53話 逆転判決
指先に鈍い痺れを感じながらクレシェントは壁伝いに歩いていた。まるで眩暈でも引き起こしているような体の重みがクレシェントのつま先をおぼつかせる。片目を髪で隠しているせいで距離感も掴めなかった。疲れて歩みを止めると、いつの間にか壁の模様が変わっていた。大小さまざまな鏡が壁に貼られていて、クレシェントはふと鏡に映った自分の姿を見て思わず笑ってしまった。
「…きっと紫薇が見たら、気味が悪いって言われるわね」
その笑いはもう自嘲だった。
「でもプランジェには見せたくないな…こんな醜い姿を見たら…」
そう口走った矢先、クレシェントはジブラルの言葉を思い出してしまった。今のこの姿こそ本当の自分の姿なのではないかと。
「嫌だ…これじゃ私、病んでるみたいじゃない…」
正気を失いそうになりながら、クレシェントは何とか冷静になろうと足を動かしたが、下半身は意識に反してずるずると引き摺られるだけだった。正気を保っているのは上半身だけで、つま先が縺れるとクレシェントは両膝を床に着いてしまい、乾いた笑い声を上げるとからからになった喉を震わせた。
「私は何の為に…何の為に産まれて来たのよおっ…!」
鏡に映った自分に問いかけるも、その答えは返って来なかった。
「人を傷付けたい訳じゃない、誰かの命を奪いたかった訳じゃない…いつだってそうするしかなかったのよ。こんな力なんて欲しくなかった…もっと普通に暮らしたいだけなのに…」
クレシェントは蹲りながら顔の半分から涙を零したが、もう片方の顔からは血も涙も出なかった。もう今は肩に手を差し伸べてくれる人もいなければ、悪態を受け止めてくれる人もいない。クレシェントは罪の意識に押し潰されそうになりながら必死に顔を上げるも、その途中で力尽きたように体は止まってしまった。
「…いっそ誰かに殺された方が幸せよ」
あられもない台詞が静かに辺りに広がると、その言葉はやがて形となってクレシェントの目の前に現れた。巨大な姿をした狼はクレシェントの懺悔にも似た台詞を耳にすると、徐に青い蜜のようなことを口ずさんだ。
「ならばその心臓を我に捧げるが良い」
クレシェントは顎を少しだけ上げてその声の主を見上げた。
「お前が罪の意識に耐えられないというのなら、このヴァルベットの糧と成れ。そうすればこれ以上、苦しむことはなくなるぞ」
「…駄目よ、貴方に食べられてしまったら私の償いが消えてしまう」
クレシェントは死の誘惑がこれほど恐ろしく、心を鷲掴みにするものだとは思いもしなかっただろう。クレシェントは辛うじて首を横に振ったが、次にヴァルベットの口から零れた一言は彼女の胸を強く締め付けた。
「もう許されても良いのだ」
「なんで…」
その言葉を口にしたのか。クレシェントは心の中で必死に拒んだが、まるで何かが決壊したかのように半面からぼろぼろと大粒の涙を流した。
「どんなに抗っても罪の意識から逃れる術はない。まして罰などというものに耐えられる者などいないのだ。なまじ清廉な者ほど罰に溺れ易い。お前は純粋さ故に、人よりも感受性が高くなってしまうのだ。それがお前にとって枷となってしまっている。だがもう苦しむ必要はない。贖罪のときが来たのだ」
必死に手で口を抑えながらクレシェントはどうして良いのかわからなかった。その言葉をどれほど待ち侘びたか。いや、自分は苦しみながら罪を背負って生きるのではないのか。その二つが葛藤するも、許すという言葉は今のクレシェントには余りに身に沁みた。意識が永遠に終わってしまっても、身がやつれそうな苦しみから解放されるのならどんなに気が楽か。クレシェントは頬を染め、しゃくり声を上げなが自ずと手を差し伸べていた。クレシェントの視界は涙で遮られていたが、その目の中には頬骨を吊り上げた醜い狼の顔が映っていた。
真っ暗な闇の中で誰かが泣いている声が紫薇の耳に囁いた。紫薇はうるさいなと思いながらも、その声に耳を澄ましてみるとその声はどこかで聞き覚えがあった。そうだ、あの間抜け顔のあいつだと紫薇は思い出すと、ぼんやりとその人物の後姿が浮かび上がった。とち狂った服装に身を包み、目がちかちかするような銀色の髪をしたその人物は、背中を向けたまま嗚咽を漏らしていた。紫薇はどうしてその人物が泣いているのか何となしにわかっていた。この女はいつだって感情に走り過ぎるのだ。だから色んな人間に連れ回される。これだから女って奴はと紫薇は悪態を吐いた。でもそんな人間味に溢れる女だから、きっと感化されたのだと紫薇は思った。
