50話 飛べないピーターパン

 クレシェントは目の前に広がっている光景に固唾を呑んでいた。ガラス張りの天井から降り注いだ月光を受けて大きな目がてらてらと赤く光っている。目は林檎ほどの大きさで、鋼色の頬を少しだけ寄せたとぼけ顔だった。身の締まった筋肉質な体は優に十メートルを越えている。巨体は既にアシェラルで慣れていても骨と違い、現実味のある人の体はクレシェントを動揺させるには十分だった。また左手に握っている一際大きい肉きり包丁が光るとクレシェントは自然と目をやった。

 「今夜は良い天気だな、お嬢さん」

 野太い声が一つ響くとクレシェントは思わず身構えた。

 「そう恐がらなくても良いじゃないか、何も取って食やしない。まあ、見た目がおっかないってんでこうして半笑いを浮かべてるんだが…やっぱり未だ恐いか?」

 にいっとクレシェントの指ほどの大きさの歯を見せた。

 「…貴方は虹拱結社の械節でしょう?」

 「しがない歌い手と言いたいところだが…そうだと答えるしかないね。第四械節をやっているネロカロドゥスだ。親しみを込めてお肉屋さんとでも呼んでくれ」

 「私は…壊乱の魔姫と呼ばれている者です。ゾラメスを探しています」

 「おい、ゼルア級だなんて聞いてねえぞ。誰か俺の頭を殴ってくれ、これが夢だと確かめたい。お嬢さん、出来の良いとんかちを持っていないか?」

 クレシェントは終始すっとぼけるネロカロドゥスにやや疲れを感じた。自分がゼルア級だと明かしても逃げる素振りはおろか恐がる様子もなかった。

 「あの…私がゼルア級だと知っても驚かないんですか?」

 「いや、驚いてるよ。少なくとも今のこの状況が俺の人生においてケツに火が点いているってことだけははっきりしてる。何でまたあんたみたいな美人がゼルア級なのかわからないし、こんな辺鄙な場所にいるのかはわからない。だがな…」

 ネロカロドゥスは惚けた顔をしたまま肉きり包丁を突き付けた。

 「この先に行こうとしてる脳みそが糞で出来ちまっている奴、若しくは誰かにケツを蹴っ飛ばされて嫌々こんな場所に連れて来られた奴が居るのなら、俺ァそいつをぶった切ってやらにゃならねえ。…下品で失礼」

 顔を少しだけ曲げて謝った。

 「そこを退いては貰えないんですね」

 「もっとシンプルに行こうじゃないの。着飾った言葉や体裁の良い表現なんてクソッ食らえだ。だろ?」

 「…そうですね」

 クレシェントはつい口許を緩ませてしまった。

 「良いねえ、その笑顔。思わずキスしたくなるぜ。でもま、お互い叶わぬ恋だ。精一杯やったろうじゃないの!なあ、壊乱の魔姫サンよ!」

 大きな肉きり包丁を持ち上げた途端、巨体に似合わない機敏な動きでクレシェントの真上を通り過ぎていった。クレシェントはその軌跡を目で追うと、ネロカロドゥスが壁に張り付いて今正に自分に向かって飛びかかろうとしている最中だった。

 ネロカロドゥスの巨体が再び宙を飛ぶ。天井すれすれまで跳び上がった所でぐるぐると体を回転させ、そのままクレシェントの真下に落ちていった。肉団子の先から突き出している包丁が床を真っ二つにした後、その重量が床を凹ませた。クレシェントは横に飛び出してその一撃をかわし、ネロカロドゥスに手を向けた。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 肉団子がもとの体に戻ると、四肢と首にそれぞれ血の腕が絡み付いてネロカロドゥスの体を縛り上げていった。クレシェントは初見からネロカロドゥスの実力の高さを肌で感じ取り、半分殺すつもりで力を入れた。

 「何だァ?ゼルア級ってのはこけおどしじゃねえのか?こんなんで巨剛族をふん縛ろうなんてちゃんちゃら…」

 『ディオレ・ジェネフィリア・ザード(我は惨劇を呈して)』

 ネロカロドゥスが笑い出す前にクレシェントは指先で心臓部を避けて狙った。月光の恩恵を受けているのはクレシェントも同じで、光が当たる場所まで歩くと目を真っ赤に光らせ、手の平から概念を撃ち出した。

