42話 自分だけの部屋

 体中に包帯を巻きながら紫薇は教室で窓を眺めていた。机の上には教科書も翻訳の用紙も筆記用具もない。無機質な木面だけが広がっている。紫薇の体は臓器を損傷していても権兵衛の力もあって数日体を休めれば勝手に傷が修復され始め、完全に傷が塞がらなくても歩けるようになっていた。プランジェもクレシェントから分け与えられた力によって歩ける程度には回復したものの、左腕の症状は複雑骨折と判断された。手術の是非を問われたが、プランジェは頑として首を縦に振らなかった。そうしなかったのは彼女の意地と敗北の悔しさからだった。それもその筈、歩ける二人とは違い、ただの人間である羽月はあれから一週間が経っても歩くことはおろか、病室のベッドから起き上がることすら出来ずにいた。

 紫薇は視点の定まらない目で青い空をじっと見詰めながら、ふと医者がいったことを思い返した。


 脳を撮ったエックス線の二枚のカルテルが張り出され、白い光が点るとその詳細が露になった。医者は額を指で掻きながら重い口を開き始めた。

 「非常に…言い難いのですが…羽月さんの脳に深刻な異常が見られました。頭部を傷付けた際に脳に強い衝撃が走り、運動を司る神経を傷付けた可能性があります。怪我が治ったとしても、後遺症が残って私生活に支障を来たすかもしれません。最悪…二度と立てない体になってしまうことも考えられます…」

 紫薇は医者の説明を受けて息が止まりそうになった。泣きそうになるのを必死に堪え、爪を手の平に食い込ませた。

 「…治る、可能性は?」

 「無い訳ではありませんが…極めて低いでしょう。…お気の毒です」

 その医者が患者の為に親身になって治療をしてしまっていることが返って紫薇の心を引き裂いた。

 紫薇は鉛のように重い体を引きずり、羽月が眠っている病室の前に立った。何と声をかけて良いのか、いくら頭を使ってもその答えは出て来なかった。病室の前に立って小一時間、紫薇はずっとドアの表面に着いていた手垢を眺めていた。

 「あの…入らないんですか?」

 いつの間にか女の看護師が隣に立って不思議そうに紫薇の顔を覗き込んでいた。紫薇は驚いてその看護師の顔を見ると、気まずそうな顔をした。

 「いや…俺は…」

 紫薇が俯いていると、その看護師は何を思ったのか閉まっていた筈の病室のドアを開けた。すると中に篭っていた部屋の匂いが流れ、その中に嗅ぎ慣れている匂いが入り混じっていたのを紫薇は感じ取った。

 「会ってあげて下さい。羽月さん、ずっと絵導さんのことを心配してたんですよ」

 その言葉は紫薇の胸を突き刺した。額にじわりと汗が滲み、紫薇は喉が干乾びていくのがわかった。逃げてしまおうかと思ったが、じっと見詰められては逃げるものも逃げられなかった。仕方なしに紫薇が中に進むと、ドアは勝手に閉められた。

 病室は羽月の為だけに用意された病室だった。部屋の真ん中にぽつりとベッドが置かれ、白いカーテンに覆われている。苦虫を噛み潰したような顔をして紫薇はカーテンに近付いた。電子音のバイタルサインがやけに耳についた。

 「…どなたですか?」

 カーテン越しにやや曇った声がした。紫薇は自分の名前を口にしようとしたが言葉が喉に突っかかって声を出すことが出来なかった。代わりにゆっくりとカーテンの裾を掴んで横に動かした。

 「紫薇くん…」

 ベッドに寝そべっていたのは変わり果てた羽月の姿だった。口許を呼吸用のマスクに塞がれ、顔の殆どを包帯に巻かれて初め紫薇は誰だかわからなかった。腕に刺さった何本ものチューブの先には大きな点滴が所狭しと並んでいた。それでも必死に顔を緩めて嬉しそうな顔をする羽月に紫薇は呆れてしまった。ベッドの隣にあった椅子に腰かけたのも半ば腰を抜かしたからだった。

 「良かった、ずっと心配していたんです…。クレシェントさんやプランジェちゃんは元気ですか?ちゃんと、ご飯は食べれてますか?」

 紫薇は何も答えることが出来なかった。ただ黙って羽月から目を逸らさないようにするだけで精一杯だった。そんな紫薇を見て羽月は静かにごめんなさいといった。

 「私があのときに…余計なことをしなければ紫薇くんに心配をかけずに済みましたよね。でも我慢が出来なかったんです。いつも私だけ蚊帳の外で…皆を見送ってあげることしか出来ない自分が嫌だったから、少しでも何かしなきゃって…」

