61話 眠れる森の椿姫
「それでは一位の発表です」
全員が息を呑む中、その結果は訪れた。
「集客数ニ百五十七人…一位は…二年ビー組、二年ビー組です!」
その瞬間、わっと喝采が辺りを包んだ。紫薇のクラスの生徒は大いに喜び、またその喜びを隣同士の生徒と分かち合った。紫薇はその喜んだ顔を見て思わず感動してしまい、何だか目に熱いものが込み上げていた。とその感動に打ちひしがれる暇もなしに辺りの生徒が調子に乗って紫薇の頭を次々とぐしゃぐしゃにしていった。
「うわ…止せ!」
「うっせー!これが喜ばずにいられるか!」
筆頭を節木に紫薇は揉みくちゃにされていったが、その顔は満更でもないようだった。
その団欒を羽月たちは遠めから眺めていた。
「あーあー、あんなにされちゃって…。ってかまだ女装してたのね」
「でも何だかとっても嬉しそうで…良かった…」
「まあ、奴にもこういう時間は必要だろう」
「なんか…良いなあ、ああいうの…」
頭を撫でられる中、紫薇の腹を殴った手があった。
「…赤縞ぁ!」
その堅い拳骨を身に沁みて覚えていた紫薇はすぐに赤縞の仕業だとわかった。
「よお、紫薇子。随分と活躍したみたいじゃねえか」
「その名前は止めろ。それよりお前、一体どこをほっつき歩いていたんだ?」
「言ったろ、俺には俺の仕事があったんだよ。こういう騒ぎに乗じて馬鹿をやらかす他校の連中を締めんのが俺の役目だ」
そういって腕に着けた腕章を見せた。そこには「特別風紀委員会」と書かれ、見れば赤縞の顔には生傷が幾つかあった。
「お前そんなものに属していたのか…」
「生徒会からの直々の依頼だ。断る訳にもいくめえ。安心しな、暴力は極力避けたよ。中には拳骨を食らわせてやった奴もいたがな」
やっぱり番長じゃんと全員は思ったが口にはしなかった。
「野良犬らしいご立派な役割だな。少しは楽しめば良いものを…」
「ものにはそれ相応の舞台ってのがあんだよ。そりゃ人間も同じことだ。俺にゃ、お前みたいな喝采は似合わねえよ。それにこれでも楽しくやってんだ。野次だ何だと決め付けるのは下世話だぜ?」
漢だと全員は思ったが口にはしなかった。
「それでは代表者は前に出て下さい」
「…何だって?」
紫薇はそのアナウンスに耳を疑った。いきなり大勢の目の前に立てというもんだから紫薇は心の準備など出来なかった。
「おい、こんな話…聞いてないぞ。しかもこんな格好でか?」
「良かったじゃねえか、カマ掘られる相手が出来るかもな。その姿で行って来い、最高の肴になりそうだ」
けけけと赤縞は嫌らしい笑みを浮かべながらいった。
「…ふざけるな、誰がそんなこと望んで…!」
「良いから行って来いよ。俺らに恥かかせるつもりか?」
「葛川、お前な…」
「はいはい、カツラもちゃんと着けてね」
いつの間にか卯月に鬘を着けられ、白那美に背中を蹴られて紫薇は否応なしに祭壇上に立たされた。全校生徒とその他の観客の目が一斉に向けられると、紫薇は心臓が口から飛びでそうだった。しかも紫薇の女装を見て野次や笑い声が止まらない。
「えっと、代表者の誰さん?」
小柄な女子学生が紫薇の前に立った。名前を柏木 八雲(かしわぎ やくも)といって生徒会で副会長を務めていた。前髪を玉の着いたゴムで縛り、幼い顔立ちが余計に彼女の年齢を下げてしまっていた。
紫薇は視線が定まらないまま、まさか本当の名前をいう訳にもいかず、躊躇いがちに紫薇子ですといった。するとその意味を知ってかげらげらと生徒たちは笑った。
「あっちゃー、ありゃ永遠の汚点だわ…」
「インスタントカメラ買って置いて良かった。しっかり撮らないと」
「後で現像して私にも下さい、羽月さん」
「テレビの上にでも飾ってやるか」
後でその写真を目にした紫薇は死にたくなったと証言した。
緊張した面持ちでトロフィーを受け取ると紫薇は喝采を受け、かちこちとした動きでもとの場所に戻っていった。すると次々と生徒がやって来てそのトロフィーを眺め、達成感とその感動を改めて味わった。
「やったな!絵導!」
「動きがっちがちだったなあ」
「後で現像して校内にばら撒いてやるよ」
「…葛川お前、何だか私怨が混じってないか?」
