44話 あわれみと恐怖のカタルシス

 暗闇の中に沢山の気泡を立てながら白い衣が投げ出された。まるでその身を溶かすかのように泡は下から上へと立ち上って水面で弾けていった。揺らいだ天井から光が差し込んでいても、水中を駆け巡る流れはいかなる木漏れ日も通さなかった。体の自由など初めからなかったように深く深くその身を沈み込ませ、行き先のわからない形ある濁流に乗って白い衣は流されていった。

 白い衣がその身を投げ出される直前、か細い腕が必死になって手を伸ばしていた。腕の持ち主は顔をくしゃくしゃにして叫んでいたが、その腕が白い衣の手に触れることはなかった。クレシェントの泣き声はごうごうと鳴り響いている水の音に掻き消されてしまっていた。



 荒々しい音を立てながら水が一直線に流れていた。岩を削って自然に出来た傾斜が水の流れに拍車をかけて更に勢いを増している。巨大な滝の一部を切り取って真横に傾けたようなその河は道の途中で何度かうねり、あたかも女性のくびれのようだった。河の周りには淡い緑色のこけや藻が生い茂り、みずみずしい景色を作っていた。

 その場所から百メートルほど離れた場所に真っ赤なドアが現れた。ドアノブが開かれるとその中からクレシェントに次いで紫薇とプランジェが身を繰り出した。三人はドアの中から出るや否や、その河の急流に思わず呆気に取られてしまっていた。

 「これが人魚の背中か…初めて見た…」

 「…滝の間違いじゃないのか?しかしこの大きさは…」

 いつもより大きな声を出さないと話し声は上手く聞き取れなかった。

 「やっぱり、落ちたら生きて帰っては来れなさそうよね…」

 大自然の力強さに指物クレシェントも息を飲んでしまっていた。

 「それで…これからどこを当たるのだ?」

 「お前が言っていた洞窟とやらは下流にあるのか?それとも上流なのか?」

 「いや、そこまでは…二手に分かれて探してみるか?」

 「そうしても良いんだが…この流れを見ていると…」

 「そうよね…ちょっと一人だと心細くなるわね…」

 三人は改めて河を覘いた後に半歩後退して背筋を震わせた。

 「…全員で下流から当たってみることを提案する」

 「賛成」

 「異議なし」

 そういって一行は川沿いに歩いていった。べちゃべちゃと水分の多い芝生は気を付けて歩かないと足を滑らせてしまいそうだった。辺りは地平線まで背の高い木や人が住んでいそうな建物が一切なかった。延々と濡れた草原が広がっている。地平線の傍には切り立った山脈が薄っすらとあった。空は灰色の雲が広がっていて曇り模様のサバンナのようだった。

 靴がしっとりと水を吸っていくと紫薇は次第に嫌な顔をしていった。

 「どうしたの?」

 「いや…随分と湿気の多い地面だなと思って…」

 「アシェラルの居た沼地よりはましだろう。あそこは臭いが最悪だった…」

 プランジェはうえうえと舌を出して気味の悪い記憶を思い出してしまった。

 「そういえば…前に濡れるのが嫌いだなんて言っていたわね」

 「ああ、実は湯船も余り好きじゃない。体を水に晒すってことがどうも好きになれなくてな…」

 「(猫ね…)」

 「(猫だな…)」

 「この際だから言って置く。俺は泳げないぞ。だからいざとなったら助けてくれ。…頼むぞ」

 紫薇は念入りに二人の顔を見た。

 「ふふっ、じゃあ帰ったら一緒に泳ぎの練習でもする?もう夏も終わりだけど」

 「別に金槌のままでも構わないんだが…」

 「でも私、海っていう所に行ってみたいんだけど。塩っ辛い大きな湖なんでしょう?本で読んだんだけど、何でも生物は海から生まれたっていうじゃない。何だか素敵だと思わない?プランジェも行ってみたいわよね?」

 そうクレシェントが顔を横に向けて尋ねてみたが、プランジェの返答はいつもより遅かった。頬を僅かに赤らめて首筋を汗で湿らせている。

 「…そうですね、我々の出で立ちは大して解明されていませんからはっきりと海から誕生した、という事実があるだけでも驚きです」

 プランジェはクレシェントに悟られないように隠れて折れた腕を擦った。

 「…何か聞こえない?」

 ふと河の音に紛れて細い金属の音を弾いたような音が響いた。

 「空耳じゃないのか?」

 紫薇も初めはそう思っていたが、微かに爆音に紛れて甲高い音を耳にすると、不思議なことに途端に河の音が収縮していって、そのハープの音だけが耳の中に流れてくるようになった。音は川沿いの先から流れ、離れた場所には白い髪の毛を靡かせた男性が目を閉じて蜘蛛の手のような細さの指を仕切りに弾いていた。その腕に抱かれていたのは金色に彩られたハープそのものだった。