 羽月は話の途中で腕を震わせながら手を紫薇の手に近付け、そっと上に重ねた。

 「だから…そんな顔をしないで…」

 紫薇の視線は虚ろなまま自分の胸を見てしまうほど下がってしまっていた。羽月の指先だけが視界の上辺に見える。どうしようもない悔しさが紫薇の体中から滲み出ていた。ぴんと張ったうなじの筋肉が今にも切れてしまうそうだった。重ねられた血の気のない羽月の手を見る度に、深い罪の意識と自分の不甲斐なさに気が狂いそうになりながら、紫薇は羽月の前で子供に戻っていった。それは祖母を傷付けてしまったことを諭されるようでもあった。


 羽月とプランジェより一足先に退院した紫薇は学校に通った。家にいてもすることといったら窓を眺めて気を落ち着かせることしか出来なかったからだ。普段は碌に話も聞かない授業でも聞けば少しはまともな思考に戻るかと思った紫薇だったが、一限目の数学の途中で自然と窓を向いてまた頭の中を空っぽにしてしまうのだった。

 「…おい、何があった?」

 赤縞は窓の前に立って紫薇の視線を遮った。

 「…別に」目を背けながらいった。

 「夜中にな、ジジィが起きたんだよ。なにか馬鹿でかい力を感じたってな。お前のその体たらくと何か関係してんじゃねえのか?」

 「…お前に関係ないだろう」

 そういった瞬間、赤縞は紫薇の胸倉を掴み、顔を近付けて面を切った。机は押し飛ばされ、無意味に広がっていた教科書が床に落ちる。紫薇は赤縞を睨み返したが、その目には覇気がなかった。教室の中は一瞬で静まって生徒の目が二人に集まった。

 「勘違いしてんじゃねえ、てめえがどうなろうと知ったことじゃねえんだよ。だがな、俺の縄張りで得体の知れねえ奴がうろちょろしてんのはどうにも気に食わねえ。そいつがきな臭えなら尚更だ。俺は臭えのがきれえなんだよ、特に辛気臭えのがな」

 掴んでいた胸倉を乱暴に離すと、赤縞は不機嫌な顔をして鞄を引っ提げ、教室を出ていった。周りの生徒はほっと胸を撫で下ろす中、紫薇はよれよれになった胸元から目が離せなかった。

 「…ご免ね、勇璃も不器用だからさ」

 申し訳なさそうな顔をして榊原は机の傍に落ちた教科書を拾った。

 「あんな物言いだけど、絵導君が休んでた時に心配してたんだよ、勇璃。あいつはいねえのか…詰まらねえ、なんてぶつぶつ愚痴ってたりね」

 榊原は乱れた紫薇の制服を直しやると、紫薇の顔を間近でじっと見た。その顔は率直でまるで赤縞の本心を代弁しているようだった。

 「絵導君、困ったことがあったらお互い様じゃないの?あんたと勇璃、友達なんでしょ。だったらカッコ付けてないで頼りなさいよ」

 「今さらながら俺もいるんですけど…」

 出遅れたように節木が気まずそうに紫薇の隣に座った。

 「まー、さ…何も出来ないかもしんないけど、話は聞けるぜ?一応、俺ともお知り合いって訳なんだからな」

 「そこは友達じゃないの?」

 「いやあ、改まって口にするのは小恥っずかしくて…」

 「確かにね」

 あははと二人は笑い合った。

 そんな二人を見て紫薇は今迄に感じたことのなかった感情に戸惑っていた。嬉しいようなこそばゆいような、それでいて胸の奥がしんみりとする。紫薇はそれが友情だとは知る由もなかった。色々な感情がごちゃ混ぜになって紫薇は二人が席に戻った後に再び窓を見て気分を落ち着かせたが、机の上に置かれた教科書を机の中に入れて一日を過ごしていった。


 オレンジ色になった窓を見詰めながら紫薇は溜め息を一つ吐いた。上辺だけが落ち着いていても中身は錯乱していたのだ。何をすべきなのかそれすらわからず、分かれ道の真ん中で突っ立ってしまったようだった。誰もいない教室の中で紫薇だけが席に座っている。紫薇はこんなにも迷ったことはなかった。

