70話 阿吽の恐怖
白い町並みを緩やかな流れの川が流れていた。人の手によって計算され、水の流れは直角に曲がったり、弧を描いてアーチを作ったりした。ロメルニア地方と呼ばれる芸術都市は爽やかな色合いの住宅の隙間を人工の川が流れ、清々しい空気を保っていた。町の至るところで絵画や彫刻が行なわれ、奇抜な服装をした人が多かった。
「まるで青空美術館だな。何が楽しくてやってるんだかわからないが、時間の無駄だな」
芸術にまるで関心のない紫薇は辺りの人間を偏屈な視線で煽った。
「まあ、おめえにゃ似合わねえから安心しな。芸術ってもんにはセンスが必要だ。おっと、人間じゃねえ妖精さまにはわからなかったか?」
音楽という芸術をこよなく愛する赤縞にとって紫薇の言葉は不快だった。
「…煽り癖は鬼になっても変わらないのか。尻を蹴飛ばすぞ」
「そんな女みてえな体で出来んのかよ?紫薇子」
その一言で紫薇の忍耐の紐がぷつりと切れた。紫薇は翅を出さずにその体を妖精に近付け、女の性を身に着けた。紫薇は煽りに対してそれほど我慢強くなかった。特に最近はその言葉に敏感になっていた。
「寝小便小僧はいくつになっても餓鬼のままか」
「てめえ…ぶん殴るぞ」
その一言で赤縞の忍耐の紐がぷっつりと切れた。赤縞は鬼の力を静かに解放しながら額から角を生やした。赤縞は煽りに対して我慢強かった。しかしその言葉が出れば角を生やさない訳にはいかない。
ロメルニア地方に着いてから一時間もしない内に二人は路上の真ん中で睨みを効かせていた。通行人は二人の動向を止めようともせず、景観の一部として眺めていた。
ロメルニア地方の人間は自分のことに興味は強いが、他人に疎い傾向にあった。要するに冷めていた。
そんな中、一人の女が赤縞と紫薇に近付いた。
「あのー」
二人はほぼ同時になんだと叫び、その女に顔を向けた。鮮やかなピンク色のペレー帽を被った絵描きの女だった。洋服は膝まで伸びた作業着を着ていて、赤や緑の絵の具で汚れてしまっていた。
「喧嘩は良くないですよ。まずは話し合って問題を解決しましょ!」
小柄な体をしていたが、肝は据わっているらしい。はっきりと二人の顔を見ていった。
「このデリカシーの欠片もない男が悪い」
「その言葉だけはおめえにゃ言われたくねえな」
「まあまあ、落ち着いて。折角の逢瀬が台なしですよ」
その女の一言で赤縞と紫薇の思考が一瞬止まった。
「彼氏彼女の喧嘩って生で見ると迫力ありますねえ」
どうやら痴話喧嘩と思っていたのか、けらけら笑い出した。
「冗談は止せ、どうとち狂ったらこんな暴力無知鈍感男とそうなる?」
「そりゃ俺の台詞だ。こいつはな、言ってみりゃ人間の屑みてえな奴だぞ」
再び二人は唸り合った。それを見てその女はまた呵々大笑した。
その後も二人はその女に何とか誤解を解こうと何べんも説明したが、笑うばかりで一向にわかって貰えなかった。そのうちに二人は疲れてしまい、もうどうでも良くなった。そのときにその女は笑わせて貰ったお礼にロメルニア地方を案内するといい出し、半ば無理矢理に二人の手を引いた。
「お二人はどれくらい滞在する予定なんですか?」
「特に決めていない。用事が済めばさっさと引き上げたいね」
「そんなこと言わずにしっかり観光して行って下さいよ。そりゃ観光事業じゃノーティカ地方には負けちゃいますけど、この町は文化と芸術の都なんですから。お土産だって色々なものがありますよ」
「先に帰ったって構わねえぞ。俺はこの町が気に入った。洒落てて落ち着いた雰囲気が良いじゃねえか。こういうところでゆっくりしたいねえ」
「今から老後の心配か、気は楽なもんだ」
「折角の町並みがてめえの薄汚え言葉で台無しだよ、くそったれめ」
「赤縞さん!そんな言葉を女性にしちゃいけません!」
急に目を三角にするその女に赤縞は思わず身を引いて驚いた。
「良いですか?ロメルニア地方は女性優先の国です。強い言葉を使うなんてとんでもない!度が過ぎると逮捕されちゃいますからね」
「だ、そうだ。精々エスコートに気を配れよ。負け犬」
「(…後で絶対殺す)」
女の体を持っているせいで紫薇は完全に女性としての優遇地位を手に入れていた。
ロメルニア地方は女性の方に社会的権力が傾いていた。レディファーストは勿論、プロポーズは女性から、記念日は女性の方から男性に贈り物をし、一家の大黒柱はやはり女性の方が多い。ただ近年になってその権力に執着する女性が急増し、社会的な問題になりつつあった。
「ところでプラシス、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
その女性は名前をプラシス・イーファムチェントといった。
