57話 硝子に浮かぶ悲劇

 一匹の野良猫がその場所にいた。ただその野良猫は体中が傷だらけで毛並みも荒く、まるで縄張り争いに負けてしまったかのようだった。じっと青あざだらけの顔でクレシェントを見詰めている。見ればこめかみから血を流していた。

 「…紫薇、何があったの?」

 心配そうにクレシェントが尋ねても、紫薇は黙ったままそっぽを向いた。その様子に困ったクレシェントは背の低いテーブルに置手紙があったのに気付いた。それにはジブラルの手書きで急な人不足で今日は帰れないと書いてあった。今になって気付いたが、携帯にジブラルから何通か連絡が入っていた。その内容はやはり紫薇のことだった。ただ肝心の何故、紫薇がここにいるのかということは書いておらず、今日は帰って来るなとの旨だけだった。

 クレシェントは鞄を降ろしてから救急箱を取り出すと紫薇の隣に座った。

 「…紫薇、何があったか話してくれなくても良いわ。でも傷の手当てはさせて」

 紫薇が動かなかったところを見てクレシェントはガーゼに消毒液を着けた。

 「沁みるわよ…」

 こめかみの傷を抑えると紫薇は苦しそうな声を上げた。それからガーゼを抑えたままテープで貼り付けた。

 「他に血が出ているところはある?」

 そういうと紫薇は小さな声でないと呟いた。

 クレシェントはほっと溜め息を吐いてこれからどうしようと思った。紫薇の格好はよほど慌てていたのか秋の夜だというのに薄い部屋着だった。クレシェントはベッドから布団を持って来ると紫薇の肩にかけてやった。

 「体、すっかり冷えてるわね。…そうだ、ちょっと待ってて」

 クレシェントは冷蔵庫から卵とネギを取り出し、冷凍しておいた米に水を入れて手持ち鍋で温め始めた。ネギを適度な大きさに切って鍋に入れ、少しぎこちない手付きで卵をといてから米が温まると、鍋をかき混ぜながらとき卵を入れた。そうして出来上がったおじやの半分を丼に注いでスプーンを中にいれ、紫薇の前に置いた。

 「はい、熱いからふーふーして食べて。私、ちょっと買い物に行って来るから留守をお願いね」

 黙ったままの紫薇を部屋に置いてクレシェントは財布を片手に玄関に向かった。ドアを閉める途中、部屋を覗いてみたが紫薇はおじやに手を付けようとはしなかった。クレシェントは本当に何があったのだろうと思いながら部屋を出て、近所のコンビニで歯ブラシと切らしていた洗剤を買って部屋に戻った。

 部屋に戻って来るとリビングでは電気を点けたまま静かに寝息を立てる紫薇の姿があった。体を丸め、布団に埋もれるようにして顔だけ出している。テーブルに置いてあったおじやは見事に食べられていた。ふと鍋を見てみると残りがなかった。

 「…本当、子供なんだから」

 クレシェントは苦笑いすると静かにシャワーを浴びてベッドに向かい、厚地の洋服を被って眠りに着いた。その夜はオルゴールをかけなかったが、何故かいつもより深く眠ることが出来た。


 次の朝になってクレシェントが起きたのはお昼を過ぎてからだった。昨日の酔いもあって体が重い。目を開けて起き上がるといつの間にか布団がかけられていた。

 「…紫薇!」

 昨夜のことを思い出してクレシェントは飛び上がったが、そこに紫薇の姿はなかった。テーブルの上には書置きがあって、塩気が薄いと書いてあった。クレシェントは野良猫めと悪態を吐いてから携帯を取り出し、紫薇の自宅に電話をかけた。

 「はい、絵導でございます」

 電話に出たのは羽月だった。一瞬クレシェントは躊躇ってしまったが、すぐに気を取り直して電話を続けた。

 「羽月さん?クレシェントです」

 「…クレシェントさん!?紫薇くん、そちらにお邪魔してませんか?」

 「昨日の夜まではいたんですけど、朝になったらいなくなっていて…何があったんですか?」

 そういうと羽月は言葉を詰まらせたが、やがて苦々しく説明した。

 「紫薇の…お父さんが?」

 「ええ、つい先日のお昼に急に帰っていらしたんです。そうしたら紫薇くん、顔を見るなりいきなり襲いかかって…」

 「それで紫薇のお父さんは…」

 「それが…大人と子供みたいな喧嘩で…信じられないことなんですけど、怪我一つしなかったんです。紫薇くんを痛め付けた後、外に放り出してしまって…」

 「そんな…」

 権兵衛の力は失っていても今の紫薇の体は並の人間では歯が立たないくらい練磨されている筈だった。その紫薇をああも傷だらけにしてしまった今の紫薇の父親とはどんな人間なのだろうかとクレシェントは思ってしまった。

