52話 けだものの王

 病室を汚染するかのような深い血の色をした目はしっかりと外敵を捉えていた。目を開いたときから相手の存在が気に入らない。そんな感情を表現するかのようにクレシェントの口は耳の辺りまで裂け、腹の底から叫び声を吐き出した。部屋が揺れ、壁や床はその声に畏怖するように裂けていった。

 始めに手を出したのは複数の顔を持ったエネミスクリアの無意識だった。叫び声の後に魔姫に近付いて腕を振るう。鋭い指先が魔姫の心臓を貫くと、指は瞬時に伸びて串刺しにした魔姫を向こうの壁まで追いやった。その途中で魔姫の両腕と両足の筋肉が破裂するように膨れ上がり、床に爪先を減り込ませて勢いを完全に殺すと、口を開けてその中から赤い光を撃ち出した。光はエネミスクリアの本体の顔面に直撃し、そのまま魔姫と反対側の壁まで突き動かされ、壁をぶち破りながら体を倒された。

 刺さった指など屁でもないように魔姫は修復を始めながら体を変化させていった。背中からの四本の角と頭からの二本の角、鱗を纏ったような長い尾を靡かせて大穴の開いた壁を見詰める。しかし中々相手が立ち上がらないと、魔姫は床を蹴って自分から距離を詰めていった。倒れている相手を食い千切ってやろうと口を開けながら飛びかかる魔姫の視界を黒い影が過ぎる。その直後に魔姫の体は床に叩き付けられた。エネミスクリアがいつの間にか真上に現れ、その長い腕を使って魔姫を抑え付けたのだ。

 床に深く体を埋められながら魔姫は怒りの声を上げるが、エネミスクリアから加えられた力は凄まじく、胃液を吐き出しながら更に押し潰された。魔姫は内臓を圧迫されながらも尻尾を鞭のように伸ばし、エネミスクリアの体に巻き付けて力任せに振り被った。天井を削ぎながらエネミスクリアの体を引きずり回し、床に激突させた後に壁に向けて放り投げた。エネミスクリアが壁を崩しながら粉塵が舞う中、魔姫は体を震わせて汚れを落とすと、両腿の筋肉が悲鳴を上げるほど力を溜め、その力を爆発させて再び飛びかかった。その速度たるやエネミスクリアが膝を曲げて立ち上がるよりも先に到達するほどで、その速度を体に乗せながらエネミスクリアの顔を手で引っ叩いた。そしてエネミスクリアが宙を滑空しているところに追い討ちをかけるように口から線の短い光を三発放った。

 顔を叩かれたエネミスクリアの顔は三つに割れ、首はあらぬ方向に曲がってしまっていた。宙で体勢を立て直しながら追撃している赤い光を見付けると、女型の球体を伸ばして口を開けさせた。光を飲み込む際、苦いものでも噛んだように顔を歪ませたがその光を飲み込むと傷付いていた体はあっという間に修復されていった。それどころか体の一部がより強化され、変化している。エネミスクリアはそのことに快楽を感じると、魔姫を外敵から捕食する獲物へと変更した。

 エネミスクリアが体中を震わせているときに魔姫は四つん這いになりながら床を駆け抜けていた。エネミスクリアの震えに合わせてコートの内側から浮き出ていた人面がかたかたと動き出し、黄色く光っていた目を引ん剥かせた。そんなことなどお構いなしに魔姫はエネミスクリアの巨体に体当たりをかける。自分の三倍はある体に何の躊躇いもなしに引っ付いた魔姫は、その鋭い爪でエネミスクリアの体を引き千切ろうと手をかけた。だが体を傷付けられる前にコートに着いていた人面が首を管のように伸ばし、魔姫の体に取り付いて彼女の肉を貪り始めた。あるものは手の平を丸ごと口に入れたり、あるものは尻尾を頭から飲み込んだりと、まるで魔姫そのものを胃袋に納めようとする勢いだった。

 肉体が見る見るうちに欠如していくと、魔姫は体をしゃにむに振り回すが、体中に巻き付いた人面を振り解いても人面は溢れるほど湧いて出ていた。こうなれば細胞の一つ一つが独立した存在でも意味がなかった。欠損した部分を急速に再生しても、すぐにまた新しい人面がその肉を奪っていく。その様子は無数の蟻が獲物を食い散らかすようだった。

