69話 獣どもの鎮魂歌
青い新雪を踏み締めながら巨大な鉄門をジブラルは見上げた。厚着をしているから寒くはないが、雪は嫌な思い出を蘇らせる。寒さ凌ぎに煙草を一本点けると、白い煙が色濃く立ち上った。
「…この場所に来るのも久し振りね」
ナーガに於いて唯一武力を持たされることを許された国家、ジェルファ。主要都市を鉄の門で囲い、更に芸闘士と呼ばれる兵が警備していた。難攻不落の要塞とも見て取れるその国は、長い時間 一切の侵入を許していなかった。
「さっさと終わらせてメディストアのところに行かなきゃ」
ビルと同じ位の高さの鉄門の傍には税関を兼ねた入国審査所があった。ジブラルは煙草を咥えたままその場所に近付いた。正門ではなかったので簡素な作りの、テントのような受付には肌の白い、筋肉質な男がいた。首や胴回りが太く、熊のような体で髪型はモヒカンだった。
「旅券を見せて下さい」
言葉は丁寧だがやや無愛想だった。低い声で相手を抑え付けるような物言い。
ジブラルは黙って懐から青い手帳を取り出すと机に置いた。その手帳を男が手に取り、大事な要項が書かれているページを見ると目を細め、視線をジブラルに向けた。丁度、煙草の燃えカスを指で弾いたところだった。
「ジェルファ王に合わせてくれる?」
「…恐れ入りますが、急な訪問ですので時間がかかります」
「そうね、じゃあどこか宿にでも泊まって知らせを待つわ。宿の場所はこっちから連絡するから」
「承りました」
淡々とした会話のやり取りだったが、男は妙に緊張した面持ちだった。仕切りに瞬きをして落ち着こうとしているのがよくわかる。
手続きを済ませると男はテントの椅子から立ち上がり、鉄の門に近付いて大きな手の平で門を引っ叩いた。すると門の下の部分に小さな穴が空いてそれがぐるぐると回りながら穴を広げ、人が四人くらい横に並べる位の大きさになった。
ジブラルはそそくさと穴の中を通り、鉄門に囲まれた町の中に入った。生ぬるい煙がジブラルの目を覆う。ジェルファ王国は地熱を利用して地面を絶えず温めていた。地面に煉瓦状の床が広がっていて、その隙間から小規模の間歇泉が噴き出ていた。寒いのにむわっとした蒸気がジブラルの体をしっとりと濡らすと、ジェルファの町並みを広げた。
敷地が狭い、二階建てや三階建ての小さな塔状の家々が所狭しにあった。どの家も薄い金属製の煙突があって、そこからも煙がもくもくと上がっていた。煙の割には外を出歩いている人間が少ない。ジェルファの国民は総じて家の中でまったりする傾向が強かった。そのせいで肥満率が高く、福与かな体をした人間が多かった。
ジブラルは蒸気を何度も浴びながら目的の場所に歩いていった。住宅街の向こう、全鋼で出来た城を目指していた。城というよりはプラントと表現した方が正しい。傍に六角形い台座のような建物が重なり、要塞と化していた。
煙草が半分くらいになった頃、ジブラルはふと歩くのを止めて立ち止まった。哀愁に漂うのはこの位にして置こうと思ったのだ。住宅の作りは背が低いものの、隣接した地方なのでジェルファと、ジブラルの生まれ故郷であるオリファント地方は良く似ていた。嫌な思い出があっても、ジブラルにとって青い新雪は懐かしむべきものだった。
最後に煙を深く吸って吐き出すと、携帯灰皿に煙草を入れ、火を消した。そして自分の体が再び水蒸気に隠れると全身に奏力を行き渡らせ、爪先を蹴った。青い軌跡を描きながら空を駆け、時に住宅の屋根に乗ってまた空を駆ける。瞬く間にジェルファの城に辿り着いた。その挙動は一般人はおろか訓練された芸闘士といえども感知することは難しかった。
城の正門を跳び越え、難なく城の天上に忍び込むことに成功したジブラルは、頭の記憶を頼りに数の少ない窓を見付け出し、右腕を変化させて鋭い指先でガラスの表面に円を描いた。そして傷のついた窓に手の平を吸着させ、窓を刳り貫いて城の中に忍び込んだ。窓は中に入る際にもとに戻し、隙間風が零れないようにした。
十メートル位の高さから床に静かに降り立った。スパイ顔負けの技術だった。ジブラルは幼少の頃から度々リーンの城から抜け出していた。生まれ付き潜入任務の才があったのかもしれない。
