71話 唇についた小さな嘘
森の中は杉に似た原生林が生い茂っていた。雨が多いからか木々の表面には沢山の苔が付いていたり、小さな葉っぱがあちこちに生えていた。空気が濃いお陰で赤縞は幾ら走っても疲れなかったが、行けども行けども森は抜けられなかった。
「やべえな、迷っちまったか?」
似たような地形を目にすると、赤縞は一先ず立ち止まって紫薇を起こすことにした。傍に人を座らせられそうな木の幹を見付けると、紫薇をそこに寄りかからせた。
「おい、どぶ猫、起きろコラ」
肩を揺すってみたが毒の効力はまだ弱まっていなかった。
「ったく参ったな、こんなことならソフィの合い鍵の使い方でも聞いときゃ良かったぜ…。それにしても空気が濃い、良い森だ」
赤縞はぐっと息を吸い込んで肺に空気を送り、丹念に味わうと息を吐いた。
その森は何故か神聖味を帯びていた。正確には赤縞と紫薇の周りだけが何故か淡い緑色の光に包まれているようだったのだ。単に心地よいだけでなく、心まで洗われそうだった。
「神社みてえな静かさだな。いや、そんな世俗のもんじゃねえ。なんだ?」
赤縞は自分の目の前に何か透明なものがあるような気がしてならなかった。その何かがこの森に神聖味を加えている。赤縞はそう感じていた。
ふとどこからか鈴の音が鳴った。赤縞はその音の発生源を突き止めると、それは紫薇のポケットから鳴っていた。不思議に思いながら赤縞は紫薇のポケットに手を突っ込み、中のものを引っ張り出した。それは赤い羽根の形をした一枚の鱗だった。その鱗が微弱に振動して音を立てている。
「まさかな」
試しに赤縞はその鱗を透明な何かに向けてみた。すると鱗は勝手に赤縞の手から抜け出して空を駆けると、その途中で水面に沈むかのように宙で消えた。そしてぽちゃんという音を一つ立てると、その透明な何かは次第に姿を現わしていった。
虚空から木の根が伸びるように徐々にその全貌を現わした。それは一本の大きな原始林だった。高く伸びた木の幹は途中で五つに分かれ、その先に色の濃い葉っぱをつけていた。幹は力強い皮に守られ、根の辺りにはドアの形に似た堅い皮があって、そこに赤い鱗が刺さっていた。
「これがあの女の城かよ…」
赤縞はその大きさと姿に圧巻された。
眠っている紫薇を再び肩に乗っけると、赤縞は木の城に近付いて試しに扉をノックしてみた。反応がなかったので赤縞は自分で鱗のドアノブを開けようとしたときだった。それよりも先にドアノブが傾いて扉が内側に開かれた。
「なんだお前たちか」
扉を開けたのはプランジェだった。赤縞の顔を見ると安心した顔を見せたが、肩に乗っかっている紫薇を見付けると顔を強張らせた。
「…何があった?」
「ちょいとこの馬鹿が女に毒されてよ、痛い目にあってきたところだ。女ってのは恐いねえ…」
「脈が荒い割りに体温が異常に低い…」
プランジェは紫薇の首筋に指で触れて体の異常を突き止めた。
「それより中に入れてくれや。立ち話はきれえなんだよ」
「うむ、直ぐに寝床を準備しよう」
そうして赤縞を中に招き入れると、姿を現わしていたクレシェントの居城は再び色を隠してその場から消えていった。
城の中は木を刳り抜いて作ったようだった。扉の先に緩やかな螺旋の階段があって半ば木と一体になっていた。階段の傍には水溜りがあって、それを囲んでいる背の低い壁に腰を落ち着かせられそうだった。壁の上には木で出来たバケツがあった。
赤縞は床の木目のタイルを見てから顔を上げた。幹の先が分かれて青い空が顔を覗かせている。葉っぱがゆらゆらと揺れていた。螺旋の階段はその先までずっと続いて途中で幾つか層があった。
「こっちだ」
プランジェに促されて赤縞は紫薇を肩で背負ったまま階段を上った。階段は曲がった幹の上をなぞるように敷かれ、段を踏む度にきいきい軋んだ。ぐるりと一周すると二階があって、再びプランジェがこっちに来いと促した。
二階は入って来た扉の真上で両隣に部屋があった。その内の一つを開けてプランジェは手短に寝床の準備をして最後にシーツを捲った。