「何ですか?」
「お前、仕事は何をしてる?その形のまま絵描きか?」
「えっと…」
初めて見せた顔に紫薇はおやと思った。この国では職業を尋ねることは拙かったのかもしれない。
「本当は秘密…って訳じゃないんですけど、実は私、絵描きじゃないんです」
「実は絵も描かないぷー太郎ってか?」
「違いますよ、もう。私、王宮で働いているんです。守護兵団として」
「その形でか…」
紫薇は道理で肝が据わっていると納得した。それと同時にある考えが紫薇の頭を過ぎった。
「こう見えても王様を傍でお守りする近衛兵なんですからね」
「仕事は長いのか?」
「うちの家系が代々近衛兵だったのでとんとん拍子に進めました。でもちゃんと試験や実技をこなしたんですよ。絵画だって美芸師として少しでも優秀になる為に練習している訳なのです」
「美芸師か…確かロメルニア地方で経験を積んだ響詩者のことだったな」
「正確にはロメルニアの国家資格を合格した人たちのことです。大抵は卒業した後にこの町に残って芸術の腕を磨きますけど、中には他の地方に赴いて新しい刺激を求める人もいますね。最近はそういう人が多いですけど」
「成程…もう少し美芸師のことについて聞かせてくれ」
「…?」
赤縞は妙なわだかまりを感じていた。こんなにも饒舌な紫薇は今迄に見たことがなかったのだ。そんなことを思っていると矢庭に頭の中に紫薇の声が聞こえた。
「(…赤縞、聞こえるか?)」
急な出来事だったので赤縞は思わず紫薇を二度見した。紫薇は熱心にプラシスの話を聞いていた。
「(自然な振りをしてろ。お前の頭の中に直接語りかけている)」
「(…おめえいつの間にそんなこと出来るようになったんだ?)」
「(便利なもんだろう?妖精の体は)」
ふふんと勝ち誇った笑い声まで頭の中に響いて赤縞はけっと呟いた。
「(それよりこんな妙技をやってまで俺に何が言いてえんだ?)」
「(赤縞、お前…プラシスをどう思う?)」
「(…どういう意味だ?顔はまあ、可愛いんじゃねえの?)」
「(そんな学生みたいなこと聞いてんじゃない。見たところ、胆力はあるがさして腕力はない体の作りだ。赤縞、この女ふん縛って王宮まで連れて行くぞ。首に刃物でも突き付ければ悲鳴を上げて大人しくなるだろうよ)」
「(おめえ人間の屑だな!いくら何でもそんなこと出来るか!)」
「(妖精に人の心はわかり辛くてね、少しぐらい傷物にしたところで胸は痛まん。あの裏路地に入ったところで仕掛けるぞ)」
頭の中で赤縞に有無をいわさず伝心を切り、紫薇は爪先を曲げて裏路地に二人を促した。
「あれ?こっちに来ても面白いものないですよ?」
「たまにはこういう場所でも拝んで置きたいのさ。悲鳴を上げられても誰も気にしやしないからな」
「え?」
きょとんとするプラシスの横顔に紫薇は腕を思い切り差し出した。手の平がプラシスの背中にあった壁を叩き、彼女を逃げられないようにしている。
「悪いが人質にでもなって貰おうか。どうしてもこの国の王様に会わなきゃいけないんでね」
赤縞はその光景を見て苦虫を噛んだような顔をした。傍から見ればチンピラがいたいけな女を脅しているようにしか見えなかったからだ。
「絵導さん、初めからそれが目的だったんですか?」
「肝が据わった女は嫌いじゃないんだがね…いや、偶然にもお前が王宮に勤めている人間で助かった。そうでなければあしらって終わりだ」
「そうですか…」
顔を項垂れながらプラシスは目を瞑った。紫薇は流石に酷いことをしてしまったかなと思ったが、そんな人間が作った道徳観よりも、自分にはもっと優先させるものがあるとぐっと背徳感を胸に仕舞った。
「じゃあ、そんな人は逮捕しちゃいますね」
「…何だって?」
その言葉の意味を理解する前に赤縞はいつの間にか周りに集まっていた複数の気配を感じ取った。
ぞろぞろと美人だが気の強そうな女たちが裏路地を囲むように集まってきていた。絵の具や墨の着いた仕事着の下に薄い鎧を纏っている。どうやら嵌められたのは赤縞と紫薇とようだった。
「隊長、ご無事ですか?」
兵士の一人がプラシスに向かって尋ねた。
「ええ、妙な気配がしたから気になってはいたけれど…念の為に信号を出して置いて良かったわ」
急に大人びた言葉を使い始め、それが彼女の本当の姿なのだろうと知ると紫薇は焦った。
「絵導さん、貴女を婦女暴行、誘拐未遂、並びに王に対する不穏分子として逮捕します。貴女には黙秘権がありますが、実刑は免れないでしょうね」
ふふっと冷たく笑うプラシスに紫薇は食えない女だと思った。
「お前がじゃじゃ馬どころか煮ても焼いても食えない女だというのは身に沁みてわかった。だがな…奥の手はまだある」
