45話 父親と呼ばないで
「…これでもう後には引けないわね」
河の中に消えていった紫薇の姿を見てジブラルはそう口にした。左手で右腕を擦りながら体を震わせて嘲け笑ったジブラルの顔は酷いものだった。
「後はプランジェの首を絞めれば、私の役割は終わりね…」
そうしてジブラルが首を傾けると、ふと妙な気配を感じ取った。その気配はクレシェントのものだったが、今迄と違って濃厚でどこか自分の存在を訴えるかのようだったのだ。何事かと思いながらその気配に目をやると、ジブラルは予想だにしていなかった事実に驚愕した。倒れていた筈のクレシェントの体が彼女の概念によって宙に持ち上げられていたのだ。幾つもの赤い腕がクレシェントの周りに咲き乱れ、円を描いて彼女の体を取り囲んでいる。そしてクレシェントを祭り上げるように腕の表面を揺らして辺り一体を真っ赤に染めていった。
「この力…まさか本当に女王がクレシェントの中に宿っているというの…?」
その事態を感じ取っていたのはジブラルだけではなかった。クレシェントの只ならぬ気配はその場所から離れていたデラの肌をざわめかせた。
「この気配は…まさか…」
デラは気配がした場所を探り当てると血相を変えて足を動かした。
「…やはりあの子の中にヴィシェネアルクが?」
廊下を歩きながらデラはアシェラルと話したことを思い出した。
「そうだ。あの娘の中には女王の因子が組み込まれている。それは同時に生命の母になる可能性を秘めているのだ。いずれその目に母としての証が宿るだろう」
「だがあの子は誤った過程で作られた。創造主に見放された失敗作として」
「いや、失敗ではなかったのだ。最も重要な女王の魂…いや、形ある情報はあの娘と同化している。肉体を作り上げた者に魂の通過儀礼は見られないからな。女王は自らの死を受け入れたときにその魂に鍵をかけたのだろう。お前の言った創造主はその鍵を外そうと躍起になっていたらしいがな。女王はまんまとその目を掻い潜り、あの娘の中に入り込んだ。そして次世代の女王として覚醒するまで、娘を宿り木にしているのだ」
「待て、女王が死を受け入れただと?一体誰がそんなことを…。それにその話が本当ならば、クレシェントが女王として目覚めたときにあの子の魂はどうなる?」
「娘の魂がどうなるか…それは我輩にもわからん。だが少なくとも女王とあの娘では魂の価値の差が著しい。もし女王が娘を取り込もうと言うのなら勝ち目はない。二代目とはいえ、母の証を持っているのだからな」
「それを止めるにはどうすれば良い?」
「女王の力を封じろ。黒き白鳥の証を持っているお前ならばそれが出来る筈だ。だが完全に覚醒してしまっては真の後継者でないお前では無理だ。良いか、あの娘が自ら女王の椅子に手を伸ばしたときが最後だと思え」
「あの子が自分から女王の力を望むとは思えんがな」
「…だと良いが」
何か含みのあるようにアシェラルは視線を外した。
「何にしても全力は尽くすさ」
「ふん、お前のそういうところが気に入らん。だが気を付けろよ、一連の歯車を回しているのは、かつて神を虜にしてしまった者だ。あの娘の創造主はどうであれ、奴はお前にとっては父であり母でもある。踊らされる前に身を引くことだ」
「その忠告は無視させて貰うよ。今の私にとってはあの子の命の方が大事だ」
「勝手にするが良い。お前が死ねば分けてやった我輩の力がもとに戻り、仕事の能率が上がる。我輩にとってはどちらに転んでも万々歳だ」
「冷たい師だ。…しかし貴方のお陰で助けられたことは確かだ。ありがとう」
「…デラ、最後に一つだけ忠告をしてやる。ゼルアが動き出した。もう間もなくこの世界にやって来るぞ。恐怖の大王となってな」
デラはその言葉を聞いて神妙に頷いた。
「…クレシェント、君の魂を女王なんぞにくれてやる訳にはいかない!」
背中から翼を伸ばし、外に向かって飛び出していった。