 四分の三ほど魔姫の肉が失われると、沈黙を続けていた本体のデスマスクがくぐもった声を上げ、人面は肉を食むのを止めて魔姫から離れていった。全身の殆どを失った魔姫はエネミスクリアの体にしがみ付いているのが精一杯だったが、それも腕が途中で千切れると体を床に落としていった。その魔姫の体を人面が絡み付いて受け止め、デスマスクの真ん前に持ち上げた。するとデスマスクはその表面を蠢かせ、真っ二つに割れて大きな口を開けた。その開いた口の中心の隙間を魔姫に向け、そして魔姫が最後の抵抗といわんばかりに赤い光を点したが、その光ごと魔姫の体を包み込むように飲み込んだ。魔姫の筋肉質な両足がデスマスクにずるずると啜られていく。魔姫の体はその欠片一つ残さずにエネミスクリアの無意識の中に同化されていった。

 デスマスクがげっぷを一つすると、エネミスクリアの腹が膨れ上がった。すると体に急激な変化が現れ始めた。体中に肉が着いてより人間らしい質感に変わっていったのだ。妊娠した女性の肌蹴た体を隠すようにコートを羽織った姿になると、デスマスクは自分の腹を丁寧に擦った。自分の体に初めて愛着が湧いたうおうに隅から隅まで舐めるように眺め、うっとりする。中でも気に入ったのは手のようだった。長く、白魚のような手は指輪でもつけれそうだった。じっと手の先を見詰め、今度は手の平を見ようと手首を回すとそこにはぽつりと赤い染みがあった。

 エネミスクリアの無意識がその美の汚点とも呼ぶべき染みに悲鳴を上げると、体の不調は一極短に現れた。その染みは宛ら癌のようにあちこちに転移し始め、エネミスクリアの体を朱に染め上げていった。同時に人の形を保っていた体に次々と異変が起こる。両手は指が八本だったり指が足らなかったりと奇形に成り代わり、上半身はその形を維持できないのか徐々に溶け出していった。狂ったようにエネミスクリアが体をのた打ち回らせ、痙攣しながら体の不調に悶え苦しむ。その内に体中に現れていた赤い染みがエネミスクリアの腹に集まっていき、赤い光が皮膚の内側から点るとその肉を食い破って再び魔姫が生の雄叫びを上げた。しかしその体は完全に再生し切っていなかった。いや、それは再生ではないのかもしれない。人面に食い千切られた黒いドレスが肉体と共に修復され、新品のような状態に戻っていったのだ。千切れたエネミスクリアの体を踏み潰しながら、肌蹴た魔姫のへその傍に埋め込まれていた赤い宝石が僅かに光っていた。

 完璧なもとの状態、戦いが始まる前の状態に復元すると、魔姫はエネミスクリアに顔を向けた。エネミスクリアの体は毒に当たったかのように床でのたうち回っている。魔姫はそんな状態のエネミスクリアでも容赦しなかった。手始めに腕を引っ掴むと、力任せにエネミスクリアの体を振り回し、床に何度も叩き付けて崩れていた体を更に削いでいった。腕が千切れると今度は頭に齧り付いて、首から胴体が別れるまで弄び、頭を失った上半身が手を拱いて縋っていると、手の爪を使ってその腕を引き裂き、割れていた腹に手を突っ込んで中身を掻き回した。コートの内側に人面が残っていたが、殆どが目玉を飛び出してこと切れていた。魔姫はそれすらも引っこ抜いたり真っ二つに割ったりした。体がばらばらになると魔姫は最後に残しておいた虫の息のエネミスクリアの顔に体を寄せた。興奮しているのか息遣いがとても荒い。

 いうまでもないが既にエネミスクリアの命は完全に事切れていた。いや、正確には無意識に自分の認識を譲渡した時点でエネミスクリアという存在はこの世から消滅してしまっていた。

 エネミスクリアの頭蓋が魔姫の歯の間に挟まれる。みしみしという音が産まれると、頭に出来た隙間から血が噴出し始め、エネミスクリアの追憶は完全に砕かれた。汚れのなかった無菌室は血に染まり、真っ赤な血の海に汽笛のような魔姫の遠吠えが響いた。


 それからクレシェントの意識が目覚めたのは少し経ってからだった。ぼやけた思考がはっきり戻ると、クレシェントは口の中が鉄の味でいっぱいだったのを知った。傍で転がっている女の顔を見詰めると、クレシェントはよろよろと歩き出した。