赤縞は紫薇をベッドに寝かせると疲れを解すように溜め息を吐いた。
「喉が渇いているのなら、下に降りて水を飲んで来ると良い。階段の傍に水溜りがあっただろう。あれは飲料用の水だ。この城が根を張り、地下から汲み上げている。生で飲んでも腹は壊さないから安心しろ」
用意して置いた手ぬぐいで紫薇の頬を拭いてやりながらいった。
「ああ、んじゃそうさせて貰うぜ。…そういや他の女どもはどうした?」
「クレシェント様は近くで果物や野菜を採ってきて下さっている。ジブラルはどうだろうな、もしかしたらこの城には来ないかもしれん。一応、クレシェント様は鍵を渡されたようだが…」
「自給自足の生活かよ。姫の名前はどこにいったんだ」
赤縞は笑いながらいった。
「下手に買うよりこっちの方が新鮮だ。たまにクレシェント様が狩りもして下さるしな。特に不便はない。採った食材が残れば町で売って、そのお金でクレシェント様と外食などをしたものだ」
「…女王が狩りか」
「食物連鎖の頂点にいるお方だ、何ら可笑しなことはない。意外かもしれんが、クレシェント様は菜食主義がお嫌いだ。同じ生き物を殺し、自分が生きる為に他の命を食べるのに、そこにどんな違いがあるのかと常々仰っていた。だからクレシェント様は狩りもするし、野菜も食べる。しかし殺された命に対して必ず礼を述べる。日本と同じ『頂きます』と『ご馳走さまでした』の考えだ」
「殺めた命に感謝と償いを、か…あの女らしいな」
「と、まあこうして論理を掲げる中で悪いが、水を汲んで来てくれ。少しばかり多めに頼む。水をたくさん飲ませて毒を排出しなければ」
「あいよ、うちの神様ってのは手間のかかる野郎だな」
「全くだ」
二人して苦笑いした。
赤縞は一階に戻ると、水溜りの傍にあったバケツに水を汲んだ。碗かコップはないものかと赤縞が辺りを見回すと、どうやら右が厠で左が台所のようだった。
台所はプランジェたちが自分で作った机や椅子、ソファーまであった。来客を見通していないのか椅子は三つしかなかった。奥には暖炉があって薪が火でぱちぱちと鳴っていた。暖炉の前には読みかけの本と、マグカップが湯気を立てていた。
赤縞は台所にあった戸棚からコップを取ると二階に戻っていった。
「ほらよ、これで良いか」
「うむ、済まんな。確か紫薇は雅香族の毒にやられたと言っていたな?」
「ああ、体ん中に蔦みてえなのが突き刺さってた。…やべえんじゃねえのか?」
「強い幻覚作用を持った体液を注がれたからな、体の各機能が一時的に低下している可能性がある。だが安静にして置けば命に別状はない筈だ。水を飲ませて出来るだけ体を温めてやれば、まあ安心だろう」
「手療治の鉄則だな。何はともあれ俺も疲れちまった。寝床はねえか?ねえなら雑魚寝でも良いけどよ」
「この部屋の向かいを使ってくれ。二階はお前たちの為に用意して置いたのだ。因みに三階は私の部屋、クレシェント様のお部屋は四階だ」
「そりゃどうも」
「五階、つまり屋上はテラスになっている。風を浴びたければそこに行け」
「素敵なお城だな、オイ。感慨深いぜ」
大袈裟に感動してみせると、赤縞はさっさと自分の部屋に入っていった。鬼人化は赤縞にとって体力をとても消耗してしまう。戦闘など行なえば、眠りに着いて八時間は起きられなかった。
それからプランジェは紫薇に厚い毛布をかけてやったり、体温が上がったことで体を伝う汗を拭いてやったりした。
「さて…念の為に薬でも煎じて来るか」
紫薇の肌に正常に血が通い始めると、プランジェは一階に降りて台所に向かった。台所には食材の他に香草や薬草なども貯蓄してあったのだ。
一階に降りてどんな効能があったかなとプランジェが考えていると、城のドアノブが再び傾いた。
「クレシェント様、お帰りなさいませ」
「ただいま。…そう、紫薇と赤縞さんが居るのね」