城の中の作りは壁に鉄板を取り付けたような味気のないものだった。そのせいで歩く際には足音に気を付けねばならなかった。鉄板自体が淡い光を点して照明がなくても辺りを見渡せた。都合の良いときに傍に誰もいなかった。ジブラルが降り立った場所は各部屋を行き来する通路のようだった。
さてどうしたものかとジブラルが考えた矢先、通路の奥から強い気配を感じ取った。誰かがやって来る。ジブラルはその気配を逸早く察知すると息を潜め、体内に迸る奏力を出来るだけ緩め、体を屈めてその場をやり過ごそうとした。幸いにも傍に身を隠せそうな台がある。ジブラルはそこに隠れ、通路の奥からやって来ている人物の視界から消えた。
足音が次第に大きくなってくる。ジブラルは緊張の余り喉を鳴らした。いつの間にかジブラルの中に見付かってはいけない、そんな使命感が生まれていた。兵隊のブーツが床を蹴る。ジブラルは更に身を屈め、息を殺した。
ふと足音が傍で止まった。見付かったのかもしれない。だがジブラルは冷静に状況を見極め、未だ相手にこちらの姿が見られていないと悟ると呼吸を止め続けた。このまま通り過ぎてくれと心の中で念じる。
とその兵隊は鼻息を短く吹いた。
「お転婆癖はまだ直っていないのか、フォレスミュア」
ジブラルはその声を知っていた。懐かしい感情が込み上げると、ジブラルは同じように鼻で笑い、ゆっくりと自分の姿をその人物に曝け出した。
「…お久し振りね、シュガシス叔父様」
叔父と呼ばれたその人物はジブラルの姿を見ると、始め少し驚いた顔をしたが、知っている雰囲気を感じるともとの険しい顔に戻った。髪の毛のない頭に被っていた軍帽子を脱ぎ、手で汗を拭うとまた帽子を被った。背はジブラルよりずっと高く、二メートルを越えていた。顔は縦長で顎と頬に溜まった無精ひげ返ってシビアな印象を見る者に擦り付ける。服装はスーツに大きめの皮のケープを羽織っていた。その人物の名をシュガシス・ジェルファ・オーファベルデューツといった。
「その様子だとまだご健在ね。叔母様は…」
「まあ、待て。ここでは都合が悪い。俺の部屋に来い。ちょうど酒をかっ食らおうと思っていたところだ」
「タイミングは良かったみたいね」
そういってジブラルはシュガシスの後を追いながら廊下を渡っていった。途中、何人かの芸闘士がシュガシスに敬礼をして立ち止まった。ジブラルに気付いているようだったが、そのことに触れようとしなかった。シュガシスの無言の圧力があったからだ。ジブラルは小奇麗に礼を済ませ、足早にシュガシスの後を追った。
グラスに砕いた氷を入れて透明な液体が注がれた。じわりと中の糖分がグラスの底でうねる。用意した二つのうちシュガシスは片方をジブラルに手渡すと、背もたれのある椅子にどっしりと座った。
王であるというのに自室は狭かった。薄いオレンジ色の光を点したランプが一つあるだけで他に照明がない。椅子は二つだけで事務用の机と汚れたカーペットが敷かれているだけだった。軍人気質だからだろうか。ジブラルは椅子に座る前に指でなぞって埃を確かめた。掃除はさせているようだった。
グラスが二つ傾いてごくりと喉を鳴らした。凄まじい高さのアルコール度数だった。お酒好きなジブラルでも思わずぐっと噛み締めるものがあった。
「…安い酒ね、これ。王様なんだからもっと美味しいの飲んだら?」
「酒はこれだけで良い。他のはみな小便と同じだ。甘ったるい酒もどきを飲む輩の気持ちがわからん」
「にしてもこれ爆弾より酷い味よ」
そういうとシュガシスは鼻で笑いながらがぶがぶと酒をあおった。酒を飲みながらシュガシスはジブラルの顔をじっと見詰めた。
「…あの娘がここまで大きくなったとはな。自分が老いたように感じる」
「ま、一端に一人で歩けるようにはなったわ」
「お前がゼルア級になったと聞いたときには複雑な気分になった。生きていたと喜ぶべきなのか、かの大貴族が犯罪者に下落したと忍ぶべきなのか…だが、お前の目を見る限り、他のゼルア級にはない輝きがあると知れた。それだけでも賛美に値する」
「でも人殺しよ?闘争を何度も繰り返したわ」