 「また…やってしまったのね…」

 そのときだった。クレシェントはいつもと違う感覚が口許から漏れているのを感じた。震える指で唇を触れてみると、普段ならそこにない筈の堅い感触があった。ふと隣に鏡が立てかけられているを見付けると、クレシェントはそこに映った自分の姿に絶句した。鏡が音を立てて割れる。

 「嘘よ…」

 顔の半分がいまだ魔姫のままだった。唇の真ん中から始まり、右の頬までがぱっくりと開いて見るも醜い姿を映していた。右目も赤い色に染まったままで、血で汚れた牙の間には人の肉が挟まっていた。クレシェントは自暴自棄になりながら髪の毛を指でぐしゃぐしゃに掻き乱し、その顔を隠した。

 「罰…なのね…」

 人の顔から涙を伝わせてクレシェントは鏡から離れた。部屋の奥に扉を見付けると、一度だけとある有名な画家の変死体を見詰めて部屋から出ていった。



 縦横無尽に駆け巡る二匹の獣の取っ組み合いは熾烈を極めていた。既に部屋のあちこちは傷物にされ、瓦礫の中で戦っているようなものだった。あまつさえ辺りが火に包まれても二人は牙を向けることを止めず、更に闘争の火を燃え上がらせた。

 ヴァルベットは壁に食い込むように張り付いて瓦礫となった部屋を見回した。その中に自分を追いかけてきている紫薇の姿を見付けると腹に息を溜め、辺り全体に火を吹き散らした。その炎を目にしても紫薇は立ち止まらず、走りながら刃に奏力を込めた。

 『ノヴェント・キグタリス(その手は魔女のように)』

 一太刀と共に刀身から爪で引っかいたような形の光が飛び出し、炎を切り裂いてヴァルベットのもとに滑空していった。ヴァルベットはその光を見るや否や、即座に壁から飛び降りてやり過ごし、紫薇に向かって駆け出していった。

 お互いが四つん這いになりながら最高速で床を駆け抜け、前足に自慢の爪を逆立たせながら床を蹴った。二人の体が交錯し、一瞬の間が生まれるとお互いの肩から血が流れた。ヴァルベットは床に降り立つと体を反転させ、息を吸うとオレンジ色の炎を吐き出した。既に紫薇も体勢を立て直していて、その炎を見ると再び刃から指の形をした概念を弾き出した。紫薇の概念は床の上を滑空すると炎の揺らめきを切り裂いていき、ヴァルベットの口許まで近付いていった。

 ヴァルベットは途中で火を吐き出すのを止めると体を捻り、紫薇の概念を避けてみせたが頬を僅かに切られると黒い唇を歪ませた。それは笑みであり、やっと自分が獲物に対して興味が表れたことを示していた。ヴァルベットが短い呼吸をして全身の筋肉を締まらせると両手と両足に火が先立った。火は手首に絡み付き、爪先から踵を包んでヒールのようにヴァルベットの体を持ち上げた。

 「愛玩動物とは忌々しい、こうも俺の心を昂ぶらせる。いっそ家畜のままなら骨まで噛み砕いてやったものを…今はじっくりとむしゃぶってやりたいものだ」

 愛おしそうに紫薇の姿を指でなぞると鋭い指先で握り締めた。

 「その自己権威を訴えるような牙、一つ残らず引き抜いてやるから覚悟しろ。イデオロギーのない猛獣がお前にはお似合いだ」

 そういうとヴァルベットはふっと笑った。

 「俺は古典が好きでね…こう、口許をだらしなく緩めるのが好きなのさ。典型的だが実に滑稽なその話は常に観衆の目を惹き付ける。そうして笑うことによって身が引き締まった肉は…とても美味いのさ。そう、頬っぺたが落ちる位にな。だがお前を笑わせるのには骨が折れそうだ。だからさっと焼いてしまおう」

 二本の足にぐっと力を入れてヴァルベットの体が跳躍する。その姿はまるで火の塊が狼を模しているかのようだった。四本足を機敏に動かして紫薇に接近していった。紫薇はその場から動かずに腰を落としてヴァルベットを迎え撃ち、辺りに純白の鎖を具現化させ始めた。

