72話 空からバスタブが落ちてきた

 翌日になって紫薇はベッドの上で目が覚めた。うつ伏せになったまま眠っていたらしく、胸が少し苦しかった。体を巡っていた麻薬の毒はすっかり抜け、指先から爪先まではっきりと感じることが出来る。だが何故か紫薇はベッドから起き上がれなかった。ただじっと枕の上に頭を乗せたまま部屋の片隅を眺めている。壁の角には小さな虫がちょろちょろ動いていた。

 紫薇がナーガにもあんな小さな虫なんているのだな、なんて思っていると扉をノックする音がした。やや力が強いところを見ると赤縞だろう。紫薇は重たい体をどうにか起こし、扉を開けた。

 「いつまで寝てんだよ、おめえは」

 外で走ってでもいたのか、赤縞は額から汗を流していた。

 「もう俺が受けた仕事は終わったんだ。ゆっくり休んでても誰も文句は言わないだろう。お前を除けばな」

 「ものには限度ってもんがあんだよ。もう昼飯どきだ、さっさと降りて来い。俺は腹が減ってんだ」

 そういうと赤縞はばたんとドアを閉めて一階に降りていった。

 「本当に野良犬の生まれ変わりか何かじゃないだろうな…」

 仕方なしに紫薇はドアを開けて一階に降りていった。その途中、何気なく上の階を見たが、そこにクレシェントの姿はなかった。ただ青空がガラスを通して映っている。雲一つない晴れ晴れとした空だった。

 一階に降りてみると、右手の方から水を何度も流す音が聞こえた。どうやらトイレの前が浴室になっているらしかった。ドアの隙間から湯気が立ち上っている。

 「…どういう作りなんだ?」

 その様子に困惑しながら紫薇は左手にある台所に向かった。

 台所はリビングと併用してあってやや狭かった。そこにもクレシェントの姿はおろかプランジェの姿も見当たらなかった。そういえば二人一緒に出かけることになったので訪れる場所も二つに増えたと思い出すと、紫薇は椅子に座って体を休めた。

 その内に風呂から上がった赤縞が頭をタオルで拭きながらやって来た。

 「ったく、やっと起きやがったか。熱湯でもぶっかけてやろうかと思ったぜ」

 「…お湯が出るのか?」

 「ん?ああ、良い湯加減だった。木の中に湯船があるなんて粋じゃねえか。後でお前も入って来たらどうだ?」

 「いや、遠慮する。風呂は嫌いだ」

 「…汚ったねえ」

 「放っとけ」

 赤縞は髪の毛を拭き終わるとタオルを頭に巻いた。

 「さーて、飯にすっか」

 台所に向かって赤縞は食事の支度を始めた。火打石で火を起こして鍋を温め始め、布巾が被っていたバスケットから二人分の丸いパンの様なものを取って皿に並べた。戸棚の引き出しを開けると葉物の野菜が丸ごと入っていて、その中の何枚かを千切って洗い、慣れた手付きで盛り付けしていった。戸棚の中に水と土が張ってあって、それ自体が天然の貯蔵庫のようになっていた。

 「二人はどうした?」

 「出かけたぜ。俺に台所の使い方を教えた後にな。ノーティカ地方に行って来るとよ。帰りは遅くなるかもしれないって言ってたっけな」

 「…そうか」

 昨日のこともあって紫薇はクレシェントと顔を合わせなくて正解だったと思った。

 それから赤縞はクレシェントが狩猟してきた鳥の燻製したものをスライスし、この世界特有のハーブとスパイスを散らした。そうして黄金色のスープに見たこともない形の青物が入ったサラダ、合鴨に似た鳥の燻製にふっくらしたパンに似た食べ物がテーブルに並べられた。

 「やっぱ米がねえと駄目だな、美味えもんは美味えけどよ」

 料理を一通り食べ終わった後に赤縞は愚痴をいった。

 赤縞は小さい頃から仁衛門に炊事や洗濯、掃除をきちんと一人で出来るように訓練されたといっていた。紫薇が自分では何もしないというと、赤縞は情けないと思いっ切り突っぱねた。

 「あー食った食った。んで絵導よ、ロメルニアの王女は虹拱結社と繋がってそうだったか?」

 「…繋がり、というよりも既に利用されているのかもしれない。もし結社が妖精の御旗を掲げれば、あの王女は憑り付かれたように従うだろうな。どれだけの人数が本気で妖精を信じているかわからないが、もしそうなれば戦局は引っ繰り返る可能性が高い」

 「そうなったらお前が表に出ていきゃ済む話じゃねえか。仮にもお前は妖精だろ?首に鳩のプラカードでもぶら下げりゃ誰もが歌って踊りだすんじゃねえか?」

 「そうしたいのは山々だが…奴らが首っ丈なのは別の妖精だ。翅の色はは同じらしいが、どうやらその姿かたちがまるで違っていた。逆に俺が現れれば、戦争が無秩序になる」

 「妖精が二匹だなんて聞いてねえぞ」

 「…俺もだ。だがロメルニアの王女から聞かされた。我々の崇拝している妖精とは別物だとな。兎に角、事の真相をあの間男から問い質す必要がある。奴がどこまで知っているのか鎌をかけてやる」

 「んじゃセルグネッドに行くのか?」

 「ああ、都合の良いことにソフィの合い鍵はまだ消滅していないからな」

 「奴さんが素直に話してくれるかよ?」

 「こっちの報告の序でだ。それに…気になることもある」

 紫薇は昨夜のことをなるべく思い出さないように重要な部分だけ捻り出した。

 「(…まるであの言い方はクレシェントがノーティカ地方に来ないと都合が悪いと言わんばかりだった。…間男、何を考えている?)」

 紫薇は裏で暗躍するリカリスに対して強い怒りを抱いていた。



 葉巻の匂いがつんとすると、ジブラルは目を覚ました。椅子の上で眠ってしまっていたらしく、シュガシスの上着がかけられていた。その上着にもまた焦げた葉っぱの臭いがついていて、ジブラルは思わず顔を背けてしまった。

 「臭いだけで病気になりそうね…」

 部屋にはシュガシスの姿は見当たらなかった。ジブラルは上着を椅子に置いて軽い柔軟運動をした。そして肌で現在の時間を感じ取った。どうやら朝になったばかりのようだった。