「人殺しは俺もやった。若い頃は闘争に明け暮れたりもした。だが兵士として最も大事なことは、自分を見失わないことだ。冷静に状況を把握し、常に最善の策を練る。それは兵士でない者にとっても同じことだ。お前は、その高貴なリーンの血筋はそのことを一番に理解している。その若さでそれに気付けたんだ、叔父としてこれ以上嬉しいことはない」
「…相変わらずのロマンチストね、軍人なのに」
苦笑いしながらいった。
「思想なき軍人はただの殺人鬼だ。ロマンも思想の一種、捨てるには忍びない。良い男でも見付けたか?フォレスミュア。愛は良いぞ、戦場で生き残る糧になる。この間も男の手料理を作ってやった」
「そして変わらぬ愛妻家ね」
はっはっはとシュガシスは豪快に笑った。しかし酒をぐびりと飲むと、不思議なことにその熱気は冷めていった。シュガシスという人物にとって酒は、己を冷静にさせる道具に過ぎない。
「ところで…何の用があって来た?ずっと顔を出さなかったお前が、今になって顔を出す。妙な偶然だ」
「協会に頼まれたのよ、虹拱結社の現総帥が六大王制の何れかである可能性が高いらしくてね」
ジブラルは特に腹の探り合いをする訳でもなく、あるがままに説明した。
「…成程、小癪な手を使う」
「ねえ、どうにも腑に落ちないんだけど、こんな下手な策を使うものなの?協会って。もっと高度な…諜報的な活動をするものだって聞いたけど」
「虹拱結社に身を置いて少しは世の中がわかるようになったか」
「…知ってたの?」
「当然だ。だが何も虹拱結社に所属することが害悪な訳ではない。あの結社に入り、社会に対して論争を行なうということは有意義なことだ。ただ武力に頼るのならば話は別だが」
話が積もってくると、シュガシスは机の引出しから木箱を取り出し、その中から太い葉巻を取り出した。シュガシスが葉巻を口に咥えると、ジブラルは反射的に火を点けた。シュガシスはその背景を予想すると顔を歪めた。水商売は嫌いらしい。
「協会の話に戻るが…そもそも協会が設立されたのはゼルア現出によるものと世間一定では伝わっているが、実際はそうではない。協会のもとになったのは前セルグネッド王家の司法、及び諜報活動を行っていた部署が独自に発展していったものだ。現在の六大王制に落ち着き、セルグネッドの王政が衰退した際、完全な独立機関として成立した。故に奴等は隠蔽や諜報に長ける」
煙草を吸ってから酒を飲み、また煙草を吸った。
「一昔前の協会は活動そのものが極秘扱いされていた。それこそ霧でも掴むようだった。フィルバースとは元来の意味は濃霧という意味だ。可笑しくなり始めたのは最近になってからだ。あの若造が現会長の補佐に回ってから、少しずつ軋みが生じるようになった」
「…リカリス・オフュート」
「大方あの若造に吹き込まれた。お前もそんなところだろう。気に食わない奴だが頭は回る。俺の間諜が調べたところによれば、奴の背後に妖精教が関与していることがわかった」
「でも妖精教っていったって、それほど信者はいないでしょう?」
「信者の数はさして問題ではない。我々の深層心理には妖精に対する崇拝と畏怖が刻まれている。何か善からぬことを企んでいるのは確かだ」
ジブラルは確かに紫薇が妖精になったとき、心の奥底が自分の意思とは無関係に震え出したのを思い出した。
「ってことはリカリスの奴が妖精教と繋がっているなら、キジュベドも同じってことかしら?」
「…キジュベドか。最近になってその名を聞くようになった。奴はセルグネッドが保管、そして封印していた月を奪っていったらしい。お前が虹拱結社にいた頃、無意識の火薬庫を送り付けたのも奴の仕業だと聞く」
「その月はどうしたの?私がばらばらにした後、空に返したワケ?」
「いや、協会からの報告では消滅したらしい。ああ、月で思い出したんだがな、今ちょっと奇妙なことが起こっている」
「奇妙なこと?」
「ナーガから月が消えたのだ」
「…月が?」
ジブラルはその話を聞いて愕然とした。
