63話 母の怒り

 灰色の空の下、すっかり痩せ細った子供が枯れ木の下で蹲っていた。湿った空気がやけに生ぬるい。そこに雨なんて降って来るものだから、余計にその子供は骨と皮しかない腕を絡めて縮こまった。

 ここはどこだろう。荒涼とした地面の上に立ちながら、クレシェントはそんなことを思っていた。最後に飲んだコーヒーの味がやけに胃を刺激したのを覚えている。

 ふと白い枯れ木の方に目を向けてみると、根元の方に濡れた黒い塊があったのを目にした。

 「…紫薇?」

 何故かその塊が思い人のような気がして口を開いた。そうしてしゃれこうべみたいな姿の紫薇を見付けると、クレシェントはゆっくりと近付いていった。

 紫薇の体は本当に華奢だった。碌に食べ物を口にしていないのだろう。頬はこけ、身に付けている白いティーシャツが重そうに感じた。

 クレシェントは紫薇の隣に小さな赤い花が申し訳なさそうに咲いているのを見付けた。花びらは爪で引っかいたように傷付いて、葉っぱは力任せに千切られていた。それは以前、クレシェントが紫薇の庭園に根付けた意識の一部だった。クレシェントはそれで自分の意識が紫薇の中を彷徨っているのだと理解した。同時に今のこの場所がどうしようもない絶望に包まれてしまっていると感じた。

 「ねえ、紫薇」

 クレシェントは紫薇の目の前に膝を着いて手を添えた。

 「貴方はとても辛いことばかり受けて来たわね。それはきっと、私なんかじゃわかってあげられるものじゃないと思う」

 項から見え隠れする傷痕は何年経っても消えなかった。

 「でも貴方はたくさんの人と出会って知った筈よ。誰かと一緒に笑ったり、泣いたり、ときには喧嘩なんてしていたわね。嬉しいことばかりじゃない、紫薇が受けたような悲しいことだってあった。そして誰かを憎んでしまうことだって」

 紫薇の顔がほんの少しだけ上を向いて目が見えた。

 「私ね、紫薇に教えて貰ったことがあるの。どんなに辛い人生でも、生きようとすれば生きられるんだって。それはとても苦しくて、死んでしまった方が幸せなのかもしれない。でも私は生きたいよ。紫薇にも、生きていて欲しい。紫薇には…紫薇の帰りを待ってくれる人がいるじゃない」

 最後の言葉を口にしながらクレシェントはぐっと息が詰まりそうになった。

 「私はもう紫薇を抱き寄せたりしないよ。だって貴方はもう、子供じゃないんだから。自分の力で…立って歩きなさい」

 宛ら母が子供にいい聞かせるようにしっかりと紫薇の両肩を掴みながらいった。膝の上から顔を覗かせる紫薇の目を見詰めながら。そして目と言葉で訴えると、傍にあった一輪の花を掴み、最後に優しく紫薇に微笑みかけるとそれを引っこ抜いた。

 その世界にあった最後の色が消えた。

 「…うるさい」

 紫薇は捲れ上がった地面を指で撫でながらそう呟いた。



 ぱらぱらと小さなかけらがコンクリートの床に落ちる。その一つ一つが光っていてそれは虫の翅のように透き通っていた。ガラスのようなプラスティックの様な辺りに散らばった妖精の翅はその妖精を淡く照らし出した。翅を壊され、無残にも飛ぶことを奪われた妖精は床でもがき、その姿は正に死の淵で足掻く蛾だった。

 「お前のその右目の力と併用して、まだああまで活きが良いとは…」

 ずたぼろになった紫薇の姿を見ながら、アスダンティーマは面白くなさそうに洋風の杖で床を叩いた。

 「おや、また翅を修復し始めたぞ。さあ、どうする?霜哉」

 その隣で顔を血で汚していた霜哉を挑発するように横目で流した。

 霜哉の衣服はあちこちが破け、また血で滲んでいた。顔は蒼白で右目の光も徐々に弱まってしまっていた。

 「『最後の晩餐(レ・プリエマ)』を使う」

 その言葉を耳にするとせせら笑っていた顔は途端に強張った。

 「…お前も冗談が好きな男だな。下手をすれば金物屋に頭を下げることになるぞ」

 「それほどの力でなければ妖精は仕留められないさ」

 「標本にする気はないのかね?」

 「人が…いや、命が最も色濃く輝くときは…死に際に瀕したときか」

 「誰かを慈しむか、若しくは憎むとき…お前もつくづく不器用な男だ。良いだろう。私は命令を受理したぞ。我らの晩餐、女を糧としたその力…特とご覧あれ!」

 霜哉の指に嵌められていた指輪が強い光を発すると指輪から赤い鎖が飛び出し、アスダンティーマの胸に向かって突き刺さった。それは運命の赤い糸のようでもあり、二人の逃れられない宿命を表わしているかのようだった。

