48話 濡れた花の臭いはまどろみに

 白銀世界と呼ばれる異空間の中でクレシェントは膝を着いて泣いていた。最後に見たデラの瞳の中に強い覚悟の色を見たからだった。それは自分の命を賭して罪を償う自己犠牲。もうあの人には会えないのだとクレシェントは実感していた。やっとお互いを理解し始めたのに、もうどんな言葉も届かない。溢れ出る涙をクレシェントは止められなかった。

 崩れそうになる心を必死に繋ぎ止めようとしても、まるで歯が合わないパズルのようにクレシェントの心は一つにならなかった。こんなにも気分が滅入ったことなどない。心はとうの昔に折れてしまっていた。

 そんなクレシェントに追い討ちをかけるようにプランジェの悲鳴が耳に入った。意識は戻っていないが額に大粒の汗を流し、折れた腕を痙攣させながら仕切りに唸っている。だが弱り切ったクレシェントはおろおろするばかりで冷静になれなかった。その間にもプランジェの悲鳴は更に高まる。終いにはクレシェントはまた泣き出してしまった。

 「私…どうすれば良いの…。誰か…教えて…紫薇…。私じゃ、何も出来ない…」

 自分の弱さに打ちひしがれ、目の前で苦しんでいるプランジェを救えないことが更にクレシェントを追い詰めた。頼れる人間がいないこの状況で、クレシェントは押し潰されてしまいそうだった。

 そんなときだった。ふと脳裏にデラの言葉が過ぎったのだ。


 「君の本当の強さは罪を認め、償いを受けることを決めたその心だ。どうかそれを忘れないでおくれ」


 もう頼れるべき人はいない。だがその背中の面影はしっかりとクレシェントの記憶に残っている。クレシェントはそのことを思い出すと、頬を濡らしながらも目に力を取り戻し、喘いでいるプランジェの体を持ち上げるとレミアの鍵を取り出した。

 「デラ…私、諦めません。だって私は…貴方の背中を見れたから…」

 クレシェントはしっかりと扉を自分の力で切り開いてみせた。指先は微かに震えている。それでもクレシェントの目は前を向いていた。



 夜空には砕けた青い月が広がっていた。その破片が小さな粒となり、少しずつ集まっていくとやがて星になる。それがナーガでの星の出来方なのだという。紫薇は魔女の屋敷の外、地べたに座って空を眺めていた。吹き付ける風は少し冷たいが心地良い。紫薇は新聞の記事に載っていた絵を思い返した。自分やクレシェントを窮地に追い込み、また命を救ってくれた人間が死んだ。人の死。紫薇は体の中に眠っている権兵衛を思い返してしまっていた。

 「なぜ、死があるか考えたことはある?」

 紫薇の後ろに立っていたのは不死と呼ばれた存在だった。

 「生があるからこそ、死があると俺は思うがね。だが実際、その二律背反を認められないのが人間だ。人の死は…慣れないものなのだと思う。まあ、死ぬことを知らないあんたに語ったところでわかりゃしないだろうよ」

 「そうね、私には死という概念がわからないから人間の気持ちはわからない。でも最近になってわかってきたのは、生き物の命が止まると何かしらその影響が現れるってことね。中にはメディみたいに感情を露にする人間もいるみたいだけど」

 リネウィーンは紫薇の隣に立つと、自分の体の一部を変化させて椅子を作り上げ、そこに腰を下ろした。椅子は足が曲がってぐにぐにしていて、リネウィーンは体を揺らしながらも話を続けた。

 「貴方が言ったことは本質的に正しいと思うわ。この世界を無数の歯車に見立ててみるとより面白いことなるの。普段は規則正しく動いている歯車が、他の止まってしまった歯車によって新しい動きを生み出し、ときに周りを加速させる。こんなこと、自然界じゃ有り得ないわ。人間ってずるいわね、死の恐怖に脅えながらも無限の可能性を持っているんだから」