 小さい頃、叔母はよく紫薇の体を鉄の鎖で縛り上げたことがあった。そうして逃げられないようにして余った鎖で紫薇の背中を根気よく引っ叩いたのだ。空気を切る音がすると背中に痺れるような痛みが駆け巡る。鞭よりも鈍い痛みは紫薇の背中を歪ませ、皮膚を凸凹にしていった。紫薇は本で読んだ奴隷の気持ちを芯から刻まれた。

 『ノヴェント・ルベルデュール(その鞭は狂言のように)』

 細かった鎖が徐々に肥大化し、人の腕ほどの大きさになると、先端に尖った杭が付いた。紫薇の周りに六本の鎖がうねりを上げて現れると紫薇はその鎖をヴァルベットのもとに向かわせ、伸ばしていった。標的はヴァルベットの心臓、しかしその前に口と四肢の動きを奪おうとそれぞれに狙いを定めた。

 蛇行しながら標的を突き刺そうとする鎖をヴァルベットは多彩な動きで避けていった。両腕を狙ってきた鎖は腕を振るって弾き、足を狙った鎖は跳び上がっていなした。口に向かって飛んできた鎖は顎を使って噛み砕き、磨り潰した。最後の心臓を狙った鎖は全身を火達磨にして跳ね返し、その勢いを殺さずに紫薇に一直線に飛来していった。

 紫薇は再び鎖を具現化させ、縄のように何十にも交差させて鎖の包囲網を作り上げた。その包囲網を見るとヴァルベットは床を蹴って跳び上がり、包囲網の上から紫薇に襲いかかった。だが紫薇が腕を上げると、交差した包囲網はそれに応じて持ち上げられ、落下予測地点に向けられた。

 全身を燃え上がらせるヴァルベットの体が落下すると、同時にヴァルベットの体はぐるりと丸まって急な回転をしながら包囲網に迫った。そして体が包囲網に触れる直前、丸まった体を戻して回転の力を生かしながら炎のヒールから強烈な踵落としが繰り出された。その威力は包囲網をぶち破り、床を炸裂させながら火の粉を飛び散らせるほどだった。黒煙が辺り一体を包み、ヴァルベットはその爆発地点から遠ざかって煙が晴れるのを待った。

 煙から現れたのは顔の半分を血で濡らした紫薇の姿だった。脳天から額に大きな傷が出来て、そこから並々と血が溢れていたのだ。痛みと出血が視界が揺れるのかふらふらと下半身が覚束なかった。

 そのあられもない紫薇の姿を見ると、ヴァルベットはにたにたと笑いながら次の手に回った。息を大きく吸い込んで腹を膨らませ、そのまま数秒ほど待つとぼこぼこと腹太鼓が鳴り始め、息を吐くと口の中から火の代わりに暗灰色の煙が噴出された。その煙は生きているかのように紫薇の周りを囲い、辺りの景色を完全に煙一色にしていった。その煙はただの目晦ましでなく、それ自体が高温で毛むくじゃらの体の紫薇の水分を奪っていった。紫薇は舌を出して仕切りに温度を調節するも、乾燥した空気が舌を割っていった。

 「このまま干乾びさせるのが目的なのか…それとも煙の闇から隙を窺っているのか…狼らしいあざとい手口だ…」

 やっと頭の痛みに慣れて来ると、今の状況に紫薇は悪態を吐いた。

 がむしゃらに煙を過ぎってみようかと思っていた矢先、紫薇は背筋に嫌な気配を感じるとすぐに体を跪かせた。ヴァルベットの火が紫薇の背中の上を通り抜ける。尻尾を伸ばして防御しても火の熱さは身に堪えた。

 「俺がただ指を咥えているだけだと思うなよ…その出鼻、挫いてやる…」

 紫薇は息を止めて目を閉じ、意識を集中させた。すると紫薇の傍、四方八方に真っ白い十字架が現れて、それらが半球状に集っていった。

 『ノヴェント・アーグネルギス(その墓は偶像のように)』

 あらゆる角度に向けて十字架が発射されると、紫薇は歯を噛み締めながら煙の中を突っ切っていった。体中の皮膚を高温の煙に焦がされながらも紫薇はやっと煙の外に抜け出した。だが紫薇は目を開けて視界に映ったものに愕然とした。左胸を十字架に突き刺されながらもヴァルベットは煉獄から抜け出した紫薇を待ち構えていたのだ。