 「…綺麗な音ね」

 いつの間にか一向はその音に釣られた蛾のようにその男の前に集まって耳を傾けていた。男は頬に汗を垂らしながら懸命に音を奏でている。真っ白なカーテンがその場にゆらゆらと流れているようなイメージが湧いてくる。そんな楽譜だった。だがその想像の他に紫薇はまた違った弾き手の思いを感じ取っていた。

 紫色に染まった闇が頭の中いっぱいに広がり、闇の中から二本の腕が現れて両手を合わせながらその闇を手の平の中に集めていった。するとその掻き集められた闇の中から次々と白い光が現れ始めた。その光は小さな針のようで、無数の光が中心に向かって集まると、その中から一際大きい芽がふっくらと頭を出して上に向かって背を伸ばしていった。針のような光は次第に左右に集まってくの字に曲がると、二枚の葉になった。やがて芽だった頭は時間をかけて笠を増やしながら蕾に変身した。そのときには既に紫薇の目は遠い場所に向いてしまっていた。心は紫薇の体から離れていこうとしてしまっていたのだ。すると紫薇のポケットの中に秘められていたものが微かに震えて黄金に光りだした。誰の目にもその光は映らなかったが、ハープを弾いていた男だけはその光の存在を感じ取ると、動かしていた手を止めた。それと同時にまやかしにかかっていた紫薇の心はもとに戻り、はっとして辺りを見回すとハープを弾いていた男が自分を見て笑っているのを見付けた。

 「お上手ですね」

 拍手の後にクレシェントははしゃぎながらいった。

 「ありがとう。でもまだ体が思う様に動かなくてね、酷い演奏をしてしまった」

 その男の声は八十代の老婆のような声だったが優しい口調だった。見かけは壮年だというのに随分と奇妙な人物だと紫薇は思った。

 「何かあったんですか?」

 「悪い女に体を半分食べられてしまってね、やっと体をくっ付けたんだよ」

 そういうとクレシェントは笑い出した。

 「冗談もお上手なんですね」

 「お気に召して頂けて何より。私の名前はフォルコット。しがない弾き手をやっています。こんな場所で彼方達は何をしているのですか?」

 「人を…探していて…。東の魔女ってご存知ありませんか?」

 クレシェントは駄目もとで聞いてみてしまった。

 「それは恐ろしいお人を探しているのですねえ…。確かこの先にある洞窟を抜ければ魔女の屋敷に通じているという噂を聞いたことがあるが、止めて置いた方が良い。相手は妖しい力を持ったそれは恐ろしい魔女なのだから。銀色の姫君よ、彼方のその美が失われる前にここから立ち去りなさい」

 雰囲気を作る様に弦をぽろろんと弾いた。

 「でもどうしてもその人に会って話をしないと…ねえ?紫薇」

 「あ、ああ…」

 紫薇はフォルコットの目がどうも引っかかっていた。さっきから黄金の瞳が目から離れない。しかしその度に何か別の力がその不思議な魔力から気を逸らしている。

 「久し振りね」

 その言葉を聞いて紫薇はぎょっとした。紫薇もどこかフォルコットを見て不思議と懐かしいと思っていてしまったのだ。

 「もう随分と長い時間、彼方の顔を見ていなかった。喧騒の中、何を思って何を得たのかな?それとも何かを失ってしまった?」

 紫薇は吸い込まれそうな黄金の瞳にただ圧倒されるばかりで目が離せなかった。

 「あの…お二人は知り合い?」

 流石にクレシェントも話が噛み合っていないと思ったのか、困惑した顔をした。

 「ええ、ずっと昔からのね。尤も彼は思い出せないけど…彼方はよっぽど周りの方から大事に思われているのね。嬉しいこよじゃありませんか。ねえ?」

 紫薇の背中はじっとりと汗ばんでしまっていた。フォルコットの顔は見たことがない。しかしその雰囲気は確かに遠い昔に感じたことのあるものだった。

 「教祖様ーっ!」

 ふと男の声がどこからともなく一行の耳に飛び込んだ。まん丸とした顔で長いまつ毛の他にどこにも毛髪がなく、ころっとした体の持ち主の男が汗をかいて走って来た。男は肩で息をしながらフォルコットの隣に座ると、懐からハンカチを出して丸い顔に着いた汗を拭き取った。