 「紫薇は、家に帰ってないんですね?」

 「はい…私も近所を探したんですけど見付からなくて…」

 羽月の声は今にも泣き出しそうだった。

 「プランジェは?プランジェはどうしてますか?」

 「今はプランジェちゃんが紫薇くんを探しに行ってくれています…」

 「わかりました。私も今から外に出て探してみますから、羽月さんは家に居て下さい」

 そういってクレシェントが電話を切った矢先だった。これから身支度を済ませようというときに家の呼び鈴が鳴り響いた。

 「…紫薇?」

 まさかと思いながらドアを開けるとそこには年若い、今の紫薇の肉体年齢と同じ位の男が立っていた。クレシェントはその男の顔を見て絶句してしまった。自分の記憶が正しければ、その人物は有り得ない状態だったのだ。急激に記憶の一部が蘇る。顔にばつ印が書き殴られた一枚の写真。そこにその人物が映っていた。

 「クレシェント・テテノワールだね?突然で恐縮だが、これからご足労願いたい。なに、怪しいものじゃない。いつもお世話になっている不出来な息子の父親さ」

 左目に眼帯が着けられ、黒い右目だけが銀色の瞳を覗いた。

 「貴方が…紫薇のお父さん…」

 その姿は明らかにおかしかった。父親というには余りに若過ぎるのだ。紺色のスーツがどうにも似合わない。大学生といっても何ら不思議ではないその容姿にクレシェントは唖然としてしまった。

 「俺もこう見えて忙しい身でね。外に車を待たせてある。良ければ出発したいんだが…宜しいか?」

 「は、はい…」

 「よきかな。では行こう」

 そういって紫薇の父親はエスコートするかのように手をクレシェントの前で泳がせた。クレシェントは急な事態に困惑しながらも紫薇の父親に背中を押され、マンションの外に止めてあった黒い高級車に乗り込んだ。紫薇の父親はクレシェントの隣に座ると出してくれと運転手にいった。

 「済まないがちょっと失礼するよ。仕事の詰めが溜まっていてね」

 車が走り出すと携帯を取り出し、紫薇の父親は流暢に英語を使って話し始め、その電話を終えると、また違う番号にかけて今度はフランス語、更に中国語を話した。その様子は笑いながら何かを否定しているようで、目はどこか寂しげだった。

 最後に日本語でその金は口座に振り込んでおいてくれと話すと、疲れた顔をして電話を切った。

 「さて、お待たせして済まない。改めて自己紹介だ。俺は絵導 霜哉(そうや)。君の知っている不良息子の父親だよ。…ここは話したか?まあ良い。君を呼んだのは他でもない、うちの馬鹿息子のことなんだ」

 クレシェントは先ほどから自分の息子を貶している霜哉にむっとし始めていた。

 「探偵を使って調べさせたが…どうやら素行に問題があるらしい。学校の出席日数も酷い有様だ。取り分け学業に関してはここ最近になって急激な低下傾向にある。さて何故だろうか?その実態を君に聞きたいのさ」

 「…羽月さんには聞いたんですか?」

 「あれは情が過ぎる。良い仕事をするが、そういうのには向いていない。だから君の存在が必要不可欠な訳だ。とは言っても長々と話を聞いてもいられない。さっきも述べたが私も残った仕事につき回されていてね、二時間ほどしか空いていなんいんだ。だからまた時間が空いたときには是非とも話を伺いたい、良いかね?」