そこで初めて紫薇は妖精の翅を繰り出した。青い鮮やかな色彩が紫薇の背中から舞い上がり、相手を威嚇する強烈な模様がその場にいた人間の目を欺いた。
「よ、妖精…?」
傍でその姿を目にしたプラシスは、紫薇の面影にかつて御伽噺で聞いていた妖精の姿を重ねてしまい、無意識に恐怖を感じ取ってしまった。
「…悪かったな」
「え?」
紫薇は赤縞の首ねっこを掴み、翅を羽ばたかせる前にプラシスにぼそっと謝ると空に舞い上がっていった。
「空に逃げたぞ!」
「追いかけろ!」
雲まで飛んでいった赤縞と紫薇を見上げながら、兵士たちは次々と裏路地から走っていった。ただ一人、妙な気持ちの昂ぶりを感じているプラシスを残して。
「お前、こっからどうすんだ!」
あっという間に町を一望できるほどの高さまで引っ張られ、赤縞は完全に慌ててしまっていた。
「黙ってろ!高さを維持するだけでも死に物狂いなんだぞ…!」
懸命に翅を動かしても飛ぶことを知ったばかりの紫薇には誰かを持ち上げながら飛ぶには早過ぎた。紫薇は間隙に下降しながらも辺りを必死に見回し、王宮を探した。庭園のような作りの町並みの中、米粒ほどの人の群れが一列になってとある建物の前に並んでいた。背の低い塔が幾つも並び、中心に丸い窪みがある建物だった。そこが王宮に違いないと踏んだ紫薇は背中に力を入れ、徐々に徐々にその建物に落ちていった。
「赤縞、ここからは別行動を取る。お前は上手いこと身を隠せ」
「おい、マジか!」
王宮の傍にあった背の高い塔まで近付いて赤縞を放り投げた。
赤縞は悲鳴を上げそうになりながらも塔の上にへばり付いて身を縮ませ、出来るだけ外から見られないように建物の影に隠れた。
無理をし過ぎて妖精の翅はいつの間にかぼろぼろになってしまっていた。風に身を引き裂かれたように翅が散り散りになってしまっている。半ば地面に落下しながら紫薇は王宮の中に侵入した。
落下予測をある程度していたのか、紫薇が地面に降り立ってから数分も経たないうちに兵士たちが紫薇の周りに集まって来ていた。
「ちっ、仕事の早い連中だ」
紫薇は妖精の翅を修復する時間もないまま兵士たちと戦うことになってしまった。
兵士たちが懐から抜き放ったのは剣の形をした彫刻刀や槍の形をした万年筆、細長い筆の棒だった。ロメルニアの兵士たちは自分たちが使う武器ですら装飾を施したがっていた。
先に駆け出したのは紫薇の方だった。翅を消さずに折り畳み、地面での機動力を上げて右腕を鉤爪状にしながら兵士たちに突っ込んだ。すると雪崩れるように次々と兵士たちが紫薇に向かい、激剣を繰り広げていった。
揉みくちゃになりながらも紫薇は間隙を縫って兵士たちの武器を手で叩き割り、彫刻刀で突いてきたときには手の平でその切っ先を受け止め、そのまま掴んで武器を奪うと遠くに放り投げた。複眼となった今の紫薇には相手の動きがとても緩やかに見えた。
「(セルグネッドと違って個々の力が強い…この目である程度の動きを見切れるのが幸を成したな)」
続いて紫薇は懐に飛び込むと、妖精の手の平を兵士たちの鳩尾に当て、あたかも高速で移動したように兵士たちを一片に吹き飛ばしていった。
「(徐々にだが、妖精としての能力を実感して来ている。自分の体なのだから当たり前といえばそうだが…)」
妖精の力を使いながら紫薇は改めて自分の体は人間ではないのだと実感させられてしまった。
「…少し、嫌な気分だな」
やっとのこと妖精の翅を修復すると陰鬱な気分になりながら翅を広げた。翅の色は鮮やかな青い色彩になった筈なのに、紫薇の顔はどこか冷めたままだった。
そんな紫薇の気分を差し置いて兵士たちは隊列を組み直し、紫薇を囲むようにして並んだ。そして言葉を寸分違わずに同調させながら、十人がかりの共鳴奏歌を具現化させ始めた。その間、紫薇は黙って兵士たちの動向を待った。
輪になった隊列の上、雲の隙間から巨大な塔が真っ逆さまに落ちてきていた。石を削って出来た塔の先が紫薇の真上を狙って来ている。十人で創り上げた概念の大きさとその規模は並外れていた。
「流石は美芸師と呼ばれる兵士なだけはある。確かに強烈で鮮烈で、尚且つ繊細な人の概念を上手く導き出している。これだけでも立派なものだ」
しかし紫薇はその概念を見上げながら少しも動揺しなかった。
「だが…これが人の限界、どう足掻いたところで妖精に触れられる訳でもない。だから敢えてこの台詞を口にしてやる」
妖精の腕を肩まで変化させると着ていた衣服が弾け飛び、細い腕に真っ白い体毛が靡いた。肘の関節はなくなり、一本そのままの腕になると紫薇はその腕を鞭のように頭の天辺で撓らせた。その途端、落下していた塔は先っぽから亀裂を生みながら真っ二つに裂かれ、更に二つ三つと枝分かれし、塔は石や岩の残骸となって紫薇の周りに落ちていった。
