58話 その花は年月をかけて朱に染まり

 「今日は時間を割いてしまって悪かったね」

 車の窓から顔を覗かせて霜哉はいった。

 「…いえ、私もこんなみすぼらしい格好で済みませんでした」

 寝巻き姿である黒いサブリナパンツにタンクトップ、デコルテのシャツを隠すように肌色のルダンゴトを羽織っていても、とてもレストランが受け入れられるものではなかったが、金の力は恐ろしかった。困った顔をしたスーツ姿のウェイターに霜哉はさらさらと小切手を書いて渡して黙らせたのだ。

 「いや、暇がないと急かしてしまった俺の責任だ。このお礼はさせて貰うよ。今度はゆっくりと料理に舌鼓を打とうじゃないか、ねえ?」

 クレシェントは少しだけ笑ってみせ、小さく頷いた。

 「ああそうそう、少ないが取って置きなさい」

 窓越しに霜哉はやや厚みを持った封筒を差し出した。

 「…こんなに頂けません」

 「子供の駄賃じゃないんだ、君の未来に対する投資だよ。受け取りなさい」

 そういうとクレシェントは迷った顔をしたが、じっと見詰める霜哉の視線に促され、申し訳なさそうにその封筒を受け取った。

 「ではまた」

 霜哉の横顔が窓ガラスに遮られていく。クレシェントが小さくお辞儀をすると、高級車はすっと前に向けて走り出していった。車の後ろ姿が見えなくなると、クレシェントは小さな溜め息を吐いて家路を歩いた。その顔は何か知ってはいけないことを知ってしまったかのように後悔に満ちてしまっていた。

 「…紫薇、貴方はどれほどの不幸を背負ってしまったの?」

 クレシェントは立ち止まって空に浮かんでいた月を見上げた。

 「親子が憎しみ合うなんて…こんなに悲しいことはないわ…そうよね?デラ」

 ふとクレシェントは亡き父の顔を思い出して悲しい顔した。



 同じ色の月を紫薇は物寂しそうに見上げていた。腹の音が鳴ると、紫薇は野良の動物の気持ちが何となくわかった気がした。今の自分には帰る家もなければ用意された食事もない。ましてごみ箱をひっくり返す勇気などなかった。

 「せめて動物にでも好かれる体質なら、とっ捕まえて食ってやれるんだがな…」

 なんて呟いてみると不意に聞き慣れた声で、

 「…なんて危ない台詞だ、犯罪者じゃあるまいに」

 目を三角にさせたプランジェが後ろに立っていた。

 「朝から何も食べてないんだ。ぼやきもする」

 「ならとっとと帰って来い、綾に余計な心配をかけさせるな」

 目くじらを立てながらプランジェは紫薇の隣に座ると、手に持っていた風呂敷を解いて中からおにぎりを取り出した。紫薇はそれを見るとぱっと顔を明るくさせておにぎりを摘もうとした。

 「待て、おあずけだ」

 高々とおにぎりを掲げてプランジェは紫薇を制した。

 「これが食いたければ家に帰って来い。これは綾からの伝言だ」

 「…断る。それが羽月さんのお願いでもな。あの男がいる限り、帰るつもりはない。さっさと寄越せ」

 「そうではない、もうお前の親父は家には帰って来ないぞ」

 「何だって?」

 「今朝方に出て行った。仕事の都合でこれからはホテルに泊まるらしい。だからもう戻って来い。…これ以上、綾を泣かせないでくれ」

 そういうとプランジェはおにぎりを差し出した。紫薇はそのおにぎりを見詰めると黙って掴み、口に含んだ。塩味のほどよいおにぎりだった。紫薇は腹を空かせていたこともあって二口でおにぎりを食べてしまった。するとプランジェはもう一つおにぎりを紫薇に手渡し、紫薇はまた二口で食べた。

