第六章
56話 夜の波は静かにも激しくも
金メッキのドアノブを回してみても扉は開かなかった。中を覗こうとしても窓ガラスに溜まった埃はもう随分と使われていないように見える。紫薇は溜め息を吐いてドアから離れると、改めてその店を見渡した。普段ならドアの傍にメニューの乗った樽が置かれ、それに興味を示した人間が店に入ってみると新聞を眺める無愛想な店主が出迎える手筈なのだが、デラが死んだあの日からその光景は一度も行なわれていないようだった。冷たい風が無人の店を更にみすぼらしく見せる。紫薇は手編みのマフラーを肩に巻いて店から離れていった。季節は草木が落ち込む秋になっていた。
「ただいま」
紫薇は家の中に入るとぶるると体を震わせた。
「お帰りなさい」
玄関でいつもの様に羽月が出迎えると二人は少しだけ目を合わせ、笑い合った。
「ウェルディは居たのか?」
居間では温めたミルクを片手にプランジェが本を読んでいた。
「…いや、店を見る限りだとずっと席を空けている。話を聞きたかったんだが」
「奴を殺したゼルアを追っているのか、それとも…」
プランジェは言葉を途中で切り上げ、首を横に振った。
「それよりも紫薇、さっきジブラルから電話があったぞ」
「何の用だった?」
「落ち着いて来たからお茶でも飲みに来れば?だそうだ」
「そうか、あれから二ヶ月も経てば少しは生活に慣れてきたところだろう。まあ、その内にな」
クレシェントとジブラルが家から離れて二ヶ月が過ぎていた。プランジェは三日に一度ほど紫薇からお小遣いを貰って二人に会いに行っていたが、紫薇はずっと二人の顔を見ていなかった。
「そういえば…」
急にプランジェは難しい顔をし始めた。
「どうした?」
「いや、電話でジブラルが話していたのだが…実はクレシェント様の初仕事なのだそうだ。その…水商売の…」
「…美容院の仕事を手伝っていたんじゃなかったのか?」
「いや、ジブラルが部屋をただで貸す代わりに水商売の真似事をさせようとしていたのだが、今日になってやっと折れたと…。うーむ、心配だ…いや、私はそんなことなど反対なのだ!どんな嫌らしい輩がクレシェント様に近寄るか…」
「杞憂に終わると思うんだが…。どうせ奴なら客の話も聞かずに飯や摘みに気を取られるだろうよ。寧ろ店の側から断られるんじゃないか?」
馬鹿馬鹿しいと紫薇は両手を挙げてソファーに座った。
「うーむ…殴り込むべきか否か…」
「…店の雰囲気を壊さなきゃ良いが」
ぶつぶつと自問するプランジェを他所に紫薇は羽月に渡されたコーヒーを啜った。
鏡に映った全身像を見てクレシェントは顔を赤らめながら何度も見直した。銀色の髪を一つに纏め、化粧はいつもより濃い目にし、アイシャドウを赤にした。ボディラインを際立たせるような黒い中国の礼服は絹素材でてかてか光っていた。
「ねえ…ちょっとスリット深過ぎない?」
滑らかな脚線美を鏡に映すと、下着が少し肌蹴てクレシェントは慌てて裾を引っ張った。
「良いじゃない、似合ってると思うわよ」
その横ではスタイリストに化粧を施されているジブラルが抑揚をつけずにいった。髪の毛はトップで纏められ、異常なまでに盛られていた。アイシャドウの色は変わらなかったが、変わりにべっとりとラメが着いていた。紫色のエンパイアドレスを着て乳房の半分近くを露出させていた。
「今日はお偉い様が来るから上物じゃないと駄目なのよ。あなたはただ黙って座ってれば良いんだから、楽なもんでしょ?」
「…でもお」
もじもじとしている間に店のボーイが慌しく声を上げた。
「梓ちゃん、椿ちゃんお願いしまーす!」
「はーい!ほら、行くわよ」
「…行きたくない」
「ホームレスになりたかったらそうしなさい。この時期の夜は堪えるわよ」
