55話 ほろ苦い味がいつまでも

 静まり返った博物館に一人の紳士が寝そべっていた。ぐうぐうといびきを立てながら眠っている。その紳士の頭を土色のブーツの先っぽが小突いた。するとすぐにその紳士は目を薄っすらと開けてブーツの持ち主を見上げた。

 「おや、大将」

 「いつまで寝てんだ、さっさとずらかるぞ」

 薄いベージュの飛行艇乗りが着そうな服を着て、中に真っ赤なネクタイを締めていた。底の硬そうなブーツには土が沢山ついていた。ゴーグルをすっぽり被り、四角いサングラスに立派な口ひげが特徴的だった。

 「もう少し寝かせて下さいよ。これでも私、超過勤務で疲れてるんですから」

 「協会がガサ入れを始める前に身を隠さないと尻の毛まで抜かれちまうぜ。それでも良いならそこで豚箱にぶち込まれるまで寝てるんだな」

 「わかりました。私の体にぴったり合うような牢屋もないでしょうしね」

 「そういうことだ。飯も臭えだろうしな。…立てるか?」

 手を差し伸べるとニレグレゴリーノはその手を掴み、よっこいしょと立ち上がった。体の怪我よりも服の汚れの方が気になるようで何度もハンカチで叩いた。

 「俺はこれから若い連中を連れて仕上げを始める。お前は国に帰ってもとの仕事に戻ってくれ。これから忙しくなるんだからな」

 「名簿の作成、機材や食料の搬入、危険物の手続きまでああ忙しいことです」

 「まあ、その辺りは俺らの専門外だ。上手いことやってくれ。下手をこけば王様に叱られちまうからな」

 がははと笑ってその人物はくるりと背中を向けた。ニレグレゴリーノはその背中を見るとやれやれと溜め息を吐いて、折れた足を引き摺りながらその場から去っていった。



 クレシェントは眠りながら誰かに見詰められているような感覚がした。以前、紫薇が眠るものも眠れないといっていたことが今ならわかるだろう。でも不思議と悪い気はしなかったのだ。ゆっくりと目を開けるとそこにはばつの悪そうな顔をした女がじっと見詰めていた。クレシェントはその女の顔を見ると笑ってみせた。

 「…人の顔を見て笑わないでくれる?」

 「ご免なさい。でも何だか嬉しくて…」

 「嬉しい?何がよ」

 「ううん、やっぱり何でもないわ」

 「変な性格ね」

 そういうとクレシェントは紫薇に似てるなあと思い、また笑った。

 「体は…もう良いの?」

 「平気、もう起き上がれるわ」

 よいしょといいながらクレシェントは体を起こした。

 「あ…」

 その途中で思い出したように慌てて顔を隠したが、手が頬に触れるともとの姿に戻ったことに気付いて安堵の息を吐いた。

 「…私が大人しくしていたら、あなたが苦しむこともなかったでしょうね」

 ジブラルは物寂しげな顔をした。

 「…良いのよ、これが私の償いだから。それに、貴女とこうしてお話が出来て良かった。本当はね、もっと早くにこうしたかったの」

 「どうして?」

 「貴女と初めて会ったとき、きっと同じ悩みを持っているってわかったから。決して許されない罪を背負った人間が生きていくには、普通の人よりも支えが必要だから…。正直に言うとね、一人じゃ心細かったからなのよ。ジブラル、貴女ならそれがわかるでしょう?」

 ジブラルは黙って頷いた。

 「一緒にいきましょう。いつかこの身が滅びるまで」

 再び頷いた時にはジブラルはぽろぽろと涙を零していた。

 「ありがとう、ごめんなさい…」

 クレシェントの腕の中でそういいながらジブラルはまたわんわんと泣き出し、クレシェントはそっと抱き寄せてジブラルの頭を優しく撫でた。その様子はまるで母と子のようでもあり、また気の許せた友のようでもあった。



 「…本当に大丈夫ですか?」

 紫薇は二人の荷物を持ちながら怪訝な顔で羽月の顔を見た。羽月はにっこりと笑ってみせたが額にはまだ包帯が巻かれていた。長かった髪の毛は数センチほどの長さになってしまっていたのでエクステで隠し、ボブカット程しかなかった。

