65話 綺麗な写真

 くぐもった呼吸音がマスクを通じて響く。傍では脈拍を計測するバイタルサインが仕切りに警告を発していた。ミイラのように痩せ細った体を暴れさせても、すぐさま白衣に身を包んだ看護師たちが抑え付け、怒鳴るように指示を出す。

 途中、キジュベドは鏡に映った骨と皮の体を見付けると、奇声を上げながら怒り狂った。体にしがみ付いている看護師を跳ね除けようとしたが、その力も出なかった。頭の中にはとある女の姿が焼き付いて離れない。それがまたキジュベドの怒りを込み上げさせた。

 「あの女…殺してやる…!あの女はどこだ…!?」

 しかしその怒りを一片に冷ましてしまう男がキジュベドの目に映った。

 白衣のポケットに手を入れながら、じっとキジュベドを見下ろしている。たまに傍を通った看護師に薬の指示を出したりした。

 「気分はどうだね?アドレナリンの過剰分泌で痛みは感じないだろうが、駄々を捏ねるとあっという間におっ死ぬぞ。まあ、私にとっては貴重なサンプルが増えて嬉しい限りだがね」

 人を小ばかにしたような喋り方のその男を見ると、キジュベドは赤い目を光らせながら不気味に笑った。

 「…さっさとこの体を手術しろ!もとの状態に戻せ!」

 「私は医者が本業ではないのでね。執刀は別の者に任せるよ。それよりテテノワールに会ったそうだな?どうだったのかね?彼女は」

 「あの女は俺がぶっ殺す!セレスティン、さっさと始めろ!」

 そう口にした途端、セレスティンはキジュベドの腕から伸びた管の先、生理的食塩水が入った点滴の袋を握り締めた。すると途端にキジュベドの顔は真っ赤になって息を詰まらせた。

 「質問に答えたまえ。…どうだったのかね?彼女は」

 セレスティンは隈の出来た顔をキジュベドに近付けた。そのときのセレスティンの顔は狂気に満ちて、患者の命など少しも考えていなかった。ただ真理に溺れる科学者の一人の顔だった。

 点滴を握られてキジュベドは反抗することも、質問の回答も出来なかった。目を大きく開いて全身を震わせる。キジュベドは今にも死んでしまいそうだった。

 そんなキジュベドに愛想を尽かしたようにセレスティンは小さく首を捻ると、顔を離した。自分で点滴を握っていたことを知らなかったのか、強く握られていた手を見ると驚いた顔をして手を離した。そしてまた傍を通った看護師に指示を出すと、その部屋から出ていこうとした。

 「…月だ」

 マスク越しだったのでキジュベドの声は聞き取り辛かったが、セレスティンは確かにその声を耳にした。背中を向けたまま顔を向ける。

 「お前の娘たちに…月を…食わせろ…月を…」

 セレスティンは視線を前に戻しながらその言葉の意味をじっくりと嚥下し、ある予測を立ててそれを頭の中で立証すると何度も頷いた。

 「ご苦労だったな。だがご褒美はお預けだ。まずは体を治すことに専念し給え」

 銀色の髪の毛を指でかき上げながら病室から出ていった。

 その後姿をキジュベドは言葉にならない叫び声で呼び止めたが、再び看護師たちによって抑え付けられ、その病室の扉は閉められた。



 テーブルに置かれた小さなカップから湯気が立っている。中身は紫薇の好きなコーヒーだった。体中に包帯を巻きながら紫薇はその湯気をずっと眺めていた。そうして湯気が消えた頃になって、やっと紫薇は家に帰って来たのだと気が付いた。

 「…大丈夫か?」

 プランジェの手が肩に乗ると、紫薇は驚いた顔をして何か喋ろうとしたが出来なかった。開きかけた口に紫薇は冷めたコーヒーを入れた。

 「クレシェント様はお帰りになった。今夜はもう遅いからお泊りになられてはと尋ねたのだが、明日も仕事があるからと…」

 紫薇は黙ったまま頷いた。頷いたまま体はそこで止まり、手に持っていたカップも止まった。

 そんな紫薇を見てプランジェはどうしたら良いのかわからず、肩に乗せた手を静かに引いて自分の部屋に戻っていった。

 紫薇は頭の中が空っぽになったようだった。何か考えごとをしようとしても、その気力も湧かないし、何をしたら良いのかもわからなかった。ただ全身に疲れが溜まって何もかも億劫にさせる。

