54話 とける心臓

 ぼたぼたと真っ赤な雫が落ちて床に血溜まりが広がった。折れた出刃包丁の先を床に押し付け、赤縞は荒い息を吐きながら持ち手に縋り付いた。体には裂傷、切り傷、火傷や刃創、銃弾を受けたような傷まであって酷い姿だった。片方の角はもげ、そこから流れた血で赤縞の目から出血しているようだった。それに比べてゾラメスは極めて冷静な顔付きで赤縞を見下ろしている。

 周りの景色は粉々に破壊されていた。海岸の破片が辺りに散らばり、薄暗い空間の中に黄金のリングが一際目立って輝いていた。その中には冷めた表情のジブラルがいて二人を呆然と見詰めているのだった。

 「…赤縞!」

 赤縞とゾラメスが無言で睨み合う中、ほの暗い空間に紫薇が足を踏み入れると、赤縞はどっと深い溜め息を吐いてふらふらと紫薇に近付いていった。ゾラメスはそんな隙だらけの赤縞を見ても特に何をする訳でもなく、黙ってその様子を見守った。

 「遅えんだよ…」

 ずるずると折れた斧を引き摺って赤縞は紫薇の傍を通り過ぎていった。その際に紫薇に人肌のものを押し付けた。

 「腕の一本は取ってやった。後はてめえが何とかしろ」

 紫薇が受け取ったのはか細い女の腕だった。力任せに捻じ切ったのか、二の腕からは折れた骨が突き出てしまっていた。紫薇はゾラメスに目を向けると、確かに二の腕はもげてしまっていた。紫薇は困惑した顔で後ろを見ると、ちょうど赤縞が斧を乱暴に放り投げ、壁に凭れかかって腰を下ろしたところだった。

 「…ご苦労」

 紫薇はゾラメスの腕を持ったまま顔を前に戻した。

 「まさか奴までとち狂った格好をし始めたとはな」

 リングに目をやると、ジブラルと目が合ったが彼女は取り分け気にしていないようだった。紫薇は挑発するかのようにゾラメスの右腕を振り回しながら話を続けた。

 「趣味の悪いものをお持ちで、ゾラメス。それともナーガの住人は揃いも揃ってセンスがないのか?芸術家が聞いて呆れる」

 「私は一度も自分を芸術家だと思ったことはありません。ただ内なる美意識に身を任せ、筆や道具を走らせただけ。絵画も彫刻もいつだって私を満たしてくれた。そんなとき、ふと目覚めたのは筆や道具に頼らずに自らの感性そのものを曝け出す術でした。素晴らしいでしょう?響詩者というのは」

 ふふふと笑いながらそう語りかけるゾラメスの顔を紫薇はまるで病人だと思わずにはいられなかった。

 「二人でそう、永遠を誓いながら全てを分かち合った。感性も美意識も、二人のレゾンデートルでさえも共有した。でもあるときを堺に私たちは離れ離れになることにした。はあ、悲しい…。リネウィーン、貴女は僕を愛してくれなくなった。でも良いの、もう私には愛が見付かった。聞いて、新しい人が出来たんだよ」

 まるで男と女が代わる代わるに話しているかのようだった。

 「私はあの人の為なら何でもする、何でも言って。君の留守は僕が任されよう。だから安心して貴方の仕事をして。それまで僕が虹拱結社を守ってあげるから」

 美しい顔の中から野獣のような視線が紫薇の体を突き抜けた。その感覚はかつて紫薇が感じてきた世界を滅ぼす可能性を持った者たちと同じ力だった。体は凍り付き、余裕ぶって掴んでいた腕を紫薇は落としてしまった。

 「誰にも邪魔はさせない。僕を殺せるものなら殺してみるが良い」

 片手をぴんと張ってゾラメスは体を震わせた。胸を高々に張り、男とも女とも受け取れる叫び声を上げると辺りに四散していた海岸の破片が細かい粒状になってゾラメスの周りに集まっていった。