 「…こりゃ拙い」

 真紅の光が視界に飛び込んでくるとネロカロドゥスは絶句した。巨大な体はあっという間に光に飲み込まれ、支えていた赤い腕を引き千切りながらネロカロドゥスを吹き飛ばした。ガラスの床に倒れるとネロカロドゥスの自重に耐え切れず、高い音を立ててガラスは割れていった。

 「にゃろめ…可愛い顔してとんでもねえことしやがる。お転婆じゃ済まねえぞ」

 軽口を叩きながらもそれなりの痛みはあったようで胸を擦りながら立ち上がった。

 「やっぱりこの程度じゃ倒れやしないわね…」

 平然と体を起こすネロカロドゥスを見て呟いた。

 ネロカロドゥスは足元で割れていたガラスを取り除いて中に埋まっていた黄金の歯車を掴み、力任せに引っこ抜いた。そして腰を回して自分の体よりも大きい歯車をクレシェントに放り投げた。歯車は床と水平になりながらフリスビーのように宙を滑空していった。その歯車を見るとクレシェントは股を広げ、腰を落として全身に力を入れた。

 低い衝撃音と共にクレシェントの懐で歯車がぴたりと止まった。両腕で抱え込むように受け止めた歯車をクレシェントは相手に見せ付けるかのように片手で持ち上げる。歯車を斜めに持ち、狙いを定めるクレシェントを見ると、ネロカロドゥスは即座に包丁を背中に仕舞い、四つん這いになって走り始めた。巨大な肉壁が迫って来るような錯覚に陥られながらクレシェントは限界まで引き付け、思い切り腕を振るった。歯車がネロカロドゥスの目前に投げられると、あろうことかその歯車はまるで紙っぺらのように腕で弾かれ、明後日の方向に飛んでいってしまった。ネロカロドゥスはその大きな手を重ね合わせ、拳を作ると小さな体のクレシェントに打ち下ろした。大小それぞれの大きさの手がぶつかり合う。クレシェントは手首を交差させてその拳を受け止めた。

 「(この人…私よりも…!)」

 しかしネロカロドゥスの腕力はクレシェントの比ではなかった。僅かに拮抗するも、更に加わった相手の力はクレシェントの膝を曲げ、体を屈ませてしまった。それに伴いクレシェントの足元が陥没し、二人の高度差が上がっていく。このままでは押し潰されるとクレシェントは恐怖した。咄嗟に処女の庭園から概念を導き出す。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 挫けそうになりながもクレシェントは見事に概念を具現化させた。ネロカロドゥスの体中を幾つもの槍が床から現れ、突き刺していった。野太い男の悲鳴が上がり、重なっていた手が離れ、やっとクレシェントのもとから圧迫感が去った。だがその一瞬の油断を突いたかのように分厚い手の平がクレシェントの体を打ち払った。静止画のようにクレシェントの体が折れ曲がり、その直後に床の上を飛んでいった。一度だけ床に打ち付けられるとクレシェントの体は床に引き摺られ、全身を痙攣させた。

 口いっぱいに鉄の味が広がると、クレシェントは小さな堰をしながら顔を上げた。前に出ている左腕が妙な方向に曲がっている。不意にネロカロドゥスの気配を天井から察知した。その頃ネロカロドゥスは宙に跳び上がり、肉きり包丁を構えていた。起き上がらなくては、しかし痛みはその行動を緩やかに邪魔していた。そのとき、クレシェントは背筋を凍らせた。ネロカロドゥスの視線は自分の体よりも前に出ていた左腕を狙っていたのだ。反射的にクレシェントは腕を引っ込める。

 左腕が置かれていた場所が炸裂した。腕よりも体を優先させていたらと絶句する。クレシェントは体を震わせるのを我慢しながら立ち上がった。だが再びネロカロドゥスの手が払われ、岩盤のような手の甲が間近に迫ると、クレシェントは腕を曲げて肩全体で手の甲を受け止めた。衝撃で体中がぐらりとする中、クレシェントは手の感覚を頼りにネロカロドゥスの肉をしっかりと掴み、歯を砕きそうな勢いで噛み締めながらその巨漢を引っ張り上げ、半秒、床と垂直にネロカロドゥスを持ち上げるとそのまま床に打ち付けた。

