62話 百日紅

 背中の傷痕が痛む。正確には背中そのものが蠢いているようで、何だか自分のものではない気がした。特に首から下の部分にかけては違和感が著しい。ナイフか何か鋭利なもので背中を掻き毟ってやればどんなに楽かわからなかった。

 「…またか」

 秋も終わりに近付いているというのに紫薇の体は汗まみれになっていた。

 布団を足で蹴飛ばし、べた付いた喉の渇きを癒す為に静かに部屋を出た。家の中はひっそり沈み返って自分の足音が喧しく聞こえた。

 一階に降りて台所に向かい、立てかけられていたコップを手にして蛇口を捻った。部屋が暗いせいで真っ黒い墨を飲んでいるようだった。紫薇は半分まで水を飲むとまた水を入れ、冷たい感触を喉に流し込んだ。

 汗は低い室温のせいで瞬く間に乾いていった。ただ体は汗で憔悴し切ったように重い。紫薇はよっこらせと椅子に凭れかかり、手で目元を覆った。

 この奇妙な感覚は何なのだろう。紫薇は正体のわからない奇病にでも犯されているようで不安だった。この感覚が始まったのはメディストアとの修行を終えたほんの後だった。始めは軽いこりのようなものが背中に浸透している感じで取り留めもしなかったが、今では悲鳴を上げそうなほどな違和感が背中に広がった。

 「…病院に行ってみるか」

 だが言葉とは裏腹に紫薇はこれが単なる病気ではないものだと感じていた。何か得体の知れないものが自分の体の中にいる。そうでなければ自分の体が何か別のものに変容しているようだった。

 「…紫薇」

 その声を聞いて紫薇は静かに顔を上げ、後ろを向いた。と同時に柔らかい手が紫薇の肩の上に置かれた。

 「…起こしたか?」紫薇の声色は優しかった。

 「ううん、ただ紫薇が何だかうなされてるような気がして…。一階に降りてみたらやっぱり…。背中、また痛むの?」

 「痛いというより、むず痒いというか…奇妙な感覚だよ」

 「ちょっと見せて、もしかしたら何か出来物があるかも」

 「良いよ、そんなに綺麗な背中してないから。それにまだ羽月に引っかかれた傷も治ってないし」

 そういうと羽月はその言葉の意味を理解して紫薇のおでこを突いた。

 「もう、知りません」

 「…ごめん」

 紫薇が謝ると、羽月はすぐに無邪気な笑顔を見せて紫薇の肩に顔を乗せた。

 「痛かったらすぐに言うのよ?」

 「ああ、そうするよ」

 そういいながら紫薇は羽月の背中に腕を回して彼女の体温を感じた。羽月の体温は普通の人よりも低めだったが、返ってそれが紫薇の体を程よく温めた。

 そういえばと紫薇はふと思い出したことがあった。初めてクレシェントの体に触れたときも羽月と同じような温度だった気がした。熱くもなく冷たくもなく、ぬるま湯のような温度が肌を湯がいた。そして火照った体は骨まで溶かし、体はふにゃふにゃになってしまうのだ。

 とくんと心臓が脈打った気がした。だがそれも体を預けている人を思うと和らいでいく。その心地よさはぬるま湯では決して味わえないものだった。紫薇はその恍惚に身を委ね、またそれを欲しがると体は自然と溶けていった。


 ややあって紫薇が目覚めたのはもう十時を過ぎた頃だった。寝坊してしまったかなと紫薇は体を起こすが、今日は土曜日だったことを思い出すとまた力を抜いて布団の上に寝そべった。

 「あ、今日はあの日だったな」

 再度紫薇は体を起こした。羽月が叔母のお見舞いに出かける日だった。

 部屋から出てみると丁度プランジェが洗濯物を運んでいたのが階段から見えた。頭に花柄のバンダナを巻いて髪の毛を縛っている。三人分の洗濯物が入った白いバスケットをちょっと持ち辛そうにしていた。