 『ゼネデブラ・フェルカーン・ゲシュテルオーファム=ヴァージニア(女の私はお金と自分だけの部屋を持たなければならない)』

 「四奏詩…」

 七色の粒子を吸い込んだゾラメスの体は異様だった。一目にして男性と女性が組み合わさったような外観だったのだ。卵巣のような形をした肉塊を背中に着け、体は両足が一つになってその姿は有剣類のようでもあり、男性器のようでもあった。髪の毛は中性的な茸型に成り変わり、頭から繊維状の飾りが生えていた。上半身は裸で、乳房は堅い外殻に覆われていた。全体的にくすんだ色合いだが体の両側に浮かぶ黄金の輪が際立っている。しかし肉体は変わったものの、失った右腕はそのままで出血が止まっていなかった。

 「あの姿…いや、初めて概念を具現化させた者ならば、それ自体が超越力か…」

 紫薇はゾラメスの姿に気後れされながらも残り僅かな力を振り絞り、肉体を人間から半獣人に、半獣人から獣人へと変化させた。そして両足に力を入れると一気にその力を解放してゾラメスに飛びかかった。

 「その力、何か特別なものを感じるな…」

 ゾラメスが手を宙に掲げると、その手の平からアイロニーの盾が何十にも具現化され、分厚い六角形の鏡なるとそれが紫薇を拒み、体を持ち上げた。

 「アイロニーの盾ももとは自我を昇華させたものだ。君の無知を曝け出すことだって出来る。少しずつだが君がどういう人間かわかって来たよ」

 「人の内面を勝手に暴こうしやがって…!」

 直接心臓を触れられたような感覚に陥られながらも紫薇は爪を懸命に押し出した。メディストアに習ったアイロニーの盾に対抗するには物理的な力と強引な意思が得策だということを紫薇は思い出していた。

 「そうやってあの女の心も暴いてみせたのか…!」

 「その通りだ。でもね、彼女は僕の願い出を受けた。あの子は僕と彼の子供になるんだよ。家族のいない、愛に飢えた娘の心臓は驚くほど繊細で、我が物にするにはさして時間はかからなかった」

 「お前もどこぞの王様と同じだ…!だから大人は嫌いなんだ!」

 自分の意思を主張するかのように紫薇の一声はゾラメスの盾を大きく押し出すと、ゾラメスは嬉しそうに笑った。

 「愛は与えよう。しかしその心は僕のものだ」

 「お前の愛などただの毒だ!お前に…誰かを信じることの出来ない人間の気持ちなど…」

 紫薇がそういいかけた途端、

 「そうか、君も結局は同じだった訳だ。可哀想に、ママのおっぱいが欲しいならしゃぶってご覧?好きなだけ飲んで良いよ」

 目に見えない無数の手が紫薇の心臓に、頬に触れた。紫薇の顔が歪に揺れる。すると押し返していた力は弱まり、紫薇はその陰鬱な気分に飲み込まれそうになった。だが心の中にあった怒りが辛うじて意識を取り戻し、紫薇の肉体を最大限に変化させていった。

 完全な魔獣となった紫薇はゾラメスにのしかかかるように体を押し出し、体を食い千切ろうと牙を向けた。紫薇が巨大化した際にゾラメスはその伸びた体の分だけ盾の数を増やしたが、紫薇の雄叫びと共に盾はぐいぐいと押し出された。

 「アイロニーの矛」

 紫薇の胸部に二つ、腹に三つ、それぞれに展開されていた六角形の盾はその中心から尖り、紫薇の体を貫いていった。だが体に外傷はなく、紫薇の内面を攻撃しているようだった。串刺しにされた紫薇は血の代わりに嫌悪感から汚物を吐いた。

