41話 アンニュイ顔の貴公子

 空に赤い星が二つ光ったようだった。妖気を孕んだ凶星は自分を見上げている紫薇とクレシェントに狙いを定めると薄っすらとその光をすぼめ、黒い息を一つ吐いてみせると、腹の筋肉を使いながら空気を吸い始めた。歯の隙間から光が漏れる。その灰色の狼の口の辺りは熱で歪んでしまっていた。

 低い声を喉から出しながらその狼の口が開かれると、喉の奥からオレンジ色の炎が吐き出された。紫薇とクレシェントはまるで夜の空に太陽が現れたかのような錯覚を覚えながらその場から跳び上がった。吐き出された火の塊が鉄板の上で炸裂すると、鉄筋の上に置いてあった枕はどこかに吹き飛ばされ、作りかけのビルの二階から淀んだ色の煙が巻き上がった。

 煙を掻き分けて紫薇とクレシェントは地面に降り立った。既に紫薇は半獣人となって臨戦態勢に入り、クレシェントは手に剣を握り締めて跳びかかる準備をしていた。火を噴いた人狼は宙に浮かび上がったかのように階段の上から二人の動向に目を配った。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 クレシェントが宙に手を掲げると、その腕の周りから血液で形作られたような腕が次々と人狼に飛び出していった。その手の大きさはクレシェントの腕よりも二回りも大きい。蛇行しながら空中を駆け抜けて相手を握り潰そうとしていった。

 その光景を目にすると、人狼は腕の体毛に隠れた手から爪を伸ばしてコンクリートの階段に突き刺し、赤い腕が体に触れる前に宙から離れていった。

 「まさか狙いは紫薇なの!?させない!」

 掲げていた指先を人狼の背中にスライドさせると、天に昇っていた腕は向きを変えて追い駆け始めた。

 人狼がまず標的としたのは紫薇だった。滑空するように地面に近付きながら紫薇の胸元にその鋭い爪を振りかざす。人狼の背後にはクレシェントの腕が追い付き始めていた。既に臨戦態勢に入っていた紫薇はその滑空をしゃがんで避け、人狼が通り過ぎると紫薇の髪の毛の数本が切れていった。

 人狼は地面に着地しながら背後に目をやった。そこには後からやって来たクレシェントの腕に攻め立てられようとしている紫薇の姿があった。しかし紫薇は膝を曲げたままその場から動こうとしなかった。

 クレシェントが腕を自分に向けて曲げると、紫薇に向かっていた腕は行き先を曲げて紫薇の目前で弾かれたように屈折し、再び人狼に向かっていった。今度は紫薇が自分の背後に目をやって人狼の姿を見送った。

 「…まだよ」

 赤い腕が人狼に襲いかかる直前、クレシェントは地面に手を着け、更にもう一つ概念を具現化した。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 人狼の周りから真っ赤な矢尻を持った槍が地面を掘り返しながら幾つも現れ、円形に取り囲んで人狼の逃げ場を削っていった。だが人狼が自分の両腕を胸に押し付け、魔力を体から発散させながら腕を広げると、クレシェントの二つの概念は目に見えない強い力によって押し留められた。その力は球状に広がり、地面に窪みを作りながら概念の腕と槍の切っ先を凹ませた。

 紫薇とクレシェントはその光景に驚きながらもお互いに目を合わせ、意識の狭間に一輪の花を思い浮かべた。そしてクレシェントが高速で紫薇の傍に駆け寄り、紫薇は半獣人から獣人へと姿を変え、二人の概念を混ぜていった。

 『ダリアジェネファーリエント(戦戦兢兢)』

 二人の咆哮が形となって赤黒い衝撃波になると、人狼の傍で具現化されていたクレシェントの概念もろとも消滅させていった。その現象には人狼も驚いた顔をして両腕を体の前で交差させ、その衝撃を防ごうとしたが衝撃波は辺り一帯に撒き散らされ、前身すら守れるものではなかった。

 衝撃波が周りを食い散らかした後に紫薇は膝を着いて苦しみ出した。共鳴奏歌は通常の具現化よりも遥かに負荷がかかり、力量の合っていない紫薇には全力疾走よりも辛い疲労感が全身に広がってしまうのだった。