 「おや、こんな時間まで生徒が残っているなんてね」

 ふと教室の前のドアから声が響いた。紫薇はその声の主にどこか聞き覚えがあった。目を向けてみると茶色いスーツを着た小太りの教師が顔を覗かせていた。両腕を腰に回して鶏みたいな歩き方で紫薇の傍に寄った。弛んだ頬にちょび髭が目立つその人物はこの学校の校長だった。目は胡麻のように小さく、瞼を開けているのか開けていないのかわからない顔で紫薇を見た。

 「そんなに窓を見詰めて、何か面白いものでも映っているのかね?」

 それは皮肉なのだろうかと紫薇は思って蓬莱寺を睨んだ。

 「皮肉じゃないさ。ただ君はちょっと変わった子だからね、普通の人にはわからないものでも見ているのかと思ったんだよ。私もねェ、昔は色んな不思議なものを見れたんだが…今じゃもう殆どわからなくなってしまった」

 寂しそうな顔をして紫薇と一緒に窓を見詰めた。紫薇はその横顔にどこか通じるものを感じたが、まさかなと思って口にするのを止めた。

 「懐かしいなァ…。夕焼けを見ていると、昔あったことが目に浮かぶようだよ。ちょっと君にはまだ早いんじゃないかね?郷愁の念というものは」

 「…別に夕日が見たくて窓を眺めてる訳じゃない」

 「悩みがあるなら、考えなしにぶつかってみるものだよ」

 紫薇はどきりとした顔をすると蓬莱寺は笑った。

 「この仕事も長いものでね、生徒の顔を見れば大体のことは予想が付ける。その内容までは知らないけどね。話してみないかね?絵導君」

 そういって紫薇の目を見ると、紫薇は何故か話さずにはいられなくなった。何か不思議な力を持っているのかもしれないと紫薇は思った。

 「俺は…何も出来なかったんだ。自分の大事な人を前にして、何も…」

 歯を食い縛って怒りを露にした。

 「…先生、俺はどうすればその人に償える?何をすれば許して貰えるんだ」

 初めて紫薇は教師のことを先生と呼んだ。

 「そんなものはないよ」

 「な…」

 突拍子のない回答に紫薇は口を開けて唖然としてしまった。

 「仮に相手が許してくれたところで、君の中の罪の意識は消えやしないのさ。悩むだけ自分を傷付けることになるだけだ」

 「だが実際にその人は傷付いてしまった。だったら俺がとるべきなのは…」

 「本当の償いとは何かをすることではない。罪の意識を保ち続けることが大切なんだよ。人間にとって一番辛いことは、その記憶が消えないことだ。仏教では戒めなんていうけどね。死んで詫びたり、償いの為にものやお金を差し出すなんておこがましいとは思わないかね。私にはそんなことが上辺だけの、見せかけにしか見えないんだよ。苦しみながら生きる。これこそ人に与えられた最大の罰だ」

 「…………………」

 紫薇はかつてクレシェントに向かって口にしたことを思い返していた。あのときはそんな言葉を並べて説明は出来なかったが、どうして自分があんなことを口にしたのか、今やっとわかった気がした。

 「私には、君はもうそのことに気付いているように見えるよ。君は優しい子だからね。ただ…学校をサボるのは問題だがね」

 「…う」

 紫薇は何故かこの人には敵わないと思った。

 「絵導君、無駄なことなんてないんだよ。確かに大人は子供に比べてずっと狡賢い。だがね、少なくともあの教壇に立とうと思った人間の志は立派だ。君はそんな人たちの誇りを踏み躙ってしまっている。学校は子供にとって人として大切なものを学べる場所だ。また我々も君たちから失ってしまったものを取り戻せる唯一の場所でもある。そのことを良く覚えて置いて欲しい」

 そういって笑った蓬莱寺の顔は今の紫薇にとって崇めるべきもののようだった。

 「…わかりました」

 紫薇は初めて大人に負けた、というよりも大人から何かを学んだ気がした。

 「宜しい。ではもう帰りなさい、烏が鳴いたら帰りましょう」

 紫薇は蓬莱寺に頭を下げて教室から出ていった。頭を下げるのも初めてだったが、紫薇はそういうことも大切なのだと肌で感じ取ることが出来た。

 「貴方の言葉は心に響く。流石はかつて言霊の使徒だっただけはありますね」

 教室に残った鳳来寺を褒め称えたのは藤原だった。

 「君か…」

 藤原を一瞥すると、蓬莱寺は再び窓を見詰めた。

 「あの子が君の言っていた人物なんだね。とても世界を脅かすようには見えなかったよ。ただ自己表現が苦手な子の間違いではないのかね」

 「今は…ですよ」

 藤原は困ったように笑った。

 「やがてその身に絶対的な力を宿し、翅ばたくことを選んだとき…世界の均衡は再び崩れ落ちる。どうかそのときまで、彼が道に迷った際は今のように導いて欲しい。貴方の言葉はどんな薬よりも染み渡るのだから」