 「ああ…君の庭園が矛を通じて感じ取れる。なんて寂しい世界なんだろう。これほど枯れてしまった花園は初めてだ」

 頬を染めながらゾラメスは紫薇の記憶を一つ一つ味わっていった。

 「もう少しで君の根幹に触れられる。さあ、僕に見せておくれ…」

 花の一枚一枚を丁寧に剥きながら、ゾラメスは紫薇の心の奥底を覗き込んだ。だがそれは唐突に白い光によって拒まれ、ゾラメスは目を晦ませてしまった。ゾラメスは眩い光の中に純白の髪の毛を靡かせる少女の姿を目にしたような気がした。

 「誰だ…君は…」

 ゾラメスの意識はもとに戻ったが、その全貌はまだ庭園の中を見詰めたままなのか正気に戻った紫薇に気付けずにいた。紫薇ははっとして起きると口の中から赤い光を吐いてゾラメスに放射した。咄嗟にゾラメスは盾を形成し、その熱線から身を守ったが二人の間で熱線による爆発が生じ、紫薇の体はその反動で放り出された。

 紫薇の体が床に倒れると辺りに強い揺れが起きた。今度こそ限界を迎えたのか紫薇は体を悶えさせながらもとの人間の体に戻っていった。

 「あれでも傷一つ付けられないのか…」

 倒れた拍子に肩を強く打ったせいで鋭い痛みが左腕に走っていた。紫薇は手で痛みを抑えながら立ち上がり、ゾラメスの方を見た。ゾラメスの体は右腕以外に外傷は一つも見られなかった。ただ不思議なことにゾラメスの表情は恍惚としていた。

 「…幻想的だ。あんな美しい光を見たことがない」

 「何の話だ?」

 「君の庭園を管理していた…いや、守っていたのは誰だ?」

 「…お前には関係のない女だ。そいつに触れてみろ、ただじゃ済まさないからな」

 「そう言われると無性に触れたくなるのが僕の悪い癖だ」

 ゾラメスの背中に着いていた二本の触手が口を開けると中から目玉が現れ、紫薇に近付いて嘗め回すように眺め始めた。

 「さあ、この目を見るんだ。心地よい眠りと共に君の全てを曝け出そう」

 触手の目は普通の虹彩と違って目がちかちかするような模様が描かれていた。ずるずると触手が伸ばされる中、紫薇は俯きながら最後の選択を決めようとしていた。

 最後の言葉はとうの昔に聞いた筈だった。それなのに権兵衛との記憶が紫薇の意思を遅らせる。それほどまでに紫薇にとって権兵衛は大きな存在だったのだ。初めて誰かを好きになれた。それは人ではなかったけれど、紫薇の心を、庭園を確かに癒してくれたのだ。

 「…ごめん」

 紫薇は庭園の中で繋いでいた手を離した。すると人の姿をした権兵衛は静かに笑い、口だけを動かして紫薇に礼をいうと、真っ白な光となって消えていった。その光を見届けると紫薇は現実世界に舞い戻り、顔を上げる際に一筋の光を頬に伝わせると権兵衛から教わった最後の歌詞を謳い始めた。

 『貴方はどこにいるの? 灰が降り注いだモノクロの丘では辺りを見渡せないわ 白い枯れ木だけが灯火の様に立っている ああ、そこに居たのね 猫背になって座っては駄目よ 小さくて見付けられないから』

 紫薇の歌声と共に細かい緑色の光が現れ、宛ら燐粉のように辺りに舞っていった。柔らかな光が紫薇の体を包み込むと、体中を蝕んでいた傷口が自然と治り始め、少しずつ体付きが変化していった。真っ白な髪の少女が紫薇に乗り移るかのように一体となり、いつしか瞳の色は真っ赤に染まって紫薇の体は光り始めていた。

 「これは叙情奏歌ではない…この光は何だ?とても冷たい…」

 紫薇にとって体を火照らせる光はゾラメスにとっては体の自由を奪うかのような冷たさだった。どこか遠い場所を見詰めているジブラルもその光には反応したようで、不思議そうな顔で眺めていた。眠りに落ちていた赤縞の体も光に包まれると血の汚れが浄化されていった。

