64話 その手は救いを求めて

 摩天楼の最上階で不気味なまでに鮮やかな光が輝いている。時折、地震にも似た揺らぎがビルを震わせても、近隣の住民は誰も気が付かなかった。ビルを囲んでいる柵の下にはびっしりと筆か何かで描かれた文字がびっしりと並んでいた。その文字が何か大きい音や衝撃が生じる度に淡い光を点し、結界の中の騒音を防いだ。

 霜哉の手の上には古びた本が掴まれていて、その中から獲物に向かって牙を向ける蛇の形をした火が飛び出し、紫薇に襲いかかっていた。  

 紫薇はその火の蛇を鉤爪状になった手を振るって掻き消すのに夢中だった。蛇はどれも脆かったが、蜘蛛の子のように数が大量だったので身動きが取れなかった。しかし腕を振るいながらも背中の翅に力を溜めていて、頃合になると紫薇は翅を羽ばたかせて凝縮していた力を拡散させた。球状の衝撃が紫薇の体内から放射されると蛇の火は吹き飛ばされ、剥き出しになった骨を崩壊させながら散っていった。

 金属音が一つその場に響いた。霜哉の持っていた剥き出しの刀の先っぽが床に落ちていた本の一ページに刺さっている。するとそのページは刺された箇所から燃え上がり、紙を灰にしながら火は刀の刀身を蛇のように這い回ってその姿を定めた。

 霜哉は本を片手で持ちながらその火が巻き付いた刀を持って紫薇に迫り、熱された刀を振るった。対して紫薇はその刀を目にしても微動だにせず、刀を見て鼻で笑ってみせると、その場に立ちながら払われた刀を鋼色の手で受け止めた。

 金属を金属で打った音の後に溜め息交じりに紫薇は再び鼻で笑った。とその小ばかにしたような笑いが霜哉の口からも洩れると、紫薇の足元が真っ赤に燃え盛り、刀に巻かれていた火が消え去ると、紫薇の足元に蓄えられていた熱が一気に暴発し、柱状の炎を噴いて空に舞い上がった。

 「…火あぶりにしちゃ生ぬるい。まだあの駄犬の方がマシだった」

 火柱の中から顔を半分だけ出すと、エメラルドグリーンの目が妖しく光った。

 「そうか、ならもっと火をくべてやる」

 掴まれていた刀から手を離し、親指と人差し指だけを開いた。その間にアスダンティーマが宙に並べていたナイフが一斉に着火され、刃に火が点っていった。

 「蝋燭にしては些か歪だが…不良息子の誕生日にはお似合いだ」

 残っていた指を流れるように開いていくと、漂っていた火のナイフはその指の動きに導かれる様にして火柱の中に入っていった。ナイフが炎の中に吸い込まれる度に炎の中では強い熱が溜められ、最後のナイフが入ったと同時にその熱が起爆した。

 その瞬間、妖精の手に掴まれていた刀は炎の外に放り出された。火柱が子を孕んだように膨れ上がり、その勢いは煙突の煙ように空に飛んでいった。火柱が噴火するとその衝撃で霜哉の前髪が上がり、青い右目が光り始めていた。

 「色付いた翅ではそう簡単に破れはしないか…」

 刀を拾いながら火柱が収まった後を眺めた。妖精の翅が紫薇の体に巻き付いて細い蕾のようになっている。燐粉が焦げて煙を出していたが、翅に対して特に外傷は見受けられなかった。獣であったときよりも更に強力な盾を紫薇は手に入れていたのだ。

 次にどんな手で来るのかと霜哉とアスダンティーマは身構えていたが、一向に翅の蕾が開花しなかった。誘っているのかと霜哉は考えたが、見た限りでその様子はない。

 「いつまで引き篭もっているつもりだ?」

 痺れを切らした霜哉はアスダンティーマに警戒を任せながら、紫薇に近付いて持っていた刀を払った。刀は柄がないこと以外に変わったところのない普通のものだったが、かつて神仏が邪な鬼を切り捨てる為に作った妖刀で、人を切れない代わりに人以外のものに対して恐ろしい切れ味を持っていた。その一振りが妖精の翅に触れるとまるで薄い紙を切ったように切り裂いた。