 「さて…メディストアのところに顔を見せに行こうかしら」

 レミアの鍵を取り出そうとした最中、部屋の扉が開いてシュガシスがやって来た。

 「帰るのか…朝飯くらい食っていったらどうだ?」

 両手に携帯用の軍用食を持っていたが、それは見るからに味気がなかった。

 「…ありがたいけど、丁重にお断りさせて頂くわ。昔それ食べてげーげー吐いたの覚えてないの?」

 「そうだったか?済まん、忘れた」

 残念そうに机の上に軍用食を置いて椅子に座った。

 「これからどうするつもりだ?」

 「さあ、うちの大将の気分次第ってとこね。戦争には…関与するかもしれない」

 「そうじゃない。お前の将来のことだ」

 「…まさか養子にするだなんて言わないでよ?これでも血縁関係なんだから」

 「お前もそろそろ身を固めても良い頃だろう。丁度な、モルバ王の息子が嫁を探しているらしい。どうだ?会ってみる気はないか?」

 「…あのね、私ゼルア級なんだけど」

 「んなもんどうとでもなる。髪の色を染めたり、化粧を変えればまずばれん。…あれに子供が出来なくてな。俺ももう年だ、孫の顔が見たい」

 「鉄血将軍も丸くなったものね」

 「そりゃあな。誰だって年を食えば色んなもんが鈍くなる。それにな…今じゃたった一人の家族なんだ。心配もする」

 その言葉にジブラルは驚いた。そしてじんと目頭が熱くなったのを感じた。

 「あのお転婆娘がこんな美人に育ったんだ。俺としては良い旦那をくれてやりたい。どうだ?」

 咄嗟にジブラルはシュガシスに背中を向けた。素顔を悟られないようにぐっと唇を噛み締めた。

 「馬鹿馬鹿しい…私は蒼昊の悪女、闘争の化身にして滅亡の因子。ただの人間如きが私に気安く触れないで。うざったいのよ…」

 そうしてジブラルはその目に殺気を浮かべながらシュガシスに顔を向けた。青い瞳が妖艶な光を点し、全身から恐るべき力を溢れ出させた。

 その目をじっとシュガシスは眺め、何かを悟ったように目を細めた。

 「もう会うことはないわ。精々…残りの余生を楽しむことね」

 レミアの鍵を開けてジブラルはその部屋から出ていった。

 シュガシスはジブラルの姿がいなくなると溜め息を吐いて被っていた帽子を目深に被った。

 机に乗った軍用食の隣に小さな絵があった。それは蒼昊の悪女と呼ばれた犯罪者が、まだ何も汚れを知らない幼い頃の肖像画だった。ジェルファ王家とリーンの家はもとは同じ家系だったが、後にリーンの家名を掲げる人物が愛故に王家から駆け落ちして袂を分かった経緯があった。その人物こそがフォレスミュアの父親であり、シュガシスは最愛の弟の娘であるジブラルをずっと気にかけていた。

 単色の海岸の中、ジブラルは扉に背中をもたれながらじっと俯いていた。最後に見たシュガシスの、叔父の寂しそうな顔が頭から離れない。じっとりと後悔だけがジブラルの胸を打っていた。

 「ごめんね…叔父様…」

 涙を浮かべながらジブラルは白い海岸を渡っていった。心の中でありがとうと呟きながら。



 クレシェントとプランジェは礼服の姿で道のど真ん中で突っ立っていた。辺りには目がちかちかするような金銀の紙ふぶきが咲き乱れ、礼服に身を包んだ男女がグラスを片手に高らかに笑い、勝手気侭にその絢爛な空気に入り浸っていた。歩道のあちこちにプールが流れて町の作りは宛ら大人の遊園地のようだった。

 ノーティカ地方。国そのものが避暑地として開発され、各地方の有権者や富裕層の寄付や投資によって成り立っているいわば株式国家だった。それ故に独特の法律や規則があった。私服は礼服か水着のみ。所得税は七十パーセント。代わりに病院や学校施設は無料で、物価は最安価。他の国との通貨価値の差も桁違いだった。有権者や富裕層だけが暮らしているといっても過言ではなかった。領土はノーティカ王家の王宮を中央にして直径五十キロほどしかない。ナーガにおいて領土が最も狭く、また人口が少ない国だった。その為、二人はこっそりと領内に侵入することが出来た。

 「凄いところね、ノーティカ地方って…。街そのものがシアトリカルって感じ…」

 歩道を流れるプールの水に着ていた服を濡らさないように歩いた。服は霜哉と食事をした際に着ていたものだった。

 「話には聞いていましたがまさかここまでとは…。成金天国リセッショニスタとはこのことか…」

 プランジェは髪の毛を後ろに流し、男性をモチーフにした服装だった。灰色のテーラードのジャケットの中に襟の短いワイシャツを着込み、細身のパンツを履いて淑女ながらもクレシェントを守護する紳士を意識したものだった。頭に被った黒いブルトンの角度を仕切りに確認して余念がなかった。

 「ところでそのお洋服、羽月にさんに作って貰ったの?」

 「はい、こういうときの為に綾に作って貰いました。ですので本日のエスコートは私めにお任せ下さいませ」

 腕を胸に寄せて一礼してみせるプランジェにクレシェントは思わず笑ってしまった。その姿は可愛らしいものだったが、プランジェが被っていたブルトンを見てクレシェントは少し複雑な気持ちになっていた。彼女の姉であるミューティはブルトンに似た形のクローシュをいつも被っていたのだ。偶然とはいえプランジェにミューティの顔を重ねてしまうと、クレシェントはあの日ミューティと誓った約束が蘇るような気がした。



 「クレシェント様、実は折り入ってお願いがあります」

 「…どうしたの?改まって」

 「あの子の…プランジェの姉になって頂けないでしょうか?」

 その話を聞いてから、クレシェントは天外孤独という言葉を紫薇の世界で知った。



 「他の国と違って王宮には一般人も入れるようです。ですがやはり謁見は難しいかと…。取り敢えず中に入って様子を窺ってみますか?」

 クレシェントははっとして思わずそうねといった。少しばかり意識が飛んでいたらしかった。

 「では参りましょう。王宮まではそれほど時間はかからないようです」

 プランジェに悟られないようにクレシェントは自然に相槌を打った。

 プランジェの小さな背中がクレシェントの視界に映ると、否応にもクレシェントはあの日の約束がどれほどその背中に圧しかかってしまうのか、考えずにはいられなかった。


 私たちは奇妙な縁で結ばれているのかもしれない。

 クレシェントは何故かそう思った。


 王宮に向かう二人を街角から窺う一人の女の姿があった。出来るだけ気配を悟られないように薄っすらと、そして粘り付くような意思を携えながら二人の後を追った。頭には作り物の花がついたクローシュを被って。


 ノーティカ王家の王宮は黄金の箔が張られた冠の形をした建物だった。一見するとテーマパークの建造物のようで、入り口には入城の券を渡す従業員と兵隊がいた。クレシェントとプランジェは列に並んで券を受け取ると、一団と共に城の中に入っていった。

 城の中は外見と違って妙に汚く、古めかしいものだった。土臭いといっても良い。その独特の埃ぽっさにクレシェントは首を傾げたが、他のお客がそのギャップを楽しんでいるところを見て納得することにした。

 中に進んでいくと丸い大広間で道は止まった。その中に一団が押し込まれるような形で進められると、係員が入ってきた場所の扉を閉めた。部屋には明かりもないので辺りは薄暗くなってしまい、何が始まるのだと周りはがやがや騒ぎ始めた。クレシェントとプランジェは緊張を感じ、お互いに擦り寄るようにして周囲を警戒した。

 「ようこそ我が宮殿にいらっしゃいました。皆様のご入城、心待ちにしておりましたよ」

 暗闇の中からどこからともなく男の声が響き渡った。四十代くらいの声で、一同は驚いてその声の主を探したが、男の声は部屋の全体から響いているようで居場所がわからなかった。