「慄け、人間ども。そら妖精がやって来たぞ、さっさと家に帰って蹲れ。身の毛の弥立つような、恐ろしい妖精がどこかへ行ってしまうまで」
その言葉通りに辺りにいた兵士たちは紫薇の顔を見るなり心身ともに脅え出していった。
「そんな…十人がかりの共鳴奏歌をたった一人で…」
後になって駆け付けたプラシスはその光景に唖然としてしまった。瓦礫の雨が降る中、エメラルドグリーンに目を光らせながら御伽噺に現れた妖精が立っている。その姿に誰もが恐怖し、空想と現実の区別がつかなくなってしまっていた。無意識に、意識的に、阿吽の恐怖が見る者の心を蝕んでいった。
だがそんな中、一人だけ恐怖に抗いながら突き進む人物がいた。体の半分以上が植物に覆われ、まるで葉っぱに身を包んでいるかのようだった。背中には淡い紅色の花弁が付いていてそこから長い触手が伸びていた。
「お、王…!」頭を下げながらプラシスは驚いた。
魔姫と同じ赤い目が紫薇の目を見詰めた。パーマのかかった長い金色の髪の毛を靡かせながらじっと佇んでいる。その容姿は虜になってしまうほど端正で、妖艶なものだった。
「ロメルニアの君主は王女だったのか…」
その人物の名をルーフェン・ロメルニア・ラフティペルチェフォンといった。ロメルニア地方の王女でありながら、亜人としての長を務めている『雅香族(ミチェルネルスト)』の一人であった。
「(…親玉が向こうからやって来るとは予想外だったが、さてどうする?)」
紫薇が思考を張り巡らせる前にルーフェンは懐に差してあった剣を抜き放った。ルーフェンの背中にあった花と同じ色をした刃だった。
「(…顔に似合わず好戦的な女だな)」
抜き放たれた刃が地面に突き刺される。すると紫薇の周りに刃と同じ色の膜が張られ、ドーム状になって紫薇を封じ込めた。
紫薇は直感的にその膜が見た目よりも強固なものであると感じ取っていた。そこで腕に力を出来るだけ込め、その結界を一気に打ち破ろうと画策した。
とそのときだった。ルーフェンの背中の花から伸びていた触手が刃と同じように地面に潜り、計四本の触手が地面に吸い込まれるようにして伸びていった。そして地面を掘りながら紫薇を囲っていた膜を通り抜け、ドームの真下からその触手の先が文字通り口を開いた。蝿取り草のように小さな牙を持った触手は紫薇の体に一瞬で噛み付いた。人間の腕と妖精の腕に食い付き、赤い血と黄色い血を吹き出させていった。
体に巻き付きながら牙のある触手は紫薇の体液を啜っていった。その内に紫薇は体の力が抜けていくのを感じた。咄嗟に腕を振るい、人間の腕を噛んでいた触手を切り落としたが、妖精の腕を食んでいる触手がまだ残っている。紫薇は頭をぐら付かせながらもその触手を握り、一気に解き放った。どろりとした黄色い血が地面と服を汚した。
やや大袈裟といって良いほど体をふら付かせて紫薇は意識を取り戻し、再度妖精の腕に力を込め始めた。ふと紫薇は地面を潜っていた触手の数を思い出した。そして残っていたもう二本の触手が紫薇の背中に突き刺さった。
その二本の触手は牙のある触手と違って大分細く、注射器のように紫薇の体に食い込むと、その細長い体をポンプのようにして今度はルーフェンの方から液体か何かを紫薇の体に送り込んだ。途端、紫薇の後頭部に緩やかな刺激が巡った。
「毒…か…」
片目を閉じかけながら紫薇は妖精の翅を散らし、男の性に戻りながらその場に伏せてしまった。歪んだ視界に映った地面の先にプラシスの顔を見た。紫薇はおぼろげに馬鹿な人と、囁いたのを聞いた。
まどろみに沈みながら紫薇は心地よい香りに包まれていた。ほろ酔いになっているみたいでとても気分が良かった。意識はなかったが、紫薇は自分が横になっている場所は柔らかなベッドの上だとわかった。罪を犯しておきながら何故そんなところに寝ていられるのか。そんな疑問を他所へやってしまうほどその香りは芳しい。
ふと女性の声が耳元で囁いた。
「目が覚めたのなら、私のもとにいらっしゃい」
彼女の唇は耳に触れていた。吐息がくすぐったいと紫薇は思った。その後にひやりとしたその女性のものであろう手の平が頬を伝い、肌から離れていった。
それからややあって紫薇は覚醒した。場所はやはり白いシーツがかけられたベッドの上だった。傍に長い窓が開いていて、涼しい風と共に薄いカーテンが靡いていた。その部屋は高級ホテルの一室のようだった。部屋は広く、小さな机の上に水が入った銀のポットが置かれていた。
「虎穴のつもりが、とんだリゾート地に迷い込んだらしい」
