第七章

68話 二人きりの卒業式

 「…さ、寒い」

 紫薇は乾いた空を見上げながらふとそう呟いた。白い息が寒々しい。

 制服の上からモッズコートを着ていても北風の厳しさは募るばかりだった。手編みのマフラーをしっかり首に巻いて、頭には厚い生地で出来たハンチングを被り、その下に獣毛の耳当て、毛糸で出来た手袋を嵌めながらポケットに手を入れても尚も紫薇にとって寒さは大敵だった。

 「おめえ、なんだその格好は?」

 見世物小屋の動物でも見るかのような顔をして赤縞はいった。厚着を重ねた紫薇と打って変って赤縞の格好は至って普通の、冬用の制服だった。ただ靴下の代わりに足袋を履いている辺りが赤縞らしかった。

 「もう初冬に近付いているんだ。嫌でもこんな格好をする…」

 「どぶ猫が」

 「下駄を履いているような奴に言われたくないんだがね」

 二人はいがみ合いながらも横に並んで通学路を歩いていった。

 「そういやお前、また休んでたろ」

 校舎が見えてきた辺りで赤縞は紫薇の顔を一瞥しながらいった。すると紫薇は視線を俯きがちにした。

 「何かあったらてめえは必ず休むからな。亜美からも夜香街でお前を見かけたって連絡があった。今度は何を仕出かしたんだ?絵導」

 紫薇は目を細めたまま何も答えなかった。いや、答えられなかったといった方が正しい。その証拠に口が半分だけ開いているのにそこから声が出なかった。

 「まあ、お前が話さねえってんなら俺には関係ねえよ。好きにしな。ただ俺は、お前に話さなきゃならねえことがある。蘇芳、いや藤原のことだ」

 意外な話の内容に紫薇は素顔を取り戻して驚いた。

 「昼飯時になったら話してやんよ」

 そういうと赤縞は歩幅を広げて先に行ってしまった。何となしに赤縞の背中が物寂しそうに見えて、紫薇は思わず立ち止まって溜め息を吐いた。

 わかってはいた。赤縞が信頼に足る人物だと。ただそれでもやはり自分のことを話すのは気が引けてしまう。紫薇の中で誰かに話を聞いて貰いたいという気持ちがわだかまってしまっていた。


 午前中の授業を終えると、赤縞に呼び付けられた通りに屋上に向かった。北風が募ってからは屋上で昼食を食べることはしなくなっていた。教室で机をくっ付けながら寄り添うようにして談笑する。それが近頃だった。

 赤縞は一足先に屋上に出て、手すりに凭れかかりながら空を見上げていた。紫薇はコートを羽織ながら身を縮ませて赤縞に近付いた。

 「…朝に蘇芳と、藤原のことで話があると言っていたが、お前どこまで知ってる?」

 赤縞の隣に立ってグラウンドを眺めながらいった。

 「もう少ししたらわかる」

 以前として空を見上げたままの赤縞に紫薇は怪訝な顔をした。

 校舎のグラウンドでは野球部やサッカー部の生徒が昼休みの時間を削って練習に励んでいた。紫薇は球打ちや球蹴りのどこが面白いのがさっぱりわからなかったが、寒波に負けず汗を流している生徒を見るとどこか体が疼いていた。

 十分ほどした後に、思わぬ人物がやって来た。それはこのところずっと顔を見せていなかった藤原だった。だが紫薇はその藤原を見ておやと思った。藤原の雰囲気ががらりと変わっていたのだ。おどおどと、おっかなびっくりに歩いてくる。

 「よォ、藤原。こっち来いよ」

 何気ない赤縞の一言にも藤原は脅えていた。

 「よ、用事って何?赤縞君…」

 藤原の顔を見た後に紫薇は赤縞の顔を凝視した。

 「藤原、おめえこいつのこと知ってるか?」

 顎で紫薇を差した。

 「…絵導君でしょ?赤縞君と同じクラスの」

 ちらちらと紫薇の顔を見ながら掠れた声でいった。藤原の声は今にも消えてしまいそうで、耳を傾けないと何といっているのかわからなかった。

 赤縞はそれを聞いてうんうんと頷いた。

 「もう良いぞ帰って、手間かけたな」

 手を泳がせると、藤原は紫薇の顔を見た後に一目散に屋上から出ていった。

 「…どういうことだ?」

 「今の今までお前が会っていたのは別の藤原って訳だ。奴さん、俺のこともお前のことも知らねえみたいだぜ?」

 「別の人格でも入っていたのか?」

 「そんなもんだ。ただ中に入っていたのは別の世界の住人だった。ナーガじゃねえぞ、また別の場所からだ。レーベス・ヴィ・クタールとか言ってたな」

 紫薇は新たな世界の存在を知って考え込んだ。一体、どれほどの別の世界があるのだろうか。

 「俺が中身を目にしたのは偶然だった。ここで転寝をしてたら藤原がやって来て、人魂みてえに体から小さな光が出て来たのを見ちまったんだよ。そっからだ、ロの野郎と奇妙な交際が始まったのは」