「でもこれも絵導のお陰かもね」
何て一人の生徒が口にすると、それに習って他の生徒も紫薇に向かってありがとうと口ずさんだ。紫薇は思いもよらない言葉に思わず顔を真っ赤にさせ、俯きながらじっと固まってしまった。
「いや…その…別に…俺は…そんなつもり…じゃ…あの…その…」
その困った顔が今迄に見せたこともないような可愛らしさで何人かの生徒はいけない思いを抱いてしまっていた。
「か、解散だ!今日はもう帰るぞ!」
「はあ?お前、片付け手伝わないつもりかよ?」
「それはちょっと身勝手よ、絵導君」
「良いご身分だな、絵導」
「いや、そういうつもりで言った訳じゃ…」
卯月、葛川、白那美のトリオに言い負かされ、紫薇は小さくなった。
「絵導、幾らお前が嫌な奴でも片付けはして行こうぜ。それに終わったらファミレスで打ち上げでもしようじゃないの、なあ?」
それに見かねた節木が助け舟を出してやると、生徒は声を上げて賛同した。
そんな紫薇の姿を見て羽月はカメラを仕舞うと、帰りましょうかと口にした。
「そうね。明日も仕事があるし、そろそろ引き上げましょう。大人は子供と違って大変だわ」
「それは私に向かっての嫌味か?ジブラル」
「あら?そういうつもりだけど?」
そういいながらプランジェはジブラルと小競り合いを始めた。だがゼルア級であるジブラルにプランジェが敵う筈もなく、ひょいと首を猫のように持ち上げられて宙でばたばたしているだけだった。
「良かったらお家でご飯でも食べていきますか?」
そうクレシェントは聞かれたが、何だか屋上での出来事が申し訳ない気がしてクレシェントは首を横に振った。羽月は残念そうな顔をしたが、またそれもクレシェントは胸を突っつかれたような気持ちになってしまった。
クレシェントは羽月とプランジェと別れ、ジブラルと一緒に家に帰っていった。途中でコンビニでお弁当と一缶のお酒を買って帰り、温まった袋をカイロ代わりにして寒い夜の道を歩いていった。
「うー、さむさむ…悪いけど先にシャワー浴びるわよ」
部屋に入るなり服を放り投げながらジブラルは風呂場に入っていった。クレシェントはもうと文句をいいながら脱ぎ散らかした洋服を手に取り、洗濯用のケースに入れると買って来た弁当を机に並べ、テレビの電源を入れた。丁度テレビでは旬の食べ物を使った料理番組がやっていて、クレシェントは部屋着に着替えながらその音に耳を傾けた。
不意にそのテレビ番組の音を掻き分けてクレシェントの携帯が鳴った。仕事先からかなと思いながらクレシェントは携帯の画面を見てみると、そこにはつい先日に連絡先を交換した相手からだった。絵導 霜哉という文字が電子板に描かれている。
「はい、もしもし」
クレシェントは緊張した面持ちで電話を取った。しかし相手は友人に電話をしているような口調だったのでほんの少しだけ緊張が解れた。
「やあ、夜更けに申し訳ないね。今は大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です」
「実はやっと仕事が落ち着きそうでね、この間の無礼を詫びて、改めて君を食事に招待したい。いかがだろう?」
「食事、ですか」
「そんなに畏まらないでくれよ?それとも俺みたいな中年とじゃ嫌かね?」
「いえ、そんなことは…」
その外見でどこが中年だと思った。
「じゃあ来週の火曜、夜香街のエピナルという店に来てくれ。時間はそうだな…そちらの都合が良いときで結構だ。俺は先に入ってワインでも飲んでいるよ」
「わかりました」
「よきかな。ではその時に」
いいたいことだけいうとさっさと霜哉は電話を切ってしまった。こういうところはそっくりだなあとクレシェントは思いながら電話を切った。
「仕事先から?」
濡れた髪をタオルで乾かしながらジブラルはいった。
「ううん、ちょっと食事のお誘い」
「珍しいわね。あ、良い人でも出来た?」
「そんなんじゃないわよ。あ、そうだジブラル…夜香街のエピナルってお店、知ってる?」
そういうとジブラルは動かしていた手を止めた。
「ちょっと、そこ夜香街でも有名なところよ?五つ星フレンチレストランの…あなたどんな上玉を手に取ったのよ?」