 「共鳴奏歌とは粋な計らいをしてくれるじゃないか」

 クレシェントが紫薇を気遣うよりも先に全身を血塗れにした人狼が初めて口を開いた。辺りは草木が根こそぎ掘り返されていたが、人狼は二本の足で立っていた。交差させていた腕を解くと顔や胸元に刻まれた深い切り傷が見えた。

 「いや、お二人の魂の共鳴…存分に味あわせて貰ったが、まあ悪くない」

 伸びた口を歪ませると、裂けてしまっていた皮膚は独りでにくっ付き、見る見るうちに傷を修復していった。その様はまるで壊乱の魔姫と同じ現象だった。人狼の心臓が強く脈動し、全身に血液を巡らせると体が活性化され、通常では見られない身体の再生が行なわた。二人はその傷口が塞がれる光景をまじまじと眺めてしまっていた。

 「だが今一つしっくりと来ないのは、そこの坊やが悪いのか、それともお二人の波長が合っていないのかわからないが、死に物狂いになって頂かないと腹も空きやしない。壊乱の魔姫、さっさと本性を曝け出さないと、坊やの体が食い千切られることになる。そう、悪い獣にね」

 かかかと笑ってさも余裕を見せ付けるように両腕を広げた。

 「何故…俺を付け狙う?お前は一体…」

 「そうか、坊やが知りたいのなら教えて差し上げよう。お前の存在が我々…虹拱結社にとって有害なものだからだ。私はその使命を引っ提げてやって来たただの孤独な王様。草臥れた王冠を被った哀れなボヘミアン…私は第マクシミオ級犯罪者ヴァルベット・ゼリオン、覚えて置いても損はない」

 「マクシミオ級…ゼルア級に次いだ二番目の咎…」

 クレシェントはその名を口にすると頬から汗を伝わせた。

 「かのゼルア級と比べられてはこの名も霞んでしまうでしょう。壊乱の魔姫と言えばたった一度の力の誇示でその名を轟かせた暴力の化身…お会い出来て光栄です、クレシェント・テテノワール」

 紳士のように腕を曲げて頭を下げるヴァルベットにクレシェントは怒りを露にし、歯軋りをしてこめかみに力を入れた。そんな穢れた光栄など間違っても受け取りたくもなかったのだ。

 「しかし…とある噂を聞いたときから貴女に対する私の眼差しはどこか揺らいでいった。聞けば貴女は魔姫にならなければ、マクシミオ級はおろかアレイド級にすら劣るとか…。その杞憂は実際に貴女の概念をこの身に受けて現実のものとなってしまった。非常に…残念でならない」

 その言葉を発すると、ヴァルベットの目はぎらりと嫌な光を点した。失望にも似た憂いが向けられると、クレシェントは思わず顔を歪ませてしまった。だがその視線を遮るように紫薇は立ち上がり、その視線を受け止めた。

 「ふっ…そそるね、その顔は」

 紫薇の必死に抗おうとする目を見ると、ヴァルベットは更に頬を歪ませた。

 「そういう顔をする獲物を喜びながら叩き殺せる自分が好きでね。二対一でも何でも構わない、続きを始めようか」

 そういって足の裏に力を溜めて動き出そうとした最中、ヴァルベットの鼻を見知らぬ臭いが突っついた。その匂いは紫薇の鼻でも感じ取れたのか、紫薇は頬を少しだけ緩ませた。

 「分の悪い戦いは好きじゃないんでね。悪いが村八部にでもなって貰おうか」

 その紫薇の言葉の後にヴァルベットの背後から人影が現れ、その人物は手から短刀を振り投げた。刃がヴァルベットの背中の肉に食い込むと、痛みと予想外の出来事に苛立ちを隠せず、眉間にしわを寄せながら背後に目をやると、ビルの二階には紫薇の剣を手に持ったプランジェの姿があった。

 「…これはこれは、随分と可愛らしい新打ちだ、小さな淑女とは」

 「山椒は小粒でも辛いものだ。尤も私はぴり辛で済むような辛さではないがな」

 「それは興味深い、是非とも丸呑みしてみよう」

 背中にナイフを突き刺したままヴァルベットは跳び上がった。プランジェは大口を開けて迫りくる人狼に臆せず、その牙を狙うかのように進んでいった。二人の体が空中で交錯する。ヴァルベットは牙の代わりに腕を振るってプランジェを引き裂こうとしたが、プランジェはその腕の挙動を読み切って体を反転させながら短刀を手にし、その刃に概念を乗せた。

