第五章
46話 夢の終わり
雨に濡れるのが紫薇は嫌いだった。雨、というよりも体が濡れることを嫌うのだ。それは猫のようだからというのではなく、小さい頃に風呂場に連れて来られ、浴槽の中に沈まされて何度か死にかけたことがあったからだ。以来、紫薇はなるべくシャワーは浴びても浴槽に入ろうとはしなかった。風呂に入っても体は温まらず、ただ昔を思い出してぶるぶると震えてしまう。ずっと昔のことなのにいまだに体が慣れないものなのだなと紫薇は思っていた。
河に投げ飛ばされてから紫薇の記憶は曖昧だった。実際はどてっ腹に風穴が空いたときから視界はおぼろげで頭は昏睡していた。水の中に入ってから急な流れに身を浚われ、何度も河の底にぶつかったような気がした。長いこと水の中に沈まされ、紫薇の体は氷のように冷めてしまっていた。やっと河の流れが収まり、水の底に寝かされるとふと、体がじんわりと温まっていくのを感じた。ポケットの中に入れて置いた蘇芳のお守りが淡い光を点していた。水面から光が差し込んで紫薇は薄っすらと目を開けて空気を吐き出した。気泡がぷかぷかと上に向かって浮かんでいく。その中で紫薇は辺りから七色の光を持った尾ひれを見た。
「…ん」
気が付けば紫薇はふっくらとした布団の中で横になっていた。目を開けて辺りを見渡すと、まるで小さなコテージのような部屋が広がっていた。緑青色の木で出来た家は鼻で空気を吸うと、ちょっとかび臭いにおいがした。そのにおいの中に何故かジブラルの匂いが微かに混じっていたので紫薇はおやと思った。布団の下には淡いオレンジ色の絨毯が敷いてあって、その傍には木製の三脚椅子があった。
「ああ、起きたんだ」
絨毯の先から茶髪の頭が揺れながら上ってくるのを紫薇は見た。円柱の木を並べて出来た階段を上ってきたのは三十ぐらいの女だった。白いチュニックにターコイズのネックレスをぶら下げ、細身のバギーパンツを履いて茶色い皮のサンダルを履いていた。その女性はベッドに近付いてパーマがかかった長い髪の毛を手で払うと、紫薇の額に手を乗せた。
「熱は…下がったみたいね。食欲は?喉は渇いてない?」
「…それ以前に腹に風穴が空いてるんだが」
「みたいね。でもその傷、あたしがあんたを見付けたときには塞がってたみたいよ。服は勝手に脱がせて貰ったけど、見られたところで大層なものぶら下げてないでしょ。お腹が空いたら下に来なさい、あんたに聞きたいこともあるから」
紫薇がそのことに驚いた様子をする前にその女はさっさと下に降りていってしまった。紫薇はちょっと苦手な人だなと思いながらベッドから降りた。するとズボンがいつの間にか花柄模様のステテコになっていたのを見て紫薇は渋い顔をした。
「…スリッパはないのか」
紫薇は身震いしながら傍に置いてあった靴を履いて階段を下りていった。板のない階段に少し戸惑いながらひたひたと下の部屋に降りると、どうやらこの家が無理に二階を作ったことがわかった。下の部屋はリビングを目一杯に広げたような作りをしていて、薬瓶やらまじないに使いそう小物、妙な動きをする植木鉢でごっちゃになっていた。部屋は微妙な段差で区切られて、階段の傍には狭い台所があった。タイルの焜炉やポンプ式の流し台など、紫薇はまるで魔女の屋敷に来てしまったようだと錯覚した。しかし古臭い家の作りに不思議と心が安らいだ。
「来たわね。テーブルに流動食が置いてあるからさっさと食べちゃいなさい。食べ終わったら自分で洗ってよ」
暖炉の前で眼鏡をかけた先程の女が小さなフラスコを揺らしていた。
「…あんたが東の魔女か」
