47話 一センチの距離を許せる人

 血のような紅葉が辺りに咲き乱れている。クレシェントはいつの間にかその紅葉を眺めていることに気が付いた。足元には真っ赤な血の池が広がっていて、もみじの木の根っこはその血を吸い上げているようだった。

 「綺麗でしょう?命の儚さと、美しさを同時に描いているみたいで」

 クレシェントは声がした方向に首を向けると、苔の張った岩に座りながら手を掲げ、ひらひらと落ちるもみじを受け止めた裸の女を見つけた。髪の毛はてらてらと光った銀色で、その女の顔はクレシェントが鏡で自分の顔を見たときと同じ形をしていた。ただ女の目はその世界のどの赤色よりも濃かった。スカーフのような薄い生地を羽織って恥部が隠れている。

 「私の中に組み込まれている情報を探して表現してみたの。こうして話をするのは初めてね…。一応、私が貴女のお母さんになるのかな?ずっと貴女の顔が見たかったわ、クレシェント」

 「私は…貴女と会いたくはなかったわ」

 クレシェントは目を逸らしながらいった。

 「私に八つ当たりをしてしまうから?」

 「わかっているなら言わないで…。貴女の力が私に宿っているせいで、償い切れない罪を犯してしまったのよ。子供みたいなことだってわかってるわ。でも…愚痴の一つでも零さないとやり切れないのよ…」

 ぎゅっと目を瞑ってクレシェントは再び自分の罪を噛み締めた。そのときの顔はいつになっても酷いもので、悲しみに満ちていた。するとその女は優しく笑った。

 「それで良いのよ。貴女の苦しみが少しでも和らぐのなら、うんと言いなさい」

 「…ご免なさい」

 初めてクレシェントは母親の愛情を感じたような気がした。

 「こっちにいらっしゃい、貴女とお話したいだけなのよ」

 いわれるままにクレシェントはその女の傍にあった小さな岩に腰をかけた。クレシェントは改めてヴィシェネアルクの顔を見ると、本当に自分と似ているなと思った。

 「どうしてこの顔が似ていると思う?この顔はね、本当は私のものじゃないの。貴女の体の中に残っている女の子から借りているのよ」

 「女の…子?」

 以前アシェラルが三つの魂を持っているといっていたのを思い出した。

 「テルスティンバーって言ってね、お父さんからテテって呼ばれていたわ。残念だけどその子は病気で死んでしまったの…。まだ十四歳の子供だったわ。自分の一人娘が死んでしまって、その子のお父さんはどんな心境だったか…」

 クレシェントはその父親の身を思うと、居た堪れない気持ちになった。だがどうにも腑に落ちなかったのは自分と、その娘が何の関係もないことだ。思わずそのことをクレシェントは口にしてしまった。

 「…だからって、どうして私の中に貴女やその女の子がいるの?私はその人の娘になるつもりはないわ」

 「クレシェント、貴女や私にその女の子にいるんじゃないの。死んでしまったテテの体の中に、私と貴女がいるのよ。確かに貴女は新たに産まれた命。でももとを正せば、テテの肝臓の一部に私の命の源を入れたに過ぎない。だから貴女は失敗作と呼ばれたの。記憶や感情がテテに似ていなかったから」

 「私の体はその男から産まれたものだっていうの…?じゃあ、私の存在はいつか消えてしまうの?折角ここまで生きて来れたのに…!」

 クレシェントが体を震わせながらそういうと、ヴィシェネアルクはそっと肩を抱き寄せた。

 「大丈夫、私がそうはさせなかったわ。確かに私が託された『大いなる生物の母のレヴェンチェ・クオンティカ』なら死んだ命の記憶や感情を蘇らせることが出来る。でもそれで貴女の存在が消えてしまうのは許せないわ。それにね…最後に聞いたテテの声は、彼女のお父さんが望んでいたことではなかったの」

 「ならテテのお父さんがしていることは…」

 「実の親子でも魂(意見)の擦れ違いは良くあることよ。特にテテのお父さんは学者さんだから、魂なんて非科学的な話は信じないでしょうし」

 クレシェントはその話を聞いて唖然としてしまった。仮に死んでしまった娘の声が聞けなくても、実の父親ならば娘の思いに気が付かないものなのかと。

 「だからねクレシェント、貴女にお願いがあるの。テテのお父さんにもう何もしなくて良いんだよって伝えて欲しいの。それがあの子が本当に望んだことだから。私が伝えれば良いんだけど、体を失っちゃったから声が出ないのよ」