「そ、そんなに高いところなの?」
「少なくとも普段の格好じゃ行けないわ。待って、確か貰いものの中に上等な奴があった筈だから…」
そういって山のように詰まれたブランドものの箱を掻き分け始めた。
「黒じゃないと嫌よ?」
「寧ろ黒じゃないと駄目なのよ…あった!」
高級感溢れる外装の箱から取り出したのは黒いドレスだった。シルク生地で出来ていて、肩にかけるワンピース型だった。胸元がざっくり空いて腰のボディラインを強調させるものだった。お腹の部分にサッシュが着いてそれで着心地を調節できた。
「はい、これならあなたも店側も文句は出ないでしょう。あとそうね、これも首に巻いていきなさいな」
また新しい箱から取り出したのは真珠で出来たネックレスだった。大粒の真珠が連なった見るも高そうな一品にクレシェントはひえーと身震いしてしまった。
「後はタイツと適当なヒールでも履いていけば?いつも履いてるあなたのブーティ、あれ結構な奴だからあれでも良いかもね」
「うん、そうする…。ジブラル、そのときは化粧してくれない?」
「良いわよ。取って置きの奴を使ってあげるわ」
ふふふとジブラルは楽しそうに笑ったが、クレシェントは恥をかかないようにフランス料理のマナー本を買って置こうと思った。
約束の日になってクレシェントは仕事をいつもより早めに切り上げ、足早に家に帰ると、シャワーを丹念に浴びて用意していたドレスに着替えた。その間にジブラルは髪の毛と化粧のセットを整えて置いて、クレシェントが着替え終わると化粧台の前に座らせ、さっさっと慣れた手付きで化粧を施していった。普段よりも深い紅色の唇を走らせ、パフやアイシャドウは高額な値段のする取って置きを塗った。次いでクレシェントは仕事で身に着けたヘアイロンを巧みに使い、長い髪をストレートにしてから先の部分をカールさせた。最後にジブラルはクレシェントの細い首に真珠のネックレスを着けてやると、うんと頷いた。
「素敵じゃない。ちょっと妬けるわね…」
「そう…かな?でもジブラルのお化粧のお陰よ」
「あらお世辞が上手いこと。キャバの仕事も無駄じゃなかったわね」
化粧箱を閉じながらジブラルは笑い、ドレスに着いた小さな埃をテープで取り除いていった。
「ありがとう。じゃあ行ってくるわね」
履き慣れたブーティはお店に出して綺麗にして貰っていた。その靴を履いてクレシェントは革製のハンドバッグを手に持った。
「ってまさか、歩いていくつもりじゃないでしょうね?」
「え?駄目なの?」
「タクシー使いなさい。…予め呼んで置いて正解だったわ。はい、一万円」
「…恩に切ります」
ジブラルから万札を受け取ると、クレシェントは部屋を出てエレベーターを使って一階に降りていった。マンションの前には黒いタクシーが止まっていて、クレシェントはそのタクシーに乗ると行き先を告げた。
着いた先は辺りに比べて一際目立つ摩天楼だった。入り口には清廉された礼服に身を包んだドアマンが立っていて、クレシェントはその雰囲気を窓を通じて感じると思わず喉を鳴らしてしまった。
タクシーの運転手に姉ちゃん凄いところに行くんだねえなんていわれ、クレシェントはあははと苦笑いしてお金を支払い、外に出た。外は思った以上に肌寒く、嫌でも足早にその摩天楼に近付いてしまった。
クレシェントがドアに近付くと扉はそのドアマンによって開かれ、クレシェントは成る丈自然を装って小さく会釈をするとドアを潜り抜けた。床に敷かれたカーペットは宛ら王宮の様で至極柔らかい感触が靴を通じてわかった。エレベーターにも専属の人間がいて、クレシェントは行き先を告げると名前を聞かれた。急なことで緊張してしまったが、何とか自分の名前を告げると、お待ちしておりましたといわれ、エレベーターの扉が開かれた。クレシェントがそのエレーベーターの中に乗るとその人物も中に入り、最上階のスイッチを押した。
エレベーターはガラス張りになっていて外の景色が一望できた。夜香街の電飾がぱあっと広がるとクレシェントは思わず声を上げて喜びそうになったのを抑え、うっとりとその景色を眺めた。ナーガでは決して見られないその景色はまたもクレシェントの美意識を高め、その瞬間にも彼女の具現化力を底上げしていた。