手首を見ても手錠の一つもなかった。代わりに上着が脱がされ、上半身は裸にされていた。
紫薇はベッドから起き上がり、机の上に置かれていた水を飲んでから椅子にかけられていた自分の洋服を手に取った。
ぱっと上着を着てからベッドに目をやると誰かが座っていた跡があった。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
奇妙な感覚を抱きながら紫薇は部屋のドアを開けた。すると待ち構えていたように白い布を羽織ったプラシスが立っていた。その格好はギリシャ神話に出て来そうなものだったが、顔は仁王のようにきつい目付きだった。
「起きたのね」
「心地いいものだったよ。心付けを弾んでやっても良いと思ったね」
その言葉を皮肉だと思ったのか、プラシスは紫薇に面を近付けて睨んだ。
「…貴方が本当にあの妖精なの?」
「お望みなら翅を広げてやろうか?」
「結構よ、あんなおぞましいもの初めて見たわ。女王陛下がお待ちよ、付いて来なさい」
紫薇がむっとするのも束の間、プラシスはそっぽを向いて先に歩いていってしまった。
「…俺だって望んでこうなった訳じゃない」
小さく歯軋りすると紫薇はプラシスの後を追った。
建物の中は外で見たのと同じように美術館の作りをしていた。十歩ごとに絵画や彫刻が並び、時に本のページが開いた展示品まであったりした。全体的に白を基調として床は暗みがかかった赤い絨毯が伸びていた。
紫薇は通路を歩いている中で男の姿を殆ど見なかった。掃除をしている清掃員も女性、力仕事を続ける大工も女性、トイレに至っては見た中で一つしか男性用のものがなかった。屋根の下で女の多い暮らしをしていた紫薇でも息が詰まりそうだった。
「女が強い国だ。男女平等の文字もない」
プラシスの背中を見詰めながら紫薇はそういったが、プラシスは何も答えなかった。紫薇は視線を上げながら小さな溜め息を吐いた。
やがて着いた先には思いがけないものがあった。恐らく王室に続く扉なのだろう。二人の女兵士が扉の前に立っていた。
「これは…」
扉の形はレミアの鍵そのものだった。植物の蔦で出来たような扉の表面に独特の模様が描かれている。紫薇はその扉を見て何か嫌な感じがした。
「王女への謁見よ。開けなさい」
プラシスがそういうと扉の番人は取っ手を握り、二人同時にその扉を開けた。
思わず紫薇は白い海岸が待っていると思って身構えてしまったが、その先に待っていたのは緑溢れる温室のような場所だった。部屋の中に水が流れ、観葉植物が一つの場所にぎゅっと詰められている。その中にブロンドの髪をした女性の顔が浮かんでいた。
「ここから先は貴方だけよ。くれぐれも粗相のないようにしなさい」
目で促されると、紫薇はゆっくりと部屋の中に入っていった。だが嫌な予感はしたままだったので、部屋の中に足を入れると自然と体は硬直してしまった。
扉が静かに閉まると、紫薇は全身に力を入れた。何しろ植物の中から女の生首だけがじっと紫薇を見詰めているのだから無理はなかった。そんな紫薇の内心を気遣ってルーフェンは優しい声を出した。
「ここへ」
ばれないように紫薇は小さな生唾を飲んで足を伸ばした。
紫薇が植物の群れにある程度の距離まで近付くとルーフェンは微笑み、体を曝け出した。生首だけだと思っていた体は実は植物そのものだったので宛ら一つになっているかのように擬態していただけだったのだ。ごっそりと四肢の部分が抜けたように植物の群れに穴が空いた。
「貴方がやって来るのを心待ちにしていました」
ロメルニアの王女は本当に美しかった。その顔を間近で見た紫薇が余りの美貌に足を止めて眺めてしまったほどだった。
「どうぞお座りになって」
そういって手を掲げると、紫薇の真後ろに植物の蔦が這い回り、椅子の形を取った。紫薇はいわれるままに腰を下ろした。
同じように蔦で椅子を作るのかと思いきや、ルーフェンの植物の体が幹となって床に根を張り、立ったままの状態で話をした。
「雅香族をご覧になるのは初めてですか?」
「…ああ」
魔性の美は紫薇の思考を止めるかのようだった。紫薇はあの心地よい香りがその王女から発せられるものだと感じ取った。
「何故、俺を殺さなかった?亜人にとって…女王の血脈にとって妖精は忌むべき存在だろう」
「確かに私たちにとって妖精とは絶対的な外敵に他なりません。でも…この体に流れる本能とは別に、意思があります。意思は思想となり、やがて個性に生まれ変わります。個が違えば女王よりも妖精に寄り添いたいという考えだってあるのです」
「…妖精を崇拝でもするつもりか」
「魔の間では禁忌とされる妖精教。でも私には妖精の翅が何よりも美しかった。文献や想像画を見ているうちに私の中で何かが弾けたのです。それは新たな思想の誕生。獣を本性とする獣人よりも、人を本性とする亜人は意思が強いのです」