 「…やっと見付けましたよ、ラミエラオーベルデューネ様」

 「おやメハティンヌ、こんなところまでご苦労様です」

 「寝室から抜け出されてどこに行ってしまわれたかと思ったら、よりによって人魚の背中まで足を運んでいたなんて…。さっ、帰りますよ」

 「はいはい、わかりましたよ。では皆さん、いずれまた」

 そういってフォルコットが手を掲げると、ハープは次第に小さくなってフォルコットの手の平の中に納まった。手乗りサイズのハープを大事そうに懐に仕舞うと、フォルコットは丸顔の男に引きつられて濡れた草原の先を目指していった。

 「あの男は一体…」

 紫薇はフォルコットの背中が点になるまで体から滲み出た汗が止まらなかった。

 「…大丈夫?酷い汗よ」

 べっとりと汗で引っ付いた前髪を手で直してやると紫薇は手で払った。

 「平気だ」

 「会ったこと…あるの?あの人と…」

 「いや、ない…筈だ…」

 紫薇はそういいながらも心の中で否定していた。

 「それよりあの男、教祖とか呼ばれていたな。プランジェ、奴は…」

 紫薇が顔をプランジェに向けると、そこには頬を火照らせて顔を俯かせるプランジェの姿があった。手で額を押さえながら辛うじて二本の足で立っている。心配に思ったクレシェントはプランジェの額に手をやってその熱の高さに驚いた。

 「…凄い熱!プランジェ、貴女…いつからこうだったの?」

 「ご心配には…及びません…少し、目眩がするだけです」

 折れた腕を擦りながらいったが視点は定まっていなかった。

 「紫薇、家に戻りましょう」

 「クレシェント様…なりません…」

 「馬鹿を言わないで。私が同じことになっていたら貴女だってそうするでしょう」

 レミアの鍵を取り出したクレシェントの手をプランジェは必死に食い止めた。

 「ほんの少し休憩すれば治ります…大事ではありません…」

 「プランジェ、いい加減にしないと怒るわよ」

 「違うのです、クレシェント様…私も…同じなのです」

 「…同じ?何を言っているの?」

 「私も…紫薇と同じ気持ちなのです。ヴァルベットにしてやられ、何も出来ずに綾を傷付け…また貴女を守れなかった。なのに…どうして床に着いていられましょうか?私は…あの男を許さない…。貴女を傷付けた…あの男を…」

 プランジェは自分のいいたいことだけ口にすると、ふらりと体を崩してクレシェントに凭れかかってしまった。クレシェントはそんなプランジェを抱かかえると、小さな溜め息を吐いて頑固者と笑った。

 「言いたいことだけ言って倒れる辺りがこいつらしい。さっさと帰るぞ」

 「でもプランジェが…」

 「お前はそう言われただろうが、俺は直に聞いた訳じゃないんでね。おぶってやるからその石頭を寄越せ」

 クレシェントは酷い人だと思いながらも、紫薇の思いやりを噛み締めながらプランジェの体を紫薇に受け渡した。その直後だった。クレシェントの全身を逆なでするような感覚が駆け巡ったのは。その感覚はかつて嫌というほど感じ取ったものだった。

 「見付けたわ、クレシェント」

 青い空を引き裂きながら現れたのはいとも醜い腕だった。その腕は人のそれとはかけ離れた形をしていて指は鉤爪のようで、手の甲は昆虫のような水気のない質感を持っていた。そんな成人男性の胴回りよりも太い二の腕に相反して、他の体の部分はとても華奢で、その顔立ちはどこか品性のある可憐なものだった。

 「さあ、私と踊りましょう。真っ赤な血のドレスに身を包みながら」

 「…ジブラル」

 クレシェントは目に力を入れようとしたが、その途中で以前のことを思い出すと一瞬、視線を逸らしてしまった。その代わりにジブラルに飛びかかっていったのは紫薇だった。プランジェをクレシェントに放り投げ、獣人に変身しながら口を開けて噛み付こうとしていたが、目には余裕が全く見られなかった。