真っ赤な池となった中心に仰向けになってクレシェントの体は宙に浮いていた。辺りに滲んでいった血は既に草原の殆どを染め、宛ら巨大な生物が血を吐いたようだった。池の中の腕は更に動きを早め、やがてクレシェントの足元から小さな球体が浮かび上がった。それは心臓だった。小さなその心臓が無数の腕に導かれて天に昇り、クレシェントの間近まで迫ると、その色を銀河色に変えて胸元に空いていた穴に向けて捻じ込まれた。するとクレシェントの体はびくりと跳ね、地面に向かって落ちていった。その途中でクレシェントの体は反転し、四つん這いになって地面に降り立って顔を俯かせた。
「(この気配…今迄とはまるで違ったものを感じる…)良いわクレシェント、次は何を見せてくれるのかしら?」
白い吐息がクレシェントの口許から流れた。銀色の髪の毛の隙間からジブラルを見詰めたのは真っ赤な瞳だった。しかし赤い瞳孔の周りを黒いレンズが覆い、より凶悪な雰囲気を醸し出していた。中心の縦筋の数も増えている。ジブラルはその瞳と目を合わせるとぞっとしてしまった。
胸の隙間から隠れていた黒い心臓がクレシェントの肉の中に入っていった。それと同時にクレシェントの口許は裂け、鋭い歯が並んでいった。頭から捻れた形の角が生えたが以前と違ってより細く、尖った部分が多くなっていた。腰の部分からは光沢のある尻尾が飛び出すと、その表面を包む様に小さな角質が着いて鎧を纏ったようだった。クレシェントが上半身を少しだけ起こすと背中の骨が音を立て、肉を裂いて曲がった棘のような骨が両肩から飛び出し、背中の左右下からも同じものが出た。そして四本の骨に血管が巻き付いて、その管の途中には赤い花の蕾がくっ付いていた。更に骨髄に沿って小さな骨が頭を出すと、クレシェントは腹の底から産声を上げた。二の腕や脚は筋肉質になってもう女性としての外観美を失ってしまっていた。
まるで大地そのものを震わせるかのような声を肌で感じ取ると、ジブラルは頬を恍惚に染めて笑い出した。
「ふふふ…アハハ…あはははははは!なによ、結局あなたは自分の言ったことを否定してしまっているじゃない!喜劇にしては安い演出だわ、クレシェント。そう、あなたがプリマドンナを降りるというのなら、その役は私が奪ってあげるわ。いらっしゃい、その薄汚い衣装をずたずたに引き裂いてあげるから」
そういってジブラルが右手を唸らせると、魔姫となったクレシェントは体を縮こまらせて戦闘態勢に入ったが以前のように飛びかかりはしなかった。その行為はまるで図体に身を任せて暴れるだけの獣が、知恵の実を食べてしまった人間の英知を真似たようだった。ジブラルも魔姫が体ごと突っ込んでくるのかと思って身を固めていたが、一向に向かってこないことを不思議がった。その直後、ジブラルの脳裏に嫌な予感が過ぎった。魔姫との戦歴の中でこんなことは一度もなかったのだ。最後に魔姫を目にしたときにジブラルは自分でその回答を口にしたのを思い出した。
「クレシェント、あなた…」
ゆっくりと四つん這いになっていた魔姫の体が引き起こされ、腕がジブラルに向かって掲げられる。すると魔姫の体から赤い靄のようなものが左右に伸びて、その中から靄を抉じ開けるようにして真っ赤な腕が現れ始めた。
『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』
靄の中から人の腕とはかけ離れた形の腕が無数に飛び出し、それらが一斉にジブラルに手を伸ばしていった。そのときの腕の勢いはすぐ傍で流れている河よりも強く、身を切り裂いてしまう旋風よりも鋭かった。
ジブラルは咄嗟に爪先を蹴って後ろに下がった。魔姫が具現化した腕はその場所にのめり込み、腕をがんじがらめにして一つに丸まるとその隙間から新たに腕を伸ばして再びジブラルを追っていった。ジブラルが右腕を振り払うと、赤い腕はいとも簡単に引き千切られていったが、次から次にやって来る腕の数にジブラルは次第に追い込まれていった。そして気付けば行く手の全てを腕に遮られ、逃げ場を断たれた。赤い腕が右から順に、その途中で順を乱して斜め上や下から這い上がって来るもの、こっそりと背後に回って寝首をかこうとしているものをジブラルは目を仕切りに動かしてその流れを読み取り、肌を敏感にさせてあらゆる方向からやって来ている腕の気配を察知すると、地面を蹴飛ばして跳び上がった。その途中で何度か宙を蹴って方向を変えながら腕の進行を掻い潜り、更に宙で回転したりして腕から逃げ切ると、最後に高く空に跳んで空中から魔姫を見下ろした。
