66話 触れられぬ想い

 乱れた呼吸を必死に整えようと、クレシェントは息を深く吸って吐いたみたが、心臓の鼓動は高まるばかりだった。目は涙で霞み、上手く目を開けていられない。妙な呼吸を繰り返しながら、クレシェントは込み上げそうになる感情を必死に手で抑えた。今になってどうして受け入れなかったのか。あのまま唇を捧げていれば楽になれただろうに。そんなことばかり考えてしまっていた。だがその罪は人を殺してしまったものより重い。罪の意識と恋心が葛藤を繰り返し、クレシェントはその場に蹲って泣き出した。そんなつもりで彼に近付いた訳ではなかった。ただ余りに急過ぎたのだ。予想もしていなかった行動に追い付けなかっただけ。そう心の中で強く念じてみたが、胸のうちに秘めた筈の思いはまたふつふつと湧いてしまっていた。

 家に戻ってからクレシェントはジブラルの肩に縋り付くようにしてまた泣いた。ジブラルは何があったのかわからず、驚きながらもクレシェントが落ち着けるまで頭を撫でてやった。ジブラルは靴を履いたままのクレシェントの足を見て、多分紫薇のことなのだろうと思った。

 クレシェントが靴を脱いだのはだいぶ時間が経ってからだった。ジブラルは温めた牛乳の中にブランデーを入れ、マグカップに注いでクレシェントに差し出した。そして時間をかけてクレシェントから話を聞き出すと、顔を強張らせた。

 「紫薇も良い度胸してるじゃない。二股かけようとするなんて、ちょっとお仕置きが必要かしら?」

 「ま、待って…」

 「人が良いのもその辺にして置きなさい。一発ぶん殴ってやらないと、こっちの気が済まないわ」

 ジブラルはクレシェントが本当に紫薇が好きだということを知っているからこそ、怒りを抑えきれなかった。

 「違うの、聞いて…あのときの紫薇は、普段と違ったのよ」

 「違うってどういうことよ?」

 「上手く説明できないけど、たがが外れたっていうか…感情に支配されてしまったような…」

 「それは単なるリビドーよ。男が女を求めるときにはいつもそうなるの」

 「そうかもしれないわ。でも変なの…」

 あのときの紫薇の表情、正確には目は緑色に輝いていた。紫薇の正体が妖精ということならば、あの行為が本心だったということになる。母親の位置に属している自分を本当に紫薇が求めたのだろうか。クレシェントは落ち着いてからそんな疑問が湧き上がっていた。

 「あーっ!もう!訳わかんない!」

 その叫びはクレシェントの代弁のようだった。今度はジブラルがクレシェントの膝の上に頭を乗っけて拗ねてしまった。

 「ご免ね、ジブラル…」

 青い髪を優しく撫でながらいった。

 「一つだけわかってるのは、あなたがどうしようもないお人好しってことよ。好きならそれで良いじゃない。奪ったって誰も咎めやしないわ」

 「…それじゃ駄目なのよ。嘘を吐いてしまったら、もうそれは恋愛じゃないわ」

 「そんなこと思ってるのはあなただけよ」

 それっきりジブラルは口を閉ざしてしまった。そんな彼女にクレシェントは苦笑いして頭を撫で続けた。胸の痛みはまだやんわりと残っている。それが後悔なのか、それとも期待してしまっているからなのか、もうクレシェントにはどちらかわからなかった。ただ一つだけはっきりしていることは、もう出来るだけ紫薇には近付かない方が良いということだった。築き上げてきたものが音を立てて崩れてしまう。クレシェントはそのことをじわりと覚悟するように窓の外を見詰めていた。



 紫薇の足取りは普段よりも重かった。何か目に見えないものが足にへばり付いているようで動き辛い。罪というイメージは淀んだ粘着質の塊なのかもしれないと、紫薇は思った。それでも顔はちゃんと前を向けていた。大丈夫、自分の足で歩ける。紫薇はそう自分にいい聞かせながら家路を歩いていた。