 『そんな白い目で大人たちを睨まないで 貴方が見て来た大人たちはどうしようもない連中だけどね 食べ物が乾いたパンしか出されなくても そんな連中と一緒になってはいけないわ』

 光の冷たさに不安を感じたゾラメスが触手を伸ばそうとしたときだった。ゾラメスは自分の体に起こった変化に我を忘れそうになった。失った筈の右腕の感覚が徐々に蘇り、紫薇の周りから巻き起こった光を浴びて筋肉や骨が修復を始めたのだ。

 『貴方はここにいる 私の手を握ったまま私の傍にいるの 大丈夫よ もう誰にも貴方を傷付けさせない だから一緒にその枯れ木に水をあげましょう 太陽が見えないなら私が火を点けてあげるから』

 ゾラメスを驚かせたのはそれだけではなかった。紫薇の抒情奏歌が続けられる度に身に纏っていた概念が分解され、もとの姿に戻っていった。ゾラメスは慌ててその歌を止めようと触手を伸ばしたが、光の濃い部分に触れた触手は急に弾かれた。続けてアイロニーの矛を繰り出してみても結果は同じだった。

 「まさか…!」

 ゾラメスは以前ヴァルベットから聞いた獣人の王族だけに伝わる秘話を思い出していた。女王にはたった一人だけ眷属がいた。その眷属は魔性の力を女王から託され、奏力と魔力を用いて古の世界を守護、そして調律を務めていた。二つの力の根幹を持ち、かつて世界の法として君臨していた純白の人竜『聖少女(ゲルファーツァ)』その姿は女王に似ながらも美を司り、壮大なる箱庭の住人は誰しも跪いた。

 「僕の超越力を奪うつもりか…!」

 『私たちはずっと一緒よ 確かにもう手も触れられないし 貴方の濡れた頬を舐めてもあげられない でもね 安っぽい台詞だけど私は貴方の心の中にいる 貴方のどうしようもない運命に呪われるまで』


 『聖唱 孤独の中からの告白 ゲルファーツァ』


 ゾラメスは全霊を以って聖少女に反抗しようとしたが、彼女の断罪からは逃れられなかった。どんな超越力を持っていてもナーガに生まれた血と肉では理には敵わなかった。見る見るうちにゾラメスの概念は剥がれ落ち、人間の体が曝け出されていった。そして女性と男性、両方の個性を持っていた芸術家の理想型までも聖少女は裁きをかけた。細身を帯びていた体の脂肪が減り、肉は堅く骨は太くなっていった。顎の周りには黒いひげが薄っすらと現れ、頬骨はこけていった。

 「…止めろぉ!」

 ゾラメスは叫んだ途端、更なる絶望に襲われた。喉仏が膨らみ、声がしわがれてしまっていたのだ。野太い悲鳴がゾラメスの口から漏れると、全てを悟ったようにゾラメスは膝を着いた。紫薇はその光景を目にすると静かに目を瞑った。

 「さよなら…」

 辺りに散っていた光の粉を受けながら、紫薇は閉じた目から大粒の涙を一つだけ零すとそう呟いた。やっとあのときに口に出来なかった言葉がいえたと紫薇は思った。すると光はぽつぽつと粉雪のように溶けていき、憑依していた聖少女は完全に世界から消滅していった。それと同時に紫薇の体はもとに戻り、最後に片目に宿っていた赤い光が名残惜しそうに消えた。

 ゾラメスの力が失われるとジブラルを閉じ込めていた心の杭は取れ、ジブラルの目に光が戻っていった。

 「ただの人間になった感想はどうだ?」

 項垂れるゾラメスに近付いて紫薇は見下しながらいった。

 「男と女の体を持っていても、お前の心はその清廉さに付いて行けなかった。だから個性を失うと、そうやってレゼンデートルとやらに苛むのさ。完璧な理想など成し得ない。不完全が新たな創造を生み、秩序を促す。偉人たちは狂人だらけだ。悪いがお前の理想に付き合うつもりはない。無意識の火薬庫、がらくたにさせて貰うぞ」