紫薇は台所にあった椅子に腰かけてテーブルに置かれた器を見た。まあるいココナッツのような実を刳り貫いて出来た器の中にはお粥に似たどろどろとしたものが入っていた。緑と赤の草が振りかけられてて、匂いはチーズみたいだった。
「そうよ、なんか文句ある?」
メディストアは沸騰しているビーカーをそっと摘み、中の液体をフラスコの中に注いだ。するとフラスコの中に入っていた液体は綺麗なエメラルドグリーンに輝いた。メディストアはその液体をガラスのコップに優しく注ぐと、コップを持って台所に向かった。
「なによ、まだ食べてなかったの?それ冷めると不味いわよ」
紫薇は見たこともない料理に緊張しながらスプーンで掬って口に含ませた。触感は日本の米、味は少し癖のあるモネイソースみたいな味だった。草は香草なのだろう。歯で噛むと、ほんのりくしゃみの出そうな匂いがした。
「ん、食べたらこれ飲みなさい。色はどぎついけど良薬だから」
コップを置いてメディストアは紫薇の目の前の席に座って足を組んだ。
「メディストア、あんたに頼みがある」
もぐもぐと口を動かしながら喋ると、メディストアは食べながら話をしないと一喝した。紫薇は自分でも気付かないうちにメディストアに少し羽月に似た感情を抱いていた。母親のような姉のような妙に恥ずかしい気分になり、紫薇はいわれるままにご飯を食べ終わるまで喋らなかった。器を空にしてコップに注がれていた液体を喉に流すとヨモギをぎゅっと凝縮したような独特の苦味が紫薇の舌に噛み付いた。
「あははっ、あんたもそんな顔をするんだ」
「…何の薬だ?」
「効能は恒常性の安定、それと体に必要な栄養素を効率よく摂取させる薬かな。それ一杯で大抵の疲労は回復するわね。で、どう?体の方は?百二十二時間は意識が覚醒しなかったみたいだけど」
「お陰様ですこぶる調子が良い。しかし五日間も眠りっぱなしだったとは…」
「重症だったからね。正直に言って途中で死ぬもんだと思ってたわ。で、早速なんだけどあんた、どっから来たの?ひょっとしてナーガ以外の世界からやって来たのかしら?」
「その通りだ。こっちの世界の名前までは知らないが、割と似た世界からやって来た。あんたに頼みがあってな」
「あたしに?何がお望み?」
「率直に言わせて貰えば…白銀世界のもとになったものが欲しい。あんたが持っていると聞いた」
紫薇は目に力を入れながらメディストアを見た。じっと二人の視線がぶつかる。
「…あんた、紫薇って名前でしょ」
「何故それを…」
一瞬の緊張を緩める様にメディストアはふふっと笑った。
「うちの馬鹿娘がね、前に面白い男を見付けたって騒いでたわ。何でも殺される前に愛の告白をしたんですって?変わってるわね」
「まさかあの女…赤の他人にべらべらと…!」
紫薇は頬に熱が溜まっていくのを感じた。
「あらあら初々しいわねえ、見てて飽きないわ。でも赤の他人って訳じゃないのよ、あたしとジブラルはね」
「…なら本当の親子なのか?」紫薇はちょっと泣きそうだった。
「あんな手の付けられない娘が、お腹を痛めて産んだあたしの子の筈ないでしょ。拾ってあげたのよ、あの子が小さい頃にね。…あのときは、この辺りじゃ珍しい雪の日だったかしら。その日は本当に寒くてね、暖炉の火が中々点かなかったわ。それで外にある倉の中に燃え易い木が仕舞ってあったのを思い出してね、スカーフを肩にかけて外に出たのよ。外は風も強けりゃ雪も酷くてね、すぐ傍にある倉がとても遠く感じたわ。それでやっと倉に着いたと思ったら、倉の扉が半開きになっていたのよ。こんな日に野臥せりや泥棒なんている訳でもないし、不思議に思いながらドアを開けたらね、部屋の隅っこで小さく丸まって震えているあの子を見付けたのよ。驚いたわ、その子がどこからやって来たということよりも、着ていた服が血まみれだったことに愕然としたわ。でね、あたしと目が合ったときにあの子、何て言ったと思う?ここにいてお金はかかりますか?ですって、後になって笑ったわよ。ポケットからお金を出して、お金なら幾らでも払いますからここに居させて下さいって…。そのお金だって血で汚れててとても使い物にならなかったわ…」