 「起きたのか」

 紫薇が階段を下りるとプランジェは立ち止まって紫薇を見上げた。

 「綾ならもう出かけたぞ。朝ごはんなら食卓の上にある。今食べるというなら温めてやるが…」

 「いや、腹は減ってない。コーヒー貰えるか?」

 「うむ、少し待っていろ」

 紫薇はプランジェからバスケットを取り上げると窓際まで持っていき、窓を開けて外に出た。冷たい北風がぐっと身を締める。紫薇は目をぱちくりさせながら洗濯物を干し始めた。台所ではプランジェがお湯を沸かしていたところだった。

 バスタオルや手拭い、靴下やシャツの他、洗濯網からズボンを取り出してそれらを干していくと、底の方に女性ものの下着を目にした。紫薇は少し困った顔をして台所に目をやるとプランジェがマグカップにコーヒーを注いでいるところだった。

 紫薇はしめたとサンダルの音を鳴らして家の中に戻ると、プランジェからマグカップを受け取り、後は頼むといってソファーに座った。庭から聞こえた雑なやり方だとプランジェの愚痴を無視してコーヒーを啜る。先ほどの寒気と相まってコーヒーの酸味と苦味が目を瞬かせた。

 意識がはっきりしたのを見計らったように家の電話が鳴った。普段ならば羽月かプランジェが電話を受け取るのだが、生憎と羽月は出かけ、プランジェは洗濯物を干している最中だったので紫薇は面倒臭そうに立ち上がった。

 「…はい、絵導ですが」

 我ながらとぼけた声だと思いながら受話器を握る。しかしその先から返って来た声の主は思いもよらない人物だった。

 「おや、お前も一端に電話に出れる位になったのか」

 これ以上ないほど紫薇の意識を蹴飛ばしたものはなかっただろう。目付きの悪い顔が更に険悪になり、受話器を握り潰してしまいそうな握力を加える。

 「…何の用だ」

 「何だ切らないのか」

 その言葉を聴いて紫薇は歯軋りした。それならば思い切り鼓膜が破れるほど強い力で電話を切ってやろうと思ったのも束の間、霜哉は紫薇を宥めるようにゆっくりと言葉を発した。

 「まあ良い…。紫薇、俺の話を聞け。お前の腸もそろそろ温まった頃だろう。俺を殺してやりたいのならある場所に来い。そこでお前の相手をしてやる」

 ほんの数秒空白が紫薇の頭を過ぎった。霜哉はそのことを見透かしたように今度は小ばかにした声でいった。

 「話が見えないか?なら最もわかり易い言葉で言ってやる。お前の大事な人間を預かった。さっさと来い。でなければこの女が死ぬことになる」

 真っ先に頭を過ぎったのは羽月の顔だった。まさかよりにもよって何の関係もない人間を巻き込んだのか。紫薇は喉から火が出そうだった。

 霜哉は紫薇の憤った鼻息を耳にするとせせら笑った。

 「そうだ、それで良い。場所は封筒と一緒に郵送してある。ナイロン紙のものだ。その中に地図を入れて置いた。それを辿ってくれば良い。簡単だろう?」

 「わかった、そうするよ」

 その言葉に霜哉はおやと思った。やはり相手が本命の女でなければ込み上げるものも少ないのか。そう思った矢先だった。

 「その余裕を消してやるから、首洗って待ってろ!」

 そう叫んだ後に紫薇は思い切り受話器を叩き付けた。


 「…品性のない奴だ。とても我が子とは思えん」

 きんと鳴った耳を撫でた。


 今の怒号は庭先まで聞こえたのか、驚いた顔をしてプランジェが紫薇の隣に立った。

 「何かあったのか?」

 紫薇は始め視線だけでプランジェに語りかけたがやがて声を震わせた。

 「ああ、糞みたいなことがな…」

 思い切り牙を剥き出しにして唸る紫薇を見てプランジェは生唾を飲んだ。紫薇が糞と口にするときは決まって堪忍袋の緒が切れているときだった。こういうときほどプランジェは紫薇に何か話しかけるのは返って逆効果だと知っていた。