 「…そうはさせないわ」

 紫薇が無意識の火薬庫に顔を向けると、そこには法に縛られない力を持った存在が立っていた。

 「あの光を受けてももとに戻らなかったのか…」

 思わず紫薇の首筋に汗が伝った。

 「紫薇、あなたに言ったわね。次に邪魔をすれば命はないって」

 「…ジブラル、何故お前がこんな男に引っかかる?本気でこの男がお前を愛するとでも思っているのか」

 「それでも良いのよ。私がどうしてこんな野暮なことをしているかわかる?とち狂った格好をして、籠の中に閉じ込められても平気な顔をしてる訳を。それはね、こんな世界…大嫌っいだからよ」

 その言葉に呼応してジブラルの右腕が醜く変化した。

 「見てよこれ、子供の頃からずっとこの腕に苦しめられてきた。妖精のかけらは不幸を呼ぶ。近付いちゃいけない、不幸が移るから。こんな子供染みたこと、大の大人が言ってるのよ?ちゃんちゃら可笑しいわ」

 そういってジブラルは子供のような服を手で引き千切っていった。その仕草に紫薇はふと疑問に思ってしまったことがあった。

 「だから私は不幸を振り撒いてやった。私に逆らう奴は殺してやったし、利用できるものは片っ端から利用してやった。大人って馬鹿よね、自分がさも子供を操っているみたいに思ってるんだから」

 「お前、まさか…」

 「そうよ、初めから私は正気だった。心臓が凍っている?そんなの実の親を殺したときからもうなってるわよ」

 「ならそのフリに何の意味がある?」

 「こいつには色々と役に立って貰わないと困るのよ。ある程度に世界をぶっ壊した後、もっとまともな法律とか何たらを作って貰わないと。でも思っていたよりも動いてくれなかったわね。顔も知らない男に惚れてたみたいで、その話ばっかり聞かされたわ」

 ジブラルは話しながらゾラメスの傍まで歩き出し、会話の最後にゾラメスの頭を引っ叩いた。ゾラメスは意識を失っているかのように簡単に倒れ、そのまま動かなかった。

 「紫薇、あなたならわかるでしょう?大人がいかに汚れているか…ううん、あなたは私よりも遥かに知っている筈…だってその背中の傷は私だって持っていないもの。そうでしょ?」

 紫薇は背中の傷痕がずきりと痛んだ気がした。今でも思う、大人とはこうも恐ろしく、自分勝手な生き物なのだと。

 「紫薇、あなただけは私を裏切らない。同じ痛みを知っているから。だから紫薇、私を愛してよ。私があなたのものになっても良いから。この体も好きにして良い、欲しければいつでも抱いて良い。だから私を感じて、私を見て。私のレゾンデートルになって、紫薇…」

 それは愛の告白というよりも崇拝に近かった。狂気にも似たジブラルの懇願に紫薇は何をして良いのかわからなかった。どうしてジブラルが今になってそんなことを口にするのか、今の紫薇には検討がつかなかった。

 「迷わないで…私に触れて、そうすればきっとわかるから…」

 ジブラルが一歩前に踏み出すと紫薇は一歩後ろに下がった。

 「…お前は、メディストアも同じように思っていたのか?汚い大人だと…」

 「そうは思っていないわ。でも、メディストアじゃ駄目なのよ…私はね、証が欲しいの。二人が愛し合った確かな証拠が。女同士じゃ赤ちゃんは作れないわ」

 そうか、そういうことかと紫薇は理解した。結局のところ、ジブラルはゾラメスと同じことをしようとしていたのだ。ただその理由が違った。ゾラメスは自分の愛を確かめる為に、ジブラルは相手との愛を確かめる為に欲望と扇情に突き動かされていた。メディストアがいっていたことは正しかった。ジブラルは自分でも気付かない内にゾラメスの感情に巻き込まれてしまっていたのだ。過去のトラウマが病的なまでに愛を欲しがらせる。異性である紫薇にとってこれほどやり辛い相手はいないだろう。正気を保ちながら病気を連れ回している様なものだった。