 「私をお探しですかな?そんなに焦らずとも私はいつでも皆様のお傍におります。耳をすませばほら、こんなにもすぐ傍にいるのですよ」

 その瞬間、女の金切り声が辺りに響いた。クレシェントとプランジェは必死に声の主を肌で探し取ろうとしたが、一向に場所が掴めなかった。周りの人間も何が起こったのかわからず、ただ狼狽するばかりだった。そんな様子を嘲笑うかのように男の笑い声が響き渡った。

 「さあ、皆様!心の準備は宜しいですかな?心臓の悪い方は深呼吸して、体の小さなお子様はママやパパに抱っこして頂きましょう。それでは…パーティを始めましょう!」

 突如としてクレシェントとプランジェの視界が真っ白に染まった。その後に町で見かけた黄金とプラチナの紙ふぶきが周りから噴き出し、水着のような衣装を身に纏った女たちを照らし出した。それは一瞬の出来事だった。真っ暗だった部屋はいつの間にか近代的な豪華絢爛な舞台へと移り変わっていた。一団を囲んでいた丸い部屋の床は持ち上げられ、より間近でその金色の衝撃を目の当たりにさせた。

 踊り子たちの真ん中に仮面を被った人物の姿があった。タキシードを着て指に巨大な宝石がついた指輪を幾つもつけている。その反面、頭に被っていたのはフリジア帽だった。仮面は細い髭のある中年の男を描いていた。

 「ノーティカ王国へようこそ!私が十代目国王のアークディンク・ノーティカ・ブライザエスタリオで御座います。皆様、この国へ来たからには悩みごとなど忘れ、贅の限りをご堪能下さい」

 一団は今迄のが演出だと知ると、次々と拍手を贈った。

 「さあ、食べて飲んでこの世の快楽をとことん味わおうではないですか!」

 部屋の台座が舞台と繋がると、その先にきらびやかな飾りを施した料理と、派手なラベルが貼られた高級な酒のボトルが乗った荷車がパレードとなってずらりと並んだ。一団はその列を見るとわっとそれぞれの欲望に身を任せて走っていった。ある者は贅の名のついた酒に虜になり、ある者は雅の名のついた料理に魅了され、ある者は色の名のついた女や男に誘惑されていった。

 クレシェントとプランジェはその場から動かずにただその欲に狩られた群衆を眺めてしまっていた。二人にはどの欲望にも惑わされることはなかった。ただクレシェントに限ってはやや料理に興味を示してしまい、プランジェが目を離した隙にふらふらっと釣られてしまいそうだった。

 「ちょっ…クレシェント様!」

 慌ててクレシェントの裾を掴んで正気を取り戻させた。

 「あ、ご免なさい。美味しそうだったからつい…」

 恥ずかしそうに舌を出して笑った。

 「幾らタダでもあの光景は異常です。気付いていらっしゃいますか?パレードが始まったときから妙な臭いが会場を包んでいます」

 甘い、それでいて人の抑圧された感情を刺激するような臭いが辺りに漂っていた。その臭気は料理からも酒からも、人の肌に塗られた香水からも湧き上がっていた。

 「ええ、多分この臭い…紫薇の世界でいう麻薬に近いものでしょうね」

 「この国では合法であってもやはり禁じられたものを破るというのは理に反します。クレシェント様、我々もその甘い毒に犯される前にこの場を立ち去りましょう。正直、見ていて気持ちの良いものではありません」

 そういうとクレシェントは頷いた。

 二人が酒池肉林から静かに遠ざかろうとしたときだった。その二人の帰り道を塞ぐようにして仮面を被った王が両手を広げながら現れた。

 「おや、何かお気に召さないご様子。不備でもありましたかな?」

 「そうではない。貴公の懐、しかと感激した。だが我々の趣には合わなかった。ただそれだけだ。道を通して頂きたい、アークディンク殿」

 クレシェントを守るようにプランジェは彼女の前に立った。

 「それは残念だ。この場所にいらっしゃる方々は日々の鬱憤を忘れ、阿漕のように快楽を受けたがる。しかし貴女方はそれを望まない。これはいけない。趣が合わないとなればもっと別の刺激をご覧にみせましょう。如何かな?」

 プランジェはそれを好機を考えたのか、クレシェントに視線を向けた。

 「謹んでお受け致しますわ」

 水商売の経験が役に立ったのかクレシェントは自然な笑みを努めることが出来た。

 「結構、ではどうぞこちらへ」

 アークディンクが背中を向けると二人は視線を合わせ、平静を装いながらも周囲に気を張り巡らせ、後を付いていった。

 案内を受けた部屋の扉が開かれると、クレシェントとプランジェは言葉を失った。光沢のある明るい土色の床に沢山の仮面が映し出されていたのだ。実際には仮面は天井からぶら下がっているだけで、それらが床に反射しているだけだった。だがその数やとても目で数えられるものではなく、一つの紐に連なっている仮面の数ですらわからなかった。からからと仮面が掠れ合う音だけがその部屋に木霊する。仮面は日本の能面のようなものもあれば民族的な強い色彩のものもあった。

 部屋の半分ほどまで歩き続けるとふとアークディンクは足を止め、手に持っていたステッキの先を床に刺した。

 「人の思想とは幾つまであるとお思いかな?」

 急な質問にクレシェントとプランジェは首を傾げた。

 「人の…数だけだと思うが…。新たな命と共にまた思想も生まれる。子が大人になって、確率した自我を持てばあやふやだった意思は堅い思想に化ける」

 「その通り。では思想はいつ、死ぬのかね?」

 「思想は死なない。意思の後継者によって永遠不滅の巨魁に化けるからだ。…マクシミオが書いた本の引用だが」

 「素晴らしい、お若いのに博識だ」

 そういうとプランジェはふふんと笑ったが、その笑みは次の一言で固まった。

 「だがその回答は聊か誤りがある。きっとそれはマクシミオですらわからなかったことだろう。思想は、その理念を掲げた者が死ねばそこで終わる。よしんばその意思を引き継いだとしても、それは誤訳に成り下がってしまうのだ」

 そこで初めてアークディンクは体を二人に向けた。仮面は匿名を希望したまま薄ら笑いを浮かべている。

 「これらの仮面はもとはたった一つの赤い面だった。だが時を経て解釈が解釈を呼び、こうして無限にその色を蔓延らせていく。それは今この瞬間も続いている。この部屋はね、昔ゾラメスに作って貰った部屋なんだ。彼は概念の完全な具現化が出来る唯一の存在だったが…今は駄作ばかりの浪人生、生きていても意味はないのだというものだから、首を刎ねてあげた」

 二人はその言葉を聴いて咄嗟に身構えたが、アークディンクは高らかに笑った。

 「冗談だよ、ユーモアは常に忘れない質でね。今は隠居しているよ、彼の作った小さなアトリエでね」

 短い溜め息を吐いて警戒を緩めたプランジェの後に、クレシェントも体を落ち着かせようとしたときだった。ふと妙な匂いがクレシェントの鼻を突いた。それはあってはならない匂いだった。

