67話 想ひ 風に乗って

 庭に出て紫薇はゆっくりと目を閉じながら全身の力をふっと抜いた。それから背中から熱を放出する様なイメージを描いて額に力を込める。すると男性の体だった紫薇の肉体は女性の象徴が加わり、顔に化粧が施されて洋服を素通りして背中の傷痕から蛾に似た翅が現れた。翅のはばたきを耳で聞きながら瞼を開けると両目はエメラルドグリーンに光った。

 ふと白魚の様な細長い自分の手を見詰めた。手を握り締めると手の平は鋼色に染まり、指は鋭い鉤爪状に変わっていった。指の先っぽは太い棘みたいな爪になっていて、手の質感は堅いプラスチックの様だった。見れば手首の辺りは白い体毛に覆われ、きっと更に念じればその体は全身に広がるのだろう。

 紫薇は庭の窓に自分の姿を映しながらじっと体全体を眺めた。紫薇は言葉が出なかった。権兵衛の体を借りている訳ではない。自分の体が完全に人とは別物なのだ。今は部分的に体を変化させているに過ぎないが、この変化が全体に回った時、一体どんな姿になってしまうのだろうと紫薇は身震いした。そうなった時、果たして羽月は自分の傍にいてくれるのだろうか。翅から赤や青の燐粉が零れる度に紫薇はそう思ってしまった。

 「いざこの目で目にすると圧巻だな」

 いつの間にかプランジェが傍にやって来ていて、紫薇の翅を見ると物珍しそうな顔をした。ただその顔には恐れや憂いの影はなかった。

 「お前が御伽噺に出て来る妖精だとして、私はお前に頭を垂れるべきなのか…それとも躍起になって崇めるべきなのか…さてどうしてくれよう?」

 「好きにすれば良いさ。これで小言の一つでも減ってくれれば儲けものだ」

 「存外、落ち込んでもいないのだな」

 「もう嫌というほど泣きもしたし、驚いた。ただこれからどうするべきなのか…問題はそれだな」

 「…その答えは見付かったのか?」

 そういうと紫薇は視線を落とした。答えはもう出ているのだ。母親であるフィアテリスがいっていた人物に会う。ただそれだけのことだったが、紫薇にはその一歩が踏み出せずにいた。何だかその人物に会ってしまえば、今迄の自分を否定されてしまう様な気がしてならなかった。

 「その…何だ、翅があるということは飛べるのか?」

 プランジェはそんな紫薇の心境を察したのか別の話題に切り替えた。

 「ん?ああ、飛ぶというよりは未だ浮かぶだけで精一杯だが、練習すれば空も飛べるだろうな。こうやって自在に翅を消せる事も出来るらしい」

 そういって紫薇は両性の体を保ったまま翅を消してみせた。

 「しかし肝心の腕力はどうなのだ?その体、以前よりも痩せ細って…というより華奢なものに見えるが」

 「それなんだがな…」

 紫薇は傍にあった物干し竿を手に取ると腕を震わせながらどうにか持ち上げた。振り上げた物干し竿の先っぽは数秒、宙に浮かんだがすぐに地面に落っこちてしまった。それだけの動作で紫薇は息を切らしてしまっていた。

 「まあ、見た目通り軟弱だ。試しに走ってみたが、ほんの数分で疲れた。この体、思っていた以上に扱い辛い。妙な力は手に入ったが、どうもな…」

 プランジェは難しそうな顔をしてふむと唸った。

 紫薇にとってそれは深刻な問題だった。日常生活において指して問題はないが、これから暴力を使ってでも相手にしなければいけない様な相手が現れた場合、紫薇は戦っていけるのか不安だった。特に体力や筋肉の著しい低下はそれらを活かしてきた紫薇にとって大きな障害だった。

 「後はこの妖精のかけらだな」

 腕を回して紫薇は背中の傷痕に埋め込まれた石に触れた。紅紫色の石が散らばる様にして背中いっぱいに広がっている。それは傷痕を覆う様でもあった。

 「まさかお前も妖精のかけらを手に入れたとはな…まあ、お前が妖精なのだから当然といえば当然なのかもしれないが」

 「いや、それがどうも普通の妖精のかけらとは違うらしい。その証拠に未だにレミアの鍵が使えない」

 「どういうことだ?」

 「…クレシェントやジブラルの話だと妖精のかけらを手に入れた時からレミアの鍵に対する認識はあったそうだ。同時にその使い方もな。だが俺に至っては使い方はおろか、そのイメージすら湧かない」