 この機をクレシェントは逃がさなかった。即座にネロカロドゥスから離れると庭園から奏力を練り上げ、より一層その目を光らせると奏力を一点に集中させた。

 『ベルウェルン・ジェネフィリア・マーギ(独唱はみな光を遮って)』

 クレシェントの目の前に凝縮された赤い玉が瞬間的に解き放たれ、血の大洪水となって辺り一帯をネロカロドゥスもろとも洗い流していった。指し物ネロカロドゥスも手が出せず、その波に飲まれると体を流され、壁に激突すると空いた穴に吸い込まれるように消えていった。

 一時的に部屋の半分は血で溺れ、壁にその染みを作ると徐々に潮は引いていった。クレシェントは濡れた床を歩きながら壁の穴に近付くと真っ赤な剣を具現化し、握り締めてその穴を険しい表情で見詰めた。そう、これで終わりではないのだ。巨剛族とは亜人の一種であり、人が魔獣に近付いた存在。故に魔に近付いた本性を隠し持っているのだ。自分も同じ魔性の力を持っているクレシェントだからこそ、本能的にその危険性を読み取ったに違いない。やがてその危険性を具現化するように壁に空いた暗闇から二つの赤い光が浮かび上がった。

 「これが巨剛族の本性の姿…」

 皮膚は文字通り鋼で形作られたように平らで鈍い光沢に包まれていた。腕は三角形を取り、そこに手がくっ付いているようだった。逆に足はやや細めになり、爪先には水かきがあった。顔はもう人のそれとは別物で口が尖り、鰐のような短い顎をしていた。背中には宝石で出来たひれがあってその内の二つが伸びて肩から前に突き出ていた。頭や腰から伸びた角や尾も宝石の類で出来ていて光を放っていた。変化したネロカロドゥスの叫び声は一変して電子音のようだった。

 クレシェントは唾を一飲みして剣を構えた。ゆっくりと光を反射しながらネロカロドゥスが歩いて来ると、月光を浴びて更にその力は高まっていった。その光景はどう転んでもクレシェントに勝機はなかった。それはクレシェント自身もわかっているのかもしれない。それを表わすかのようにネロカロドゥスが近付いてくると、足を半歩下げてしまった。大いなる母の証、その魔性に満ちた力の欲望は一向に現れない。それはクレシェントが完全に後継者としての権利を得たからだった。しかしその過ぎた力をクレシェントはとても使う気にはなれなかった。その力こそ自らの手を汚してしまった忌むべきものなのだから。

 クレシェントはその力に打ち勝つように気合を入れ直し、再び槍を具現化させて一斉にネロカロドゥスに差し向けた。魔姫の力に溺れる訳にはいかない、そう心の中で叫びながら概念をぶつける。しかし無常にもその意思は磐石となったネロカロドゥスの皮膚によって止められてしまった。びくともしないその状況にクレシェントが絶望しているとネロカロドゥスは武器のような手を突き出した。クレシェントは辛うじて意識を戻すと、持っていた剣を床に刺して踏ん張った。水かきのような指の間は薄い刃になっていてぎちぎちと音を立てた。それでも尚ネロカロドゥスの釘のような指先はクレシェントを引き裂こうと暴れ、鋭い爪は服を裂いて彼女の体を傷付けた。

 片手で剣を抑えながらクレシェントはその腕の下からもう片方の指先をネロカロドゥスに向け、赤い光を撃ち出した。鋼の体もその力には敵わなかったのかぐいぐいと押され、二人の距離は遠ざかっていった。だが一向に光はネロカロドゥスの体を貫こうとはせず、終いには光を受け切ってしまっていた。

 不意にネロカロドゥスの両腕が機械のように上げられ、手をクレシェントに向けると爪が弾丸となって射出していった。クレシェントは剣を引き抜いて巧みに刃先を動かし、弾いていったがその一発自体が非常に重く、十発のうち二発を体に刺してしまった。しかも体に刺さった爪の後ろにはワイヤーのようなものが付いていて、ネロカロドゥスの腕の動きに合わせてクレシェントの体は持っていかれてしまった。脇腹と太股を貫いた爪は取れる気配はなく、またワイヤーも恐ろしく硬い素材で出来ていた為に脱出は困難だった。