 「ああ、そうそう。君たちに見せたいものがあるんだったね。紹介しよう」

 ぱたぱたとプランジェとクレシェントの背後から裸足で誰かが走ってくる音がした。その足音は一人だけではなかった。うふふと笑いながら複数の足音が部屋を駆け回っている。丁度、クレシェントがその足音に顔を向けようとすると、彼女の視界を銀色の髪の毛が過ぎっていった。

 六人の少女がアークディンクの周りに集まった。腕を引っ張ったり、足に抱き付いたりとアークディンクに慣れている様子だった。ただその少女らと同じ顔をしたクレシェントだけが目を見開いて呆気に取られている。

 「…そんな…馬鹿な」

 プランジェは自分の目を疑いながらもその少女たちから目が離せなかった。

 「私の友人から預かっている娘たちだ。どうだい?とても良く似ているだろう?クレシェント・テテノワール…いや、壊乱の魔姫よ」

 「私と…同じ、顔…」

 クレシェントが初めて自分の銀色の髪の毛と目を嫌った瞬間だった。



 「この場所に来るのももう随分と久し振りだな…」

 紫薇はセルグネッドの王宮を眺めながらぽつりと呟いた。今頃メルトは何をしているのだろうか。そしてどんな気持ちで父親と接しているのだろう。いつの間にか紫薇はそんなことを思ってしまっていた。

 「いつまで感傷に浸ってんだ」

 そんな紫薇の気持ちに感付いたのか赤縞は嗜めるようにいった。

 「…済まん」

 一変した紫薇の態度に赤縞はぎょっとしてしまった。同時にそれほど紫薇にとって深い傷になっていたのだと改めて知った。

 「…行こうぜ、協会はこの先だ」

 紫薇の肩を軽めに叩いて赤縞が歩き出すと、紫薇もそれに習って足を動かした。最後に青い城を見た紫薇の表情はどこか寂しげだった。

 人通りを抜けた先に役所のような建物があった。特別な用がなければその場所には立ち寄らないのだろう、人の出入りが少なかった。協会の建物は司法を取り扱う機関にしては珍しく紅白に染まっていた。

 本部の建物に入ってからリカリスの顔を見るまでさほど時間はかからなかった。それもその筈、受付の人間に赤縞がまるで暴力団や不良のような仕草で上を出せと脅したからだった。

 ちんぴら効果と受付の人間が赤縞のことを知っていたお陰もあって、紫薇と赤縞は中の待合室で待つことになった。待合室は以前クレシェントと赤縞が待たされた場所と同じだった。

 五分ほどすると少し不満そうな顔をしたリカリスがやって来た。

 「…まさか君たちの方からお出でになるとは思いもしませんでした」

 「不服か?」

 「それなりに」

 二人の視線がぶつかり、静かな鬩ぎ合いが起きたまま紫薇は話を続けた。

 「お前に聞きたいことと、教えてやることがある」

 「でしょうね。ですがその話は僕ではなく、会長に仰って下さい」

 リカリスの後に続いてレヴィスが姿を現わすと待合室にあった部屋に腰をかけ、威嚇するように足を組んだ。目付きはクレシェントを見る目ほどではないにしろ、きっと睨み付けるようだった。

 「要点だけを述べて頂戴。こっちは時間が押してるの」

 赤縞はレヴィスの態度にけっと愚痴を零したが、紫薇は慣れたように話をした。

 「今回の件、協会は何が目的で化け物どもを遣いに出した?」

 「…要点だけと言った筈だけど?」

 意味を捉えていないのか怪訝な顔をした。

 「ロメルニアの王族にちょっかいを出してみてわかったことがある。虹拱結社と妖精教が秘密裏に手を組んだその真意は、この世界で起こり得なかった宗教をもとにした戦争の開幕だ。妖精教祖とやらが御旗を掲げた途端、信者どもが忠実な、狂信的な外敵に成り変わる。妖精教がどの程度まで蔓延っているのか知らないが、一国の王女ですら妖精の虜となってしまっている。奴らが宣戦布告に踏み切った理由がこれだ」

 話を聞きながらレヴィスは感心したように相槌をした。

 「…だがお前たち、この件に気付いていたな?」

 一瞬、リカリスの目が僅かに動いた。

 「司法の機関であり、一国と肩を並べる程の組織が予測出来なかった筈がないだろう。何故それがわかっていながら俺たちを遣いに出した?この件がリカリス・オフュートの独断かどうかはさて置き、協会は何を考えている?その実体を話して貰おうか。こっちも一協力者としてその権利はある」

 「協会としては早期解決に向けて善処する方針よ」

 目を伏せながら淡々といった。

 「それは既にどの王族が結社と関わっていたかわかった上での方針か?」

 そういうとレヴィスは二秒ほど経ってから目を開けた。

 「…確かに虹拱結社が妖精教と関係を持ち始めたときから、その可能性は視野に入れていたわ。ただわからないのはどうして妖精教が今になって結社に近付いたのか?ずっと昔から外部との接触を殆ど避け、六大王制の影響にも関わらなかったのに何故?そこが不気味なのよ。何か…何か切欠があった筈…」

 「…………………」

 紫薇はその話を聞きながら自分のせいではないのかと胸の内で呟いていた。

 「妖精教がキジュベドを通して暗躍し始めたのが最近になって…その内容については貴方たちの方が知ってるでしょう?先代の会長から引き継いだ話の一つに妖精教から目を離すなと言われていたけれど、まさか現王制に宣戦布告をするとは思いもよらなかったわ…」

 溜め息を吐きながら足を組み直した。

 「それでどの王族が黒なのかはっきりしているのか?」

 「残念ながら現時点でもわかっていないわ。リカリスが貴方たちに話を持ちかけたのは知っていたけれど、予想通り何の尻尾も掴めなかったみたいね」

 レヴィスの視線を受けるとリカリスは笑って誤魔化した。

 「間抜けな策もあったもんだ」

 「全くだわ」

 二人の悪態の後に赤縞は鼻で笑ってみせたが、当のリカリスは涼しい顔をしていた。いや、寧ろその言葉をまるで予測していたかのようだった。

 「何故セルグネッドとヒオリズムの王家を除外した?この二つの王族の裏が取れているからか?」

 紫薇はリカリスに尋ねたつもりだったが、レヴィスがその問いに答えた。

 「セルグネッド王家は協会の情報組織としても機能しているからよ」

 「…情報組織?秘密警察みてえなモンか」

 そこで初めて赤縞が興味を示した。

 「王宮守護兵団の中に協会の構成員を配置しているわ。セルグネッド王家の監視も兼ねてね。勿論、他の王族の兵団も同様よ。六大王制に権力差はないけど、立法の基礎であるセルグネッドは他の王国にある程度関与することが出来るわ。それによって他の国を水面下で抑止することが出来る。これは秘密事項だけど」

 「ほー」

 感心する赤縞を他所に紫薇は何か嫌な予感を感じていた。そのことをレヴィスに悟られないように紫薇は赤縞に伝心した。

 「…ヒオリズムに関しては?」

 「協会に対する技術提供があるからよ。この建物を見てわかる通り、他の機関や地方と比べて文明の差が歴然としているのはわかるわね?協会が一つの組織として発達できたのも、ヒオリズム地方が独占的に所有している技術に因るところが大きいわ。無意識の火薬庫を発明したのも彼等よ」