しかし既に魔姫の口許からは赤い光が零れていた。魔姫は宙に跳び上がったジブラルに向けて口内に溜めていた魔力を一気に放出した。その閃きは余りに赤い色彩を凝縮し過ぎて半ば黒かった。ジブラルはその光を右腕で受け止めたが、指物ジブラルであってもその全ては防ぎ切れなかった。頬や着ている衣服は削られ、皮膚が焦がされる。右腕に溜めていた力をジブラルは光を受けながら解放し、光線を引き裂いていった。手の平が煙を上げたが右腕自体にはダメージはないようだった。
「(…来る!)」
魔姫の膝が折り畳まれ、はち切れんばかりに太股が膨張した。通っていた血液は一時的にせき止められ、膨大な熱が足全体に広がるとその力を一気に解き放った。魔姫は牙が立ち並んでいる口を開けながら宙を駆け抜け、一瞬でジブラルの傍にまで近付いた。ジブラルは魔姫の一噛みを寸でのところで回避したが、その後に振りかざされた魔姫の両腕までは対処し切れなかった。辛うじて右腕の中に体を隠し、直撃は免れたが筋肉質になっていた魔姫の腕の力は膨大だった。
ジブラルは吹き飛ばされながらも全身の力を使って宙で勢いを弱めたが、魔姫の攻撃がまだ続いていることに驚愕した。魔姫はジブラルと同じように魔力を使って足元に薄っぺらい土台を作って宙を蹴飛ばすとジブラルを追いかけた。
「…まだ何を!?」
追いかける途中で魔姫は体を回して鎧のような尻尾を振り回した。尻尾は宙を横切る前に表面に着いていた甲殻を尖らせて一本の長い剣に見立て、ジブラルの右腕を撓る動きで引っ叩いた。すると金属が弾かれたような音が流れ、ジブラルの背後にあった地面を真っ二つに切り裂いていった。ジブラルの右腕には傷は出来なかったが、右腕の中に隠し切れなかった両肩を深く傷付けていた。その後にジブラルは地面に叩き付けられ、大量の土砂を撒き散らした。
ここでも魔姫は深追いはしなかった。体勢を立て直して宙に浮かぶと手を掲げ、頭上で魔力を凝縮させて赤い球体を創り出した。掲げていた手を振り下げると球は拡散し、腕が雨のように地上に繰り出された。しかし赤い雨は疎らに広がらずにジブラルが落下した場所に集中していった。
『ディアレイズ・グラノイド・シュベール(七度目の接吻は濃密に)』
赤い雨が地表に到達する前に炎が封じられたガラス玉が四つ雨の先に広がり、残りの三つは魔姫の周りに浮遊した。雨がガラス玉に触れると同時に封じられていた奏力は爆発し、魔姫の背後にあったものも連動して火を噴いた。炎が腕を蒸発させている間にジブラルは土煙を押し退け、血で汚れた体を現した。ジブラルの目は闘争によって火が点けられ、これ以上ないほど力が込められていた。
『バレオン・ゲルフェーニ・シュベール(爪先に絡んだ燕の舌)』
青空の中で雷光のような一瞬の輝きが生じると、ジブラルは左手を水平に切った。魔姫が炎を掻き分けて姿を現したときに空から稲妻の形をしたか細い青い足が魔姫の体を貫いた。足は一本から二本、三本にその数を増やして魔姫を踏み拉っていった。しかし青い光に体を貫かれながら魔姫は赤い腕を具現化させ、自らの周りに巻き込んでジブラルの概念を引き裂いていった。
ジブラルは破れかかっていた服を引き千切りながら歩き出し、魔姫は腹に穴を空けたまま青い雷から抜け出すと、背中から伸びていた尖った骨を伸ばして地面に突き刺し、そのまま骨を伸ばしながら宙を滑空していく。そして魔姫の体がジブラルに届く前に繰り出していた赤い腕はジブラルに迫ったが、ジブラルは右手に力を込めてその腕を引き裂いていった。その後に魔姫の体がジブラルに衝突しようとしたが、ジブラルは左手を魔姫に掲げてアイロニーの盾を発生させた。背中から伸びていた骨の先が盾に阻まれて魔姫は宙で止まった状態になってしまったが、手をアイロニーの盾にくっ付けると徐々に盾の表面を引き千切っていった。そしてその隙間からジブラルの頬を打ち払い、彼女の体を宙で一回転させた。吹き飛ばされたジブラルは口角から血を流しながら宙で体勢を立て直し、地面に足裏をつけて勢いを殺すとその衝撃で頭に着けていたシュシュが解けた。