メディストアは話を続けなら沸かしたお茶を啜った。
「それからよ、あの子を引き取って色んなことを教えてあげたわ。でも最低限の、ううん…高度な英才教育を受けていたみたいでね、砂が水を吸収するようにあたしの言ったことや教えたことを覚えていったわ。中でもあの年で既に響詩者に覚醒していたことには恐れ入ったわ。それに根が純粋だから概念の具現化も簡単にやってみせるし、見ていてとても楽しかったなあ…」
嬉しそうにまた昔を懐かしむようにいった。紫薇はそんなメディストアを見て、心のどこかでジブラルが羨ましいと思っていた。
「でもね、あたしはあの子の心臓を解かしてあげることが出来なかった。初めての子育て、失敗しちゃったのよ。あの子が独り立ちするようになって、悪い噂が流れ始めたときも止めてあげることが出来なかった。ゼルア級に認定されたときはひっくり返りそうになったわ。蒼昊の悪女なんて酷いセンスだと思わない?寝る前にいつも髪を梳かしてあげてて、滑らかで綺麗な髪の毛だったのに…」
そういって化粧台に置いてあった櫛に目をやった。櫛には茶色い髪の毛の他に数本の青い髪が混じっていた。鏡の表面にはメディストアの寂しそうな顔が映っていた。
「妖精のかけらっていうのはね、その持ち主の人生を捻じ曲げてしまうほどの力を持っているのよ。それがあの子の心を歪ませ、深い心の底…処女の庭園を氷の世界に変えてしまった。角を立てて怒ったわ、あの子がゼルア級になったって話を持って来たときにね。勘当もしたわ。それ以来、音沙汰はなかったんだけど…。あの子、目をきらきらさせながら帰って来たのよ。どうしても助けてあげたい男がいるって。でも間が悪かったわ…。あたし、その時にいらいらしてたから。丁度その時に付き合っていた男と喧嘩しててね、あの子を見るなり怒鳴り散らしちゃった。そうしたらもうお互い後には引けなくて、気付いたら剣を抜いていたわ。大人気なかったなあ…」
深い溜め息の後にメディストアは視線を下げた。紫薇はそうまでしてあのときに助けてくれたジブラルの思いを知ると、癒えた筈の腹の傷がじわりと痛み出したような気がして腹を擦った。
「その怪我、今は治っているけれど、やったのはジブラルなんでしょう?あんたを池から引っ張って来たときにあの子の奏力の残り香を感じたから…。風の噂で聞いたわ、あの子は今、虹拱結社に所属しているって。多分、凍っていたあの子の心を見抜かれたんでしょうね。あのゾラメスに…」
「…ゾラメス?響詩者を作り上げた奴じゃないか…。そいつが虹拱結社の親玉って訳か…」
「実際には結社の親玉が席を外しているから、その代わりを務めているのよ。ゾラメス・モーツアンデュルローエ…。かつて概念の具現化を草案した人物。響詩者の父母であり、この世界の新たな美意識を作り上げた存在。一度はゼルア級犯罪者に認定されたけど、本人の強い反発によって取り消された異例の人物よ」
「ゼルア級を取り消された?どういう意味だ?」
「ゾラメスは美芸師としての地位を失いたくなかったのよ。あたしも面識があるからゾラメスがどういう人物なのか良く知っているわ。ゼルア級はその人間の汚点とも言える称号、それを許せなかったのねゾラメスは。だからマクシミオ級として登録はされているけれど、その実力はあたしやジブラルとてんで変わらないわ」