 そのとき、ヴァルベットは紫薇の反応が偶然にも自分を上回っていたことに気付かなかった。それが左胸の傷のせいによるものなどヴァルベットは思いもよらなかっただろう。完全に仕留めたと思いながら火の腕を振るうヴァルベットに、紫薇の光の刃が向けられた。

 『ノヴェント・ディベラ・キグタリアス(その腕は割れた鏡のように)』

 紫薇は剣を左手に持っていた。その概念は空だった紫薇の右手の中に現れ、太い光の刃となってヴァルベットに振りかざされた。その危機にヴァルベットの生存機能が機敏に反応し、狙っていた紫薇の首から光の刃に変更された。硬質化したヴァルベットの手の平は光の刃を受け止めはしたが、次にやって来た紫薇の左手に握られていた剣までは反応し切れなかった。へその上に鋭い痛みが生まれ、切られた筋に沿って血が噴出した。幸い、皮膚に触れたのは切っ先だけで深い傷にはならなかったが、その痛みはヴァルベットの矜持を大きく傷付けた。

 「この小動物が…!」

 刃を通して紫薇はこの機会を逃がす訳にはいかないと全身の力をフル限界まで起動させた。紫薇は体を曲げたまま白い鎖を具現化させ、ヴァルベットに向けた。床から現れた鎖の先はヴァルベットの心臓を狙って突き出される。ヴァルベットはその鎖から逃げようとしたが今、体を野放しにすればこの手を押し退けようとしている概念をまともに食らってしまうと初めて焦りを覚えた。しかしそれはヴァルベットの誇りを更に踏みにじり、怒りの炎を点す結果になった。

 白い鎖の先っぽがヴァルベットの体に侵入するとその傷口から火の粉が溢れ、鎖は徐々に蕩けていった。すると妙な緊張感が紫薇の胸を突いた。風船を針で突くような心臓をきんきんと締め付かせるような感覚。その緊張感はやがて現実となって紫薇に降り注いだ。ヴァルベットの傷から噴出した血がマグマとなって燃え盛り、噴火のような怒号と共にヴァルベットの体から炎が球状に広がっていった。

 怒号の残響が治まると辺りはどろどろに溶け、至る所が焦げてしまっていた。ヴァルベットを陥れようとしていた紫薇の鎖も刃も燃え尽きていた。にも関わらずヴァルベットの胸部に一閃が煌いた。紫薇の体に焦げた箇所はどこにも見当たらない。紫薇はこのとき、初めてアイロニーの盾と呼ばれる瞬間的な絶対防御をしてみせたのだった。

 「ニヒルに生きるのも悪くないもんだ」

 紫薇は全身におぞましい感覚を覚えた。たった一度だけ紫薇はアイロニーの盾を具現化させることに成功していた。紫薇はその感覚に苛まれつつも逃げ惑うヴァルベットに追撃をかけた。

 紫薇の処女の庭園に実は深く根付いていた概念があった。実際に対峙してその概念の美しさと導き手の意識を肌に通して味わった紫薇はそれ以来、どこかその概念に惹かれていた。自分と似ていながらも決してその人物が持つ誇り高さには届かない。認めたくはなかったが紫薇はランドリアという男に心底憧れを抱いていた。

 『ノヴェント・ラグエル・アーガテスタ(その背中は情景のように)』

 細い線のような光の柱が幾つも連なって波打ちながら床を駆けていった。バイオグラフのような曲線を描いた波がヴァルベットの体を駆け巡る。しかしヴァルベットは全身を硬質化させ、体を丸めることで最小限のダメージに抑えた。

 「あの一瞬で概念の展開を読みやがった…!」

 しかし紫薇にこの好機を逃がしてはもう後はなかった。意を決した紫薇は持てる全ての概念をヴァルベットに降り注ごうと意識を集中させた。紫薇の体から奏力が溢れ出すとヴァルベットは防御を解いて我先にその場から離れていった。

 『ヴィスタージア・キグタリアス・プロウォーデ(その嵐は悲鳴のように)』

 ヴァルベットは一瞬で座っていた場所から遠く離れたものの、紫薇が具現化した概念は辺り全体を覆うほどだった。小さな光の線が床から渦を巻いて幾つも現れ、その無数の線はやがて眩い光を照らしながら豪雨を齎す嵐のように上へ上へと上昇していった。そのときの風の音は宛ら悲鳴のようだった。嵐はヴァルベットを捕まえると全身を切り刻み、その姿を宙に浮かばせていった。