 『ジュブネ・パラール・エドナス(無骨な指先が開いて)』

 幾重もの花びらの刃が短刀の先に現れると、プランジェは剣を切り上げ、巨大な花を近付けた。だがヴァルベットは指先に魔力を溜め、その力を解放させながら標的をプランジェの概念に向け、腕を一振りして花びらを砕いた。爪の先は驚いた顔をしたプランジェにまで近付けられ、寸前の所でプランジェは背中を張って避けた。

 二人の位置が入れ替わると、紫薇とクレシェントは思わず息を飲んだ。更に目を見張ったのはヴァルベットの背中に刺さっていたナイフが筋肉の弛緩によって体外に弾き出され、その傷もすぐにもとに戻ったことだった。

 「クレシェント様、お気を付け下さい。私の記憶が間違いなければ、奴は『灰狼族シーペンス』の一人…獣人の中でも一際大きい体を誇り、その腹の中には数多の死骸と、その骨を溶かす為の熱を持った胃液が流れています。もし奴が本性を現わせば…権兵衛よりも遥かに背の高いけだものを目にすることになるでしょう」

 プランジェは動揺している心を落ち着かせながら紫薇に剣を手渡した。

 「なら俺が攻める。お前とクレシェントは援護しろ。もしものときは奥の手を使ってでも奴を退けなきゃならない」

 「…奥の手ってどういうこと?」

 クレシェントは心配そうな顔をしながらいった。

 「それを説明する時間を奴は寄越しゃしない。俺が殺されないような援護をしろ」

 紫薇はそういうと剣を鞘から抜き放って一人走っていった。

 ヴァルベットは紫薇が走ってくる様子を見ると、やる気が出てきたのかにんまりと笑って爪を尖らせ、勇み足で立ち向かった。

 二人の姿が間近に迫ると紫薇は足を動かしながら剣を切り上げ、相手の脇腹を狙ったが刃が体に触れる前にヴァルベットの爪が繰り出されてその進行を止めた。伸びた爪は十センチほどだったが、正確に紫薇の太刀筋に合わせて指先を動かしていった。

 「業物とはこのことか…良いセンスだ」

 高らかに声を上げて体を興奮させるヴァルベットに対して紫薇は冷静にそれこそ無表情を貫きながら剣を振るった。初動を弾かれ、その勢いを使って今度は首と肩の間を狙う。爪はまたしても刃の下に置かれ、その隙にヴァルベットの左手が紫薇に向けられる。紫薇は体を真横に向けたが、爪の表面が脇の下に擦れて僅かに切れた。紫薇はその痛みに耐えながらもヴァルベットの腹を蹴飛ばして距離を離すと、今度は柄をわき腹まで引いてヴァルベットの心臓に向けて突き立てた。その企みに気が付いたヴァルベットはその目に焦りを見せ、慌てて切っ先を手で掴んだ。刃は胸の寸前で止められたが、手の平には深い傷を刻み付けた。その力は強力で、紫薇はそこで初めて自分の体を止められたことに気が付いた。ヴァルベットはがっしりと刃を掴んだまま尻尾の先を尖らせ、紫薇の顔面に近付ける。だが紫薇はまたも避けようとしなかった。既に二人の援護が放たれていたのを感じ取ったからだ。

 『ビレネス・ミューネス(その眼差しに偽りなし)』

 『ディオレ・ジェネフィリア・ザード(我は惨劇を呈して)』

 紫薇の斜め後ろ、両脇から赤い光とオレンジ色の光が炸裂した。一つはクレシェントの手の平から、もう一つはプランジェの手に握られていた短刀の刀身から。二つの光はヴァルベットの尾が紫薇の顔を貫く前に放たれ、ヴァルベットの体を包んでいった。だが光の中で狼の姿をした人影が笑みを見せた。体を傷付かせながらも尚、前にのめり出して尻尾を徐々に紫薇の顔に押し付ける。そこで紫薇は突き立てていた剣に魔力を込めた。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪のように)』

 三つ目の光がヴァルベットの後ろで交錯した。三人の力を合わせ、やっとのことヴァルベットの手は紫薇の傍から離れていった。余りの光の強さに辺りは投光器で照らしたような眩い空間が広げられていた。