城の中に入ると二人の匂いがしたのか、クレシェントは少し曇った顔をした。喧嘩したままだったのでクレシェントは気まずかった。しかしそう思っていても二人が来ることを考えていたのか、夕食用に狩った鳥は四匹もいた。鴨に似ていて胸と腹がふっくらとしていた。
「その紫薇ですが、今は雅香族の毒にやられて寝込んでいます」
「…大丈夫なの?」
その話を聞いてクレシェントは焦った顔をした。
「ご安心下さい、どうやら身体を蝕むような毒ではなく、幻覚作用のあるものでした。今は体温も正常に戻り、これから薬を飲ませるところです」
「…そう」
プランジェはクレシェントの困った顔を見ると、彼女に気付かれないように小さく笑い、狩った鳥の他に野菜や果物を受け取って台所に向かった。プランジェは動物を屠殺することも捌くことも出来た。
クレシェントはプランジェが台所に向かったのを見計らってこっそりと二階に上がり、匂いを頼りに紫薇の部屋を開けた。中に入ると額に汗をべっとりと垂らす紫薇の顔が見えた。クレシェントは傍にあった手ぬぐいで紫薇の顔を拭いてやり、じっと紫薇の瞼を見詰めた。
「…紫薇、ご免なさい」
ずっといわなければいけないと思っていた言葉をクレシェントは静かに語った。
「本当はわかっていたの。貴方が皆に傷付いて欲しくないから、ナーガに来させないようにしようとしていたのを。でもね、何だか嫌だったのよ。貴方が私の知っている…偏屈で、わがままな男の子だった紫薇が、本当の大人になっていくみたいで」
そういいながらクレシェントは口許を緩めてしまっていた。これではどちらが子供なのかわからないと思ってしまったからだ。
「きっと…きっと羽月さんを好きになったから、貴方は大人になっていったのね。貴方はどんどん変わっていってしまう。妖精としてではなく、一人の人間として。正直、貴方がちょっぴり羨ましい。私はお母さんみたいになれないから…」
ふうと溜め息を吐いた後に、クレシェントはずっと思っていたことを口にした。想いを知って欲しいからではなく、それを口にすることで自分の想いを決別しようとしたのだ。
「…紫薇、貴方が好きよ。貴方がどんなに変わっていっても、ずっとこの想いは変わらない。変な話だけれど、貴方が羽月さんと幸せになってくれるのを願っているわ」
やっと自分の中の本当の思いが知れた気がした。妬みがないといえば嘘になる。でもクレシェントは確かに二人の幸せを願うことが出来たのだ。クレシェントはもう一度紫薇の頬に着いた汗を拭うと静かに微笑み、そっと部屋から出ていった。その微笑みは母親が子供に向けるようでもあった。
クレシェントからの告白、いや告知は意識を落としてしまっている紫薇には届かなかった。ただ確かなことは紫薇にとってクレシェントという存在は、まだ一人の女として定まっていないことだった。
その夜、クレシェントは屋上にあるテラスに向かった。螺旋の階段を抜けるとそのまま木の天辺が平らになっていて、その周りを幹の先が広がっているのだ。床はガラス張りになっていてそこから下を覗けた。こつこつと靴の音を立てながらクレシェントはテラスの端に近づくと、肘を置いて夜風を感じた。ナーガに季節はない。地方によってその気温は変わった。今はロメルニア地方に城が根付いている。そのせいで夜は涼しかった。クレシェントの居城は生きた城で、まるで何かの意思があるかのように勝手気ままに移動をする。赤い鱗はその道案内でもあり、鍵でもあった。
「…本当に月がなくなってしまったのね」
モルバの王の話をクレシェントは夜空を見上げながら思い出していた。
ナーガの夜空にぽつりとあった砕けた月。その色は七色に分かれ、日によって色が変わっていた。その月が今は空に散らばっていない。まるで何かに食べられてしまったようにすっぽりとなくなっていたのだ。そのお陰でクレシェントや魔性の血族は月からの恩恵を受け取れなくなってしまっていた。クレシェントにしてみれば、魔姫になる可能性が少しでも減るのだから返ってありがたい位だが、獣人や亜人にとっては母の創造物だっただけに深い感傷を受けてしまっていた。