「誰がお前を泣かせたんだ?…そうか、またお前か…」
紫薇の目の前にゆらゆらと抽象的な狼の絵が浮かび上がる。
「一度ならず二度までも…。お前は…俺が殺してやる」
有りっ丈の憎しみを込めて紫薇はぎゅっと手を握ってその狼の絵を睨み付けた。紫薇の手を白い髪を靡かせた少女が握っている。精気の抜けたような顔をしていたが、紫薇が声を上げると少しだけ口角を緩ませた。
ヴァルベットは音を立てずにクレシェントの後ろに腕を回した。その姿はまるで狼が羊を食い殺そうとしている影絵のようだった。絵の中の狼が大きな口を開けて子羊を飲み込もうとした直前、辺りがぐらりと揺れて地響きが鳴った。音は狼と子羊の目の前の鏡の壁から鳴り、壁にひびが生じたかと思いきや銀色の膜をぶち破って真っ白な体をした大きな獣が現れた。
「あれは…!いや、そんな筈は…」
その白い獣と距離を取ったヴァルベットは子羊のことなど忘れてしまったかのように跳び上がって目を見開いた。
白い獣はまるで子羊を守るかのようにクレシェントの隣に立った。
「まさか…紫薇、なの?」
長い純白の体毛は全身に広がり、筋肉質な体を覆っていた。その姿は権兵衛を思わせるが、クレシェントが目にしたのは似て非なるものだった。体型は獣というよりも人間に近く、半ば二足歩行の体勢を取っていた。頭からは黄金に輝いた鹿の角に似た突起物が生えていて、奥歯から牙が飛び出すなど顔はより凶暴性を増していた。クレシェントはその顔にどこか魔姫に似たものを感じた。
「その黄金の角…遠大な魔力の結晶…間違いない、お前は『聖少女(ゲルファーツァ)』女王の…たった一人の眷属が何故…」
その言葉を遮るかのように紫薇は大口を開けて叫び出した。その赤い目には有りっ丈の憎しみが込められ、思わずクレシェントは身を固まらせて見入ってしまった。しかしその声と共にぬるりとした液体がクレシェントの頬を触れるとはっとして紫薇の体に着目した。見れば紫薇の体の半分は真っ赤に血で染まり、生傷から血を流していた。
「紫薇、貴方は…」
紫薇は半ば暴走していた。傷のせいなのか、度を越えた憎しみのせいなのかはわからないが、何かが紫薇を突き動かしているのだ。狂おしい負の情熱が傷付いた紫薇の体を無理に立ち上がらせ、牙を剥き出しにさせている。しかしそれは紫薇の命を極限まで削ってしまっていた。
「…紫薇、駄目よ!」
クレシェントの声に耳も貸さず、紫薇はヴァルベットに立ち向かっていった。白い巨体が動いた後に大量の血がクレシェントの目の前に撒き散らされた。クレシェントはその光景を見て絶句してしまった。こんな出血では紫薇の命が危ない。そう思っていた矢先、二匹の獣の咆哮がクレシェントの耳を蹴飛ばした。
既に紫薇とヴァルベットの取っ組み合いは始まっていた。その様は正に野生動物の縄張り争いや繁殖期を迎えた雌を奪い合う儀式のようだった。ただそのスケールが桁違いに大きいのだ。少しでも動けば辺りは地震が起きたように揺れ動いた。クレシェントはその二匹の間に近付けず、ただ眺めるばかりだった。
低い唸り声を上げながら二匹の獣が顎を突き出して威嚇し合い、両者の我慢が切れたようにお互いに飛びかかった。上半身を高く聳え立たせ、牙を剥き出しにしながら太い両腕を繰り出していく。二匹の体がもつれ合うと指に付いていた爪は紫薇の目尻を抉り、ヴァルベットは胸元に深い傷を負わせた。
取っ組み合いはヴァルベットに分があった。傷を負って僅かに意識を削がれた隙を見計らってヴァルベットは紫薇の首元に噛み付き、足を払って床に組み倒した。その際、ヴァルベットも倒れて二匹は床に寝そべったまま争いを続けた。ヴァルベットの顎に力が入ると紫薇は苦しそうな顔をしながらも唸り声を続け、体を滅茶苦茶に動かしてじたばたし始めた。その内に紫薇の前足がヴァルベットの左目にぶつかり、鼻の先端を削ぐとヴァルベットは堪らず口を離してしまった。紫薇は我先にと体を持ち直し、距離を取って威嚇のポーズをしながら様子を窺った。