 丁度、自宅に続く角を曲がろうとしたときだった。街灯の下で、焦げ茶色のバッグを地面に置いて誰かがじっと自分を見ている。紫薇はそれが誰なのかすぐにわかった。ただそのときの羽月の顔はいつもと少し違っていた。どこか思い詰めた顔だった。

 「…お帰り」

 街灯の光の中に入りながら紫薇は優しく語りかけた。心配かけないようにと、冷静さを装っていたかもしれない。それが気に入らなかったのか、羽月は困ったような、怒ったような顔をした。

 「…どうかしたか?」

 光の中で羽月を見下ろす。暫くの間羽月は黙っていた。じっと紫薇の目を見詰めながら微かに唇を震わせている。紫薇はそんな羽月の表情など見たことがなかったので少し驚いていた。どうにも困ったもので、紫薇は少しだけ口角を緩ませて首を傾げてみせるとやっと羽月は喋りだした。

 「私だけまた蚊帳の外?どうして教えてくれなかったの?」

 「…ごめん」

 「ごめんじゃない…!」

 羽月は掠れ声で叫んだ。紫薇は傾げていた頭をもとに戻すと、じっと羽月の目を見た。

 「一人で何でも背負わないで…何の為に私がいるの?ただ体を合わせるだけに付き合っている訳じゃないでしょう?いつもいつも…そうやって傷ばっかり増やして…私嫌よ、紫薇が壊れていくのを見るの…」

 紫薇は羽月が本当に怒っているのを見た気がした。じわりと胸の奥が痛む。こればっかりはどうしようもなかった。理性がとろけるような感覚。失うのがとても恐い。紫薇にとって羽月はとても脆く、壊れ易い作りで出来ているようだった。

 「もうこれ以上そんな姿を見る位だったら私…」

 言葉よりも先に紫薇は羽月を包んだ。その先をいわせてはいけないと思ったからだ。無我夢中で羽月が拒もうとしたが、紫薇は呼吸もさせないように腕に力を入れた。それでも羽月は拒み続け、ぐっと手に力を入れて顔を紫薇の胸から離した。その隙を狙って紫薇は半ば無理矢理に羽月の唇を奪った。

 始め羽月は紫薇の下唇を噛むつもりでいた。悲鳴を上げさせてやろうと思っていたのに紫薇の口付けは強く、優しく、しっとりとしていたせいで出来なかった。やがて紫薇の背中に腕を回すと、羽月は何だか急に腹を立てたのが馬鹿らしくなってそのまま紫薇に体を委ね、目を閉じて全身で紫薇を感じ取った。

 二人が顔を離すと、長い時間お互いの空気を循環させていたせいで吐息が漏れた。

 「…ずるいわ、こんなの」

 「だから謝っただろ、ごめんって。…悪かったよ」

 「…もう」

 はあと溜め息を吐いて羽月は紫薇の胸に額を寄せた。吐息は白かった。

 「後で…話さなきゃいけないことがある。とても大事なことだ」

 「駄目よ」

 「何が?」

 「今聞かせて」

 「ここじゃ寒い、風邪を引く。家に戻ってからで良いだろ」

 「じゃあ、あったかいところに連れて行って」

 羽月は紫薇の胸が高く鳴ったのを耳にした。

 「…俺今、金持ってないよ」

 「私が出すわよ。それじゃ駄目?」

 そういうと紫薇は少し恥ずかしそうにわかったよといった。


 泊まったのは駅の傍にあった一泊五千円もしないような安いホテルだった。トイレは共同で部屋の外にあり、一畳あるかないかの狭苦しいシャワー室が不気味だった。二人はその浴室もどきを使わずに体を重ねるとごろんと横になった。