 「…マジかよ」

 その感想は紫薇も同じだった。無意識の火薬庫における技術は自分たちの世界よりも上回っていたからだ。

 「以上が協会の秘密事項よ。これで満足したかしら?」

 「ああ、随分と有意義な時間だった。お互いに有益な情報交換が出来ただろうよ。ただ一つだけ確認して置きたいことがある」

 「何かしら?」

 それから先はレヴィスも予測がついているようで不適な笑みを浮かべていた。

 「その秘密事項を知った人間を、簡単に帰すつもりはあるのか?」

 「ある訳ないでしょう?貴方たちは協会の完全な監視下に配置するわ、一協力者としてね」

 「結局はそうなるか…」

 予め赤縞に伝心をして置いたが、紫薇はとても逃げ切れる予感がしなかった。こうして座りながら視線を合わせているだけで、レヴィスから強い戦慄を感じている。加えてレヴィスの傍で立っているリカリスも臨戦態勢を取っていた。

 四人の視線が中央で絡み合う。開戦の狼煙を上げたのは紫薇だった。部分的に、腕だけを妖精化して手の平から紫色の光の塊をレヴィスに向かって撃ち出した。その光は妖精の燐粉を固めたものだった。燐粉の塊が音の速さを真似てレヴィスの目前に迫ると、彼女の目の前に青いマネキン人形が立ちはだかった。

 炸裂音と共に光が部屋を覆い、その衝撃で床が弾け飛んだ。四人の間に白い粉塵が舞い上がり、その中に七色の光と山吹色の光が輝いた。

 煙が晴れると鬼と妖精が現れ、現実を蹴り飛ばしてしまいそうな光景を目の当たりにさせたが、レヴィスは悠然と椅子に座ったままだった。青いマネキンは燐粉の塊を受け切るとその場にぺたりと膝を落とし、消滅していった。

 「(赤縞、今は逃げることだけを考えろ。間違ってもまともに相手をするな)」

 「(わーってんよ。あの野郎より女の方がずっとやべえ気を感じっからな)」

 二人はレヴィスの実力の高さを戦う前から肌で感じ取っていた。更に紫薇はレヴィスの体から滲み出ている妖精のかけらの存在に気が付いていた。

 「…リカリス、手は出さないで良いわよ。久し振りに全力で体を動かしたい気分なの。妖精を目の当たりにしているせいで気が滾ってるみたい」

 「ご随意に」

 そういうと一歩引いてレヴィスを見守った。

 レヴィスが椅子から立ち上がると、赤縞と紫薇は無意識に身を縮ませた。

 「協会の秘密事項を話した序でに私の妖精のかけらについて教えてあげるわ。この妖精のかけらは限定された自然法則の内、『形而』を超越することが出来るのよ。私の中の経験による感性、形象やイデアを完全な形而下として転換し、支配する!」

 その言葉の後に宛ら瞬間移動したような速度でレヴィスの体が赤縞と紫薇の間に入り込み、二人が反応する暇もない内に右手の拳を赤縞に、左足の爪先を紫薇の脇腹に同時に叩き込んだ。華奢な体にも関わらず、レヴィスの腕力と膂力は大の男を思わず屈ませてしまうほど強力だった。

 「私が抱いている自己のイメージは完全無欠の女。腕っ節が取り柄の男なんかに負けない力を持っているわ。だからわざわざむさ苦しい修業や努力なんてする必要ない。私が私自身を信じれば、それだけで妖精にだって打ち勝てる。それがこの、妖精のかけらに秘められた力」

 まじまじと自分の権力を見せ付けるように手の平に埋め込まれた妖精のかけらを赤縞と紫薇に対して向けた。目の形をしたそれはあらゆるものを見逃さないと揶揄するようでもあった。

 「跪きなさい。この私の前では人もけだものも、妖精すらも裁きにかけられる。ジェンダーや文化も関係ない、この私だけが唯一の法」

 レヴィスの周りから赤縞と紫薇の間にかけて琥珀色の衝撃が飛び散った。その衝撃は形而下の形となって二人を吹き飛ばしながら空気に触れて固まった。それは水滴を落とした時に広がる飛沫のようでもあり、巧みな飴細工のようでもあった。

 衝撃を受けた赤縞と紫薇は宙で体勢を立て直し、床に手や膝を擦り付けながら勢いを殺した。紫薇はその勢いが止まる直前に妖精の腕を前に差し出し、手の平から燐粉の塊を撃ち出した。対して赤縞は膝の力だけで体を止めると、斧を引っ提げてレヴィスに立ち向かっていった。

 「誰も私を汚せない。私が私自身に対する穢れのイメージがないから」

 固まっていた飴がとろりと溶けて流動するとレヴィスの眼前に現れ、妖精の燐粉を受け止めた。その後にレヴィスの背後から赤縞が振り払った斧が迫ったが、彼女の視線は前を向いたままだった。

 白いブラウスから琥珀色の染みが浮き出るように飴が伸び、細い女性の腕を形作って赤縞の斧を弾いた。染みはレヴィスの肩の前後からもう一つずつ現れ、弾いた斧を三本の腕で掴み上げた。

 「暑苦しい男は嫌いよ」

 赤縞が封じられた斧を踏ん張って引き抜こうとした最中、レヴィス本体の手の平が向けられた。手には既に薔薇の蕾のような細工が用意され、その蕾が開花した瞬間に無数の花びらが飛んで赤縞に迫った。

 肌でその花の危険を察知していた赤縞は花びらの先が体に当たる前に斧を手放し、体を捻じ曲げて花吹雪を交わした。そして逸早くレヴィスの懐に飛び込み、指先に鬼の気を集中させた。

 『赤縞流 射抜き子烏』

 鋼色の爪が至極鋭利な嘴となってレヴィスの胸に向けられる。急激な挙動は赤縞の姿をぶれてレヴィスの視界に映し出した。更に目がちかちかする様な妖精の翅を羽ばたかせ、紫薇が妖精の手を差し向ける。初めてレヴィスの表情が崩れた瞬間だった。

 しかし赤縞と紫薇は不思議な感触を味わった。人の肉を傷つけた際に感じるほんの一瞬の柔らかさを感じない。それどころかまるで霧に触れたようなもやもやとした刺激が肌を通して伝わった。二人の手はレヴィスの体を素通りしていた。幽霊、そんなものがいればきっとそのように例えれば良いのかもしれない。

 その瞬間、赤縞と紫薇は、レヴィスがこれまで戦ってきたどの敵にも当て嵌まらない存在だということを思い知った。

 「言ったでしょう?今の私は形而上の存在でもあると」

 薄い、べっ甲色の飴細工がレヴィスを中心に波を立てて広がった。氷、いや仕事や世論に対する冷酷なイメージなのだろう。やや歪な波を描いた飴細工は赤縞と紫薇の四肢を貫いていった。皿の上に小奇麗に並べられる飴細工も今は人を捉える枷でしかなかった。床一面に二人の血液が飛び散っていった。

