43話 餅は餅屋

 物理的に不可能な混ぜ方で掻き混ぜた白と黄色のマーブルがかかった目玉焼き。裏面は焼き過ぎてがりがりに焦げ、ビスケットのような手触りだった。豚のしょうが焼きは牛のすじ肉が使われ、噛んでも噛んでも飲み込めなかった。米は水を目分量で計ったせいで粥というより白湯だった。具材こそまともに切られているが、味噌汁は余計な調味料を使って塩辛いし、何より油が浮いてさくさくと食べられなかった。

 「………………………」

 紫薇はその悲惨な食卓を一通り箸で突いた後、恨めしそうにプランジェを見た。プランジェはこれでもかと顎の筋肉を使ってすじ肉のしょうが焼きを噛み締めている。かれこれ三十分は噛んでいた。

 「羽月さんみたいに上手じゃないけれど、食べられることは食べられるでしょ?」

 歪な形をした焼き餃子を機嫌の良さそうな顔をしてテーブルに置いた。

 「…なんで朝から餃子なんだ?」

 にんにくの強い香りが鼻を突いた。というよりぎょうざの中身はにんにくとにらが殆どで、口にすれば口臭が酷く刺激的な香りに変わるのが必然だった。

 「そりゃスタミナ付けないと!一日の食事の中で最も豪勢にしなきゃいけないのは朝ごはんだって本に書いてあったわよ。一通り作ったけど、まだ何かいる?」

 「…いや、いらない」

 「そう、じゃあ私も食べようかな」

 そういってクレシェントも椅子に座って豪華な食卓を囲んだ。

 「うん、まあ…やっぱり味は羽月さんに敵わないなあ…」

 目玉焼きを食べたら絶対に鳴らない音を出しながら、クレシェントは目線を上げてうーんと唸った。プランジェは無言ですじ肉を噛み続けている。

 「…クレシェント」

 「なに?」

 牛のすじ肉をいとも簡単に歯で引き裂きながら不思議そうな顔をした。

 「…ご馳走様でした」

 紫薇は作って貰ったことに対して最大限の譲歩をした。本当は罵倒してやろうかと思ったのを必死に耐えたのだ。紫薇は成長していた。

 「え?もういらないの?ほとんど食べてないじゃない」

 「…食欲がないんだ。その…えっと…わかるだろう?昨日はああは言ったが、まだ俺の中で整理が付いていないんだ。とても食べ物が喉に入らない」

 自分でも苦しい言い訳だなと思いつつも紫薇は必死に冷静さを装った。

 「そう…よね…ご免なさい。一番辛いの…紫薇だものね」

 「…ああ、悪いが今日はもうこれで…」

 してやったりと紫薇は思った。

 「じゃあその分お昼ごはんはしっかり食べて元気出して!お弁当も作ったの!」

 紫薇は頭の中が真っ白になった。いつもの弁当箱はどこへやら、どこから引っ張り出したのか漆塗りの重箱を差し出された。プランジェはまだすじ肉を噛んでいる。

 「…いや、その…」

 「四時に起きて頑張って作ってみたの。口に合うと良いな」

 純粋無垢な笑顔に紫薇は勝てなかった。いや、もしかしたらわざとやっているのかという疑惑さえ思ったが、覗き込んだ眼には一点の曇りもなかった。

 「…いってきます」

 「いってらっしゃい!」

 クレシェントは羽月の真似をして飛び切りの笑顔で紫薇を見送った。反面、紫薇は暗い顔をしながら家を出て行った。


 「美味しい?プランジェ」

 「とても…個性的なお味で…」

 すじ肉を噛みながら苦笑いした。

 「プランジェの怪我が治るまでは私が作ってあげるから心配しないでね」

 「は…ははは…(治れ治れ治れ治れ私の体よ治れ治れ治れ)」

 念仏のように小さな声で必死に呟いた。


 ずっしりと重い弁当箱を引っ提げて紫薇は通学路を歩いていた。近頃は蘇芳がやって来ないせいで一人で登校していた。やはり普段ないものがないと物寂しいものだなと紫薇は景色を眺めながら歩いていると、ふと視界を小さな影が通り過ぎた。