 「もう退院しても良いってお医者様からのお許しが出たから大丈夫ですよ」

 「しかし後遺症が現れなかったのは奇跡だと言っていたな。いや、日頃の行いの賜物と言ったところか…」

 「私よりもプランジェちゃんの方が心配です。抜糸が終わるまでは出来れば入院を続けて下さいって言われていたのに…」

 「心配には及ばん。私の体はそんなに柔ではないのでな。それにいつまでも入院を続けていたら、金がかかるとあーだこうだと五月蝿い輩も出て来るだろしな」

 ちらりとプランジェが紫薇に視線を送ったが、紫薇はさして気にしていなかった。しれっとしたまま明後日の方向を向いている。しかしその表情も羽月の一言で崩れてしまった。

 「まあ、そんな人がいたら叱ってあげます」

 「…………………」

 プランジェが隠れながらほくそ笑むと、紫薇は嫌な性格だといわんばかり視線を投げた。するとプランジェはお前にいわれたくはないと睨み返した。

 「そうだ、退院のお祝いに皆でパーティでもしませんか?」

 「別にそこまで大事では…」

 「あ、紫薇くん酷いです」

 「そうだそうだ」

 「いや、そうではなくて…(プランジェ、後で覚えてろ)」

 「じゃあ今から買い物に行きましょう。紫薇くん、荷物はお願いしますね」

 そういって羽月はプランジェを連れてそそくさとスーパーに向かった。紫薇はその後姿を見て溜め息を吐いたが、ふと赤縞には世話になってばかりだなと思い出すと、公衆電話からお屋敷の電話番号を押した。

 そうして羽月が持ち出した退院のパーティはその日に行なわれた。パーティといっても少しばかり豪勢な食事会といったところで、リビングには所狭しと料理が並べられた。赤縞家の面子からは赤縞だけがやって来ていた。仁衛門も誘ったのだが、若者の席に年寄りがいては話が冷めると辞退されてしまった。だが赤縞が人の家に招待されたことがよっぽど嬉しかったのか、電話越しにその喜々とした声を紫薇は聞いた。他に榊原が赤縞と一緒にやって来て、紫薇は他の連中も誘えば良かったかなと思ったが、一度にそんなに入れないなと思って止めた。

 「じゃあ乾杯しましょうか」

 羽月の短い慶事の後に一同は手に持っていたコップを高々と掲げた。

 『乾杯!』

 グラスの心地よい音が鳴ると、一同はそれぞれに料理に手をつけたり、話をし始めた。クレシェントは会話よりも食事を貪るように口に入れ、ジブラルはお酒はないのと愚痴を零し、羽月と榊原、プランジェは料理を賛辞し合った。それから女性陣はクレシェントを除いて女子の会話を始めた。赤縞と紫薇はそんな女性特有のオーラに着いていけず、ただ黙ってソファーに座りながら料理を摘んだ。

 「…どういう家庭状況だ、女の率が高過ぎんだろ。息詰まらねえか?」

 「余り意識したことはなかったな。一人は子供だし、もう一人は見ろ」

 そういって赤縞は紫薇が指差した方を見た。そこには料理やスナックを吸い込むようにして食に走るクレシェントの姿があった。しかも食べ方がやや汚かった。

 「フランス人はもっと優雅なもんだと思ってたが…」

 「仏人なのか?あの女?」

 「何パーセントかはな」

 「ならあの女は?」

 赤縞はジブラルを顔で指した。

 「…イタリアっぽいな」

 「伊人か…あの餓鬼は?」

 緑茶を口付けるプランジェを見て紫薇はいった。

 「ドイツ…いや、日本?まさかな…」

 「あー…」

 いわれてみればと赤縞は思った。

 「まあ、何れにせよただのイメージだ。深い考察は入らないさ」

 「まあな」

 一頻り料理を口にしたところで赤縞は聞こうと思っていたことを尋ねた。

 「これからどうするつもりだ?」

 「何をだ?」

 「武器もねえ、あっちの世界の力も使えねえこの状況で、これから先どうやってやっていくつもりだ?ポン刀ならくれてやれるが、やっとうだけじゃゾラメスみてえな化け物に対抗できねえだろ」

 「…さてね、どうしたものか。一つの問題は終わったが、実際のところ…わからない。戦う術もそうだが、これから何が起こるのか検討もつかないからな」

 「…余裕、なさそうだな」

 「…ああ、こうして馬鹿をやっていることが何よりも不安だ。いつ今回みたいなことが起きても不思議じゃない。早いところ、代わりになるものでも見付けなきゃな」

 紫薇はソファーに凭れかかってリカリスの言葉を思い出していた。そしてデラの死やクレシェントの生みの親のことなど、まだ解決に向かっていない問題に頭を悩ませた。紫薇は力を失ったことで不安にならずにはいられなかったのだ。