 再び霜哉とアスダンティーマの声が呼応する。

 『最後の晩餐 極上の蜜』

 先ず初めに手を弄った。それから舌を這わせて腕をなぞり、首筋と胸の上を攻め、丹念に頬に口付けをして最後に唇を奪った。真っ赤な光に包まれた女神が空に現れる。その姿は乳房から上だけで絹の布を羽織り、顔は怨みで歪んでいた。女神の大きさは空を覆ってしまうほど巨体で、空から一直線に傷付いた妖精に向けて落っこちていった。

 「…紫薇、俺に見せてみろ。かつて世界を滅ぼした妖精の、その力の片鱗を」

 その言葉に合わせて霜哉の右目が強く光った。


 灰色の世界はその殆どが何か強い力によって削られてしまっていた。まるで孤島に佇むように白い枯れ木だけが立っている。辺りは真っ暗で、紫薇はその暗闇の中でじっと蹲っていた。膝の上には半顔だけが映っている。その目は意識があるのかないのかはっきりしていなかった。

 ぐらりと強い衝撃がその世界を揺らすと、途切れていた紫薇の庭園が徐々に蝕まれ始め、空の破片が紫薇の真上を流れていった。紫薇はその崩れていく空を眺めても何の関心もなかったが、地面が落っこちる中で権兵衛の骨が音を立てて奈落の底に吸い込まれると、初めて死の恐怖を間近に感じたのか、悲鳴を上げて枯れ木に寄り添った。既に地面は枯れ木の分だけしかなく、紫薇は木に必死になってしがみ付いた。しかしその木は表面が平滑で、掴めども掴めども指は木に張り付かなかった。


 もう誰も助けてくれない。その言葉が紫薇の脳裏を過ぎった。


 がりがりと木の表面を引っ掻いていく内にその傷痕がまるで自分の背中に着いた傷痕と同じように見えた。木の名前は猿滑り。百日紅とも呼び、漢名を紫薇といった。誰がその木を、自分を傷付けていたのか。それは他ならぬ自分だったのだ。

 紫薇はその傷痕を目にすると、自分の手を見詰めた。それは人間の手ではなかった。黒い、鉤爪のような鋭い指先が紫薇の目を焼き付ける。紫薇はその事実に思わず目を背けてしまった。自分の体に愛着があった訳ではなかった。だがこれでは余りにも惨めに思えてしまう。

 そんなことを思っているうちに紫薇の体は奈落に傾いていった。目を瞑っているせいでその恐怖からは逃れられたが、体に強いプレッシャーを感じた。どうしようもない絶望が再び紫薇を襲う。どうしてこんなことになったのか。どうしていつも自分だけがこんな辛い目に合わなければならないのか。そうしている内に紫薇の中にふつふつとどす黒い、煮え滾った塊が込み上げてきた。

 「…おまえのせいだ」

 声は幼くもその中にしっかりと憎しみが込められていた。

 背中が熱い。積年の恨みが吹き出されるように紫薇の背中から光が溢れた。やがてその光は昆虫の翼に形を留めると、その憎しみを翅に色付けした。鮮やかな紫色に染まりながら、その色彩は深い悲しみに満ちていて見る者を不安にさせるような塩梅だった。誰かを威嚇する、そんな意味合いを持った翅を広げると紫薇は暗闇の底から崩壊する天井に向かって飛翔し、枯れ木を置いて外の世界に飛び出していった。


 「霜哉、このままいけば本当にお前の息子は滅びることになるぞ」

 赤い女神に押し潰されている妖精を見ながら霜哉の横顔を覗いた。しかし当の本人はその力を緩めるつもりはなかった。それどころか指輪を着けた指から血が流れるほどの力を注いでしまっている。