 「出かけて来る。帰りは…遅い。九時になったら寝ろ」

 狼狽するプランジェを無視して紫薇はいいたいことだけ口にすると、勇み足で玄関に向かっていった。

 「ま、待て!」

 その途中にプランジェは思い詰めたように声を上げると、紫薇は立ち止まった。

 「…お前の親父殿に会いに行くのだな?そうなのだな?」

 プランジェは紫薇の過去のことを知っていた。以前クレシェントからこっそり教えて貰ったことがあったのだ。癒えない傷痕を体中に残し、紫薇の目付きの悪さは怨みが積もったせいなのだと。深い憎しみ。それは地獄を味わった者にしかわからないのだろう。しかしそれでもプランジェは今こうして肉親が生きているのなら、父親ときちんと話をして欲しかった。

 「あ…私は、お前に何を言ってやれば良いか…」

 いざ言葉を投げようとしても、物寂しい紫薇の背中を見ては何もいえなかった。

 「でも…しっかりな…」

 それは何に対しての言葉だったのか。当のプランジェにもわからなかった。ただその気持ちは伝わったのか、紫薇はぐるりと後ろを向いて俯いていたプランジェの頭に手を乗せ、くしゃくしゃと髪の毛を撫でてから黙って家を出て行った。



 青いステンドグラスの下、小さなベッドが一つあった。それは辺りに立てかけられた十字架に囲まれるようにしてあった。天井はアーチを描いて幾何学模様に鉄骨が貼り付けられ、壁には布切れを羽織った無表情の男と女の絵が並んでいた。十字架はその下にあって並んだ絵の中心は小高い塔のような装飾が施されていた。