 壁に打ち付けられ、床に叩き付けられた後にクレシェントは痛みを覚悟してワイヤーを掴むと一気に引き抜いた。か細い悲鳴を上げて床にのた打ち回り、必死に体勢を立て直そうとしていたが、ネロカロドゥスの手は再度クレシェントに狙いを定めてしまっていた。十本の爪が再び発射されるがクレシェントはまだ動けない。いや、敢えて動こうとしなかった。

 『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』

 具現化された概念はネロカロドゥスを包み込まず、クレシェントの体を閉ざしていった。血の檻に自ら入ったことによって爪からの脅威を免れ、安息を得たクレシェントは檻を肥大化させて自由を取り戻すと、今度はその檻をネロカロドゥスに近付けて凝縮していった。そうして完全に封じ込められるとネロカロドゥスは音も立てずに沈黙した。

 ほっとクレシェントがしたのも束の間、手も足も出ない筈の状況から二本の角が檻を突き破って伸縮し、クレシェントの体を串刺しにした。幸い片方の角は外れたが、一本の角はへその脇を完全に貫通していた。瞬時に角はもとの檻の中に戻っていくと、クレシェントは腹を抑えて蹲ってしまった。拳大の穴を開けられ、喘いでいた筈のクレシェントの悲鳴が急に止んだ。一度は扱い切れなかった概念が見るも無残に食い破られていく様はクレシェントに痛覚すら忘れさせてしまったのだ。檻に閉じ込めらた怒りを露にし、ネロカロドゥスは二本の足を動かしてクレシェントに走っていった。

 部屋全体がネロカロドゥスの自重によって揺れ動く。クレシェントは傷だらけの体に鞭を打って駆け足で相手に近付いていった。ネロカロドゥスの腕が振りかざされてもクレシェントは走ることを止めない。その代わりに床を蹴って低く低く跳び、ネロカロドゥスの股の下を滑っていった。そして推進力として手の平から惨劇の光を出し、ネロカロドゥスの背中を焦がしながら距離を遠ざけていった。

 クレシェントは光を出し終えると、宙で一回転して体勢を立て直した。そして再び概念を具現化させようとする。そのとき、クレシェントは相手の姿を思い切り皮肉った。アイロニーの矛と呼ばれる諸刃の剣を使おうとした矢先、急に集中がぷっつりと切れたかの様に概念の形成が失敗した。

 「どうして急に…!?」

 と同時にネロカロドゥスが体を反転させ、肩から角を差し向けた。だが具現化が失敗したせいでクレシェントは注意が散漫になってしまっていた。気付いたときには角の先が目先に届いていた。そこに体の痛みが幸を成した。ぐらりと体をよろめかせると伸びた角の範囲から逃れたのだ。

 「今は使ってはいけないの?お母さん…」

 アイロニーの矛はその威力故に扱いが極めて難しく、また罪を自ら被ることが心理に高い異常を引き起こすことをこのときクレシェントは忘れていた。

 「それなら…覚悟を決めるしかないわね…」

 クレシェントは決死の覚悟を決め、伸ばされていた角を掴んだ。そして角が引き戻されると一緒になってネロカロドゥスに近付いていき、切っ先が届ける手前まで戻ると手を離して白兵戦に持ち込んだ。クレシェントは極限まで自己を追い込むことにより新たな概念の種を見付けることに賭けたのだ。

 ネロカロドゥスの腕が振りかざされると、クレシェントは僅かに前に出た彼の膝を踏み、腕が振り下ろされる前に肩を通り越した。背中を取ったクレシェントは刃先を宝石の隙間に突き立てた。すると僅かに宝石は欠け、クレシェントは勝機を見付けたような気がした。その場所は最後に赤い光を当てた場所だった。