 「お前の妖精のかけらは普通のものと違うのかもしれないな。いや、もしかしたらそれが妖精のかけらではないのかもしれない」

 「…成程」

 紫薇はその可能性に頷いた。確かに筋は合っている。

 「だが妖精のかけらが有している何らかの自然法則を超越した力はあるのかもしれん。試しに使ってみたらどうだ?」

 「…どうやってだ?」

 「…わからないのか?」

 プランジェはその言葉に意外な顔をした。

 「皆目な。…専門家に聞いてみるか」

 「専門家?そんな奴がいたか?」

 「居るだろう、一人。我が物顔で腕を振るう女が。ほら、あの人殺しにしか興味のない女が…」

 その瞬間、ぱかんと紫薇の頭が鳴った。

 「誰が人殺しにしか興味がないって?」

 紫薇の後ろには今にも食ってかかりそうな顔のジブラルが立っていた。

 「何でお前がここにいる?」

 「居ちゃ悪い?折角お客から貰った上質の豆を持って来てあげたっていうのに…これじゃ鳩か雀にでもあげた方がまだマシね。あー、やだやだ」

 高々と腕を上げたその先には高級感が溢れる紙袋が光っていた。それともう一つ、白い装飾に包まれた小洒落た箱があった。

 「良いわ、ケーキも買って来たけど羽月と二人だけで食べようっと」

 「わ、私の分はどうなる!?」

 とばっちりを受けたプランジェの叫びは空を切り、ジブラルは一人でさっさと家の中に入ってしまった。

 「何なんだあいつは…」

 紫薇は訳がわからない女だと渋い顔をしたが、隣で睨みをきかせるプランジェを見ると頭を掻いた。


 「音楽でもかけようかしら」

 挽いたばかりのコーヒーを啜りながらジブラルは我が物顔で音楽を付けた。明快なジャズが流れると不思議とその場の雰囲気は和らいでいった。

 紫薇は机に並べられたケーキには手を付けず、マグカップから立ち上る豆の香りを存分に楽しんだ。強く、それでいて芳ばしい香りは正に上質な豆だった。羽月とプランジェは紅茶と緑茶を傍に置いてケーキに舌鼓を打っていた。羽月はレモンのスライスに杏のジュレが乗ったタルトを食べ、プランジェは抹茶のムースと小豆のクリームが重なったミルフィーユを頬張った。

 「何よ紫薇子、食べないの?それ一個八百円もすんのよ」

 甘いものが嫌いだと知っていたのでジブラルは紫薇にコーヒーのムースをあしらったショートケーキを買ったが、紫薇は一向に手を付けなかった。

 「…その名前は止めろ。甘いものはいらん、甘さ控えめでもな」

 「食わず嫌いは筋金入りね」

 やれやれと肩を竦めた。

 「そんなことより何か用事でもあったのか?」

 「ううん、本当にたまたまよ。仕事も休みだし、偶にはお邪魔しようかなって思っただけ。紫薇こそ私に何かあったんじゃないの?」

 そういいながらもジブラルはどこか紫薇の内面を窺う様な目をしていた。

 「ああ、ちょっと聞きたいことがあった」

 「何よ?」

 ソファーに座って足を組むと物珍しそうな顔をして紫薇を見た。

 「妖精のかけらはどうやって使う?」

 その話をし出すとジブラルは急に真面目な顔をして紫薇を見定めた。

 「…クレシェントから話は聞いたけど、まさかあなたが妖精だったなんてね。自分のことなのにわからないの?」

 「そもそも俺が人間じゃなかったこと自体に信用がなくてね。まあ、あの翅を見れば嫌でも認めるしかないが」

 「レミアの鍵のこともわからない?」

 「ああ、さっぱりだ」

 ジブラルはソファーに深く腰をかけると小さく溜め息を吐いて唸った。

 「私が妖精のかけらを使う時、この手に向かって意思を投げ付けるのよ。動け、とか働け、とかってね。そうするとその意思に反応して妖精のかけらが発動されるわ。ただ普段と違って、自分の心が不安定な時はこの力は暴走してしまう。…私が実の父親に腕を切り取られそうになった時も、この妖精のかけらは私の心を映し出す様に暴れ回ったわ」

 手の甲に埋め込まれた翠緑色の石を眺めながらいった。

 「あなたの妖精のかけらと、私の妖精のかけらは違うものなのかもしれない。でもこれだけはわかる。この力は決して感情が乱れている時に使うべきではないわ。妖精のかけらは脆く、鋭利で、とても危ういものだから」