 ふと紫薇はカップをテーブルに戻そうとしたときに、床に落ちていた写真を見付けた。指で摘んで写真を眺めると、そこにはばつ印の描かれた三人の親子が映っていた。プランジェが見ていたのだろうか。紫薇は徐にサインペンで描かれたばつ印を指で擦ってみたが、インクが滲むばかりで一向に消えなかった。

 紫薇はその写真を持って台所に向かうと、コンロに火を点けた。青い炎が現れると紫薇はその写真の角っこを火に寄せて燃やし始めた。火は紫薇が思っていたよりも緩やかに燃えた。絵は小さな気泡を出して滲み、灰になっていく。始めに父親が燃え、自分が燃え、最後に母親が燃えた。紫薇は写真の最後を看取るとガスを止め、台所を後にして玄関に向かい、青いジャンパーを手にして家から出ていった。

 今は誰とも会いたくなかった。特に羽月には。紫薇はそんなことを思いながら夜の町に歩き出していった。金はポケットに入った五千円だけ。紫薇はいつ家に戻るか考えていなかった。もしかしたらもう戻らない方が良いのかもしれないとでさえ思っていた。

 歩いている途中、ゴミ捨て場にキャップ付きの帽子が捨てられているのを見付けると、紫薇はそれを手に取って煤のような汚れを払い、目深に帽子を被った。誰とも目を合わさないように常に視線を下げて歩く。幸い、体が大人びていた為に巡回の警察官も特に近寄ろうとはしなかった。紫薇の体は闇の中に溶け込むようにして消えた。



 朝の五時半きっかりにクレシェントは起きた。目覚まし時計が鳴る前に携帯のアラームを切る。体は思っていたよりも疲れていなかった。好調といっても良い。ただ昨日の夜のことを思い出すと、気持ちが沈んでしまう。放心状態の紫薇を家まで連れて帰ったが、紫薇は一言も喋らなかった。

 クレシェントは傍に転がっていたオルゴールを手に取って、指で撫でながら紫薇は今どんな気持ちなのだろうと思った。

 「…行かなきゃ」

 横で寝息を立てているジブラルを起こさないようにクレシェントはベッドから降りると身支度を始めた。洗顔してからさっと化粧をして髪の毛を梳かし、赤いバレッタで髪を纏めた。黒いシガレットパンツに足を通し、細いストライプ地のワイシャツを着て、スペンサー形のベストを羽織る。その支度を三十分で済ませ、六時を少し過ぎた辺りにクレシェントは家を出た。

 職場は駅を一つ乗り継いだところにあった。夜香街の中心にあって、若者から婦人まで幅広い客層を受け持つ有名サロンだった。二階立てのビルを買い取り、改装してくつろげる空間を優先させた独自のスタイルがクレシェントは気に入っていた。ただその分顧客の回転率を上げなければいけない為、予約に関してはとてもシビアだった。クレシェントの仕事は洗髪や床の掃除、カールの巻き上げといった新人が扱うような仕事ばかりで給料も決して満足のいく金額ではなかったが、それでも洗練されたエキスパートの手捌きを目で見たり、ときに教わったりと充実した内容ではあった。また美容院には珍しい賄いがあったのも魅力の一つだった。

 その日の仕事は例にも増して忙しかった。開店と同時に予約していた人間で席はあっという間に埋まり、また疎らに作業が始まってクレシェントは店の一階から二階を何度も往復した。発注された荷物を受け取って二階に運んだり、各洗髪場所のシャンプーを補充したり、切り終わって床に散らばった髪の毛を箒で掃きながらパーマに使う器具を用意したりした。

 クレシェントはもとの性格からか、お客にも従業員にも不思議と好かれ、鋏を持ってもいないのに何人かのお客の専属になったりしていた。そのせいで仕事は他の人間よりも多く、てんてこ舞いになりながら仕事をこなした。

 三時を過ぎた辺りからやっと手が空き始め、クレシェントは休憩前にまた発注された荷物を取りに一階の裏口に向かった。そのときに新人として一緒に働いていた卯月 夏美(うづき なつみ)がその手伝いとして付いていった。