『グラノイド・シュベール(囁いた情婦の吐息)』
ジブラルは発生させていたアイロニーの盾をまだ消滅させないでいた。割れた盾の隙間から魔姫が覗いている。ジブラルはその僅かな隙間に範囲の狭い二奏詩を潜り込ませた。小さくも体の傍で爆発した概念は腕を裂いて魔姫を鳴かせた。その隙にジブラルはアイロニーの盾を消滅させ、ふらついている魔姫に近付いて肉が裂けてしまった魔姫の腕を右手で掴み、肉を握り潰しながら一気に引き千切っていった。堪らず魔姫は低い叫び声を上げた。ジブラルは血の雨を浴びると、冷たい笑みを浮かべてぺしゃんこになった魔姫の腕を捨てた。そして魔姫の顔面に左手をそっと着けると、手の平から青い光を撃ち出した。
首を根こそぎ削ぎ落とされ、真っ赤な噴水が首の骨の周りから溢れた。よたよたと二足歩行で魔姫の体が後ろに下がる姿は正気の沙汰ではなかった。今度はジブラルの口許から真っ白な息が零れ、ジブラルは達成感を如実に感じながら全身の力を抜いてその喜びを噛み締めた。
魔姫の大脳は完全に蒸発した。双眸も銀色の髪の毛も牙も頬肉もこの世から抹消され、神経を伝達する能力を持った器官を失い、体は全機能を停止していった。しかしそれらの事実があっても魔姫の左腕は動いた。全身の緊張を解いてしまっていたジブラルの体に大きな傷を付けたのだ。ジブラルは乳房からへその辺りまで血を流したことで緊張を取り戻し、右腕を使って魔姫の胸部を抉り取った。肉の中にあった黒い心臓を四つに割り、体を二つに裂いて残っていた心臓の肉片を青い光で打ち抜いた。体の四分の三が消滅し、生物として生体機能を維持できない状態にまで陥れられた魔姫だったが、失った部分から肉が新たに産まれ、急激に、そして有り得ない現象を引き起こしたまま魔姫の肉体はもとに戻っていった。
「な…」
生物とは小さな細胞が集まって出来た言わば命の集合体。魔姫はその命題を忠実に、極めて理想的に再現していた。今の魔姫の生体構造は単一細胞としての固有の集まりで、人の外見に似せた無数の生物の集まりとなっていた。セレスティンが独自に女王を調べた結果の中で、女王はあらゆる生命の遺伝子情報を持ち、その情報に基づいて自在に姿を変態させることが可能だという事実があった。現代の常識では計り知れない現象が魔姫の、クレシェントの体内で繰り広げられていた。目の形をした細胞が産まれ、髪の毛の形をした細胞が産まれ、頬肉と滑らかな舌触りを持った細胞が産まれると、魔姫は呼吸をする真似をしてげっぷをしてみせた。
「本物の化け物じゃない…」
ジブラルの首に魔姫の腕が吸い付くようにして付着すると、何十にも巻き付いて彼女の肉を締め上げた。尋常ならざるその現象に呆気に取られていたジブラルは体を押し倒され、宙吊りになりながら呼吸器官を圧迫されていった。青い目が徐々に上を向いていく。口角からは涎が垂れて一見するともう死んでいるようだった。魔姫は更に腕に力を込めてジブラルの首の肉を締め付けた。だがその反面、ジブラルの目の色はふつふつと輝きを取り戻し、虹彩が魔姫に向けられるとジブラルの概念が左右から現れて魔姫の体を押し潰した。
『グラノイド・シュベール・デルフォーゼン(口の痣が残るまで)』