 「私の好きなしそ味の梅干を特別に入れてやったんだ。これでまだ帰って来ないなどと口にするなら、ふん縛ってでも連れて帰るぞ」

 そうして計四つのおにぎりを食べると、紫薇は満足そうに鉄筋の上でごろんと寝っ転がった。プランジェは保温性の水筒からお茶を淹れると紫薇に渡してやった。

 「…コーヒーの方が良かったな」

 「生意気いうな。持って来てやっただけ有り難いと思え」

 そういうと紫薇は渋々お茶を啜った。

 「お前の親父…強かったな…」

 一瞬、紫薇は手を止めたが黙ったままだった。

 「最後の妙な芸当は兎も角…袖を捲ったときに気が付いたが、体中に傷痕が残っていた。あれは一年やそこらで出来た傷ではない。十年、いや…それ以上の時間をかけて積み重ねられたものだ。努力ならば相手の方が上だぞ、紫薇」

 そのことは紫薇も気が付いていたのか目を細めた。霜哉の体は鋼のような筋肉の壁に覆われ、指にかけられていた筋力は並外れたものだった。手の軟骨は腫れ上がり、手の甲や指の間に刻まれた縫合の痕がその証拠だった。

 「しかしわからないのは何故…お前の親父はああまで自分を練磨する必要があるのかということだ。まさかお前を殴り飛ばす為に手の形を凹ませた訳ではあるまい」

 プランジェはそういいながら自分の手を見詰めた。小さく華奢な手だったが、そこにはプランジェ自身も気付いていなかった薄い火傷痕があった。

 「…お前が何を思っているのか、私は知らん。きっとお前が話してくれたところでわかりはしないだろう。だがな…やはりお前が居ないとあの家は広過ぎる」

 そういうと紫薇はプランジェの顔を一瞥した。そのときのプランジェの顔はとても寂しそうで、どうして紫薇はそんな顔をしているのかわからなかったが、どうもプランジェのそういった顔が苦手だった。

 「だがまあ、お前だってもう大人なんだ。自分のことは…」

 「帰るぞ、茶なんかよりもコーヒーが飲みたい」

 紫薇は水筒に入っていたお茶を地面に捨てると、自分一人でさっさと歩いていった。プランジェはそんな紫薇を見てやれやれと苦笑いすると、紫薇の後を追いかけていった。


 家に着いたのは十時ごろだった。玄関を開けてリビングに出るなり紫薇はぴしゃりと頬を叩かれた。頬に痛みが広がると紫薇はああ、帰って来たんだなあと思った。羽月は言葉にならない罵詈雑言を涙混じりに浴びせ、紫薇の胸に額を寄せた。

 「馬鹿、どれだけ心配したと思ったのよ…皆にも迷惑をかけて…!」

 紫薇はプランジェの前なんだがなと思いながら、ごめんと呟いた。しかしプランジェは年のせいかそれがどういう意味かわからず、うんうんと頷くだけだった。

 紫薇がいつ帰って来ても良いように鍋にはシチューが入っていた。羽月はくつくつとシチューを温め、紫薇に差し出した。紫薇は熱々のシチューを頬張ると、不思議と頬が緩んだ。おにぎりを食べた後でも紫薇はシチューを三回おかわりした。