クレシェントは徐に自分の手の平を見詰めた。あのとき、キジュベドと戦った際に深い、負の感情から湧き出た概念が蘇る。その概念は単に心象世界の断片を具現化するだけといった力ではなかった。そして他の概念たちもある一定のラインから飛び出してしまったような力を秘めてしまっていた。クレシェントはそれが何故か、無意識に女王の力を引き出してしまっているのではないか。その理由として、キジュベドの力を吸い取った際、何か途方もない力が混じっていた。そう思えてならなかった。
「もう月の恩恵はいらないのかもしれないわね…」
いつの間にか体の中に月の魔力が眠っている。クレシェントはそう感じた。
再び風が髪の毛を靡かせ、クレシェントは目を閉じてその風に身を任せた。とても静かな夜だった。ただその風に乗って懐かしい匂いがクレシェントの鼻をやんわりと刺激した。
「眠れないのか?」
少し驚きながらクレシェントはその人物に顔を向けた。
「ううん、ちょっと風に当たりたいなって思っただけ。ここは風の通り道だから」
小さく笑みを浮かべた先、伸びた枝の上にマルテアリスが座っていた。
「こんな時間にどうしたの?マルテアリス」
「別に、ちょっと通りかかったから寄っただけだ」
そういうとクレシェントは嬉しそうにふふっと笑った。
「何が可笑しい?」
「ううん、貴方らしいなって思っただけ」
「相変わらず訳のわからない奴…」
枝から降りるとマルテアリスはクレシェントの傍に寄って、同じように外の景色を眺めた。
「良くこの場所がわかったわね。誰も入れないようにお城が守ってくれているのに」
「妖精のかけらを使えばそれなりにわかる。オマエのかけらはまだ覚醒していないみたいだけどな。どうして女王の力を受け入れない?力に溺れることが恐いからか?オマエの意思はそんなものに負けるほど柔じゃない」
「そう…かもしれないわね。でも無理なのよ」
「…なんでだよ」
むっとした顔をしていった。
「私が、お母さんになりたくないから…かな」
「…子供が欲しくないってことか?」
「そういうことじゃないわ」
思わずクレシェントは苦笑いした。やっぱりこの人は恋愛に疎いなあと思ったからだ。だがその慢心は突然に突き崩された。マルテアリスは黙ってクレシェントを抱き寄せ、自分の胸に彼女を押し付けた。ふわっとマルテアリスの肌の匂いがするとクレシェントは頬を赤らめ、胸を縛られたような気持ちになった。
そのまましばらくの間 二人は言葉を発しなかった。時おりマルテアリスはクレシェントの髪の毛の匂いを嗅いだり、頬を寄せたりした。クレシェントは手をマルテアリスの背中に回す訳でもなく、ただ手の平を彼の胸板に付けてしっとりとその感触を味わっていた。そしてクレシェントは紫薇が傍にいたときに感じる胸の高鳴りと同じ感覚を知った。こうしているだけでも満たされてしまう。クレシェントは次第に目を閉じていった。
視界が暗いとわかった後に脳みそがぐるぐると回っているような感じがした。妙に体が重い。体中に汗が滲んで服がべっとりと肌に引っ付いていた。同時に紫薇は酷く喉が渇いていた。ここがどこか知る前に紫薇は傍に置かれていたコップを手に取ったが、中には水が数滴入っているだけだった。舌打ちをして紫薇はベッドから起きた。
「…どこだここは?」
最後に見た映像を思い出そうとしても頭が上手く働かなかった。だがそんなことよりも紫薇は喉の渇きを癒したかったので、部屋の中に飲み水がないか探してみたが見当たらなかった。
「中途半端な看病もあったもんだ」
このときに紫薇は気付いていなかったが、寝ている間に何度か薄い覚醒をして、その度にプランジェに水を飲ませて貰っていた。その量は三リットルを越えていたが、それよりも汗の量が多かった。
仕方なしに紫薇は部屋から出て水を探すことにした。足取りが覚束ないまま足を動かす。視界もどうやら本調子ではないようで、辺りがややぼやけて見えた。