 「だから化け物は人間に嫉妬するのか?」

 紫薇はクレシェントに語りかけているようで思わず口許を緩めた。それ程までにリネウィーンの顔は似ていたのだ。

 「そう…かもしれないわね。って誰が化け物よ」

 「そのなりで人間だなんて止してくれ、肝が冷える」

 「…何だか楽しそうね、貴方」

 リネウィーンにはその時の紫薇の顔がとても嬉しそうに思えた。

 「そうでもないさ。ただ…」

 その途中で紫薇は言葉につっかえた。まるで紫薇は本当にクレシェントと話しているような気になってしまったのだ。馬鹿馬鹿しいと首を横に振った。

 「そんなことよりあの女はまだ枕を濡らしてるのか?」

 「今は泣き疲れて寝てるみたいね。もう少しそっとしてあげなさいよ」

 「女って奴は…」

 「あら?貴方の恋人が死んだら冷静になれるのかしら」

 「さてね、そこまで大事な人間を持ったことがないんで皆目検討も付かない」

 「そう、じゃあそんな人が出来るように祈って置いてあげるわ」

 「ご利益のなさそうな願かけだな」

 「口の悪さはゼルア級ね…可愛げないの」

 そういってリネウィーンはやれやれと肩を竦めながら屋敷の中に入っていった。紫薇はその後姿を目で送ると、静かに胸に手を当てた。鼓動がいつもより強い。紫薇はまさかと思いながらも不安に駆られていた。

 「そんなことは…ない筈だ…」

 じわりと胸を打つ痛みに紫薇は目を瞑った。



 紫薇の家に戻ってきたクレシェントはプランジェを寝かせると、折れた腕を見た。細い腕はぱんぱんに腫れ上がり、巻かれていた包帯が苦しそうに張っていた。クレシェントは首や顔の汗を拭ってやり、包帯を解いて再びプランジェを抱きかかえた。何よりもまず病院に連れて行かなくては。そう思ったクレシェントが玄関を抜けた矢先、ふと見たことのある顔が目に止まった。

 「貴方は…」

 「お前、絵導んとこの…」

 夜にランニングでもしていたのだろうか。タンクトップ姿のその人物は確か赤縞勇璃という名前だったのをクレシェントは思い出した。

 「おい、そのませ餓鬼の腕…」

 赤縞はプランジェの腕を見るや否や渋い顔をした。

 「ええ、これから病院に連れて行こうと思って…」

 そういうと赤縞は短い溜め息を吐いてプランジェをクレシェントから奪った。

 「あ、あの…」

 「ついて来い。やぶ医者だらけの病院より、うちのジジィの方がよっぽどマシだ。心配すんな、無免許医って訳じゃねえよ」

 クレシェントは急な出来事に驚きながらも黙って赤縞に従った。病院に連れて行こうと思っていたのだが、以前に紫薇が保険証がないから馬鹿高いと愚痴を零していたのを思い出して内心ほっとしていた。


 赤縞の屋敷に着いてクレシェントを出迎えたのは朱色の着物を着た老人だった。クレシェントはその老人からとても強い血の力を感じ取って始めは警戒してしまったが、プランジェの容態を見て真摯に治療をする姿を見ると安心して警戒を解いた。