 「…もし私の話を聞いて満足のいかない結果だったらどうするんですか?」

 「その前にイエスかノー、どちらか一つを選んで頂きたい」

 「私も貴方からその答えを頂けるまで選ぶことは出来ません」

 じっと目を見詰めると、霜哉はくつくつと笑い出した。その笑い方は紫薇に酷く似ていた。

 「いや、噂に違わぬお嬢さんだ。あの子が骨抜きにされるのも無理はない」

 「紫薇を誘惑した覚えはないですけど」

 寧ろその逆だとクレシェントは怒った。

 「そうか…いや、気分を害したなら謝ろう。なに、君から話を聞いたところで何もしやしないさ。ただ法律上、親というものは子供のことを知らなきゃいけない。そういうことだ。さあ、私は答えたぞ。君の答えを聞こう。フェアに頼むよ」

 「…美容院の仕事、仕事って言ってもアルバイトですけど…休みが上手く取れたら大丈夫です。私も、貴方から話を聞きたいと思っていました」

 「おや、俺もまだ枯れたものではないな。何が聞きたいのかね?」

 「…どうしてああなるまで紫薇を放って置いたか、その訳を話して下さい…」

 自然とクレシェントの目に怒りが現れると、ほのかに銀色の瞳が赤く染まった。

 「…その話にはラム酒が似合いそうだ」

 その赤い目をみて霜哉は不適に微笑んだ。



 乾いた青空を見詰めながら紫薇は鉄筋の上に寝そべっていた。半日しか経っていないのにもう何日もこうしているかのようだった。北風が吹くと紫薇は体を丸めたが寒さは凌げなかった。最後に食べた塩気の薄いおじやが今では恋しい。ふとこめかみに貼られたガーゼに指で触れると、鋭い痛みが紫薇の脳を揺さ振った。

 「どうして俺は…」

 血で汚れた指先を見ると、紫薇の目はじわっと濡れた。紫薇は唇を噛み締めるとその手を眉間に寄せ、体を丸めながら小さな嗚咽を漏らしていった。そうして長い目尻のまつ毛から涙が零れた頃、紫薇は夢の中に落ちていった。



 その日は秋空のような静かな日だった。暖房の点いた部屋で羽月が淹れてくれたコーヒーを啜る。羽月の淹れるコーヒーはいつも紫薇の好みを捉えていた。渋みは控えめに、酸味を強めた味わいが紫薇は堪らなく好きだった。

 紫薇の目の前に座っているプランジェが口にしていたのは蜂蜜の入った温かい牛乳だった。プランジェは牛乳が嫌いだったが、蜂蜜を入れると途端に好物になるという妙な癖を持っていた。飲み物が幼稚な割りに両手に乗った本はシェークスピアのオセロとやや大人びていた。

 台所のテーブルで羽月は肘を着きながら婦人雑誌を読んでいた。傍には薄く切られた林檎が浮かぶ紅茶が湯気を立てている。ブランドものの特集ページで手を止めると両手を温めるようにして紅茶を口付けた。

 三人は今のこの空気をそれぞれに堪能しているようで誰も会話の切欠を作らなかった。クレシェントが家を去ってからこうした静寂は日に日に回数を増していったが、三人とも静かな環境が好きだったので誰もそのことに触れなかった。

 そんな中、一本の電話が部屋を走った。しんとした空気だったので三人は急な物音に驚いてお互いの顔を見合ってしまった。羽月は手に持っていた紅茶を置いてぱたぱたと小走りすると受話器を取った。

 「はい、絵導でございます」

 電話がかかって来るなど珍しいこともあるものだと紫薇は思いながら羽月の後姿を横目で流し、視線を戻してコーヒーを口にした。しかし次に羽月の口から漏れた一言に紫薇はベッドから叩き起こされたような気分に陥った。

 「…霜哉さん?」

 乱暴にマグカップを机に置いて紫薇は思わず立ち上がった。その様子にプランジェは少し物怖じしながらどうしたといった。だが紫薇の目は猛獣のような目付きに変わり、床を蹴飛ばすように電話機に近付いて羽月がまだ話している途中にも関わらず電話を指で叩いて切ってしまった。