 そういうとヴィシェネアルクは少し寂しそうな顔をして笑った。クレシェントはなんて慈悲深い心の持ち主なのだろう、そして自分にはとても真似出来ないと思った。と同時にクレシェントはどうして体を失ってしまったのか、その疑問を口にしようとしたがヴィシェネアルクに許された時間は切れかかっていた。

 「…あら?」

 不意にヴィシェネアルクの指先が紅葉の葉先となってはらはらと落ちると、体が徐々に崩れていった。

 「お別れの時間になってしまったみたい…。貴女ともっと…話したかったんだけどなあ…」

 「ど、どうして…。まさかあのときの心臓が、貴女の言っていた母の証だったの?」

 「そうよ。とても時間がかかってしまったけれど、貴女に母としてのバトンを渡せて良かった。後はその力をどう使うか…私と同じようにあらゆる生物のお母さんになっても良い、或いはその証を次の世代に託しても良いわ。何をどうするかは、自分で考えて決めなさい」

 もうその言葉を口にしているときには体の半分が崩れてしまっていた。

 「待って!まだ貴女に聞きたいことが沢山あるのよ!誰が貴女の体を奪ったの?どうして貴女が死ななきゃならなかったの!?」

 「…誰も悪くないの。ただ、仕方のなかったことなのよ」

 そういってヴィシェネアルクは上を向いて静かに目を閉じた。

 「待って…お願いだから…。私は…貴女に何もしてあげてない。まだ一度も、お母さんって呼んであげてもないのよ…」

 「お母さん…素敵な響き…。私は幸せね、二人の子供を持てたんですもの…。元気にしているかしら?ずっと昔に私の命を分けてあげた女の子、白い…綺麗な…髪だったわ…。とても綺麗…私が…お母…さん…」


 目を覚ましたクレシェントの脳裏にはばらばらに散っていった母の姿が残っていた。体を起こすとクレシェントは両手で顔を押さえながら咽び泣いた。

 「ご免…なさい…お母…さん…」

 もう謝ることもお母さんと呼ぶことも出来ないという現実にクレシェントは心が押し潰されてしまいそうだった。あんな酷いことをいってしまった。もっと優しく接すれば良かった。そんな後悔がクレシェントの胸を過ぎる。しかし母はもういないのだ。じりじりと胸の奥が焦げるような痛み。その痛みと共に母を思うとまた切なくなり、嗚咽を漏らすのだった。

 その様子をドアの隙間からデラはひっそりと伺っていた。デラはここでクレシェントを優しく抱き寄せ、頭を撫でてやるべきなのだろうかと思った。だがそんなことをしてやれる権利が自分にはあるのか、そう自分自身に問いかけるとデラはそっとドアを閉めてしまった。かつて手にかけようとしてしまった娘を自分の娘と見做そうとするなどおこがましい、デラはそう自分にいい聞かせた。

 デラはドアから離れると天井のないリビングに向かった。そしてリビングの戸棚からグラスを取り出し、酒瓶が入っている木箱から出来るだけ強い度数の酒を選ぶと、栓を開けながらソファーに座り、グラスに酒を目一杯注いだ。ぽたぽたとグラスの淵から酒が零れるのをお構いなしにデラは一口で飲み干した。かっと喉と頬が火照る。酒の度数は六十を越えていた。

 「何だってもう…」

 どぼどぼとグラスに酒を注ぎ足しながらデラは呟いた。

 「…私はね、幾つになっても気の弱い男なんだ。いつもあとの一押しが足りない。だから失敗ばかりする。あの子を殺そうとしてしまったときも、あの子の傍にいてあげようとしたときもそうだった」

 再びグラスを傾けると、淵から零れた雫がデラの喉ぼとけを伝った。

 「結局…メディストアに言われた通りだったな…。あんたは何もわかってない、そんな男が何を成せるの?か…お前の主人は情けない男だなぁ。ご免よ、お前が忠義を捧げる男はもっと良い男であるべきだった…。なあ、ランドリア…」