 その場所はどうやら礼拝堂だった。ガラス製の箱をそのままベッドに見立てたような物の中、銀色の髪の毛をした女が静かに寝息を立てている。

 霜哉はクレシェントの寝顔を目にしながらフィアテリスと出会った日のことを思い出していた。


 「あの…驚かないで…」

 初めて出会ったのは湖の水面からフィアテリスが顔を覗かせたときだった。

 「霜哉…って言うの?不思議な名前ね」

 名前を教えてやったときは物珍しそうな顔をした。

 「これとっても美味しいわ。え?昆布って言うの?」

 初めて口にした手土産にはとても喜んでいた。

 「外に出てみたいけど…着るものもないし、どうしたら良いか…」

 「そう思って幾つか持って来てやった。流石に下着は部下に頼んだが」

 恥ずかしそうに洋服を渡すとふふふと笑った。

 「私の住んでいる世界とはとても違うのね。何だか眩暈がしそう」

 初めて外の世界を教えてやったときは色んなものに興味を示した。

 「貴方は…恋人とかいないの?好きな人とか」

 それとなしに聞いてきたときは思わず笑ってしまった。

 「…貴方がそんな人だとは思わなかった。女を何だと思ってるの?」

 生まれて初めて頬を叩かれたときは目の前が真っ白になった。

 「帰って…もう会いたくない…」

 後になって雨の日も夏の日差しが強い日も謝りにいった。

 「…本当に?貴方、泣いているの?」

 泣いて謝った日のことを、フィアテリスは持ち出してよくからかった。

 「私なんかで良いの?だって私、人間じゃないのよ?ほら、見て…」

 人魚に似た化け物をこの目にしたときは腰を抜かしそうになった。

 「赤ちゃん、中々出来ないね。あ、ご免なさい…」

 子供が出来ないことをフィアテリスはとても悔しがった。

 「ねえ、一緒にナーガに行ってみない?白銀世界っていう場所を通るのよ」

 明るく振舞うフィアテリスは何だか哀れに見えた。

 「何か聞こえない?子供の泣き声…みたいなもの…」

 白い砂浜から戻って来たときにフィアテリスの腕の中に繭が抱かれていた。

 「きっとこの子は私たちの子供よ。ねえ、一緒に育てましょう」

 小さく脈打つ繭を本当に嬉しそうな顔で見詰めていた。

 「霜哉!生まれるわ!」

 ずっと素肌で温めていた繭が孵ったときは大いにはしゃいでいた。

 「私の赤ちゃん…貴方と、私の子供…」

 見るに耐えない毛むくじゃらの赤子を泣きながら頬ずりしたときは目を疑った。

 「名前は…ほら、あの私が好きな花はどう?」

 「絵導猿滑りじゃ芸人みたいな名前だよ」

 その名前が良いとひっきりなしに駄々を捏ねられたときは参った。

 「紫薇?とっても素敵な名前だわ!この子の名前は絵導紫薇…紫薇…」

 念仏のように何度もその名前を口ずさんで紫薇を抱っこした。


 「お願い…紫薇を…紫薇を…」


 最後に現れた映像は霜哉の意識をはっきりと覚醒させた。

 「お疲れですか?」

 キジュベドは霜哉の向かい側に立って薄ら笑いを浮かべていた。

 「嫌な夢を見ていた。お前のお陰で夢から覚めたよ」

 「それは何より。まずは血を拭いて下さい」

 キジュベドから青いハンカチを渡されたときに霜哉は初めて気がついた。右目からゆっくりと血の涙が頬を伝っている。霜哉はハンカチを受け取ると頬をなぞった。

 「傷物は嫌いか?」

 「古いものは何かと癖が出ますから。ただそれに限っては別です。仮に腐っていようが痛んでいようが私はそれが欲しい。頂けますね?」

 目に凄みを利かせてじっと顔を迫った。

 「それがお前との契約だったな。ああ、私が死ねば後は好きにするが良い」

 「結構。次いでと言っては図々しいですが、この女はもう用済みでしょう?」

 「花嫁にでもするつもりか?」

 「まさか…この女にも妖精のかけらが眠っているのですよ」

 霜哉はキジュベドの顔を一瞥してから手をクレシェントの体の上に沿って流した。

 「片鱗も目覚めていない妖精のかけらがあるとは…どういうことだ?」

 「女王の力と相まっているからですよ。二つの超越力を同時に引き出すには長い時間がかかります。ましてこの女は女王の力ですら支配していない。これでは宝の持ち腐れというもの。どうでしょう?いっそ私に預けてみては?」

 「いや、花は野原に返すものだ。摘んでしまってはいずれ枯れる。それにこのお嬢さんは俺のお気に入りでね」

 「ご冗談を…」

 「手を出してくれるなよ?うっかり触れば蛇の毒に当たるからな」

 霜哉が着ていたワイシャツの袖の下から白い蛇がぬっと顔を出すと、クレシェントの体を這いずり回り、ベッドの下に隠れていった。

 「これでお前と顔を合わせるのも最後になるだろう。何を企んでいるかは知らないが、まあ…好きにすれば良いさ」

 踵を返して背中を向ける霜哉を見て、キジュベドは音を立てずにコートの下から青いナイフを静かに取り出した。

 「但し、俺の目が黒い内は誰にも手を出すな」

 いつの間にか霜哉はキジュベドの背後に回っていて、顎を指でやんわりと掴みながら耳打ちした。

 寒気よりもまずキジュベドはその現象に肝を抜かれた。視界にはっきりと霜哉の背中を捉えていた筈なのに霜哉が後ろにいる。まるで自分の背後と霜哉が歩いていた位置を交換したかのようだった。

 「返事はどうした?部下は上司の物言いに跪くものだ。世間様は知らないが、少なくとも私の前ではそうして貰おう」

 歯軋りする音を耳にすると霜哉は小さく笑った。やがてわかりましたというキジュベドの辛辣な声色を楽しむと、掴んでいた手を離してその場から離れていった。

 礼拝堂のドアが閉まると、キジュベドは手の先に力を入れてナイフの柄を軋ませた。赤い目はそんな恨みを象徴するかのように光り、赤い唇は噛み締めた歯の隙間から流れる血を吸って更に濃くなっていた。



 郵便受けの中に入っていたナイロン紙の封筒には一枚の写真と夜香街からの地図が入っていた。写真は中が剥き出しになった夜のビルの姿が映っていて、赤い光がぽつぽつと点在していた。

 紫薇がそのビルの所在地に着いたときにはもう日が暮れて、写真に写っていたビルをそのまま見上げていた。

 ビルは鉄の柵に囲まれ、建設会社の名前が緑色で描かれていた。高さは四十階立てといった所だろうか。天辺にあったクレーンが小さく見えた。敷地はとても単に歩いて回れる広さではなく、柵の先は均した地面が広がっていた。