 「そういやあの馬鹿はどうした?」

 治療を仁衛門に任せて赤縞とクレシェントは居間で寛いでいた。しかしその言葉が出るとクレシェントは苦い顔をして俯いた。

 「まあ、野郎が死ぬなんてよっぽどのことがない限り有り得ねえだろ。殺したって死なねえような奴だ、そのうちふらっと戻って来る」

 「だと…良いのだけど…」

 そう思っていても日に日に不安は高まっていくばかりだった。ただでさえ押し潰されそうな状況でクレシェントはとても楽観的に考えられなかった。

 暫くすると疲れた顔をした仁衛門が居間にやって来た。クレシェントは立ち上がったて顔を見ると、その意味を察したのか仁衛門は僅かに笑みを浮かべた。

 「思った以上に手間取ったが、もう大丈夫だ」

 「ありがとうございます…」

 クレシェントは安堵の息を吐いて頭を下げた。

 「しかし実のところ…メスを握ったのは随分と久し振りだった。下手を打たないか冷や冷やしたよ」

 椅子に凭れかかると、懐からキセルを取り出して口に咥えた。

 「…本当にご迷惑をおかけしました」

 「や、気にせんでくれ。私も昔の勘を取り戻せて良かった」

 仁衛門は手を振りながらいった。

 「あの骨折は人為的にやられたものだね?誰かは知らないが酷いことをする…」

 「前に絵導をずたぼろにした奴と関係があんのか?」

 そういうとクレシェントは黙って頷いた。

 「ヴァルベット・ゼリオン…第マクシミオ級犯罪者に登録されている獣人です。私たちでは…手も足も出なかった…」

 「あの馬鹿は兎も角、お前でも歯が立たなかったってのは頷けねえ話だな」

 「正直、これからどうしたら良いのかわからない…。紫薇もいないし、それに…」

 その言葉の途中で仁衛門がキセルを灰皿にぶつけるようにして置いた。赤縞とクレシェントは驚いた顔をしたが、その理由を肌で感じ取ると窓に目を向けた。屋敷の外には暗闇に紛れるようにして一人の男がじっと三人を見詰めていたのだ。

 「あの人は…」

 「こんな夜更けに何の用ですかな?」

 仁衛門が窓を開けて身を乗り出すと、その男は笑みを浮かべながらゆっくりと近付いていった。

 「これは驚きました。出来るだけ気配を殺していたつもりなのですが…。いや、恐ろしい方がお住みのようだ」

 「…リカリス」

 まるで都合の良い瞬間を狙っているかのようなリカリスの行動にクレシェントは眉を曲げた。

 「知り合いかね?」

 「…夜更けに顔を合わせるほどじゃありません」

 「おや、これは手厳しい」

 クレシェントはまただと目を細めた。マルテアリスに似ていながらどうしてこう嫌な笑みを浮かべられるのだろうとクレシェントは思っていた。

 「特に用事もないのなら帰って頂きたいものだが…。これは明らかに不法侵入ですぞ」

 「生憎と僕はその法を生業にしていまして…。いずれにしろ敵意はありません。ただ僕はお迎えにあがったのですよ。クレシェント・テテノワール、貴女をね」

 「…私を?」

 「協会から貴女に討伐命令が下されました。ゾラメスの抹殺、この仕事を貴女に引き受けて貰いたい」

 「あの…ゾラメスを?」

 「貴女に拒否権はありませんが、もし断るというのであれば…」

 「黙って聞いてりゃ随分と嘗めた口ぶりだな。だから役人ってのは嫌えなんだ」

 睨みを効かせて赤縞は身を乗り出した。

 「外野は引っ込んで頂きたい。これは異界である我々の問題です」

 「その異界ってところの出身でもか?んなことは関係ねrけどな、顔も知らねr野郎が家の敷居を跨ってる。それだけじゃねr…踏ん反り返って女を脅すような奴ァ、俺はでえ嫌えなんだよ。ジジィ、塩まけ塩」