 嵐の悲鳴が最高潮を迎えたとき、突如として天辺から炎の渦が吹き荒れて光の嵐を吹き飛ばしていった。火の渦は嵐と反対の回り方をしていて、嵐に少なからず抵抗されるも完全に嵐を掻き消した。紫薇はその光景を見ても驚かず、努めて冷静に次の概念を具現化させる。

 紫薇は左手をヴァルベットに突き出し、右腕を添えるようにして平行に並べて肘をゆっくりと引く。すると紫薇の周りに薄い布のような光が横に広がった。そうして新たな概念を導こうとする直前、ヴァルベットは口から渦巻き状の炎の塊を吐き出した。赤い光が紫薇の体を染め上げると轟音が炸裂し、黒い煙を上げて火が吹き荒れた。ヴァルベットは命中したことを確信したようにほくそ笑んだが、煙から現れた焼け焦げの紫薇の手にしっかりと矢が装填されていたのを見ると目を見開いた。

 「…くたばってないでがっかりしたか?お前の心臓にどでかい穴を空けてやるよ。そら、のた打ち回れ」

 『ノヴェント・スプレオジー(その枯れ木は生き写しのように)』

 その矢は紫薇の性根を表わしたように腐りかけていた。大きさは人の心臓を貫くには丁度いいサイズだった。白い矢尻は心臓の形でその先っぽが蔓のように伸びている。紫薇の指が離されると、矢は独りでにヴァルベットの心臓を狙っていった。

 「積年の恨みが募った矢だ、避けてくれるなよ。まあ、逃がしゃしないが」

 ヴァルベットがその場から動けないのには理由があった。一つはその矢がどう見ても威力に乏しく避けるのに値しない点、もう一つはいつの間にか自分を封じ込めるように新たな概念が両側に現れていたからだった。

 『ゼーレライ・アルデット・キグタリアス(その景色は自己愛のように)』

 雪の結晶を形取った直径五センチほどの鏡がヴァルベットを取り囲むようにして具現化されていた。一つ一つにヴァルベットの歪んだ姿が映し出され、その虚像はどれも醜い姿を曝け出されていた。ヴァルベットは周りの状況を視認すると、全身の体毛を針のように短く伸びて硬質化していった。

 肉を突いた音の代わりにオレンジ色の火花がヴァルベットの胸部から光った。矢の先は灰色の毛に防がれて肉を貫いていなかった。だが矢はじりじりとその先っぽを推し進め、肉を貫こうとしている。ヴァルベットは矢を体から引き剥がそうと両手を矢に触れた。すると急に耳の中に子供の悲鳴が劈くように木霊した。ぐらりと脳が揺れると、ヴァルベットははっとしながら矢を打ち抜いた紫薇の顔を見た。じっと見詰める淀んだ瞳。その目の陰りは矢に込められた深い恨みと悲しみを映しているようだった。

 矢はヴァルベットの分厚い体毛を刳り貫いて肉を穿った。余りの痛みにヴァルベットの口から悲鳴が零れるも、紫薇の顔は曇ったままだった。矢の残り火は心臓からずれた場所、人間でいうと肺の上辺りから噴出していた。紫薇はその光景を見ると、眉間にしわを寄せながら舌打ちをして剣を握り締め、駆け出した。

 ヴァルベットの踵が二度後ろに下がると上を向いていた顔が力任せに下がった。目には有りっ丈の殺気と、完全な外敵へと成り上がった紫薇に対する憎しみの念が込められ、言葉にならない叫び声を上げて両手に火を点した。

 二人の体が間近に迫ると原始的な攻防が繰り広げられた。感情に身を任せて腕を振るい、血肉を貪る。高熱を帯びたヴァルベットの手が紫薇のぴんと立っていた右耳を削ぎ、限界まで研ぎ澄まされた紫薇の刃はヴァルベットの脇を下から切り上げた。もう片方の腕が振りかざされると、紫薇は刃で受け止めたがヴァルベットの熱は刃を拉げ、大きく凹ませた。その状況に紫薇の気が一瞬、遅れるとヴァルベットの足の先が紫薇の脇腹に突き刺さった。だが紫薇は肉の焦げた音にもめげずに柄から手を離して指先をヴァルベットの胸に減り込ませ、体を引き裂いていった。その際、紫薇の爪の何本かは捲れたり折れてしまったが、その程度の痛みでは興奮は収まらなかった。