鼻の上にしわを寄せながらヴァルベットは立ち上がると血で濡れた顔を見せ、低い声で紫薇をきっと見詰めた。するとヴァルベットの太い前足の体毛が徐々に伸び、鮫肌のように無数に集まった。その変化の後、ヴァルベットはさっと紫薇の目の前まで移動してその変化した腕を前にして飛びかかった。紫薇はその腕を見て抵抗するも尖ったヴァルベットの腕は紫薇の胸元を大きく削った。ヴァルベットは紫薇の泣き声などお構いなしにそのまま押し倒し、更に前足の爪で鳩尾の辺りを引っ掻き、血で染め上げた後に再び首元に噛み付いた。そして今度は紫薇の首を咥えたまま力任せに体を右に左にと振り回し、二回目の左の時に挟んでいた紫薇の体を離した。
体の殆どを赤く染められた挙句、宙に放り出された紫薇はクレシェントの傍まで振り投げられてしまった。痛みに苛みながらも紫薇は床に激突すると、同時に体を半分だけ起こし、前足の爪を床に擦り付けてその勢いを殺すと、紫薇の巨体はクレシェントの数メートル手前で止まった。体を止めると紫薇は無意識の内にクレシェントを一瞥して彼女の無事を確かめた。
その一瞬が命取りだった。ヴァルベットはその隙を待っていたかのように背中の鰭を発光させ、腹を膨らませると口の中から灰色のマグマを吐き出した。その高熱を帯びた泥を見て悲鳴を一番先に上げたのはクレシェントだった。紫薇はその場から跳び上がろうとしていたが、その悲鳴を耳にするとはっとしたように四本の足を曲げた。すると紫薇の背中から白鳥のような大きな翼が広げられ、それをすぐさま折り畳んでマグマから身を守った。
「紫薇…」
高温で肉を焼いたような音の後に紫薇の低い悲鳴がクレシェントの耳を打った。翼はマグマの一滴も零しはしなかったが、代わりに羽根は焼け焦げ、翼の先は蕩けて折れてしまった。蒸発した血の臭いがむわっと辺りに広がると、クレシェントは今にも泣き出しそうな顔で紫薇の苦しむ姿を見詰めた。
火砕流のような一波が止むと、紫薇は痛みに悶えながらも翼を開き切って傍にあったマグマを跳ね飛ばし、焦げた翼をもとに戻すと紫薇の体は完全に床に倒れた。ヴァルベットはその姿を見ると、止めといわんばかりに再び背びれを光らせた。紫薇は僅かに残った力で目を開いてヴァルベットの顔を見た。醜い狼の顔、自分にとって一番大事な人を傷付けた許されざる外敵。浸透していた怒りがふつふつと湧き上がり、その感情に呼応するかのように体の中心から赤い光が紫薇を覆った。赤い光は頭部にあった黄金の角に絡み付いて発光した。そして再びマグマが吐き出される前に紫薇の口からは赤い熱線が繰り出された。その光は魔姫のものに良く似ていたのをクレシェントは妙に思った。
紫薇の熱線がヴァルベットの右足に直撃すると光は筋肉を吹き飛ばし、骨を微塵にして胴体と別れさせた。ヴァルベットはその一瞬で右腕を失い、あられもない声を出した。腹に溜めていたものを床にぶちまけ、体を痙攣させながら痛みに苦しむ。その間に紫薇は更に体を変化させながら崩していた体を持ち上げた。まるで言い様のない殺意が紫薇の体に現れているかのようだった。口は更に裂け、細かい牙が並び、顔は貪欲に歪んでいった。肘や肩から角を生やしながら完全な二足歩行でヴァルベットに近付いていく。声はもう魔姫の力に憑り付かれたクレシェントと同じように負の感情に塗れてしまっていた。その光景に背筋を震わせたのはクレシェントだった。
「駄目よ、紫薇…」
クレシェントの不安を具現化するように憎しみの形骸となってしまった紫薇はヴァルベットの目の前に立つと、より攻撃的になった爪でヴァルベットの体を切り裂いた。左目から口許までが裂かれ、顎が二つに割れる。狼の悲鳴など他所に紫薇は頭の角を発光させ、口から赤い熱線を吐いて今度は右の後ろ足を木っ端微塵にした。ヴァルベットは殆ど意識を失いつつも左腕で抗戦したがその手を紫薇に踏み潰され、痛覚の限界に陥ったヴァルベットの意識は失われた。死んだように口を無様に開け、白目を剥きながらヴァルベットの体は横たわった。
「もう…止めましょう?紫薇…もう終わったのよ…」