 「…何だ?」

 その影を目で追うと一軒家の屋根の端に白い斑点が目立つ黒い鳥を目にした。とんとんと弾みながら移動するようがとても可愛らしかった。

 「火焼か…この時期に珍しい、秋の兆しでも運んで来たか?」

 ふと聞き慣れた声を紫薇は後ろから耳にした。

 「いや、あれはジョウビタキだな。馬鹿鳥とも言うんだが…知ってたか?」

 「いいや、皆目。流石は生きた辞書だな、絵導」

 「ふん、生きた辞書ね…」

 紫薇は褒められているのか貶されているのかわからずに笑ってしまった。

 「お前、この一週間どこで何を…」

 「それは俺の台詞だよ、絵導。聞けばお前も同じ日数を空けていたそうだな」

 「…ああ、色々あったよ。色々な…」

 紫薇は肩を竦めていった。

 「委員長…生徒会長様が欠席した理由は何だったんだ?」

 「ちょっとした用事だよ…。でも俺がいなくても大事じゃなかったろ。それよりもお前のことの方が心配だ。顔は…ほう、思っていたより平気そうじゃないか。逞しくなったなあ、絵導」

 「…俺の周りの連中が、思っていたよりもずっとお節介な連中だったからな。それに良い師にも恵まれた。あの場所は…無駄じゃなかったらしい」

 自然と笑みを浮かべる紫薇を見て蘇芳も一緒になって笑った。


 それから蘇芳と一緒に取り留めのない会話をしながら登校した。昇降口で上履きに履き替えていると、蘇芳は思い出したようにポケットから何かを取り出して紫薇に差し出した。

 「おっと忘れていた。絵導、これを」

 「…これは?」

 手渡されたのは丸まった紫色の小袋だった。銀の刺繍で模様が描いてあって、紐解いてみると、中にはくしゃくしゃになった稲が数本入っていた。水気のない稲は白い帯で稲の数本を結んでいた。

 「お守りだ。お前が溺れてしまわないように願をかけて作ったんだ。ポケットの中にでも入れて置いてくれ」

 「溺れる予定はないんだが…」

 「溺れるのは水だけじゃないだろう?煩悩や人のうねり、吉凶からも身を守れるようにと七日間かけたんだ。貰ってくれなければ俺の努力は報われないんだがなあ」

 「お前、まさかこの為に…」

 「詳しい話は知らないが、きっとこれからは厳しい状況に巻き込まれるだろう。そんなときの為のお守りさ。どれだけ俺の願いが届けるかはわからないが、ないよりマシだろう。持ってけ」

 紫薇は手の平に転がった稲を見てぎゅっと握り締めた。傍から見れば他愛のないお守りなのだろう。しかし今の紫薇にとってこれ以上ないほどのご利益を感じた。

 「不恰好なお守りだが…有り難く貰って置く」

 「そうか…これで俺も堂々と先生に怒られるよ。欠席届、出すの忘れたからな」

 蘇芳は笑って頭を掻いた。

 「わからないな、お前って奴は…」

 それでも紫薇は大事そうに小袋をポケットの中に仕舞った。


 放課後になって紫薇は昇降口を抜けると一直線にある場所に向かった。足取りは軽かった。迷いが吹っ切れ、半ば駆け足でアスファルトを蹴飛ばす。目的地は病院でもなければ家でもない。肝心な時にいなかった役立たずで無愛想な男が経営する小さなカフェだった。

 店の前には看板用の樽が置かれている。仮に店の中がお客でごった返しになっていても今の紫薇に逃げ出す要素はなかった。紫薇はドアを開けて中に入っていった。店の中には人気がなかった。しかし僅かにカウンターの奥からタバコの臭いがした。紫薇はカウンターに近付いて傍にあった椅子に腰掛けた。

 「…らっしゃい、今日は何が欲しいんだ?」

 新聞を捲りながらタバコをふかした。

 「水出しアイスコーヒーを一つ、砂糖とミルクなしで。それとマクシミオ級犯罪者に勝てるだけの力が欲しい」

 「へっ、二つ目はまた随分と物騒な注文だな」

 新聞を折り畳んで厨房に入ると、コーヒーを注いで紫薇の手元に置いた。

 「誰だったか名前は忘れたが、マクシミオ級に襲われたらしいな…。連中、虹拱結社の一人だって言うじゃねえか。良くもまあ、生きてたもんだ。クレシェントのお嬢ちゃんが魔姫になって、何とか追い払ったってところだろう…」