そういわれるとクレシェントは渋々スパンコールのカーテンを潜り、目がちかちかするような大広間に出た。所狭しに派手な格好をした女性と、鼻の下を伸ばす中年男性が座っている。ジャズを流して社交場の雰囲気を醸していたが、クレシェントの鼻にはどうも合わなかった。
「…ポマードとお酒のにおいがして臭い」
「客の前でそれ言ったらぶっ飛ばすわよ」
曲がりなりにもプロの根性を見せ付けるジブラルにクレシェントは圧巻されてしまっていた。ジブラルは指名された席を見付けると足早に寄り、身なりの一番良い中年男の隣に座ると甲高い声を上げた。
「お待たせしましたー、梓でーす!」
クレシェントは思わず噴き出しそうになるのを必死に堪え、ぎこちない笑顔を作りながら席の端に座った。
「待ってたよー!いやあ、可愛いねー!そっちのお嬢さんは何てーの?」
「つ、椿です」
「緊張しちゃって初々しいなあ!チャイナドレス、似合ってるよ!おじさんに、惚れチャイナ!何つって!」
「きゃー!面白ーい!」
「(もう帰りたい…)」
独特の空気に馴染めずに早くもクレシェントは泣きべそをかいてしまったが、その緊張を解いてくれたのは二十代後半といった若い会社員の一人だった。
「済みません…ちょっと前のお店で飲み過ぎてしまったみたいで…」
「あ…こちらこそ慣れてなくて済みません…」
「あはは…お互い大変ですね」
「…ですね」
クレシェントは若いのに落ち着いた人だなあと感心していた。そのお陰でクレシェントはその男性と気兼ねなく話せた。男の名前は桐嶋太一、証券会社に勤めているキャリア組の一人だった。今日は取引先の社長と接待でやって来たのだという。
「じゃあ、本当は美容院で働いているんですか?」
「ええ、と言っても見習いなんですけど…資格が取れるまでそこで現場の空気を掴んで置こうと思って」
「凄いですね、お若いのに感心します」
「まあ、お上手ですね」こんな感じかなと思いながらいった。
「いや、本当にそう思いますよ。僕は大学を出てから就職をせずにコネでこの会社に入ったんです。課長をやってますけど、それも上司に気に入られたからなんですよ。実は部下よりも仕事が下手なんてことがざらで…」
「あはは、そうなんですか?でも私は、桐嶋さんみたいな人が上司だったら良いなって思いますけど」
「ほ、本当ですか?嬉しいなあ…」
にっこりと笑った顔を見て素直な人なのだなあとクレシェントは思った。今になって気付いたが顔はどことなくデラに似ていた。
「(何だかんだでクレシェントも女なのね)」
その様子をジブラルは三人の中年を相手にしながら盗み見ていた。
どんちゃん騒ぎは夜中の二時まで繰り広げられた。会計の際、最後に良いところを見せようと会社の社長同士がブラックカードを見せびらかし、最後は取引先の社長がとてつもない金額を一括で払っていった。
「はい、私のアドレス!ちゃんと連絡してくれないと泣いちゃうから!」
営業トークでジブラルは三人の中年にど派手な名刺を渡した。
「うんー、梓ちゃん愛してるよー!」
「カミさんより愛してるー!わっはっはっは!」
「桐嶋ー、けーるぞー」
「あっ、ハイ!」
三人の酔っ払いに呼ばれ、桐嶋は慌てながらクレシェントに自分の名刺を渡した。
「その…良かったら連絡して下さい。それじゃ」
ちょっと恥ずかしそうな顔をして桐嶋は酔っ払いの背中を押しに店から離れていった。クレシェントはその名刺を眺めた。材質の良いものを使った立派な名刺だった。
「桐嶋さんか…」
「なによー、嬉しそうな顔しちゃってえ」
悪い顔をしながらジブラルはクレシェントの顔を覗いた。
「ち、違うわよ!」
「照れない照れない。ちょっとドジな好青年って感じね。良い人だと思うわよ」
「…もう手伝わないからね」