 「嬉しいわ…!ここまで情熱的に来られるとぞくぞくする!」

 紫薇の体はジブラルの直前で目に見えない壁によって止められてしまっていた。まさか紫薇が食ってかかるとは思っていなったクレシェントは愕然とした。

 「紫薇!止めなさい!」

 「そうよ紫薇、どうせ敵わないんだから引っ込んでなさい。って言うかあなた、私には剣を向けられないとか言っていなかったかしら?」

 宙で四つん這いになりながらジブラルのアイロニーの壁を打ち破ろうとしている紫薇を見上げた。

 「今のお前には躊躇いがないからだ、ジブラル。本当に…殺すつもりなんだな」

 「そうよ、もう決めたのよ…。次でクレシェントの首を刎ねるって。紫薇、あなたに見せた仮面は被っていないのよ。今は…思いっきり誰かを嫐りたいわ…!」

 その言葉をジブラルが口にした途端、紫薇はジブラルの顔が狂気の色に青ざめていくのを見てしまった。紫薇は尻尾で掴んでいた剣を手繰り寄せ、柄を握って切っ先をジブラルに向けた。と同時にポケットの中に入っていた穂が熱を持った。切っ先はアイロニーの盾の表面をまるでゴムの様に伸縮させてジブラルに近付いた。

 「!」

 その現象に紫薇は驚きつつも柄に力を込めた。驚いたのはジブラルも同じだった様で、切っ先をしばし眺めていたが、刃先が肌に触れる直前に右腕を払って紫薇の体を突き飛ばした。

 「紫薇!」

 傍で地面に追突した紫薇を見てクレシェントは叫び声を上げた。

 「アイロニーの盾を飽和した?どうやって…」

 ジブラルは地面に埋もれる紫薇を不信に見詰めた。

 紫薇の胸の傷口からぼたぼたと血が流れた。服は肌蹴け、鳩尾の付近に抉れたような切り傷がぱっくりと刻まれている。紫薇は奥歯を噛みながら手で胸を抑えた。声をかけているクレシェントの声すら聞き取れないほどその痛みは強烈だった。

 「まあ、良いわ。クレシェント、これでも戦わないつもりなの?可哀想な紫薇、あんなに血が流れてさぞ痛かったでしょうに…。それもこれも皆、クレシェントが悪いのよ」

 ジブラルの言葉をクレシェントは背中で受けながら紫薇の傷を見ると、悲しい顔をした。そしてその目に薄っすらと赤い光がちらつくと、眉間にしわが寄った。

 「止せ…お前じゃ奴に敵わない…」

 「…紫薇、プランジェをお願いね」

 そういってクレシェントは紫薇の傍にプランジェを寝かせて膝を立てた。

 「やっとその気になって…―――っ!?」

 ジブラルに向けられたクレシェントの横顔は一切の迷いのない、純粋な殺意を乗せたものだった。銀色の目が今迄にないほど妖しく光る。その気迫に思わずジブラルは背筋を震わせ、踵を一歩後ろに下げてしまった。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 その殺意を具現化するようにクレシェントの概念がジブラルに飛びかかった。気迫に飲まれてしまったジブラルの反応は遅く、真っ赤な腕が間近に迫ってから正気に戻った。動揺しながらジブラルが右腕を振るうと取り囲もうとしていた腕は真っ二つに裂かれていった。

 「…ジブラル、これ以上私の大切な人を傷付けると言うなら…貴女に対して躊躇いはいらないわ」

 赤い剣を握り締め、クレシェントは言葉に重みを乗せた。

 「お望み通り、私と貴女だけの闘争を始めましょう」

 「良いわ、その言葉がずっと聞きたかったのよ…。この日をどれだけ待ち侘びたか。ええ、始めましょう。今度こそ…お互いの命が尽き果てるまで!」

 ジブラルの右手の唸りは河の音を掻き消すかのような音の大きさだった。

 紫薇は二人の睨み合いの後に宙で二つの光が弾けたのを見た。赤い光と青い光がぶつかり合い、文字通りお互いの命を貪ろうとしたのだ。二人の体が交錯して時がゆるりと流れていった。火花と水滴が点在する世界の中、銀色の髪の毛を靡かせる黒衣の女性と、青い髪を靡かせる醜い右腕を持った女性が睨み、笑い、怒りを持ち、恍惚に似た達成感を浮かべながら回った。その光景は美しくも儚い、紫色の悲劇、あわれみと恐怖のカタルシスだった。