 気配を殺していたランドリアの姿がふっと現れた。ランドリアはただ黙ったまま傍に立ってデラの話を聞いている。

 「見限っても良いんだぞ?私にゃ過ぎた部下だよ、お前は…」

 自暴自棄になりながらデラはぐいと酒を飲んだ。ランドリアは明後日の方を向いたままデラを一瞥するとそっと語り始めた。

 「主、あの日のことを覚えておいででしょうか?あの…冷たい雨の日のことです」

 するとぴたりとデラは傾けていたボトルを止めて、昔を懐かしむように溜め息を吐きながらああ、あの日のことだな?忘れていないよといった。

 「お前と私が初めて出会った日だものな…。あれから随分と…時間が経った」

 「あのときはお互い、死を望んでおりました」

 「そうだったな…。お前も私も、人生に疲れてしまっていた。お前に限ってはまだこれからだと言うのに…話を聞いたときは驚いたものだ。あのときのお前は軟弱な体に弱々しい目をしていたのに…良くもここまで成長できたものだ。お前を見ていると、何だか自分がみすぼらしく思えてしまう」

 話の途中でデラははっとして済まないといった。そして体をグラスに隠すようにしてちびちびと酒を飲んだ。

 「酒癖が悪いな、私は…」

 溜め息を吐いていった。

 「そんな方でも、崇高な師であることには変わりない」

 その言葉にデラはぴくりと体を止めた。

 「兄や父と呼ぶには恐れ多い。私には、主を渇仰することが必要です。それがあの日からずっと抱いていた私の願いであり、また憧れなのです。私の思いは常に一つ…敬愛する主に仕えること、ただそれだけです」

 そういうとランドリアはデラに頭を下げるとその場所から離れていった。

 「…そうだな、お前の期待を裏切っちゃいけない。悪かったよ、ランドリア」

 デラは傾けようとしていたボトルをもとに戻し、グラスに残っていたお酒を静かに飲み下した。辛い酒は胃の中を酷く痛め付けるような味だったが、そのときだけすっと喉元を通ってデラの体を心地よくさせた。やっと酒が効いてきたのか、デラは最後の一口を啜るとそのままうとうとと眠ってしまった。


 それからデラが浅い眠りから目覚めたのは誰かに肩を擦られてからだった。体を揺らされ、デラははっきりとしない頭で目を擦りながら欠伸をした。

 「ああ済まないな、ランドリア…また眠ってしまったよ」

 だが目を開けてみると、そこに立っていたのはクレシェントだった。心配そうにデラの顔を見詰めている彼女の顔を見ると、デラはわっと驚いた。するとクレシェントは小さく笑い出した。

 「こんなところで寝ていると、風邪引いてしまいますよ」

 「やぁ、まさか君にこんな情けない姿を見られてしまうとは…。いや、失敬失敬。体はもう良いのかい?」

 デラは努めて体裁を整えたつもりだったが、口許によだれの染みがあった。

 「お陰様で大丈夫です。また…助けてくれたんですね」

 「君が泣いていればどこからでも駆けつけるさ。花束は持って来れなかったけどね」

 そういうとクレシェントは小刻みに笑った。

 「さ、座って。何か摘めるものでも持って来よう」

 クレシェントを席に座らせるとデラは戸棚に向かい、中からローストした木の実と台所から塩漬け肉を出して食べ易いサイズに切り、四角い木製の皿に小奇麗に並べるとクレシェントの前に差し出した。それと度数の低い甘口のカクテルをさっと混ぜ、静かにグラスに注いだ。その際にグラスに映った自分の顔によだれの痕を見付けると慌てて口を拭いた。

 「…美味しい」

 透明な液体が入ったグラスを唇に付けると、クレシェントは素直な感想を漏らした。グラスには赤い果物が刺してあった。出された食べ物も程よい塩辛さでクレシェントの好みに合っていた。