 紫薇は一瞬、ジブラルの手が透明な、ガラスの様に見えてしまった。一度それに亀裂が生じたならばその手は鋭く尖る。しかしその実体はとても儚い堅さの塊にしか過ぎなかった。それはまるでジブラルという女の人生そのものを描いている様に思えてならなかった。

 「…ありがとう。参考になった」

 そういうとジブラルは紫薇の心境を察したのか少し嬉しそうに笑った。

 「そういえば妖精のかけらって何らかしらの自然法則を超越できるんでしょう?私の妖精のかけらはどうなのよ?あなた妖精なんでしょう?そこんとこわからないの?ねえ?」

 「わかる訳ないだろう。大体、初めてクレシェントの妖精のかけらを見た時だってそれが何なのかもわからなかったんだ。こっちが聞きたい位だ」

 紫薇はすっかりへそを曲げながらコーヒーを啜った。

 「そんなことで怒らないでよ。あーあ、でもちょっと知りたかったな」

 「そんなに知りたきゃキュオアイシャスの所でも行け」

 「ああ、あのメディストアを半不老不死にしたっていう偏屈なじーさんね。確かにその人なら何か知ってるかもしれないわ」

 「…知ってるのか?」

 「メディストアから話は聞いてるわ。どこに住んでるのかも知ってるし、一緒に行ってみる?」

 予想だにしない言葉に紫薇は戸惑ってしまった。まさかどこにいるかまで知っているとは思わなかったからだ。紫薇は体を固めながら少し考えてしまった。

 「まだ決心つかない?」

 「…ああ」

 「そ、じゃあ行きたくなったら言って頂戴。私もそれまで楽しみに取って置いてあげるからさ」

 ジブラルは残っていたコーヒーを飲み干すと、ソファーから立ち上がった。

 「帰るのか?」

 「ええ、これからクレシェントの所で髪の毛を整えてくるつもり」

 「そうか、じゃあまたな」

 「…ちょっと、せめて玄関まではお見送りしなさいよ」

 そういうと紫薇は嫌そうな顔をした。

 「あ、じゃあ私がお見送りします」

 「良いわよ、この無愛想な顔だけで。羽月は紫薇の分まで食べちゃって。ほら紫薇子、ちゃんと玄関まで付いて来なさい」

 「…わかったよ」

 苦い顔をしながら紫薇は短い溜め息を吐いてジブラルを玄関まで見送った。ジブラルが靴の踵をとんとんと鳴らす時間が何だかもどかしく感じた。

 「次はもう少し酸味の強いものを頼むよ。香りは気に入ったが、味が今一だ」

 「贅沢な舌ね」

 ジブラルは苦笑いすると玄関のドアノブに手を寄せた。

 「ねえ、紫薇」

 「何だ?」

 ドアを少しだけ開け、ジブラルは顔の半分を紫薇に向けた。

 「あなたは…クレシェントのことをどう思ってるの?」

 「…どういう意味だ?」

 「別に…ただちょっと気になっただけよ」

 急な質問に紫薇は首を傾げたが、その意味を理解すると目を強張らせた。

 「俺は…あの人以外は見れない。それだけだ」

 「そう」

 ジブラルは顔を戻すとほんの少ししてから体の向きを変えて紫薇に近付き、中くらいの力で紫薇の胸を叩いた。

 「…っ、何を…」

 力はそれほど強くなかったが、急な出来事だったので紫薇は思わず蹲りそうになった。そんな紫薇にジブラルは笑いながら舌をべえっと出して、そそくさと玄関から出ていった。紫薇はどうして叩かれたのかわからなかったが、そのせいで胸はいつもよりも強く脈打っていた。

 「恨めしいわね、全く…」

 ジブラルはむっとしながら足早に歩いてそう呟いてしまっていた。


 その夜、紫薇は何故か寝付けなかった。体は何となく疲れているのに目を閉じても一向に睡魔が襲って来なかった。何時間も暗い天上を眺めては、時おり体を転がして景色を変える。その繰り返しだった。どんなに眠ろうとしてもジブラルの言葉が頭の中を何度も通り過ぎた。


 「あなたは…クレシェントのことをどう思ってるの?」


 ふと紫薇はクレシェントの顔を思い浮かべてみた。銀色に靡いた髪の毛の中に、口許を緩ませた女の顔が浮かび上がる。目はぱっちりとしていて鼻はやや尖り、下唇は普通の人よりもぽってりとして、それら顔のパーツが極めて慎重に配置されている。頬骨はなだらかで顎は少し丸みを帯びていた。中でも髪の毛と同じプラチナブロンドの目はとても綺麗だった。少し控えめな色がまた顔の中から大人の色気を浮き立たせる。その目を見ていると紫薇は妙な胸の高まりを感じた。