 「体、もとに戻ったのね」

 名残惜しそうに紫薇の胸を触った。

 「また鍛えるさ。そっちの方が好みなんだろ?」

 「良いわよ、別に」

 笑いながらそういった羽月に紫薇は首を傾げてしまった。

 「紫薇、話して…何があったのか」

 「…ああ」

 紫薇は自分の手を汚してしまったこと、本当の姿が人間ではないことを丹念に説明した。紫薇が話している間、羽月はじっと紫薇の目を見詰めながら何度も頷き、その一つ一つをしっかりと飲み下していった。そして紫薇の話が終わると、長い溜め息を吐いて天上を見上げた。

 「悪い、急にこんな話をしても信じられないと思う。手っ取り早いのは妖精の姿を見せれば良いんだが、引っ繰り返るかもしれない。何せ男と女の…」

 「そんなことはどうだって良いのよ。問題なのは紫薇の心の方」

 横を向いて紫薇の頬に手を寄せた。

 「どうしたら良いの?どうすれば乗り越えられるの?」

 「…乗り越えることは出来ないよ。ただこの苦しみを背負うしかないのさ」

 紫薇はその規範となる銀髪の女性を思うと薄く笑った。まさかあのときに口にした言葉が、今度は自分に跳ね返って来るとは思いもよらなかったからだ。

 だが羽月の表情は紫薇が予想していたものと大きく違っていた。何故か視線を下げ、その表情は酷く落ち込んでいるように見えた。

 「そうね、そうやって生きていくしかないものね…」

 「…羽月?」

 羽月は徐に体を起こすと肌蹴た体をシーツで隠した。そうして膝を曲げながらじっとあらぬ方向を見て目を細めた。その姿を見て、紫薇は何だか不安になってしまった。何故かそのときの羽月がずっと遠い場所にいるような気がしたからだ。

 紫薇が羽月の背中に回って彼女を逃がさないように腕を回すと、紫薇と同じ細さの羽月の手が紫薇の腕に触れた。

 「…紫薇、あのね…私…」

 じっとりとした短い沈黙の後に羽月は語り始めた。その途中で紫薇は頬を羽月の顔に寄せてきゅっと腕に力を込めて羽月を黙らせた。

 「何も言わなくて良い。何があっても、必ず耐えてみせるさ」

 そういうと羽月は静かにうんといった。

 妖精の翅が音を立てずに揺れた。紫薇の背中から生えた翅は二人を包むようにして曲がり、蕾のように、また繭のようになって全てを覆っていった。翅はまだ物寂しい色合いをしたままだった。


 紫薇と羽月が家に戻ったのは朝が明け始める頃だった。家の中は冷たい空気に包まれていて、プランジェは部屋で寝ていた。こっそりと羽月はリビングで紫薇と別れ、階段を昇って部屋のドアを慎重に閉めた。紫薇は羽月と別れてから台所でコーヒーを淹れ、ポケットに入れて置いた霜哉の通帳を引き出しに仕舞うと、マグカップを片手に書室に向かった。ただ書室には入らず、その隣にあった霜哉の部屋の前に立った。

 紫薇は便箋の中から鍵を取り出すとドアノブに差し込み、息を一つ飲み込んでから霜哉の部屋を開けた。霜哉の部屋は思っていたよりも閑散としていて、真ん中に机と両脇に仕事のものであろう名簿や記録の束が並べられていた。その束はやや乱雑に置かれ、霜哉の性格を如実に示していた。

 一通り部屋を眺めてから紫薇は机に向かい、マグカップを置いた。机はガラス製で出来ていた。傍にあった黒い皮の椅子に腰掛け、紫薇は自分の父親が何を思っていたのかをふと考えてみた。

 どうしようもない憎しみ。自分の最愛の人とその寵愛を受ける筈だった子供を殺された。だがそれに反しておぞましいと口を零しても、最後には自分を慈しんでくれた深い愛情。それら二つの感情に板ばさみになった霜哉の心境はいかがなものだったのか。紫薇にはとても想像が出来なかった。

 現実味を取り戻す為に紫薇はコーヒーを啜った。渋い苦味の、下手な味だった。紫薇は小さな舌打ちをしてマグカップを戻そうとした。そのときに紫薇は机に一つ引出しがあることに気付いた。