 「まあ、あれだ…暇なときになら手伝ってやんよ」

 赤縞は顔を背けながらいった。

 「ああ、扱き使わせて貰うよ」

 そういって二人は静かに笑い合った。が、その二人の肩に後ろから凭れかかったのは顔を赤く染めたジブラルだった。

 「なぁに男同士でくっちゃべってんのよ、ホモじゃあるまいし」

 「…酒臭いぞ」

 権兵衛の特性がなくなり、嗅覚が弱まって良かったと紫薇は思った。

 「良いでしょ別に。紫薇、あなたも体はオトナでしょ。ぐいっとやんなさい」

 「身分は高校生なんだがね…」

 「おー、なら一杯貰ってやんよ。酌をしな」

 「ん?あなたは話がわかるわね。じゃあほら…」

 そういってジブラルが赤縞にコップを渡してコニャックを注いだ時だった。赤縞に冷たい戦慄が降り注がれ、赤縞はしまったという顔をした。

 「勇璃?あんた酒は止めたって言わなかったっけ?」

 般若の形相をした榊原がじっと赤縞を見据えていた。その迫力に思わずジブラルも引いてしまっていた。

 「暴力沙汰の次は酒?好い加減にしてよもう!これ以上、補導されたら迎えに行かないからね!あたしゃ恥ずかしくて世間様に顔向け出来ないよ!」

 「お、おォ…」

 絞られる赤縞の様は何とも間の抜けたものだった。

 「…ある意味あれも母性かしら?」

 「…そうだな」

 赤縞がこってりと叱られた後、パーティは夜の八時まで行なわれた。

 「ご馳走様でした。羽月さんのお料理、とっても美味しかったです」

 「お粗末さまです」

 玄関で赤縞と榊原を紫薇は羽月と見送った。

 「また明日ね、絵導君!ほら勇璃、ちゃんと挨拶しなさいよ」

 「…おー、またな」

 そっぽを向きながら赤縞がそういうと紫薇は同じ言葉を口にした。

 「ふふ、あの二人…何だか親子みたいですね」

 ドアが閉まると羽月は自分のことのように嬉しそうに笑った。

 紫薇は羽月と一緒に静まった宴会の後片付けを始めた。後の三人は好きなだけ食べたり飲んだりすると、さっさと眠りに着いてしまっていた。三十分ほどかけて部屋の掃除を終わらせ、残った洗い物を紫薇は羽月の隣で手伝った。

 「羽月さん、後は俺がやって置きますからもう休んで下さい」

 「いいえ、これもお仕事ですからきちんとやらせて頂きます」

 そういうと紫薇は困った顔をして笑った。

 「…羽月さんが退院できて本当に良かった」

 紫薇は皿を洗いながら羽月に顔を向けずにいった。

 「羽月さんが入院していたときは死んでしまうんじゃないかって…とても恐かった。医者の話を聞いた時なんて気が気じゃない。もう…あんなこことはしないでくれ」

 食器を磨いていた手を止めて紫薇は懇願するようにいった。しかし返ってきた言葉は紫薇の予想だにしないものだった。

 「…他の人は構わないのに?私だけは駄目なの?」

 「当たり前だ。貴女は、とても人を傷付けられるような人じゃない。ましてや…」

 「私だって…!私だって君に何かしてあげたいの…そうじゃなかったら、あんな無茶な事なんてしないわ…」

 羽月の顔は今にも泣き出しそうだった。

 「でも俺は貴女に傷付いて欲しくない…」

 「どうして?私が足手まといだから?」

 「そうじゃない!…貴女は、俺の…」

 そういいかけた途端、舌が止まってしまった。ここから先の言葉を述べるのが恐い、もし受け入れてくれなかったらと思うと紫薇は口を動かせなかった。

 短くも長い沈黙の後に、紫薇はやっと口を動かした。いや、そうではない。気付けば紫薇は自分の気持ちをしっかりと相手に伝えることが出来ていた。

 「俺にとって、一番大事な人だから…俺が好きな人に、傷付いて欲しくない」

 驚いた後に羽月の目が一瞬、潤んだ気がした。でもその顔は何かを拒むかのように横を向いて、羽月は何もいわずにその場から去ろうとした。紫薇は頭よりも先に体が動いていた。背中を向けようとした羽月の手を掴み、少しだけ乱暴に抱き寄せた。