紫薇はこれから戦おうとしている相手がまたも世界を滅ぼすほどの力を持っているのかと思うと頭がくらくらした。
「もし虹拱結社に喧嘩をふっかけようなんて考えているのなら止めて置きなさい。今度はそんな怪我じゃ済まないわよ。あんただってまだ若いんだから、こんなところで死んじゃ駄目よ」
まるでジブラルを救えなかったことを後悔するかのようにメディストアはいった。紫薇は体に刻み込まれた数々の傷痕の中で、取り分け痛みが強いものを思い出した。その傷は体よりも紫薇の心を傷付けたものだった。深い恨みがふつふつと紫薇の心の奥底から湧き上がってくる。
「…もう嫌というほど死にかけた」
「え?」
「それなのに…今さら何を恐れるって言うんだ?メディストア、あんたならわかる筈だ。自分の大切な人が傷付けられた恨み、後悔…そしてその傷が癒えないということも。俺はもう、何もしない訳にはいかないんだよ。それにジブラルには借りがある。他人事だと匙を投げてもいられないんだ。メディストア、俺に虹拱結社と互角に渡り合える力を寄越してみろ。あんたの代わりに、俺があの女の説得でも何でもしてやる」
率直に、まっすぐに見詰めてくる紫薇の瞳は諦めかけていたメディストアの心を少しずつ開いていった。何故かメディストアは紫薇に幼い頃のジブラルを重ねてしまっていた。それはジブラルと同じように紫薇の瞳の中にどこか暗い光を見付けたからかもしれない。メディストアはそう思うと口許を緩ませた。
「…お金はいらないわ」
メディストアは以前にジブラルにいった言葉を話した。
「但し、掃除に洗濯はして貰うわよ、良いわね?あんたに賭けてみるわ、あたしが出来なったことをもう一度ね」
紫薇はやっと前に進むことが出来たと思わず笑ってしまった。
唐突に魔女の屋敷が揺れ動いた。地鳴りのような音が響き渡り、何度も屋敷が揺れて薬品の入っていた試験管やビーカーが床に落ちて割れていった。紫薇は何事かと思ってメディストアを見ると、彼女はまたかとうんざりした顔をしていた。
「あー、もうそんな時間だったわね。悪いんだけど来客だわ、危ないから家の中で待ってなさい。あとついでにお湯、沸かして置いて」
そういってメディストアはごっちゃになっていた機材を掘り返して古びた刀を取り出すと、すたすたとドアを開けて外に出ていった。
紫薇は待っていなさいといわれてもこの異常事態に落ち着けず、ひっそりと家の扉に向かって外の様子を伺った。そしてメディストアの目の前に立ち塞がっていたものに度肝を抜かされた。人間の下半身が逆さになった巨大な薔薇の花で出来ていて、隙間から伸びた茨を使って蜘蛛のように地面を張っている。花の色は水銀と同じ色をして光沢があり、また人間の形をしていた上半身の髪の毛も同じように銀色だった。肌は透き通ったように青白くて精気がない。紫薇はまじまじとその体を見た後にその化け物の顔を見て更に驚いた。その化け物の容姿がクレシェントにそっくりだったのだ。髪型や肌の色が違うだけで、まるでクレシェントという見本を見ながら形作ったかのようだった。
「御機嫌ようメディ、今日もお邪魔しに来たわ」
その化け物の声はクレシェントの声色ではなく電子音に近かった。
「御機嫌ようリネウィーン、悪いんだけど今日はあんたに付き合ってらんないのよ。もうお客様がお見えになってるからね」
「あら、残念ねえ…。じゃあそこで覗いている男の子を食べちゃおうかしら」