最上階に到達するとエレベーターの扉が開かれ、どうぞと促された。クレシェントはぎこちない動きで先に進むと、そのフロア全体を使ったレストランが目に飛び込んだ。全体的に控えめな照明が広がり、淡い電灯が心を打った。内装は主に黒い色に覆われ、低い段差によって各テーブルが広げられていた。その途中にガラス板が立てられ、そこから水が流れて生けられた花の匂いを部屋中に放っていた。その一番奥、窓側の席に霜哉は座っていた。発砲したお酒が入ったグラスを片手に窓から外を眺めている。その姿は端麗で、素顔こそ幼いものの身に着けていたスーツやら腕時計はどれも一級品だった。
「お待たせしました」
クレシェントがその席に近付くと、霜哉は黙って手を向かい側に差した。クレシェントは椅子に座ろうとすると、いつの間にかウェイターが傍に寄り、椅子を引いたのでクレシェントはちょっと驚いた顔をしたが、参考書のことを思い出してすっと椅子に座ってみせた。
「そろそろ新しいシャンパンが呑みたいと思っていたところでね。丁度良かった」
いつも右目に着けていた眼帯がないのをクレシェントはおやと思った。前髪を目に垂らし、何故か見せないようにしている。
霜哉はウェイターに新しいものを頼むと、残っていたグラスを下げさせた。
「お腹は空いているかね?」
「はい、とても…あ、いや…それなりに…」
つい本音が出てしまったとクレシェントはあくせくしてしまった。そんなクレシェントを見て霜哉はまた紫薇に似た素振りでくつくつと笑った。
「変に着飾らなくても良い。どうせ今日は貸切にしてある。裸で踊っても誰も咎めやしないさ」
少し酔っ払っているのか霜哉は上機嫌だった。
「しかしまあ、本当に綺麗なお嬢さんだ。まるで人が造り上げた造形美、アフロディテの賜物のようだよ。まるで人間に見えないな」
クレシェントは気にしていることをいわれ、むっとしてしまった。
「そういうところ、紫薇と似てますね」
「おや、気に触ったのなら謝るよ」
何故か勝ち誇ったような顔で笑った。
「…酔ってますね」
「人生最後の酒だからね、浴びるほど呑みたいのさ」
そういうとクレシェントは耳を疑った。
ウェイターがグラスとシャンパンを手に持ってやって来ると、二人の前にグラスを置いて淡い黄金の酒を注いだ。ぱちぱちと音を立てるそれは宛ら命の儚さを表わしているようだった。
次いで二人の前にアミューズブーシュが置かれた。フォアグラをソテーし、ポートワインのソースをかけてその上にポロネギをあしらったものが飾られていた。
「乾杯してくれるかな?俺の最後の食事に」
「どういう…ことですか?」
「君を呼んだのは全てを語る為だ。それと…最後くらい、美人の顔が見たくてね。昔からの悪い癖なんだ、悪いが付き合ってくれ」
「答えになってません…」
「難しい顔をしないでくれよ。美味い食事が台無しだ」
「最後って…死ぬつもりですか?」
「いや、殺されるつもりなのさ。愛おしくも憎らしい息子にね」
霜哉は不適な笑みを浮かべるとクレシェントが手に持っていたグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。
「…ふう、高い酒は美味いな。話を始める前に、先ずは呑んでくれ」
クレシェントはその値段を耳にすると、一気に現実に突き放されたような気がしてきっと酒の味などわからないだろうと思った。だが実際に口付けてみると、そのシャンパンの味は驚くほど口当たりの良いもので、辛味の強い味が食欲を刺激した。
「中途半端なシャンパンだとこうはいかない。本当に良いものは頭を蹴り飛ばすほど濃厚で、驚くほど旨いのさ」
にやけ顔になってしまっていたのか霜哉はクレシェントの顔を見るとやっと嬉しそうな顔をした。
「でも…やっぱり気持ちがなければ後味が悪いです。教えて下さい、さっきの台詞がどういうことなのか」
本心を正直に伝えると霜哉はまたくつくつと笑った。
「…やはり君を選んで良かった。あの手紙はもう渡したのかね?」
「まだです。あんな…あんな写真はとても紫薇に見せられない…」