 「…駄目よ」

 羽月は抱き寄せられて拒みもせず受け入れもせずそう口にした。

 「こんなこと…許されないわ…」

 「俺は貴女の気持ちが知りたい。子供だからとか、仕事だからとかじゃない…貴女が俺を好きでいてくれるか知りたい」

 紫薇はまっすぐに羽月の目を見詰めながらいった。とても綺麗な目だと紫薇は思った。優しい、それでいてしっかりと自分を見てくれる強い眼差し。紫薇はその目を見ながらゆっくりと顔を近付けていった。初めてそこで羽月は手を紫薇の胸に当て、ほんの少し抵抗してみせたが、唇が触れると力は徐々に弱まり、羽月はその手を紫薇の背中に回した。胸が苦しい。息が止まったかのような苦しみも今は喜びでしかなかった。柔らかな質感が熱を伝って頬を染める。長い口付けの後、二人はお互いの気持ちに浸るように見詰め合い、もう一度キスをした。

 不幸にも二人の愛が交わる瞬間をクレシェントは見てしまった。喉が渇いて水を飲もうと台所に向かったのがいけなかった。音を出さないように隠れ、目を真っ赤に染めながらクレシェントは寝室に戻っていった。わかっていたことだった。それでも実際に思いがぷっつりと切れてしまうと、クレシェントは涙を止められなかった。不思議と泣き叫ぶような悲しみよりも、じっとりとした惨めで居た堪れない感情がクレシェントを覆った。部屋の中にジブラルが眠っていたせいもあるだろう。クレシェントはちり紙を取って静かに嗚咽を漏らした。ジブラルはそんなクレシェントの様子を悟られないように見守っていた。

 「…ねえ、クレシェント」

 一時間ほど経ってからジブラルは徐にいった。クレシェントは顔を向けずに耳を澄ました。

 「私と一緒に住まない?少し離れた場所だけど、マンションを借りようと思ってるのよ。…返事はいつでも良いわ。それまでベッドは買わないから。おやすみ」

 それっきりジブラルが喋ることはなかった。クレシェントはベッドに戻らず、一夜を通して椅子の上に座っていた。


 次の日になってジブラルは紫薇に家から離れることを説明した。

 「前に夜香街ってところで仕事を紹介されたのよ。水商売の話だったけど、給料もそれなりに良いからそれで食い繋ぐつもりよ」

 「ジブラル、本気か?」

 半ば驚いた顔をしてプランンジェはいった。

 「私は穀潰しになるつもりはないわ。自分のことは自分で面倒を見なきゃね」

 「お触りは禁止のところにして下さいね」

 「尻の一つや二つ触らせただけで万札が貰えるなら平気よ。流石に体を自由にさせるつもりはないから心配しないで頂戴」

 「…メディストアが聞いたら怒り狂いそうだな」

 「キャバを永久職にするつもりはないわよ。ババァになったら誰も寄り付かないしね。昼職に就けるまでの繋ぎだってば。落ち着いたらメディストアにもちゃんと会いに行くわよ」

 そういうと感心したように紫薇は頷いた。

 「じゃあそろそろ出かけるわ。落ち着いたら連絡するから」

 「…待って」

 ジブラルの思った通り、クレシェントが名乗りを上げた。

 「私も…ジブラルの住まいに移っても良い?」

 「…ク、クレシェント様!?」

 突然のことにプランジェは困惑した様子だった。

 「別に良いわよ。その代わり仕事をちょっと手伝ってね」

 「随分と急な話だな」

 意外な顔をしていった紫薇の顔を見ると、クレシェントは悟られないように笑ってみせた。

 「…ずっと考えてはいたの。いつまでもお世話になる訳にはいかないし、私も仕事を見付けないと…お金がないとご飯も食べられないからね」

 あははと笑ってみたがクレシェントは上手く笑えなかった。その微妙な変化を羽月はもしやと思ったが、とても口には出来なかった。

 「では私もお供致します」

 「あ、お子様はご遠慮させて貰うわ」

 「何だと!?」

 腹を立てたプランジェよりも驚いたのはクレシェントだった。しかしジブラルは何か考えがあるようで、クレシェントに目で合図をして黙らせた。

 「子供は大人しく厄介者になってなさい。あなたがこっちに来たら邪魔なのよ。それに部屋だってこの家みたいに広くないの。諦めなさい」

 「クレシェント様…」

 「大丈夫よ、そんなに離れてる訳じゃないからいつでも会えるわ」

 「そうそう、二駅しか離れてないんだから。大人になりたいなら親離れから始めないとね。それとも子供のままの方が良かったかしら?おちびさん」

 「な、嘗めた真似を…良いだろう、ならばその親離れとやら、やってみせようではないか。見ているが良い、ジブラル。クレシェント様、暫しお傍を離れますがお許し下さい。このプランジェ、立派な大人になってみせます」