 その気の緩みを突くかのようにネロカロドゥスの尾が牙を剥いた。クレシェントは咄嗟に手で掴んで受け止め、尻尾の先を首の目の前で止めた。

 「(一か八か賭けてみるしかない…!)」

 クレシェントは赤い腕を具現化させてネロカロドゥスの両腕を巻き込んで封じ、次いで尻尾もしっかりとその腕に絡めて固定させた。そしてクレシェントは宝石が逆立っている背中にしがみ付いて僅かに開いた傷口に指を突っ込んだ。その瞬間、まるで今迄の暴れっぷりが嘘のようにネロカロドゥスは荒れ狂い始めた。四奏詩と違って永続性のない三奏詩を維持するのは精神的にもナーガの自然法則からしても不可能に近かった。持てる腕力を出し切ってクレシェントはその傷口に指を、手を食い込ませると肉の中に侵入していった。そして最大級の奏力を使ってネロカロドゥスを内部から攻撃した。

 ネロカロドゥスの背中で赤い光が暴発するとクレシェントの体は外に弾き飛ばされていった。当のネロカロドゥスの背中は捲れ上がり、鉄色の血を噴出していた。クレシェントはやっとそれなりの損傷を加えられたと思ったが、ネロカロドゥスは怒り狂ったように雄叫びを上げた。本性を表わし、月光の恩恵もあってか傷の再生力は魔姫に近いものがあった。捲れていた傷は緩やかに萎み始め、クレシェントを睨み付ける。その一方でクレシェントの体も僅かに癒えていた。ネロカロドゥスに立ち向かおうとする前にその動向を目で追うと、自分の体がつくづく化け物染みているとつい笑ってしまった。

 その笑みを見たネロカロドゥスは飛びかかろうとした仕草を止めてしまった。薄ら笑いを浮かべるクレシェントの姿が余りにも儚げで、狂気に病んでしまっているかのようだったのだ。無意識のうちに身を凍らせたかのようにネロカロドゥスはたじろぎ、後退してしまった。クレシェントの赤い目がゆっくりとネロカロドゥスに向けられる。その色は同じ光を点している筈なのに何故かネロカロドゥスにはその光が真っ赤な炎を見ているように感じてしまった。

 ネロカロドゥスの視界にクレシェントの姿が急に映り込む。その速度は以前と変わりない目視することの出来る速さだった。しかし明らかにその目に映しているものが違う。それが決死の覚悟なのか、それとも単に死に急いでいるものなのかネロカロドゥスにはわからなかった。不明瞭。それこそが最も恐ろしいものだとこのとき、ネロカロドゥスは身を以って知ることになる。

 懐に飛び込んだクレシェントは手に持っていた剣をネロカロドゥスの胸に力の限り打ち付けた。短い金属音が耳を刺激するが、それでもネロカロドゥスの体には掠り傷もつかなかった。クレシェントは舌打ちをして振り回されたネロカロドゥスの腕の下を潜り抜け、後方に回って脇腹に剣をかざす。今度は火花が散るも皮膚の欠片すら取れなかった。逆にクレシェントの剣が欠ける始末だった。

 紫色に光った尾の先が向けられると、クレシェントは刃で弾くもその力に圧倒され、手元から柄を引き離されてしまった。しまったと悪態を吐いてしまうほど剣はずっと先に飛ばされ、追い討ちをかけるようにネロカロドゥスの腕が再び振り回された。クレシェントは身を屈ませ強烈な突風を頭上に感じた。視界には鋼色の足が一本見えた。もう一本の足はクレシェントに向けて突き出され、咄嗟に爪先を受け止めて床に停滞しようとするも脚部の力に及ぶ筈もなく、クレシェントの体は宙に放り出された。

 数秒もいわぬうちにクレシェントは天井すれすれまで弾み、小さくなったネロカロドゥスを見下した。二本の腕と指先が狙いを定め、射出されるとクレシェントは指と同じ数の赤い腕を具現化して一本ずつ立ち向かわせた。そして体を逆さにして天井のガラスを蹴り、剣を具現化してネロカロドゥスに突撃していった。ガラスの天井に亀裂を産ませるほど強い力で落下しながら切っ先をネロカロドゥスの額に突き付ける。赤い刃が音を立てて砕けると、クレシェントは体勢を崩してネロカロドゥスの真下に倒れ込んだ。完全に背中を見せてしまったとクレシェントは観念するも、ネロカロドゥスは一向に襲い掛かる様子がなかった。