 ヴァルベットは体を切り裂かれ、更に感情を爆発させながら紫薇の体に噛み付こうと長い顎を突き出した。紫薇はその噛み付きに自分も顎を出して対抗しながら白い鎖を具現化させ、自分の手足に巻き付けてヴァルベットの牙が体を蝕む前にその場所から遠ざかった。しかしヴァルベットの体は白い鎖の運動に合わせて動き出していて、紫薇の眼前にのめり込むとしっかりと両腕を捕まえて紫薇を押し倒した。

 紫薇の視界に大口を開けた狼の喉が映り込み、首元に違和感を感じるとすぐに凄惨な痛みが紫薇を襲った。ヴァルベットの強靭な顎は紫薇の肩と首の間の肉を即座に食い千切ったのだ。ヴァルベットの口許が真っ赤に濡れるとその血は瞬く間に蒸発していった。

 ぼこぼこと気泡が弾ける音がヴァルベットの腹から鳴り響く。紫薇はその腹太鼓を耳にすると死に物狂いで頭を回転させた。そしてあることを思い出すと使い忘れていた尻尾に意識を集中させ、先っぽを尖らせると今度こそヴァルベットの心臓目がけて尾を繰り出した。真っ白く、剣のように尖った尾はヴァルベットの体をぶち抜き、心臓を貫いてヴァルベットの体を仰け反らせた。ヴァルベットは辛うじて二本足で立ってみせるも、自分の体を抉った紫薇の尻尾が引き抜かれると、だらりと口を開けて長い舌をだらしなく伸ばした。腹の中で用意されていた粘着性の灰色の液体が床に零れ、煙を上げる。その合間に未だ怒りを収まらせていない紫薇の体が引き起こされ、大量に出血しながらもヴァルベットを睨み付けた。

 「…お前だけは…お前だけは殺してやる…」

 余力を残していないのか、紫薇の体はいつの間にか人間の状態まで戻っていてしまっていた。それでも紫薇は最後に残った力を振り絞り、怨念に突き動かされながら剣を握った。その光景は事切れたヴァルベットの目には映らなかった。息も立てずに天井を見上げている。天井は二人の激動によって至る所に亀裂が入り、僅かな月明かりが洩れてヴァルベットの目を照らしていた。それは勝利の分配と呼ぶには余りにも微量だが、魔性の力には十分過ぎる量だった。

 紫薇の両足が突き動かされ、雄叫びを上げながら剣を振りかざしたときだった。その雄叫びよりも更に甲高い遠吠えと共にヴァルベットの肉体が急激に肥大化し、その目により強烈な魔性の光を点して悪辣と化した爪を紫薇の体に叩き込んだ。紫薇の体は三つに裂け、繋がっているのが不思議なほど深い切り込みが刻まれた。

 小さな血の海の前に現れたのは呆れるほど巨大な狼の姿だった。筋肉質な腕や脚は魔姫を思わせ、背中からは鰭のような突起物が伸びて青白く発光していた。逆に尻尾は細くなり、顔は狼というよりは爬虫類に近い顔付きに変わっていた。しかし胸に空いた穴はヴァルベットの顔を青ざめていた。

 「オ前ヲ見縊ッテイタコト…深ク詫ビヨウ…」

 声は無機質なものに成り変わっていた。

 「コノ姿ヲ晒シタノハアノトキ以来カ…。オ前ノソノ高貴ナル体ハ大地ニ捧ゲルトシヨウ。…魔姫ノ匂イガ近イ、今ナラバ邪魔ヲする者モ居ナイ。今度コソ我ガ血肉トナレ、壊乱ノ魔姫ヨ…イヤ、我等ガ母、ヴィシェネアルク…」

 ヴァルベットは床に飛び散った紫薇の体を見送って壁を破壊しながらその部屋を離れていった。

 横たわった紫薇の体からは血が溢れ返っていた。そればかりか辺りには砕かれた剣の破片や引き裂かれた肉片が血の海に浮かんでしまっていた。不幸にも天井から洩れていた月光は紫薇の体に当たることはなかった。

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