 「そんなところだろうな。俺は途中で意識を失ったから、そこからの顛末は知らないが…そのお陰で色々なものを傷物にされた。だからあんたに教えを請いたい。どうすればマクシミオ級に勝てるのか」

 「さてね…俺のもとで稽古を付けてやっても良いが、少なくとも十年は見とけ」

 「…十年だと?」紫薇は思わず聞き返してしまった。

 「はっきり言うとな、今のお前じゃアレイド級の格下でも相手にならねえよ。それだけの差があんだよ、人殺しと常人との差ってのは。ましてやお前の尻を蹴飛ばしたのは灰狼族だ。奴の胃の中にゃ未だに溶かし切れていない骨が浮かんでるだろうよ。悪い事は言わねえ、黙って俺に任せな」

 「確かにあんたに任せれば虹拱結社まで潰してくれそうなものだが…それじゃあ意味がないんだよ。俺は今すぐにでも奴の尻を蹴飛ばさなきゃ気が済まない」

 「…止めとけ。それ以上の力を手にしちまったら否応なしにお前の体は狂っちまうぞ。この世界に来てまだ日は浅いが、どうもここの人間って奴は脆い。概念の具現化も出来なけりゃ、何か特別な力を持ってる訳でもねえ。定められた存在量を越せば、体を維持できず人に戻れなくなる。お前それでも良いのか?」

 ウェルディは殆ど脅しのようにいった。同時にその声はどこか哀愁を帯びていたのを紫薇は気付けなかった。紫薇はウェルディに反発するように強く頷いた。

 「…ああ、構いやしないさ」

 「どあほ!コーヒー飲んでとっとと帰れ!」

 軽快な音を立てて紫薇の頭の上で畳まれた新聞が炸裂した。ぐわんぐわんと紫薇の頭が揺れ動く。ウェルディは新聞を脇に挟んで厨房に閉じ篭り、それから紫薇の前に姿を現そうとしなかった。紫薇は残念そうに溜め息を吐いてコーヒーを飲み干すと、ポケットから五百円玉を出してテーブルに置いていった。コーヒーはやや苦味の強く、酸味の少ない紫薇の好みの味だった。

 「ああ言われちゃあ、ぶっ殺しにも行けねえなあ…。可愛くねえ砂利だ」

 店の扉が閉まった後にテーブルに置かれた五百円を見て呟いた。


 カフェの扉を背に向けて紫薇はとぼとぼと歩き出した。夕焼けがやけにうっとおしい。堪らず紫薇は足元にあった小石を蹴飛ばした。蹴った力は思っていたよりも強かったのか、石は紫薇の目に見えない場所まで飛んでいってしまった。

 「どうすれば良いんだ…」

 ふと紫薇の足元にさっきと同じ石が転がってきた。驚いた紫薇が顔を見上げると、そこには髪の毛を夕日に染める赤縞が立っていた。


 赤縞と紫薇はカフェから離れた町の河に向かった。その場所の傍には公園があって、二人は草野球をする小学生の声を聞きながら原っぱに寝転がっていた。蜩の鳴き声が沈んだ心をしんみりとさせるようだった。何故か赤縞の口許には背の長い草の茎が咥えられている。

 「お、飛んだな…」

 二人の視界を白いボールが横切った。その後に幼い歓声が湧き上がった。

 「子供でもあんなに飛ばせるのか…」

 「おめえもまだ餓鬼だろ。なにジジィみてえなこと言ってんだ」

 「いや、何だか急に年食った気分でね。何というか、目の前に立ち塞がった壁の大きさに圧巻されたんだ。今に始まったことじゃないが」

 紫薇は十年という歳月の長さに気が遠くなりそうだった。

 「お前をずたぼろの雑巾みたいにした奴は、よっぽどだったのか?」

 「立ち向かった相手の中で三番目に強かったよ。一番と二番は兎も角、奴の力にただ飲み込まれるしかなかった。無様なもんだ。絶対に傷付いて欲しくなかった人まで傷付けて、目の前で何も出来なかった…」

 一頻り紫薇が憤った後、赤縞は紫薇を一瞥していった。

 「お前で駄目なら俺でも無理、か…」

 「…当たり前だ」

 紫薇は赤縞に殴られる覚悟で皮肉ってみせたが、赤縞は咥えていた草を唇で揺れ動かしているだけで反撃しようとしなかった。呆気に取られている紫薇を傍目に赤縞は原っぱから立ち上がり、尻をぱんぱんと叩いた。