 「何とも野蛮な方だ。しかしそれならば貴方にも協力して頂きましょう。味方は多い方が良いですからね」

 「てめえに飼い殺されるとでも思ってんのかコラ」

 「テテノワール、断るというのであれば、まずあの女性から手にかけねばなりませんが…宜しいですか?」

 「まさか…羽月さんを!?」

 「僕もあんな美しいご婦人を汚すなどしたくはないのです。それと余り時間もないものですから、さっさと決めて頂きたい」

 赤縞とクレシェントが今にも食ってかかりそうな勢いを前に仁衛門は冷静に口を開いた。

 「娘さん、この馬鹿孫で良ければこき使ってやって頂きたい。きっと役に立つでしょう」

 「で、でも…」

 「心配はいらない。もう今の勇璃はちょっとやそっとでは倒れないようになっている。連れて行きなさい」

 「ジジィ、弱腰になってどうすんだ。野郎の言い成りになれってか?」

 「この状況で断れる筈もあるまい。もう少し冷静な判断をしろ、勇璃」

 そういうと赤縞はばつの悪そうな顔をしてそっぽを向いた。

 「ご理解が早くて助かります、ご老体」

 「見かけ通り長い時間を生きているのでね。若造の脅しに屈したりはせんよ」

 その言葉に初めてリカリスは笑みを止めた。

 「何をその腹に潜ませているかは知らんが、楽に死にたければ生き方を変えた方が良いぞ。人を化かした者の末路など、惨たらしいものだ」

 「…ご忠告、感謝しますよ」

 目を閉じながら笑ってみせたが頬は動揺した様に引きつっていた。

 「では参りましょうか。先ずは協会の一室に来て頂きますよ」

 リカリスは懐から白い鍵を出すと宙に扉を開けて二人を手招いた。

 クレシェントが屋敷から離れる際、仁衛門はあの娘さんは任せなさいといった。そして赤縞には気を付けていってこいと背中を叩いて二人がその場からいなくなるまでじっと見詰めていた。



 やんわりとした日差しが頬を暖めると紫薇は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようで、芝生の上で上半身を起こすと背中に毛布がかかっていたことに気付いた。リネウィーンがかけてくれたのだろうか、それともメディストアだろうか。紫薇はそのことを確認するため屋敷の中に入ってみたが、中には誰もいなかった。閉ざされている部屋のドアは相変わらず静寂を頑なに守っていた。紫薇は溜め息を一つ吐くと、顔でも洗おうと外に出て近くにある湖に向かった。

 湖は透明度の高い清らかなものだった。手を水の中に入れると、指先から手の平までひんやりと水気が染み渡る。水を掬って顔にかけると、寝惚けていた頭が冴え渡る様だった。ふと紫薇が湖を眺めると、底の方で何かが動いたのを目にした。魚だろうと気に留めなかったが、その動き回った何かは水の中で紫薇を目指して勢いよく飛び上がった。

 「うわっ!」

 水面から赤い目をした人間が飛び出て来ると、紫薇は思わず尻餅を着いた。魚だと思っていたのは実は人間だった。しかしその下半身は魚の尾びれになっていて紫薇は本で見た人魚というものを思い出した。

 「やっぱり姉さまのにおいがする!あなた、姉さまを知っているの?」

 水面から身を乗り出して紫薇を見詰めるが、上半身が裸である為に紫薇は恥部から視線を逸らしながらもその人魚を眺めた。魔姫と同じ真っ赤な目に薄い水色の髪の毛。容姿は紫薇が感心するほど端正なものだった。そのとき、何故か紫薇はその人魚の顔に母親の面影を感じた。