 蕾の中は空洞だった。霜哉は中身を切ってしまったのではないかとひやりとしたが、その恐れはアスダンティーマの呼び声によって掻き消された。

 「上だ!」

 目で確認するよりも先に体が動いた。霜哉の頭上では既に紫薇が鉤爪状になった腕を突き出していて、そこに霜哉は刀を振り上げていた。二人の体がぶつかり合い、偶然にも鍔迫り合いをするような形になった。紫薇の背中には翅が消えていた。

 純粋な腕力だけならば圧倒的に霜哉の方が上だった。しかし紫薇の中に眠っていた力は紫薇が知らずのうちに呼び起こされ、実の父親を憎む心に伴って増大していった。それに伴い、紫薇の背中の傷痕に埋め込まれていた紅紫色の石に光が点り、負け続けだった分配が今傾いた。霜哉が顔を真っ赤にしながら筋肉を窄めても、紫薇の指先は更に押し出され、刀の背が霜哉の胸に着いてしまっていた。

 霜哉の顔が苦しむ中、アスダンティーマは手首にかけていたステッキの峰を走りながら引いて翅のない紫薇の背中を狙った。

 低い、猫の悲鳴が響いた。紫薇は刀を片手で掴みながらもう片方の手を変化させ、ステッキが突き出される前にアスダンティーマの腹部を貫いた。途端に刀に込められていた力が弱まった。霜哉の腹は、アスダンティーマと同じ箇所から出血し、霜哉の顔を歪ませた。不思議なことにアスダンティーマは悲鳴を上げたというのに血は流れず、背広だけに穴が空いていた。

 紫薇が勝ち誇った顔をした最中だった。アスダンティーマは紫薇を刺せなかった代わりにステッキを回して紫薇の顎を殴り上げ、今度こそ体を真横に回しながらその勢いに乗ってステッキの先を紫薇にぶつけた。ステッキの峰は紫薇の体にぶつかると赤い点を紫薇の服に染み付け、その一点から強い力が発生して紫薇の体を吹き飛ばしていった。

 若い男の呻き声が低く唸る。霜哉は肩膝を着いて汚れたワイシャツに手を当てた。血は溢れんばかりに流れ、首筋を大粒の汗が伝った。紫薇が床に寝そべって痛みに悶えている間に霜哉は手に持っていた本の一ページを破り、呼吸を手短に済ませてからその紙を風穴に押し付けた。肉の焦げた音がすると若い男の長い呻き声がした。

 「待っていろ、即座に赤い糸を切ってやる」

 そういってアスダンティーマが胸に刺さった鎖を引き抜こうとすると、霜哉は焦げ付いた紙を腹から離し、腕を震わせた。

 「いや、もう良い。もう…十分だ、アスダンティーマ」

 その言葉がアスダンティーマの耳に届くと、二人を繋いでいた鎖は赤い薔薇の花びらとなって空に飛んでいった。アスダンティーマは驚いた顔をしたが、その後にとても安らいだ顔をして笑った。

 「そうか…もう、眠っても良いのだな?我が主」

 「…ああ」

 しっかりと二人はお互いの目を見詰めながらいった。そこには苦難を共にしてきた今迄の記憶と思い出が走馬灯のように流れ、それらをじっくりと噛み締めるように閉じられたアスダンティーマの瞼から一筋の涙が流れた。

 「その口から吐き出される言葉は悪辣なものだったが、お前のような人間に仕えられたこと…誇りに思うぞ」

 「ご苦労だったな、リゼ…」

 最後にアスダンティーマは腕を胸に添えながら短いお辞儀をした。そのときの姿は猫のような姿から、背広を着た黒人の男に変わっていた。リゼと呼ばれたその男は霜哉に頭を下げながら砂のように消えていった。