 「ロ?」

 「そいつの名前だ。日本語にするとそう呼ぶらしい。別の世界の言語はときに文字化けみてえに聞こえるんだと。その世界の住人は言葉を発さないらしい。事実、俺もこっちの世界に来てから、周りの連中の言葉がわかり辛かった。ジジィのは特に酷かったぜ、ノイズがかかったみてえに聞こえたんだからな」

 紫薇はふと、ならばどうしてクレシェントやプランジェの言葉がすんなりと聞き取れたのだろうと、不思議に思った。彼女等は言葉はおろか文字を書くことも出来た。

 「正体を誰にも話さない代わりに色んなことを教わった。別の世界の文化や成り立ち、ロの野郎がどういう目的でこの世界にやって来たか…まあ、驚きの連続だったわな。中でもお前のことに関しちゃこと笑わせて貰った」

 「俺のことも知っていたのか…!」

 「ああ、つってもそれは極最近に聞かされた話だがな。それ以降、ロの野郎は藤原の体から離れたまんま、一度も顔を合わせてねえ」

 紫薇は短い溜め息を吐いて目を閉じた。自分で話すよりも先に知られていたことが衝撃だった。赤縞は、どう思っているのだろう。紫薇はそう思うと目を開けられなかった。しかし赤縞が話したのは意外なものだった。

 「妖精、ね…確かにそんなのが自分の正体だったらそう簡単に話せねえわな。だがよ、実は俺もちょっとばかり変わった血脈だったのさ。俺の親父は、碌でもねえ男らしい。破壊と混沌の守護者、恐怖の大魔王だとよ。俺の中に、その力の片鱗が眠ってる。それがいつか暴走するかもしれねえ。俺の意思とは無関係にな」

 いつの間にか紫薇は目を開いて赤縞の顔を眺めていた。これは偶然なのだろうか。紫薇と赤縞の境遇は余りに似過ぎていた。ただ自分と違うのは、赤縞はその事実をしっかりと受け止め、涼しい顔をしていることだった。

 「だからお前の気持ちはわからァ。突き付けられた事実に、どうしたら良いのか迷ってんだろ、お前」

 「…お前は、どうしてそんなに落ち着いていられる?自分が自分でなくなるかもしれないんだぞ?それなのに…どうして…」

 「歳寒の松柏、ジジィがいつも口にする言葉だ。どんなに辛く苦しい状況になっても、自分の信念を貫き通すって意味だ。どんなに変わっちまっても俺は俺だ。根っこの部分に、自分を信じるもんがありゃあ、んなモン恐かねえんだよ」

 その言葉は紫薇の胸の中に深く突き刺さった。

 「自分を…信じる…」

 「絵導、おめえにゃ俺と違ってジジィはいなかった。でもよ、そんな風にでも考えねえとやってけねえだろ?いつまでも鏡なんざ見たって答えは出て来ねえよ。ならそのときが来るまで、精々足掻いてやろうじゃねえか」

 赤縞の言葉が紫薇の腹に、臍下丹田に深く沁み込んでいった。淀んでいた心が澄み切っていく。このとき、紫薇は自分でも気付いていなかったが、悲しみに満ちた紫色の翅は、鮮やかな青い色彩に変わっていた。

 「しかしあれだな、こうまで境遇が似ていると何だか兄弟みてえだな」

 赤縞はわははと笑った。

 「お前と兄弟だなんて反吐が出る。遠慮したいね」

 紫薇は少しだけ口角を緩ませながらいった。

 「本気で言ってる訳ねえだろ。誰がてめえみたいな奴と一緒になるか」

 「…駄犬が」

 「…どぶ猫」

 二人はきっと睨み合ってから顔を綻ばせて静かに笑い合った。

 紫薇は否定しながらも赤縞がいってくれたことがとても嬉しかった。家族はもういないけれど、自分を励ましたり背中を押してくれる人たちがいる。それが紫薇にとって何よりの喜びだった。


 教室に戻ると榊原や節木が首を長くして待っていた。その隣には最近になって一緒にお昼を取るようになった葛川や卯月、白那美がいた。紫薇にとってかけがえのない学校の友達だった。後にこの七人は学校を束ねる赤縞組として恐れられることになろうとはこのとき、誰も知る由を得なかった。

 「あ、そういえば絵導君さ」

 お手製の弁当を突っつきながら榊原がいった。

 「実は今、氷見村先輩が入院してるって話、知ってる?」

 「いや、初めて聞いた。何があったんだ?」

 「私も聞いた話だから詳しくは知らないんだけど…氷見村先輩、何かの事故に巻き込まれたみたい。病院に搬送される所を何人かの生徒が見たんだって。目なんか真っ赤になっちゃって、大変だったみたいよ」

 「…あの男のことだ、その内ひょっこり戻って来るだろう」

 紫薇は特に気にしない素振りを見せたが、内心かなり心配していた。

 「まあ、見舞いにでも行ってやるか…一応あれでも先輩だしな。どこの病院なんだ?」

 「それがさ、ちょっと変な話なんだけど…」

 急に顔を曇らせる榊原に紫薇は首を傾げた。

 「いないのよ、氷見村先輩」

 「…いない?」

 「氷見村先輩のファンの子がお見舞いに行ったんだって。でも面会拒絶っていうか、そんな人はいないって門前払いを受けたみたいでさ。でね、その中の子のお父さんが大学病院のお偉いさんで、変だからって調べて貰ったみたいなの。そしたらね、氷見村先輩がその病院に搬送されたのは確かなんだけど、それからすぐに変な団体の人たちが来て氷見村先輩を連れていっちゃったんだって」