紫薇はもう一人、妖精の独裁的な力に魅了された亜人を思い出していた。きっと人間という種は本能を求めたとしても、やはりその根幹である意思は取り除けないのだろうと紫薇は思った。なまじ魔力なんてものがあるから、自我が強い主張をしてしまう。紫薇にはその葛藤がどうにも哀れに思えてならなかった。
「…だが逆に獣人は本能が強いせいで女王に依存してしまう。哀れな存在だ」
「ですが彼等に女王はもういません。ですが妖精は今も存在し続けている」
「生憎と俺を崇拝しても何も返ってきやしないがね。その辺りは俺の世界で崇拝されている神と同じだが」
「私は貴方を拝んでいる訳ではありません」
「…何だって?」
ルーフェンは懐から小さな木箱を取り出した。その中には淡い光を点した燐粉の塊が入っていた。その色は自分の翅と同じだった。
「これは…俺の翅?」
「始めは私もそう思っていました。でもこうして匂いを嗅いでみれば、貴方の翅とは歴然とした差があります。正反対の匂いがしますもの」
紫薇は訳がわからないままその木箱を受け取り、そっと鼻を近付けてみた。すると自分の燐粉とは違った、匂いの強いじっとりとした刺激があった。紫薇の燐粉は匂いの弱い柔らかな刺激がするのだ。
「つまり…妖精はもう一匹いるのか…」
新たな事実に紫薇は動揺した。それが同属なのか、別の種類なのかはわからないが紫薇は血の繋がった家族が出来たような気がしてならなかった。
「貴方も妖精なのかもしれません。でも私が文献や想像画で描いてきた妖精のイメージと貴方は正反対なのです。私が祈るべき妖精はもっと…女性らしさを持った慈愛に溢れる心。命の輝きを司るような存在。貴方は…まるで闇の中でぽつりと光るランプのよう…私の理想とは食い違っていますわ」
「俺は好きで妖精をやっている訳じゃない。救いが欲しいならそいつに頼め。何だって俺を殺さなかった?」
「貴方と会って話をすれば、妖精の御心が知れるかと思ったのです。私は妖精教の信者ですから」
「妖精教ね…そんな得体の知れない思想は何を企んでいるかわかったもんじゃない。現に宗教ってのは戦争の引き金になる代物なんだぞ。宗教は個人を救っても、全体は救えない。むしろ毒になってしまうものだ」
「貴方の世界と違って、この世界で宗教を発端に起きた戦争などありません」
「そうかい、じゃあいずれ起こるだろうよ」
と紫薇は思わずあっ、と声を上げた。そういうことだったのだ。虹拱結社が妖精教と通じていたのは。
「(…待て、早計かもしれない。だが他に力を失った結社に何が出来る?宣戦布告を仕出かしたんだぞ…)」
ばらばらになっていたパズルが徐々に組み上がっていく。それと同時に目の前に立っている亜人の王女、妖精教の信者の一人が創設者の後継者ではないのかと肝を冷やし始めていた。
「…もし虹拱結社が妖精の御旗を掲げて六大王制に論争を吹っかけたら、お前どうするつもりだ?」
「そんなことは有り得ません。妖精の御旗は妖精教祖だけが有しているものです」
「可能性の話だ。現実的な話をしている訳じゃない。飽くまで想像の範疇だ。お前は一つの国を纏める王女としてどう動く?」
「…わかりません。でも本当に妖精教祖が現れたのなら、自分でもどうするか」
そんなことを考えたこともなかったのか、ルーフェンは取り乱しているようだった。そう、それ程までに宗教とは恐ろしいものなのだ。傾倒した思想はときにその凶暴性に気付かないまま暴走する。そうなれば話し合いなど取り繕う暇もなくなってしまうのだ。
「その妖精教祖とはどういう輩だ?そもそも妖精教とはどういった経緯で生まれたんだ?」
「妖精教は遥か古の時代から存在していました。事の発端は後に教祖と呼ばれる人物が妖精の絵本を描き始めたことから始まりました。七色の翅に美しい女の子の姿をした妖精、そのイメージも彼が描いたと言われています」
その話は以前にジブラルからも聞かされていた。
「妖精戦争と呼ばれる童話の色付けは、その人物が仕上げたと言っても過言ではありません。獣人や亜人に伝わる妖精戦争は口伝だけで、とても形にして表現することは出来ませんでした」
「つまり…そいつが今日の妖精を作り描いた?」
そういうとルーフェンは神妙に頷いた。
「だが…そんなことが可能なのか?確かに言葉だけで伝わった部分はあるだろう。だがそれを具体的に、完全な絵として完成させるなんてそいつの妄想も入り混じっているんじゃないのか?」
「ところがそうでもないのです。何故なら私たちナーガの住人は、その絵を見たときに反射的にその形が事実だと認識したのですから」