 その光がやっとのこと収束すると、光が収束していた場所には奇妙なものがあった。三人は警戒を緩めずにそれに目を凝らしてみると、それが積もった土や砂の塊だいうのがわかった。その山の下には人一人分の大きさの穴が空いていた。

 紫薇は考えるよりも先に防御の姿勢を取った。その直後に紫薇の足元から煙が立ち上り、土を吹き飛ばして咽るような空気の塊が紫薇の体を覆った。ヴァルベットは光を受けながら地中に潜り、地下から地上に火を吹いたのだ。間一髪の所で紫薇は尾を展開させて鎧を作ると衝撃を緩和したが、その熱までは防ぎ切れなかった。一瞬で尾の中の空気は加熱され、紫薇は余りの暑さに喉を焼いてしまった。

 クレシェントは咄嗟に概念を具現化した。一度は防がれた槍の形をした概念だが、苦しんでいるであろう紫薇を思うと何もせずにはいられなかった。手を地面に叩き付け、槍を地中で縦横無尽に暴れさせた。その途中、肉を貫いた手応えを感じたが、ヴァルベットは体を槍に突き刺されても平然と地上に現れ、鎧を解き始めてしまった紫薇に近付いた。

 「(まさか…俺と同じように…)」

 爪の代わりに腕の体毛を胸に近付けられると紫薇は背筋を震わせた。ヴァルベットの腕を覆っていた毛はその毛先を針のように尖らせ、紫薇の体を貫いていった。クレシェントとプランジェの目には紫薇の背中から灰色の針が何本も貫いていった光景が映り込んだ。

 「先輩からのアドバイスだ。毛皮を被るつもりなら、その毛先の一本まで意識を通せるようにし給え。授業料は屋銭の代わりに血を数滴…啜らせて貰ったよ、坊や」

 腕の上に紫薇の体を括り付け、高々に振り上げながらそういうと、ヴァルベットは紫薇の体を放り投げた。針は心臓に突き刺さったのか刺さらなかったのかわからなかったが、紫薇が受け身を取らずに地面に身を打ったのは体に深刻なダメージを負ったからだろう。そのままぐったりと寝そべると紫薇の体はもとに戻った。

 「さて次は…」

 視線がプランジェに向けられた途端、クレシェントは心臓が縮こまり、全身が引き締められた感覚がした。ヴァルベットがクレシェントに背中を向けると、クレシェントは夢中になりながら足を動かし、持てる奏力の全てを練りながらヴァルベットに刃を近付けた。

 「本当に…残念だ」

 その瞬間、プランジェは悲鳴を上げた。クレシェントの膨らんだ乳房の間にヴァルベットの腕が入り込み、肉を断って骨を穿ち、背中を突き破ったのだ。クレシェントに背中を向けながらヴァルベットはずっとクレシェントに意識を向けていた。だが紫薇を助けることに気を取られていた彼女にそんなことを感じ取る余裕はなかったのだ。クレシェントは痛みよりも頭の中が真っ白になった。これからどうすれば良いのだろう。誰が紫薇やプランジェを救ってくれるのだろうと、空っぽになってしまった頭で考えた。

 ヴァルベットが腕を引きずり出すと、もう言葉ではいい表わせない痛覚がクレシェントを襲った。呼吸は出来ず、ただ倒れるばかりで悲鳴も上げられない。口許と胸の穴からぼたぼたと血を流しながら呻き声を上げて必死に顔を上げるが、それ以上は何も出来なかった。

 「…やはり噂は本当だった。貴女の力はマクシミオ級はおろか、アレイド級にすら劣ってしまう。その芳しい血の香りは、魔性に満ちたときだけらしい。その心臓は後でゆっくりと頂こう。今は…このお嬢さんの体を貪るとしようか」

 そうして再び背中を見せると、クレシェントは声にならない声で忌み嫌った自分の名前を叫んだ。償いなど知ったことか、醜い姿など知ったことか、今はただ力が欲しい。闇に埋もれても、どれだけその手を血に染めても、自分の大切な人を傷付けさせないその一心でクレシェントは再び壊乱の魔姫を呼んだ。そして体の奥底に眠っている本能が目を覚まそうとしたそのときだった。

 「止め…ろ…」

 その起伏を止めたのは紫薇の掠れた声だった。その声に誰よりも驚いたのはヴァルベットだった。いや、驚いたというよりも、どこか嬉しそうな顔をして爪先をプランジェから紫薇に向けた。