紺色の光の中で魔姫の体液が辺りに飛び散り、ジブラルは自分の首を絞めていた魔姫の腕を左手で握り締めながら倒れた体を起こし、見せかけの本体が潰れても尚も力を緩めない魔姫の腕を自分の体から引き剥がした。びちびちと手の平の中で蠢いている魔姫の腕はジブラルの手が青く光り出すと、くたりと萎れていった。すると突然にジブラルの目の前で具現化されていた概念の間から魔姫がジブラルの概念を押し退けて姿を現し、体をずたぼろにしながらジブラルに牙を剥いた。だがジブラルが左手を掲げ、拳を作ると魔姫が押し退けていた筈の概念に更なる力が加わり、再び魔姫の体をぺちゃんこにした。そのときのジブラルの表情は冷徹そのもので、一心不乱に蟻を踏み潰している子供のようだった。
ごりごりと骨と肉をミンチにするような音が続いていたが、途中でジブラルの概念が消滅してしまった。仮にゼルア級の力を持っていても一定時間を越えると具現化していた概念が消えてしまうナーガでのその自然法則は越えられなかった。ひしゃげた体になった魔姫が目の前に現れると、ジブラルは法則を無視したような右腕に意識を集中させた。魔姫の体はその間に修復され、赤い目が閃いた。
魔姫の口から艶のある赤い光が飛び出した。それは概念ではなかった。滑らかな舌が鋭い触手となって宙を縦横無尽に駆け、ジブラルの懐に飛び込んだ。ジブラルの右手が真っ赤な舌を掴もうと機敏に動いたが、魔姫の舌はジブラルの眼前で七本に枝分かれして舌の中に口を作りながらジブラルを包み込もうとした。舌の中にジブラルの体が飲み込まれる直前、ジブラルは右手を掲げて指を機械的に動かした。するとジブラルの指先の動きに合わせて舌が切り裂かれていき、細切れになった舌の肉から血が噴き出した。
切れた舌を痙攣させながら魔姫は伸ばしていた舌を口元に寄せたが、その途中で舌はびくりと震えて止まってしまった。ジブラルが履いていたサンダルのヒールの先が舌の肉に突き刺さってその場に押し止めていたのだ。ジブラルはじたばたともがいている舌を左手で引っ張り、魔姫の体を自分の手元に手繰り寄せた。魔姫は体を引っ張られて宙を飛んでしまったが、その半分は自分の力でジブラルに飛びかかろうとしていた力によるものだった。そしてジブラルの傍まで近寄ると、魔姫は舌を念じることによって断ち切り、腹の中で溜めていた魔力をジブラルに放った。その瞬間、青い光を持ったジブラルの手が魔姫の唇に押し付けられた。ジブラルの左手に込められていた奏力は魔姫が放とうとしていた力よりも強力で、二つの力は魔姫ののどぼとけで炸裂した。
眩い光の後に上半身がなくなってしまった魔姫の姿があった。宙に血液が乱れ散っていたが、その中にはジブラルの血も混ざっていた。暴発した奏力はジブラルの左腕を傷付けてしまっていたのだ。魔姫と違って特別な再生能力など持たないジブラルの手は酷くただれた。じんわりと汗を垂らしながら魔姫に目をやった。魔姫は恐るべき再生力で吹き飛んだ上半身を構築しながらジブラルに再び襲いかかった。
怪我をした左腕を隠しながらジブラルは右手の指に力を入れて魔姫を切り裂いた。しかし魔姫は体を四つに裂かれても尚、進むことを止めなかった。大口を開けた魔姫の半分の顔が振り切ったジブラルの肩に触れる。数本の牙がジブラルの体を引き裂いて二人の体は交錯した。ジブラルは魔姫の体が背中を過ぎる前に振り上げていた手を引っくり返し、後方に振り下ろすと魔姫を地面に叩き付けた。その衝撃で魔姫の目玉がぽろりと飛び、赤い目が転がった。
ジブラルは魔姫が体を再構築しようとする前に有りっ丈の奏力を練り上げ、うつ伏せになって痙攣している魔姫の体に概念を繰り出した。晴天の霹靂が空に何度も広がると、一斉に魔姫の背中に放たれる。雷が魔姫の体に直撃したかのようだったが、いつの間にか魔姫の背中から出ていた小さな骨が膨れ上がり、傘のようになってその落雷を防いだ。ジブラルはその現象に驚かされたが、魔姫の変態はそれで終わらなかった。尻の上あたり、腰との境目が蠕動すると肉が裂け、そこから舌と歯が生えたのだ。ジブラルはその光景を見ておぞましいと肝を冷やした。と同時にその口から光った赤い光を目にするとジブラルは身を仰け反った。