 「私に以前のような力はないよ。言霊だってもう見えやしない。今はただの一教師、それ以上でもそれ以下でもないさ」

 「あれ以来、貴方の超越力は消滅してしまったのでしたね」

 「…今でも思うよ。あのとき、ただ黙って見ているしか本当に手がなかったのか。馬酔木とペルレットはまだあの場所で眠っているのかね?」

 「ええ、二つの世界のより代として…今もお互いの顔が見えぬまま、背中合わせに湖畔の上を漂っています」

 そういうと蓬莱寺は手の平を額につけて俯いた。そこから会話が途切れると、藤原は黙ってその場所から去っていった。

 「罪の意識、か…。結局、私もまた許されたいだけなのかもしれないな。なあ、馬酔木…蘭…あれからもう四十年だ。私は約束通り、先生をやっているよ…」

 蓬莱寺は昔を懐かしみながら夕焼けに向かって小さく呟いた。


 「ただいま」

 玄関のドアを開けて紫薇は自然とその言葉を口にしてしまった。リビングに向かうと羽月の代わりに寂しげな笑みをしたクレシェントが出迎えた。暗い雰囲気を少しでも紛らわそうと頬に力を入れているが、クレシェントの目には元気がなかった。

 「無理に笑っても不気味なだけだ。嬉しいときにだけ笑ってくれ。その方がお前らしいしな」

 クレシェントは自分と違って気分を落ち込ませていない紫薇に驚いた。

 「帰って来たか…」

 ソファーに座っていたプランジェは紫薇がやって来ると顔を向けた。首から下げた包帯が痛々しいと紫薇は思った。まだ傷の殆どが治っていないにも関わらず、プランジェは勝手に退院の手続きを取ってしまった。そのせいかプランジェの顔にも普段の覇気がなかった。

 「その腕じゃまともに家事が出来ないだろう。手術の予定も蹴飛ばしやがって…鎮痛剤だって二束三文じゃないんだぞ」

 「黙れ、私は平気だ」

 図星だったのかプランジェはむっとした。

 「意地を張ったところで体が楽になる訳じゃない。休むのも仕事の内だ」

 努めて優しい口調でそういった紫薇にプランジェは目を丸くさせ、思わずクレシェントの顔を見た。

 「…な、何かあったの?」

 逆にクレシェントは紫薇の機嫌が悪過ぎて可笑しくなってしまったのではないかとびくびくした。

 「特に何も」

 そういいながらも機嫌の良さそうに鞄を下ろして椅子に座った。その姿にクレシェントとプランジェは返って身震いしてしまった。

 「さて…お前に幾つか聞きたい事があるんだが良いか?クレシェント」

 足を組みながら真剣な顔をした。

 「まず言っていなかったが、ジブラルが虹拱結社に関係している。動機は知らんが今の奴はこっち側にとって敵でしかない。クレシェント、あいつはお前を殺すつもりらしいんだが、お前はどうする?」

 「戦うしか、ないわ…。今迄だってそうして来たから…」

 俯きがちにそういった。

 「仮にそうなったとして、お前は奴に勝てるのか?聞けばお前、魔姫にならなければマクシミオ級やアレイド級にも劣るなんていうじゃないか」

 「それは…」

 「何が言いたいのだ、お前は?」

 回りくどい言い方に嫌気がさしたのか厳めしそうな顔をした。

 「マクシミオ級やアレイド級なんてものが何だか知らないが、俺はアシェラルと戦ったときや、ヴァルベットに殺されかけたときに自分の無力さを思い知らされた。辛酸を嘗めさせられた気分だったよ。お前はどうだ?プランジェ」

 「屈辱だ。この腕が痛む度に苛々する」

 「…俺はそれ以上の苛立ちのせいで気分は最悪だ、恨めしい程にな…」

 紫薇がこめかみに思い切り力を入れると二人は息を飲み、やはり機嫌が悪かったのだと再び体を震わせた。しかし次の言葉を口にすると紫薇はその途中で笑った。

 「だが幸いなことにどうやら俺は、俺が思っていた以上に恵まれているらしい。やっと自分の取るべきことが見付けられた。俺は奴を討つ。ヴァルベット・ゼリオンを、虹拱結社を比類なきまで叩き潰す」