 「…絵導」

 「なんだ?」

 「もう少しだけ待ってろ。そうすりゃ今に目に物見せてやらァ…。ついでにその聞き分けのねえ口も黙らせてやんよ」

 そういって赤縞は一人で先に帰ってしまった。紫薇は何がいいたかったのだろうと首を傾げたが、赤縞の背中に何か決意めいたものは感じ取った。紫薇は再び寝転がり、何か手立てはないものかと思考してみたが、結局いいアイデアが思い浮かばず、頭を悩ませながら家に帰っていった。


 玄関のドアを開けたと同時に紫薇は眉間にしわを寄せた。もう三度目になる茶色いブーツを見ると、紫薇はまたかと思いながらリビングに進んだ。

 「お邪魔してますよ」

 「間男、やっぱりお前か…」

 「誰が間男ですか」

 紫薇とリカリスはお互いに睨み合ったが、先に顔を崩したのはリカリスだった。

 「やれこうして訪ねて来てみればこの仕打ち…異界の人間は冷たいですね。まあそれもヴァルベット・ゼリオンなどにこてんぱんにされれば機嫌も悪いでしょう」

 その一言に全員がこめかみに力を入れてリカリスを睨んだ。

 「…何故お前がそのことを知っている?」

 「兄さんが言っていました。マクシミオ級如きに遅れを取っている哀れな下僕二人組み…。名前は確か絵導紫薇にプランジェ・フィーリアスと言いましたか。いや、とんだ無能な方々を引き連れていらっしゃいますね、テテノワール」

 柔和な顔付きをしていても口から出たのは紫薇と同じ位の毒舌だった。クレシェントは手をぎゅっと握り締めながらリカリスを睨んだ。

 「協会の使者だと言うのに口の聞き方もなっていない。これでは現協会もたかが知れているな。その身に掲げた司法の名がくすんで読めるぞ」

 顔を怒りに歪ませながらプランジェはいった。

 「お行儀の良い司法ほどか弱いものはない。口を挟むのを止めて頂けますか?短足のお嬢さん」

 「んがっ!?」

 クレシェントと同じ声を上げてプランジェは絶句した。

 「一体何の用だ。まさかわざわざ悪態を垂れに来た訳でもないだろう」

 「それも楽しそうですが、先程から僕に向けられている壊乱の魔姫の視線が恐ろしいので本題に入りましょう。紫薇くん、君を協会の構成員として迎え入れたいのです。君が望むなら高官としての地位を与えましょう。如何ですか?」

 クレシェントとプランジェの視線が紫薇に集まった。が、数秒も経たない内に紫薇ははっきりと口にした。

 「断る」

 「…はい?」

 間髪入れずにそう口にしたリカリスは鳩が豆鉄砲を食らった顔をした。しかしクレシェントとプランジェは心の中でそりゃそうだと思った。

 「も、もう少し考える素振りを見せたらどうです?」

 「やだ」

 「やだってちょっと…僕の兄さんじゃないんですから…」

 「お前あれだけ糞のような言葉を垂れてこの俺がはい、わかりましたと尻尾を振るとでも思ったのか?この能無しが」

 クレシェントとプランジェはうんうんと頷いた。

 「協会のお給金って並の会社より良いんですよ?賞与も二回ありますし、有給だって取り易い。さっき言ったうようにある程度の地位も約束すると…」

 「知るかそんなもの。異界の地でそっちの通貨が通用する訳がないだろう。何の話を持ち出して来るかと期待してみれば、お前の口から出て来るのは糞ばかりだ。司法を司る協会?そんなに誰かの尻を蹴飛ばしたいのなら何よりも先ずゼルア級の面々の尻を蹴り上げて来い。丁度そこに一人いるぞ。遠慮はいらん、試してみろ」

 感心していたクレシェントの顔は見る見るうちに曇り、今では口を開けて紫薇をじっと見詰めていた。途端、食ってかかろうとするプランジェをクレシェントは必死になって止めた。