ジブラルの額のすれすれを真っ赤な光が通り過ぎていった。魔姫の体から発射された魔力の砲台は背中にもう一つ、またもう一つと口を開けて作られ、標的に向けて放たれた。射撃を行いながら魔姫の体はもとに戻っていった。ジブラルは二発目と三発目の光線を横に跳んで避けながら、左手を魔姫の背中に向けた。
『バレオン・メターディア・シュベール(楽園の誰もが跪いて)』
魔姫の背中はジブラルの手から奏力が発生する前にその危機を察知し、再び骨を肥大化させて傘を作り上げた。青い光がジブラルの左手から放たれ、傘に放射されると魔姫の背中で光が眩いた。骨の傘は木っ端微塵に破壊され、背中の肉が捲れはしたが魔姫の体に受けた損傷は酷くなかった。
『パレダリオ・シュベール(柳に抱かれた女)』
左手で流すように宙を切ると、その軌跡から柳花火のような細かい光の線が現れ、砂粒を零したような音を立てながら、無数の線となって剥き出しになった魔姫の背中を貫いた。小さな穴から柳花火のように血が後を引いて流れ出すと、魔姫は目を上げながら喘いだ。しかし声を上げて痛がっても傷はたちどころに再生され、魔姫はやっと体を反転させた。
「これだけ鞭を打ってもまだ這い上がってこれるなんて…。やっぱり一口も残さずに平らげてあげないと駄目みたいね、クレシェント…。良いわ、あなたが疲れ知らずっていうのなら、根こそぎ奪ってあげる」
ジブラルの目に強い光が点ると、思わず魔姫は全身を硬直させた。全身の細胞が魔姫に向かって警告を鳴らす。言葉を話さない魔姫でも危険だと口にしそうだった。
『黄金の木に実がなっているわ たわわに実った真っ赤な果実』
醜い右腕をもとの華奢な腕に戻し、両腕で自分の体を抱いてゆっくりと手を開きながら腕を下げた。それと同時にジブラルの右手に赤い光が点った。その光を見て魔姫は反射的にジブラルに跳びかかった。しかし観客が歌姫に触れられないように魔姫もまたジブラルが放ったアイロニーの盾によって彼女の傍に立ち入れなかった。
『まあ美味しそうねとあなたは頬張った 頬っぺたが落ちそうな顔をして食べるのね じゃあ次はこれを食べてみましょうと あなたはつやつやの青い果実を手に取った』
ジブラルの左手に青い光が点ると、魔姫はいよいよもって息を詰まらせ、その場を離れて腹の底から魔力を吐き出した。その際に魔姫はこっそりと尻尾を地面に突き刺し、その先っぽを千切って地面に入れた。
『いけないわ 二つも口にするなんていけないわ 私と木の枝に止まっていた二匹の小鳥が囁いたけれど あなたは青い果実を頬張った』
果実の形をした二つの光がジブラルの低い歌声と共に更に輝きを増し、やがて彼女の目の前に原子核を模したような光が現れた。そこに魔姫が撃ち出した魔力の光が通りかかったが、その光の前では通行を許されずただ弾かれるばかりだった。
ジブラルが両手に浮かんでいた光を原子核の中に入れると原子核は胎動し、凝縮しながら火を噴いてさながら小さな黒い太陽のように姿を変えていった。と同時にジブラルの体は黄金の光に包まれ、体は火の粉のように散り散りになり始めていった。
『機械じかけの黄金の木 葉っぱがゆらりゆらり 罪と罰 あなたは三つの罪で長い長い罰を受ける』
『機械じかけの木の下で フォレスミュア・リーン・マルケアルバティーニョ』
ジブラルは唇を緩ませると、手に持っていた果実を地面に落とし、その実を砕いた。すると黒い太陽の中心で白い光が炸裂した。光は辺り一体に振り撒かれ、目の眩みそうな光度が魔姫を襲った。初めに光は地面を潤していた湿った草原を消滅させた。次に剥き出しになった地表は放って置かれ、魔姫が放った魔力を消し去った。最後に白い光は魔姫の体を骨まで砕いた。皮膚はただれ、筋肉は萎み、血液は根こそぎ蒸発していった。ジブラルの体は黄金の火の粉となって白い光から逃れていた。
白い光が収まると、辺り一帯は不毛の荒野へと変わっていた。しかしそんな現象が起こったにも関わらず、地面の形は少しも変化していなかった。まるで命だけを否定したかのようだった。黄金の火の粉が風に乗って一つに集まると、ジブラルの姿を構築していった。