 じわりじわりとジブラルが近付いて紫薇が転びそうになったときだった。急にジブラルの動きが止まり、彼女の視線が紫薇から離れていった。紫薇は狼狽しながらもジブラルの視線を辿っていった。

 「クレシェント、お前…」

 その先には重たい体を引き摺ってやって来たクレシェントの姿があった。

 「ジブラル…紫薇には手出しさせないわ…」

 「あなたに何が出来るって言うのよ…魔姫にもならなきゃ私に勝てない癖に…」

 クレシェントの姿を見た途端、ジブラルの表情は怒りに満ちていった。その怒りに突き動かされるようにジブラルが左手を掲げると手の平から青い光線が撃ち出された。光は一直線にクレシェントに向かい、その力は見る者に畏怖を与えるほどだった。しかしその光を目にするや否や、クレシェントの周りから赤い腕が具現化され、光を受け止めると平らに広がっていった。

 その動作に一番驚いたのはジブラルだった。今までにクレシェントが自分の概念をああも簡単に受け切ったことなどなかったのだ。同じ光を続けて二度も三度も発射したが、どれも赤い腕によって阻まれていった。

 「(まさか魔姫の力に取り込まれているのか…?)」

 半面が髪の毛で隠れているせいで紫薇の杞憂は更に深まった。

 「もうあなたを守ってくれるパパは居ないわよ?何があったか知らないけど、大人しそうな顔して女を引っかけ回してたからかしら?」

 その言葉にクレシェントの半面が引き攣った。手をぐっと握り締め、必死に怒りに堪えている。

 「あなたも阿婆擦れみたいに色気を出してたのかしら?大人の男が好きそうだものね。具合は良かったかしら?クレシェント」

 唇を噛み締めるクレシェントの姿を紫薇は黙って見ていた。もう限界だろう。いつ怒りが爆発しても可笑しくないと紫薇は思っていたが、クレシェントの取った行動は意外なものだった。

 「…ジブラル、貴女は何をそんなに脅えているの?」

 「はあ?何を言ってるの?」

 挑発的な切り替えしにも関わらずクレシェントは冷静だった。

 「ずっと気になっていたの…どうして貴女がゼルア級の名前に固執していたか…貴女はその名前に生きる意味があると言っていたけれど、本当はそうじゃない。ただどうして良いかわからないから、暴力に頼るしかなかったのよ。だって貴女は、大人に成り切れていない子供だから」

 そういうとジブラルの黙れという怒号が響き渡り、彼女の体から青い稲妻が辺りに撒き散らされた。仕切りに頭を抑えながら何かに苦しんでいる。

 「黙りなさい、クレシェント…」

 「ジブラル、貴女は普通の人より純粋よ。でもそれは貴女が子供のままだからなの。成長する前に貴女は痛みを先に、憎しみを覚えてしまった」

 クレシェントの言葉はまるで紫薇にもいい聞かせている様だった。

 「それが貴女を歪ませ、凍らせた。でもジブラル、貴女だって気付いている筈よ。何が正しくて何が間違っているのか…」

 「うるさい…」

 「もう良いじゃない…。もう、大人を許してあげてよ…これ以上、誰かを憎しみ続けたら、貴女が貴女でなくなってしまう。こんな悲しいことはないわ…」

 その言葉を聞いて紫薇はぐっと胸に刺さるものがあった。

 「うるさいのよ!あなたは良いわね、お友達にも恵まれて…頼りがいのある父親までいて…あなたと私にどんな差があったって言うの!?…どうしてあなただけそんなに余裕ぶっていられるのよ!人殺しの癖に…偉そうに説教たれないで!あなたに私の気持ちなんてわからないわよ!大人なんて…みんなみんな大嫌い!」