 「…紫薇くん!」

 息を荒げる紫薇を見て羽月は脅えた表情を見せたが、息を一つ飲むと紫薇の肩に手を寄せた。

 「落ち着いて、紫薇…」

 耳元で羽月が紫薇の名前を呼ぶと紫薇は一瞬、苦しそうな顔をしたがすぐにもとの猛々しい顔に戻ってしまった。

 「…奴は何て?」

 「その…」

 羽月は気まずそうに視線を逸らした。

 「帰って来るのか…八つ裂きにしてやる…」

 数ヶ月前とは比べものにならないほど逞しくなった体を昂ぶらせ、紫薇は壁を睨み続けた。そのとき、羽月は今になって紫薇が一人の男であることを再確認してしまった。いざとなれば人でも殺しかねない紫薇の威勢に羽月は焦ってしまった。

 「駄目よ、そんなことは…」

 「もう無理だ…」

 ぎりぎりと歯軋りする紫薇の後ろには一人の青年が立っていた。紺色のスーツを着ながら左目に白い眼帯を着けている。その顔は紫薇に似ていなかったが、雰囲気はそっくりだった。冷めた表情など特に似てしまっている。

 「久し振りに帰って来てみれば、随分と乱れた生活を送っているじゃないか…なあ、紫薇?」

 その言葉が起爆剤のように紫薇の体を走らせた。羽月の叫ぶ姿に目もくれず、紫薇は筋肉の塊となった手足を動かして霜哉に殴りかかった。皮膚が弾ける音が霜哉の眼前で炸裂する。紫薇の握り拳は霜哉の手によって見事に受け止められてしまっていた。上着の乗った左手はポケットに仕舞われていて、右手で紫薇の力を停止している。その光景に羽月とプランジェは目を丸くさせた。

 「お前、親父とじゃれ合うような年だったか?」

 霜哉の力は丸太のような紫薇の腕を力任せに曲げられるほどだった。紫薇はこれまで培ってきた戦闘経験から冷静さを取り戻し、霜哉の腹を蹴り上げた。鈍い音がすると霜哉の体はくの字に曲がった。羽月はその姿を見て思わず手で口を抑えた。

 「(堅い…)」

 紫薇は爪先で鉛でも蹴ったような感覚がした。ワイシャツ越しに相手の筋肉の練度を確かめると紫薇はぞくりとした。

 「…親を足蹴にしやがったな」

 霜哉は腹に刺さった紫薇の足を掴み、逃げられないようにするとポケットから手を取り出して紫薇の横顔を殴った。その一撃は紫薇の視界をぐにゃりと捻じ曲げ、頭をくらくらさせると霜哉は握っていた足を離した。

 床に倒れた紫薇は頬から流れた血を拭い、揺れる頭を必死に持ち直して体を引き起こした。しかしその前に紫薇は腹部に強烈な痛みを感じた。霜哉の爪先が紫薇の脇腹を突いていたのだ。気を緩ませていた間のことで紫薇はもろにその痛みを味わうと口から黒い豆汁を吐き出した。紫薇の痛烈な姿を目にしても霜哉は手を、足を緩めなかった。足の裏で紫薇の横顔を踏み付けたのだ。そのときの霜哉の顔は敵と戦う時に見せる紫薇の横顔に酷似していた。

 「止めて下さい!」

 大声を上げたのは羽月だった。普段、滅多に声を荒げない羽月でもその光景は見ていられなかった。

 「…羽月、親子喧嘩に口を挟むもんじゃあない。わかるな?」

 「わかりません!どうあっても親が子を傷付けるなんて許されないことだわ!」

 プランジェはその羽月の怒った表情に生唾を飲んでしまった。

 「子が親を傷付けても良いのかね?フェアじゃあないなあ…」

 やれやれと霜哉は首を横に振りながら踏ん付けていた足を紫薇の顔から離した。すると紫薇はその隙を狙っていたかのように立ち上がり、飛び付こうとしたが霜哉は宛ら羽のように紫薇を往なすと後頭部を手で倒し、足を払って紫薇の体を崩れさせた。そのときに紫薇は傍にあったテーブルの角でこめかみを打ち、再び床に倒れるとその部分から血を流した。