 「やはり彼が居ないと笑顔は見られないね」

 しかしデラは心の奥底を覗いたようにいった。

 「無事でいてくれれば良いのですけど…。だって紫薇、泳げないから…」

 「彼なら大丈夫さ。紫薇は私よりもずっと運に恵まれている。それは君が一番良く知っているだろう?」

 クレシェントは黙って頷いたが暗い顔は晴れなかった。

 「…今さらなんだが、君は彼のことを?特別な感情を持っているのかい?」

 「それは…」

 急な質問にクレシェントは戸惑ったが、明らかにその表情は普通ではなかった。仕切りに指を絡め、グラスを揺らした。

 「自分でも…やっと気付けたばかりで…」

 「ははは、初々しくて良いなあ…。私は、お似合いだと思うよ」

 照れるクレシェントの姿はデラにとって本当に可愛らしく見えた。

 「か、からかわないで下さい…。そんなことよりプランジェは?あの子、酷い熱を出していたんです」

 「今は解熱剤を飲んで眠っているよ。無理に体を動かしたからだね。相応の手当てはしたつもりだが、医者に勝るものではない。病院に行かせた方が良い」

 「…そうします」

 デラは一口だけ酒を飲んでから、一向に減らないクレシェントのグラスを見るとふっと小さな溜め息を吐いた。

 「さて、今度は君のカウンセリングだ」

 「え?」何のことがわからず目線をデラに向けた。

 「グラスが減らない訳を教えてくれるかい?いや、お酒があまり飲み慣れていないことは知っている。だが君が眠っている間に何を見たのか?それが知りたくてね。今回君は…自分から壊乱の魔姫の力を求めてしまった。違うかい?」

 クレシェントはグラスに刺さっていた真っ赤な果実を見詰めながらいった。

 「母に…会いました。私が自分から壊乱の魔姫になったのは間違いではなかった。でもそのせいでやけに現実味の濃いミームを知り、失敗作という本当の意味もわかりました。私の中には…私の肉体を構成している少女の体にヴィシェネアルクが刻まれている。私はその産物に過ぎなかった。わかっていたけれど、いざ望まれていない命だったとわかると、その事実をどう受け止めれば良いかわからなくて…」

 クレシェントはグラスの淵を指でなぞり、お酒を飲もうとしたがその途中で思い止まったようにぴたりとグラスを止めてテーブルに戻した。

 「生きるのは自由だよ、クレシェント」

 「それはわかっています。でも母はこう言い残しました。次の世代の母になるようにと。私にそんな資格があるかどうか…。それに壊乱の魔姫の力を、私が使いこなせるとは到底思えない。私は…そんなに強くはないから…母のようにはなれません」

 一頻り終わった後にクレシェントは溜め息を吐いて落ち着かせた。

 デラはクレシェントの顔を見て居た堪れない気持ちになりながら、自分のしでかしてしまったことを改めて後悔した。この娘は本来、母となるべき女性であったのにその運命を捻じ曲げてしまったのだ。デラはそのことを噛み締めながらクレシェントにそっと近付いた。

 「確かに君は見た目通り、か弱い女だ。でもね、君がプランジェや紫薇を心配するときの様は、とても可憐だ」

 そういってデラはクレシェントの顎を指先で触れ、目線を自分に向けた。

 「一途に誰かを想う。これは母にしか出来ないことだ。母親としての強さは持っていなくても、君の優しさは本物だよ」

 デラは僅かに腕を震わせながらクレシェントの頭を抱き寄せた。その痺れの意味を理解したのか、クレシェントは体を任せてじわりと頬を濡らした。デラは銀色の髪の毛を指の間に絡めながら静かにクレシェントの頭を撫でた。

 「済まない…。本当なら、こんなこと許される筈じゃないんだが…。何もかも私の責任だ…」

 クレシェントは言葉の代わりに体を預け、目を閉じてこれが父親なのだろうかと想像しながらその余韻に浸った。普通の異性とは少し違った感覚。一センチの距離を許せる相手、それがやっとクレシェントにも理解が出来た。

 「私はいつでも君の背中を守る。どんなに辛いことがあっても、君の背中を押せるようにね。それが私に出来る君への償いだ」

 体を離した後にデラは両手をクレシェントの肩に置いていった。

 「…いつか、私がお母さんになったら…貴方のことをお父さんと呼んでも良いですか?」

 デラは嬉しそうにしたが静かに顔を横に振った。

 「それは出来ない。君は私がしたことを忘れてはいけないんだ。君自身の罪を忘れない為にも」

 「そう…ですか…」

 寂しそうに顔を下げるクレシェントを見てデラはなんて愛しいのだろうと思い知らされた。罪がなければこのまま彼女を抱き寄せてやりたい。しかしそれは出来なかった。ぐっと舌を噛んで作り笑顔を向けるとクレシェントは少しだけ嬉しそうにした。

 「クレシェント…様…」

 不意にプランジェの声がリビングに響いた。二人は驚いてお互いの距離を遠ざけ、クレシェントは声のした方を向いた。そこには頬を真っ赤に染めながら体を引き摺っているプランジェの姿があった。