「馬鹿な…実際に見てもいないのにどうしてそれが本物だとわかる?」
いつの間にかルーフェンは足の根っこを動かして部屋にあった本棚に向かい、そこから一冊の本を持ってきた。そしてその本を開いたときに紫薇は愕然とした。本に描かれていた妖精の図。色鉛筆か何かで詳細に描かれた妖精の翅は、姿形は違っていたが紫薇の翅の七色模様とぴたりと一致していたのだ。
「貴方の翅と同じ模様でしょう?」
小さな人間の女の子に不釣合いな、相手を威嚇するようなきつい色彩がページいっぱいに広げられている。何故かその女の子は妖精の翅と違って、幾分か雑に描かれていた。そのせいで輪郭がわからず、簡素な顔をしていた。
「その不可思議な現象を誰も認めようとはしませんでした。しかし時が経つにつれてその認識は広がり、いつしか彼は妖精教祖として崇められるようになったのです。そして教祖となった人物は今も変わらず生きています。その人物の名は、フォルコット・ラミエラオーベルデューネ。ティルシェンシス地方の片隅に、小さな塔の中で今も尚…」
「…あの男が妖精を作り描いた?」
部屋の窓がルーフェンによって開けられると、窓の向こうに高く聳える塔があった。遠い場所にあっても、その塔のどこからか妖精の創造主がじっと紫薇を見詰めているようで紫薇は背筋を震わせた。
一瞬にしてぶつぶつと全身の汗腺が開き、皮膚が疼き出した。足が自然と後ろに下がり、気付けば紫薇はその場から駆け出していた。体をもたつかせながらいい様のない恐怖が全身を支配してしまう前に逃げた。
扉を乱暴に開いて通路に駆け出す。門番は何故かいなくなっていた。そのまま廊下を走ったがどういう訳か人っ子一人見なかった。人間のいない美術館に迷ってしまった様で紫薇は気が可笑しくなりそうだった。その混乱を煽ぐように次々と妖精をモチーフにした芸術品が紫薇の目を目まぐるしく過ぎていった。彫刻や木版、妖精の翅を描いたステンドグラスに旗、どれもこれもが少女の形をして自分と同じ妖精の翅を持っている。幾ら走っても、何度も扉を開いて別の部屋に移っても、そのイメージは紫薇の傍を離れなかった。それどころか少女の妖精の目がじろりと紫薇に向けられ、行く先々で紫薇の恐怖を深めた。
視線が覚束ないまま汗だくになって走る中、終に開き切ることのなかった扉が終幕を迎えた。そこは長方形の部屋だった。赤い絨毯が敷かれ、左右に絵画が飾ってあったがそこの妖精の姿は描かれていなかった。
紫薇は息を切らして膝を笑わせ、背中を曲げて顔中から汗を垂らした。ぽたぽたと汗が絨毯に染みる。すると急激にその絨毯は中心から窪み始め、まるで底なし沼の様に紫薇の両足を飲み込んでいった。
咄嗟に紫薇は妖精の翅を広げようとしたが何故か体に女の性は加わらず、妖精の翅も現れなかった。紫薇は死に物狂いで辺りに手を伸ばしたが掴まれそうなものはなかった。とそのときだった。紫薇の手を誰かが握り締めたのだ。紫薇は驚きながらもその人物に目をやった。
色鉛筆で描かれた少女の妖精が手を掴んでいた。紫薇は咄嗟に手を自分から離した。じっと紫薇を見詰める少女の目が余りにも精気がなくて、それがただの人形だったことに気付かないまま紫薇は沼の中に飲み込まれていった。
沼の下は仄かに光った暗闇が広がっていた。紫薇はそこに真っ逆さまに落ちた。そして粘着質の水の中に体を沈め、やっとの思いで水面から上がった。真上に紫薇落ちてきた沼の小さな光があるせいで辺りが微かに見渡せた。他にもその水自体が光っていて青銅色をしていた。
紫薇は兎に角その場所から動こうとしたときだった。急に足が何かに引っ張られたのだ。紫薇は何事かと思って自分の体を見てみると絶句した。十歳位の女の子の手が無数に水の中から這い出て紫薇の体を引っ張っているのだ。その手はねばねばした青銅色の水で出来ていて紫薇に絡み付きながら、徐々に水の中に引きずり込んでいった。腹から肩まで沈み、顔の半分が水の中に埋まると徐々に紫薇の目が閉じていった。まどろみが紫薇を再び襲っていた。
同じようにして紫薇の体を無数の植物の蔦が取り巻いていた。もう体の殆どを侵食され、紫薇の意識は途切れ途切れだった。ルーフェンは紫薇に気付かれないように極僅かな花粉を散らし、紫薇を幻惑の世界に堕としていた。
「…絵導っ!」
屋根を叩き壊して天井から真っ逆さまに赤縞が落下する。そしてその勢いのまま手に持っていた斧を振りかざし、ルーフェンの体から伸びていた触手を切り裂いた。赤い体液を飛び散らせるとルーフェンは悲鳴を上げて引き下がった。
「惚けてる場合じゃねえぞ!どぶ猫!」