やっとのことドアを探して部屋から出ると薄暗い場所に出た。目の前にまたドアがあるような気がしたが暗くてわからない。辺りを見回すと上の方が明るかった。そこに誰かがいるのを見付けると、紫薇は転ばないように慎重に階段を上っていった。
二人が抱き合ってからやっと頬の火照りが冷めてきた頃、静かに、それでいて真剣にマルテアリスが言葉を紡いだ。
「…母にならなくても良い」
「え?」
「オマエが嫌ならそんなのどこかに捨ててしまえ。考えてみればオマエのものなんだ。どう扱っても誰も文句は言わない」
「…うん」
何だかその言葉は紫薇がいってくれた言葉のように感じてクレシェントは嬉しかった。でもその次にマルテアリスの口から出た言葉は紫薇とはまるで違った。
「でもオマエは…俺のものだ。誰にも渡さない」
ぐっと胸が突き刺されたような衝撃がクレシェントを覆った。今まで以上に心臓の鼓動が強くなる。
「俺がオマエを好きだと言ったら、オマエもそう言え。俺がオマエの傍にいたら、オマエも俺の傍にいろ」
それは無骨な告白だった。飾りなんて一つもない。それどころか一つ間違えれば気分を害するような言葉だった。でもクレシェントにはその不恰好な愛を堪らなく感じてしまっていた。あのときもそうだった。桐嶋から自分の思いを告げられたときも同じように体が、心が震えた。クレシェントはいつも思う。どうして誰かから愛を告げられると、こうも感動してしまうのか。きっとそれはそれだけ相手が真剣だからなのだと思わずにはいられなかった。
いつの間にかクレシェントとマルテアリスの視線は絡み合っていた。じっとりと手汗が滲む。先に動いたのはマルテアリスだった。クレシェントの目を見詰めながら顔を近付ける。以前のような口付けを奪うものではない、自分の想いを乗せて、お互いの愛を確かめ合うようにキスをする。クレシェントの目が薄っすらと閉じていった。
だがマルテアリスとの愛を芽吹かせる前にクレシェントはその誘惑を断ち切った。手に強い力を入れ、マルテアリスの胸元から離れていく。クレシェントは深い呼吸を手早くした。
「…そんなにあの男が良いのか」
クレシェントがご免なさいと謝る前にマルテアリスはいった。クレシェントはその本当の意味をわかっていなかった。
「知っている。オマエがあいつに…妖精に心を奪われたことを。だからなんだな、オマエが昔よりもずっと人間らしい顔をしていたのは」
マルテアリスはそのことに打ちのめされてしまうかのようにぐっと目を閉じた。そんなマルテアリスにクレシェントは何といって良いのかわからなかった。
「でもわかっているのか?妖精はもう…別の女を好きになっている。オマエはそれでも良いのか…」
「今では…そうは思わないかもしれないわ」
その言葉をクレシェントはちゃんと口に出来た。
思いもよらなかった言葉にマルテアリスは目を丸くした。
「ならどうして…」
「贖罪、それもあるかもしれない。でもね、私はやっと思えるようになったの。このまま私の好きになった人が、幸せになってくれれば良いって。私はこの想いだけで生きていける。ううん、生きていかなきゃいけないの。私は…それだけの罪を犯したから」
「飽く迄その罰に固執するのか…。茨の道を踏んだって、誰も許しちゃくれないんだぞ。それでもオマエは…それでも俺は、オマエが好きなんだ…!」
「私もよ。貴方だけに出会っていたら、きっと自分の罰を破ってでも貴方を愛していたかもしれない」
桐嶋のときと違い、しっかりとマルテアリスの目を見ながらいった。
「妖精が…オマエを狂わせたんだな…」
「ええ、あの人に出会わなかったらこうはならなかったわ。でも出会わなかったらきっと生きてもいられなかった」
その言葉を聴いてマルテアリスはふっと笑うと、一度だけ目を閉じた。手を握り締め、怒りをぐっと溜めた。
「…妖精、オマエは絶対に許さない」
まるで紫薇を目の前にしながら口にする素振りを見て、クレシェントはまさかと思った。