鬱蒼と茂ったジャングルの中をクレシェントとプランジェは突き進んでいた。文明の香りがまるでしない場所のように思えるが、意外にも均された道があった。ただそれは半ば獣道になっていて、時おり道が野草に紛れてどこを歩いているのかわからなくなりそうだった。しかしクレシェントはモルバ地方を訪れてから体中から力が漲り、道に残った僅かな匂いを頼りに走った。それは体の中にクレシェントの象徴と血液を取り込んだプランジェも同じで、二人は自分でも気付かない内にその目を真紅に染めていた。
「プランジェ、少し休憩しましょう」
森の中に小さな川を見付けると、クレシェントは立ち止まった。それに続いてプランジェが汗を頬いっぱいに垂らしてやって来た。
「畏まりました。それではおやつに致しましょう」
川で汗を拭った後、二人は持参した弁当箱を開けた。
「しかしこの森は不思議です。いつもより力が沸いて来るのですから」
座っているとプランジェの赤い瞳はもとの薄いブルーに戻った。
「不思議な森ね。植物も何だか大きいわ」
その辺りに生えていそうな草花は通常の三倍から四倍はあって色の濃さが違った。最早種類が違うといっても良い。
モルバ地方は全体の三分のニが深い森林に覆われ、そのテリトリーが王族の住む場所だった。定まった城を持たないモルバの王族は気侭に移動を続け、宛ら森のキャラバンのようだった。気候は温室とほぼ同じで局所的に雨が降る。作物や工芸品が主な主産物で実に様々な人種が交わり、暮らしている。獣人の八割はモルバ地方に暮らし、国民性は至って楽観的だった。
モルバ地方の端に降り立った際、クレシェントとプランジェは道で偶然に知り合った『緋兎族(カルケッツ)』と呼ばれる紫薇の世界で兎に似た獣人に、王の居場所について尋ねた。
「ああ、それならこの道をずっと行った所が王族の縄張りだよ。縄張りって言っても出入りは誰でも許されてるし、運が良ければ王様にご拝顔できるかもね」
「そうですか、ありがとう。プランジェ、行きましょう」
「あっ!ちょっと待って!」
「何か言い忘れか?」
「うん、道を教えてあげたんだから…ほら、お金」
ふかふかの柔らかそうな手を何度も曲げてお金をせびった。
「…プランジェ、こっちのお金持ってる?」
「そういえばナーガの通貨なんてすっかり忘れていましたね」
「何だよ!身なりは豪勢な癖して素寒貧か!ちえっ!教えて損した!」
ぷんぷんと小麦色の頬を真っ赤に染めて離れていった。
モルバ地方の国民性は楽観的だが金銭に強い執着があり、裏表のない性格だった。作物や工芸品が主産物なので貧富の差が激しい。しかし食べ物には困らないので他の国よりもお金にがめつい部分が目立つ。
『 「…………………」 』
二人は複雑な顔をしながら笑った。
羽月が作ってくれた弁当を二人で半分ほど食べた頃、クレシェントの川の音に紛れて奇妙な音を耳にした。からからと何かを回すような音だった。
「プランジェ、何か聞こえない?」
「これは…荷車の音です。もしかしたら王族のキャラバンが近いのかもしれません。行ってみましょう」
慣れた手付きでぱっぱっと弁当を仕舞い、クレシェントに弁当箱を持って貰うと二人は耳を頼りにその音に向かっていった。
五分ほど走ると思った通り、二人は荷車を引いた旅の一行を目にした。全体的に丸みを帯びたデザインの荷車に果物や野菜がはみ出るまで詰まれ、荷車をゆっくりと灰狼族や緋兎族、それに『金猫族(ビリチュア)』や『銀鳥族(モルメン)』の獣人たちが楽しそうにお喋りしながら引いていた。
「…プランジェ、さっき話したことは覚えているわね?」
「はい、もし彼等がクレシェント様の正体を知り、襲いかかって来ようものなら即座に撤退する、でしたね?ご安心下さい、あれだけの獣人を相手に戦おうとするほど愚かではありません」
意気揚々と話している獣人たちだったが、その目は女王の魔力を引き継いだ強い力の色に染まっていた。もし彼等を怒らせ、その本性を垣間見ようとするならば命は幾つあっても足りないだろう。特に灰狼族に関して二人は以前に酷い仕打ちを受けたので否応にも喉を鳴らしていた。
「すみません」
緊張した面持ちを出来るだけ隠しながら、まずクレシェントがその一段に近付いた。
「はい、何でしょう?」