 『グラノイド・シュベール・デルフォーゼン(口の痣が残るまで)』

 地面に降り立つとジブラルは左手を掲げた。クレシェントの上下に紺色の渦が赤い光を点しながら現れ、その間を徐々に狭めていった。概念の大きさは空を覆って辺り一体を影にしてまう程だった。

 『ベルウェルン・ジェネフィリア・マーギ(独唱はみな光を遮って)』

 クレシェントの左右に赤い球体が浮かび、一点に集中しながら凝縮していった。上下に現れていた概念が閉じ切る前に球体は豆粒ほどの大きさまで小さくなると、一気に凝縮していた奏力を解放した。死の川を形作ったような真紅の波がジブラルの概念を押し上げ、波はジブラルに流れていった。波濤はジブラルを両側から追い込み、クレシェントの意思に従って動いた。

 ジブラルの右手がぐっと握られると、耳鳴りのような音が静かに響いた。腕がぶるぶると震え、赤い津波がジブラルを飲み込もうとした直前、閉じられていた手は開かれ、太い弦を弾いたような音を立てながら右腕を振るった。すると赤い津波はジブラルの手の平から生じた衝撃波によって弾かれた。その勢いは留まらず、辺りの地形を粉々にしながら吹き飛ばしていった。クレシェントは突風が吹き荒れる中、剣を地面に刺して辛うじてしがみ付いていた。

 追い討ちをかけるようにジブラルが爪先で地面を蹴飛ばすと、クレシェントは刺さっていた剣をそのままにして人差し指と中指、そして親指を突き出し、宙を滑空しているジブラルに狙いを定めた。

 『ディオレ・ジェネフィリア・ザード(我は惨劇を呈して)』

 指の先から迸ったのは血の色をした光だった。一直線に光は虚空を貫いてジブラルの胸元に飛んでいった。しかしジブラルはその光を見ても臆するどころか、更に速度を上げて、やがてその体に青い光を点した。青い軌跡は赤い光を飛び越え、緩やかなカーブを描いてクレシェントの背後に回った。クレシェントはその軌跡を目で追うことは出来なかったが、目を閉じて全神経を集中させた。暗闇の中、ジブラルの殺気が無数にそれもあらゆる方向から煌いている。その一つ一つをクレシェントは今迄の戦いから得た経験をもとに感じ取ると、目を見開いた。

 まるでその姿はドーム状の舞台で踊る花形のようだった。的確に、たった一度の取りこぼしもないようにクレシェントは腕の筋肉と、肌の感覚を頼りに剣を振るった。ジブラルの挙動は素早く、一度に何度も動いているように見えてその軌跡が半球状を描き、クレシェントを閉じ込めているようだった。だがその攻撃をクレシェントは防ぎ切ったのだ。縦横無尽に閃いた火花が打ち終わると、

 「捕まえたわ、ジブラル…」

 クレシェントはその軌跡をやっと目で追い、鋭い矢尻を持った概念を呼び出した。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 クレシェントの頬をすれすれに飛び出し、何十本もの槍が天に向かって突き出された。正確に的に狙われた槍はしっかりとジブラルの傍に寄り、青い軌跡を突き破りながらやがて最後に残った本体に襲いかかった。矢尻の先がジブラルの手前まで距離を詰める。だが唐突に槍の先はジブラルから発せられた青い光よって凹まされてしまった。

 「駄作なのよ…あなたの概念って」

 じわりと青い光が槍に侵食し、アデュミナスの危機を発生させ始めた。それでもクレシェントは負けじと奏力を捻り出し、次の概念に当てた。

 『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』

 槍の全てが消滅すると同時に今度は檻がジブラルの周りを覆っていった。その光景にジブラルは飽き飽きした顔をして槍と同じように檻の表面に奏力を侵食させた。

 「言ったでしょう、捕まえたって」

 ジブラルはその言葉の意味を実際にその目で確かめられてしまった。檻の隙間から今さっき消滅させたものと同じ槍が差し込まれている。

 「やるじゃない…。でもね、まだ足りないのよ」

 その足りないものを埋めるようにクレシェントはもう一度三本の指をジブラルに向けていた。クレシェントは初めから三つ策を練っていたのだ。これで外す要素はなくなっただろう。ジブラルは周到なクレシェントの手際にくすりと笑みを浮かべた。

 クレシェントの指先から光が煌いた。しかしその光が手元から離れる前にジブラルは右腕を使って檻を抉じ開け、クレシェントに向かって落下していった。そして左手に奏力を溜めるとジブラルは自分の異名となった概念を撃ち出した。