 「プランジェ、どうして起きて来たりしたの…!寝てなきゃ駄目よ…!」

 急いでプランジェの傍に寄ると、力の限界だったのかプランジェはふらりとクレシェントの腕の中に倒れた。クレシェントがプランジェの額に手を乗せると余りの熱さに驚いた。

 「熱がぶり返してる…!」

 見ればプランジェの頬は赤く熟れてしまっていた。

 「解熱剤が切れたのかもしれないな…。どれ、私が診てみよう」

 袖を拭いながらデラは二人に近付いた。クレシェントは頼りになるなあと思いながらデラの姿をまじまじと見詰めた。だがその背中の向こうにクレシェントは見てはいけないものを見てしまった。初めそれは空が揺らいだのかとクレシェントは思った。だがそれは明らかに夜空を押し退けて現れたものだった。黒い扉が空に浮かび上がっている。その扉は自分の知っているものと似ていたが、その大きさはクレシェントが呼び出すレミアの鍵とは並外れて巨大だった。

 扉が、いや門がその口を開けると、中から蛆虫のような蠕動する靄が噴き出し、夜空を更に深い闇に染めていった。その現象は超越者と呼ばれる世界の理を跨いだ存在が現れ、世界を構成している因子がその力に影響して姿を変貌させてしまうものだった。その闇に反して門から更に黄色い光と赤い光が薄い膜となって空に伸び、不気味なオーロラを描いていった。

 「まさか…もうやって来たのか…」

 門の中は真っ暗な闇だった。ただその中にときたま小さく光るものがあった。星のようだがそれにしては歪な形だった。低い、地鳴りにも似た低音を響かせながらその光は徐々に大きくなり、光の正体が水晶に酷似した石の塊だったとわかると、それは門からゆっくりと這い出てきた。

 「ゼルア・ベルヴォルトウォーゼ…」

 塊の真下から前方にかけて人間の上半身が張り付いていた。ただその人物は見る者の目を愕然とさせた。骨が飛び出した腕や肩から突き出た二つの水晶体、皮膚は爛れて腐敗したようになっていた。中でも目を引いたのは五つの目だった。右目が赤く、左目は灰色で額の両横には斜めに目があり、その中心にも真横に並んだ目があった。それら三つの目は虹彩の他に抽象的な模様が描かれていた。

 ゼルアと呼ばれた人物がクレシェント達の前に現れると、石の塊は伸縮していって突き出ていた水晶の中に吸い込まれていった。そして重力にでも逆らったように緩やかに地面に降り立つと、裂けた頬を歪ませながら恍惚の表情を浮かべた。

 「帰って来たぞ、我が宿敵どもよ!」

 濃い紫色の髪の毛は後頭部に向けてぶわりと逆立ち、額の中心はからは黄色い角が生えていた。亡者のような青白い頬は耳元まで裂け、そこから不規則にはみ出した牙は壊乱の魔姫に似ていた。瞼の周りには濃い隈が化粧のように広がり、見る者を威圧するかのような雰囲気だった。

 「あれがこの世界の…罪のイコンとなったもの…」

 クレシェントは何よりもその姿に驚愕した。鎖骨の辺りから皮膚は黒い鱗のように変わっていて、肩を覆うようにして水晶のような棘が皮膚から生えているその様はまるで人間とは言い難い姿だった。

 「今さら何の用だ、ゼルア…」

 殺気を漲らせながらデラはその肉体を亜人へと変化させ、更に妖精のかけらを発動させて超越者としての権化と化していた。既に臨戦態勢となったデラの姿を見ると、クレシェントは思わず背筋を震わせた。

 「何の用とは心外だ。あのとき…お前とウェルディ、そしてかの者たちと戦った末にこの俺を異界の果てまで封印した。その続きをやろうってんだ。たったそれだけのことだよ、デラ」

 「二度と出て来れない筈ではなかったのか?」

 「俺もそう思ったんだが…手当たり次第に世界を飲み込んでみたら何のこたァない、体こそ瘴気にやられてしまったが…見ろ」

 そういってゼルアは眉間の目玉を指差した。

 「三人目の超越者を取り込んだ。封印の力も二人目までが限度らしい。それに…妖精のかけらを永遠に封印するなど、それこそ妖精以外には不可能だ」

 「あの女の杞憂が当たったか…」

 デラは悔しそうに呟いた。

 「ほう、なかなか面白い連中とつるんでいるじゃないか…」

 クレシェントの顔をまじまじと眺めると頬を歪めながら笑った。他にもデラのすぐ傍で武器を構えていたランドリアや、遅れてやって来たライプスに視線を回し、顔をもとに戻してクレシェントの傍で項垂れていたプランジェを見たときだった。