クレシェントの呟きは紫薇の行動を予言しているかのようだった。紫薇は虫の息だったヴァルベットの首根っこを掴み上げ、両手で締め上げたのだ。両腕の筋肉が膨れ上がり、骨の軋む音が鳴り始める。紫薇の唸り声は死ねと囁いているようだった。
「それをしては駄目…そんなことをしてしまったら、貴方まで…」
紫薇の咆哮が最高点に達しようとした時だった。
「…止めてえ!」
鳴き声よりも遥かに小さいクレシェントの叫び声は紫薇の手をぴたりと止めた。
「もう…大丈夫だから…。酷いこと、しないで…。貴方まで私と同じになってしまったら、もうどうして良いかわからない…」
泣きじゃくるクレシェントの声は確かに紫薇の耳に届いていた。その証拠に紫薇の目がクレシェントを捉えると、ヴァルベットの体は床に崩れ落ちた。じっと紫薇の赤い目がクレシェントを見詰める。ぽろぽろと零れるクレシェントの涙が紫薇の怒り狂った赤い虹彩を黒く冷やしていった。すると紫薇は急にふらっと頭を回すと、そのまま頭から床に倒れ込んだ。
「…紫薇!」
クレシェントが地響きの後に紫薇に近付くと、紫薇の肉体は急速にもとの人間の姿に戻っていった。クレシェントがほっとしたのも束の間、指先が紫薇の体に触れるとひやりとした肌の質感が彼女を襲った。紫薇の顔には血の気がなかったのだ。
「どうしよう…」
そう思った矢先、クレシェントはある記憶を思い出した。それは以前、アシェラルと戦ったときのことだった。傷付いた体を癒してくれたのはデラの強い力が混じった血液だった。口に含んだ瞬間、苦味と共に体の芯がかっと火照ったのだ。
クレシェントはすぐに手の平を爪で引っかいて血を流すと紫薇の口許に寄せた。
「…紫薇、飲んで」
しかし手元から伝った血は紫薇の唇を染めるだけで一向に喉を通り過ぎようとはしなかった。クレシェントはほんの少し迷った顔をしたが、意を決したように血液を口に含むと紫薇の顔に唇を近付けた。
「…ご免なさい」
その言葉は紫薇に向けられたものなのか、羽月に向けられたものなのかクレシェントは自分でもわからなかった。二人の唇が合わさり、クレシェントは血液を舌に乗せて紫薇の喉奥に寄せた。不思議と妙な昂ぶりはなかった。ただ一握りの罪悪感がクレシェントの胸を突いた。顔を離すとクレシェントは紫薇の頭を膝の上から降ろし、じっと行方を見守った。
クレシェントの血が紫薇の喉を通ると喉仏の辺りから血管が浮かび上がり、全身に広がっていくと、見る見るうちに紫薇の肌は精気を取り戻していった。だがその途中、何かに塞き止められたかのように血管の浮かび上がりはもとに戻っていき、喉に到達すると紫薇はびくりと体を震わせて、口からクレシェントの血を吐き出した。体を転がし、背を向けながら紫薇は何度も堰をして体の中に溜まった血を吐いた。
「何だったんだ今のは…」
気分が悪いのか紫薇は胸を擦りながら自問自答した。
「まるで生のトマトを口いっぱいに詰め込まれたような気分だ…気分悪い…」
そうしてやっと意識と体を戻すと、そこには背中を向けながら立っているクレシェントの姿があった。癖の強い髪の毛をぐしゃぐしゃにして寝癖みたいになっているクレシェントの頭を見て紫薇は首を傾げた。
「起きたのね…良かった…」
「そっちに何か面白いものでもあるのか?」
「別に…何もないわよ」
紫薇は不思議に思いながら立ち上がり、クレシェントに近付いた。
「何があった?顔でも傷付けられたのか?」
「そんな所よ。とても見せられないわ」
「…見せろ」
紫薇はそういって無理矢理にクレシェントの顎を捕まえて顔を曲げた。そして髪で隠れた半面を指で払うと思わずぎょっとした。
「…随分とおぞましい姿になったもんだ」
「だから見せたくなかったのよ…それなのに無理矢理…」
クレシェントは視線を流して必死に目を合わせまいとしていた。紫薇はそのことを察すると顎から手を引いた。
「その姿、まるで狼咽だな。前に医療の雑誌で見たことがある」
「良かったわね、貴重なサンプルに拝めて」
「そう捻くれてくれるな。それより、その姿になったということは…お前、魔姫になったんだな」
宛ら検事のような一言がクレシェントの胸を深く突いた。被告のようにクレシェントはその重い口をゆっくりと動かした。