そういいながらもクレシェントは名刺を大事そうに締まった。
「あはは、ごめんごめん。でも今日の売り上げは凄いわよ、あのおやじが払ってくれたお金、売り上げの一か月分はあったわね。お陰でボーナス弾んでくれるわよ!クレシェント、河豚でも食べに行きましょ」
「河豚かあ…お腹、空いたね」
「コンビニでお弁当でも買う?」
「そうね。お酒もちょっと飲みたいかな」
「お、珍しいわね」
「ペルノー売ってないかな…」
クレシェントは時間と刺激をかけて少しずつもとの状態に戻っていった。でもジブラルは知っていた。クレシェントは寝る前に必ず紫薇から貰ったオルゴールを聴いてからベッドに潜ることを。一度だけジブラルはそのオルゴールを隠したことがあった。そのときのクレシェントの気の取り乱し様はとても見ていられなかった。やっとのことオルゴールを見付けたときのその嬉しそうな顔といったら、ジブラルは見ているだけで涙が出そうだった。どんなに外側を嘘で塗り固めても、心の奥底に根付いてしまった強い思いは取り除けなかったのだ。ジブラルはそれを傍で見てしまっているからこそ、居た堪れない気持ちになるのだった。
二人のマンションは収入の割りに狭い部屋だった。玄関の傍に台所があって、浴室がある。六畳ほどのリビングの奥の部屋は少しばかり大きめのベッドで埋まってしまっていた。そのベッドを半分に分けて二人は寝ていた。洗濯物を干す時はベッドを横切らないければいけないのが不便だったが、それでも二人には十分だった。オルゴールはベッドの上、クレシェントの枕の上に置いてあった。
今日も静かにオルゴールが鳴る。ジブラルは居間で缶ビールを呷りながらその音を聞いていた。美容院の仕事は朝が早いのでクレシェントはいつも早めに眠っていた。オルゴールの音が二週ほどするとジブラルはベッドを覗いた。横になって寝息を立てるクレシェントの姿が映る。その寝顔はとても穏やかだったが、頬はいつも濡れてしまっていた。
「よっぽど好きだったのね…。当たり前よね、あなたにとって紫薇は自分の生きる世界を変えてくれたんだもの。でもクレシェント、少しだけ…お節介させてね」
徐にジブラルはクレシェントの鞄の中から名刺を取り出すと、自分の携帯の画面を見詰めた。
それから一週間ほど経った後、仕事を終えたクレシェントは血相を変えてマンションに帰ってきた。
「…じ、ジブラル!」
非番で一日中家にいたジブラルは、お店からくすねた赤ワインを飲みながらイベリコ豚のプロシュートをかじっていた。ばたばたとしていたクレシェントにジブラルは努めて自然な口調でどうしたのよといった。
「どうしよう…桐嶋さんからお誘いが来ちゃった…」
「良かったじゃない、行けば?」
「で、でも…」
「ただ飯にただ酒、あなたの得意分野じゃない。胃に詰め込めるだけ詰め込んで来なさいよ。限界があるかどうか知らないけど…」
「無理よー!そんなの申し訳ないし、それに…それに…」
その次の一言をクレシェントは口に出来なかった。
「別に意識しなけりゃ良いじゃない。大丈夫よ、私も払いますって財布の半分だけ見せれば良いんだから」
「そういうことじゃなくて!」
「冗談よ。ねえクレシェント、偶には男と遊んで養分を蓄えないと駄目よ。純粋なのは良いけど、経験ゼロなのもちょっとねえ…処女じゃないんだから」
そういうとクレシェントは気まずそうに俯いた。
「…マジ?」
「良いでしょ、別に…」
「だってあなた前にマルテアリスって男と出来てたんでしょ!?」
「そ、それはそうだけど…そういうこととかする仲じゃなかったっていうか、ううん、本当に好きだったけど、そうなる前に…別れたっていうか…その…」
何故か顔を赤らめるクレシェントを見てジブラルは失敗したと舌打ちした。