 「霜哉…」

 そうアスダンティーマが口ずさんだ途端、

 「…来る」

 霜哉の一言と共に赤い光を押し退けて鮮やかな紫色の光が煌いた。その中に花緑青の光が二つ光る。その光はかつて霜哉がおぞましいと感じた目だった。

 巨大な二枚の蛾の翅が紫薇の背中から、傷痕から手を広げている。外側から真ん中が紫色に染まり、翅の先っぽには丸い目のような絵柄があった。内側は怒り狂った炎の色をしていて、残りの部分は黒い燐に覆われていた。

 「この…姿は…」

 紫薇は自分でもその姿に驚いていた。翅のこともそうだったが、あれだけ練磨した肉体が以前と同じ華奢なものに戻ってしまっていた。しかしそれならばまだ良い。今の紫薇の体には本来ある筈のないものが備わっていた。女性を象徴する乳房が胸から張っていたのだ。髪の毛は腰まで伸び、目の周りには化粧を施したように濃く黒い隈が塗られていた。股の角度はぐっと上がっていたが、下半身にはしっかりと男性の象徴を感じている。紫薇はこの異様な状態に戸惑った。

 「半陰陽…ついに超越力を手に入れたか」

 霜哉はその姿を目にして顔を強張らせた。

 「…超越力だと?」

 「超越者と呼ばれる面々はその殆どがその身に二つの性を持つ。我々人間が定義づけた異性の境界線などには当て嵌まらない離界の存在。それは絶対的な個性であり、『存在量』と呼ばれる定められた個々のステータスを越えた称号、それが超越者だ」

 紫薇はその言葉の意味を信じられなかったが、実際に自分の体が変貌してしまったことで嫌でもその事実を認めてしまっていた。加えてあのゼルア級犯罪者に登録されていたゾラメスも二つの性を持っていたと思い出した。

 「だが…お前はその超越者ですら跪かせる存在だ。見ろ」

 そういって霜哉は空に向けて人差し指を差した。

 紫薇は何事かと思って空を見上げてみると、そこには黄金の輪が幾つも並んでいた。その輪は何か得体の知れない力を呼び覚ますようにぐるぐると回り、その輪の中の空間を歪ませていった。

 「あれは…?」

 「他の世界の超越者やそれに相当するもの。それらがお前の翅を毟り取ろうとこの地にやって来ている。何故かわかるか?妖精とはそれほどまでに恐るべきものだ。かつてあらゆる世界を滅ぼし、定められた理を破った独裁者。『アルフィリート・ヴァレオルクシアリュフォン(妖精という名の独裁者)』それがお前の正体だ、紫薇」

 「俺が…妖精…?俺が…女王を…殺した?」

 一瞬、体を引き千切られてしまった赤い人竜の姿が背中に映ったような気がした。

 空に掲げられた輪っかは徐々にその大きさを広げていったが、あるときを堺に急激にその膨張は収まり、やがて輪っかは目に見えない力によって押し戻されていった。

 「(輪が閉じていく…奴の仕業か)」

 呆然とする紫薇を置いて霜哉は輪っかが閉じ始めたのを見た。だがその目は突如として響いた紫薇の笑い声によって引き戻されることになる。

 紫薇はどうしようもない事実を突き付けられ、絶望と同時に一つのことを認識した。あれだけ慄いていたゼルア級が有する超越力が自分のものになったのだ。淀んだ希望が紫薇に麻薬のような悦びを与えると紫薇はくくっと笑った。

 「そうか…俺が妖精か…」

 それは一種の諦めだった。

 「…確かにおぞましい姿だが、お前を地べたに引き摺り下ろすには手頃な力だ。俺が妖精だと言うのなら、甘んじて引き受けてやる。積年の恨み…今ここで果たさせて貰う。お前の罪は、血で償え」

 紫薇の頭の中に翅の動かし方は既に入っていた。紫色の翅を羽ばたかせると見る見るうちに全身に得体の知れない力が循環するのを紫薇は感じた。それは今迄とは比べものにならないほど鮮烈で、病み付きになってしまいそうだった。

 紫薇は試しに腕を振るってみた。すると振るった右腕が緑色に光り、その光が柱となって紫薇の前を走っていった。その光は剣の様に平たく、鋭いものだった。光は空を仰いで雲を裂いていった。

 霜哉はその光を見ると片手を開いた。手の周りを赤紫色の文字が浮かび上がり、その文字が一片に集約していくと一本の刃となった。その刃は柄のない日本刀で、剥き出しになった刀身を掴むと霜哉は向かって来る光を薙ぎ払った。