「じゃあ私が死んだら紫薇に渡してやってくれ。その方が都合が良い」
ナイフとフォークを動かしながら霜哉はフォアグラを頬張った。それに釣られてクレシェントも食べてみると珍妙な、それでいてとてもお酒に合う塩辛さが口いっぱいに広がった。その味は濃い生クリームにも似ていた。
「話し合うことは出来ないんですか?」
「無理だね。あれは話を聞かないし、俺がそういう風に仕組んだ。俺と紫薇はお互いに憎み合うことでしか、その存在を維持できないのさ。憎しみは最も忌み嫌うべきものだが、時にそれは途方もない行動の引き金ともなる。この世界にはシェイクスピアという奴が居てね、その男がまた良い見本なんだ」
「親子で殺し合うなんて…そんなの悲劇だわ…!」
「実の親子じゃないんだ。本当の悲劇にはならない。それに…俺にはもう時間がないんだよ。見せてあげよう、俺の秘密を」
そういって霜哉は隠していた右目を露にした。そこには赤い目玉の中に浮かぶ小さな妖精のかけらがあった。群青色の石が光って青い目のようだった。
「それは…」
「妖精のかけら、ナーガではそう呼んでいるらしい。君の知っての通り、これは妖精の体の一部なんだ。そして…限定された自然法則を超越するものでもある」
「妖精のかけらにそんな力が…」
ふとジブラルの右腕を思い出した。その力は妖精のかけらによるものであり、確かにその力は他のものとは一線を越えたものだった。
「でもどうしてそれを貴方が…」
「そう、これはもともと俺のものじゃあない。紫薇の母親…フィアテリスのものだった代物だ。彼女は、君やジブラルと同じナーガの人間だった。いや、獣人と言った方が正しい」
クレシェントはばつ印が付いた写真を思い出した。あのときは水色の髪に赤い目が普通だと思っていたが、そういう理由だったのだ。
「妖精のかけらは遠大な力を催すが…その力は選ばれた者にのみ託される。俺は本当の所持者ではないから、常にこの妖精のかけらが俺の命を吸ってしまうのさ。そして俺の命はもう、尽きかけている」
それから前菜、スープに魚料理、アントレが終わり、口直しのソルベを食べ終わるまで話は続かなかった。クレシェントは参考書で勉強した通りにスプーンやフォークを使い、どの料理にも舌鼓を打った。
「やはり本格的なフレンチは日本人には酷だな。食い切れないよ」
木苺のソルベを一口だけ食べると、霜哉はウェイターに下げさせた。それに打って変ってクレシェントは何だかこの味が懐かしいような感じがして、料理が進むにつれてどんどん食欲が湧き上がっていた。
「紫薇と同じで小食なんですね。今はたくさん食べるみたいですけど」
「そうか…そういう細かいことまではわからないから、教えてくれると嬉しいよ」
「どうして…自分から聞こうとしないんですか?紫薇はずっと貴方を待っていたのに…こうやって一緒に食事をしたり、どこかに出かけて色んなことを話すのが親子でしょう?例えそれが血が繋がっていなくても…」
クレシェントはいつかデラとしてみたかったことを口にした。
「そうだな、そうしてやったら紫薇は喜んだだろうね。前みたいに自己表現が苦手にならなかったかもしれない」
「ならどうして…」
「簡単な話さ…俺の憎しみは、紫薇のものより濃い。それだけだ」
右目から放たれる殺気は今迄にクレシェントが味わってきたもの中で誰よりも強かった。その目に込められた力は余りにも強過ぎて、目の血管が浮き出てしまうほどだった。しかしその殺気を嘘のように消してみせると霜哉は笑った。
「だが一方、紫薇のそういうところを知って嬉しい自分がいる。果たしてどちらが本当の俺なのか…君はどっちだと思う?愛か憎しみか、嘘か真か、善か悪か…俺はね、これらの二つが違うものながら、その本質は同じだと思っている。俺はそういう男なのさ、クレシェント・テテノワール」
クレシェントは直感的にこの人は危険だと思った。人に親切にしたり、誰かの為に不幸を嘆いてやることは出来るのだろう。しかし頭のどこかで相手を見下し、あまつさえその相手を見て一興を打とうとしている。それは時おり見せる紫薇の悪い部分と酷く似ていた。血は繋がっていなくとも、これほど良く似た親子はいないだろうとクレシェントは思った。