 「はい、今は綾が作ったシチューを頬張っています。全く世話の焼ける奴で…」

 プランジェはその間にクレシェントの携帯に電話をかけていた。紫薇は腹を膨らませると席を立ち、話中にも関わらずプランジェから受話器を奪った。

 「あっ、こら!」

 「悪かったな、余計な心配をかけた」

 急に相手が紫薇に変わったせいでクレシェントは驚いた声を上げたが、すぐに安心したように携帯越しに笑ってみせた。

 「本当よ、お陰で足が棒になるところだったわ」

 「お前がそんなに柔な体か」

 「…相変わらずデリカシーないのね。紫薇、あんまり羽月さんを困らせちゃ駄目よ。ただでさえ危なっかしい性格してるんだから」

 「…わかったわかった。小言は一人だけで十分だ」

 「ふふっ、わかれば良いのよ。それじゃあね」

 電話が切れると紫薇はふうと溜め息を吐いた。

 「まだ話の途中だったのだぞ…」

 「そのうち携帯でも買ってやるよ」

 腹を立てていたプランジェだったが、紫薇がそういうと本当かと喜んだ。紫薇はそろそろ携帯を持とうかなと少し迷ったが、やっぱり必要ないなと思って止めた。



 携帯の画面に通話終了の文字が点滅する。クレシェントの心臓はまだ強い鼓動を打っていた。久し振りに聞いた紫薇の声はどこか懐かしく、安心するようだった。

 「紫薇、見付かったの?」

 セールで買ったこたつで暖を取りながらジブラルがいった。こたつの上には二人分のグラスに注がれた赤ワインが湯気を立てている。クレシェントは黙って頷いて携帯を切るとこたつの中に足を入れた。

 「まー、羽月も心配性よね。男がニ、三日くらい外でほっつき歩いても心配ないわよ。だから私は探さなかった訳だけど…クレシェント、あなたがそうしなかったのはなんで?札束持って寝巻き姿で帰って来たときにはとうとうって勘繰ったけど」

 そういいながらジブラルはずずずと音を立ててワインを啜った。

 「ん…ちょっとこの銘柄だと今一ね。はちみつ入れよ」

 「ねえ、子供にとって父親ってどんな存在なの?」

 「…その父親に殺されそうになった私に聞かれてもね」

 「…ごめん」

 「まあ、別に構いやしないけどさ。そうね…言われてみればどんなだったんだろう。うちのは優しい人だったけど、基本的に父親って言ったら嫌われ者じゃない?男の父親だったら特にそうだと思うわ。エディプスコンプレックスって言葉もある位だから」

 「それはあの人も言っていたわ。怨まれても仕方がないって…それに…」

 クレシェントは霜哉と話をしたときに最も強烈な印象を受けた一言を思い返した。


 『俺も紫薇に憎しみを抱いてしまっているのさ』


 「血の繋がりって、本当に大事なのね…」

 「私はそうは思わないけど」

 ぐるぐるとワインをかき混ぜながらジブラルはいった。

 「え?」

 「だってあなたとデラ、何だか本当の親子みたいだったわ。ううん、私から見たらそれ以上に。血の繋がりなんて関係ないのよ、大切なのはお互いがどう思い合えるかじゃないかしら。その辺りは恋と同じじゃない?同じ愛なんだから」

 「…そうね」

 クレシェントは少し寂しそうに笑った。

 「私としてはさっさとあなたが男を見付けてくれるのを願ってるんだけど。桐嶋さんを振るとは思わなかったからねえ」

 「もう、その話は止めて」

 「あら、ご免なさい。ん、美味し」

 意地悪そうに笑いながらジブラルは再びワインを傾けた。

 「でも…考えてみれば紫薇ってずっと一人ぼっちだったのね。私にはメディストアがいた、あなたにはマルテアリスがいた。でも紫薇は権兵衛なんて話も出来ない動物がたった一匹だけ。それに虐待を受けていたら嫌でもあんなに捻くれるわ。今でもその傷痕、背中に残っているんでしょう?」

 「直接…見たことはないけれど、とても酷いものだと思うわ…」

 クレシェントは一度だけ夜中に紫薇がソファーの上で苦しんでいるのを見かけたことがあった。悪い夢、過去の痛みが今でも紫薇を傷付けている。そう思うとクレシェントは居た堪れなくなるのだった。

 「紫薇の父親ってのは何をやってるのかしらね?実の息子が可愛くないのかしら?」

 「そんなの!可愛いに…決まってるわよ…」

 そういいながらもクレシェントは言葉とは裏腹な気持ちになってしまっていた。視線が落ちていくと真っ赤なワインの水面に沈んだ表情の自分の顔が映った。クレシェントはその目を見てそのことを受け入れない様に目を閉じていった。

 その夜、クレシェントは紫薇に貰ったオルゴールを聴きながら一枚の手紙を読んでいた。霜哉に貰った封筒の中にお金と一緒になって同封されていたのだ。手紙の内容は短い文節だったがとても丁寧に書かれていた。そこには急に訪れてしまったことへの謝罪と、もう一つ同封されていた手紙を紫薇に渡して欲しいと書いてあった。ただそれをいつ渡すのかはクレシェントに任せるとあった。