リネウィーンの視線が向けられ、視線が合うと紫薇ははっとした。
「馬鹿!中で待ってなさいって言ったのに!」
慌てて紫薇が家の中に引っ込もうとすると、茨の触手が紫薇に向けられた。その瞬間、メディストアは持っていた鞘から刀を抜き放って宙を切った。たった一振りにも関わらず、虚空を払っただけで触手は何百、何千という刃の傷が生じて紫薇の前から弾かれていった。
「千年宝珠…気の遠くなるような時間を費やして練磨した剣術は、ときに未曾有の現象を引き起こす。千年女王の有する超越力…何度受けても堪らないわ…」
「あたしゃあんたの不死身の体には飽き飽きよ。物質世界に現れる筈のないもう一人の人格が完全に具現化してしまった存在。命ある感情、キュオアイシャスは現象生命なんて言ってたっけね…」
二人は旧知の仲のようにお互いを褒め称えると口角を緩ませ、徐々にその体内に眠っている力を解放し始めた。そこから先、紫薇が見たものは思わず釘づけになってしまうような光景だった。リネウィーンが両手を空いっぱいに広げると彼女の背後に巨大な人影が現れた。仄かにピンク色で女性的な形をしたそれは雲と同じ位の高さで、両腕が鳥の翼を人に近付けたようだった。また頭は兜みたいな形で、体全体が花びらで出来ていた。その人影が両腕を羽ばたかせると、翼に着いていた花びらが一斉に地表に向かって撃ち出された。メディストアはその花吹雪を見ると、体をぐるりと捻じ曲げ、刀の先を背中に回すと目一杯の力で振り回した。すると刃から紫色の光の筋が飛び出し、更にその周りを小さな光の刃が幾重にも重なって追いかけていった。花吹雪と切吹雪が衝突すると、刃は花びらをあっという間に切り裂いていった。その勢いは留まらず、空まで届いていた人影を通り過ぎると疎らに分裂させた。
メディストアは足の裏にぐっと力を入れて跳躍した。その力はリネウィーンの人影の頭より高く飛んでいった。地面にはメディストアの足跡がくっきりと凹んでいたが、辺りの地面は何ら影響を受けていなかった。空に駆け上ったメディストアは宙に浮かんだまま刀を後ろに引いて狙いを定めると、全身のばねを使って一突きした。すると今度は刀から光の筋が現れ、その筋を追うように小さな針が人影の体を貫いていった。
「ぴゅー」
リネウィーンは人影が掻き消されると口笛を吹きながら右手を垂直に空に掲げた。手の動きに合わせて地中から額に小さな文字が描かれた巨人が地表を捲りながら現れた。体は木の根っこで出来ていて、ずんぐりしたお腹を持ち上げながらその太い腕を引いてメディストアを狙った。空を覆っていた人影が消えると巨人は握り拳をメディストアに向ける。するとメディストアの体は黄色い光に包まれ、自らが光の筋となって宙を円状に動き回った。そして刀の鍔を腰で受け止めながらその描いていた円状の筋の中心から巨人の拳に目がけて一直線に落下していった。
巨人の拳を裂きながらメディストアは体の中に侵入し、内部から巨人を切り刻みながら光の弾丸となって背中から突き破ると、そのままリネウィーンの頭上に突撃していった。リネウィーンの銀色の瞳にメディストアの勇姿が映るとリネウィーンの体は炸裂していった。血液の代わりに水銀が噴き出し、彼女を形作っていた銀塊が辺りに散らばった。
舞い上がる土煙を手で払いながらメディストアは刀を鞘に仕舞い、家の中に入っていった。その際、紫薇の頭をぱこんと殴って叱り付けた。
「中で待ってなさいって言ったでしょ」
紫薇は叩かれた頭を擦りながらその一瞬の出来事に呆然とした。
「あーもう、やっぱりお湯沸かしてない。さっさとお茶を出さないとリネウィーンがうるさいんだから。紫薇、そこの戸棚からお茶菓子出して」