 「これは驚いた…。何の因果か心臓を貫いた筈の手は虚空を掴んだだけだったらしい。どうやら悪運だけは強いようだ。ならその悪運、手始めに摘んでみるとしよう。これで運気が上がれば良いんだが」

 そのときだった。叫び声に近い悲鳴を上げながら、プランジェが短刀を持ってヴァルベットに迫った。だが今のヴァルベットの興味には当て嵌まらなかったのか、その剣を往なすと爪をプランジェの胸元に滑らせて幼い体を切りつけた。クレシェントが倒されて動揺を隠せないプランジェでは、まともな行動を取ることは出来なかった。しかしそれでもプランジェは地面に平伏しながら再び立ち上がろうと、腕に力を込めた。

 間髪入れずにヴァルベットの足が細い腕を踏み潰した。太い枝を折ったような音を立ててプランジェの左腕は普段と反対の方向に曲がり、聞くに耐えない少女の泣き声が辺りに響き渡った。

 「お嬢さん、貴女の相手は最後だ。それまで良い子にして頂きたい」

 最後にプランジェの体を蹴飛ばして転がすと、改めて紫薇の前に降り立った。

 「雄の質感は好ましいが、今は顎を動かすよりも喉越しの良いものが欲しい。お前の心臓だけを取り出して一飲みにしよう」

 爪を撓らせながら紫薇の体を爪先で小突いて仰向けにすると、逃げられないように足を腹の上に乗せた。そのせいで紫薇は声を上げるどころか、呼吸さえもまともに出来なかった。喉を焼かれ、胸を突き刺され、呼吸を止められた体だったが、ある一部の器官だけは鋭いままだった。

 「…もう止めて下さい!」

 紫薇はその場に居てはならない匂いを嗅いでしまった。死に物狂いになってその匂いがした場所に目を向けると、そこには息を荒げる羽月の姿があった。走ってきたのか衣服は乱れ、涙混じりに汗が首筋を伝っている。

 「お願いですから…もう皆を虐めないで下さい…!」

 羽月の声はかじかんでいた。小刻みに震える手を必死に抑えながら叫んでも、羽月の喉からは小さな声しか出て来なかった。

 「お願い…します…お願い…します…」

 三度目のお願いを聞いてヴァルベットは紫薇の腹から足を下ろすと、ゆっくりと羽月に近付いていった。紫薇の心臓はもう破裂してしまいそうなほど高鳴り、目を濡らしながら羽月を見た。そしてヴァルベットが羽月の目の前に立つと、紫薇は心の中で何度も何度も神に祈った。信仰心のない自分が今さら神に祈ったところで神は何もしやしないだろうと、紫薇は今だけはそう思いたくなかった。

 祈りは届かなかった。羽月の体がヴァルベットの平手打ちで宙を飛ぶと、紫薇は気が狂ったような声を上げた。目を吊り上げながら傷だらけの体を無理矢理に引き起こし、嗚咽を漏らしながら心の奥底から最大の概念を引きずり出した。


 『オラデッタ・ノヴェント・キグタリアス(その刃物は禁忌のように)』


 それはかつて紫薇が祖母にしてしまった仕打ちだった。虐待に耐えかねた紫薇はある日、戸棚の中から一本のカッターを見付けてしまった。それがどういう意味を齎すのか、そのときの紫薇はわかっていた。

 午後になって食事も碌に取れないまま、紫薇は祖母に衣服を脱がされ背中を叩かれ始めた。カッターの刃は手の平に隠してあった。行為はすぐに行なわれなかった。紫薇にもそれが悪いことだと知っていたからだ。しかしその道徳は背中を駆け巡った痛みには敵わなかった。紫薇は手に隠していたカッターの刃先を、ふと祖母が手を緩めた隙に取り出して彼女の顔に向けて突き立てた。刃は祖母の網膜を切り裂いて、視力の殆どを奪った。

 この事件を期に紫薇の世話は家政婦に切り替わった。祖母は予想だにしなかった紫薇の反抗に肝を冷やされ、腰を抜かしながら逃げ出したのだった。祖母の背中を目にしながら、紫薇は不思議としてやったという気持ちを感じなかった。寧ろ、自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを紫薇は感じ取っていた。そしてその日を堺に純粋だった紫薇の心は、処女の庭園に咲き乱れていた花びらは灰色に染まって萎びていった。