 アスダンティーマが消え去ると、紫薇の胸を汚していた赤い染みが落ちていった。紫薇をのたうち回せていた痛みは嘘のように収まり、紫薇は胸を抑えながら立ち上がった。

 「…飼い猫が死んで胸がはち切れそうか?」

 その言葉の意味に自分の息子に対して何の慈悲もないのかと、霜哉の背中に投げたつもりだったが、振り向いた霜哉が見せた顔は悪いことを仕出かした子供に叱り付けるようでもあり、戦友を殺した外敵に見せる憎しみを表わしていた。青い瞳がこれ以上ないほど強い光を点し、紫薇の目に向けられた。

 霜哉の体が紫薇の目先に移動し、血が滲むほど握られた拳を紫薇の顔に叩き付けた。そのときの挙動は紫薇はまるで感知できず、霜哉の体が瞬間的に移動したように見えてしまった。その現象に理解が追い付かないまま紫薇は真横に倒れ、つまずきながらも体勢を立て直して妖精の翅を背中から伸ばし、霜哉が立っていた方角に目を向けた。しかしまたしてもいつの間にか霜哉は紫薇の真後ろに立っていて、翅を手で掴むと持っていた刀で根こそぎ切り伏せた。

 唐突に片方の翅を失ったことで、紫薇は取り乱したように切り裂かれた翅の間から黒い光の粒を放射させた。粒は暗い色をしていたが、内部に鮮やかな赤い光を蜂の巣のような外皮に包ませていた。それは紫薇の呆然と焦燥を織り交ぜた一種の感情だった。その感情は触れたものにへばり付いて何でも吸収してしまう性質を持っていたが、やはり妖精のかけらの光を取り戻した霜哉にとっては簡単に往なせてしまった。

 コンマ一秒で距離を離すと、霜哉は刀を床に刺した。そのときの刀の扱い方は今迄と打って変わって荒く、怒りを露にするようだった。

 霜哉の怒りに対して紫薇の憎しみも呼応し、二人はお互いに怒りが際頂点に達したときだけに口にする言葉を発した。

 「…この糞餓鬼が」

 「…この糞親父が」

 紫薇は手を変化させ、霜哉は刀を引き抜いて走り出した。そこからはもう支離滅裂な戦いだった。怒りに任せて腕を振るい、お互いの体を傷付ける。二人は自分の中に眠っている別の力などお構いなしだった。唸り声を上げながら、下品な言葉を発しながら、親子喧嘩は血みどろのものに変わっていった。

 そんな原始的な争いに似合わない小さな淡い光が暗闇で光った。エレベーターの扉が開き切っていないにも関わらず、クレシェントは無我夢中で肩を窄めながら這い出た。クレシェントは二人を相手にしてでも親子喧嘩を止めるつもりだった。しかしその場所で繰り広げられていたのはもう喧嘩などではない、お互いの命を貪ろうとする人間がだけが有する殺し合いだった。紫薇と霜哉の体は既に血塗れで、余りの凄惨さにクレシェントは思わず息を止めてしまいそうになった。

 「二人とも、もう止めて…!」

 必死になって叫んでも、紫薇と霜哉は見向きもしなかった。それどころか更に声を上げて熾烈さを増した。

 わかっていたことだった。もう二人の間に妥協という言葉などないことなど。それでもクレシェントは信じたかった。血の繋がりはなくても、きっと分かり合えることが出来るのだと。しかし現実はクレシェントを裏切った。クレシェントはそのことを思い知らされると深い悲しみに覆われ、同時に何故か嫉妬心のようなものを二人に抱いてしまった。自分には繋がりたくても繋がれなかった人がいるのに、どうして繋がることの出来る紫薇と霜哉が殺し合いなどしているのか。それはやがて怒りへと移り変わり、気付いたときにはクレシェントは手を掲げていた。目は深い血の色に染まり、あの馬鹿親子を暴力に身を委ねても止めなければという義務に駆られた。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 その概念は今までとは一線を画したものだった。クレシェントの体内に眠っている魔力と具現化の力が底上げされ、赤い腕は本当の意味でクレシェントの処女の庭園を導き出した。筋肉質な人竜の腕。堅い鱗に覆われた人の外観に近い腕が幾つも現れ、紫薇と霜哉に纏わり着いていった。