赤縞は紫薇の体に巻き付いた蔦を手で掴み、力任せに引き千切って蔦の中から紫薇の体を引きずり出した。蔦はルーフェンと紫薇を繋げていた器官を切断されて殆ど動いていなかった。最後に背中に刺さっていた触手を引き抜いて赤縞は紫薇の背中を膝で思い切り押した。
「…ぐっ!」
強烈な痛覚が紫薇を幻から呼び覚ますと、紫薇は口から緑色の液体を吐き出した。その内に王室の扉を開いて続々と女兵士たちが赤縞と紫薇を取り囲んでいった。
「逃がしませんよ。妖精である貴方を取り込めば、妖精教の真理に辿り着けるかもしれない。それに…王宮に忍び込んだ罰を与えなくては」
「はっ、罰を与えんのは鬼の役目なんだよ。獄卒なめんじゃねえ!」
鬼の咆哮を一つすると赤縞の体が赤縞と巫、両者の鬼の力を宿し始めた。額から鬼の角を一本だけ生やし、片目を山吹色に輝かせ、虎のような黒い爪を伸ばした。
「あの世に行きたくねえ奴ぁ、頭引っ下げてろ!」
床に減り込んだ斧の持ち手を握り締め、腕の筋肉を膨張させた。
『赤縞流 赤兎暴れ』
手に込められた余りの握力に鉄の持ち手がひん曲がっても尚も力を込めて赤縞は斧を振り回した。その瞬間、斧から発せられた衝撃波が辺りに吹き荒れ、その部屋の壁や天井を吹き飛ばしていった。個々の実力が高いロメルニアの兵士たちは逸早くその気配を察知し、誰もが頭を下げてか細い悲鳴を上げた。
赤兎馬が暴れ回った後のようにその部屋は半壊し、そのずさんな光景にルーフェンですら呆気に取られてしまっていた。王室は膝から上の部分は全て削り取られ、王宮の周りにはその残骸が飛び散っていた。
「まあ、こんなもんか」
「お前、いつの間にこんな…」
目を半開きにしながら紫薇は赤縞の背中を見上げた。
「ゾラメスの腕をぶった切ってやっただけはあるだろ?オラ絵導、綺麗さっぱり壁は取っ払ってやったんだ。さっさとずらかんぞ!」
紫薇はいわれるままに妖精の翅を広げ、赤縞は斧を肩に乗っけて王室から逃げていった。台風でも過ぎ去ったような王室では誰も二人を追いかけようとはしなかった。ただ何が起こったのかわからず、ただ漠然と二人の背中を眺めているだけしか出来なかった。
王宮を抜け出し、ロメルニアの街中を赤縞と紫薇は駆け抜けた。紫薇は翅を動かして滑空していたが、やはり体に回った雅香族の毒は強烈で、次第に妖精の姿を保っているのも難しくなっていた。そうしてふらふらと蛇行を始め、終には再び意識を混濁させて地面に落ちてしまった。
「あんの馬鹿野郎!」
落ちた先は住宅の屋根の上だった。赤縞は思わず悪態を吐いて後ろを見た。王宮から女兵士たちが次々とやって来ている。中には弓を構えようとしている兵もいた。矢は貫き易いように先端が捻れていた。
「ちんたらしてられねえか…」
赤縞はその場から跳び上がり、紫薇が倒れている屋根の傍に降り立った。すると紫薇の傍にコートを頭から被った人物が立っているのを赤縞は見付けた。
その人物は赤縞が身構えるよりも前に声を上げた。
「こっちよ!」
その言葉に従うべきなのか赤縞は少しの間考えたが、放たれた矢がやって来ると赤縞はその矢を手で掴み、傍に放り投げてその人物を信じることにした。屋根の上を走り、途中で紫薇を肩に乗っけるとその人物の後を追った。
その人物はロメルニアの地理に詳しいのか、人気のない裏路地ばかり通っていった。やがて町の隅に辿り着くと、国境のように辺りを囲んでいる壁に辿り着いた。コートの女性はその壁を指伝いに触り、壁に仕込まれた隠しスイッチを押した。すると壁は独りでにその口を開けていった。その技術はジェルファ王家のものと同じだった。
「この先の森を抜ければ、ロメルニアの兵士たちでもまず追ってこれないわ」
壁の向こうには深い森林が広がっていた。
「お前、まさか…」
頭に被っていたコートを脱いだのはプラシスだった。素顔を見せると、プラシスは意識を失っている紫薇の顔を睨んだが、すぐにどこか寂しそうな顔をした。
「良いのかよ?お前、責任者か何かなんだろ?」
「…そうよ。こんなこと本当は許されない。でもね、私も妖精教を信じているの。この人が妖精なのだとしたら、少しでも力になりたい」
プラシスはそっと紫薇の頬に触れながらいった。
「はっ、宗教って奴もたまには良いことするもんだ」
赤縞は初めて宗教というものに、いや、それを崇拝する人間に感謝した。
「さあ、もう行って!妖精をお願いね」
「あんがとよ。妖精に代わって礼を言って置くぜ。妖精サマもさぞお喜びになるだろうよ」
プラシスは壁の穴から紫薇の姿を見送ると、静かに壁をもとに戻していった。その際、赤縞に向けて気を付けてと呟いた。
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