 ふと紫薇は自分の縄張りであるあの二階建てのビルを思い出すとむっとした。二人の権力や力の差を見せ付けられているようだったのだ。

 ビルに近付いてみると、暗闇の中に黄色い光が見えた。電気は通っているのか、エレーベーターの蛍光がやんわりと最上階を指していた。

 紫薇はスイッチを押してエレベーターに乗り込むとふっと全身の筋肉を強張らせた。あの日以来、霜哉が現れてから紫薇の体はもう一回り大きくなっていた。

 電子音の後に扉が開かれると、そこには霜哉の背中があった。部屋の端っこにある鉄筋から夜香街を見下ろしていた。吹き付ける風は何故か柔らかく、これから起こる嵐の前の静けさを表わしているかのようだった。

 「どうした?このまま俺を突き落とせば楽にけりがつくぞ?」

 紫薇が傍に寄っても霜哉は町を見下ろしたままだった。

 「それとも人殺しをする勇気はないか?」

 「…羽月はどこだ?」

 そんな挑発など目もくれずにいった。すると初めて霜哉は紫薇を一瞥した。

 「羽月か…あれは確かに良い女だ。死んだ妻が居なかったら、俺もお前のように詰め寄っていたかもしれないな。だが…」

 そういいながら霜哉は振り向いた。右目は青い光を点している。

 「家政婦と寝ていたなんて…いや、お前も男だったんだなあ、紫薇。どうやら悪い部分だけが似てしまったようだ」

 「…だったらどうした?俺のことだ。お前に関係ないだろう」

 平静を装ったが、紫薇の手は微かに震えていた。

 「親は子供を管理しなければならない。未成年なら尚更だ」

 「俺はもう餓鬼じゃない。かと言ってお前みたいな汚い大人になったつもりもない。俺は…やっと自分を見付けられたんだ。餓鬼でも大人でもない、一人の人間としてな」

 「一人の人間として、か…化け物でも人の皮は被れるらしい」

 「…何の話だ?」

 怪訝な顔をする紫薇に霜哉は一枚の写真を投げ付けた。写真は紫薇の足元に滑り、偶然にも白い裏面を向いた。

 紫薇は訳がわからないままその写真を指で摘み、ゆっくりと捲った。

 「…これは?」

 映っていたのは白い体毛に覆われた赤ん坊だった。頭から櫛状の触角があり、顔に黒い筋が描かれ、目は釣り上がって鮮やかなエメラルドグリーンに光っていた。細い手足の先は鉤爪状で、背中からは透明な鱗翅状の翼があった。

 紫薇は特撮映画か何かの小道具かと思ったが、その顔付きがいつも洗面台で眺める人物の顔にどことなく似ているのを感じると釘付けになった。

 「それがお前だ」

 その言葉が何度も頭の中を駆け巡ったような気がした。写真を掴んでいた紫薇の手が震える。

 「これが…俺…?なら…」

 「そうだ。俺とお前は実の親子じゃあない。それどころかどこで生まれたのか、誰が産み落としたのかもわからない。そもそもこれは人間なのか?虫なのか?それすら検討が付かない。これでわかっただろう?どうして俺が、そして俺の母親がお前にあんな仕打ちをしたか」

 今迄に感じたことのない痛みが紫薇の背中を襲った。まるで背中の肉が破裂したような、一瞬で凄惨な痛み。しかしそれは痛みというよりも衝撃だったのかもしれない。紫薇は妙な呼吸を繰り返しながら写真を見続けた。

 「養子なら愛せただろう、腹違いなら愛せただろう。しかしお前は人間ですらない。お前みたいな化け物、一体どこの誰が育てたがる?ましてお前を愛する者などいやしない。羽月だってその写真を目にすればどう思うか…」

 「止めろ!」

 それは悲鳴だった。額から大粒の汗を垂らしながら紫薇は思い切り叫んだ。

 「今になって自分の立場がわかったか?そうとも、お前は天外孤独の身だ。あのとき、白銀世界からお前を見付けさえしなければこんな悲しい思いはしなかっただろうな。そうとも、お前が居なければフィアテリスが死ぬこともなかったんだ」