 「…そんな筈ない」

 紫薇は確かに自分の口でそういった。同時に、ならこの胸の高まりは何なのだと心の中で叫んだ。一度でもクレシェントの顔を想像してしまうと、否応にもその視線は体の方に移っていった。張りがあって柔らかそうな乳房、波打つくびれ、すらりと伸びた足に形の良い尻が紫薇の喉を鳴らした。

 ただ不思議なことにある程度の興奮を過ぎると、その熱は嘘のように引いていった。実は紫薇はもう随分と前からそんな発作を繰り返していた。発作の症状はクレシェントが家から出て行ってから高まり、時にそんな姿を想像しながら寝付けない日まであった。だがそれは紫薇が妖精としての片鱗を見せたときから少しずつ変わっていった。熱の高まりが収まらないのだ。紫薇はその熱を羽月で吐き出してしまおうと思ったこともあったが、そうなる前に必死に我慢した。羽月は紫薇にとってそんな自分の欲望を吐き出すような肉壷ではないのだ。紫薇はたまにやって来る感情のうねりと戦い、その疲労感で一時の闇に落ちる。だがやはり今になってその熱が引かない。やんわりと頬が熱を打った。

 「俺は馬鹿か…」

 頬の熱はあのときにクレシェントに引っ叩かれた痛みだった。あと少し、あと少しでお互いの体が重なるところだった。どうしてあんなことをしようとしたのか。紫薇は自分が自分でないような気さえしてしまった。

 「クレシェント・テテノワール、お前は俺にとって…何なんだ…」

 上半身を起こして紫薇は自らに問いかけたが、その答えは返ってこなかった。窓から差し込む月光に気が付いて紫薇は窓の外を見詰めた。まん丸の月が静かに光を放っている。その色はクレシェントの色のようだった。



 オルゴールの音色に耳を傾けながら同じ形の月をクレシェントは眺めていた。ふとその月を見ながら携帯の画面を指でなぞった。そこにはいつだったか紫薇の横顔を隠し撮った写真があった。何気ない瞬間、コーヒーを片手にぼーっと窓の外を眺める横顔。クレシェントは紫薇のそんな顔が堪らなく好きだった。

 ふと下唇が急に熱を帯びた気がした。クレシェントは人差し指を唇に付けて目を潤ませた後、静かに目を閉じて紫薇を想った。唇から伝った刺激は喉を下り、血管を通ってやがて心臓に舞い降りる。とくんと体の奥底が揺れた。クレシェントはいけないことだと思いながらも、紫薇を想うことを止められなかった。言葉よりも体よりも、ただ傍にいたい。その思いが日に日に募り、クレシェントの喉を苦しめた。いつ羽月に向かって自分の醜い部分を曝け出してしまうかわからない。それがクレシェントにとって何よりも不安だった。

 他の男で憂さ晴らしなどとてもクレシェントには出来なかった。純粋が故にその想ひは強く、呆れるほど澄み切っていた。



 化粧台の前に座りながら、やっと伸びてきた髪の毛を羽月は丹念にブラシで撫でた。その途中、耳のすぐ傍に出来ていた傷痕を指で確かめた。太い膨らみが指先を緩く跳ね返す。羽月はその傷痕に触れると、小さく溜め息を吐いてその傷痕を隠すように何度も髪を梳いた。

 気にしない。彼はそういってくれたが、女である羽月にとって顔の傷は衝撃だった。羽月は紫薇に対して特別な感情を抱き始めたときから、少しずつ化粧や洋服に気を使い始めていた。ほんの少しだけ胸元が肌蹴るような深い首もとの服を着たり、香水を変えてみたり、出来るだけ相手の目をじっと見詰めるように話しかけもした。ただそれが始まったのは紫薇に恋心を抱いてからというよりも、クレシェントという浮世離れした美の精製物を目にしたからだった。知らず知らずの内に羽月はクレシェントに意識を持ち、紫薇を一人の男として見たときにはその気持ちに拍車がかかった。羽月もクレシェント同様、紫薇をこの上ないほど想ってしまっていたのだ。