 ふと視線に鋼色の欠片がぱらぱらと落ちてきた。目線を上げるとそこには確かに刃が額に突き刺さっていた。二度目の咆哮がネロカロドゥスの口許から流れると足をばたばたと動かして痛がった。辺りが振動する中、クレシェントはその足踏みに体を持っていかれないように注意しながら離れ、改めてネロカロドゥスの額を眺めた。刺さった刃の深さは五センチ程だったが、額に減り込んだ異物からの痛みは相当なものだろう。クレシェントは荒い息を吐きながら小指を口許に近付けた。そう、覚悟を決めた辺りから新たな概念の種を見付けていたのだ。だがその概念はクレシェントの無情と悲哀感を延々と謳っているようで、またもクレシェントは艶めいた、いや悲壮に満ちた笑みを浮かべながら手の甲を口に近付け、曲げた小指を噛んだ。

 『ゼルツェン・ジェネフィリア・ローザ(夕立は狂気を示して)』

 小指から血の一滴が流れ落ちた。心地の良い音に反して床を濡らした血の雫はあっという間に床一面に広がっていき、ネロカロドゥスの足元を濡らしていった。額に刺さった刃や新たに現れた概念など微塵も気にかけずにネロカロドゥスは足踏みしながらクレシェントに近付いていく。しかしその途中で誰かに足首をぐいと引っ張られた。その正体に目を向けると、ネロカロドゥスは絶句した。床に広がった水気のある血と違ってネロカロドゥスの足首には赤いスライム状の物体が絡み付いていたのだ。すぐさまネロカロドゥスは爪を振るってその物体を切り裂いたが、後から後からと真っ赤な粘液は体中に引っ付いて来る。無理に引き千切ろうとしても弾性力のあるそれは裂けなかった。そして終いには体中を粘液まみれにしながら足を前に出し、そのせいでネロカロドゥスは前につんのめってしまった。ネロカロドゥスは視界を真っ赤にしながら、最後に冷ややかな笑いを浮かべるクレシェントの顔を目にした。

 ネロカロドゥスが完全に沈黙したのを見計らってクレシェントはがっくりと腰を落とした。頭を上げる力も残っておらず、黙って床を眺めていると血の池は勝手に引いていった。強い力で折れ曲げられたようにネロカロドゥスの体は異常な角度を向いていた。クレシェントは少し休もう、そう思って目を閉じた。

 「紫薇…私、やっぱり無理みたい…。生きようとする度に、この心臓が私を脅かすの。駄目ね…こんなだから、貴方も振り向いてくれないのかな…」

 矢庭に心臓の音が高く鳴った。クレシェントは目を開ける。その鼓動は自分のものではない。はっとして顔を上げると、ネロカロドゥスの体が痙攣し、腕を床に突き立てて体を起こそうとしていた。

 「そんな…あれでまだ…」

 赤い双眸がクレシェントの視界に横入りすると、ネロカロドゥスは声を上げて上半身を起こした。砕けた腰を動かそうとするもクレシェントは立ち上がれない。固唾を呑みながらネロカロドゥスが膝を曲げ、その巨体をそそり立たせるのを見ているしか出来なかった。ネロカロドゥスの背中にあった宝石の背びれが萎んでいくと代わりに右腕の表面が鉱石化していった。体の三分の一を占める大きさの腕を引き摺ってクレシェントの前に歩み寄り、その腕を振り上げた。クレシェントは自分の死よりもその傷が切欠でネロカロドゥスを殺してしまうのではないかという不安に駆られていた。


 生臭い呼吸を吐きながら黄金の建物を駆け抜ける者がいた。汚れた麻のマントを頭から被り、その正体はわからない。だがはっきりした目的はあるのか亀裂の入ったガラスを見付けるとその場所に向かって両腕と両足を使って跳び上がった。


 クレシェントは最後に掲げられた宝石の腕の隣に見えたガラスの天井に誰かが映っているのを見付けた。腕が振り下ろされると同時に天井のガラスはぶち破られ、クレシェントの目の前に仄かな光が現れると、ネロカロドゥスの腕はがっしりと何かに掴まれた。いつの間にか巨体のあちこちに純白の鎖が絡み付き、突き出されていた腕には特に鎖が巻き付いた。