 引き出しの中には小型のDVDプレーヤーがあって、紫薇はそれを取り出すと何となく目の前に置いた。開閉式の少し古いタイプのものだった。他にも何かないのだろうかと引き出しの奥を覗いてみると透明なカバーに入った一枚のディスクを見付けた。多分、きっとこれが霜哉が見せたかったものなのだろうと紫薇は思った。

 カバーを開けて中のディスクを取り出し、反射した光を目に映しながらそれをプレーヤーの中に入れ、再生ボタンを押した。ディスクを読み込むまでやや時間がかかった。まだ始まらないのかなと、紫薇は再びコーヒーを口にしようとマグカップを口許に寄せようとした矢先だった。暗い画面に水色の、正確には勿忘草の色彩が光を放った。思わずその光を見て紫薇は手を止めてしまった。

 「…あれ?もう良いのかしら?」

 写真に映っていた女が動いている。紫薇は初めて映像というものを目にしたようにその画面に食い付いた。その女は自分を撮っているビデオカメラに向かって何度も話しかけていた。少し恥ずかしそうに何度も自分の髪の毛を手で梳いている。その内にカメラが回っていることに気が付いてやっと話を始めた。やんわりとした顔付きで顎はほんのり膨れていた。

 「えっと…はじめまして紫薇、お母さんです。じゃなかった、もう産まれてるからなんて言えば良いのかしら?えっとー、んーと」

 はは、と紫薇は苦笑いした。映像越しに初めて見た自分の母親は思っていたよりも柔和だったからだ。それでも母親の声を初めて聴いた紫薇は胸が強く締め付けられた。

 「まっ、良いわね。…紫薇、貴方がこれを見ているとき、きっと私は貴方の傍にはいないと思うわ。そして、貴方のお父さんも」

 話している内に悲しそうな顔をする母親を見て、紫薇は胸の内に鋭い痛みがして目を細めた。

 「…辛いでしょうね、貴方が苦しんでいる姿がわかるわ。どんなに憎んでいても、自分の家族が消えてしまったらとても寂しいもの。それが自分のせいであったとしたら尚更よ」

 一瞬、紫薇は目を背けてしまったが、どうしてそのことを知っているのだろうと思っていると、そのことを見透かしたようにフィアテリスは話を続けた。

 「私の妖精のかけらは全てではないけれど、未来を視ることが出来るの。貴方と霜哉さんが憎み合っている姿がとても鮮明に映ったわ。そのことで貴方が深く傷付いていることも」

 自然と眉間に力が入った。紫薇はもうこれ以上、このビデオを見たくないと思ってしまっていた。叱られたことのない紫薇にとって、これから向けられる言葉が何よりも恐かったのだ。しかし待っていた言葉は紫薇の予想を裏切るものだった。

 「…紫薇、貴方は人として許されないことをしてしまった。でもね、それは私のせいなのよ。私が貴方を白銀世界から解き放ってしまったことが全ての始まり。良い?これから話すことをよく聞いて」

 紫薇は目に力を入れて画面に注目した。

 「貴方はもう知っているかもしれないけれど、貴方は私がお腹を痛めて産んだ子じゃないわ。そして、誰の子供でもない。貴方の正体は妖精、私たちの世界で伝説と謳われる存在、それが貴方…。だけど話をする前にこれだけは言って置きたいの。貴方と私たちは血の繋がった親子じゃない。でもね、私と霜哉さんは貴方を愛しているわ。誰よりも、何よりも貴方を愛してる」

 その言葉を聴いて視界がじわりと滲んだ。紫薇にとって初めて親の愛情を受けた瞬間だった。温かく、柔らかでその言葉を聴いているだけで心が安らぐ。手で顔を拭っても涙は止めどなく溢れた。

 「…おかあさん」

 母と呼ばれた女は紫薇が泣いている間、じっと優しい顔付きで画面の向こうにいる紫薇に向かって微笑んでいた。

 「紫薇は幾つになったのかな?もう彼女はいるの?貴方の卒業式や成人式、見てみたかったな…。本当に、傍にいてあげたかった…。でもそれは出来ないの。これから先、私は殺されてしまうから」