 その間にアスダンティーマは親指を口許に近付け、歯で指を噛んで血を滲ませると親指をステッキの表面に沿って滑らせ、その先っぽを床に打ち付けた。

 『降魔 戯怒羅』

 今のアスダンティーマと霜哉は鎖で繋がっている為にお互いの力を併用することが出来た。霜哉の力が鎖を通じてアスダンティーマに伝わり、異界で契約した三本の首を持った黄金の龍が二人の背後から飛び出し、その長い首を伸ばした。

 堅い魚の鱗を纏った金色の龍の口を目にすると紫薇は手を強張らせ、肌色をした人間の手から鉤爪状の黒い手に姿を変えた。手首から肘まで白い柔らかな体毛に包まれたその腕に目もくれず、獣であった時のように腕を撓らせて振るった。

 ビルを丸ごと飲み込んでしまいそうな大きさを持った三つの龍の首が引き裂かれる。ただ不思議なことに生き物を細切れにしたというのに血や肉片が飛び散らなかった。金色の折り紙を千切ったように紙吹雪が乱れると三匹の龍は消えた。

 「獣のときより体が馴染む…概念の具現化など所詮は子供騙しか…」

 もとに戻った手を見詰めながら、紫薇は手を握ったり離したりした。

 「どういう育て方をしたらああなるのだ、霜哉?お前そっくりではないか」

 「虫唾の走る物言いは止めろ」

 そういうとアスダンティーマは短く笑った。

 「情に駆られて力に溺れ始めている。弱らせるなら今の内だな」

 「ああ、だが目を使い過ぎた。体の調子が戻るまではこれでいく。…来るぞ」

 柄のない刀を握り締めると、翅を羽ばたかせようとしている紫薇の姿が霜哉の目に映った。そして霜哉の視界を覆ってしまうほどの翅を広げた紫薇が迫り、同じ中身をした二人はお互いにぶつかり合った。そのときの衝撃は遠い場所にまで響いてしまう程だった。



 青や赤のステンドグラスに亀裂が生じる。その光景を見て、キジュベドは不適な笑みを浮かべながらベッドの傍にあった椅子に腰掛けていた。今度は緑色のガラスに長い蛇のような亀裂が生まれると笑っていた顔が一瞬強張り、キジュベドを席から立たせた。

 「女王を閉じ込めている封印が弱まりつつある…」

 頬を歪ませながら、ガラスケースの中に横たわっている眠り姫に近付いて弄るように指でガラスをなぞった。

 「欲張るからそんな目に合う。片手じゃ花束は持てませんよ?霜哉」

 なぞっていた指に向かって銀色の蛇が牙を剥いた。しかしその蛇をキジュベドは手に持っていた青いナイフで切り付け、蛇の顔を斜めに割った。蛇は床にのた打ち回り、最後にキジュベドの足に踏まれると砂になって広がった。

 「さあ、今度こそお休みの時間ですよ。魔性の姫君」

 キジュベドの手の平がガラスに張り付くと、透明な壁は低い音を立てて軋んだ。すると唐突にクレシェントの目が開かれ、赤い双眸が光った。

 「なに…!?」

 予想だにしない出来事にキジュベドは思わず声を上げて飛び退いてしまった。それが幸を成してクレシェントの周りを覆い始めた赤い腕から逃れ、四散したガラスの破片からも身を守った。

 「俺ですら破れなかった封印を…これが女王の力か…!」

 悔しそうに目を向ける先にはゆっくりと体を起こすクレシェントの姿があった。真紅の目はクレシェントの意識がはっきりすると次第に弱まり、もとの銀色に戻った。

 「…行かなきゃ」

 封印の力の残り香なのか、クレシェントは体を重たそうに動かした。

 「紫薇が罪を被ってしまう前に…もうこれ以上、紫薇の庭園が穢れてしまう前に…私が止めなきゃ…」

 「そうはいきませんよ。彼には殺しの罪を背負って頂かなければ」

 クレシェントの前に立ちはだかるように両腕を広げながらいった。

 「…邪魔しないで」

 今のクレシェントに容赦はなかった。宛ら女王が臣下に向かって命を下すように手を掲げた。辛辣に、冷徹に、一切の疑念を持たない概念がキジュベドの体を包んでいった。

 『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』

 赤い帯状の立方体がキジュベドの姿を覆い、クレシェントはよろよろと先に進んだ。檻は脈動を続けながら伸縮している。赤い光がステンドグラスを真っ赤に染め上げていた。だが突如としてその檻は内部から切り開かれ、青いナイフの刃先が縦横無尽に軌跡を閃かせると赤い檻は弾け飛んでいった。