「いけない、おちびさんのことを忘れてたわ…。巻き込まれて死んじゃったかしら?」
ジブラルは体を構成させながら辺りを見回した。するとある一部分だけ精気を絞られていない箇所があったのを目にした。濡れた芝生の上にはプランジェの姿が横たわっている。ジブラルがまさかと思った矢先、突如として地中から赤い柱が突き出し始めた。檻の節目に人の目玉が描かれている柱はジブラルの周りに集まると柱同士で手を繋いでジブラルの立っていた場所を封じ込めた。
『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』
概念が完全に具現化される前に地面が掘り返され、その中から這い上がるようにして魔姫が手を伸ばした。尻尾の先だけだった体は既に完全に構築されていた。
「今のあなたはクレシェントなの?それとも…」
言葉の途中で魔姫は手を握り締め、檻を完全に具現化してジブラルの体を封じ込めた。金属音を出しながら牢獄が徐々に圧縮される中、青い光の筋が檻の節目から飛び出すと、縦横無尽に動き回って檻を切り刻んでいった。檻が破裂するようにばらばらに飛び散り、中から五体満足のジブラルが姿を現したが、檻が与えていたダメージは体中を血まみれにする程だった。やっとジブラルの口から弱々しい吐息が漏れ始めていた。
「…きりがないわね。殺すのにこんなに手間がかかるのはあなたが初めてだわ」
口許に付いた血を拭いながらいった。
ふとジブラルは魔姫の背骨から突き出ている骨に目をやった。正確には骨に絡み付いている血管、その途中でぶら下がっている蕾の幾つかが花を咲かせていることに気付いたのだ。視線を向けている間にまた一つ蕾が花を咲かせた。
「…そう、ここからなのね」
ジブラルはくつくつと笑い出した。
「良いわよ、だったらそれまで待ってあげようじゃない。この世界に仇名した、いいえ…ナーバル・メズ・ガウシュリーの本当の創造主の力、私に見せて頂戴!」
そう口にしている間のジブラルの片目はいつの間にか真っ赤に光っていた。既にジブラルの視界には魔姫の正体がはっきりと映し出されていた。真紅の女王ヴィシェネアルク。その実体は人の姿に似た竜だった。本来の姿に近付きつつある魔姫を見てジブラルは更に自分の中の力を高めていた。
再び世界の空が変色し始めていた。アシェラルとデラが戦った時のように二人の力が世界を構成している因子を跳ね除けてしまっているのだ。青空はいつの間にか真っ赤に染まり、まるで血の海のようになってしまっていた。二人がその世界の中心となって常識を破滅へと追い込んでいる。ジブラルの目はもとの青い色に戻り、体中から奏力が溢れ出ていた。右腕を醜い腕に変化させ、じりりと爪先を鳴らした。
時が止まったかのように二人の跳び上がった姿が一つの絵画となって宙に描かれる。その内容は有り余る力を持ってしまった二人の悲惨な人生そのものをテーマにしているようだった。顔は笑っている。しかしその目はどこか寂しげで、悲しい色をしていた。尋常な速度で辺りを走り回り、お互いを傷付け合うのも変に不恰好だった。
「何ということだ…。クレシェント、君は本当に自ら…」
劇の開始に遅れてしまったデラは変わり果てたクレシェントの姿を見て愕然とした。二人の戦っている姿を見ても、胸に伝わるのは哀愁ばかりでデラは思わず野次を入れてしまいそうになった。
「だがジブラルよ…お前は本当に恐ろしい娘だ。妖精のかけらを抜きにしても、かの女王と渡り合えるなど信じられん…。正気なのか?いや、正気ならばゼルア級などに選ばれはしなかったな…」
デラの頬に着いた妖精のかけらが光る。肉体を昇華しながらデラはしっかりと二人の戦いの間に目をやった。
「だがやはり今のお前は小娘に過ぎない。観客は舞台に上がってはいけないのだよ、ジブラル…。そこから降りて貰うぞ!」
ジブラルと魔姫の体はもう何度も交錯していた。その度に二人の体からは血が溢れ、見るも無残な姿に変わっている。しかし魔姫に至っては幾ら体が傷付いてももとに戻るばかりで一向に息を上げなかった。反してジブラルは与えている損傷は魔姫よりも遥かに多いものの、受けた傷は修復されず徐々に吐息を漏らしていった。