 クレシェントが別居するとなって羽月は内心ほっとした。嫌な女だと自分でも思い、後になってそのことを紫薇に打ち明けてしまったこともあった。紫薇は心変わりするなんて有り得ないと苦笑いしながらいったが、羽月は不安だった。人は外見だけで誰かを愛することは出来ないと、大学に通っていたときの講師からそう教わった。それでも人の姿形は肉体的関係を招き寄せてしまうことは事実で、恋愛とは似て異なった肉愛というものに成り果ててしまうこともある。クレシェントの外観は正に魔性のものだった。欠点のない、完全無欠の肉体の比率がいつ理性を融解させるか。羽月は一人になるのが恐かった。紫薇と同じで両親がいない孤独の身、それがまた羽月の心を乱した。だから紫薇が自分の恋人になったとき、思いを告げた当の本人よりも喜んだのは羽月だった。ああ、これでやっと自分の拠りどころが出来たと、心底安心した。羽月は自分の出来る限り紫薇を慈しみ、そして愛されたいと思った。

 しかし恋愛ほど儚げで、あっけのないほど容易く消えてしまうものはないと羽月は知っていた。その理由は後になって羽月の口から語られることになる。

 羽月は手を胸に当てて目をぎゅっと瞑った。そして紫薇の顔を思い、心の中で彼の名前を呼んだ。誰よりも、何よりも愛おしい。また別の意味で純粋な羽月の想ひは強く、人間らしい儚げな麗しさに満ちていた。



 きりきりと、運命の歯車が悲鳴を上げる。その配列は何度も何度も置き換えられ、継ぎ接ぎだらけだった。しかしその歯車は確実に回り、周りの歯車を動かしていった。純白の歯車が壁一面に張り巡らされている。その壁を前にして白い髪の毛と黄金の目を持った人物が指揮棒を片手に体を揺さぶっている。辺りはほの暗く、闇に紛れて管弦楽器が並び、指揮に合わせて壮大な音を鳴らしていた。

 その音に合わせて六人のコーラス隊が一列に並んで腹膜を使って高らかな声を上げている。同じドレスを着ていても一人一人が違う色だった。長い銀色の髪の毛、目の色は髪と同じプラチナブロンド。背丈や顔の作り、声質から呼吸の仕方まで六人は完全無欠に同等だった。そしてその顔はクレシェントの幼い頃のものだった。

 六人のコーラス隊をまるで娘の発表会を迎えた父親のような顔をして眺めていたのはスーツを着た銀色の髪の毛をした男だった。目の内に隈があっても、瞬き一つせずに耳を傾けている。それは病的なまでだった。

 同じように気持ちを高まらせながら観ていたのはクローシュを被った女だった。斜めに深く被っているせいと、薄暗い照明のせいで顔は見て取れないが、その目にはどこか狂気を帯び、その面影はプランジェに似ていなくもなかった。

 その隣の観客席に座っていたのは青いローブを着た男だった。耳に着けているピアスを煌かせながらうっとりとコーラスに聞き入っている。きっちり背中を立てて座っている辺りその性格を体現していた。

 斜めの席には全身を包帯で巻かれた継ぎ接ぎだらけの体をした人物が、赤い目をぎらつかせていた。傍には点滴があって赤い溶液が少しずつ腕の血管を通して体全体に広がっていった。視線は六人のコーラス隊に向けられているが、更にその先を狙っていた。

 やや後ろの席に座っていたのは五つの目を持った男だった。その席は普通の椅子と違って大きめに、ゆったりと座れる特等席だった。腕の置き場所もあって悠々と座りながら五つの目を閉じ、歌と音楽を丹念に味わっていた。

 その隣、同じ特等席に座っていたのは仮面を被った男だった。タキシードに身を包み、悠然と足を組みながらゆったりしている。仮面は礼服には似合わない祭のもので安っぽい作りをしていた。時おり、椅子に置いてあったグラスの酒を仮面越しに流し込んでいた。

 会館の扉の傍から灰色の煙がゆらりと昇った。煙草を口で咥え、小麦色の肌をした来客の少ない店の主は詰まらなそうに舞台を目で流していた。友を殺した犯人が傍にいるにも関わらず、その顔は至って落ち着いていた。

 観客席にはその七人しか座っていなかった。それでも白いオーケストラは音の昂揚を続け、最高潮を留めながら迸る汗を更に更に撒き散らし、全体が一つの抑揚に帰結して最後に音を一つ切ると、しんとした空気の後に拍手が鳴り響いた。

 ほの暗かった舞台にふっと照明が点いた。隠されていた白い歯車の両側に七色で描かれた妖精の翅が広がった。白い髪の毛と黄金の目の持ち主、フォルコットは大粒の汗を伝わせながらその翅を眺めると不適に微笑んだ。

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