 天井から落下した人物が床に降り立つと、ネロカロドゥスは鎖をどうにか引き伸ばしながらその人物に目を向け、怒りを浴びせるかのように吠え立てた。

 「…やれやれ、躾のなっていない奴には鞭が必要だな。特に…お前みたいな醜い化け物なら尚更だ」

 その人物が溜め息を吐きながら腕を振るうと、ネロカロドゥスを縛っていた鎖の力は高まり、大の字に床に叩き付けた。そして手の平に真っ白な光を集めると天井を越した大きさの光の柱となり、その光を手に持って振り下ろした。

 『ノヴェント・ディベラ・キグタリアス(その腕は割れた鏡のように)』

 鎖に縛られたネロカロドゥスがその一撃から逃れる術はなかった。光の柱が通った箇所は深く抉れ、致命傷にしか見えない傷がネロカロドゥスの背中に残った。その光景をクレシェントは愕然と眺めていた。白い鎖がネロカロドゥスから消えても目を逸らせず、幻を見ているかのような錯覚だった。

 ネロカロドゥスを倒した人物の靴音が間近に迫ったところで、やっとクレシェントは我に返ってその人物を見上げた。ふわっと懐かしい匂いがクレシェントの鼻をくすぐると、思わずその人物の前を呟いてしまっていた。

 「紫薇…」

 「顔も見ていないのに良くわかったな。…立てるか?」

 頭に被っていたフードを取ると、そこにはクレシェントが感じていた懐かしさのもとがあった。どこか大人びた雰囲気を出しながら、紫薇はクレシェントに手を差し出した。少し動揺しながらクレシェントはその手の平に掴まると、ゆっくりと立ち上がった。

 「貴方は…紫薇なの?」

 「他に誰がいる?顔を見て驚けるほど、そんなに日数を空けてもいないだろう。大丈夫か?クレシェント」

 紫薇は急に言葉を詰まらせた。自分の顔を見ながらクレシェントが頬を濡らし始めたのだから無理もない。塩辛い雫が顎に触れると、クレシェントは紫薇の胸に顔を埋めて本格的に泣き出した。

 「本当に…心配したのよ…!貴方が…死んでしまったんじゃないかって…」

 「…悪かったよ」

 困った顔をして紫薇はクレシェントの頭を撫でた。

 「紫薇が居なくなってから…心細かった…。色んなことがあって…私、私…」

 「ああ、わかってる…何も言わなくて良い」

 今までの緊張がはち切れたかのようにクレシェントは嗚咽を漏らした。その間、紫薇はずっとクレシェントの後ろ髪を指で梳きながら腕の中に寄せていた。

 それからクレシェントが落ち着いたのはだいぶ後だった。そして冷静になると、クレシェントは言い様のない違和感を胸に覚えた。

 「…変よ」

 紫薇の胸の中でクレシェントはぼそっと呟いた。

 「何がだ?」

 クレシェントはそれを確かめるように顔を上げて紫薇の顔を見た。

 「だって…どうしてそんなに優しいの?」

 「は?」

 「前は私が泣き出しても、撫でてくれなかったじゃない」

 「…そうだったか?」

 紫薇は視線を明後日に向けて考え込んだ。

 「紫薇、貴方に…何があったの?身長、私より高くなってる…」

 紫薇の身長はクレシェントより頭半分ほど高くなっていた。以前はクレシェントの方が高かったのだ。更にクレシェントは紫薇の顔立ちが大人と変わらない程に成長していたのを見付けると驚いた顔をした。

 「何年…時間を跳び越えたの?」

 「…三年だ」

 その言葉を聞いた瞬間、クレシェントは崖から突き落とされたような気分になった。

 「だがその月日を費やしたお陰で、こうしてお前を間近で感じても余裕がある。頭を指で梳いてやったのも、大人の余裕が出来たからかもな」

 「そんな…」

 クレシェントは紫薇の顔を見詰めたまま体を離していった。年を跳び越える。とてもそのことにクレシェントは喜べなかった。寿命を縮めるということよりも、紫薇の周りの人間、ひいては学校の友達を差し置いて一人だけ成人になってしまうことがどんなに寂しいか。そんなクレシェントの心境を読み取ったのか、紫薇は険しい顔をした。