 「はっ!これはこれは…!まさかこんな場所でかの申し子と顔を合わせるとは…。箱舟の行方が見付からなかったのも無理はない。くくっ、俺の腹に収まり切れるかわからんな」

 クレシェントは反射的にプランジェを抱き寄せてゼルアの視線から彼女を庇った。理由はわからない。しかしクレシェントはこの子をゼルアに引き寄せてはいけないと直感的に思った。

 ゼルアが細長い舌でなめずりした直後、デラはその一瞬の隙を突いて懐から小さな丸い籠をゼルアに向けて放り投げた。籠は細い鉄の網で出来ていて、ゼルアの傍で破裂したように膨張すると巨大な半球となってゼルアを閉じ込めた。

 「ふっ、かの者の手土産か…。あざといことを…」

 籠の内部は万華鏡のように幾何学模様を描いて五感を狂わせるような景色になっていた。その様子をゼルアは薄ら笑いを浮かべながらぐるりと見渡した。

 クレシェントは余りに不測した事態に付いていけなかった。ただ辺りをきょろきょろと見回すだけで何が起こっているのか把握できていない。それでも腕の中で眠っているプランジェをしっかりと抱き締めていた。

 ふとゆっくりと体を向けるデラの姿を目にした。デラは遠い目をしながらクレシェントに近付いていった。クレシェントは何故かその目に嫌なものを感じた。敵意とかそんなものではない。何か吹っ切れたような目だったのだ。

 「…クレシェント、私の話を良く聞くんだ」

 デラの口調は聞き慣れた優しい、そして静かなものだった。

 「は、はい…」

 デラは肩膝を着いてクレシェントの背中に腕を回した。クレシェントは急な出来事にあたふたとしてしまい、顔を赤らめながら耳を立てた。

 「これから先、きっと君には辛いことが幾つも待ち受けているだろう。でもね、決して諦めてはいけないよ。君の本当の強さは罪を認め、償いを受けることを決めたその心だ。どうかそれを忘れないでおくれ」

 デラは体を離すと、しっかりとクレシェントの目をじっと見詰めた。その目は彼女を本当に愛おしく、また自らの罪と向き合うかのようだった。クレシェントはそんなデラの目を見ると、無意識に目から涙を流した。クレシェントはその涙の訳がわからなかったが、デラが立ち上がって背中を向けるとその意味を即座に理解した。

 「そんな…駄目…」

 そう口にした直後、クレシェントは自分の背中にレミアの鍵の気配を感じ取った。そしてそれに気付いたときにはクレシェントの体はデラにそっと押されて扉の中に入れられてしまっていた。

 「…彼と結ばれると良いね」

 最後にクレシェントが見れたのはデラの後姿だった。プランジェを抱いているせいで手を伸ばすことも出来ず、クレシェントはデラの名前を叫ぶことしか出来なかった。しかしその声も扉が閉まるとぴたりと止み、代わりにガラスを叩き割ったような音がゼルアを封じ込めていた半球から鳴り響いた。

 闇の色をした人間の腕、それも華奢な女性の細い腕が何本も封印を突き破り、食い散らかし、無残なまでに黒い籠を打ち破っていった。細かい破片の中から不適な笑みを浮かべるゼルアの姿が現れた。

 「あの娘を逃がしたか…。馬鹿なことを、万に一つの勝機があったやもしれぬと言うのに…。女王は超越者にして赤き大海の主、あらゆる生物の支配権を持っている。仮に超越者としての権限を持っていようとも、その枠組みから抜け出すことは出来ん。それなのに何故、お前はあの娘を遠ざけた?」

 そういうとデラは視線を下げて小さく笑った。

 「あの子は…女王にはなれないよ。優し過ぎるからな…」

 「はっ、あの怪人と呼ばれた男が丸くなったものだ。まあ、良い…。女王がいなくとも超越力を持った者が三人も居れば十分だ。さあ、宴を始めるぞ!杯を取れ!滴る血潮を飲み下し、大いに咆えよ!」

 ゼルアの首に突き刺さっていた黒い、黎黒の妖精のかけらが不気味に光る。腐敗した肉体は闇の色に染まり、途方もないほどその姿を変えていった。化け物の咆哮が辺りに響き渡る。声は壊乱の魔姫に似ていながらその本質はまるで違っていた。

 「我はゼルア…破壊と混沌の守護者なり…」

 巨大な影に覆われながらもデラは怯むことなく立ち向かっていった。

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