「また…人を殺したの…。魔姫の力を扱い切れなかったせいで…きっとこの顔は、その報いなんだと思うわ」
「それでいっそ死んだ方が幸せだとでも思ったんじゃないだろうな?」
その言葉にクレシェントはどきりとした。
「…馬鹿馬鹿しい。お前の間抜けさは筋金入りだな」
「だって…」
「だっても糞もあるか。言った筈だ、お前は苦しむ為に生きろと。それを死んだ方が幸せだと?甘ったれるな、これから先お前が更に罪を被ったとしても、それは変わらない。泥水を啜ってでも生にしがみ付け。お前のその顔は、そうしなかったことへの罰だと思うんだな」
クレシェントは全くの正論だと言い返す言葉も見当たらなかった。ぎゅっと下唇を噛み、俯きながら涙を堪えた。
「だがまあ…一つだけお前に感謝しなきゃならないのは、危うく俺もお前と同じになるところだった。あんなけだもの、殺したとkろで罪悪感など生まれないと思っていたが…今はそうしなくて少しほっとした。お前があのときに死んでいたら、俺はお前と同じ立場に立っていた。それを防いだだけでも生きる価値はあるさ」
その言葉はヴァルベットから受けた救済よりも重く、手足を打ち付けるものだったが今のクレシェントにはどうしようもないほど実感性のある導きだった。気付けばクレシェントは半面からまた涙を流してしまっていた。
「…うん」
紫薇はその姿を見ると何故かほっとしたように口許を少しだけ緩めた。だがふと気を許した隙に紫薇は頭がくらっとして後ろに足を引いた。
「紫薇、もう限界よ…。その体じゃ無理だわ…」
「…いや、まだ手はある」
意識をはっきりさせようと紫薇は頭を振った。
「もう武器も体も絞りカスみたいなもんだが、番狂わせの手札を持ってる。問題は赤縞がどこで道草を食ってるかだが…」
そう紫薇が口ずさんだ途端、二人の肌に強烈な刺激が走った。次いで奥の通路から轟音が二人の鼓膜を蹴飛ばした。
「この感覚…赤縞か?いや、それにしては妙な…」
紫薇は赤縞に似たものを感じたが、その感覚は以前とまるで違っていた。とても醜悪な雰囲気が赤縞を覆っているようだったのだ。
「…休んでいる場合じゃなさそうだ。クレシェント、動け…」
その最中、紫薇はクレシェントの顔を見て言葉を詰まらせた。
「…行けるわ。この顔のことなら心配しないで」
「なら良いが」
クレシェントがその場から足を動かそうとした矢先、体は糸が切れた人形のように腰を崩してしまった。クレシェントは自分でも訳がわからないように呆然とした顔で手足を動かそうとするが、指先はかじかんだように震えてしまっていた。
「ど、どうして…」
「…お前の体は嘘を吐けない奴だな。憎たらしいよ」
紫薇はふっと笑ってみせると、クレシェントを置いて一人で先に進んでいってしまった。
「待って!」
手を伸ばそうとするも体は一向に意思に逆らうばかりだった。顔に力を入れて歯を食い縛っても手足に反応がない。それどころか視界がぼやけ始め、次第に耳も聞こえなくなるとクレシェントはいよいよそのときを覚悟した。これが本当の罰なのだろうか。そう思うと自然と力が抜けていった。
「私がまだ死のうとしているからなのね…」
文字通り体は正直だった。意思に準じて体がその反応を示す。実はクレシェントの意思はまだ死による救済から逃れられていなかったのだ。このまま暗闇に身を委ねればどれほど楽だろうか。クレシェントはそう思わずにはいられなかった。しかし最後に視界に映った紫薇の背中はまだはっきりと脳裏に残っている。このままでは駄目だ。彼を一人にして置いてはむざむざと殺されにいくようなものだ。自分は死んでも良い。でもそのせいで誰かが死んでしまうのなら、まだ死ぬことは出来ない。いや、許されないのだ。
クレシェントはずっと使っていなかった醜い半面に力を入れた。歯の代わりに牙を食い縛り、裂けた頬のしわなど関係なしに顔を歪める。すると僅かだが体が動いた。視界や聴覚は衰えているもののどうにか前に足を進めることが出来た。クレシェントは非常にゆっくりと、しかし着実に着実に前に進み始めていった。
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