「断ろう…」
「ちょ、待って…桐嶋って人はそんな悪い男じゃないと思うわよ?」
「まあ、それは…そうだと思うけど」
「じゃあ良いじゃない。せめて食事くらいは付き合ってあげなさいよ。折角あなたに好意を持ってくれてるんだし。しゃぶしゃぶなんて豪勢じゃない」
「…しゃぶしゃぶって良くわかったわね、ジブラル。そうなの、夜ご飯は美味しい豚肉のお店を知ってますって連絡だったんだけど…」
ジブラルはやっべえと心の中で叫んだ。
「さ、最近は寒いから…今はほら、キャバでもしゃぶしゃぶが流行りなのよ」
「…しゃぶしゃぶ?」
「しゃぶしゃぶ」
「しゃぶしゃぶ…」
ごくりと生唾を飲んだクレシェントを見てジブラルはふうと溜め息を吐いた。
「…行きますって連絡したけど、ご飯を食べたら帰って来るわ…」
「(まあ、結果オーライね…)」
「シャワー浴びて来る…」
疲れた顔をしてクレシェントは荷物を降ろすと浴室に向かった。ジブラルはその後姿を見て額の汗を拭って携帯を取り出し、アドレス帳のか行を呼び出すと慣れた手付きで文字を打っていった。
化粧台に映った銀色の髪の毛を櫛でさっさっと梳いて黒いゴムで後ろ髪を結った。パフを軽めに頬と頬骨に塗り、桜色の口紅をリップに寄せる。まつ毛は元が長いのでそのままに、アイシャドウは目元の一層だけを塗った。全体的に自然なメイクを心がけ、ちょっと緊張した顔を解そうと笑ってみると奥歯の牙が目立ったがまあ、小綺麗に仕上がった。香水を手首に塗り、しっかり擦って首筋に香りを移すとふわっとバニラの香りが立った。
「良いじゃない。化粧も上手くなったわね、始めはど下手だったのに」
「はいはい、感謝してます。ねえ、どっちが良いと思う?」
柄物の黒いブラウスと皮地のカットソーを掲げた。
「こっち」
黒いブラウスが選ばれるとクレシェントは満足そうな顔をして着替え、焦げ茶色ストッキングを足に通し、テーパードのスカートを履くとゴムを取って改めて鏡に映った自分の姿を見詰めた。
「これ使ってみる?ブランドものよ」
そういって手渡されたのは長いクリーム色のスカーフだった。
「こう?」
厚地のジャケットを羽織ってからクレシェントはそのスカーフを首に巻いて垂らした。全体的に暗めの服装にそのスカーフの色は良いアクセントになった。その姿を見てジブラルはうんうんと頷いた。
「汚さないように気を付けるわ」
「別に良いわよ、それ貰いもんだから。それより今日は楽しんでらっしゃい」
「うん、そうする。ありがとう」
クレシェントは皮の鞄を肩にかけ、ブーティを履いていってきますと玄関から出ていった。
「さてどうなることやら…桐嶋さん、上手くやってくれると良いけど」
ジブラルは心配そうに閉まったドアを見詰めた。すると閉められた筈のドアが開いて慌てながらクレシェントが帰ってきた。
「時計忘れた!」
化粧台に乗った腕時計を掻っ攫い、もう一度いってきますといってばたばたと出ていった。
「ホントに大丈夫かしら…」
尾行でもしようかなとジブラルは思ってしまった。
クレシェントは待ち合わせの場所である駅のカフェに向かいながら時計を眺めた。時刻は十四時十分。約束の時間まで二十分もあったが、桐嶋は窓際のオープン席でコーヒーを口にしていた。クレシェントは桐嶋を見付けると急に緊張し始め、人ごみに紛れて深呼吸するとお店のドアを潜った。
「桐嶋さん」
その声に逸早く気付くと桐嶋は驚いた顔をしてクレシェントを見た。
「椿さん…じゃなかった、クレシェントさんでしたよね。早いですね」
「桐嶋さんこそ未だ二十分もあるのに」
「いや、ちょっと考えこともあったので早めに家を出たんです」
そうなんですかとクレシェントは笑って桐嶋の隣に座った。桐嶋の傍には紙袋があったが中が何なのかわからなかった。