 急に熱が入ったように霜哉の口調が上がっていった。

 「俺の…せい…?」

 「知っているか?お前は俺の実子ですら死に追いやった。…出産間近だった」

 紫薇の手元からその写真が零れ落ちた。ずるずると体が後ろに靡いて紫薇は思わず腰を抜かしそうになった。霜哉に対して積もっていた恨みや憎しみが融解する。

 「お前の悲しみなど生ぬるい、お前の憎しみなど生ぬるい。用心しろ。俺はお前を殺してやる。お前以上に色濃い恨みを擦り付けてやる」

 紫薇の戦意は完全に削がれてしまっていた。ただ自分の母親とその子供を殺めてしまった事実だけが紫薇の頭と体を雁字搦めに縛り付けた。

 恐い。紫薇は初めてその言葉を口にした気がした。

 向けられた青く、鋭い眼光が心臓に狙いを定めている。そうすると紫薇の心臓はまた一つきゅっと縮んだ。

 磨かれた皮靴の先っぽがにじり寄ると紫薇は悲鳴を上げた。

 もう誰も助けてはくれないのだ。

 悲鳴を上げる直前、紫薇は頭の中に出来たばかりの蕾を手で無理に開いた映像が過ぎった。

 傷だらけの背中から青白い翅が羽ばたいた。尚も紫薇は手で頭を引っ掻き回しながら悲鳴を上げる。その度に翅は増殖を続け、前後に四枚の翅を広げた。透き通った四枚の翅が重なり、二枚の巨大な翅が紫薇から這い出るようにして現れた。

 その様子を見ながら霜哉は徐に呟いた。

 「そう、それで良い…」

 どこかその顔には憂いと共に静かな笑みがあった。



 「…うっ!」

 気を落ち着かせようと淹れた緑茶が零れた。

 紫薇が出ていってからプランジェはいてもいられなかった。本当にあのまま見送ってしまって良かったのか。そのことを相談しようとクレシェントの携帯に電話をかけてみたが反応はなかった。

 茶を飲んで落ち着こうとしたときだった。プランジェの脳裏に何故か紫薇の姿が過ぎったのだ。同時に傷付いた右目がやけに疼いた。

 「…紫薇」

 右目は黄昏色に光っていた。



 「…終に目覚めたね」

 遠い場所から藤原は普段と違った空気を感じ取っていた。

 「いや、あれでは浄化は行なわれんよ。本当の意味で妖精の力を取り戻すには、自らその罪を償わなければならないのさ」

 蘇芳はビルの上で光っている紫薇の翅を見詰めながらいった。

 「ただあれでも他の世界から感付かれてしまう。見てみろ」

 そういって顎で指したビルの上を藤原が見てみると、雲の隙間から黄金の輪っかが幾つも現れ始めていた。

 「あれは…他の世界の超越者たちか…!」

 「そう、彼等も世界を守ろうと必死だからな。しかし今ここで妖精が滅んでしまっては意味がない。扉を閉めてくれ。誰も『アヴォロス・デ・アル』に入って来れないようにこの世界の因子を再構築し、より強固なものに構築し直せ」

 「…わかりました。ただレミアの鍵までは防げませんよ?」

 「平気だろう。ゼルアはもう暫くは動けないし、他の妖精のかけらの所持者たちは彼をどうこうするような輩じゃあない」

 藤原は神妙に頷いてからその場を去っていった。

 「…打ち勝ってみせろ絵導。それこそがお前の抗う術になる」

 手すりの上に体を持たれながら蘇芳はビルの光を見守った。



 紫薇はずっと自分は一人なのだと思っていた。血の繋がった家族もいなければ友達もいない。誰も彼も見向きもしてくれない。ただ白い枯れ木の下でずっと蹲っている。そうすると不思議と気持ちが落ち着いた。

 傍には白骨化した動物の死骸が転がっている。

 しとしと、しとしと雨が降り始める。

 絹をぎゅっと縛ったような体になっても紫薇はずっとそこで蹲っていた。


 「これが妖精か…」

 霜哉は目の前で広がっている翅を見詰めた。

 でんぷん質のような薄い透明な膜が紫薇の背中の傷痕から滲み出ていた。先っぽが尖り、全体がひび割れていたがそれは昆虫の翅の形をしていた。鱗粉の代わりに妙に明るい光を翅全体から点していた。

 そんな翅を宙に漂わせながら紫薇の体はゆるりと浮かんでいた。目に光はなく、意識が飛んでしまっているような状態で霜哉を眺めている。いや、実際は霜哉ではなくどこか遠い場所に目を向けているのかもしれない。