 裏口のドアを開けた途端、その辺りに住んでいた野良猫たちが一斉にクレシェントの足元に擦り寄った。

 「相変わらず野良猫に好かれるね。あ、雀まで飛んで来た」

 「(これも母の証のお陰なのかしら?)」

 肩に乗っかった雀の胸元を指で撫でてやると、嬉しそうな声を出した。

 「動物だけじゃないのよ、好かれるの」

 「なに?男にも好かれるって?」

 少し意地悪そうな顔をして笑った。

 「だったら良いのだけど、多分…卯月さんが嫌いな鼠とかあと、ごきぶ…」

 「あっ!もう良い!」

 耳に手を当てて夏美は叫んだ。

 小型のトラックがやって来るまで二人は野良猫と遊んでいた。夏美は二十五歳のもと会社員で、充実した仕事を求めてこの職種に入ったのだという。年下の妹がいて、その妹は演劇部に所属しているのだとクレシェントは聞いた。結婚していて年下の旦那と近所に住んでいることも聞いた。クレシェントはその話を聞いてちょっと良いなあと憧れた。

 「くーちゃんはさ、彼氏とかいないの?」

 クレシェントの職場での愛称はくーちゃんだった。

 「いないわ。ちょっと前に振られたばっかり」

 「あ、ごめん」

 クレシェントは笑って気にしないでといった。

 「彼氏は欲しい?良かったら紹介しよっか?あんま格好良いのいないけど」

 「ううん、平気よ」

 「くーちゃん位の美人だったら男はわんさか寄って来るよねー。羨ましい」

 「そういうものかしら?」

 クレシェントは抱っこした白い子猫に聞いてみたが、猫はにゃーにゃー鳴いてばかりだった。

 「旦那さんとはどこで知り合ったの?」

 「前の職場。でも実はさ、あたしも一度は振られたのよね」

 「そうなの?」

 一度でも振られたらそれでお終いだと思っていたクレシェントにとってそれは意外だった。

 「ずっとそのことを引き摺ってたんだけど、あるときにきっぱり忘れようって決めたの。そしたらさ、向こうから来てくれたんだ。やっぱり付き合って欲しいって言われて、ちょっとどうして良いかわからなかった。あいつも変な奴でさ、結婚は初めての彼女が良いってその場でプロポーズまでされたのよ?ちょっと引くでしょ」

 「ううん、私には…羨ましいよ」

 「そ、そうかな?」

 「きっと良い旦那さんなのね。私もそんな人が見付けられれば良いのだけど…」

 ちょっと落ち込みかけたクレシェントを見て夏美は笑って誤魔化した。

 「まあ、その…こんな話をしたのはさ、振られたからってこれからどうなるかわからないよって話。まだ好きなんでしょ?その男」

 「え?」

 「だって休憩時間にちょくちょくその男の写真見てるじゃない。ほら、携帯の写真に保存されてるちょっと目付きの悪い奴でしょ?くーちゃんが好きな人って」

 その話を聞いた途端、クレシェントの頬は真っ赤に染まった。

 「…き、気付いてたの?」

 「うちの看板娘のことなんでつい…」

 クレシェントはもう少し周りに気を配ってから携帯を見ようと思った。

 「あ、トラック来たよ」

 道沿いにトラックの姿を見付けると、夏美は立ち上がった。それに続いてクレシェントも立ち上がろうとしたときだった。急に二人の周りで寛いでいた猫たちが一斉に唸り声を上げたのだ。

 「ちょ、ちょっとどうしたのよ?猫ちゃんたち」

 「(…何かに恐れてる?)」

 クレシェントは猫たちの視線の先に何があるのか目を凝らしたが、特に脅威となるようなものは見当たらなかった。

 トラックがバックで美容院の敷地内に入って来ても猫たちの威嚇は止まなかった。更に唸り声は高まり、トラックがクレシェントの前で止まったときだった。トラックを横切った一人の男が姿を現わすと、猫たちは今度は悲鳴を上げて逃げ出した。

 汚い帽子を目深に被った二十歳くらいの男。顔は帽子の影に隠れてわからなかった。一瞬、クレシェントは紫薇かと思ったが匂いが違った。紫薇の匂いは乾いた草の匂いがしたが、その男からはもっと別の匂いがした。