 ジブラルがそういった瞬間、紫薇は無意識の内に彼女の頬を叩いていた。もう紫薇には我慢がならなかった。まるで自分の言い分をジブラルが代弁しているような気がしてならなかったのだ。叩かれたジブラルは驚いた表情で紫薇を見詰めた。

 「止めろ、もう何も言うな…」

 「…あなたも私を置いてけぼりにするのね。そうよね、あなたもクレシェントと同じで変わっちゃったんだものね」

 「そうじゃない、お前は…」

 まるで鏡に映った自分のようだとは口が裂けてもいえなかった。口にしてしまえばジブラルの前口上を否定してしまう。それだけは出来なかった。しかし当のジブラルにしてみれば裏切られたも同然だった。

 「もう嫌よ…」

 ぎりぎりまで凝縮されていた感情が爆発の兆候を見せるとクレシェントは紫薇に向かって叫んだ。

 「もう嫌…一人ぼっちは…もう嫌ぁぁぁぁぁぁ!」

 青い光がジブラルの体内から暴発したように放射された。瞬間的にクレシェントの赤い腕が紫薇を包み込み、その光から身を守ったが、そのせいでクレシェントの体は吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた。爆風が収まった後もジブラルの体は臨界点を迎えた核のように光り、彼女の足元は融解していった。

 あらゆるものが拒絶され、その光に晒されて無意識の火薬庫は溶け出していった。クレシェントは体の痛みに耐えながら、紫薇に差し出した赤い腕の力を一時も緩めないように気を配り、体を起き上がらせると少しずつジブラルに向かって歩き出していった。しかしクレシェントの体は足を前に出す度に崩れ出し、その損傷を擁護するかのように魔姫の体に成り変わっていった。右腕や皮膚が剥がれ落ちてもクレシェントは前に前に進んだ。そうしてジブラルの目の前に着いたときにはクレシェントの体の半分は魔姫になってしまっていた。

 「…ジブラル」

 ジブラルの視界に映ったのは凶悪な半面を持ったクレシェントの姿だった。その姿は余りにも醜悪で、ジブラルは思わず悲鳴を上げてしまった。人の手とは思えぬクレシェントの右手が向けられる。ジブラルは何をされるのかと身構えたが、クレシェントが取った行動は彼女の体を優しく抱き締めただけだった。

 「…うっ!」

 皮膚が肉の焦げたような音を立てて拒絶されるとクレシェントは顔を歪めた。

 「何、してるのよ…止めてよ…」

 「ジブラル、聞いて…私は、一度だって自分の罪を忘れたことはないわ。貴女の言った通り、私は人殺しよ…。でもね、だからこそ苦しんで生きようって思ったの。それが私にとっての償いだから。でも色んな人の助けを借りて、それに気付けるまで長い時間がかかってしまった…」

 急激な痛みがクレシェントの言葉を詰まらせたが、それでもクレシェントはジブラルを抱き続けた。

 「…でも貴女は違うでしょう?貴女は本当は純粋で優しくて、賢い子なの…だから私みたいにならないで…」

 偶然にもその言葉はジブラルの母親が彼女によく言い聞かせた台詞だった。

 「貴女を一人になんてさせないわ…ずっと一緒にいてあげるからね…」

 クレシェントの腕の力がより強くなると、ジブラルは胸の内が徐々に温まるのを感じた。すると心臓の鼓動が力強く鳴り響き、凍ってしまっていたジブラルの心臓が溶け出していった。それに伴い、ジブラルの感情炉心は沈静を始め、拒絶はやがて寛容へと変わっていった。

 「あ…」

 ジブラルの光が収まるとクレシェントの体はずるりと床に倒れた。

 「…クレシェント!」

 「…大…丈夫…よ…」

 言葉とは裏腹に体の前身はぼろぼろになってしまっていた。それでもクレシェントはジブラルの頬に手を寄せて優しく微笑んだ。

 クレシェントの手を取りながら泣きじゃくるジブラルの姿は子供そのものだった。その姿を見て、いつか紫薇にも気付いて欲しいと願いながらクレシェントは目を閉じた。クレシェントの意識が途切れると、紫薇を包んでいた赤い腕は花が散るように消滅していった。