 「へー、おっかない世の中になったもんだねえ」

 本気でそう思っているのかわからないが、節木は気味悪そうな顔をした。

 「…アブダクション、かな」

 「巧徒、宇宙人じゃないんだから。きっと誘拐よ、秘密組織が絡んでいるんだわ」

 二人の話を聞いて白那美は手を額に着けてやれやれと嘆いた。

 「警察沙汰にならなかったのが不思議だな。それだけ騒ぎゃ一人くらいはチクっただろ」

 「それがさ、相手が外国人だったみたいで話が通じないし、当の病院はてんてこ舞いだったみたいよ。相手は小難しいことが書かれた手紙一枚を突き付けてハイ、さようならって感じだったみたいだし」

 「…どこの国の人間だった?」

 紫薇は少し嫌な予感がしていた。

 「英語だろ?映画みたいなシチュエーションだし」

 「それが…どうも違うみたい。英語でもなければ、医療と関係のあるドイツ語でもない。しゅっしゅっって…口笛の失敗みたいな言葉、フランス語だったって…」

 紫薇はその話を聞いた途端、何故か脳裏にクレシェントを創り上げた人物の絵が浮かび上がった。


 そんな筈はない。紫薇は何度も心の中で自答しながら帰り道を歩いていた。

 気さくで、いつも人の為に努力を続けてきたお人好し。氷見村がはにかむと自然と周りの空気は和み、いつしか紫薇はそれが恋しいとさえ思ってしまうほどだった。そんな氷見村が、自分にとって初めての友達が、酷く曖昧な場所に立っている。敵なのか、味方なのか。いや、それよりも紫薇は氷見村との出会いを自分勝手に運命的なものと思ってしまっていた。あのとき、氷見村と出会って、話をしていなかったら今の自分はいないだろうと。紫薇にとって氷見村は唯一無二の存在だったのだ。

 街路樹の向こう側に人影を見付けると、紫薇は一切の考えが止まった。

 「…氷見村」

 もうそこに立っていたのはかつての氷見村ではなかった。全身に包帯が巻かれ、体は枝のように痩せ細ってしまっていた。包帯の隙間から見え隠れする赤い瞳からは只ならぬ怨みと憎しみが描かれている。ただ紫薇はその人物の匂いをとても覚えていた。残り香といった方が正しいのかもしれない。その証拠に、変貌した格好とは裏腹に聞き慣れた口調で氷見村は紫薇の名前を呼んだ。

 「やあ、紫薇」

 赤い目が、恨めしいと紫薇は思った。

 「お前のことを調べてみたら、随分とたくさんの埃が出てきた」

 「一番始めに君と出会ったときが懐かしいね」

 ふふふと笑う氷見村の頬は痩せこけてしまっていた。しゃれこうべのように出っ張った頬骨が紫薇の喉を乾かせた。

 「風紀委員という役職に就いているにも関わらず、学校の出席日数は俺よりも酷いそうだな。確かにお前と会った回数はそれほど多くはなかった」

 「そうだね、向こうで用事があったからあんまり帰って来てはいないや」

 そういいながら細い手で懐からソフィの合い鍵を取り出すと、さして取りとめもせずに眺めた。見せ付ける気はあったのかもしれない。

 「…ずっと、黙っていたのか」

 途中で喉が何度も突っかかりそうになったが、紫薇は自分の口でそういった。すると合い鍵を眺めていた氷見村の視線が徐に止まり、赤い双眸が紫薇を見詰めた。

 「怒ったかい?」

 「いや…」

 紫薇は何故か笑った。自分でもよくわからないが、喋りながらふっと笑った。

 「お前らしいと思ったよ。不思議とそういう気持ちは歩いて来なかった」

 「僕ってそんな風に見えてたかなあ?」

 氷見村は乾いた声で笑った。以前と同じ、女性のような男性のような笑い方だった。

 「僕を殺すのかい?」

 「お前を殺してやる理由がない」

 「じゃあどうする?一緒にどこかに駆け落ちでもしようか。言っていなかったっけ?この体は、君との子供が産めるんだよ。セレスティンにそういう風にして貰ったからね」

 「本当にいかれた科学者ってのはいたんだな、素直に驚いた」

 「そうだよ、彼は最高に狂ってるのさ。但し、頭は超一流だけどね」

 二人の会話は本当に普通だった。年ごろの、仲の良い友達同士がふざけた話をしている。ただそれだけなのに紫薇の目は今にも滲みそうだった。

 「一連の繋がりはお前の仕業か」

 一頻り笑った後に紫薇はいった。

 「わかる?そうだよ。デラに壊乱の魔姫、テテノワールの引渡しをしてあげたり、くすぶっていた虹拱結社を動かすようにも仕向けた。後はね、君を監視するようにも言われていたっけ、君のお父さんにね…。まあ、それは僕だけじゃなかったみたいだけど」