 「何の話だ?俺は人魚と知り合いになったことはないぞ」

 「人魚じゃないよ、彩魚族って言って!」

 「わかったわかった、それでその彩魚族が何の用だ?」

 その人魚はまだ年若いのか、溌剌としたところがクレシェントに似てどこか紫薇はやり辛かった。

 「あなたの体からほんの少しだけど、姉さまのにおいがしたの。初めはまた河に落ちた人なのかなって思ったんだけど、近付いてみたらびっくりしたわ」

 「ならお前が俺を助けた彩魚族だったのか…そうか、礼をいう」

 「どういたしまして」

 にっこりと笑うと口許から牙が出た。

 「お前には悪いが俺は人魚と会ったことなんてない。何かの間違いだろう」

 「そうかなあ…ちょっとこっちに来て」

 いわれるままに紫薇は湖に近付いてみると、その人魚は紫薇の体中を嗅ぎ始めた。

 「うーん、ほんっとに僅かだけどにおうんだけどなあ…。私、鼻には自信あるのに」

 「まあ、そういうときもあるだろう。お前、名前は?」

 「私?私はアナスタシア・ルール・サファイウィーグ。実は何を隠そう、彩魚族のお姫様なのです。あなたは?」

 「紫薇だ」

 「ぷっ、変な名前ね」

 アナスタシアは活きが良いように跳ねながら笑った。

 「同感だ。こんな名前にした奴の気がしれない。それより姫だなんて言っていたが、彩魚族はそれほどの社会生態を持っているのか?」

 「うん、この湖を上っていったところに私たちの住処があるよ。あと実は私が王族だっていうのは秘密なの。誰にも言っちゃ駄目よ。母さまに叱られちゃうから」

 「わかった、約束する」

 社交的だが頭の悪そうな子供だなあと紫薇は思った。

 「ねえ、良かったら一緒に私たちの住処に来ない?案内してあげる」

 「いや、丁重にお断りさせて貰う。何しろ泳げないんでね」

 そういうとアナスタシアは残念そうな顔で俯いた。

 「その代わり、もう少し俺の話相手になってくれないか?実は考えていた予定がポシャってね。暇を持て余しているんだ」

 「うん、良いよ!」

 それからアナスタシアと紫薇は時間を忘れて語り合った。初めはアナスタシアが彩魚族のことについて語り、紫薇は自分の世界のことを話した。アナスタシアは紫薇の話にとても興味があるようで、何度も質問をして気付けば紫薇の話が主体になった。

 「じゃあ、あなたの世界では音楽が主流なのね。良いなあ、聞いてみたい」

 「暇が出来たら何か持って来てやるよ。覚えていればの話だが」

 「ふふっ、あなたってちょっと意地悪ね。でもやっぱり違う世界ってあったのね。姉さまが言ってた通りだなあ…」

 湖の端に両腕を着いて尻尾を揺らした。

 「お前の姉は他の世界のことを知っていたのか?」

 「うん…あのね、本当はこれは絶対に話しちゃいけないことなんだけど…」

 心配そうに紫薇の顔を見詰めると、紫薇は誰にもいわないと頷いた。そしてその話は確かに誰にも話せないことだった。

 「姉さまは…妖精のかけらを持っていたの」

 「…何だって?」

 七人目の妖精のかけらの持ち主がわかると紫薇は唖然とした。

 「妖精のかけらは触れてはいけない禁忌のもの。綺麗な石なのに母さまはその石をとても恐がったわ。それで…彩魚族の里から姉さまを追放したの。可哀想な姉さま…姉さまは誰よりもこの湖が好きだったのに…」

 「…それでその女は今はどこに?」

 「わからないの。でも姉さまは最後に教えてくれたわ。もうこの世界にはいられない。だから他所の世界に旅立つって…あなたの体から姉さまのにおいがしたから、もしかしたら姉さまと会ったことがあるのかなって思ったんだ…」

 「…まさかその女も向こう側に辿り着いたのか?数ある世界の中からまたも?」

 紫薇はこの偶然が偶然でないような気がしてならなかった。そしてふと以前にリカリスがいっていたことを思い出した。


 「貴方はただ踊らされているに過ぎない」


 その言葉が延々と脳裏に響いている。自然と眉間に力が篭ると、アナスタシアは心配そうに顔を覗いた。

 「どうしたの?そんな恐い顔して?」

 「いや、ことが軌道に乗らないと自分を呪ってたところだ。困った話だよ、メディストアも部屋から出て来ないしな…」

 「もしかして用事って、メディに用があったの?」

 「ああ、ちょっと稽古を付けて貰おうと思ってね。ところがだ、間の悪いときに訃報がやって来て、それからずっと枕を濡らしてる。扉を叩いても無関心でね」

 「メディに何かあったの?」

 「恋は盲目ってところだ」

 「…良くわからないけど、なんだか可哀想…」

 そういうとアナスタシアは何かを思い出したように紫薇にちょっと待っていてといって水の中に潜っていった。今度は紫薇が首を傾げて水面を覗き込んでみたが、アナスタシアは目にも止まらぬ速さでどこかに行ってしまった。