 「お痛は困りますね、テテノワール…」

 檻の残骸を掻き分けながら、その姿を露にした光景を見てクレシェントは目を疑ってしまった。半ば殺すつもりで放った概念が切り刻まれ、砂のように細かい粒子となって消滅している。赤い目と唇がクレシェントの視界に映ると、彼女は改めてその人物の実力に恐怖し、警戒した。

 「どの道貴女の体も、その力を目覚めさせていない妖精のかけらも、いずれ俺のものとなる。ならば今ここで、一思いにしゃぶって差し上げよう」

 小さな吸盤のような口がキジュベドの素肌に広がった。

 『肌触族(ファランクス)』と呼ばれる亜人が氷見村の正体だった。汗腺の代わりに小さな吸盤を全身に持ち、その口の中に無数の絶舌が隠れていて、触れたものを噛み砕いて宛ら砂のようにしてしまう特性があった。また容姿が中性的で、常に口紅を塗ったように唇が赤い色をして、二つの性を持つといわれる超越者に近い力を予め持っていた。

 「赤い目とその魔力…貴方は亜人の一族なのね」

 クレシェントは赤い剣を具現化させながらキジュベドの目を見詰めた。

 「その通りです、お母様。俺の名前はキジュベド・デウロ・ラ・カーミラ、お見知りおきを」

 頭を小さく下げながら自己紹介した。

 「私を母だと思うのならそこを退いて…。あの二人を止めないと、本当に悲劇が始まってしまう。お願いよ…」

 「貴女が失敗作ではなく、本当に母の力を手に入れたのならばその願いを聞き入れましょう。まあ、それも無理な話ですがね」

 「ええ、私にあんな力はとても扱い切れないわ…」

 「…どういうことです?」

 その言葉が意外だったのかキジュベドは目を細めた。

 「ヴィシェネアルクは私に母の証を手渡したわ。でも私には無理よ…」

 「…大いなる生物の母の証を貴女が手に入れた?」

 その事実をゆっくりと嚥下するように何度も頷いた。そして次に口にした言葉はクレシェントの意識を鮮烈に呼び覚ました。

 「そうですか…いや、そうですか。セレスティンに最高の土産話が出来た」

 「貴方は…セレスティンを知っているの?」

 「さあ、どうでしょうね」

 挑発するような笑みを浮かべるキジュベドにクレシェントは憤りを感じたが、そんなことよりも優先させなければならないことを思い出すと、短い溜め息を吐いて気持ちを落ち着かせた。

 「おや、もっと食い付いてくれると思ったのに…彼に興味はないのですか?自分を造り上げた父親に」

 「今はそれどころじゃないわ。私よりも紫薇が心配だから」

 「流石は母だ、自己犠牲が強い。…だから女王なんてものはすぐに死ぬ」

 最後の言葉を吐き捨てるようにクレシェントに浴びせると、キジュベドは前屈みになりながら小走りしてコートの袖から右腕の素肌を曝け出し、その無数の口がへばり付いた手を持って突撃していった。

 クレシェントはその右腕を見るや否や、即座にその危険性を肌で察知し、後退していった。クレシェントが立っていた場所はキジュベドの腕に触れられると即座に分解され、水分を吸い取られ、小さな粒となって崩れていった。クレシェントはその光景に息を飲みながら後退を続けながら赤い腕を具現化した。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 クレシェントの背中から人の腕を形取った概念の集合が宙を蛇行しながら駆け巡る。赤い腕は二人の間に所狭しに呼び出され、小さな隙間もなかった。そんな状況にも関わらず、キジュベドは素肌を肌蹴させたままクレシェントに滲み寄り、具現化された赤い腕を払っていった。

 肌蝕族の腕は概念すらも食い破り、辺りに血の粉を撒き散らしながらクレシェントに近付いていった。そんな中キジュベドは繰り広げられた赤い腕の中心に一際強い光を見付けた。

 『ディオレ・ジェネフィリア・ザード(我は惨劇を呈して)』

 掲げられた左手の先から赤い光の渦が出来るとクレシェントは標的を定め、太い光の束を射出した。それは実際の光の速度と同じではなかったにしろ、光が着弾するまでに殆ど時間はかからなかった。