「何か飲みますか?外は肌寒かったでしょう?」
「じゃあカプチーノをお願いします」
桐嶋はウェイトレスに注文を頼むと少し恥ずかしそうにクレシェントを見た。
「今日は来てくれてありがとうございます。洋服、似合ってますね」
「本当ですか?ありがとうございます」
クレシェントがはにかむと桐嶋は指で頬を掻きながらカップで顔を隠した。桐嶋の格好は細身のチノパンに薄い水色のワイシャツの上にジャケットを着ていた。髪型はワックスでしっかり後ろに止め、大人の雰囲気をさりげなく出していた。その格好にクレシェントは自然と大人っぽくて素敵だなあと思ってしまった。
注文したものが来た所で桐嶋は話を進めた。
「どこか行きたい所はあります?なかったらちょっと面白い場所を見付けたんですけど、そこに行ってみませんか?」
「良いですよ。面白い場所ってどこですか?」
「それは着いてからのお楽しみということで」
そういうと二人は笑い合った。
コーヒーを飲みながら桐嶋とクレシェントは色々なことを話した。クレシェントはフランス人なのか?という話から始まり、好きな食べ物の話、仕事の話、お店を出てから電車に乗って、車内ではお互いの趣味を教えあった。桐嶋の趣味は山登りと美味い定食屋探しで、休日はもっぱら隠れた名店を渡り歩いているのだという。クレシェントは自分の趣味は野球で、時間の空いた日は近所の子供たちと草野球をしたり、最近では嫌がるジブラルを連れて野球観戦をしたといった。
「実は高校の時は野球部だったんです」
いわれてみれば桐嶋はがっちりとした体格だったのをクレシェントは感じ取れた。
「…バッター?」
「もしかしてクレシェントさんも?」
「そう!初めてホームランを打った時なんて感動してちょっと涙が出ちゃった」
「その気持ちわかるなあ…走らなきゃいけないけど、空に飛んでいったボールをいつまでも眺めていたくなりますよね!」
「そうそう、その時の青空が清清しいくらい綺麗で、野球をやってて良かったななあって思います」
熱が入って周りのお客にくすくすと笑われると二人して顔を赤らめながら俯いた。そのときに目的の駅に着いたようで桐嶋は慌ててクレシェントの腕を引っ張った。
その駅は普通と違って改札口に駅員が切符を受け取る小さなものだった。二人は切符を渡して駅を出ると道成りに進み、五分ほど歩いたところで目的の場所に続いている入り口を見付けた。そこで桐嶋はさっと会計を済ませると、クレシェントに先に進むように促した。
クレシェントが歩いてみると、両脇から桜色に似たコスモスの花がぶわっと咲き並び、緩やかな斜面が広がって辺り一面に明るい秋模様が描かれた。その景色見ているだけでクレシェントの顔は和らいでいった。そうしているとその秋模様の中から元気な子供の声が響き渡り、聞き慣れた音と共に白い豆粒が空に向かって飛んでいった。
「あ、ホームラン!」
コスモスに囲まれたグラウンドでは小学生位の子供たちが野球の試合を行なっていた。短い手足を懸命に動かしている様は見ていてとても心地よいものだった。
「色々考えたんですけど…知り合って間もないのに本格的な場所はちょっとなあって思って…。ここならクレシェントさんも落ち着けるかなって思ったんです。面白くなかったらごめんなさい」
やっぱり駄目だったかなあなんて愚痴を零す霧島を見て、クレシェントはにっこりと笑うと桐嶋の腕を引っ張ってもっと近場で見ましょうといった。そういうと安心したように桐嶋は口角を緩ませ、二人してフェンスに近付いて子供たちの野球を食い入ったように観戦し、どっちのチームも応援した。