 それから十分ほどすると再びアナスタシアが水面から飛び上がってきた。

 「お待たせ!」

 今度は手に白い花を一房掴んでいた。大きな花弁で四つに分かれ、表面に光沢があってぬるぬるしていた。

 「このお花をメディに渡してあげて」

 紫薇がその花を受け取ると、急に眩暈のするような臭いが鼻を突いた。

 「…何だこれは?」

 「メディの好きなお花なの。絞るとお酒になるんだよ」

 「そうか、この臭いは発酵してるからか…」

 その臭いは以前に赤縞から渡された大吟醸のようなものだった。

 「私もこの臭いは好きじゃないんだけど、メディは好きなんだって。あと母さまも好きだって言ってた」

 「文字通り大人の風物詩って訳か…。ありがとう、帰って渡してみよう」

 苦笑いしながら紫薇はその花を受け取った。

 「じゃあ、そろそろ私は帰るね。母さまからもう帰って来なさいって言われちゃったから…」

 「ああ、とても有意義な時間だった」

 「うん、私も。なんだか姉さまと一緒にいるような気がして楽しかった」

 アナスタシアがにっこりと笑うと紫薇は少しだけ口許を緩ませた。

 紫薇は別れを告げて湖から離れると、魔女の屋敷に戻っていった。その間、紫薇は少しずつ自分の周りで渦巻いている流れのようなものに浚われているような気がしていた。権兵衛の死から始まり、今も続いているこの一連の騒動。それら全てが繋がっていることのような気がしてならなかった。しかし今はそのことは置いておかなければならないと腹を括って懐から花を取り出し、屋敷のドアを開けた。

 意外なことに屋敷の中にはメディストアが椅子に座っていた。だがその顔はすっかり痩せ細り、やつれてしまっていた。

 「…酷い面だな」

 そういうと隈が出来た目が紫薇に向けられた。

 「放って置いて頂戴…今は誰とも話したくない…」

 「そういう訳にはいかない。いい加減…手解きを始めてくれないと困る」

 「…血も涙もないのね。こうして感傷に浸ってる女を前にして慰めの言葉もないの?男として終わってるわね」

 「一晩通して泣き叫べばもう涙も枯れただろう。それとも魔女の仇名は飾りか?」

 「そんな名前…協会が勝手に付けただけよ…。良い迷惑だわ…」

 そういって自嘲気味に笑ってみせると紫薇はメディストアの前に花を放り投げた。

 「あんたのファンからだ。まだ捨てたもんじゃないってわかっただろう」

 「…アナスタシアに会ったのね」

 その花を見詰めると手元にあったビーカーを取り出し、花びらを絞って汁を注ぐとその液体を一気に飲み干した。汁の臭いは強烈で紫薇は思わず顔を歪めた。

 「良いわ、とっとと終わらせてあげるから、ここから出て行って頂戴…」

 「しっかりあんたから技術を盗み出したら言われずとも出て行ってやるさ」

 「…口の減らない餓鬼ね」

 「失礼、育ちが悪いんでね」

 そういうとほんの少しの間を置いてメディストアは乾いた笑い声を上げた。その途中で片手で顔を半分隠しながらぽろぽろと涙を伝わせた。

 「どうして…勝手に死ぬのよ…。まだ、喧嘩したままじゃない…。本当はどうでも良いことなのに…ただ一緒にいて欲しかっただけ…どうして私の大事な人は…」

 紫薇は黙ってメディストアの話を聞いた。そうして彼女の泣き声を聞きながら好きな人が死んでしまったらどれほど辛いものなのだろうかと想像するとどこか居た堪れない気持ちになっていた。紫薇は溜め息を吐いてメディストアに近付くと彼女の頭を胸の辺りに寄せた。どうしてそんなことをしたのか紫薇にはわからなかったが、ただもし自分にとって羽月が死んでしまったら、誰かに慰めて貰いたいのは確かだと思ったのだ。メディストアの乾いた声は切ない声に変わり、また頬を濡らしながらわんわんと咽び泣いた。紫薇は向こうを向いたままその声を受け止めていた。