 「…ヴァルベット・ゼリオンに報復するのではないのですか?」

 その一言で紫薇の体は硬直した。

 「君が相手にしていようとしているヴァルベットは、かつてモルバ地方の王として君臨する筈でした。ですが弟との王位継承の争いに負けてからはその身を闇に落とし、何人もの命を貪っていきました。正当な王から『灰色の暴君』へと姿を変えてしまったヴァルベットは、協会の構成員でも手に負えなかった。虹拱結社に席を置くまでその怒りは収まらなかったと言います。紫薇くん、これは脅しです。今の君がヴァルベットに戦いを挑んだとしても、君の体はなす術もなく八つ裂きにされるでしょう。もうその前兆は、君の体に刻まれてしまっている筈です」

 まだ完全に治っていない傷が俄かに痛み出すと紫薇は脳裏に灰色の恐怖を思い描いてしまった。闇夜に光った赤い眼差し、少ない星明りを受けて光った灰色の体毛が今にも蘇る。紫薇は奥歯を噛んで全身に回っていた熱を耐えた。

 「協会にお出でなさい、紫薇くん。そこには君が望むものがある。高度な概念の具現化や人体理論に乗っ取った格闘術や剣技、それら全てを提供することを約束しましょう。このまま闇雲に訓練を続けていても、やがて待ち受けるのは個々に定められてしまった限界だけ。君にとって今、必要なものは何ですか?また同じことを、大切な人を傷付けられても良いと言うのですか」

 先程まで紫薇に傾いていた天秤が徐々にリカリスに傾き始めていた。紫薇が羽月の顔を思い出せば思い出すほど天秤の揺れは大きくなっていった。

 「何故…こうまで俺に固執する?」

 「言った筈です。君と僕たちの敵は同じだと。こんなところで君に死なれてしまっては困るのですよ。時間はかかるかもしれませんが、マクシミオ級を凌駕する力を手に入れるまで僕は君の傍を離れないと約束しましょう」

 リカリスは紫薇に手を差し出した。その手の平はどうしようもないほど信頼味に欠けていたが、今の紫薇にとって喉から手が出るほど欲しい形をしていた。黄金よりも魅力的なその指先に紫薇は自然と手を伸ばしてしまっていた。ふとポケットの中身がじんわりと熱を持った気がした。その途端、紫薇の頭はきりっと冴え渡り、忘れてしまっていた記憶を呼び覚ました。

 「…リカリス、お前の言葉はやっぱり糞と同じだ」

 肌と肌が触れる直前、紫薇は手を引っ込めた。

 「時間がかかっちゃ意味がない…。仮に力を手にしたとしてもそれじゃ遅過ぎるんだよ、リカリス…。あの人は、傷付けられたあの人の体は今しかないんだ。治った後に奴を叩き潰しても、俺の心はとても収まりそうにない。俺は奴を…ヴァルベットを今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいんだよ…!」

 紫薇はやっと自分の思いを口に出して確かめられた気がした。その思いは酷く淀んだ色をしていたが、紫薇の心の中に咲いていた花は少しだけ精気を取り戻していた。

 「馬鹿なことを…ほんの短時間で力を上げるなんて出来る筈がない…」

 「いや、そうでもないさ。お前に一つだけ頼みがある。東の魔女、メディストア・ニュベンジャーの居場所を教えろ」

 「東の魔女?いったい何故…」

 「時間を縮める術をその女が握っているからだ。教えろ、奴の居場所を」

 「断ります」

 リカリスは紫薇と同じように間髪入れずにそういった。

 「僕の誘いを蹴飛ばす盆暗に、これ以上何をするのでしょう?僕は尻尾を振ってくれない動物がとても嫌いでしてね。君にはほとほと愛想が尽きました。どうぞどこにでもお行きなさい。そして僕に冷たい態度を取ったことをたっぷりと後悔するが良いでしょう」

 リカリスは吹っ切れた顔をして紫薇に背中を向けた。

 「ああ、そうそう…。一つだけご忠告を。東の魔女、メディストア・ニュベンジャーはゼルア級の中でも気難しいことで有名だそうですよ。死なれては困りますから、誘惑も程々になさって下さいね」

 無機質な笑顔を振りまいてリカリスは玄関から出て行ってしまった。紫薇はその後姿を見送って思わず溜め息を吐いてしまった。今更ながら馬鹿なことをしてしまったと後悔するも、その顔はどこかしてやったという満足感に溢れていた。