 「(これが形而を超越する妖精のかけらか…。確かに…どう足掻いても勝ち目はない…)」

 妖精の腕もろとも腕や足を貫かれた紫薇は改めて妖精のかけらの恐ろしさを思い知った。それはゼルア級の面々と対峙したときと同格の恐怖だった。

 滴る血液を吸ってべっ甲色の飴が赤く染まる。だがその中で、誰もが予期しなかった現象が起きた。ヘモグロビンを啜った飴の中で一つ奇妙な色をした飴があった。黄色い、少し緑味がかかった飴。それは貫かれた妖精の腕から流れる血だった。

 「妖精の剥製なんて素敵じゃない、ねえ?」

 レヴィスの目が紫薇の翅に映った際、黄色い雫が映り込んだ。始めはただの目の錯覚だと思ったレヴィスだったが、否応にもその色に目がいってしまう。普通の血液よりもどろっとして、人間の筋肉より柔らかい虫の体を潰してしまったようだった。

 「なに…あれ…?」

 それはリカリスですら予測できなかったことだった。妖精のかけらを所持しているレヴィスにも予想外だっただろう。完全無欠の女のイメージが初めて崩れた瞬間だった。

 「気持ち…悪い…」

 痙攣して小刻みに動いていた紫薇の指もまた嫌悪感を表わす切欠となっていた。黄色い血に塗れた小さな芋虫が苦痛に歪んでうねうね動いている。粘度のある血だから糸も引いていた。

 「(…どうすれば奴の形象を崩せる?)」

 そう紫薇が考えていた矢先、ふと自分の体を支えていた飴の先がぐにゃりと曲がった。何が起こっているのかわからず赤縞の方に顔を向けると、彼を刺していた飴もまた溶けてひん曲がっていた。

 二人はこれを好機と見做してすぐさま体から飴を引き抜き、レヴィスから距離を取った。逃げようともしたが全身を貫かれた体ではその次の一手がすぐに実行できずにいた。痛みに蹲りながらレヴィスの動向を探った。

 「…何が起こってる?」

 仕切りに腕を擦るレヴィスを見て紫薇は何か例えようのない危険を感じた。

 「ちょっと面倒なことになってしまいましたね」

 いつの間にかリカリスが紫薇の隣に立っていた。

 「どういう意味だ?」

 「妖精のかけらは精神が不安定な際に使用すれば暴走する可能性があります。何しろ定められた理を超越する力ですから。彼女、もとから精神が不安定でしてね。それを抑制する為に薬をしこたま仕込んでいるのですが、そのせいで脳みそがぱーなんですよ」

 「…薬を与えたのはお前か」

 「あの幼さで司法の番人になるのですからね。それにかかるストレスも並大抵のものじゃありません。最善の処置です」

 「悪趣味だな」

 「良く言われます」

 リカリスはにっこりと笑った。

 「今の彼女の精神は酷い状態です。まさか君の妖精の血がレヴィスの心をこんなにも掻き毟るとは思わなかった。この世界に黄色い血なんてないですからね。それがグロテスクに思えたんでしょう。彼女は僕の思いのままだった。しかしほんの些細な動揺でああまで変貌してしまう。見て下さい」

 肩を爪で掻き毟るレヴィスに視線を促すと、だんだんと紫薇の視界がぼやけていった。それは紫薇の体の変調ではなく、部屋そのものが歪んでいたのだ。やがて床や壁は蕩けた飴状に変わり、狭かった筈の部屋はいつの間にか肥大化していった。

 「情緒不安定なイメージがこの部屋を侵食しています。このままいくとあっという間に形而上の世界に取り込まれてこの世界から消えてしまいますね」

 あっけらかんというリカリスに紫薇は憤りを感じたが、それを見通していたのか紫薇を落ち着かせるようにはにかんだ。

 「僕じゃ無理ですよ。兄さんと違って妖精のかけらを持っていませんから」

 「…ならどうするつもりだ?」

 「君に死なれては困ります。ですので助っ人を呼んで来ようかと。その代わりレヴィスの相手を暫しお願いします。今の彼女を外に漏らす訳にはいきませんから」

 紫薇はリカリスをじっと睨み付けていたが、床を塗らしていたシロップが膝までやって来ると小さな舌打ちをして観念した。

 「…急げよ、あれを相手にどれだけ正気を保てるかわからない」

 「そう時間はかかりませんよ。これがありますからね」

 そういって懐からソフィの合い鍵を取り出すと、そそくさと形而上と形而下の狭間になった部屋から抜け出していった。

 「…結局は奴に出し抜かれるのか、糞が」

 扉が閉まる前に蹴りでも入れて置けば良かったと紫薇は後悔した。

 「(赤縞、聞こえるか?)」

 いつの間にか赤縞と紫薇の距離は随分と離れてしまっていた。

 「(おー、どぶ猫 生きてたか)」

 「(辛うじてな。それよりも今から奴の相手をしなきゃいけなくなった)」

 「(…あれを相手にしろってか?無茶言ってくれんぜ)」

 紫薇はそこでやっとレヴィスが立っていた方に顔を向け、絶句した。そこにはもう人間とは区別もつかない存在が波立つ水あめの中心に立っていた。

 琥珀色とはまるで違ったパステルカラーの人面が浮かんでいた。顔は丸みを帯びて幼さが残るが、その周りに取り付いた装飾は異様なものだった。熱で溶けたドロップ飴が顔に張り付いて形を作り、細かく枝分かれした飴の繊毛がそこから髪の毛のように垂れ下がっている。額には割れた王冠が突き刺さっていた。

 「あれじゃまるでゼルア級だ…」

 今再び世界を滅ぼす可能性を持った存在に投げ付けられた恐怖が紫薇の膝を竦ませた。

 「(…どのくれえ相手にしてりゃ良いんだ?)」

 恐怖は赤縞も感じている。だが肝っ玉の強い男が傍にいると思うと、紫薇は不思議と膝の震えが弱まった。

 「(さあな、間男はすぐと言っていたがどれほどかかることやら…。赤縞、出し惜しみはなしだ。端から全力で行くぞ)」

 妖精の翅をこれ以上ないほど羽ばたかせ、強い光を放っていった。するとそれに呼応するように離れた場所から犬の遠吠えの様な唸りと共に禍々しい力が辺りに広がり、赤縞の膝を塗らしていた水あめを吹き飛ばしていった。

 途端、二人の力を感じ取るとレヴィスは奇声を上げた。自分の空間、小宇宙の中に現れた二つの異物を排除しにかかったのだ。しかしそれは同時に叫びでもあった。

 特殊な気を足の裏に溜めると赤縞は水面の上に浮かび、滑るようにして濁ったシロップの上を駆けていった。紫薇は翅を動かしてふわりと浮かび、妖精の腕に力を溜めながら宙を飛んでいく。両者のスピードは目にも止まらぬ速さだった。