ロティとして牛肉のメダリオンが運ばれると、霜哉はやはり一口だけ食べてナイフを置いた。クレシェントは牛肉にかかったマデイラワインのソースが自分の好みと一致していたので拳大の牛肉を二口で食べてしまった。
「清々しいまでの食べっぷりだ。見ていて飽きないね」
肉を飲み込んだ後に霜哉がそんなことをいうものだから、クレシェントは思わず喉につっかえそうになった。慌てて傍にあった赤ワインを一飲みするとこれがまた全身をかっとさせるような辛味の強い酒で、クレシェントはぷはと息を吐いてしまった。
「フランス料理は主に時間をかけて話を進め、その合間に食事をするのがセオリーだ。他所でははしたないと思われるからやっちゃ駄目だよ」
しまったとクレシェントは赤面した。参考書をそのまま読み上げたような霜哉の言葉が余計に胸を打った。酔いもあってクレシェントは頬に熱を感じた。
「紫薇はどうして君みたいな子を選ばなかったのか…。いや、羽月も格別な女であることには違いないが、やはり好みがあったらしい」
その好みに当て嵌まらなくて悪かったですねとクレシェントはいいそうになったが止めた。代わりにずっと思っていたことを口にした。
「どうして羽月さんを選んだんですか?あんなに綺麗な人だったら、誰だって恋心を抱いてしまうと思います。その…思春期に悪影響とか」
クレシェントは自分でも嫌らしいことをいってしまったなと後悔した。そんなつもりはないのにやはり羽月に対して嫉妬があったのだろう。続けてテレビのニュースで取り上げそうな事柄を述べてみせた。
「あの子は母親の愛情を受けていないからね。若い女を傍に置いてやれば、少しは目元が柔らかくなると思ったんだが…。母でもなく姉でもなく、一人の女として見てしまうとは思いもよらなかった。まるで一人だけ時間を跳び越えてしまったようだ」
ああ、そういうことかとクレシェントは納得した。もし紫薇が本来の年齢のままだったなら、きっと羽月は恋愛対象ではなく一種の母親のようなものになっていただろう。ただ運命の悪戯か、それとも初めからこうなる定めだったのかはわからないが、母親となるべき対象は自分になってしまっていたのだ。もうどう足掻いても敵わないとわかってしまうとクレシェントは目頭が熱くなった。
そんなクレシェントの思いを知ってか知らずか、霜哉は思いもよらないことを口走った。
「ただ一つだけわからないのは、どうして紫薇が君を助けたか、だ…」
「それは…幼い頃に助けてあげられなかったペットが原因で…」
そのことをはっきりと紫薇の口から聞いていた。今はもういない、権兵衛の姿と自分の姿を重ね、過去の失態を償おうとした故の行動だった。
「人と動物は違う。動物は君のように喋れないし、何より性的対象には当て嵌まらない。紫薇がそういう性癖の持ち主だったらまた話は別だが…あいつの好みはどうやら年上の女性のようだからね」
「何が…言いたいんですか?」
区切りの良い所でサラダが運ばれ、話は途中で止まってしまった。サラダはオークレタスやエンダイブをあしらった赤と緑が強い色のもので、バルサミコ酢とマスタードのソースが別々にかかっていた。
「いや、ふとある推論が頭を過ぎったんだが…君の前で口にするのは不躾だと思ってね。忘れてくれ」
霜哉は誤魔化すようにしてサラダを食べ始めた。お腹がいっぱいだといっていたのに黙々と葉物を口に入れる。クレシェントは訳がわからず、こうなったら食べ切れるだけ食べてやると開き直って、フォークでエンダイブを刺したときだった。急に頬が蒸れるような気がした。そしてある推論が、霜哉が口にしようとしたことがクレシェントの脳裏を過ぎった。そんな筈がない。あるものかとクレシェントは必死に否定したが、考えてみれば辻褄が合わない訳ではなかった。
あれほどお腹を空かせていたのに今では食欲よりもそのことばかり気になって、クレシェントは無意識にフォークでサラダを突いているだけになっていた。
「君は…紫薇をどう思う?」
その言葉はクレシェントを正気に戻した。フォークを引っ込めると、クレシェントはこの世界で過ごした日々を一つ一つ鮮明に思い出し、その中で一番に輝いている紫薇の記憶をそっと手繰り寄せた。