試合は珍しいことに引き分けで終了した。九回裏まで続けられ、それでも決着が着かず夕焼け雲が出てしまったからだった。クレシェントは少し残念そうにしながらも今日は引き分けで良かったかもと桐嶋にいった。すると桐嶋も僕もそう思いますといって二人は笑い合った。
帰りの電車に乗りながら二人はまた野球の話で盛り上がった。打率を上げるにはどうしたら良いのかとか、投げられたボールの見極め方とか、お互いにアドバイスをし合ったりもした。もとの駅から降りると、クレシェントのお腹が上手い具合に鳴って、クレシェントは顔を真っ赤にすると桐嶋は笑いながら、じゃあお店に向かいましょうといった。
すっかり空が真っ暗になると二人は豚肉の美味しいと評判のしゃぶしゃぶ屋に入っていった。そのお店は落ち着いた和風の作りだったが、メニューに載っていた金額はとても普通のサラリーマンがおいそれと来れるような所ではなかった。案内された部屋も完全な個室で、壁に施されている飾りは豪華なものだった。桐嶋はそのことに物怖じさせないように、今日は奮発しちゃいましたと優しくいった。
「クレシェントさんは良く食べる方なんですか?」
さり気ない質問だったがクレシェントはどう答えるべきかと迷い、お腹が空いているときはとても沢山食べますといった。
「今日は食べ放題にしましたから、お腹いっぱい食べて下さい」
「じゃあ…お言葉に甘えて」
恥ずかしそうにいうと桐嶋は小さく笑った。
和服姿の店員がやって来ると桐嶋は予め考えて置いたコース料理を伝えた。
「何か飲みます?僕は生中を」
「私は…小さい生を一つお願いします」
桐嶋が注文すると丁寧にお辞儀をして店員は部屋から出ていった。
「クレシェントさんはお酒は飲まれる方なんですか?」
「最近は割りと飲めるようになって来ました。でも前はカクテルで酔っちゃう位だったんです」
「僕も苦手だったんですけど、ほら…仕事の付き合いとかで無理に飲まされるでしょう?それでいつの間にか耐性が着いたんですよ」
「証券会社の仕事ってこの間みたいな接待が多いんですか?」
「ええ、基本的には他の会社や法人との契約が主なので人脈関係が一番なんです。勿論、他の仕事に関しても同じことだと思いますけど、うちの会社は役員の人たちが古い人間ばかりだから、ちょっとでも機嫌を損ねただけで大変なんです。取り扱っている金額も決して安くないですし」
説明を終えたところで先ほどの店員がお盆の上に冷えた生ビールを乗せて帰ってきた。慎重に両手を使ってグラスを二人の前に置いてまた深々と頭を下げた。
「乾杯しましょうか」
「そうですね」
二人はちょっと照れながらグラスの縁を軽めにぶつけ、黄金に光ったビールを喉に流した。きんと冷えたビールはこの上ないほど美味だった。
「んー、美味い!」
そういったのはクレシェントだった。桐嶋もそれに続いてジョッキを飲み干すと軽快な声を上げた。
「あーっ!美味い!」
あははとクレシェントが笑ってみせると桐嶋も笑ってみせた。
ビールを飲み始めると二人の前に出汁の入った鍋が乗せられた。中は鉄の板で区切られ、昆布の出汁と辛めに味付けされた出汁が入っていた。次に秋の味覚に相応しい野菜が盛られた皿が差し出され、最後に何枚も重ねられた肉が飾られた漆塗りのお皿が運ばれた。二人はビールのお代わりを頼むと箸で好きな具材を摘み、さっと出汁に晒して口の中に運んでいった。
「しゃぶしゃぶってこんなに美味しいものだとは思わなかったです」
「良かった。遠慮しないでじゃんじゃん食べて下さい」
「喜んで」
高いお肉とはこんなにも味が違うものなのかとクレシェントは舌鼓をしながら次々と肉を掻き込んでいった。野菜も鮮度から違い、味の密度が濃いような気がするとまた箸が止まらなかった。途中で白米を注文して二合、三合と最終的に一人で六合の米を食べてしまった。桐嶋も野球生活で大食いになっていたが、クレシェントの比ではなかった。桐嶋の胃が限界に近付いてもクレシェントはまだ余裕の表情で食べ続け、桐嶋は感心しながらその食いっぷりを眺めていた。