 「どうしてあなたは…そんなに傷付いても平気なの…?どうして…」

 大泣きしながら問いかけるジブラルの傍に紫薇は近付き、じっとクレシェントを見詰めた。体の半分ほどが爬虫類のようになり、胸から下は焼け焦げたような痕が広がってしまっていた。

 ジブラルの言葉は紫薇にとっても同じだった。どうしてこの女はこんなにも誰かを想えるのだろう。紫薇は不思議でならなかった。ただ一つだけ紫薇がクレシェントから感じ取れたのは、彼女の腕の中ならばきっと心が安らげるのだろうと、そう思わずにはいられなかった。

 「やっぱりお前は強い女だな…俺とは…」

 紫薇は小さな声で呟いた。

 「…ご免…なさい…ご免…なさい…ごめんなさい…」

 本心から現れた言葉と共にジブラルの頬を伝った涙がクレシェントの腕を濡らすと、その部分から魔姫になってしまった体組織がもとに戻り始め、その変化が全体に広がると最後にクレシェントの半面を犯していた醜い顔はもとの儚げながらも力強い、一人の女性のものになった。

 「…初めて会ったとき、とても綺麗な人ねって思ったの」

 ジブラルは昔を思い出すように語った。

 「でもクレシェントの目はどこか悲しそうだった。いつ誰かを傷付けてしまうんじゃないかって…。でも紫薇、あなたと出会ってからクレシェントは変わったわ。それがとても羨ましかった」

 「だからゾラメスの話に乗ったのか…お前には、メディストアがいるだろう…」

 「喧嘩したのに…今更どうにもならないわよ…きっとメディストア、怒ってるだろうし…」

 そういうと紫薇は確かにまだ子供なのだなと感じた。

 「…あの女からの伝言だ」

 『ジブラル、さっさと帰ってらっしゃい』

 ジブラルの耳には紫薇の声がメディストアが喋ったように聞こえた。その言葉を聴くとジブラルはまた目を赤くさせて涙ぐんだ。

 紫薇はその泣き顔を見てやっと終わったと溜め息を吐くと、壁に寄りかかりながらぐうすか寝ている赤縞のもとに寄って足を蹴飛ばした。

 「…終わったぞ、赤縞」

 「そうかい、んじゃ帰るか」

 紫薇は赤縞に向かって手を差し出し、赤縞はふっと笑うとその手を握り締めて立ち上がった。

 「…お前、老けたか?」

 「三年ほどな、敬語を使っても良いぞ」

 「寝言を言ってんじゃねえ」

 そういうと紫薇は少しだけ笑った。

 「また助けられたな。礼は言って置く」

 「そんなもんより握り飯でも寄越してくれや、腹が減って仕方がねえ」

 「同感だ」

 紫薇はジブラルのもとに戻るとクレシェントの体を引っ張り、肩で持ち上げた。その様子をジブラルは黙って見ていた。

 「何を呆けてる?さっさとレミアの鍵を開けろ」

 「で、でも…」

 「お前にはこいつに言わなきゃならないことがある、違うか?それまでは付き合って貰うぞ」

 「…わかったわよ」

 苦い顔をしながらジブラルは緑色の扉を開け、一向は中に入ってその場を後にした。紫薇は扉の中に入る際に、呆然と壊れた無意識の火薬を眺めるゾラメスを一瞥した。たった少しの間でゾラメスの顔は痩せこけ、精気を失ってしまっていた。果たして彼がこれからどうなるのか、紫薇には検討もつかなかったが、命があるならやり直せと心の中でゾラメスに諭した。

 緑色の扉が閉じられると闇の中から一人の男が足音を立てて無意識の火薬庫の前に現れた。それは自然に出来上がった美意識の理想系ではなく、作られた美意識の理想系をその身に宿した者だった。その男、キジュベドは瓦礫の中に浮かぶ月を見上げると舌を出してなめずった。

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