紫薇はいわれるままに傍にあった戸棚に手を伸ばした。ひびの入った白いタイルが張られ、細い長方形のガラスが張られた小洒落た棚だった。戸を開けると中にブリキ製の箱があって、中にはクッキーみたいな乾物が入っていた。その箱を取り出していると、開けっ放しにしていたドアからかたかたかたと細い棒が床を突くような音が聞こえた。紫薇は何の音だろうと目をやると、ばらばらに砕け散った筈のリネウィーンが、しかも砕けた体のまま家の中に入って来たのだ。
「あら、ご免あそばせ」
途中まで触手を出して歩いていたが、家の中に入るなりその図体が邪魔だと思ったのか、下半身から花を引き離すと二本の足が生えてぺたぺたと紫薇の傍を通り過ぎてテーブルに向かっていった。裾が異様に長い洋服を引き摺って、下は履いていなかった。紫薇はそこで理解した。さっきのやり取りは日常的に行なわれているものなのだと。
「そこのアナタ、さっさとそのお茶菓子を並べなさいな」
別の戸棚から勝手に取り出した皿をテーブルに置いた。
「相変わらず図々しいわねえ」
「知らない仲じゃないでしょ」
メディストアはつんけんしながらも丁寧にお茶を注いであげると、自分の分と紫薇の分を用意した。紫薇は箱の中から茶菓子を何枚から並べ、席に着いた。
「ああ、美味しい。お茶菓子にもぴったりね」
「前々から思ってたんだけど、あんたって庭園の水銀がもとになっているのに、なんで食事が必要なのよ?いらないでしょ、恒常性なんてないんだから」
「だって私は水銀の精だから、なんて大層なものじゃないけど、人間の食事に興味があったのよ。そしたら味覚も生まれたし、後で排泄もするようにもなったわ」
そういうとメディストアは汚ったねーと笑い出した。
「…それでこのいかれた隣人は誰なんだ?」
「私と同じゼルア級よ。名前は…」
「リネウィーン・フォルチュ・シュバインティーゼス『生ける水銀』、又は『植中毒』なんて呼ばれているわ。光栄に思いなさい、私が自ら自己紹介をして差し上げるなんて滅多にないのよ」
「嘘付きなさい。あんたいつも自分から名乗ってんでしょーが」
「…そうだったかしら?脳みそないからわからないのよね」
もぐもぐと子供のように頬に茶菓子のかけらをくっ付けながら茶を啜った。そのかけらをメディストアは指で摘んだ。
「言葉は大人びていても、中身は五歳児なのよ」
「…失礼ね。ちゃんと五歳児の体に大人らしさをくっ付けたわよ」
「はいはい、そうだったわね。リネウィーンはね、もとは『銀鏡の庭園』っていう処女の庭園の反対側に映し出されている世界から抜け出してしまったのよ。本来ならその二つの庭園が離れる筈がないのだけれど、この子の本体がまた絶妙な具合で概念を具現化してしまったらしくてね、それが失敗して物質世界に出て来たのよ。言ってみれば命ある概念ってところで…まあ何しても死なない体でしょ?おまけに概念だから年も食わないし、形もない。不老不死ってこういうことを言うのかもね。この体だって近所の娘さんの体を真似て、自分で練ったらしいわよ」
「だって形を決めて置かないとぶよぶよの塊のままだったんですもの。はしたない格好をしていたらお嫁にいけないわ」
「生殖機能もないのに何を言ってんだか…」
「じゃあ今度その娘の股を広げてみようかしら」
「止めなさい」
紫薇は思わず口に含んでいたお茶を噴き出しそうになった。
「それにしても私以外のお客様だなんて久し振りじゃない?メディ、そんなにこの子が欲しいの?」
メディストアの口が数字の3になってお茶を吐き出した。
「…馬鹿いってんじゃないわよ」