 「…来る」

 霜哉の言葉の後に紫薇の右手が掲げられた。するとその手の平に鎖を紡いで出来た形の薄いリング状の光が現れ、内側から弾けるように輪の内部が炸裂し、その衝撃が宙を駆け出した。

 右目に点した妖精のかけらが青く光ると、霜哉の体はその場から消え、紫薇が繰り出した光が床を削りながら彼方に飛んでいった。削られたコンクリートの床は光に蝕まれたように消滅していた。

 「あれが世界を消滅させた拒絶の力か…。まだ片鱗とはいえ末恐ろしい…」

 紫薇の背中に回り込みながら霜哉は削られた床を目で流した。

 「この目がなかったら死んでいるな」

 前を向いていた紫薇の瞳が横を向いた後に手の先が霜哉に掲げられ、再び光を射出した。しかしそのときにはもう霜哉の体はその場から居なくなっていて、今度は紫薇の死角に移った霜哉の手が掲げられた。

 「先生、力を借ります」

 霜哉の握り拳は五つの光に囲まれ、それぞれの光に特別な力が込められていた。

 『森羅万拳流 五行慟哭拳』

 拳が紫薇の体に触れる直前、その五つの光が一つに集まって霜哉の手を輝かせた。光の拳が紫薇の体に減り込み、次いで強烈な衝撃が紫薇の体を吹き飛ばした。翅はひん曲がり、宙を滑空しながら紫薇は床に押し付けられたがその途中で翅を羽ばたかせて床にぶつかる前に体勢を立て直した。

 意識のない紫薇は手を掲げることを止め、両腕を緩やかに広げてみせた。それに呼応して翅は輝きを増し、紫薇の周りから床を食い破って植物の蔦が手を伸ばした。蔦は薔薇のように途中で棘があって太さは人間の腕ほどあった。

 霜哉は懐からやや厚みを持った古い本を取り出すと、ぱらぱらとページを捲って目的の箇所を探し出すと、小さな声で呟いた。

 『南の書 我は南天の化身なり 我が命に応じて踊れ 太陽の子どもたち』

 白茶けた紙の一部が燃え盛るとその火の粉が飛び散り、その火はやがて分裂を始めて人間の子供の姿を形作っていった。手足の伸び切っていない子供たちはぞれぞれに笑い声を上げながら蔓に向かって走り出した。

 蔦は火の子供たちを貫いたり縛り上げたりしたが、火の表面に触れるとたちどころに蔦は燃え盛り、灰になって崩れ落ちていった。

 「どうした化け物?お前の力はこの程度のものじゃないだろう?」

 右目を光らせながら霜哉は紫薇に向かって嘲笑を浮かべた。

 その笑みを目にすると、感情のない紫薇はやっと霜哉を敵としての一個体と認め、次の手に出た。手で空を横に切るとその部分が暗闇に染まり、その暗闇から隙間が生じてぱっくりと宙に穴が開いた。そしてその中から青白い人間の腕が手ぐすね引いて這い出て来た。女性のようなか細い腕には象形的な文字がびっしりと描かれ、爪は赤と黒に交互に塗られていた。

 女の腕はどこまでも伸びた。また腕に触れたものはみないずれも消滅し、逃げ回る霜哉を追いかけていった。床がみるみる内に面積を減らし、二人が立っていた階を食い尽くすと霜哉は下の階に飛び降った。

 霜哉は女の腕が蛇行しながら近付いてくる間に懐から二枚の紙を取り出し、親指の皮膚を噛んで血を滲ませるとその二枚の紙に血液を付着させた。虎の形に切り抜かれた紙が赤く染まると、霜哉は床に紙を投げた。

 『降魔 白虎 紅虎』

 呪詛を口にすると、紙からそれぞれ白い毛並みの虎と赤い毛並みの虎が飛び出した。二匹の虎は透けた体を持っていて宙に浮いたように走っていった。

 女の腕がやって来ると、霜哉は右目を光らせてその階の端っこまで移動し、その間に二匹の虎は女の腕が続いている宙の穴に向かった。

 紫薇はその虎を見ると手を手刀の形に取って空を切った。すると手の先は光の柱になって紅色の虎を切り裂いたが、白い虎はその間隙を縫って穴に飛びかかり、その太い爪で穴を切り裂いた。そうすると女の腕は床を削るのを止め、痙攣して腕を震わせると、頭を叩かれた蛇のように穴の中に戻っていった。

