてあげて…」

 クレシェントは封を開けずにポケットの中で手を温めていた。

 「お前もお前で、自分と同じ顔の子供を六人も見ればそのしょぼくれた顔も頷ける。難儀なものだよな」

 そういわれてクレシェントは陸橋の上から車数の少ない車道を見詰めた。

 「…まだ何もわからないままだ。俺のことも、お前のことも…これから何が起こるのかも…」

 紫薇は手すりに背中を凭れ、夜空を見上げた。月や星のない真っ暗な空はまるでこれから先の自分たちの未来を描いているようだった。だがその中で一つだけ静かに光を照らす北極星を見付けると、紫薇は小さく笑った。

 その笑い声を聞くとクレシェントは不思議そうに視線を紫薇に向けた。

 「だがそんな中でも俺たちは足掻くしかないのさ、最後までな。そうでもしなきゃ死んでいった人間に会わせる顔がない。お前だってそうだろう?身を挺してまでお前を生かしてくれた人間がいた筈だ」

 クレシェントはデラやランドリア、ライプスの顔を思い出すと、ポケットの中に入れていた手をぎゅっと握った。

 「だから諦めるなよ、どんなに辛いことがあってもそれを乗り越えるしかない。苦しくても生きろ、裁きなんて生き地獄だけで十分だ。お前が本当にそう思うのなら、奴の恨みを受け止めろ。死ぬことなんてただの甘えなんだからな」

 紫薇はそれだけ伝えると、空き缶を手に取ってクレシェントに背中を向けた。

 「ありがとう、紫薇…」

 クレシェントは紫薇の姿が見えなくなると小さく呟いた。そしてもう一度陸橋の上から車道を見詰め、滲んでいた涙を拭いて歩き出していった。

 別々の道を歩きながらも二人は街灯の光に包まれていた。しかしその陸橋の下、光の当たらない闇の中でオレンジ色の光がぽつりと点った。次いで苦い煙が渦を巻いて立ち上る。その煙を掻き分けるようにして青いローブを羽織った男が現れた。

 「いや、貴方に来て頂いて助かりました。妖精のかけらを持たない僕ではああなった彼女を止められませんからね」

 「なんでマルテアリスの砂利を呼ばなかった?」

 「いつもは兄さんにお願いしていたのですが、どうも因縁があるようで断られてしまったんですよ。それで貴方に依頼した、という訳です。ご安心下さい、僕と貴方の関係は誰も知りませんから。その為にわざわざこちらの世界で顔を合わせているのでしょう?」

 「…ナーガの創造主ってのは便利な野郎だな。向こうで何を隠しててもがさ入れされちまう。文字通り奴の箱庭って訳か」

 「ええ、ですがそんな方だからこそ後ろ盾には最適です。しかし聊か彼は怠慢過ぎる。本当にルヴェゼンデーアに陶酔しているのか疑問にも思える。まあ、そんなことはどうでも良いんですけどね」

 「死んだ女のケツを追っかけられればそれで良いか?」

 「死人に興味はありません。もうあのときの情熱は今の僕にはない。あるのは小さな目標だけ、ただそれだけですよ。その為には色んな人間を利用させて頂かないと…。かのゼルアと同じ野心を秘めている貴方と同じですよ、ウェルディ…」

 再び闇の中にオレンジ色の光が点ると、その背後にぼうっと男の顔が浮かび上がる。獲物に飢えた底なしの獣と同じ目をしたウェルディの顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る