 その力は遠大だった。魔姫にならずとも、魔姫以上の力が腕に込められ紫薇と霜哉の体を縛り上げる。それはクレシェントの思いの強さも関係しているのかもしれない。不恰好な剣戟は突如として現れた人竜の腕によって止められ、二人は完全に封じられてしまった。


 人の感情で最も強い力は愛と憎しみ。


 まず始めに爪先を前に突き出したのは霜哉だった。その二つの力を持っているからこそ霜哉は誰にも止められなかった。次いで爪先を動かしたのは紫薇だった。妖精、それは愛も憎しみすらも受け付けない永遠不滅の独裁者。故に女王の力を以ってしても妖精を止めることなど出来なかった。

 「そんな…」

 クレシェントはその光景に絶句した。具現化した概念の高さに自分でも驚いてしまうほどだったのに、二人は止められなかったのだ。紫薇と霜哉が歩みを続ける度に人竜の腕が弾き飛ばされる。そしてあるときを堺にクレシェントの願いが込められた概念は二人の力によって拒絶されてしまった。

 「どうして…どうして貴方たちは…」

 再び始まってしまった二人の争いを見て、クレシェントはその場に跪いてしまった。もうどうすることも出来ないのだ。クレシェントは認めたくなくても、その事実を受け入れるしか出来なかった。涙をぽろぽろ流しても紫薇と霜哉は振り向かない。初めから二人の目にクレシェントの姿など映っていなかったのだ。真っ赤に染まっていた目がもとの銀色に戻る。クレシェントはその目に悲しみの色を映しながら二人の行く末をただ眺めた。

 再び紫薇と霜哉の体がぶつかり合った。お互いの手と武器を前に突き出し、お互いの存在を否定し合う。その光景は鮮やかな色彩を放っていたが、内部に狂気を孕んでしまっていた。どちらの意思の力の方が上だったのか。それはすぐにわかった。やや押されていた霜哉の刀が紫薇の手を弾き飛ばし、その隙に翅の表面に傷を付け、即座に本の表紙を紫薇の胸に突き付けた。一瞬、紫薇の上半身に陽炎が出来ると小さな火を噴いて紫薇の体は後方に吹き飛ばされていった。

 乳房から下の上着は破れ、丸い焦げた痕を抱えたまま紫薇の体が宙を移動する。すぐさま紫薇は翅を羽ばたかせてその勢いを殺そうとしたが、千切れた翅ではその半分も羽ばたけず、やんわりと押される力を弱めただけだった。

 霜哉はその間に本を開いてびっしりと文字が書かれているページを開き、自分の口許に寄せて息を吸った。古い筆記体で描かれた文字は霜哉の呼吸と共にページから浮いて窄められた霜哉の口の中に入り込み、本を口から離して息を吐くと黒いインクと同じ色の炎が吹き乱れた。

 やっとのこと勢いを殺した紫薇に追撃をかけたのは雲のような黒炎だった。紫薇は体を宙に浮かせたままその炎を見ると細い、撓りの効いた茨を思い浮かべた。小さな生命が紫薇の意思のもとに従い、袖の中から薔薇に似た茨が伸びると、コンクリートの床に潜っていった。そして黒い炎が紫薇の体を包み込もうとした直前、紫薇は床に埋まっていた茨を引っ張り上げた。と同時に体中を灰色の骨で形作った獣が床の中から現れ、権兵衛に似た姿をしたそれが手綱を引かれたみたいにコンクリートを砕きながら体を張って盾となり、黒い炎を引き受けた。黒い炎はがんじがらめに骨の権兵衛に引っ付いて表面を溶かしていった。