 「…そうか」

 短い溜め息を吐いてから語尾を詰めていった。

 「学校はどうするんだ?風紀委員がいなければ学校の秩序が乱れるぞ」

 「あははっ、風紀委員にそんな権限なんてないよ。君の方が良く知ってるでしょ?僕らはただの雑用なんだからさ」

 「そうだったな」

 「もう学校で氷見村を演じる必要もないし、一足先に卒業することにするよ」

 「なら賛辞でも贈ろう。卒業、おめでとう」

 「どうもありがとう」

 二人の小さな拍手が街路樹を静かに流れた。その間、二人の視線はお互いを見詰めたままだった。

 拍手はほぼ同時に終わった。ふっと冷たい北風が最後に咲き残った銀杏の葉っぱを飛ばすと、紫薇は目から涙を流しながらいった。

 「俺たちは、友達のままか?」

 「僕は君の捕食者となる。君は僕にとってただの餌でしかない。もう、友達ごっこは終わりだよ、妖精」

 氷見村の言葉が冷えた瞬間だった。

 「…わかった」

 目を指で払い、はっきりと氷見村の目を見定めながら、紫薇は自分の肉体を変化させた。表情に艶を施し、背中から妖精の翅を羽ばたかせた。その際、電子音のような音を出して翅が光ると、悲しい色をしていた紫色の翅は、鮮やかな青い色、霜哉やフィアテリスが身に着けていた群青の妖精のかけらと同じ色になって、翅を七色に染め上げた。

 「氷見村、お前が俺に仇名すというのなら、俺はお前を止めてやる。だが俺の縄張りを荒そうものなら、この忌まわしい力を使ってでも…お前を殺す」

 紫薇の心はもう決まっていた。氷見村という存在が自分たちにとって外敵だとわかったときからもう紫薇は、戦う覚悟、妖精としての自分を受け入れる覚悟が決まっていたのだ。その意思の力を象徴するように翅の光は強く輝いた。

 「そう、その力が欲しいんだ…」

 だが当の氷見村は紫薇を、妖精を一目見たときから頬を紅潮させていた。全身の性感帯が敏感になり、汗をべっとりと垂らしながら恍惚の表情を浮かべる。乳房を弄り、今にも自慰にふけりそうな勢いだった。しかしこけた自分の腕を見詰めるとその昂ぶりは急激に萎れ、代わりに血気が全身に巡って腸を煮え滾らせた。

 「だがその前にあの女だ!あの糞女を貪り尽くし、蹂躙し、地獄を味合わせてやる!俺の力を奪ったあの女!壊乱の魔姫!妖精、あの女郎に言って置け!お前はこのキジュベド・デウロ・ラ・カーミラが殺してやると!」

 紫薇の体よりも細い体格をしていた氷見村だったが、憎悪は氷見村の体を何倍にも膨れ上がらせ、捻れた殺気を辺りに撒き散らした。

 「誰にも手出しはさせない。ここは、俺の縄張りだ」

 その殺気に負けず、紫薇はしっかりと氷見村の目を睨みながらいい放った。エメラルドグリーンに光った目の中に氷見村の素顔が何人も映し出されている。目を凝らしてみなければわからないが、今の紫薇の目は複眼のように小さな丸い膨らみが幾つも集まっていた。そこに映った氷見村の姿は様々な表情をしていた。

 「前口上をべらべらと…どっちつかずの優男が!良いだろう。壊乱の魔姫も、蒼昊の悪女も、そしてお前も!全員まとめてぶち殺してやる!敵は俺だけだと思うな…虹拱結社は再び動き出すぞ」

 「虹拱結社だと…?奴等はもう…」

 紫薇はその言葉に耳を疑った。

 「間もなく戦争が始まる。その波に飲まれるよう、精々気張ることだ。お前はもう、人間ではないのだから」

 差された指先がぐりぐりと喉を通すようだった。ぴんと張られたキジュベドの手を見ながら紫薇はそう思った。

 生暖かい風がもう秋の終わりだというのにひとつ吹いた。体が寒いのに背中がへばり付く。紫薇は思わず顔をしかめて目を瞑り、次に瞼を開いたときにはもうそこに氷見村、いやキジュベドの姿はなかった。

 宣戦布告。現実味のない言葉が紫薇の頭にぼんやりと浮かんだ。だが紫薇はすぐに気を張り詰め、いなくなったキジュベドの場所を強く睨み、翅を羽ばたかせた。

 もう誰にも傷つけさせない。いつの間にか紫薇はそう呟いていた。

 

 家に戻った紫薇はすぐにプランジェにクレシェントたちを呼び付けるようにした。急な出来事にプランジェは何事かとたじろいだが、紫薇の剣幕を見て事態を察すると慌てて携帯に手を伸ばした。