 三十分くらいだろうか、メディストアが泣いていた時間は。やっと顔を離すと、メディストアは傍にあったちり紙に手を伸ばして顔を拭いた。

 「あーあ、こんな年下の胸を借りるとは思わなかったわ…」

 メイクが着いた紙をくしゃっと握ると初めて笑ってみせた。

 「…悪かったわね、もう大丈夫よ。さっき言ったことは謝るわ」

 「…いや、俺も少し言葉が過ぎたかもしれない。確かに自分の好きな人が居なくなれば、普通ではいられないだろうな。…済まない」

 「なーに似合わないこと言ってんのよ。生意気ね」

 ふっと笑っていたがやはりその目はどこか寂しげだった。

 「ちょっと待ってて、支度したらキュオアイシャスからあれを借りて来るから」

 「その必要はないわよ」

 不意にリネウィーンの声がすると、二人はドアの方を向いた。そこにはあの桜色の立方体を手にしたリネウィーンが立っていた。

 「あんたそれ、持って来てくれたの?」

 「ちょっと出て来るタイミングに困ったけどね。でも名場面を拝めたから良かったわ。メディ、節操がないんじゃなくて?」

 悪戯っ子の様な笑みを浮かべた。

 「馬鹿言ってんじゃないわよ。さっさとそれ寄越しなさい」

 メディストアはリネウィーンから立方体を奪った。

 「あら、いけずね」

 「…後で覚えときなさいよ」

 そう耳打ちするとリネウィーンは含みのある笑みを浮かべた。

 「その箱は一体何なんだ?白銀世界のもとになったものと聞いたが…」

 「その通りよ。これを作ったのはキュオアイシャスっていう偏屈な爺さん。その爺さんは不思議な道具を作っていてね、私が半不老不死になれたのも彼のお陰なのよ。他にもリネウィーンの正体を調べることが出来たり…まあ、こと常識外れた人間には違いないわね」

 「何か特別な…超越力と言ったか?そんなものを?」

 「そもそもその超越力なんて言葉を初めに使い出したのはキュオアイシャスなのよ。彼がいうには単に科学技術が他より優れているだけらしいわ。未来からやって来たなんて言っていたけど…あながち嘘じゃないと思う。半不老不死になる薬や何でも解析出来る物まであるし。機械自体、この世界にはなかったものだから」

 「未来からやって来ただと?この世界のか?」

 「こことはまた別の世界…『アヴォロス・デ・アル(永遠不滅の理想郷)』からやって来た、そう言っていたわ」

 「永遠不滅の…理想郷…」

 紫薇はその言葉を呟いてどこか懐かしいものを感じた。

 「キュオアイシャスは偏屈な人間だけど、唯一ヒオリズム地方の王族とは馬が合ったみたいでね、その高度な技術を教え込んでるらしいわ。そのお陰でヒオリズム地方だけは近代化が進んでいる。勿論、その技術は他所に流さないのが条件みたいだけど…それにしたって頑固な爺さんよね」

 「待て…白銀世界を作ったということは妖精のかけらもその男が?」

 「さあ、どうだったかしら…。ただ妖精のかけらは危険だって話は聞いたことがあるわね。ここ最近は顔を見せていなけど、会って話をしてみたらどうかしら?私の紹介ならちょっとは話を聞いてくれるんじゃない?」

 「興味はあるが…今はちょっとな…」

 「それもそうね。じゃあことが片付いたらまたここに寄って頂戴、そのときに一緒に着いて行ってあげるから」

 「ああ、そのときにはお願いする」

 「さて…じゃあ始めますか。リネウィーン、あんたにも協力して貰うわよ」

 「嫌って言っても無理矢理されそうね…。良いわ、付き合ってあげる」

 「やっとあの男に地べたを舐めさせることが出来そうだ…」

 そう思った紫薇だったが、メディストアと共に行なった稽古は紫薇の想像を絶するものだったのをこのとき、紫薇は知る由も得なかった。

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