 キジュベドの体が赤い光に包まれると、その進行は止まった。しかし肌蹴た右腕はその光から顔を出し、指先が光を掻き分けるとキジュベドの進行は再開された。止まる前よりも更に速度を上げ、涼しい顔をしながら手の口を近付けていった。

 撃ち出された概念に更なる奏力を上乗せしても、キジュベドの進撃は止まらなかった。クレシェントは差し向けられた手の爪の先を目にすると即座に横に跳んだが、その爪の先はクレシェントの喉元を掠めて首にかけていた真珠のネックレスを掻っ攫った。真珠を通していた金属の糸が千切れ、軽い音を立てて真珠が宙を舞う。その真珠をキジュベドの素肌はあっという間に飲み込み、最後の一粒は人差し指にくっ付いてクレシェントに見せ付けるかのように時間をかけて指で食べてみせた。その光景は真珠が指の中に減り込んでいくようだった。

 ジブラル、ごめんとクレシェントは思いながら再び赤い腕を具現化し、身近にあった木製の長い椅子を次々と赤い腕に持ち上げさせ、キジュベドに向けて放り投げさせた。

 「面白い概念の扱い方だ」

 ゴシック調で作られた胡桃色の長椅子が宙を飛ぶ。キジュベドは素直な感想を述べてから両腕を前に差し出した。手の平には小さな穴が空いている。その穴から白い極小さな棘が発射された。それは今さっき取り込んだ真珠の成分で出来た弾丸だった。実際の弾丸のようなどんぐり状の棘は散開しながら放射され、長椅子を砕いていった。両の腕は放り投げられた長椅子に合わせてそれぞれ別の動きをした。

 砕かれた木片の中に銀色に光るものがあった。人でありながら人ならざる魔性の目と髪の毛を靡かせながらクレシェントは剣林弾雨の中を潜り抜け、赤い剣の先端をキジュベドに向けた。その際、弾け飛んだ尖った木片と空気を切り裂く真珠によって頬を傷付けた。

 胸に突き立てられた剣がキジュベドの体を屈ませ、息を止めた。だがキジュベドの頬が釣り上がると剣の刀身は体の中に取り込まれていった。

 「これならどう?」

 その事態を予想していたように平然と柄から手を離し、クレシェントは空を持ち上げるように指を上げた。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 指の動きに合わせてキジュベドの周りの床から赤い槍が幾つも突き出され、交差し、コートを貫いていった。槍はキジュベドの口にしゃぶられないように絶えず動いていた。

 「やはり一般の概念と違って味が違う。肝臓やもつを食べているみたいだ」

 槍に貫かれながらもキジュベドのせせら笑いは止まらなかった。クレシェントはその笑みにぞっとして思わず半歩引いてしまった。

 「貴方の本当の武器はその言葉ね。一体どれだけの人をその口で誑かしたの?」

 「ざっと百人ほど。始めは自分の親兄弟、隣人から王様まで…。とても容易いものだった。ただ不思議と誰かと寝るときは誰もが悲鳴を上げた。男も女も異物を見るような目で俺を見た。どうしてだと思う?」

 クレシェントは先ほどから気になっていたことがあった。声色は低い男性のものなのに素顔は女の子と見間違えてしまうほど端正だった。それを象徴するかのようにしっかりと胸の辺りが膨らんでいる。

 「肌蝕族は端正な出で立ちが多い。そのお陰で俺は男にも女にもなれるのさ。手術は予定よりも早く終わったそうだよ」

 「貴方、まさか…」

 「一つの個体を手っ取り早く超越者に近付けるには、性を二つ持てば良いのさ。そう、俺のようにね」

 恐怖と不安がクレシェントを襲うと具現化していた概念はそれになぞって崩れていった。それはキジュベドの力によるものであったかもしれないし、具現化の限界であったかもしれない。ただ一つだけ確かなことは、クレシェントにとって目の前の男と女の混合物が常識では考えられない思想の持ち主だということだった。