 「羽月、飲み物を三つ頼む…一つは緑茶が良い、有馬焼の湯のみで淹れてやってくれ」

 それだけいうと紫薇は電話を手に取った。


 さながら何かの会議をするかのようにリビングにはコーヒーが二つ、緑茶が一つ置かれた。それと紫薇の分のコーヒーとプランジェの分のホットミルクがあった。それらを取り囲みながら紫薇に呼ばれた赤縞、クレシェント、ジブラルが席に座った。

 事情をあらかた説明し、一同は頷いたり腕を組んだりして紫薇の言葉を嚥下していった。

 「戦争…そんなものがナーガで起ころうとしているのね…」

 「虹拱結社はあんときずたぼろにしてやっただろ。今になって戦争をおっ始めるような余力はねえんじゃねえのか?」

 「ああ、だがあの言い方だと、とてもはったりには思えない。ジブラル、械節の他に何か別の機関はあるのか?」

 「…ないと思うわ。協会との論争に押されてから、結社そのものが麻痺していた状態だったから。それをゾラメスが一人で切り盛りしていたのよ」

 「だがそれは虹拱結社の総帥が留守にしていたからではないのか?」

 「仮にその人間が帰って来たとして、残っている械節を立ち上げたとしても戦争なんて大規模なことは出来ない筈だ。無意識の火薬庫もあのときにがらくたになったしな」

 「もし…その結社の総帥がゼルア級だとしたら?」

 一同はクレシェントの言葉に目を見張った。

 「でも虹拱結社の創設者だってマクシミオ級のもとになった人間よ?」

 「そのマクシミオってのは何をやらかしたんだ?殺しか?」

 「マクシミオとはもとは思想家であり、虹拱結社を結成した革命家の名前だ。ナーガにおいて初めて論争というものを立ち上げた人物で、当時やっと纏まり始めていた六大王制に異を反し、結社を設立した」

 「三つの犯罪者を闘争のゼルア、論争のマクシミオ、競争のアレイドって呼んでるわ。アレイドは端的に言えば普通の犯罪者ってところね」

 「マクシミオは今でも生きているのか?」

 「最終的に新設された協会に捕まって獄死したそうよ。自殺したって話もあるみたいだけど、真相は闇の中みたいね。何しろ協会が唯一情報の提示をしなかった件だから何かあると思うわ」

 「…どこの世界でも通じるところは同じか」

 紫薇はやれやれと肩を竦めるとコーヒーを啜った。

 「で、どうすんだ?またどんぱちするつもりだってのかよ」

 「いや、特に何もしないさ。ナーガの人間が何人くたばろうと、俺には関係ないしな。好きにやってくれ」

 さも当然にいい放つと、一同はわかっていながらも冷めた目で紫薇を見た。

 「これが妖精だってんだから世も末ね」

 「…普通口にしないことをするのが紫薇ね」

 「人間の屑め」

 「俺は人間じゃないんでね。そういうのは人間同士でやってくれ」

 「じゃあなんで俺らを呼んだんだよ?」

 「不測の事態に備える為だ。氷見…キジュベドは、単体で動いている訳じゃない。セレスティンと繋がりがあるらしい」

 クレシェントとプランジェはお互いの顔を見合った。

 「一連の動きもそうだが、ソフィの合い鍵だって奴に作れるような代物じゃない。戦争という厄介極まりない情勢だからこそ、ナーガに赴くのは危険過ぎる。そういう闇に乗じて何をして来るかわからないからな。人間の作った道徳観には反するが、今は座視するしかないのさ。そうでないと…またあんな目に合うかもしれない」