 『赤縞流 紡ぎ断ち』

 水面を走りながら赤縞は腕の筋肉にかかる力の殆どを弱め、レヴィスの傍まで近寄るとその走った勢いに体を乗せて腕を撓らせると、斧を彼女の額に叩き付けた。レヴィスの額には壊れた王冠があって、斧の刃を防いだが赤縞の馬力によって大きく後ろに下がっていった。

 「…やはり精神が不安定な場合は本来の効力を発揮できないのか。ただ膨大な力だけが暴走している…」

 追い討ちをかけるように紫薇はエネルギーを溜めたまま腕を振り払った。稲妻の様な軌跡が妖精の腕を追いかける。同時に太い亀裂が腕の振るった場所に現れ、レヴィスの顔にぶつかっていった。

 極彩の能面が呻き声を上げる。しかし二人の精魂込めた一撃でも特に外傷は見当たらなかった。ただひたすらに言葉にならない声を上げる。紫薇はその声を聞きながらある思いが心中を過ぎった。それは少女の叫び。恍惚とまどろみと、深い混沌の中で自壊していく助けを呼ぶ少女の声。紫薇は額に生えた触覚を通じてその声の本質を理解することが出来た。

 レヴィスの形象や心のイメージは常食している飴状の薬物によって常に流動していた。組織の天辺に腰を下ろしたレヴィスにとって協会での仕事は多大なストレスを感じさせるものだった。本来は子ども用の効果の薄い睡眠薬だが、レヴィスはその効果を倍に濃縮した飴玉でなければ心の安寧が訪れなかった。麻薬の症状として歯の腐敗、強い色彩を目視したときに起こる断続的な意識の混濁、月経時において軟便を催す腹痛や便秘など、取り上げれば切りのない症状がレヴィスを苦しめていた。しかしレヴィスは飴玉を常食するのを止めなかった。それは自分を補佐する立場の人間が常に飴玉を持っているからかもしれないし、もう止めるつもりもないのかもしれない。ただ一つだけわかっていることは、彼女の意識間における思考が完全に普通の人間には理解できない、超越力染みたものになってしまったことだけは確かだった。

 「後ろに跳べ!」

 無意識に紫薇は赤縞に向かって叫んだ。と同時に赤縞はその声に従って下半身に力を入れてその場から跳び上がった。その直後に水面から蜂蜜色の尖った柱が辺り一面に突き出ていった。甘い蜜を宙に弾きながら逆さになった氷柱の広原が現れるも、赤縞が降り立った場所までは届かなかった。

 「絵導、おめえ…」

 赤縞の目を止めたのはその甘い氷原よりも紫薇の額から飛び出た櫛状の触角だった。その触角は白く、先っぽが細い羽根に近かった。その触覚が淡い光を灯して蠕動している。

 その事態に紫薇は衝撃を受けていたが、悠長にしていられなかった。何しろ触角が伸びたお陰で感知能力が上がってしまっていた。それは単にものの動きだけではなかった。相手の心、心的イメージや感性を感じ取ることも出来た。故に紫薇はレヴィスが発している叫びを理解し、感受していた。

 「その話は後だ。…来るぞ」

 レヴィスの口が開かれるとその中から墨のような泡が大量に現れ、群をなして赤縞と紫薇に襲いかかった。その泡を赤縞は斧で薙ぎ払い、紫薇は腕を振るって破裂させていく。そうすると泡を一つ弾けさせる度に小さな黒い水滴が二人の体を汚していった。水滴は何の危害もないように思えたが、段々とその染みが増えていくと二人は徐々に体の異変に気がついた。体がかっと熱くなり、脳が締め付けられるような感覚がした。

 「絵導、俺が大技で蹴散らす!その隙にやれ!」

 その症状に危機感を察すると赤縞は有無をいわさず前に飛び出し、両腕の筋肉から手の筋肉に最大の力を込めた。

 『赤縞流 赤兎暴れ』

 山吹色の片目を輝かせると、赤縞は斧を振り回して小型の台風を発生させた。その勢い凄まじく、一振りで墨の泡を蹴散らし、その水滴をも押し退けていった。

 紫薇は赤縞の言葉を聞いてから一旦後ろに下がり、再び翅から腕にエネルギーを移動させていた。ただその力の循環は時間がかかり、尚且つ多大な労力を要してしまう。それでも紫薇は今この状況を少しでも和らげる為に体を酷使した。突風の後、腕に溜まったエネルギーを腕の一振りと共に解放する。紫電の亀裂が巨大な線となって飛んでいった。

 遠大なエナジィを持った亀裂を前にしてレヴィスは益々狂い出した。それと共に彼女は助けを呼んでいるのに誰も助けてくれないのだと絶望してしまう。その感傷が更に妖精のかけらの力を引き抜いた。

 苦い、ハーブ味のキャンディ。その既成形象が形而下に導き出され、麻薬の禁断症状によって捻じ曲げられる。無数の目、それはレヴィスに向けられる世間の眼差しを表していた。そこに自壊が加わり、溶け出しながらも群となって宙を埋める。そして妖精の光を目にすると一斉に光り出し、歪んだ光は紫電の亀裂を掻き消した。

 「(ああも簡単に…!)」

 驚いたのは赤縞も同じだった。それほどまでに紫薇の放った一撃は信頼に置けるものだったのだ。

 二人が気を取られている間に溶解の目は狙いを定めると、鬼と妖精を焼き付けるようにフラッシュした。赤縞と紫薇は焦がれるような感覚と、半強制的にレヴィスの訴えを全身に打ち付けられた。

 その閃光で紫薇は翅を引き裂かれ、粘度のある水底に沈んだ。赤縞は辛うじて斧を前に差し出して光の威力を弱めたが、片膝を着いて顔を汚した。

 「(このままだと確実に殺される…。あの女の自壊はこうも凄惨なのか…)」

 淀んだシロップの中に沈みながら、紫薇は触角からレヴィスの心境を感じていた。

 「(リカリス・オフュート、お前はこうまでしてこの世界の秩序を保ちたいのか?あんな幼い女を、嘘と薬で塗り固めてまで…)」

 紫薇にはもうレヴィスの正体がわかっていた。妖精のかけらを使い、完全無欠の、世間一般に認められる大人の女性を着飾った、まだプランジェ位の年頃の少女、それがレヴィスの正体だった。そのイメージを刷り込ませ、心身共に周りを欺いている。代償として糖蜜に包まれた猛毒に心を奪われながら。

 「…間男、お前には反吐が出る。これがお前の正体か!」

 ぼろぼろになった妖精の翅に再び光が灯る。すると翅はたちどころに復元を始め、紫薇は大きく翅を羽ばたかせた。その力は水を押し退け、水面を弾かせるほどだった。

 まるで妖精の光に呼応するかのように鬼の目にも光が宿り、曲がっていた膝を立てた。

 レヴィスの視界に再び一匹の鬼と妖精が映る。どちらもみすぼらしい姿だというのに二匹は一向に倒れなかった。その不可解な状態にレヴィスは困惑しながらも迎撃に向かった。

 「(どうして…こうも差があるとわかっているのに諦めないの?)」

 鬼と妖精がずたぼろになりながらも向かってくる。レヴィスは意識の殆どを失いながらもおぼろげにそう感じていた。飛んでいる妖精を蝿のように叩き落とし、水面を走っている鬼を殴り付けても、二匹は尚も戦うことを止めなかった。レヴィスの神経の侵食は更に進み、能面の下から二本の腕が伸びていた。ただ腕はどろどろに溶け、赤縞の体に触れると自重を支え切れずに落ちてしまった。