 「具合が良いなら子も産めるらしい。まあ、今は必要ないけどね」

 赤い目と唇が光ると、クレシェントはまた半歩引き下がった。

 「安心して良いよ。もう男にも女にも興味はないから。抱いて欲しいならしてあげないこともないけど。今の俺の対象はただ一人、妖精にしか向いてない」

 「紫薇に触れさせる訳にはいかないわ…!」

 その言葉の意味を理解すると、恐怖に駆られながらも勇気が湧いた。使命感が引き下がっていたクレシェントの足を初めて止めた。

 「へえ、妖精だってわかっていても、貴女の心は変わらないんだ。別の女に取られてしまったのにね」

 クレシェントは無意識に唇を噛んでしまっていた。必死に頭の中に湧き上がってしまう嫉妬心を振り払う。この男は言葉で自分の心を掻き乱そうとしている。そう思っていても止まらないキジュベドの弁舌はクレシェントを苦しめた。

 「想像してみたことはある?二人がどんなことを話したり、どんな風に愛し合っているか?」

 忍び寄るキジュベドの足裁きはまるで蛇のようだった。いや、蛇というよりも湿っぽい蛭といった方が的確なのかもしれない。

 「二人は一日に何回キスをするのかな?一回?それとも五回かな?きっと彼女にしか見せない顔があるんだろうね。優しい言葉で、包み込むように。セックスだってしてるよね。どっちから誘ってるのかな…ねえ?」

 クレシェントはそんなことを考えなかった訳ではなかった。ふと紫薇の顔を思い出すと、そこにはいつの間にか羽月の顔があって、紫薇は静かに彼女に笑いかけている。そのときの気持ちはどうしようもなく切なくて、惨めで、居た堪れない。

 「そんな自分が嫌になる。…ほら、隙だらけ」

 手が吸盤のように張り付いた。気付いたときにはキジュベドの手が脇腹に触れていてクレシェントは悲鳴を上げた。吸われながら、噛まれながら、自分の思いが見透かされる。クレシェントは半狂乱になりながらキジュベドの腕を掴んだが、袖は捲られていて計算されていたように彼女の手の平は血で汚れた。

 余りの痛みにクレシェントは腰を落としてしまった。だが掴んでいる手は張り付いたように取れず、脇腹を掴んでいたキジュベドの指は半分まで肉に埋まっていた。

 キジュベドは体も心も奪ってやったと心の中で嘲笑した。しかしクレシェントの意識は自分が思っていたよりもまだしっかりとしていて、痛みに呻きながらも赤い腕を具現化させると無理矢理にキジュベドの体を引っぺがした。

 クレシェントの体は赤い腕がキジュベドを壁まで押し退けてその壁を半壊させ、瓦礫に埋めてから床に横たわった。痛覚がクレシェントの体を丸めると、脇腹と両手から血が流れた。肩を震わせながらじわりとクレシェントの目は涙で滲んだ。痛みよりも感化されてしまった自分が情けなくて、クレシェントは嗚咽を漏らした。

 「…ちっ、まだ月の魔力を消化し切れていないせいで体が思うように動かねえ」

 瓦礫に埋まりながらキジュベドはさてどうしたものかと考えた。と懐の中で冷たいナイフの感触を思い出した。

 「あのときにかっぱらって正解だった。妖精のかけらだけでも抉ってやれば、後は放って置いても大して脅威にはならねえな…。ふん、とんだ宝の持ち腐れだな」

 床に蹲っているクレシェントを遠目で眺めると、やれやれと溜め息を吐いて立ち上がった。手にはナイフを引っ提げて傍にあった石ころを蹴飛ばした。転がった石がクレシェントの膝に当たっても何の反応もないことを確認するとキジュベドは足音を立てずに近付いていった。

 キジュベドは倒れているクレシェントの腹を爪先で押し、仰向けにさせた。乱れた髪の毛で顔は見えなかったが何の抵抗もないところを見ると、痛みでのびてしまっているのだろうとキジュベドは思った。

 偶然にもキジュベドの手がクレシェントの肉を吸い取った部分に妖精のかけらが埋め込まれていた。破れた衣服の真ん中、血で汚れた皮膚の上にそれを見付けると、キジュベドはナイフを寄せた。

 ふと小さな音がナイフの動きを止めた。キジュベドが視線を上げてクレシェントの顔を見てみるが、口が半開きになっているだけで起きた気配はなかった。そうして改めてナイフを動かそうとすると、その小さな音が低い、獣の唸り声だと知った。