 「…紫薇」

 クレシェントは心配そうな顔をして汗を流している紫薇を見た。

 「肝を冷やした気分だ。今更なんだが早まったことをしたな」

 紫薇は苦笑いした。

 「以前に行なったことを繰り返すつもりだな、紫薇」

 「そうでもしなきゃ奴に追い付けやしないさ。あの時と同じだ…俺は何も変わってない。だからもっと自分の命を磨り潰さないといけないらしい」

 「でも紫薇…それは紫薇の寿命を縮めることだって…。それに学校の皆を置いて一人だけ大人になってしまうのよ?それがどういうことか…」

 クレシェントがそういった途端、紫薇は乾いた笑い声を上げた。

 「…寿命だ?置き去りだ?そんなものはな、犬の餌にでもくれてやれ。俺の頭の中じゃ奴を…ヴァルベットを叩きのめすことしか考えていない。今更な、学校がどうのこうのなんてどうだって良いんだよ」

 「どうでも良いって…紫薇、それは可笑しいわよ」

 紫薇はクレシェントが珍しく反抗してきたことに驚いた。

 「だってやっと変わって来れたんでしょう?それを否定しちゃ駄目よ…。そんなことをしたら、また紫薇はもとに戻ってしまうわ。そんなの羽月さんだって望んでない…。紫薇がちゃんと学校に行けるようになったとき、一番喜んでいたのは羽月さんなのよ」

 クレシェントはぐっと堪えながら諭すようにいった。

 「だが現にそうでもしなければ…」

 「わかってるわよ…。でもせめてそんなことを思いながら自分の身を削るのは止めて…お願いだから…」

 薄っすらと目に涙を浮かべるクレシェントを見ると紫薇は気まずそうな顔をしながらわかったよといった。

 「それで東の魔女の居場所…プランジェ、お前はわからないか?」

 紫薇はその空気が気に触るのか平静を努めた。

 「詳細まではわからないが、リーチャ地方のどこかに住んでいると聞いたことがある。リーチャ地方は人魚の背中と呼ばれる巨大な河がある場所で、そこから先に続いている洞窟を抜けた所に東の魔女の屋敷があるというのだ。他の噂では広大な草原の中にぽつんと佇んでいるという話もある」

 「河か…」

 紫薇はその話を聞いて顔を曇らせた。

 「何だ?まさか泳げないといこともあるまい?」

 「…まあ、そうだな」

 クレシェントはその時に紫薇の顔が一瞬だけ後ろめたいものになったのを見逃さなかった。多分、泳いだことがないのだろうとクレシェントは思った。

 「なら明日、そのリーチャ地方とやらに出発しよう。クレシェント、その場所に行ったことはあるか?若しくはその付近でも良い」

 「人魚の背中なら間近で見たことがあるからそう時間はかからないと思うわ」

 「クレシェント様は色んな場所を旅したのですね」

 「…えっと、その…こう言うとプランジェは怒るかもしれないけど、実は…身を投げようとしたことがあって…それで…その…」

 ちらりとクレシェントはプランジェの顔を見上げると、顔を真っ赤にして怒り狂ううプランジェの姿があった。

 「当たり前です!良いですか?クレシェント様…人魚の背中は身を落としてしまえば最後!二度と這い上がって来れないほどの激流で、しかも水の中には『彩魚族メルフォイド』と呼ばれる獣人が暮らしており、奴等はその水死体!どざえもんですよ!?死体を食らって生きている真に恐ろしい種族の住処なのです!そんな場所で死のうとするなど言語道断!もし私がお傍に居ましたら、僭越ながらクレシェント様をお顔を引っ叩いてでも止めますからね!」

 「わ、わかったからそんなに怒らないで…」

 「クレシェント様はわかっておりません!今日はみっちりとお説教をさせて頂きます。明日に向かって輝けるその道標を見付けるまで逃がしませんよ!」

 「で、でもそろそろ夕飯の支度を…」

 「そ、そんなものはインスタントで構いません!もうあんな…じゃなかった、お料理よりも私の説教の方がよっぽど大事です!」

 プランジェはそのときだけ死に物狂いで誤魔化しているようだった。

 「(今の内にあるものでも漁って置こう…)」

 紫薇は万が一に夕飯を作られても言い逃れ出来るように冷蔵庫の中のものを一通り食べた。学校で食べたクレシェントの弁当はそれは酷いものだった。今更になって紫薇は弁当を思い出すと吐き気を催した。紫薇は節木に料理のこつでも聞いて置こうと決めたのだった。

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