 『バレオン・メターディア・シュベール(楽園の誰もが跪いて)』

 二人の間で赤と青の光が炸裂した。電撃のような光が辺りに乱れ、目が眩んでしまいそうな光度の光が迸る。クレシェントの顔は辛辣なものだった。それに反してジブラルは涼しい顔をしながら光を繰り出す力を更に高めた。クレシェントは叫び声を上げながら奏力を腕に込め、必死に抗ったが青い光の進行を目前まで許してしまった。あと少しのところで青い光がクレシェントの指先に触れてしまうときだった。急にジブラルはげんなりした顔をして放出していた概念を消滅させた。クレシェントは不信に思いながらも反発させていた力を止めることは出来なかった。赤い光がジブラルの体を飲み込み、具現化させていた檻と槍の中に押し戻していく。クレシェントは好機と踏んで檻の中に槍を突き刺した。概念を通じて確かな感触がクレシェントの腕に伝わった。

 『ミゼラル・ウェローデ・シュベール(肌蹴た体裁の先は)』

 赤い光を押し退けて空に向かって立ち上っていった白い光があった。その光は細い翼のようで上下と左右に二本ずつ伸び、六本の帯が宙で羽ばたいた。すると帯は宙で無数に枝分かれしながら広がっていき、クレシェントの概念を消滅させていった。

 「そんな…」

 白い光の帯が伸び切った姿はまるで巨大なドレスが宙に浮かんでいるかのようでもあり、翼を持った人の姿のようでもあった。そして赤い光を掻き分けてクレシェントを見下しているジブラルの姿が露になった。

 「好い加減にして頂戴、クレシェント…。その姿で幾ら足掻いてもそそられないのよ。さっさと壊乱の魔姫になったらどうなの?それとも男の前だからって、あの醜い姿を見せるのが嫌だなんて言わないでよ?確かにあの姿はおぞましいものよね…。でもあなたの美貌に誰が振り向こうって言うのよ、私と同じ人殺しの癖して」

 その言葉にクレシェントは何もいえなかった。いや、実際には反論をしたくても出来なかった。ジブラルがいったことは事実だし、何より紫薇に自分の気持ちを悟られたくなかったのだ。クレシェントは堪らず剣を持ってジブラルに食ってかかった。

 「躊躇わないでよ。あなたはね、私と同じ手の平を真っ赤に染めた殺人鬼。それを今更になってどうして受け入れられないのかしら?あなたのやろうとしていることは鏡を見ようとしないことと同じなのよ。ねえ、それがわかって?」

 ジブラルはクレシェントの猛攻をいなしながらクレシェントに刷り込むようにして語った。クレシェントは必死に耳を閉じながら剣を振るっても、動きに切れがなくなってしまっていた。

 「過去は消せない、罪は償えない。誰にもわかって貰うことなんて出来ないのよ。私のような人殺しを除いてね。役者の気持ちは同じ場面を演じた当事者にしかわからない。だからあなたも私と同じになりなさいな、クレシェント」

 再びクレシェントとジブラルの体が交錯した。二人の顔はそれぞれ違った色をしていた。そのことが気に入らなかったのか、ジブラルはクレシェントの持っていた剣を右腕で弾き飛ばし、足を引っかけて転ばせた。クレシェントが上半身を倒して両手で地面を抑えていると、ジブラルは弾き飛ばした剣を拾ってクレシェントの両手にその剣を突き刺し、地面に深く挿入した。ジブラルは悲鳴を上げるクレシェントの顎を愛おしそうに手で持ち上げ、顔を近付けた。

 「私とあなたは同じ。でもあなたはそれを認めない。大嫌いよ、クレシェント」

 「私は…それでもこれ以上、誰かを傷付けたくない…。本当は…貴女とだって戦いたくないのよ!ジブラル…!」

 「優しいわね。でもあなたの中に入っているものはどう思っているのかしら?」

 クレシェントはぎくりとした。今迄にそんなことを思ったことなどなかったのだ。

 「前に紫薇が言っていたわ。あなたの中には真紅の女王ヴィシェネアルクが宿っているかもしれないと。でもねクレシェント、それがあなたの本心じゃないかしら?ヴィシェネアルクを抜きにして、あの血みどろの惨劇を繰り広げたのが、実はあなたの意思だったとしたら?こう考えたことはないかしら?」