 「何だったんだろうね?今の」

 クレシェントはその男が通り過ぎるまで目を離すことが出来なかった。

 積荷を降ろして運んだ後、クレシェントはプランジェにメールを送った。すると数分してからまた紫薇が帰って来ないとの旨が返ってきた。クレシェントはそのメールを見ると、店長に話をつけて今日は中番までで仕事を切り上げさせて貰い、黒いトレンチコートを羽織って店を飛び出していった。

 店の裏口から表に出て先ほどの匂いを辿った。深い、水底の澄んだ匂い。だがそれは同時に死に近い表現と隠喩を秘めていた。間違いない、紫薇だと思った。心はとても澄んでいても、そのどこかに必ず危険な箇所がある。そのことをクレシェントは誰よりも知っていた。

 匂いの先は疎らだった。当てもなく歩き回っているのが良くわかる。クレシェントは足を鼻に任せ歩いていった。高層ビルの路地裏を抜けて地下鉄に降りる。電車に乗らず向こう側に行ってまた路地裏に。人通りの少ない寂れた商店街を突き進み、一歩間違えれば闇の世界に連れていってしまわれそうなバラックの通りを抜け、電鉄の下を潜って暗いトンネルに入った。

 どうやら紫薇の心理状況は極めて不安定で人を避けているようだった。そのことを感じると、クレシェントは夢中になって歩くスピードを速めた。最悪、自殺なんてことも考えられる。紫薇はそれだけのことをしてしまったのだ。直接的に殺してしまったのかどうかはわからない。ただ虫の息だった父親に止めを刺してしまったことは確かだった。

 トンネルの先に光が見えた。ただその光は七色に光っていて、細かい粉のように宙に漂っていた。クレシェントはその光の粉を手で救ってみると、やっとその匂いの主が傍にいることを知った。何か平たく、大きいものを動かす音がトンネルの先から聞こえる。クレシェントはその光を抜けてトンネルを抜けた。

 深い、悲しみに満ちた紫色の翅がそこにあった。人の背丈の四倍はある蛾のような翅をゆっくりと羽ばたかせ、燐粉を撒きながら紫薇は夕焼けを眺めていた。古い、錆びて赤茶けた電線の上に座りながら。

 クレシェントは産毛状の翅を見上げながら紫薇の真下に近付いた。するとクレシェントの頬をぴしゃりと濡らしたものがあった。指で拭ってみるとその涙は仄かに青く、空気に触れると粉になって散っていった。クレシェントは赤い腕の概念を具現化させると、その手の平を椅子のようにして体を持ち上げさせ、ゆっくりと上がると紫薇の隣に座った。電線はとても座り辛かった。

 クレシェントが隣に座ると、紫薇はエメラルドグリーンの目を彼女に寄せた。青い涙を流しながら鋭い目付きでクレシェントを睨んだのだ。

 「…俺を笑いにでも来たのか?」

 「そうして欲しいなら笑ってあげるわ」

 クレシェントは決して抱き寄せたりしなかった。ただ落ち着いた顔で紫薇の顔を眺めている。

 「お前と同じで俺も化け物の仲間入りだ。あの男は俺をおぞましいと言っていた。どうして俺の家族があんな仕打ちをしたのか…これが理由だった」

 夕焼けが水平線に沈むと、辺りは夜空に包まれていったが、電線の上だけは明るいままだった。紫薇の背中の翅がネオンのように光っている。

 「ずっとあの男が憎かった。どうして助けてくれなかったのか…背中の傷が痛くても誰も擦ってもくれやしない。これでどうやってあの男を許してやれるんだ。殺してやったときだって、始めはしてやったと思ったのに…今じゃあの男の顔が頭から離れない。俺は…一体、何だったんだ…」

 顔を俯かせながら涙をぽろぽろと流す紫薇にクレシェントはぐっと手を握って我慢した。そう、ここから先にしてやるのは自分ではないとわかっているからこそ、クレシェントは自分が居た堪れなかった。

 「その答えは…きっとこれが教えてくれるわ」

 抱き寄せる代わりにクレシェントは懐から一枚の便箋を差し出した。それは以前、霜哉から渡された紫薇宛の手紙だった。紫薇はその便箋を見て手を差し出そうとしたが、その途中で手を引っ込めてしまった。