 「紫薇くん!」

 余りの痛みに紫薇は低い唸り声を上げてしまった。羽月は紫薇の傍によって仕切りに頭を擦ってやった。

 「体が大人になっても頭は子供のままか…悲惨だな…」

 ネクタイを緩めながら霜哉は椅子に腰かけた。

 紫薇はよろめきながらも立ち上がり、尚も怒りに満ちた顔で霜哉を睨むと足の裏に力を入れて半身を前に突き出した。

 「…糞餓鬼め」

 そのときだった。紫薇は急に驚いた顔をして突き出していた半身を後ろに引っ下げた。紫薇の首元には薄っすらと指で握り締められた痕が着いてしまっている。紫薇はその瞬間、背筋を奮わせた。じっと自分を見詰めている霜哉の左目が眼帯を通して光っているような気がしたのだ。

 「踵を返してとっとと失せろ…この穀粒しが」

 霜哉のその一言は紫薇を直立不動にさせ、完全に戦意を削いで紫薇をその場から追いやってしまった。蜘蛛の子を散らすように逃げる紫薇を羽月は追いかけたが、とても彼女の足では追い付けなかった。

 ふんと霜哉は鼻で笑ったが、額から大粒の汗が垂れるとまるで頭痛でもしたかの様に頭を抑えて苦しがった。

 「一体、今…何をした?」

 プランジェの目にはいつの間にか霜哉が自分一人だけ動いているように見えてしまっていた。事実、プランジェは紫薇が後退する直前に霜哉が椅子に座り直したように見えたのだ。

 「手品、とでも言って置こうか。それより君はどこの誰さんかな?」

 プランジェに顔を向けると、さっきまでの形相が嘘のように頬を緩ませた。

 「私は…」

 改めてそのことを聞かれると、プランジェは言葉に詰まってしまった。何より霜哉の変貌振りに驚いてしまって変に身構えてしまう。そんなプランジェを救ったのは玄関から戻って来た羽月だった。

 「紫薇くんのお友達です。…フランスからの、留学生なんです」

 そういうと霜哉はふっと笑った。

 「留学生ね…。まあ、それでも良いか。羽月、君には後で聞きたいことがある。勿論プランジェ、君にもだ。良いね?」

 プランジェは名乗ってもいないのに名前を知られていることに不審がったが、霜哉の目からは逃れられず黙って頷いた。


 紫薇は玄関を飛び出してから狂ったように走り出した。あのときに感じた奇妙な戦慄、それは今までに感じたことのないものだった。肩がびくびくと震える。こんなに恐怖したのは初めてだった。紫薇はクレシェントと出会った場所に向かおうとしたが、どうにも一人になるのが恐くて堪らなかった。気付けば紫薇はすがるような気持ちで歩いて二つの駅を越え、夕暮れ時になるとあるマンションに立ち尽くしていた。紫薇はどうしてその場所を選んだのかわからなかったが、夜が更けていくと足早にその中に向かっていった。



 物寂しいチェロの音楽が体を丸ませている紫薇の背中にしっとりと馴染む。紫薇は意識を闇に落としながら、その中に小さな火の灯火を見付けた。ガラス玉に入った蝋燭を霜哉とクレシェントが囲んでいる。二人の手元には茶色く焦がされた肉の塊が小奇麗に並べられていた。火が真っ白なテーブルクロスと、神妙な面持ちで話をしている二人の横顔を照らす。ぐるぐると紫薇の体が回ると二人の会話は進み、やがてクレシェントは席から立ち上がって霜哉に叫び声を浴びせた。弦楽器の音を除いて二人の声や隣で食事をしている老夫婦が立てた食器の音も聞こえない。クレシェントは今にも食ってかかりそうな勢いだったが、霜哉の口がゆっくりと動くと目をしばしばさせながら黙って席に座った。そのときの表情はどうしようもないほど切なげで、寂しいものだった。紫薇はどうしてクレシェントがそんな表情をしたのかわからなかったが、何故か彼女に向かってありがとう、そう口ずさまずにはいられなかった。だが夢の中では口が効けない。その代わり、紫薇は口をもごもごさせると意識の底から浮かび上がり、目を静かに開けて今の夢は何だったのだろうと不思議がった。

 その丸まった紫薇の背中をじっと見詰めていたのは作られた理想系を持った一人の学生だった。眼鏡の奥に真っ赤な目を光らせ、獲物を定めた様な顔で少しも紫薇から視線を外そうとしない。だがその顔はどこか憂いを帯び、また誰かに恋焦がれるような恍惚に近い表情をしている。それは寧ろ、崇拝に似ていた。

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