 クレシェントは手紙を読み終えると紫薇宛の手紙を手に取った。封筒には手書きで紫薇へと書かれている。中には手紙の他に写真と思われるものが数枚入っていた。クレシェントはきっとその中には霜哉と話した際に見せられたあの写真も入っているのだろうと思った。

 「…紫薇、私は貴方の力になりたい。でも…こんなこととても言えないわ…」

 今はまだ、決して本人には見せられない写真。それはひょうたん型の繭の中から顔を覗かせる人間の顔をした蛾だった。水色の髪の毛をした女性に繭は抱かれ、繭の中の赤ん坊は穏やかな顔で目を閉じている。白い体毛に覆われた肌をしたそれが紫薇だとわかるのにクレシェントは時間がかかってしまった。

 クレシェントはそのありのままの事実を紫薇に手渡して良いものかわからなかった。いや、それ以前にお互いを思い合うどころか、殺し合おうとしている親子を放っては置けなかった。だが霜哉の話はそのクレシェントの決意を躊躇わせてしまう。クレシェントはぐったりと体を横にして少しずつ目を閉じていった。翻弄される意識のまま闇だけがクレシェントの体を癒していった。



 紫薇は久し振りにコーヒーを口にしたような気がした。いつもよりほんのり苦味が強いのは羽月の仕業だろう。少しは反省しろと遠回しに訴えていた。だがそれを抜きにしても寒い夜に飲むコーヒーは格別だった。思わず紫薇が溜め息を吐いてみるとくすくすと羽月が笑った。

 「顔に似合わず紫薇は溜め息が多いのね」

 紫薇は黙って視線を階段に移すと、羽月は静かに頷いた。どうやらプランジェは床に着いたようだった。

 「溜め息が似合う顔ってどんなだよ?」

 「そうね、もっと老け顔でほりが深い人かしら。紫薇とは真逆ね」

 笑いながら紫薇の隣に座った。

 「黙っていれば可愛い顔だなんて言われたっけな、蘇芳に」

 「的確ね。体はこんなに逞しくなったのに」

 そういって羽月は紫薇の堅い胸板に触れた。

 「がたいが良い方が好みなのか?」

 「筋肉フェチって割と多いのよ。やっぱり男の人には適度な筋肉は欲しいもの」

 「そういうもんかね」

 くいとコーヒーを飲み干すと紫薇は羽月の傍に寄って体重を乗せた。

 「甘え上手ね」

 「…親の愛情が足りなければ自ずとこうなるさ。わかってるよ、本当は男がこうしてやらなきゃいけないってのは」

 「別に構わないわよ。私の方が年上なんだから」

 余裕たっぷりに羽月が笑ってみせると、紫薇は敵わないなと苦笑いした。

 「ねえ、紫薇?」

 「何?」

 「もう…私に黙ってどこにも行かないで。お願いよ…」

 じっと紫薇を見詰める羽月の目は憂いを帯びていた。だが羽月の顔はしっかりと紫薇の視線を逃がさないように紫薇の視線の真ん中にあった。紫薇はその目に込められた思いを受け止めると、ゆっくりとわかったといった。しかし羽月の顔は変わらなかった。てっきり紫薇は喜んでくれるかと思っていたが、羽月はその表情を崩さずに次の言葉を口にした。

 「お父さんのことも、もう憎まないで…」

 その一言は紫薇の顔を歪めてしまった。途端に紫薇は視線を外し、ふつふつと現れ始めた怒りを堪えるように拳を握り締めた。

 ふとひんやりとした感触が紫薇の神経を緩やかに落ち着かせていった。ふっと柔らかい匂いが紫薇の鼻をくすぐる。羽月は紫薇を胸の中に受け入れ、紫薇の頭を擦った。細くて柔らかい羽月の体が紫薇の体と密着すると、あれほど理性を失いかけていた紫薇の怒りは収まっていった。