 「ちょっと違うんだけどなあ…」

 クレシェントは苦笑いした。

 二人が家を出て行った後にプランジェは寂しそうな顔を見せたが、頑張るぞと握った拳を前に突き出して部屋の掃除を始めた。紫薇はそんなプランジェの姿を見て大したもんだと感心したが、普段と少しだけ雰囲気の違ったクレシェントの表情を思い出していた。



 「…どうしてプランジェを断ったの?」

 クレシェントは歩きながら不安そうに聞いた。

 「半分は嫌がらせ。もう半分は何かあったときの為に残らせたかったからね。だって紫薇、もう戦えないんでしょう?」

 そういうとクレシェントは黙って頷いた。

 「これから先、私とあなたが紫薇の分まで戦わなきゃならないわ。私は兎も角、そんな顔したままいられても困るのよ。化粧して隠したつもりみたいだけど、酷い顔よ、クレシェント…」

 交差点の信号が赤になると二人は立ち止まった。するとクレシェントは顔を隠すように俯いて、声を殺しながら泣き始めた。

 「あなたね、こんなところで泣かないでよ…」

 「ご免…」

 「まあ、良いけどさ…」

 ジブラルは信号が青になっても渡らずにクレシェントが泣き止むまでずっと立ち尽くしていた。その間に何人かの通行人が二人を不思議そうに眺めたが、ジブラルは関心なさそうにそっぽを向いた。

 二人が信号を渡ったのはそれからだいぶ時間が経ってからのことだった。ジブラルが気晴らしに海を見に行こうといい出したので、二人は海の見える公園を目指し、ベンチに座って体を休めた。

 「ん」

 傍にあった自動販売機で買った缶コーヒーを手渡した。

 「ありがとう。…あったかいね」

 「もう秋だからね。恋も漫ろになるわ」

 そういうとジブラルは座って足を組むと缶のエスプレッソを啜った。

 「…正直、あなたと紫薇は出来てるって思ってたわ。だって相性ぴったりじゃない、くっ付かない方が可笑しいわよ」

 「そう…かな?」

 クレシェントはコーヒーに手を着けず、缶を両手で握った。

 「どこで間違ったのかしらね。…色仕掛けでも使った?」

 「…止めてよ、羽月さんはそんな人じゃないわ」

 「あなたもほとほと人が良いわよね。呆れるくらいだわ」

 はあと溜め息を吐いて缶を飲み干した。

 「ねえ、どうして紫薇が良かったの?命を救ってくれたから?」

 「それもあるけど…」

 クレシェントは紫薇と出会ったときのことを思い出しながらいった。

 「初めて私に、苦しめ(生きろ)って言ってくれたから…かな…。あんな風に言われたことなんて一度もなかった」

 ずきりと心臓のすぐ傍が痛んだような気がしてクレシェントはぎゅっと缶を握った。

 「酷い告白もあったものね」

 そういうとクレシェントは苦笑いした。

 「忘れろ、なんて言わないけど…今は考えるのは止めましょう」

 ジブラルは立ち上がると傍にあったごみ箱に缶を投げた。

 「喚いても叫んでも、少しずつ整理していくしかないわ。それがどんなに辛いことでもね」

 「…うん」

 やっとクレシェントは口角を緩ませられたがその笑みは寂しげだった。

 「さっ、行きましょう。早いとこ部屋の契約しないと。良さげな賃貸があるのよね。…じゃないと二人揃ってホームレスよ」

 「そういえばお金あるの?」

 「三十万ほどね。おじ様に貢いで貰ったお・か・ね。これで美味しいもの食べて、可愛い家具でも買いましょ。あ、ベッドは二つも部屋に置けないから大きいのにするわよ、良いわね?」

 「…ええ」

 クレシェントはすっかりぬるくなってしまった缶コーヒーを飲むと、口いっぱいに甘苦い味が広がった。潮風の匂いが鼻をくすぐると、クレシェントは少しだけ目を潤ませたがそれでも自分の力で立ち上がり、地平線に移った紫色の空を見詰めた。傍に立っていた街灯がちらちらと点る。ポケットの中に入れて置いた銀色のオルゴールが仄かに音を立てたような気がした。

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