 紫薇は台所で心配そうに耳を傾けている羽月に目をやった。

 「…そうね」

 クレシェントは神妙に頷いた。

 「なら私とジブラルだけで行動するわ。だって放って置けないもの」

 「話を聞いていなかったのか?危険だと言ったんだ」

 紫薇の声は少し荒くなっていた。

 「だから尚更でしょう?ゼルア級の私だったらそう簡単に死なないわ。紫薇だって知ってるでしょ、私の体のこと」

 「俺の指示には従って貰う。余計なことはするな」睨みながらいった。

 「悪いけど、その指示だけは聞けないわ。そのことを協会に話して、少しでも被害を抑えないと…人が死ぬかもしれないのよ?」

 二人の間に段々と不穏な空気が流れ始め、プランジェは仕切りに二人の顔を見比べていた。

 「お人好しも大概にしろ。戦争になれば一人の人間がどう足掻いたって何も出来やしない。黙ってこの世界に居ろ」

 「それは紫薇の世界の話でしょう。ナーガは違うわ。私の存在が抑止力になる」

 「お優しいことだな。協会の犬になって今度は犯罪者を皆殺しか」

 「そんなことしないわ。ただ紫薇みたいに見て見ぬ振りは出来ないだけ」

 「おい、絵導…」

 「ちょっとクレシェント…」

 見かねた赤縞とジブラルが二人を止めようとしたが、火は既に点いてしまっていた。

 「何もわかっていない糞馬鹿が…頭までけだもの並になったのか」

 「妖精の力を持っているのに、誰も救おうとしないの?とんだ宝の持ち腐れね」

 紫薇とクレシェントはソファーから立ち上がり、お互いを睨み合った。薄っすらと二人の目がそれぞれの超越力を模した色に染まる。今にも食ってかかりそうな勢いだった。

 そんな二人を見ながらプランジェはどうしていいのかわからず、ただおろおろするばかりだった。

 「おやおや、僕も間の悪いときに来てしまいましたね」

 そんな緊張をぷつりと切るようにいつの間にかリカリスがやって来ていた。

 一同の視線が集められると、リカリスはどうもといってはにかんだ。

 「(…こいつ、何の気配もしなかった)」

 初めて面を合わせるジブラルは一目でリカリスの実力の高さを感じ取っていた。

 「…間男、何の用だ?」

 紫薇の怒りはまだくすぶっていてその激情を浴びせるようにいった。

 「そんなに恐い顔をしないで下さいよ。あ、僕にもコーヒー頂けます?お砂糖とミルクたっぷりで」

 爽やかな笑顔を羽月に向けながらも、その視線は紫薇を捉えたままだった。挑発するような目付きが紫薇をより苛立たせた。

 「よっこいしょ」

 ぴんと胸を張りながらソファーに座っても紫薇は立ったままだった。

 「やっとそのお姿に成られたのですね、紫薇君…いや、我等が崇拝のイコン、アルフィリート・ヴァレオルクシアリュフォン」

 まだ妖精の姿にもなっていないうのにリカリスは紫薇の顔を眺めながらいった。紫薇は一瞬、目を見開いたがすぐに眉間に力を入れた。数秒、紫薇とリカリスの目が絡み合った。

 「…粗茶ですがどうぞ」

 その間を縫って羽月がリカリスの前にコーヒーを置いた。

 「どうも痛み入ります」

 カップが目の前に置かれると、リカリスは甘ったるい匂いのするコーヒーを丹念に嗅ぎながら口に含んだ。

 「美味しいですね。いつも不味いコーヒーとしけったパンしかないので、こういう飲み物は有り難いんですよ」

 これだけの豪傑に睨まれながらも、あっけらかんとするリカリスに紫薇は呆れてしまった。いつしか怒りは収まり、鼻息を漏らしながらソファーに座ると、他の人間も座り直した。

 「もう会うことはないと思っていたがな」

 「ふふ、人間である君に愛想は尽きましたが、妖精である貴方なら話は別だ。お話を聞いて頂けますか?」

 「…話せ」

 「結構」

 勝ち誇ったような顔をしながらマグカップを置いた。やはりあのときに殴られたことは根に持っているらしかった。

 「今現在、ナーガは水面下で厳戒態勢が布かれています。つい先日に虹拱結社から宣戦布告を言い渡されたからです」

 一同に緊張が走った。と同時にリカリスに対する不信感も募っていた。

 「械節や無意識の火薬庫を失った結社に戦争を引き起こすほどの力があるとは思えない。しかし最悪の事態を考慮して協会は厳戒態勢を決定し、各王制に働きかけました。現在も食料の備蓄や武器の調達を行なっています」

 「まさか俺らに虹拱結社と戦争をやれってんじゃねえだろうな?」

 「いえ、それよりも貴方がたにはある極秘任務を請け負って頂きたいのです」

 「極秘任務だ?」

 「…スパイにでもなれって訳?」

 「そういった類のものではありませんが…我々が手に入れた情報を照らし合わせたところによると、虹拱結社の現総帥の正体は六大王制のいずれかという結論に至ったのです」

 「なんと…」

 「行政と立法の最高権力を併用している六大王制においそれとその真偽を確かめることは出来ません。そこで貴方がたに見極めて頂きたいのです。各王が結社の創設者なのかどうかを」

 淡々と話を続けるリカリスに一同は思わず顔を見合わせてしまった。中でもプランジェはその話に強い反応を示した。

 「待て、王族の一つが結社の総帥だと?そんなことは有り得ん。それに王に謁見するなど、余程の財力か地位でもなければ不可能…まさか」

 「世界を揺るがす危険性を持ったゼルア級の方々ならば押し通る、或いはあちらから出向いて頂ける可能性があるからですよ」

 「ふざけるな!それでは益々こちら側にとって不名誉が付き纏うではないか!」

 「どういった手を扱うかは貴方がたにお任せします。先ほど言ったスパイのように潜入するも良し、ゼルア級と名乗りながら王宮を攻めるも良し。我々は全てを貴方がたに委任するのです。但し、協会はこの件に関して何の関与もありません」

 「はっ、お決まりって奴かい」

 「平にご容赦の程を」

 そういって再びマグカップを口に近付けた。

 一同は座しながら考えた。果たしてこの要求を呑むべきか否か。誰も喋ろうとはせず、黙って俯きながらそれぞれに考えた。

 「…どうすんのよ?紫薇」

 一番先に口火を切ったのはジブラルだった。

 「私は紫薇、あなたが行けっていうなら行ってあげても良いわよ。もうとっくの昔に最悪の通り名は貰ってるし、これ以上下がることも上がることもないからね」

 しかし紫薇は頑として頷かなかった。

 「俺の考えは変わらん。誰もそんな面倒事に首を突っ込む必要はない」

 それに見かねたリカリスは短い溜め息を吐いて静かに、重みを効かせていった。

 「どうしても引き受けて頂けないのであれば…そこのご婦人に手を出させて貰うしかありませんね」

 一瞬だった。リカリスがその言葉を放ちながら視線を羽月に向けた瞬間、妖精となった紫薇、黒い蔓が巻かれた剣を持ったクレシェント、妖精のかけらで右腕を変貌させたジブラルがリカリスの目の前に立ちはだかり、それぞれの武器をリカリスの体に密着させながら殺気をぶつけた。プランジェは逸早く羽月を庇うようにして羽月の前に立った。