 黒炎の隙間から紫薇は霜哉が本を開いた部分を自分に向けているのに気が付いた。翅を強く羽ばたかせ、どんな現象が起きようとも逃げるか避けてやろうと構えてみせたが、霜哉の右目が光ったことでその準備は掻き消されてしまった。

 時計の針がぴたりと止まった世界でただ一人、霜哉だけが動いた。ブイ字になった本の真ん中を紫薇の焦げ付いた痕に狙いを定め、引いていた腕を突き出して刀の切っ先を本に刺した。不思議なことに刀身は本に吸い込まれるようにして霞み、本の手前から切っ先だけが現れると刀の峰から火が巻き起こり、切っ先が伸びるのと平行して火も渦を巻きながら次第に形を留めていった。

 本から飛び出していったのはユニコーンと呼ばれる空想上の生物に似た火の馬だった。角の代わりに刀が額から飛び出し、全身を炎の鬣に覆って床を蹴った。火の馬は時間が停止した世界を一直線に駆け抜け、黒炎と骨の権兵衛を薙ぎ倒しながら紫薇の焦げた痕を的にして額から出ていた刀をど真ん中に突き立てた。

 霜哉の右目が光ると、紫薇は鳩尾の下に鋭い痛みを感じた。当の本人を除いて誰もその状況がわからないまま紫薇の体が高く持ち上げられる。紫薇は刺されながらも標本にされた虫の気持ちがわかったような気がした。宙に停滞した紫薇と火の馬は宛ら彫刻のようだった。

 あ行の言葉を紫薇は滅裂に発しながら刀を引こうとするも、火の馬は更に刀を押し上げた。か細い女性の悲鳴が紫薇の耳を刺激すると、紫薇は無意識に翅の修復を行なった。電子音にも似た高い音が翅に広がると、一瞬の内に取れかけていた翅はもとに戻り、エメラルドグリーンの紫薇の目が光った。その光に呼応するかのように翅全体から青い稲妻が走り、球状に放射されると強い力場を形勢しながら刺さっていた刀と火の馬を飲み込んでいった。

 はっとして霜哉が刀を引き抜こうとしたときには既に馬の断末魔が響いた後だった。引き抜かれた刀は消えていた部分から熱して分断されたように折れ、本は火の馬が掻き消されると同時に火がついた。霜哉は舌打ちをしながらその本を床に投げ捨て、未練があるように灰へと化していく本を一瞥した。

 紫薇は胸の出血など屁でもないように意識を滾らせ、両手を鉤爪状にすると翅を折り畳んで背びれのように見立てながら前に進んでいった。そのときの挙動はかつてジブラルがやって見せた移動の軌跡を何重にも描いているようだった。昆虫と同じ八の字を描きながら紫薇は霜哉に接近して腕を振るった。

 どんなに機敏な動きでも限定された自然法則の内、時空を超越する妖精のかけらの前では無意味だった。霜哉は右目に力を込め、時間を止めると紫薇の背後に回って折れた刀で背中を傷付け、紫薇の進行地点に先回りした。時間が流れ、紫薇は背中から血を噴出しても移動を止めなかった。いつの間にか自分の斜め前に移動していた霜哉に向けて軌跡を走らせる。しかしまたしても時間を止められ、紫薇の両翅は完全に体から断たれてしまった。

 翅を切られて紫薇は否応なしに床に叩き付けられた。翅を切られたことで両手の変化は効力を失い、もとの人間の手に戻っていった。前につんのめり、白魚のような手を見ながら紫薇は悔しがった。

 「…これが俺とお前の実力の差だ。砂の味で嫌でも身に沁みただろう」

 もう用はないといわんばかりに折れた刀を放り投げた。

 「…その力は妖精のかけらのお陰だ。お前の力などたかが知れている…!」

 体を起こしながら、紫薇は自分でも負け惜しみだと思ってしまった。

 「まだわかっていないのか。今のが妖精のかけらの、本当の力だと思っているのか?だとしたら出来の良い手品で終わりだ。真の妖精のかけらの持ち主ならば過去や未来を垣間見れ、更に対象となる存在の時間を支配する。お前を受精卵にまで戻したり、耄碌した老獪にすることだってしてやれる」