 今、紫薇はその魂を汚してしまった背徳を再び繰り返そうとしていた。概念を具現化し続ける度に、心の奥底で草臥れてしまっている花が枯れ始めてしまっていた。紫薇の手には否応なしに何枚ものカッターの刃の形をした冷たい光が集まり、それらが空まで伸びると、純粋な殺意を抱きながらヴァルベットに振りかざした。

 だが純粋な殺意ほど脆いものはなかった。刃はヴァルベットの不屈の闘志に触れることさえ叶わず、薄い、ガラス板のように叩き割られ、その後に続いたヴァルベットの爪に紫薇の体は掻きむしられた。

 紫薇は痛みと、羽月を守れなかった罪の意識に押し潰されそうになりながら声を上げ、権兵衛に託された最後の力を呼び起こそうとした。その力を紫薇は使おうと思っていなかった。仮初だとしても、紫薇は権兵衛の存在を変化した体を通して感じ取っていたかったのだ。紫薇はそんな淡い期待すらも裏切り、涙を枯らせながらその力を右手に込めた。

 「ごめんな…さい…」

 ふと紫薇は羽月の声を感じ取った気がした。右手に全ての力を込める中、紫薇は羽月に目を向けた。体を真横に倒しながら羽月は紫薇に語りかけていた。首筋から顔の半分を血で汚し、青ざめた顔になってもひたすらに紫薇の目に訴えていたのだ。

 その一言はまるで紫薇を見透かしたかのようだった。それほど紫薇の顔は酷いものだったのだろう。羽月はそう口にすると、大きな息を一つして意識を落としていった。すると緊張の糸がぷっつりと切れたように紫薇は肩の力を落として寝そべった。

 「最後の力を振り絞っても結局はこの程度…興覚めだ」

 ヴァルベットは二人の疎通を見てうんざりした顔をした。

 その気配は突然だった。すっかり熱が冷めてしまったヴァルベットの意識を食い潰すかのような気当たりが彼の背中から手を伸ばし、首根っこを掴んだ。ヴァルベットは思わず上半身を身震いさせ、あたかも得体の知れない捕食者に体を捕らわれたような感覚に陥った。ヴァルベットの視線の先には自分と同じ、いや、それ以上の色の濃さを持った双眸が光っていた。

 「…殺しテ…やル…」

 クレシェントの頬肉が裂けると、胸に空いていた傷はたちどころに塞がっていった。紫薇が呼び起こしてしまった純粋な殺意を超越した殺戮本能が、クレシェントの体を支配し始める。その過程を目にしたヴァルベットは歓喜よりもまず恐怖を感じてしまった。クレシェントとヴァルベットの立場は完全に逆転してしまっていた。

 「それだ…それこそ俺が求めていたものだ!」

 やっとヴァルベットに歓喜が訪れると、ヴァルベットも同じように体の中に眠っていた本性、真の姿を曝け出し始めた。

 「この俺に生きる喜びを与えてくれ…草臥れてしまった王冠に再び黄金の光を!」

 捕食される者は捕食者に対して思いもよらない反抗を見せるときがある。自然界に限っては特にそれが如実に行なわれる。ヴァルベットはその反抗を体現したような存在だった。全身の肉と骨を唸らせながら姿を変化させる。魔姫に劣るとも勝らない力を徐々に徐々に体の奥底から引っ張っていった。

 二匹の獣が睨みを利かせ、最後の理性が弾け飛ぼうとしていたときだった。空に再び光が点った。半透明を帯びた扉が宙に現れ、ゆっくりとドアが開かれると二匹の獣はその扉の中に入っていた気配を感じ取った。二匹の理性は殆ど失われていたので、その人物が実際に現れるまで二匹は何か途轍もない力を持ったものとしか感じ取れなかった。

 扉を繰り出した人物が地表に向かって爪先を向ける。足元には赤い光を持った輪っかが浮かび、その輪が落下速度を弱めているようだった。その人物は一見すると、紫薇にも似た雰囲気を持っていた。全身黒一色の服装に反してオペラモーブのストールを首元から垂らすその男をクレシェントは良く知っていた。