 「…まさか」

 紫薇はぞくりと背筋を奮わせた。父親と同じようにこの手で殺めてしまったのではないか。そんな疑心が紫薇の心を掻き毟った。

 「大丈夫よ、このときの貴方はまだ繭から孵ったばかりの赤ちゃん。げっぷだって背中を叩いてあげないと一人じゃ出来ないんだもの。とても誰かを傷付けることなんて出来ないわ」

 「なら、いったい誰が…」

 「紫薇、貴方はいずれ妖精として目覚めてしまうでしょう。私の妖精のかけらで貴方の時間を緩めていたけれど、それも時間の問題…。貴方の肉体が大人になったとき、悲劇は始まるわ。そう、妖精を作り上げた創造主が現れる」

 「俺の…創造主…」

 「それが誰なのかはわからない。ただその人の力はとても弱っているわ。誰かがその人の半身を封じ込めたから。でもその封印もいずれ破られる。そうなったらもう誰も止められない、妖精のかけらを持つ者を除いては。そう、妖精のかけらはね、その創造主を食い止める為に作られたのよ。そのことをある人が教えてくれたわ。私がアヴォロス・デ・アルと呼ばれるこの世界に来れたのも、その人が私に妖精のかけらの使い方を教えてくれたからなの。その人の名前はキュオアイシャス、ちょっと顔の恐いお爺さんよ」

 「…キュオアイシャス」

 その名前を紫薇はメディストアから聞いたことがあった。

 「私はその人から色々なことを教わったわ。その中の幾つかは貴方に関係することまであった。紫薇、もし妖精として目覚め始めているのなら、キュオアイシャスのもとに行きなさい。そして貴方の元気な顔を見せてあげて。それとね、私の代わりにお礼を言って欲しいの。本当は私が言いたいんだけど、今日が私の命日だから」

 「待ってくれ、おか…あんたは自分が殺されるのがわかっているのか!?」

 「時空を超越する私の妖精のかけらは、過去も未来も読み取れる。でもその予知は絶対に避けられないの。今日はね、霜哉さんと貴方と一緒にナーガに出かけて、キュオアイシャスに産まれた貴方のことを報告しに行くのよ。でもその途中に貴方の創造主と出会ってしまい、私は戦うことを決心するけれど…破れてしまうわ」

 困った顔をして笑うフィアテリスを紫薇はどう受け取れば良いのかわからなかった。死ぬことがわかっているのにそれを甘んじて受けるなんてどうして。紫薇は頭が混乱しそうだった。

 「そのせいで霜哉さんの心は乱れ、怒りの矛先は幼い貴方に向けられてしまう。私が死んだ悲しみと、貴方を愛する慈しみが歪んだ感情を産み、やがてそれは周りの人間に伝染していく。貴方の背中の傷痕…とても痛かったでしょうね。ご免ね、紫薇…ご免ね…」

 母親の泣いた顔を紫薇は初めて見た。それはどうしようもなく切なく、してはいけないことをしてしまったようで、紫薇は胸が突き刺さるような思いだった。断腸の思いとはこのことだろう。紫薇は仕切りに首を横に振った。

 そうしていると画面の奥からドアが開いた音がした。するとその音に気付いたフィアテリスは驚きながら手で涙を拭いて、部屋に入ってきた人物に顔を向けた。

 「ここにいたのか」

 その声は紫薇も良く知る人物のものだった。

 「…何かあったのか?」

 「ううん、何でもないの。あ、紫薇のおしめ取り替えてくれたのね」

 霜哉の両手にはおむつを履いた赤ん坊が抱かれていた。ただそのときの姿は人間のものではなかった。毛むくじゃらで鉤爪状の手足が六本あって、緑色の大きな目が異ようだった。目の光が暗くなっているのは眠っているからだろう。だが霜哉の腕はしっかりと、それでいて優しい手付きだった。