「とても…華奢な人。誰かがいないと何も出来ないってわかってるのに、それを認めようとしない意地っ張りで…」
初めて会ったときはその生意気さが何だか可愛かった。
「誰かに認めて貰おうと必死に努力して…それでも上手くいかないときは落ち込んだり、隠れて泣いてたりして…」
いつだったかクレシェントは紫薇が隠れて泣いていたのを見かけたときがあった。人とのコミュニケーションの本を幾ら読んでも人の心がわからなかったのだろう。本を破り捨てているところを見かけたときは、思わず抱き締めてあげたくなった。
「本当はとても優しい子…ただそれを伝えるのがほんの少し苦手なだけ」
オルゴールを貰ったとき、どんなに嬉しかったか。クレシェントは今でもそのときの光景を蘇らせることが出来る。恥ずかしそうに手渡す紫薇の横顔はちょっぴり格好良く見えた。
「いつの間にか私を追い抜いて…どこまでも走っていけそうな横顔を見たときは驚いた。ぶっきら棒なところは変わらないけど、紫薇は一番大切なことを教えてくれた」
太い腕で抱かれたとき、苦しめといわれたときは胸が張り裂けそうになった。
クレシェントがサラダを食べ終わると最後に柿のコンポートと洋梨のタルトが並べられた。赤い、ラズベリーか何かのソースが心臓を脈打つ様に描かれ、甘酸っぱい香りがお皿から漂っていた。
「私は…紫薇が好きです。思いは届かないかもしれないけど、せめてこの気持ちを秘めていたい」
クレシェントは返ってすっきりしていた。何だか今迄のわだかまりが取れたようで快い。悲しみはあるけれど、それが今の自分を保ってくれているのだ。
クレシェントはふうと気持ちを静めて洋梨のタルトを頬張った。甘い、カスタードとほんのり酸味のある洋梨がとても口に合った。
「美味しい」
にっこり笑って手を頬に付けた。
霜哉はそんなクレシェントの話を聞いて何度も相槌を打った。そしてその気持ちをしっかり理解するようにグラスに注がれていたワインを飲み下した。
食後に小さなマカロンとコーヒーが出され、霜哉とクレシェントはそれぞれにカップを啜った。クレシェントは六つマカロンを口にしたところで話を切り出した。
「あの…お願いがあるんです」
「何かね?」
「私に、二人の仲を取り留めさせて下さい。戦わなくても、今日みたいに食事をしながら話をすれば、きっとわかり合えると思うんです。だからお願いします」
じっと銀色の目を据えて見詰めるクレシェントに霜哉は痛く感動していた。宛ら無償の愛とでも呼べば良いのだろうか。霜哉はクレシェントにどこか喪ったフィアテリスの面影を重ねてしまっていた。
「わかった。君の好きなようにすると良い」
その言葉はかつてフィアテリスに良く向けたものだった。その言葉を聴いてクレシェントの顔が明るくなると、霜哉は少しだけ口許を緩めた。
「ちょっと失礼するよ」
そういって霜哉は携帯を持ちながら席を立った。
「…あれ…?」
クレシェントはどうぞお構いなくというつもりだったのだが、何故か急にくらりと頭が揺れた。呑み過ぎたのだろうか。いや、それにしてはやけに瞼が重い。視界がぼやけ始め、眠っているのか起きているのかわからない現実味のないまどろみがクレシェントを襲った。
「ああ、俺だ」
霜哉は席から離れた場所で、窓ガラスから外の景色を眺めながら携帯で話した。
「例の話を進めたい。場所の確保はお前に任せるよ。ああ、やっとお前との契約も終わりに近付きそうだ。ああ、あいつは来るさ。その為の眠り姫を用意した」
口紅が付いたカップが零れるとクレシェントの体はぐったりと席に深く座った。霜哉はその様子を見届けると携帯の電源を切り、ゆっくりとクレシェントの傍に近寄った。銀色の髪がぱらりと垂れて霜哉は一つの絵画を見ているような気分になった。
その途端、何かを啓発するかのように霜哉の右目に痛みが走り、血の涙が零れた。
「…わかっているよ。お前の言った通り、紫薇は私が守るさ」
そういうと右目の痛みは徐々に和らいでいった。
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