「あら?だって男と女がすることは一つってこの間、道端に落ちてた本に書いてあったわよ。その遣り方まで事細かに説明してあって…」
「私がこの子を助けたのはルールの連中に頼まれたからよ」
「彩魚族に?珍しいこともあるものね」
「何の話だ?」
「初めにあんたを助けたのはあたしじゃないのよ。河底に沈んでたあんたを助けたのはね、彩魚族っていう獣人なのよ」
「…だがその連中は水死体を食らうと聞いたが」
「そりゃ俗説よ。彩魚族は草食性、水草や藻しか摂取しないわ。激流に呑まれて体がぼろぼろになったのを下流で見かければ、そう思うのも無理はないけど…。酷い話よね。彩魚族って言えば美人が多いのに…ずっと昔は人魚って呼ばれて美の象徴だなんて祭られてたんだけどね」
「(人魚、か…)」
紫薇はふと翠川公園で噂になっていた人魚を思い出した。
「で、話の続きなんだけど、どうもあんたの体から懐かしい匂いがしたんですって。微かに、彩魚族の匂いが…心当たりある?」
「いや、ないが…」
「珍妙な人間も居たものね」
「…あんたに言われたくはない」
「あとで彩魚族に会ってみる?意外と打ち解けられるかもよ?」
「…出来たら、で良い。今はあんたに力を付けて貰う方が先だ」
「それもそうね。お茶が終わったらちょっと一っ走りしてあれを貰ってくるわ」
「…貰って来る?あれはあんたのものじゃないのか?」
「まさか、あんなもの作れたら苦労しないわよ。キュオアイシャスっていう変わり者のじーさんに借りてたのよ。研究材料としてね」
「あら、キュオアイシャスのところなら、私がお使いしてあげようかしら?足を伸ばせば小一時間で戻って来れるし」
「そう?じゃあお願いするわ」
リネウィーンはお茶を飲み干すと椅子から離れ、花の蕾の中に下半身を入れた。
「じゃ、ちょっくら行ってくるわね」
そういってドアを潜って今度はうねうねと触手を地面に這わせて歩いていった。たまにああいうことをしてくれるから助かるのよねとメディストアは嬉しそうに話したが、その笑みはほんの数分後に崩れることとなった。
二人が残ったお茶を飲み干した頃、かたかたと音がしてもう帰ってきたのかと思った矢先、ばたばたとリネウィーンが新聞を片手に家の中に転がり込んできた。何事かとメディストアが様子を伺った。
「ちょっとどうしたのよ?随分と早いじゃない」
「…め、メディ…」
リネウィーンは泣きそうになりながら躊躇いがちに手に持っていた新聞をメディストアに手渡した。
「なによ、面白い記事でも…」
新聞の見出しに目をやった途端、メディストアの顔は凍り付いた。目を点にしてじっと食い入るように見詰めたまま動かない。三十秒ぐらいだろうか。メディストアの体が止まっていたのは。やがてメディストアはぐっと下唇を噛むと、手で口を抑えながら新聞を放り投げ、作業台の隣にあった扉を開けてその中に入るとそれっきり出て来なかった。リネウィーンはそんな彼女の姿を見て辛そうに視線を下げた。
紫薇はその事態を飲み込めないままリネウィーンに近付いて傍に落ちていた新聞を手に取った。薄茶けた独特の色合いを持った見出し記事は見たこともない文字で書かれていて解読が出来なかったが、その文字に囲まれていた絵、爆撃でもあったかのようなその光景には見覚えがあった。それは以前、紫薇が激闘を繰り広げた場所であり、傷付いた体を休めた所でもあった。
見出し記事には第ゼルア級犯罪者『怪人吸殲鬼』デラ・カルバンスの死亡により、登録から抹消することを決定したと書かれていた。
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