 霜哉はその光景を確認すると、再び右目を光らせて紫薇の背後に回り込んだ。そのときには既に刀が握られていて紫薇の翅に向かって刃が振られていた。

 しかし刃の表面が煌いたと同時に紫薇の体は小さな光の粒になり、刀はその粒の隙間を通っていった。その後に紫薇の体は霜哉の背後に現れ、紫薇の手は霜哉の首ねっこに差し出された。

 初めて霜哉は焦燥した。辛うじて視線を向けたのが幸いして霜哉は右目を光らせた。紫薇の指先がほんの数センチで止まる。吐息を零しながら霜哉は気を付けて紫薇の手から逃れ、自分以外の時間が止まっている間に走って紫薇から距離を取った。

 「今のは肝を冷やしたな…―――っ!?」

 停止した時間が流れると、霜哉は背後に気配を感じた。振り向く前に右目を光らせ、再び時間を止めて後ろを見てみると、そこには手を差し出そうとしている紫薇の姿があった。その素顔はときが止まっていても、ただ霜哉の首元だけを狙っていた。

 「正に独裁者の名に相応しい。良いだろう、鬼ごっこといこうじゃないか」

 時間は流れ、霜哉の後ろに紫薇が現れ、また時間は止まり、また背後に現れる。同じことの繰り返しだった。二人の位置はぱらぱら漫画のように一ページ毎に変わっていき、床や宙などあらゆる場所に瞬間的に点在していった。両者は一歩も引かなかった。ただ移動を繰り返す内に霜哉の顔色が段々と青ざめていった。

 「…奴に際限はないのか?」

 十一度目の時間を止めたときに霜哉は思わず肩膝を着きそうになった。

 紫薇は霜哉が止めた時間をもとに戻した瞬間を狙って望む場所に跳び越えていた。体を小さな蛾に分裂させて本体を晦ますと、霜哉の背後に光の粒子となって集まった。その現象はフィクションの中では空間転移やら位相跳躍などと呼ばれた。

 「かつてヒトが夢見た空想が、現実のものとなって世界を食らう。やはりその翅はもいでやった方が世の為だな」

 銀色の指輪を取り出すと、人差し指に嵌めた。指輪は簡素なもので装飾らしい装飾はなかったが、横一列に並んだ小さな文字が筋みたいな模様を描いていた。

 「出でよ、不埒どもの代弁者『アスダンティーマ』」

 指輪が妖しい光を点すと、霜哉の背中から湧き出るように一匹の猫が現れた。その猫はまるで人間のような井出たちをして背広に袖を通していた。赤いステッキを手首にかけて野太い声でせせら笑っている。

 「これはこれは…随分と久しいじゃないか、霜哉。最後に私を呼び出したのはあの屋敷で子供たちと共に戦ったとき以来か…」

 「昔と変わらず饒舌屋だな、お前は」

 「それが私の役目だ、昔も今も代わらずな。さて、お前の悩み種はどんな輩だ?」

 その男が紫薇を目にすると薄ら笑いを浮かべていた顔が強張った。

 「…成程、私を呼び起こす訳だ。くくっ、お楽しみはこれからだ。良いだろう霜哉、私を従わせることを許可する。さあ、お前の望みを口にしろ…我が主」

 「では、命令だ。至ってシンプルに終わらせろ。あの妖精の翅を打ち砕け」

 「了解した。迅速に、且つ無慈悲なまでに終わらせてやろう」

 その猫男が肉球を表にすると赤いステッキが浮かび上がり、徐々に小さくなって液状になっていった。表面に光沢を帯びるとそれは急に弾けて辺りに飛び散った。それらの小さな雫は尖った形に伸びて三角形のナイフに変わっていった。薄く鋭くなった分、面積は肥大化していた。

 霜哉とアスダンティーマの声が一致する。

 『リゼ・ジェスター(雄弁な追跡者)』

 縦横に配列を組んだナイフが紫薇に狙いを定めると一斉に飛び出しいった。

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