 「初めてやってみたが、意外と楽しいもんだったよ。想像していたやり方とだいぶ違っていたがね。そろそろ出かけるか?」

 「待って、あともう少しだけ時間をちょうだい。紫薇は預かるから」

 「そうかい、じゃ俺は下でコーヒーでも飲んでるよ」

 「うん、ありがとう」

 再びドアが閉まる音がすると、フィアテリスはぱたぱたと嬉しそうに赤ん坊の紫薇を抱いて戻ってきた。

 「ふふっ、これが貴方よ。小さなおべべが可愛いでしょう?」

 紫薇はその姿を見てとても可愛いとは思えなかった。まるで大きな蛾を抱いているようだったからだ。

 「うんちはころころしてて、ちょっと片付けるのが大変だけどね」

 面目ないと紫薇は思った。

 「キュオアイシャスも言っていたけれど、別の世界の生物同士が子供を成すことは難しいそうよ。特に私は彩魚族と呼ばれる獣人だから余計にね。きっと霜哉さんは色んな手で貴方の憎しみを募らせるでしょう。その中に虚構も交えて、何が真実なのかこんがらがっちゃうかもしれないわね。霜哉さん、とても口が上手いから。あ!あの人ね、昔はとっても女っ垂らしだったのよ。紫薇はそんな風になっちゃ駄目よ?…良いわね?」

 そのときの顔は剣幕だった。ぎらぎらした赤い目に口許から牙が見え隠れするものだから、紫薇はごくりと生唾を飲んでしまった。

 「っと、話がずれちゃったわね。ご免なさい。昔そのことで霜哉さんと喧嘩してしまったから熱が入っちゃうのよ。今思い出しても…ふふっ、ムカつくわ」

 その独特の殺気を感じ取ったのは幼い紫薇も同じだった。目を弱々しく光らせるとぶるぶると震え出したのだ。甲高い声を泣き声を出して恐がっている。

 「あら、どうして起きちゃったのかしら?よちよち、良い子ねー」

 フィアテリスは紫薇の体をぽんぽんと叩きながら優しい口調で聞いたことのない言葉をリズムに乗せて唄い始めた。ゆらゆらと流れるような一定の間隔が紫薇の胸をじんわりと刺激する。高い、不思議な感じのする子守唄だったが、その歌を聴いているといつの間にか紫薇の背中から妖精の翅が現れ、紫薇はその体を変化させながら画面を見詰めた。

 唄っているフィアテリスと偶然にも目が合うと、フィアテリスは画面の向こうの紫薇に微笑みかけた。紫薇はその優しい顔に指で触れようとしたが、画面が少し歪むだけで手は届かなかった。やがてフィアテリスは椅子から立ち上がり、唄を続けながら紫薇に背中を向けていった。

 行かないで。紫薇はそう口にしようとしたが、出来なかった。ただその思いはフィアテリスに伝わったのか、最後に顔を紫薇に見せると、

 「愛してるわ、紫薇…」

 もう一度だけ柔らかな笑みを見せて画面は真っ暗になった。

 液晶に映った自分の顔を見ると紫薇は母親と父親という存在がいたからこそ、今の自分がいるのだと改めて痛感した。紫薇の頭の中に霜哉とフィアテリスの姿が映ると、霜哉の概念を受けた際に感じ取ったイメージが脳裏を過ぎった。


 全身を血塗れにしたフィアテリスが地面に横たわっている。その傍には同じように体を汚した霜哉が膝を着いていた。その腕にはしっかりと紫薇が抱かれている。

 「…霜哉…さん、紫薇を愛してくれなくても良い…紫薇を憎んでくれても良い…でも、紫薇を…どうか紫薇を守ってあげて…」

 その最後の言葉を霜哉は頑なに守った。十数年の間、ずっとそれだけを頼りに自分を高めていたのだ。ただやはり、霜哉が死ぬ間際に見せたのは紫薇に対する深い愛情だった。紫薇はそのことを感じ取ると声を上げ、泣いた。

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