 紫薇はその言葉を聞いて霜哉の右目から目が離せなかった。それはその話を聞いていたクレシェントも同じだった。

 「妖精のかけらとは本来、世界の脅威となる妖精を滅ぼす為、或いは拮抗させる為に作り出された代物だ。しかしそれもお前が完全に覚醒してしまっては効果を成さない。だからこそお前をここで葬ってやる必要がある」

 一歩、霜哉が歩み寄ると紫薇はびくりと体を震わせた。唇は乾いていて紫薇は舌を出して舐めようとしたが出来なかった。

 「十五年…この世界を渡り歩いて巡り合わせた奇縁と、失われた前時代の超越力を掻き集めたが…それでも妖精の力には程遠かった。確かにお前の言った通り、この右目がなければ俺の力などたかが知れているだろうよ。だが…」

 ある程度の距離を詰めると霜哉は徐に立ち止まり、紫薇を見下した。何故かその顔はある種の達成感に満ちていた。

 「全てはこのときの為だ。…長かったよ、この十五年は。復讐の為だけに培って来たこの体は、直にこの世を去る。最後はフィアテリスから引き継いだ妖精のかけらと、そのときから扱えるようになったたった一つの概念をお前に見せてやる」

 紫薇の周りを取り囲むように長い体を持った魚の体がぐるぐると回り始めた。七色に光った鱗を持ち、次第に紫薇の視界をその色で埋めていった。

 「逃げられるものなら逃げてみせるが良い。但し時間はお前に味方しないし、俺もお前を逃がそうとも思わない。だから紫薇…」

 霜哉は最後の言葉を口にしなかった。ただぐっと紫薇の目を見詰めながら目で、心で呼びかけた。それがどういう意味なのか紫薇にはわからなかったが、ただ降り注がれている奏力は確かに殺気の篭ったものだった。

 魚の体が辺りをすっぽりと覆うと、霜哉は右目から血を流しながら時間を止めた。止まった空間の中でクレシェントが何かを叫ぼうとしているのを見付けると、霜哉は柔らかな笑みを向けてありがとうといった。

 「…紫薇を、宜しく頼むよ」

 ネクタイを緩めながら霜哉は視線を前に戻した。そして懐から一本の細い葉巻を取り出すと火を点け、じっくりと味わうように煙を吸った。もう体の限界を考えて時間の停止を制限する必要もなかった。大量の血が右目から流れても霜哉の顔は穏やかなもので、葉巻をじりじり鳴らしながら紫薇の顔を見詰めた。

 幼い頃の、まるで一匹の蛾を人に見立てたような子供の顔が浮かぶ。

 「…可愛げのない奴だ」

 小さな笑みを零しながら煙を吐いた。

 「なあ?フィアテリス…」

 そういうと水色の髪の毛を靡かせた女の姿がふわっと現れ、霜哉の背中に抱き付いて静かに頬を寄せた。霜哉は目を閉じてじっくりとその感触を味わうと、ポケットの中に入れていた手を取り出して宙に掲げた。

 「俺を越えろ。絶対的な力を持った妖精のお前ならば、それが出来る筈だ」

 右目に最後の力が点ると、止まっていた時間が動き出した。それと共にフィアテリスの幻想は消え去り、代わりに彼女を構成していた概念が呼び覚まされた。

 『ウテスフィビアソシリヤ(愛別離苦)』

 渦巻いていた魚の胴体が一斉に光の鱗となって咲き乱れた。おびただしい数の小さな鱗は様々な色を発しながら円を描いて辺りを包み込んでいった。それは沢山の花が風に吹かれて舞い散るようでもあり、色とりどりの蝶か蛾が飛んでいるようでもあった。もう紫薇の姿などどこにも見当たらない。埋め尽くされた空間の中から光が溢れ出し、臨界点を越えたように鱗は空に昇っていった。