そのときだった。ジブラルはふと体に眩暈を感じて足を滑らせ、膝を着いてしまった。その隙を魔姫は巧妙に感じ取り、鋭い爪を振りかざして近付いていった。しかしジブラルも黙ってはいなかった。左手を地面に着けて軸にしながら右腕を魔姫に向ける。二人の腕がお互いの体を引き千切ろうとした直前、赤い光を身に纏ったデラが二人の間に滑り込んだ。二枚の黒い白鳥の翼がジブラルと魔姫の腕を食い止め、宙に数枚の羽根を浮かばせた。
「…そこまでだ」
「デラ・カルバンス…」
ジブラルはデラの顔を見るなり歯軋りをして睨み付けた。
「…………………」
魔姫はデラの顔を見ると、言葉では言い表せない微妙な顔の変化をみせた。
「化け物の親玉の登場って訳ね…。でも少し過保護じゃないかしら?子供の喧嘩に口を挟むなんて大人気ないわよ…お父様っ!」
そういってジブラルは右手でデラの翼を強く握り締め、骨を圧し折った。デラは堪らず呻き声を上げたが、決してその場を動こうとしなかった。
「あら、てっきり艶のある声で鳴いてくれるかと思ったけれど…。男の悲鳴なんてそそられないわね。そんなに娘が大事なの?一度は殺そうと…いえ、クレシェントの体が欲しくて堪らなかった癖に…愛故にって奴かしら」
「…可哀想な娘だ」
そうデラが口ずさむとジブラルはぴくりと目元に力を入れた。
「…何ですって?」
「お前は、やはりどこまで行っても子供なのだな。今になってやっとわかったのだ。どうしてお前がゼルア級などになってしまったのか…。お前は、本来あるべき筈の姿を失ってしまったのだ…。確かに、お前とこの子は似ている。だからこそ、クレシェントと同じようにお前が哀れに思えてならない」
「…この…黙って聞いていれば!」
ジブラルは更に力を入れ、拉げた翼を引き千切ろうとしたがデラはその痛みを我慢しながらジブラルの目をじっと見た。
「子供が、大人の話に口を出すものじゃない。言った筈だ、お前はただの小娘なのだと。いい加減にしなさい、ジブラル」
「な…」
その時のジブラルの目に映ったのはデラの顔ではなく、遠い昔に見捨てられた父親の面影だった。その瞬間、ずきりと心臓に電撃が走った。凍り付いた心臓に熱した鉄の棒を刺したようだった。
「私は…私はっ…!」
咄嗟に掴んでいた翼を離し、ジブラルは目を泳がせながら後ろに何度も下がった。じっと見詰めてくるデラの視線が耐えられず、呼吸を荒げながらジブラルはふと右手を見た。醜い姿をした手の平に真っ赤な血が染まっている。ジブラルは脳裏にあのときの光景を思い返すと、悲鳴を上げてその場から逃げていった。
デラはジブラルの後姿を見送ると、溜め息を吐いて体を魔姫に向けた。魔姫は狼狽しながら硬直してしまっている。酷く動揺しているようだった。
「半分…と言ったところか…」
デラは魔姫とクレシェントの顔を見てぽつりと呟いた。
「クレシェント、聞こえているね?私の顔を見なさい」
そういうと魔姫はぶるぶると体を震わせた。
「戻って来なさい。そっちへ行っては駄目だと言っただろう?戻って来なさい」
か細い泣き声を漏らしながら魔姫は目から赤い涙を零していた。デラの目を見詰めながら魔姫は徐々に瞼を細め、目が完全に閉じられると、全身の力を抜いて体を横に倒していった。デラはもとの姿に戻ったクレシェントの体を受け止めると、とても悲しそうな目をして彼女の顔を見詰めた。
ちょろちょろと川の音が静かに響いている。広大な草原の真ん中には小さな池があり、その岸には精気の消えかかった十八歳位の青年が打ち揚げられていた。色白で目を閉じていても生意気そうな顔をしていたが、腹部に空いた傷がその顔を青ざめさせていた。その青年が僅かに声を上げると傍で草を踏む音が鳴り、影が紫薇の顔を覆った。
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