 三人の破壊の女神が怒り、眼を飛ばす。その美貌とは裏腹にうちに孕んだ狂気が滲み出ていた。そんな光景を見慣れたもののように赤縞は黙って緑茶を啜った。ただ女の性を持った紫薇を見たのは初めてだったので少し妙な顔はしていた。

 「ここでお前の首を捻じ切ってやっても良いんだぞ」

 妖精の手に力を込めてリカリスの首に食い込ませた。だが当のリカリスは至って冷静だった。慌てる様子もなければ反撃する気配もない。視線を戻し、妖精の目を見詰めた。

 「以前、僕が話したことを覚えていますか?」

 貴方はただ踊らされているに過ぎない。その言葉が紫薇の脳裏を過ぎると窪んでいた首の皮膚が少し戻った。

 「僕を殺したいのであればどうぞおやりなさい。ただ後になって後悔するのは君の方ですよ」

 じっと目を逸らさないリカリスに、逆に紫薇は迷いを覚えてしまった。クレシェントとジブラルはそんな紫薇を一瞥しながらどうするのか、その判断を待った。

 「…………………」

 しばらくして、紫薇は目を閉じるときゅっと眉間に力を入れ、手をリカリスの首から遠ざけた。体をもとに戻しながらソファーに雪崩れるように座り、クレシェントとジブラルに向かって手を切った。

 二人は顔を見合わせ、最後にほっとした顔をするリカリスを横目で盗み見ながら武器を仕舞い、席に戻った。

 「…お前は何を知ってる?いや、どこまで知っている?」

 藁にもすがるような気持ちだった。余りの苦悩に頭痛の錯覚さえした。

 そんな紫薇の思いを察すると羽月は心配そうな顔をした。

 「全て…と言いたいところですが、実際はその上辺だけ。ただ一つだけはっきりしていることは以前にも申し上げたように、僕と貴方の敵は同じだということです」

 「その敵とは誰だ?ゼルアか?」

 「いえ、彼はただ己の闘争を満たす為だけに存在しているに過ぎません。もう貴方は一度、顔を合わせている筈ですよ?」

 その人物は思っていた以上に早く浮かび上がった。感覚的に、一番初めに現れた白い髪の男。いや、女だったかもしれない。低い老婆の声が今でも耳に残っている。

 「…フォルコット」

 実際に名前を口にすることでそれは確信に変わった。

 「僕は司法の化身、ただナーガの秩序と安寧を守れればそれで良い。今回の件もフォルコットは裏で手を引いています」

 「…キジュベドを通してか」

 「そういうことです」

 話に一旦区切りが付いた所でライターが鳴る音がした。ジブラルが煙草を吹かしたのだ。空になったマグカップを灰皿代わりに使っている。普段の紫薇なら怒鳴り声を上げても良いが、今はそれさえも億劫に思えた。

 ジブラルの煙草に乗じて各々は残っていた飲み物に手をつけた。

 「…フォルコットとは何者だ?踊らされているとはどういう意味だ?奴が…俺の母を殺したのか!」

 一同は手に持っていた容器を落っことしそうになった。テーブルに叩き付けられた紫薇の拳がわなわなと震えていた。紫薇の目が人間と妖精の間を点滅している。肩で息をしながら紫薇は歯軋りした。

 「フォルコットが貴方の母親を殺したかどうかはわかりません。僕は上辺だけしか知らないのですから。それにこれ以上の話は先ほどの件を受けて頂かなければお伝え出来ません。命を削る思いで手に入れた情報ですから」

 紫薇はすぐにわかったといえなかった。周りにいる連中の力を信用しているが、それでも何が起こるかわからないのだ。現にゼルア級であったデラですら今はいない。頼みの綱である客足の少ない店主ですら行方不明なのだ。

 「わかった。その依頼は引き受ける。但し俺一人で良い」

 一同の視線が再び紫薇に集まった。

 その言葉に驚いたリカリスだった。少し取り乱してもいる。

 「…それは困ります。ご一同で引き受けて頂かなければ。それぞれに決まった王宮を訪れて頂きたい」

 「この連中は胆力はあるが、小手先のある仕事には向いていない。返って怪しまれる可能性がある」

 「リスクは承知の上です。それに銘々の王宮に貴方がたは少なからず縁がある。リーン、貴女にはジェルファ王家に…テテノワール、貴女はモルバ王家に…フィーリアス、貴女はノーティカ王家に…紫薇君、君には赤縞さんと共にロメルニア王家に赴いて頂きたい」