 その男が二人の間に下りると輪っかは消滅し、顔をクレシェントに向けた。

 「マルテ…アリス…」

 理性が消えかけていたクレシェントの思考が矢庭に蘇る。そしてその男と暮らしていた日々が走馬灯のように駆け巡り、裂けていた頬は赤い目を残してもとに戻っていった。

 「…相変わらずの間抜け面だな、オマエ」

 低い声質の子供のような言葉遣いだった。眠たそうな目も、ぼさぼさに跳ねた髪も以前にクレシェントが見たときと何も変わっていなかった。黒いタートルネックのシャツにスキニーパンツ、すらっと伸びた手足はまるでモデルのようだった。

 小ばかにしたようにクレシェントを笑うと、右耳に着けた心臓を半分に切った形をしたピアスが揺れ動いた。

 「マルテアリス・オフュート…何故ここにゼルア級が…」

 本能の開花を遮られたのはヴァルベットも同じだった。それどころかクレシェントの中に潜む魔性の力を感じたときよりも遥かに緊張を促され、いつの間にか体の変化は止まってしまっていた。

 「どうして…貴方が…」

 「別に…ちょっと顔を見に来ただけだ」

 そういってマルテアリスは膝を着いてクレシェントの額に手を乗せた。

 「顔を見に来たって…どうやってこの世界に…」

 「変な奴にこの場所を教えて貰った。その代わり一つ頼みことを聞いたけど。それよりオマエの中から出て来ようとしてる力を閉じ込めてやる、ちょっと黙ってろ」

 艶のある声がクレシェントの口から漏れると、彼女の頭の中に響いていた遠吠えが次第に遠ざかり、やがてその声がその場所からいなくなると赤い光を点していた目はもとの銀色に戻った。

 「これで一先ずは大丈夫だな」

 「あり…がとう…」

 体が楽になったのかクレシェントは小さく笑ってみせた。

 「それよりオマエ、俺がくれてやった服はどうしたんだ?まさか捨てたんじゃないだろうな。高い金を出して買ってやったんだぞ、どこにやった?」

 「えっと、それは…」

 今はそんなことを話している場合ではないのに自分勝手な質問をするマルテアリスに、クレシェントは懐かしさを覚えながらも呆れてしまっていた。

 「お二人の再会に水を差すようで悪いんだが、仕事の続きを始めても?そこで眠っている坊やに止めを刺すのが私の役割でね」

 ヴァルベットは気丈に振舞っても内心マルテアリスを恐れていた。

 「好きにすれば?こいつ以外は俺に興味ないし」

 「おや、これは好都合だ」

 ほっとしながらヴァルベットは思わず笑った。

 「マルテアリス、駄目…!あの人たちを、紫薇を傷付けさせないで…!」

 クレシェントがそういっても頑なに知るかと首を横に振ってみせたが、懇願する彼女に見詰められると、腰を折らない訳にはいかないようだった。

 「…わかったよ。お人好しはこれだからな…」

 深い溜め息を吐いた後にマルテアリスは立ち上がってヴァルベットに体を向けた。

 「って訳だからオマエ、もう帰って良いよ。言うこと聞かないなら殺すけど」

 クレシェントはこれで危機は去ったと安堵した。マルテアリスに歯向かえる者など見たことがないクレシェントは安心し切ってしまったが、次に取ったヴァルベットの言葉は彼女の度肝を抜かせるものだった。

 「何を言い出すかと思えば…ふざけたことを抜かしてんじゃねえぞ糞餓鬼が、ぶち殺すぞ」

 歯茎と牙を剥き出しにしてヴァルベットは唸り声を上げた。余りに勢いのある表情にクレシェントは小さな悲鳴を上げてしまった。

 「はあ?オマエ、俺を怒らせたいの?」

 そのクレシェントを更に震え上がらせたのはマルテアリスから具現化された彼の概念だった。いつの間にか辺りには真っ赤な体をしたマネキンが散りばめられ、その数体はヴァルベットの体に取り付いていた。球体間接が着いたより立体的な動作が出来るマネキンが無表情ながらもマルテアリスの意思を押し付ける。

 流石のヴァルベットもその意思の強さには兜を脱ぐしかなかった。歯を噛み締めながらきっとマルテアリスを睨み付けた。マルテアリスはその意思表示を良しとしたのかマネキンを消滅させた。するとヴァルベットはどこからか緑色のポンチョを取り出し、頭からそれを被ると獣の皮から人間の皮に変えた。釣り上がった細い目でマルテアリスを睨みながら丸眼鏡を取り出して顔に着け、短い灰色の髪の毛をぐしゃぐしゃと手で解しながら手元からソフィの合い鍵を取り出した。そして扉を開けて最後に口惜しそうに紫薇の顔を一瞥すると、小さい声で舌打ちをして扉を閉めていった。