「魚沼産のお米って本当に贅沢な味ですね」
お碗に残った米粒を口に入れると満足そうに箸を置いた。
「こんなに食べる人初めて見ました。もっと頼みますか?」
「あ、いや…今日はちょっとこれで…」
まだ腹六分といったところだったが流石に自重した。頼んでいた白ワインを飲み干すと桐嶋はボトルを手に取って飲み口を向け、もっと飲みますかと合図した。
「頂きます」
お酒も上手い具合に回ってほろ酔いになっていた。頬が熱く感じるとクレシェントは手の平で熱を冷ましながらグラスを傾けた。
お互い会話のネタを出し尽くし、少し静かになり始めた頃、桐嶋は徐にいった。
「…クレシェントさんは、付き合っている人はいないんですか?」
「つい最近に振られたばっかりです」
「そうだったんですか、すいません…」
「気にしないで下さい。私の…独り善がりみたいなものでしたから」
クレシェントは指先でグラスの縁をなぞりながらいった。それっきり会話が続かず、桐嶋はお手洗いにいってくるといって会計を済まし、頃合を見計らって部屋に戻ってきた。
「そろそろ出ましょうか」
「…そうですね。お店の人を呼ばないと」
「もう済ませましたから大丈夫ですよ」
「え?そんな、悪いです…!」
しまったとクレシェントは思いながらバッグに手を伸ばした。
「良いから良いから。それより、酔い覚ましにちょっと散歩でもしません?」
そういって桐嶋が先に部屋から出ていくと、クレシェントはいよいよこのときが来てしまったと身構えてしまった。どう断ろうとかと考えていたが、結局その考えは浮かばずに桐嶋に付いて行きながら海辺のベンチに辿り着いた。
「風が気持ち良いですね」
クレシェントは手すりに肘を着きながらいつ誘われるのだろうと内心どきどきしていた。しかし桐嶋が口にしたのは思いもよらない一言だった。
「…今日は済みませんでした」
「え?」
何故、謝るのだろうと思っていると桐嶋は事の真相を話し始めた。
「実は…今日誘ったのは、ジブラルさんから頼まれたからだったんです」
「…ああ、それで」
通りで最初のデートが野球に繋がる訳だとクレシェントは納得した。
「でも断ろうと思えば断っていました。クレシェントさんを何だか騙すみたいで気が引けましたから…」
「…野球が好きってことも合わせてくれたんですか?」
「確かに高校生の頃は野球部でしたけど、取り分け好きという程では…」
ばつが悪そうに桐嶋は俯いた。どうして今になってそんなことを口にするのだろうとクレシェントは少しむっとしてしまった。
「接待が上手いと口もお達者になるって本当ですね」
「…そのことは謝ります。でも!」
そういって桐嶋はクレシェントの肩を握った。
「貴女が好きだということまでは嘘じゃない。ジブラルさんに言われなくてもいつか言おうと思っていたことなんだ」
「そんな…たった一目見ただけで決められても…」
「一目惚れじゃ駄目か?」
じっと見詰める桐嶋の瞳には嘘の色はなかった。クレシェントはその思いの真実を知ると桐嶋から目が離せなかった。
「あのお店で一目見たときからずっと貴女のことばかり考えていた。でも自分から誘おうとする勇気が出ずに…だから今、俺の気持ちをちゃんと知って欲しい」
クレシェントの胸がきつく締められたように音を立てた。
「好きだ」
混じりのないまっすぐな言葉がクレシェントの心と脳を揺さぶった。飾り気のない無骨な告白の後に桐嶋はクレシェントを抱いた。それはどうしようもないほど切なく、傷付いたクレシェントの心を埋めるには十分だった。