 その節に通じるところを知ったのか、ジブラルは目を強張らせながらリカリスを見た。

 「残っているセルグネッド王家とヒオリズム王家に関しては僕が行ないます」

 「待って下さい。プランジェを一人で行かせられません」

 そこで初めてクレシェントが口火を切った。

 「でしたら紫薇君と同じようにお二人で行動なさって下さい。そうなれば二つの王家を訪ねなければなりませんが…」

 「構いません」

 「クレシェント様…」

 「良いのよ、本当は貴女に残って貰いたいけど、言っても聞かないでしょう?」

 そういうと勝ち誇ったようにプランジェは笑った。

 「満場一致ということで構いませんね?」

 「…勝手にしろ」

 当初の考えを引っくり返されて紫薇は不機嫌そうにいった。

 「ではこれをお持ち下さい」

 テーブルの上に白い、小さな鍵が置かれると一同の目がそれに集まった。先っぽが折れた五センチほどの鍵だった。それはソフィの合い鍵と呼ばれたものだった。

 「…これは」

 「この合い鍵にはロメルニア地方の場所が刻まれています。レミアの鍵をお持ちでない方には必要でしょう?」

 リカリスは紫薇の目を見ながらいった。

 「お前が何を孕んでいるのか知らないが、もう良い。疑うのも逆らうのも疲れた。今はお前に従ってやる。…だが」

 紫薇の目が妖精の色に染まり、足を組み替えると周りの人間の肌がざわついた。どこまでも深く続いているような暗い水底から光が現れるように、妖精の目がリカリスの心臓を捉えていた。辺りがその衝撃で軋む。

 「いずれ全てを語って貰うぞ。俺を顎で使った代金が、二束三文で済むと思うな」

 リカリスは余裕を見せ付けるように笑みを零したが、背中は汗でじっとりと濡れていた。いや、リカリスだけではなかった。クレシェントもジブラルも、赤縞やプランジェでさえ、紫薇のその妖精の力にどこか恐れを抱いていた。

 「…心得て置きましょう」

 紫薇はその言葉を聴くとやっと妖精の力を緩め、もとの目の色に戻すと黙ってコーヒーを啜った。

 「では依頼の件、成る丈早めにお願いします」

 ソファーから立ち上がり、紫薇に向かって一礼するとリカリスはそそくさとその場から離れていった。やはりナーガの人間の頭の根幹には妖精に対する恐怖があるのか、どこか落ち着かない様子だった。

 リカリスが出て行ってから誰も喋ろうとしなかった。妖精の力を間近で浴びたせいもあるのだろう。しかし一番は紫薇の不機嫌さが原因だった。

 紫薇はその雰囲気を感じ取ると小さく舌打ちをして立ち上がり、書室に向かおうとした時だった。

 「待って」

 抑揚のないクレシェントの声が紫薇を引き止めた。

 紫薇は先ほどのこともあって横顔だけを向けた。

 「向こうに渡る前にこれを渡して置くわ」

 合い鍵の隣に直径十センチほどの赤い羽根を置いた。その羽根の形は鳥のものに似ていたが、よく見れば小さな鱗のようだった。

 「…俺が慈善家に見えるか?」

 「違うわ、そういうものじゃないの。これは私の城を開ける為のもの」

 「城だあ?…魔姫ってそういう意味なのかよ?」

 紫薇は以前にプランジェが城に引き返そうといっていたことを思い出した。

 「ああ、あの城ね。それが鍵なんだ」

 「これを持っていれば私の城まで案内してくれるわ。もし疲れたり、泊まる場所がなかったら使って。普通の場所より安全な筈よ」

 紫薇はその羽根と、クレシェントの顔を一瞥するとそのまま書室に向かった。乱れた心で礼を口にすることも出来なかったのだ。

 それはクレシェントも同じなのか、紫薇が書室のドアを閉める音を聞くと疲れた顔をしてジブラルと一緒に帰っていった。

 最後に赤縞は残っていた緑茶を一飲みすると羽月に向かってごっそさん、といって家に帰っていった。

 結局、依頼を引き受けることにはなったが全員の心がばらばらだった。お互いの場所が離れているから特にチームワークを気にする必要はなかったが、それでも心のどこかにしこりのようなものがあって、それが出発の日にちを遅らせてしまった。

 出発はその日から二日ほど経ってその週の終末に決まった。プランジェと赤縞が気を回して紫薇とクレシェントの言葉をどうにか合わせたのだ。ただ二人は直接に話をすることはなかった。お互い、頑固なところは徹底していた。


 土曜日の朝、一同は紫薇の家の庭先に集まった。寒いから各々が厚着をしている。ただそのことを以前のようにクレシェントは紫薇に尋ねることはなかった。顔も合わせようとはしないのだ。ジブラルやプランジェも誰もそのことに触れなかった。

 三つの扉が並ぶ。赤い扉、緑色の扉、白い扉が同じ世界で別の場所に繋がっている。誰が始めにドアノブに触れたのかわからない。だが偶然にも扉は三つ同時に開かれ、誰が言葉を発することなくそれぞれの場所に向かっていった。

 扉の閉まる音が乾いた空気によく響いた。

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