 「そんな筈は…だってあのときは鐘の音を聞いて…」

 がたがたとクレシェントは震えてしまっていた。そう、考えていなかった訳ではなかった。実は自分の本心が、闘争と血潮を望むものなのではないかと。否定しながらもクレシェントはその僅かな可能性に体を震わせてしまった。

 「じゃあ、鐘は飽く迄あなたの本心を呼び覚ますものだったとしたら?無意識に望んでしまっていたのが人殺しだったなんて知ったら、紫薇やプランジェはどんな顔をするでしょうね?」

 「…止めて」

 「おなりなさいな…あなたの本性を曝け出して。壊乱の魔姫こそがあなたの正体だったのよ。人殺しが癖になったところで誰が気にかけるのかしら?一度染まれば暗闇すらあなたの眷属になるのよ。罪を償うなんて止めなさい」

 「…止めて!」

 涙を浮かべながらクレシェントは必死に叫んだ。しかしジブラルはクレシェントの顎を掴んだまま離さなかった。

 「見なさい。ほら、あなたの手はこんなに血で汚れてる」

 クレシェントの目に映ったのは自分の血が着いた手だったが、錯乱された今のクレシェントにはその血が他人のものに思えてならなかった。

 「いや…いやあ…!」

 狂ったような顔をしたクレシェントを見て、ジブラルは不気味に微笑んでいた。その内にクレシェントの瞳孔が薄っすらと赤く滲み始めると、ジブラルは頬を緩ませた。

 「さあ、見せなさい。あなたの本性を…凄惨な舞台でしか踊れない壊乱の魔姫を!クレシェント・テテノワール!」

 「いや…いや…!」

 クレシェントの目が真っ赤に染まろうとしたときだった。

 「いつまでそんな与太話に耳を傾けてるつもりだ」

 その紫薇の一声がクレシェントの歪んだ思考を止めた。いつの間にか紫薇は傷付いた体を引きずって二人の傍に近付いていた。

 「お前が決めたことは…その程度なのか?情けない女だ…」

 「だって…だって私は…」

 「罪を償いたいと言ったのはお前だ。誰に命令された訳でも、誰に勧められたからでもない。その脳みその少ない頭を振り絞って、考え出した結論だろう!違うのか!クレシェント!」

 紫薇の言葉がクレシェントの心の奥底に響いた。クレシェントは俯きながら自分が決めたことを一つ一つ思い出していった。

 「馬鹿ね…。今更そんなことで…」

 「そう、私は生きるの…」

 クレシェントの一言は余裕の笑みを見せていたジブラルの表情を凍り付かせた。

 「苦しみながら…私の犯した罪を決して忘れないように」

 空っぽになっていた両手に再び力が戻り、突き刺さっていた手を少しずつ上げていった。

 「許されないことをしたから…。誰かの命を弄んでしまったから…。消えない罪だから…私は生きなきゃいけない!後悔と懺悔を一生背負ったまま、私は死んでしまった人たちに頭を下げ続けるのよ!」

 ジブラルの手を跳ね除け、クレシェントは地面に刺さっていた剣を抜き放った。両手の傷の痛みを我慢しながら、しっかりと銀色の目でジブラルを見詰めて叫んだ。そのときのジブラルの顔は苦悩に満ちていた。それはまるで自分だけ置いてけぼりにされてしまった迷い子のようでもあった。クレシェントは片手を刃から抜いて柄を持ち、もう片方の手も刀身から抜き放つと血を流しながらジブラルに迫った。

 「私は死んで当然なのかもしれない…!」

 自らの執念を訴えながらクレシェントは一心不乱に剣を振るった。

 「自分の手を汚してしまった罪は重いわ…。でも…それでも私は生きたいの!それが恥でも!浅ましくても…!」

 目に涙を浮かべ、顔をくしゃくしゃにしながら生きることへの思いを一太刀、一太刀に込めて精一杯に叫ぶ姿にジブラルは次第に気後れしてしまっていた。

 「生きて罪を償いたいから!死ぬのが恐いから!私はあっ…!」

 最後の一太刀は余りにも強く、ジブラルの腕を弾きながら地面を塗らしていた水滴を空中に吹き飛ばした。ジブラルは右腕を弾かれると、膝を折って地面に尻餅を着いてしまった。ジブラルは自分でも何が起こったかわからず、ただ口を開けてぼろぼろと涙を零すクレシェントを見上げた。