 「(そうまでして私を否定するの?私は…完璧になった筈なのに…)」

 『赤縞流 一理の極み』

 吹き飛ばされた場所から体勢を立て直すと、赤縞は持っていた斧を降り投げた。その腕力は豪力、怪力を優に越えた力だった。一理先の的を砕きそうな勢いと、速度の斧はレヴィスの周りを囲んでいた目をぶち破り、彼女の額を大きく傷付けた。

 「(もう誰にも馬鹿にされない…ママと比べられることもない…仕事が出来て、キャリアがあって、世界中の男が言い寄って来るような女になったのに…)」

 レヴィスの額に飾られた冠が取れると、まるでたがが外れたように顔を覆っていた髪の毛が無秩序に伸び始め、ある一定の長さになると左右三つに集まり、翅のように形を取っていった。するとその翅から六色の光の線がレヴィスの眼前に集まり、球を描いたと同時にその光を解き放った。

 六色の暴風が吹き荒れる直前、紫薇はレヴィスの目先に浮かぶと翅を思い切り広げ、普段の倍の長さにすると翅の先を折り畳んで光を受け止めた。紫薇は赤縞を守りつつ、レヴィスの心境を共感しようとしているようでもあった。翅が徐々に千切れ、宙で紫薇の体が押され始める。それでも紫薇は目一杯の力を搾り出し、触角に意識を集中させた。

 「(意識を…取り戻せ…!)」

 「(…だれ?)」

 「(そんな醜い姿で誰がお前を認める?鏡でも見てみろ、酷い面だ。それが本当にお前の望んだ姿だったのか?)」

 紫薇の叫びに応じてレヴィスは改めて自分の姿を見詰めた。そこには半身が溶けたおぞましい自分の姿があった。途中で取れた腕、痛んだ髪、奇妙な人面が呻き声を上げて綺麗な七色の翅を持った妖精をいたぶっている。

 「(違う…チガウ…コンナノハ私じゃない…)」

 神経が拉げ、少女と電子音声のような声が入り混じっていた。

 「(それが嫌なら自分を否定しろ、歪んだ形象を振り払え!)」

 「(私ハ…ママみたいな格好いいオンナニナリタイ…)」

 既に妖精の翅は半分まで焼き切れてしまっていた。それに伴い、紫薇の顔は青ざめていった。

 「(でもママハ…ママの死に顔は…チットモ綺麗じゃなかった…)」

 「(麻薬の原因はそれか…!)」

 触角を通して紫薇はレヴィスの意識に触れた。


 幼い少女は母親の自殺を理解していなかった。死、というものもわかっていない。しかしそれは唐突に変化した。妖精のかけらを使って確立した自我と知識を手に入れた少女はそれがどういうものか認知してしまったのだ。心はまだ、幼いままが故にその事実を受け止められなかった。そして逃避の為に薬に手を出した。


 「(私もいつか…アンナ醜イ、歪んだ顔ニナッテ…)」

 「(死は全てに訪れる!だが自分の死に顔が醜いか美しいかは、お前の行いによって変わるんだ!お前の母親のように死にたくないなら…足掻け!最後まで!)」

 その言葉はかつて銀色の髪の毛をした女にも向けた言葉だった。

 「(…チガウ、私は…私は…ママだ!)」

 限界が訪れた。紫薇が広げていた翅はその殆どを焼き尽くされ、受け止めていた光のエネルギーが翅を通り抜けて紫薇の体を傷付ける。肉が焦げたような音を出しながら紫薇は宙を飛び、背中から水面に叩き付けられた。

 「絵導!」

 赤縞の視界が水飛沫に向けられると、その隙を突いてレヴィスの残った腕が再び赤縞の体を叩いた。だが間一髪の所で赤縞は両腕を頭上に差し出し、レヴィスの手から身を守っていた。だが赤縞にとって叩かれていた方がまだ幸せだったかもしれない。全身を痙攣させるほどの力で身を守っていても、そこに再びレヴィスの目の集団が現れ、赤縞の体を照らし出した。

 偶然にも赤縞の体は紫薇の傍に吹き飛ばされた。二人の力は限界を越え、鬼と妖精の姿は自然に消えていった。飛ぶ力も水面に立つ力も残っていない二人はぬるぬるした水を手で必死に掻くことしか出来なかった。

 「…畜生、鬼人化が解けやがった…」

 「…限界だ」

 「やべえぞ、おい…!」

 抗おうにも赤縞は紫薇を溺れさせまいと、腕を掴むので精一杯だった。

 「違う、向こうの精神が限界なんだ。あのまま行けば本当に奴は化け物になっちまう。もうもとに戻れなくなるぞ…!」

 もう一つの限界が今、弾け飛んだ。女の断末魔が響き渡るとレヴィスの口許は二つに割れ、その口の中からどろどになったスライムが泡を吹き出しながら山を作って姿を見せた。そのスライムは赤と紫が入り混じった色をしていて、少しずつ人間の女性の形を作っていったがどうにもその形が歪だった。顎は外れ、手首が折れ曲がり、額が拉げてまるで飛び降り自殺した女性のようだった。

 「なんだありゃあ…」

 「あれがレヴィスの自分の…いや、レヴィスが抱いている女のイメージだ。完全無欠だった形象が、薬の影響でああまで腐敗する。恐らく、その切欠よりも遥かに歪な姿だ…」

 目の集団は更にその形状を変化させ、飛び散った血痕のようになった。レヴィスと、それら血痕の集団が持っていた超越力は明らかに異常なものだったが、それに見合った異常な力を醸し出していた。

 その異常な、目がぶらぶら下がっている瞳が赤縞と紫薇を捉えてしまった。ゆるりと近付き、その狂態を見せ付けるかのように時間をかける。二人は目を逸らすことも出来ず、思わず溺れそうになってしまった。

 手が差し出される。その間に指の二つが解けて落っこちて、白い骨が指の隙間から見え隠れした。巨大な腕の影が二人を覆った。

 レヴィスの指先、白い骨の先っぽに堅いものが当たった。黄昏色に染まった、オレンジ色の扉がそこにあった。扉がレヴィスの指を跳ね除け、無理矢理に開かれると、唐突にレヴィスの指先に火が点った。その火は瞬く間に腕に燃え移り、レヴィスに悲鳴を上げさせた。

 「レミアの鍵?この色は…まさか…」

 こつこつと靴の音を立てて赤縞と紫薇の頭上を通り過ぎる。その後に苦い煙が二人の鼻を突いた。

 「ウェルディ・グルス…」

 ずっと間を開けていた男が確かにそこにいた。無愛想な店の主、炎獄の魔皇帝と呼ばれる第ゼルア級犯罪者。その男はすっと煙を吸うと面倒臭そうに煙を吐いた。

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