「…聞いていたな、絵導紫薇」
その言葉の後に姿を現わしたのは紛れもない紫薇だった。クレシェントは紫薇の姿を見ると口に手を当てた。紫薇の表情は驚いた様子もなく、ただ普段と同じ冷静で、冷徹な顔をしていた。
「オマエの罪は俺が罰してやる、必ずな」
「好きにしろ。尤もそれが出来ればの話だがな」
「妖精のかけらはオマエを殺す為に作られた。いずれこの力を使ってオマエを跪かせてやるよ」
「俺の体から作られたものを使ってか?ひと様のものだが、貸しておいておいてやるよ」
「オマエの?これはそんな物じゃない」
「…どういう意味だ?」
「妖精の癖にわからないのか?可哀想な奴」
そういって勝ち誇ったように笑った。
「自分が何者かもわからず、ただ偉そうにその力を振るう。まるで子供みたいだ。お似合いだよ、オマエ」
紫薇はその瞬間に妖精の翅を羽ばたかせた。既に右腕は妖精の腕と化していていつ襲いかかっても可笑しくなかった。
「減らず口をべらべらと…そんなに噛み付いて欲しいのなら、いっそ死ぬまでじゃれてやるよ」
妖精の力はいつ見ても遠大で、恐ろしいものだとクレシェントは全身を通して感じていた。だがそれよりも強大なものをクレシェントは知っていた。
「…なんだ、この程度か」
クレシェントが魔姫になってもまるで相手にならなかった男、マルテアリス・オフュート。第ゼルア級犯罪者『絳角狂児』としてその存在を畏怖されてきた。そのマルテアリスの体から溢れ出る力は妖精の力よりも遥かに抜きん出ていた。
二人のオーラが交じり合う。七色の光とオペラモーブの光がお互いの存在を掻き消し合おうと鬩ぎ合っている。ただ妖精の力が劣っていたとしても、紫薇は一歩も引かなかった。まだ二人の力は全力ではない。しかしいつ世界を構成している因子が崩れ始めても可笑しくはなかった。
しかしマルテアリスの一言によって唐突に妖精の力はぷっつりとその勢いを止めてしまった。
「オマエ、やっぱり弱いな。もう一人の妖精とは大違いだ」
「もう一人の…妖精だと?」
紫薇は威嚇することも忘れていた。
「あ、これは言っちゃいけないってリカリスに言われてたっけ」
「マルテアリス、貴方は…」
「別に俺はリカリスみたいに裏でこそこそ何かしちゃいない。ただちょっと手伝ってやっただけだ。月の封印を壊したとかな」
「…月の?」
「リカリスは八番目の月って言ってたっけ。その月の中にあいつの体の半分が封印されていた。そう、フォルコットって奴の」
「…フォルコットだと?」
紫薇はその名前を聞いてぞくりと背筋を震わせたが、何とか眉間にしわを寄せて踏ん張った。
「マルテアリス、知っていることがあったら教えて。私のことも…セレスティンについて何か知っているんでしょう?」
「一度だけ顔を合わせたことがあったっけ。確かにオマエの面影があった。あとは…ああ、オマエ、今はノーティカ地方に行かない方が良い。びっくりするから。だってあそこには…ちっ、うるさいな!わかったよ」
言葉の途中でマルテアリスは耳の上を引っ叩いて唸り始めた。マルテアリスとリカリスは意思の伝心が出来た。
「…リカリスがしつこい。余計なことを喋るなって頭の中で引っ切りなしに叫んでるから、その話はまた今度な…ああもう!わかったから怒鳴るな」
「…あの間男、また何か企んでいるのか」
紫薇がぎりりと歯を食い縛るとマルテアリスは一瞥した。
「相変わらず口うるさい弟だ。こんなちっぽけな妖精なんかに知られて困ることなんてないのにな…」
紫薇は安い挑発に乗るまいと必死に我慢したが、マルテアリスはその心理を読むと嘲笑うように鼻を鳴らした。
「クレシェント、いずれ全てがわかる日が来る。そのときは…誰もが嫌でも知ることになるんだ。でも心配いらない。オマエは俺が守ってやる。女王からも、妖精からも、この世界の創造主にも手出しはさせない」
紫薇に向けた視線と打って変ってクレシェントに向けた眼差しはとても柔らかなものだった。クレシェントに近付いてそっと頬に手を寄せた。