 「別に後悔なんてしていない。これでやっと、あの男から受けた雪辱をすすぐことが出来るんだ。今度こそあの澄ました顔を歪めてやる…」

 執念と復讐の火に燃え盛る紫薇の目を見て、クレシェントは顔を小さく横に振りながら紫薇の顔に手を添えた。

 「だけど…それじゃ…」

 クレシェントは思い違いをしていたとやっとわかった。今、目の前にいる紫薇はあのときと何も変わっていないのだ。背丈や他人に対する余裕は出来たのかもしれない、これでは子供のまま大人になってしまった哀れなピーターパンではないか。これほど悲しいことはないとクレシェントはその言葉を喉まで持って来たが、それを今の紫薇に口にすることは出来なかった。クレシェントは添えた手を力なく降ろすと、紫薇に背中を向けてぐっと涙を我慢した。

 「クレシェント、お前がここにいる理由は自ずとわかる。この建物の中に知った匂いが幾つも感じ取れるからな…。なんだ、赤縞もいるのか。大方、協会に無意識の火薬庫だったか…それを破壊するように命令された。そんなところだろう」

 「ええ、そうよ。ゾラメスを止めなければ沢山の人が犠牲になる。それだけは何としても阻止しないと…」

 クレシェントは涙を指で払い、顔を見せた。悟られないように顔を強張らせて。

 「勝手にそんな話を受けて…。馬鹿かお前は、奴らに尻尾を振ってみせることがお前の償いに繋がる訳じゃないんだぞ」

 その部分だけは変わっていないとクレシェントはやっと安心して頬を緩めた。

 「…何が可笑しい?」

 「ううん、彼にも同じことを言われたから…」

 「赤縞か…あの無頼漢と同じだと思うと苛々する…」

 相変わらず大人気ないなあとクレシェントは思った。

 「それよりもクレシェント、わかっているんだろうな?ゾラメスを止めることは…あの女とまた戦わなきゃならないんだぞ。ジブラルとな」

 「…そうね」

 治った筈の胸の傷がじわりと痛んだような気がして手を添えた。

 「あの女を殺すつもりでかかれ。さもないと今度こそお前が死ぬことになるぞ」

 「…紫薇は、ジブラルを殺すつもりなの?」

 そういうと紫薇はばつが悪そうな顔をして視線を背けた。

 「始めはそうじゃなかった。どうにか出来ると思っていたが、東の魔女に…メディストアに諭されてからゼルア級に敵うことは出来ないと思い知らされたよ。俺の実力はマクシミオ級で止まった。それが俺の限界なんだそうだ」

 「…どういうこと?」

 「ゼルア級との絶対的な境界線…超越力と呼ばれる遠大な個性が俺にはないのさ。クレシェント、お前でいえばヴィシェネアルクの力が正にそれだ。お前にとってその呪われた力の源、それがあるからこそお前はゼルア級に登録された」

 「でもそれは私が望んだものじゃなくて…」

 「俺は別にゼルア級なんて物騒なものに興味はないさ。それどころか世界を滅ぼすことの出来る面々に喧嘩を売ろうものならこっちの身が持たない、そう言いたいだけだ。クレシェント、お前がゾラメスを引き付けてくれるなら…俺が代わりにジブラルの息の根を止める。たった一度だけなら俺にはそれが出来るんだよ」

 クレシェントは以前、紫薇が奥の手があるといっていたことを思い出した。

 「二人の内、どちらの命をお前が奪うか…。全てが手遅れになる前にお前が決めろ。俺はもう…迷わない」

 そういって紫薇はクレシェントに背中を向けると、一人だけ先に進んでいってしまった。その素早さは目にも止まらぬ勢いで、クレシェントには何だかそれが死に急いでいるように見て取れてしまうのだった。

 「こんなとき…貴方なら何て言ってくれるの?デラ…」 

 クレシェントはそう呟くと力ない足取りで歩き出していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る