獣人の中で最も温和といわれる金猫族の女性がクレシェントに対応した。三毛猫をそのまま人に似せたような姿で、三種類の濃さのブロンド髪が靡いた。
「お野菜か果物でもお求めですか?新鮮で栄養満点だから美味しいですよ」
続いて他の獣人たちも二人に気付いて荷車を止め、中に入っていた作物を取り出した。野菜や果物は丸々と太って身が引き締まり、とても美味しそうだった。
「いえ、ちょっとお尋ねしたいことがあるんです」
クレシェントはほっとしながら話を続けた。和やかな空気を確認すると、プランジェも後ろからやって来て会話に参加し始めた。
しかし束の間の平和はあっさりと破られてしまった。獣人の中で最も賢いとされる銀鳥族の一人がクレシェントの顔を見た途端、狂ったように叫び出した。
「…か、壊乱の魔姫だ!ゼルア級が出たぞ!」
拙い、そうクレシェントが思った矢先だった。獣人たちの目が一斉に赤く光り、手に持っていた野菜や果物が手元から落ちると、その音を引き金に次々と獣人たちはその本性を露にしていった。
巨大な狼が現れたかと思えば、真っ赤な緋色の毛皮をした恐ろしい形相の兎の化け物に、太い後ろ足で立ち上がる黄金の猫、始祖鳥の姿に似た攻撃的な姿を持つ怪鳥に行く手を阻まれてしまった。獣の数は全部で八匹、それら巨体が木々を踏み締め、辺りを影で覆いながらクレシェントとプランジェに狙いを定めた。強い王族の血筋なのか彼等の大きさは通常の個体よりも大きかった。
クレシェントは止むなく剣を具現化させ、臨戦態勢に入ったが果たしてプランジェを庇いながら八体もの獣を相手に出来るのだろうか。最悪、魔姫になってしまうかもしれないという危機感まであった。
「止さんか、戯け者共が」
いつの間にかクレシェントの傍には小さな中年が立っていた。背はプランジェと同じ位で、あのヴァルベットと同じ緑色のポンチョを羽織っていた。ただ顔付きこそ似ているものの、柔和な顔をしていた。
だがその人物の声は本性を現わした獣共には届かなかった。涎をだらしなく垂らし、何か強い力に支配されてしまっているようにも見て取れた。
「…やはり完全に我を失ってしまうか。せん無きことよ」
頬にしわを寄せながら溜め息を吐いたその後に、両目を大きく開いた。赤い、ルビーのような目が一際輝くと、その人物の体は瞬く間に変貌していった。
大きな遠吠えが周りの獣を威嚇する。胸を張り、自分の体を相手より強大に見せ付けるその様は圧巻だった。獣人の中で最も巨大な体を持つとされる灰狼族。その長であり、モルバ地方を治めるその人物は周りの獣が子供と思えてしまう程だった。
獲物を捉えた筈の捕食者たちが更に力の強い存在に気付き、おっかなびっくりに体を後退させた。
「これが…獣人大帝と呼ばれるモルバの王か…」
プランジェはその壮大な姿を眺めながら息を飲んだ。その者の名はイオラルト・モルバ・ノーアリビージュテイルといった。
モルバの王によって正気を取り戻した獣たちはもとの姿に戻っていった。モルバ王も肉体を人間に変化させ、小さな形になるとクレシェントとプランジェを連れてゆっくりと話が出来そうな森の中の囲いに行った。
「まずは先ほどの無礼を詫びたい、我等が母よ」
石の上に腰を下ろすとモルバの王は頭を下げた。日本のお辞儀とは少し違って顔を前に向けたまま顎をそのまま下げる。ちょうど犬がこれから寝ようとする体勢に似ていた。
「…この体の中に巡っているものをご存知なんですか?」
クレシェントは王が頭を下げたことよりもそのことに驚かされた。
「無論…と言いたいところだが、いざ実際にこの鼻で確かめるまではとても信じられなかった。まさか壊乱の魔姫と呼ばれた犯罪者が、かの女王だったとは誰が予想したか。いや、誰も思うまい」
「どうやって私を…女王の力を引き継いだ者だと見分けたんですか?」
「我ら獣人の長であるモルバの王族と、亜人の長であるロメルニアの王族には代々ヴィシェネアルクの匂いが引き継がれている。ま、口で説明するよりも嗅いで貰った方が早いかの」
そういって手を叩いて先ほどの獣人たちを呼び寄せた。するとからからと木製の車輪を動かしながら荷台を引いてきた。その荷台にはまっすぐに伸びた一本の牙が積まれていた。その長さは三メートルはあり、長い時間が経っていて表面が乾燥してしまっていた。