 クレシェントの手がキジュベドの腹部を貫いた。呻き声を上げながらキジュベドは腹の中に入ったクレシェントの手を食い千切ってやろうと腹に力を集めたが、途端に頭がくらっとしてしまった。まるで悪いものでも食べてしまったようだった。強い吐き気もした。キジュベドは必死に我を取り戻し、貫かれていた手を引き抜いて後ろに下がった。

 「うおえっ…!ま、魔姫にでもなりやがったのか…?」

 血と胃液を吐き出しながらキジュベドは再び視線を前に向けた。そこには痛みで虫の息だった筈のクレシェントが立っていた。顔の全貌が髪の毛で隠れていてわからない。不明瞭な事実がキジュベドの不安を煽った。

 クレシェントの足が一歩前に出た。爪先が傾いて体の平均感もないその歩き方が返って気味の悪さを引き立ててしまっている。ぶらりと下がった両手は指だけが微かに動いていた。

 いつの間にかキジュベドはクレシェントが自分に近付いてくる度に後ろに下がってしまっていた。先ほどと打って変わって立場が逆転しまったことでキジュベドは冷静な判断が出来なくなってしまっていた。それだけではない。大して脅威にもならないと思っていた相手が得体の知れない、危険な何かに変貌したのだ。全身を身震いさせながらキジュベドは大粒の汗を流した。

 「…許さない」

 その言葉を聴いた途端、肩から背中に寒気が走った。小さい、耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなクレシェントの声。小さな鳥の悲鳴のような声だった。キジュベドの喉はへばり付いてしまうように乾いていた。

 「…お前だけは許さない。聞きたくなかった、そんなこと…」

 また一歩、クレシェントの体がずるりと前に這う。汗でべた付いていた髪の毛の隙間から、キジュベドは赤い光ではなく、暗い銀色に光る目を見た。

 黒い塊がクレシェントの手の平の上に握られていた。それは嫌に柔らかかった。細い管が幾つも重なり、丸みを帯びている。暗みがかかった青い管は秒数と同じ速さで蠢いていた。

 『シャンデス・ジェネフィリア・ノーグ(傷創は然したる追想を写して)』

 手の平に乗っかっていたそれを握り締めるとそれは指の間から噴出し、細い枝状に分かれていった。毛細血管のように宙に伸びたそれは茨となって棘を産み、クレシェントが手の平を広げると、一斉にキジュベドに向かってその先端を突き刺した。茨はキジュベドだけではなく、倒れていた長椅子や床にまで浸透していた。

 キジュベドは妙な違和感を覚えていた。腕や肩、あらゆる場所を刺されたというのにそれに伴った痛みがないのだ。ふと刺された場所を見てみると傷口はそれほど深くなく、刺さっているというよりは掴まれているといった方が正しい。その光景を見てキジュベドに笑みが戻った。だがその笑みは間を縫って崩されることになる。

 気付いたときには手遅れだった。先ず長椅子から変化が訪れた。堅い木材で出来た滑らかな質感の椅子が間隙に年を食ったように脆く、老朽化していったのだ。続けて床に目をやった。大理石で出来た厳かな床は亀裂が入り、野晒しにしていたような脆い石の板に変貌した。最後にキジュベドは自分の体から茨を通してポンプのように生命力が吸い取られていくのを目にした。気泡が弾けた音と共に茨の血管が膨らみ、その膨らみがクレシェントに集められる。血管の先はクレシェントの肌に密着して、見る見るうちにクレシェントの怪我は治っていった。

 どんなにキジュベドが悲鳴を上げながら暴れても血管は決して体から離れなかった。命が一つ吸われることにキジュベドは自分の力を失っていく。やがて手足が枝のようになり、頬はこけ、腹が凹み乳房が萎れるとキジュベドは乾いた床に倒れた。息は辛うじてあったが、殆ど虫の息だった。

 「俺の…俺の今まで溜めていた力を…食いやがった…!」

 ひび割れた唇でキジュベドは天上を見ながら掠れた呼吸をした。その目の前にはキジュベドの生命力の殆どを奪ったクレシェントの姿があった。外観は変わらない。しかしクレシェントは母の力と同じものを感じていた。このときクレシェントは腰の辺りに妙な出っ張りが出来た。そこに小さな二つ目の脳が出来たことをクレシェントは後になって知ることになる。

 クレシェントは地面に寝そべっているキジュベドを一度だけ睨むと、足早に礼拝堂から抜け出した。急がなければ。逸る気持ちを駆り立てるようにクレシェントは礼拝堂の外から目にした高いビルを目指していった。

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