 暴力的な決意でも紫薇の目には精気で満ち溢れていた。

 「その為にはもっと力が必要だ。俺は明日、ウェルディ・グルスの店に行って来る。あの男に会って、世界を我が物顔で歩けるにはどうすれば良いか、その秘訣を聞いてくるつもりだ。クレシェント、プランジェ…お前たちには否応なしに働いて貰うぞ。良い機会だ、今迄の借りをしっかりここで返せよ」

 そういって最後に邪悪な笑みを見せて二人を恐がらせた。

 「お、お前…機嫌が良いのか悪いのかどっちなのだ…」

 「機嫌は悪いが気分は良い、そんなところだ」

 「こ、コーヒーでも淹れてやろう…」

 「ああ、頼むよ。うんと濃いめでな」

 プランジェはそそくさと台所に逃げ、紫薇は歯軋りしながら軽快に指でテーブルを叩いた。クレシェントは二人の様子を見て苦笑いをしたが、その途中でやはりジブラルと戦わなければならないのだろうかと自問してしまった。



 青い光を点しながら巨大な球体が揺れ動いている。その周りにはまるで惑星のように幾つもの小さな玉が線に沿って円運動を繰り返していた。一見すると銀河を模したようなそのオブジェの中心にジブラルが腰を下ろして目を瞑っていた。

 「これだけの魔力の塊をああも簡単に動かせる辺りがゼルア級の恐ろしいところだ。あの女にとって呼吸をするのと同じように見て取れる。ある筈のない八つ目の月、一体どこからくすねて来たのか…。キジュベドと言ったか、あの男…」

 「何か狙いがあって私に近付いて来たのは間違いないでしょうね。かの吸殲鬼を出し抜こうとしたって話もある位ですから」

 ゾラメスとヴァルベットはそのオブジェを背にテーブルを囲みながら茶を啜っていた。カップの傍にはマフィンやブラウニーに似た茶菓子があって、ヴァルベットはその内の一つを手に取ってまじまじと見詰めた。

 「しかしゾラメス、貴方も物好きな人だ。沈黙を続けていた虹拱結社を何だって動かそうとする?例の結社の創設者はいまだに音沙汰なしと聞いたが…」

 「事実を述べればこの闘争に意味はありませんよ。仮にあの『無意識の火薬庫ゲルネア』を使って、世界に大穴を開けたとしてもね」

 そういうとヴァルベットは意味ありげな目をしてゾラメスを一瞥した。指で握っていた茶菓子の表面が少しだけ窪む。

 「そもそも私が虹拱結社に参加した理由も、もとを正せば協会と激論を続けている組織の葛藤の中に身を置けば、新たな創作意欲が湧いて来るのではないかと思ったからですし。結社がこの世界の法になってしまえば私はそれまででしょうね」

 「なら何故…自らその葛藤を崩すような真似を?」

 ゾラメスは茶を一口啜った後にカップを手元に置いて頬を赤らめた。

 「彼の志に心を奪われてしまったから、これでは理由になりませんか?私はもう、正確なジェンダーの境界線はありませんが、私の中の魂が彼に惹かれてしまった。そして彼の意思に賛同した私は従者となり、長い時間をかけてやっと今日、虹拱結社にとって最悪の切り札を手に入れた」

 そういってゾラメスは椅子から立ち上がり、体を青い光に向けると手を掲げてまるでジブラルの頬を撫でるような動作をした。

 「蒼昊の悪女、ジブラル・リーン・マコット…。いや、かつて絶世の貴族と謳われた血統書、リーンの名を引き継いだ最後の生き残り…フォレスミュア・リーン・マルケアルバティーニョ。貴女が居れば協会もおいそれと手出し出来ない。貴女は本当に醜く、哀れで可愛い私の娘だ。誰にも渡さない。そう…誰にも」

 歪んだ愛情はゾラメスの笑った顔を酷く捻じ曲げた。ゾラメスは男でありながら女の生殖器を有していた。それが偶然に備わったものなのか、それとも彼が望んだものなのかわからなかったが、そのある筈のない二面性はゾラメスに煌びやかな才能を与えた。しかしゾラメスは気付いていなかったのだ。二つの体を保てるほど今の自分の心が、庭園が出来上がっていないということに。

 その不安定な、盲目的で汚れた顔をしたゾラメスを見て、ヴァルベットは手に持っていた茶菓子を一口かじってお皿に戻すとその場から立ち去っていった。

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