「…これは?」
「ヴィシェネアルクの牙だ。尤も一番小さい部分だが。嗅いでみんさい」
いわれるままにクレシェントはその牙に近付いて鼻の先を寄せた。牙から発せられる独特の匂いが鼻腔を通り、脳を刺激した。匂いは自分の口臭と似ていた。
「……………………」
クレシェントは何だか自分の口の臭いが知らない人たちに知られているようで複雑な気分だった。試しに嗅いでみようとしたプランジェを駄目よといって遮った。
「哀愁の念を感じるだろう?」
「…そうですね」
感情を抜きながらいった。
「匂いもそうだが、こうして眺めているだけでも女王の力をひしひしと感じる。ゼルア級としての超越力などではない…深い、血溜まりのような湖。決して悪いものではないのだ。そう、全ての命がそこで生まれ、帰るかのようなイメージだ」
クレシェントの背景に赤い湖を見たのか、モルバの王は母親を眺めるような自分の墓標を眺めるような目をした。
「母よ、今一つ問おう。汝は我らの女王として君臨するか否か」
予想だにしなかった問いにクレシェントはどうして良いかわからなかった。いつの間にかモルバの王は人間から獣人に変わり、それに伴い辺りにいた者たちも獣の形をしながらじっとクレシェントを見詰めた。
「遥か古に我らを産み落とした母よ。そなたが望めば、我ら魔性の者共はロゴスを捨て、再び母のもとに還りましょうぞ。そして今度こそかの妖精を噛み砕き、その翅を食い散らさんと誓いを立つ」
「…妖精を?」
脳裏に紫薇の姿が過ぎった。
「そう、我らは一度その身を妖精に滅ぼされておる。そこに再び命の芽を吹き入れて頂いた。同時に、幾つかの種に人間としての性を授けたのだ。それが獣人、亜人と呼ばれる祖となった」
「あの御伽噺は史実だったというのか…」
「左様、我ら獣人の祖は古よりその事実を秘めてきた。いずれあの憎き妖精の息の根を止める為に」
その瞳に込められた積年の恨みが否応にもクレシェントとプランジェの喉を鳴らした。
「母よ、我らが怨敵の匂いを今一度嗅いで頂きたい。そして思い出して欲しい、遥か古の時代から続いてきた我らが本懐を」
そういって懐から小さな木箱を取り出した。それを片手で開けてみせると、中には青や赤、紫の光に染まった手の平大の粉の塊があった。それはクレシェントが以前、妖精となった紫薇の翅から零れ落ちたものと同じだった。
「…クレシェント様」
不安な目でプランジェはクレシェントを見た。クレシェントが思っていることは彼女も同じだったのだ。
本当にナーガを滅ぼしたのは紫薇なのだろうか。クレシェントは心の中で否定しながらも、その粉を見続ける度に少しずつその事実を受け入れてしまっていた。妖精と女王は戦う運命にあるのか。そんな疑惑を抱きながらクレシェントはその粉の匂いを嗅いだ。
「(…違う)」
稲妻を浴びたような刺激がクレシェントの全身を過ぎった。色は全く同じだが、その根幹である匂いがまるで違ったのだ。ただそれはどこかで嗅いだことのあるような匂いだった。
「思い出して頂けたか?」
クレシェントの思考を中断させるようにモルバの王は箱の蓋を閉じた。
「さあ、そなたの意思をお聞かせ願いたい。我らが女王、ヴィシェネアルクよ」
「私は…」
真実はまだわからない。ただ一つだけわかっていることは、自分と紫薇が戦う運命ではないという可能性が残っていることだった。
「私は貴方たちの母ではありません。まして女王でもない。私は壊乱の魔姫、闘争のイコンであり罪深い女。母は死にました。もう、本能を渇仰する必要はありません。新たな道を歩んで下さい」
その言葉は獣人や亜人としての遺伝子、深い血の記憶に刻まれていた女王の言葉と同じだった。その記憶を本能で感じ取るとモルバの王、そして女王を仰ごうとしていた獣人たちは無意識に涙を流していった。
獣たちの遠吠えが静かに響き渡る。それは母への餞でもあり、自分たちへの鎮魂歌でもあった。
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