 クレシェントは辺りを照らすその概念を見て感慨深いものを受けた。光に刺激され、目が潤んで涙を伝わせる。確かに憎んでいたのかもしれない。だが霜哉の心の中にはその憎しみよりも、強い愛情があったのだ。クレシェントは今それがわかった。

 光が雲の中に消えていくと、うつ伏せに横たわった紫薇の体が残された。肉体はもとの男の性に戻り、背中の翅はなくなっていた。その代わり背中には紅紫色の石が疎らに埋め込まれていた。

 誰も声を発しなかった。ずたぼろになった紫薇をただ黙って見詰めている。まだ時間が止まってしまっているかのようだった。そんな中、ぴくりと紫薇の指先が動いた。血に濡れた人差し指が曲がると、低い呻き声を零して紫薇の上半身が起き上がる。顔は項垂れたままで紫薇の表情は見て取れなかった。

 紫薇の顎の下に一筋の雫が落ちた。それから短い間を置いて、次々と雫が辺りに降り注いでいった。カーテンコールの音が静かに響き渡り、雨に塗れながら紫薇の顔が上げられる。その顔は悲しみに歪んでしまっていた。泣いているのか、ただ雨で顔を塗らしているのかわからない。霜哉は黙って紫薇の行く末を眺めた。

 立ち上がった紫薇はふらふらと体を揺らしながら霜哉に近付いていった。途中、何度も膝が笑って躓いてしまう。それでも紫薇は頑張って前に進んだ。何だかその光景は歩くことをやっと覚えた子供が、父親のもとに寄り添おうとしているようだった。

 クレシェントは涙が止まらなかった。首を仕切りに振って紫薇の姿を見ながら彼を止めようとしたが、どうしても体は動かなかった。べっとりと濡れた髪の毛が手足に巻き付いたようだった。

 紫薇が霜哉の目の前に辿り着いたときには二人の体は雨でぐっしょりと濡れていた。霜哉が咥えていた葉巻の火はまだ消えていない。煙だけが立ち上り、紫薇と霜哉の境界線となっている。二人の目が見詰め合った後、不意に紫薇の手が伸びた。細い、女のような腕だった。持ち上がった両手は霜哉の首元に伸びて紫薇は指先を震わせながら父親の首を絞めた。

 紫薇の背中から血が噴き出す。古い傷痕が割れて紫薇の顔を更に歪ませたが、紫薇は手を緩めようとはしなかった。この十八年の間、ずっと積もり積もった恨みを吐き出すようにして手と目に力を入れる。霜哉はそんな紫薇の顔を見ると、静かに目を閉じた。その恨みを受け入れるように全身の力を抜いて。

 咥えていた葉巻が濡れた床に落ちると、紫薇の手が止まった。微かに、火が弾ける音がすると紫薇は締めていた手を離し、父親の最後の顔を見た。穏やかな顔だった。怨みも後悔もない。ただほんの少しの憂いを残して、霜哉は紫薇の手元から去っていった。すっと体が透けていくとそのまま誰の視界からもいなくなり、最後に霜哉の右目の辺りから青い石が落ちて音を立てた。

 妖精のかけらに続いて紫薇の腰が崩れ落ちる。手にはまだ生温かい感触が残っていた。紫薇は雨雲を見上げながらふと小さい頃の記憶を思い出していた。

 小さな体の紫薇を、少し嫌そうな顔をしながら抱っこする霜哉の顔が見えた。紫薇が本当に小さな手を前に出すと、霜哉は恐る恐るその鉤爪を触り、その温かさを知ると優しく微笑んだ。傍にはフィアテリスがいて、三人は幸せに包まれていた。

 「う、あ…ああ…あああ…」

 低い泣き声が雨音に混じって響いた。その泣き顔を見てクレシェントは両手で顔を隠しながらすすり泣いた。雨は二人の声を包むように降り注いでいった。

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