「…いつか俺にも笑えよ。オマエのあんな顔、見てみたい」
「…マルテアリス」
銀色の瞳はいつしか潤んでいた。クレシェントはそんなにも自分のことを想ってくれていると改めて実感した。
「このまま黙って見逃すと思うか?洗いざらい吐いて貰うぞ」
紫薇はいつでも飛びかかる準備はあった。しかしマルテアリスの顔が向けられると途端にその気迫は折れ、思わず尻込みしてしまうような強い視線が紫薇を襲った。妖精の目などまるで恐れない、寧ろその力を飲み込むような気迫だった。
「オマエは俺が殺す。だがそれは今じゃない。妖精として完全に目覚めたとき、そのときに相手をしてやる。今のオマエじゃてんで相手にならないからな」
「…完全に目覚めるとはどういうことだ?」
「さあ?リカリスにでも聞け」
気後れしても紫薇は視線を剃らず、じっとマルテアリスの目を見た。手を出そうと思えば出せるだろう。だが紫薇にはどうしてもそれが出来なかった。今マルテアリスを傷物にしようならば自分が死ぬイメージしか頭の中に過ぎらなかった。やがて紫薇は小さな舌打ちをすると妖精化を解いた。
「それで良い」
マルテアリスが勝ち誇った顔を見せると、紫薇は悔しそうに目を細めた。
「…クレシェント、またな」
再びクレシェントに優しい顔を向けた。唇は奪わなかった。ただそっと手で頬に触れ、指で目元をくすぐるように動かすとその場から跳び上がり、夜空にその姿を映すと体からマントを伸ばし、どこかに向かって飛んでいった。
クレシェントはその姿が見えなくなるまで見送ると、観念したように紫薇に顔を向けた。
「…聞いていたの?」
紫薇は慌てる様子もなく、ただいつもと同じ目付きの悪い顔を向けた。もしかすると紫薇もどんな顔をして良いのかわからなかったのかもしれない。
「盗み聞きするつもりはなかった…」
「…そう」
クレシェントは視線を逸らしてガラスの床を見た。どうして良いのかわからない。ただ静寂が流れるばかりだった。
「お前がそんな風に思っていたなんて知らなかった。でも俺は…」
「わかってるわ。良いの、私の独りよがりだから。気に…しないで」
口ではそういっても動揺を隠せなかった。紫薇もそれから先を口にしようとしたが出来なかった。
風が二人の髪を靡かせた。
「…夜風に当たり過ぎると風邪を引く。程々にして置けよ」
適当なところで紫薇が口火を切った。そして階段を降りていった。クレシェントから見れば逃げるようだったかもしれない。
紫薇の姿がなくなると、クレシェントは体を回して外の景色を眺めた。だがどうにも落ち着かない。じわりと胸の奥が痛むとクレシェントは手で胸を抑え、ぐっと目を瞑った。意思とは裏腹に、目尻から涙が一つ頬を伝った。
静かに扉を閉めた。と同時に紫薇は何故か体がふら付いて扉に背中を寄せた。動揺しているのかと紫薇は自分に問いかけた。
「…妖精の名が聞いて呆れる」
二人の話はだいぶ始めの方から聞いてしまっていた。階段を上り、二人が抱き合っている姿を見て紫薇は胸の中が妙にもやもやした。初めて味わう感触だった。じっとりと汗ばみ、喉が枯れ、無性に腹が立つ。子供染みたことだと頭ではわかっている。しかしその感情を抑圧することが出来なかった。
「私の好きな人が幸せになってくれれば良い」
その言葉を聞いた瞬間、嫉妬の炎は嘘のように消えた。そして紫薇はそのときに気付いてしまった。自分もクレシェントに恋をしていたことに。
「…違う」
口では否定しても体は嘘を吐けなかった。心臓の高鳴りは一向に止まない。寧ろ痛い位だった。それに伴って深い罪悪感が紫薇の胸から背中を貫いていった。
「最低だな、俺…」
紫薇はぎゅっと唇を噛んで口許に血を滲ませ、少しでも自分に罰を課した。もうこれ以上自分の心を惑わせないように。絵導紫薇が愛しているのは、羽月綾なのだと強く強く心の中で念じた。
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