 「死ぬまで自分を許さない…。それが私の決めたことなのよ、ジブラル…」

 まるで尻餅を着かせたクレシェントの方が負けてしまったような表情だった。ジブラルはそんなクレシェントの姿をどこか神々しいとまで思ってしまった。泣きながら剣を下げるクレシェントはどうしようもなく愚かで、尊いものだった。吹き飛ばされた地面の水が雨粒のように降り注いでクレシェントの髪を濡らした。

 「だから貴女に殺される訳にはいかないわ…。貴女が私を何度殺そうとしても、私はその度に抗い続ける」

 クレシェントの目は生の執念によって精気に満ち溢れ、銀色の瞳はその光が溢れんばかりに輝いていた。同時に濡れた頬が例えがたい哀愁を漂わせていた。

 「ジブラル、貴女だってわかっている筈よ。戦いに身を投じても、私たちの心は満たされない。ただ傷付くばかりでもっと荒んでしまう。お願い、もうこんなことは止めて…。貴女の心が本当に凍ってしまう前に…」

 そういってクレシェントは手に持っていた剣を捨ててジブラルの頬に手をかざした。その手は微かに震えていたがとても温かいものだったとジブラルは感じた。凍り付いてしまっていたジブラルの心臓が僅かに解け始めた。クレシェントの腕がジブラルの背中に回り、体全体の温もりがジブラルの心臓を温めようとした時だった。


 「貴女の心臓に杭を打ちましょう。貴女の心臓が凍て付いたままになるように」

 ひっそりとゾラメスの腕が回るとジブラルの視界は凍り付いた。


 ジブラルの心臓に打ち込まれた杭がじわりと疼き出した。するとジブラルは口許を歪ませ、クレシェントの胸に手を当てた。

 「止せ!」

 紫薇の声がクレシェントを突き動かす前に青い光がクレシェントの胸元を貫いた。淀んだジブラルの目に映ったのはふくよかな乳房に穴が空いたクレシェントの姿だった。心臓の半分を持っていかれ、クレシェントは胸の穴から血を噴き出した。

 「駄目よクレシェント…。もう私の心臓はとっくの昔に凍ってしまったんだから」

 よろよろと後ろに下がってクレシェントは河の傍で仰向けに倒れた。全身の力が抜けていくのをクレシェントは自然と感じた。不思議と痛みは少なく、ただ急な眠気と寒気で視界がくらくらとしていた。

 怒濤の声を上げながらジブラルに剣を振りかざす紫薇の姿がクレシェントの視界に映り込んだ。音は控えめで何をいっているのかクレシェントには聞き取れなかったが、剣幕の表情をしている紫薇を見てクレシェントは自分の為に怒ってくれている紫薇に嬉しさを感じていた。

 「(紫薇、私の為に怒ってくれてるんだ…何だか嬉しいや…)」

 しかし紫薇とジブラルが剣戟を繰り広げる中で、クレシェントは一握の不安が過ぎった。紫薇の力はジブラルにどれほど通用するのだろうか。

 「(…あれ?でも紫薇ってそんなに強かったっけ?無理…しちゃ駄目よ)」

 その不安はやがて現実のものになってしまった。紫薇は持てる概念を有りっ丈使ってみせたが、ジブラルはその殆どを消し去っていった。そしてジブラルの右手が紫薇の体を引き裂き、胴ががら空きになったところをジブラルの左手が紫薇の腹部に押し付けられ、青い閃光の後に紫薇の体に穴を空けた。

 「(…紫薇?どうして血を吐いてるの?どうしてそんなに血だらけなの?)」

 口から大量の血を吐き出している紫薇の体はジブラルの右手に捕まり、軽々と持ち上げられるとぐったりと体はくの字に曲がった。

 「(ああ…!駄目よ、駄目…!そんな風に扱っては駄目っ!)」

 次に映ったのは宙に身を投げ出された紫薇の姿だった。ぼろ雑巾のように投げ捨てられた紫薇の体は弧を描きながら河に向かっていった。クレシェントは倒れながら紫薇に向かって手を差し伸べたが、指先が紫薇の体に触れることはなかった。

 水飛沫の後、クレシェントの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。クレシェントは心臓の鼓動が苦手だった。なんだか命の胎動というより、自分の中で何かが蠢いているような気持ちになって気分が滅入るのだ。しかしクレシェントはその音を心地よいと思ってしまっていた。初めてクレシェントが本能の入り口に自ら足を踏み入れた瞬間だった。

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