 紫薇は初めて羽月と出会った時から妙な親近感があった。それは母性的な羽月の性格から来るものなのか、彼女の独特な匂いから来るものなのかはわからないが、紫薇は殆ど味わったことのない生理的な愛情を感じることが出来た。ただそれは時間を追うごとに爆発的に変化を繰り返し、母のような無償の愛から姉のような近親的な愛へと移り変わり、やがて一人の女として精神的に肉体的に欲するようになった。紫薇はこれまで性的な感情を知らなかった。女性の裸やそれに近いものを映像で見ても欲情は始まらず、紫薇は自慰という行為でさえ覚えていない。インポテンツに近いものがあった。それが今となっては羽月の体臭を嗅いだだけで体が疼き、機能不全を起こしていた下半身は見る見る内に雄々しくなっていった。紫薇はまるで初めてセックスを覚えた発情期の猫のように羽月を求めた。それは二週間ごとに現れ、丁度プランジェの留守を狙ったかのように起きていた。ただそれに似た現象は羽月にも表れていたようで、彼女もまた紫薇を貪るように求めた。一人の子供から弟のような存在に、そして一人の男になった紫薇に抱かれることで羽月にも達成感と幸福感が同時に訪れた。二人は理性的ではあったが、愛に関してはことさら肉体的だった。いや、二つのものを同時進行で楽しんでいるといった方が正しいのかもしれない。恋は盲目で、二人は自分たちが時おり監視されているとは思いもよらなかっただろう。それ程までに二人の愛は激しかった。

 紫薇は体がぞくぞくするような欲情感に陥り、徐に羽月の乳房に手を寄せて彼女の唇を奪った。思わず食い千切りたくなるような柔らかさの下唇を丹念に吸い取り、紫薇はちろちろと舌を羽月の口の中に入れようとした。

 「今日はこれでお預け」

 舌の先を少し強めに噛んで羽月はいった。紫薇は残念そうに生唾を飲み込んで理性を取り戻していった。稀に羽月は紫薇との接触を拒むときがあった。紫薇にはどうしてそうなるのかわからなかった。生理の問題でもなければ気持ちの問題でもない。だが不思議と今日は駄目という意味が込められた舌の噛み付きを受けると、紫薇の炎はしゅんと消え去り、嘘のように欲情がなくなるのだ。紫薇はそれが大人の余裕なのだろうと思った。

 「さっ、もう寝ましょう。明日は学校でしょ?遅刻は駄目よ」

 「羽月が来てから遅刻なんてしてないよ」

 紫薇は羽月の名前を呼ぶのがどうにも恥ずかしくてどうにか敬称を取って苗字を呼ぶので精一杯だった。羽月はちょっと不満そうな顔をしたが、今ではそれも気にはしていないようだった。

 「宜しい。では朝になるまで一緒に寝給え」

 「喜んで」

 そういうと二人は静かに笑い合った。

 音を立てないように紫薇は羽月の部屋に潜り込み、二人してベッドの中で寝転がると布団の中で手を繋いだ。

 「私ね、同じ布団の中で寝っ転がりながら一緒に天井を見るのが夢だったの」

 「なら今は幸せ?」

 「それは内緒」

 ふふっと笑いながら羽月は紫薇の手を握る力を強めた。紫薇はちょっと不安になったが、その力を感じると同じように紫薇も羽月の手を強く握った。

 紫薇は徐々に瞼が重くなるのを感じた。手の先には羽月の感触がある。紫薇はそれを感じながら目を閉じていった。視界が完全に閉じる直前、何故か手を握っている筈の羽月が目の前にいて自分の顔を覗き込んでいるような気がした。


 薄紅色の、それでいて儚い淡さの花びらが暗闇の中で踊った。その花びらの形はぼろぼろで少し下品だった。花びらが六枚集まるとぎゅっと一つに凝縮され、根元に緑色の葉が生えると花びらは丸い蕾となって闇の中で静かに光った。その光に合わせて紫薇の目尻から大粒の涙が一滴だけ零れていった。

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