 「大丈夫よ」

 クレシェントが優しく語りかけると紫薇はゆっくりと手を伸ばし、その便箋を受け取った。中に何が入っているのかクレシェントにもわからなかった。

 封を爪で破き、紫薇は中のものを取り出した。

 「…これは」

 それは一枚の写真だった。親子三人が本当に嬉しそうに笑いながら、赤ん坊の紫薇を抱っこしている写真だった。それは紫薇がばつ印をつけてしまった写真と同じものだった。そこに映っていたのは霜哉とフィアテリスの愛情を受けた紫薇だった。

 紫薇はその写真を見るとぎゅっと胸に押し付け、咽び泣いた。何度も嗚咽を漏らし、自分が愛されていたという事実と、父親をその手にかけてしまったことの罪悪感が紫薇を覆った。

 クレシェントはそんな紫薇の姿を見て思わず泣いてしまっていた。最後に見た、霜哉の穏やかな顔の意味を知ると、クレシェントはなんて不器用な愛なのだろうと思ってしまったが、痛く胸を突き刺された。

 二人が泣き止んだのはそれからややあってのことだった。満月と翅が二人を照らし、落ち着くまで紫薇とクレシェントは水平線を眺めていた。

 「他に何が入っていたの?」

 そういわれて紫薇は便箋の中に残っていたものを取り出した。一つは小さな封筒、もう一つは預金通帳だった。通帳の中にはカードが挟まれていて、開いてみると思わず二度見してしまうほどの数字の桁が並んでいた。

 「きっとそのお金だって霜哉さんが必死に働いて溜めたお金よ。紫薇、貴方の為にね」

 紫薇は通帳を丁寧に仕舞うと封筒を破いてみた。中には紙切れと小さな鍵が入っていた。紙切れには手書きで『俺の部屋を調べてみろ』とあった。紫薇は全部の中身を調べ終えるとそれらを便箋の中に戻し、大事そうに懐に仕舞い、長い溜め息を吐いた。

 「凄い人ね、紫薇のお父さんって」

 「…ああ」

 紫薇はそのことを噛み締めるようにいった。

 「お前の気持ちが今になってわかった。お前は、こんな辛い罪を背負いながら生きてきたんだな。いつも思う、どうしてお前はそんなにも強いのか…」

 「それはきっと、私の中に眠っている女王の力のお陰…でもね、それだけじゃないの。紫薇、貴方が私に言ってくれた言葉があるから、今こうして私は生きていられるの。紫薇だけじゃない、沢山の人が私を支えてくれたから」

 優しい、それでいて寂しげな笑みだった。

 その笑みを目にして紫薇は妙な違和感を胸に覚えた。じっとりと手の平が湿る。胸の鼓動がいつもより強くなって、頬が自然と火照った。するとそれに呼応して両方の性を持っていた体は急にもとの男性へと戻っていった。

 「どうしたの?」

 クレシェントが不思議そうな顔をしたときだった。紫薇は半ば無意識にクレシェントの頬に手を寄せた。北風を受けて頬はひやりとしていたが、手の平が頬を包むとじわりと熱を帯びてクレシェントは困惑した顔をした。

 「し、紫薇?」

 それでも紫薇は頬から手を離さず、じっと体をクレシェントに近付けていった。目はエメラルドグリーンのまま、銀色の目を見詰めて離さなかった。やがて二人の唇が数センチの距離まで迫ると、クレシェントは最後の力を振り絞った。

 「…駄目!」

 思わず手が出てしまった。気付いたときにはクレシェントは紫薇の頬を思い切り引っ叩いていた。その衝撃で緑色に輝いていた目はもとの黒い虹彩に戻り、やっと紫薇は意識を取り戻したようだった。頬に痛みを感じながら、何がどうなったのかわからずにいた。

 クレシェントは涙混じりに顔を真っ赤にさせて電線から飛び降り、逃げるようにしてその場から離れていった。

 「俺は…いったい何を…」

 クレシェントの初めて見せた顔が頭から離れなかった。頬を赤らめながらも本当に辛そうで悲しい顔だった。どうしてあんなことをしてしまったのか。紫薇は訳がわからなかった。たださっき感じた妙な違和感は嘘のように収まっていた。

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