 クレシェントは今度こそ終わったと、長い溜め息を吐くとはっとしたように体を起こし、まず羽月のもとに走り出した。寝そべっていた羽月をクレシェントは抱き起こし、何度も彼女の名前を呼んだが一向に羽月は目を覚まさなかった。クレシェントは羽月の冷たい手に触れると今にも泣きそうな顔をしたが、羽月の口許から小さな吐息が聞こえると涙を滲ませた。

 「すぐに病院に運ばないと…!マルテアリス、お願い!手を貸して!」

 「やだね。そいつらがどうなろうと俺の知ったこっちゃない」

 「マルテアリス…!」

 クレシェントは藁にもすがるような思いでマルテアリスを見詰めた。

 「お願い…私の…大切な人たちなの…。やっと私にも居場所が出来たのよ…。お願い、助けてマルテアリス…。皆が死んでしまったら私…私…」

 クレシェントは両手で顔を隠しながら嗚咽を漏らした。しかしマルテアリスは気だるそうな顔をしたまま明後日の方角を見るだけで何もしようとしなかった。そのうちにクレシェントは泣いていても始まらないと指で瞼を擦り、目を真っ赤にさせながら羽月の体を持ち上げ、紫薇とプランジェの傍に持っていった。

 「あーあ、来なきゃ良かった」

 最後に空を見ながらそう呟いてマルテアリスはプランジェを持ち上げているクレシェントに近付いていった。

 「運ぶだけだからな、俺が手伝ってやるのは」

 機嫌の悪そうな顔をして右腕の袖を捲ると、そこには透明な宝石、いや妖精のかけらが埋め込まれていた。妖精のかけらに光が点ると、マルテアリスの傍から硝子で出来たような女性型のマネキンが三人現れ、各々が倒れた紫薇たちを抱えていった。


 病院に着いてからマルテアリスは結局、最後までクレシェントの手伝いをした。意識がない三人を乱雑ながらも病院の中に運び、一通り落ち着くまでクレシェントの傍にいてやった。

 三人の手術は無事に成功した。三人とも酷い怪我だったが一命は取りとめ、病室で横になっていた。クレシェントはもう帰るといったマルテアリスを見送りに病院の外に出ていた。

 クレシェントはマルテアリスの頬に着いた汗をハンカチで拭いてやった。

 「ありがとう、マルテアリス…。貴方には迷惑をかけてばかりね…」

 疲れもあってクレシェントは暗い顔をしていた。

 「いつだってオマエはそうだからな、もう気にしてない」

 クレシェントは苦笑いした。

 「三人とも無事なのは貴方のお陰よ、マルテアリス…。貴方が居てくれたから、私の大事な人が生きていてくれる…。こんなに嬉しいことはないわ…」

 薄っすらと涙を浮かべながらマルテアリスを見詰めたが、

 「そんなにあいつらが大事なのか?…俺よりも」

 不意に寂しそうな顔をしてクレシェントから目を逸らした。

 「違うわ、貴方だって私の大切な人よ…!誰が一番だなんてそんなこと…」

 「だってオマエ、あのときよりずっと人間らしい顔になってる。俺と一緒にいたときは見せてくれなかった顔だってあった」

 そういうとクレシェントはどきりとした。そしてそれを否定するように首を横に振ったが、マルテアリスは面白くなさそうな顔をしたままだった。

 「マルテアリス、そんな顔をしないでよ…。貴方らしくないわ…」

 「オマエのせいだろ。でももう良いよ、オマエの顔が見れて嬉しかった」

 そしてクレシェントがマルテアリスの名前を呼ぼうとした矢先、マルテアリスはクレシェントの唇を奪った。ほんの軽い口付けだったが、マルテアリスは満足したように顔を離すとレミアの鍵を開け、最後に一つ笑った横顔を見せるとクレシェントの前から姿を消した。

 クレシェントはそれから少しの間動けなかった。やっと体が動いた後、指先を唇に寄せてマルテアリスの味を思い返すと、クレシェントは頬を染めながらもどこか憂いを帯びた目をした。

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