確かにこの人は嘘を吐いた。でもその嘘をちゃんと打ち明け、謝った。その上で自分の本心を告げたのだ。ああ、水気のない地面が潤される。ジブラルがいっていた養分とはこのことだったのだ。体中が満たされる。桐嶋の匂いが心地よい。このまま両手を彼の背中に回せばきっともう何もいらなくなるだろう。
「嘘を着いたことはこれから先、ずっと償います。だから俺と付き合って下さい」
「…桐嶋さん」
波の音が静かに鳴った。クレシェントはぶら下げていた手をゆっくりと上げながらいった。
「もし私が嘘を吐いたらどうしますか?」
半ばクレシェントは期待しながらいった。
「…許します。嘘を吐いたのは俺が先だ」
その言葉を耳にするとクレシェントはふふっと笑いながら手の平を桐嶋の胸に寄せた。
「…クレシェントさん?」
その笑みに桐嶋は驚いた顔をした。クレシェントは手の平に力を入れて桐嶋の体を押すと二人の体は離れていった。
「貴方の気持ち、本当に嬉しい。嘘を正直に話してくれたから」
「じゃあ…」
「でもご免なさい…。私、やっぱりまだ諦められないみたい」
そういいながらクレシェントは頬を濡らした。
「私が好きになった人は、もし私が嘘を吐いたら決して許さない。その罪を背負いながら生きろって口にするの」
桐嶋は何をいっているのかわからず、呆然としてしまっていた。
「その人が振り向いてくれなくても良い。ただ私がそうしたいからそうするだけ。だってその人、ずっと見ていないと危なっかしいから…子供なのよ」
やっとクレシェントは踏ん切りがついたと思えた。ある意味このことが自分にとって償いのようにも感じたのだ。
「なら貴女の幸せはどうなる?誰が貴女を救えるんだ」
「…誰も救えやしないわ。それは貴方であっても同じことよ。貴方が私に嘘を吐いたこと、この事実が組み合わない理由なの。だから諦めて」
「だ、だけど…」
「ありがとう。貴方は本当に優しい人よ。でも覚えて置いて、優しさだけがその人の為になる訳じゃない。嘘を吐いたり、誰かを傷付けることがその人の助けになることもあるの」
クレシェントは桐嶋の頬に手を寄せ、嗜めるようにそう口にすると最後にさよならといってその場所を離れていった。桐嶋はまるで魂が抜かれてしまったかのようにじっと暗い海を見詰めてしまっていた。
「…う…くっ…ううっ…」
海辺のベンチを離れてからクレシェントはずっと我慢していたものを吐き出すように泣き出した。あのまま抱かれていた方が幸せだったのかもしれない、どうしてあんなことをいってしまったのか。そんな葛藤が今になってクレシェントの心を揺さ振ってしまっていた。クレシェントはわんわん泣きながら歩いていった。
「馬鹿ね、私って…」
目を真っ赤にしながら家路に向かう。涙がまだ止まらなかった。その途中でこんな顔はジブラルには見せられないと途中でコンビニに寄って化粧を塗り直し、しっかりもとの顔を装ってからマンションに辿り着いた。
エレベーターに乗って七階で降りてから部屋の鍵を取り出し、玄関の前に立つと部屋の明かりが点いていた。まだ起きてるのかなと思いながらドアノブを回すと、そこにはいつもジブラルが履いているミュールがなかった。代わりに男物のモカシンが置かれている。クレシェントはその持ち主が誰か検討もつかなかったが、靴を脱いでリビングに出ると、その持ち主の正体を知って愕然とした。
「…し、紫薇?」
そこに座っていたのは紛れもないずっと顔を合わせもしなかった紫薇の姿だった。しかし様子が以前と違う、いや、初めて紫薇と出会った時のような、敵意を剥き出しにした表情でクレシェントを睨んでいた。
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