40話 灰色の災星

 「ふーん、フランス書物の翻訳ねー」

 割り箸を口に咥えながら節木は翻訳した手書きのコピー用紙を眺めた。

 最近の昼休みは屋上で弁当を広げることが紫薇の日常になっていた。屋上には赤縞、榊原、蘇芳、藤原の他に新たに節木が加わってちょっとした会合のようだった。噂では屋上は学校の番長である赤縞の縄張りだと思われているらしく、他の生徒は間違ってもこの場所に来ることはなかった。

 「おめえもつくづく暇な男だな」

 「でもフランス語って何だかお洒落じゃない?パリコレとかって憧れるなあ」

 「しかしそんな専門的なことをやってのける辺りは絵導らしいな。もう何冊目なんだ?」

 「今でやっと三冊目だな。頭が痛いよ」

 顔を曇らせながら紫薇はから揚げを口に入れた。

 「料理に関することだったら少しは俺にもわかんだけどなあ…。ミルポワとかマティニョンとかそんな感じの」

 「英語と違ってフランス語はややこしい発音ばっかりだからね。同じような綴りでも、読み方がまるで違うのもあもあるし…。ラテン語がゲルマン民族の影響を受けてしまったせいなんだろうけど。オイル語やオック語なんてものまで出来てしまったからなまじ英語より難しいね」

 藤原の博識ぶりに全員が驚きの声を上げた。

 「相変わらず余計なもんばっか覚えてやがんだな」

 「知識はいつの時代にも必要だよ。どんな場所でもね」

 そういうと赤縞はけっ、と唸った。

 「見かけ通り不思議ちゃんって感じね、藤原君」

 「お前は見た目のまんまだけどな、絵導」

 節木がそういうと一同はあっはっはと笑い合った。

 「…お前等な」

 「ところでどうして絵導君はそんな本を調べるようになったの?」

 「…この本の著者のことが知りたくなった。だがこうして翻訳してみても一向にその手がかりが掴めないんだが…何か良い手立てを知らないか?」

 「良い手立てねえ…」

 一同がうーんと唸っているといつの間にか輪の真ん中に氷見村が現れた。

 「インターネットでも使ってみたらどうだい?」

 「あー、そういや図書室にパソコンあったっけ。あれブロックがかかってるからエロサイトが見れないんだよなー」

 「若いって良いなあ。…関心はせんが」

 「…おめえら先ずは驚け」

 「ホントいつの間にだよね…」

 その中で割りとどうでも良いといった顔をして紫薇は弁当を食べ続けた。

 「紫薇、どうして君はいつもいつも僕に冷たいんだい?久し振りに会ったっていうのに連れないじゃないか」

 「別にお前に会ったからって嬉しい訳じゃない」

 「無理っすよ、氷見村先輩。絵導にそういうの期待するの。嫌な奴だし」

 「うん…わかっているけどさ、期待したって良いじゃない…」

 「それよりそのインターネット、どうやって使えば良いんだ?氷見村」

 紫薇は食べ終わった弁当箱を丁寧に仕舞った。

 「そういやお前、携帯の一つも持ってなかったな」

 「ああ、そういうデジタルものはさっぱりだ。どうせ放課後は何もないんだろう?氷見村、放課後つき合え」

 「えー、無料で?」

 「ならコーヒーの一つでも奢ってやるよ。ちょっと寄りたい店がある」

 そういうと氷見村は驚いた顔をして紫薇を見た。

 「え?い、良いの?」

 「お前が代価を要求したんだろうが。いらないなら指でも咥えて外で待ってろ。一時間じゃ帰って来ないだろうがな」

 「ああ、はいはい!行きます行きます!行かせて貰います!」

 「番長、マジでこいつ口悪いな…」

 「今さら何を言ってんだ。あと番長って呼ぶんじゃねえ、ぶん殴るぞ」


 放課後、紫薇はパソコンの前に座って氷見村からインターネットの講義を受けた。氷見村の教鞭はとてもわかり易い教え方で親切丁寧に紫薇は教わった。

 「これで一通りかな。後はまたわからなくなったら呼んでよ、僕は本でも読んでるからさ」

 氷見村はパソコンから離れると、洋服の週刊誌を手に取って紫薇の後ろの席で読み始めた。どうやら氷見村はシックな感じの服装が好みの様だった。

 紫薇は視線を画面に戻してゆっくりとマウスを動かし、セレスティン・アーネスエヴァリットと入力してエンターを押した。十秒ほど経った後、検索結果が画面に表示された。各ホームページアドレスの隣にセレスティンの写真が記載されていた。パーマがかかった銀色の髪を流す理知的な男性だった。べっ甲色の眼鏡が特徴的で、一見すると学校の先生のようだった。

 紫薇は一番最初に乗せられていたページにアクセスしてみた。そのページはセレスティンの生い立ちが描かれていた。年代に沿ってセレスティンの生い立ちを眺めてみると意外な事実が記載されていた。セレスティンは子供の頃には特に目立った成績を持たず、大学に入学するまで科学界のスポットライトを浴びることはなかった。だが二十歳を過ぎた辺りから人が変わったように既成の概念を切り崩し、新たな発見を次々と発表していったという。丁度その頃に交際を続けていた女性と結婚をすることになり、二人の間に子供が生まれた。

 「…娘がいたのか」

 紫薇は何気ない気持ちで新規のタブを作ってそのタブにセレスティンの娘の名前を入力し、検索をかけた。今度は検索結果のページに娘の写真はなかった。紫薇はまた初めのページにアクセスしてみた。カーソルを動かし、クリックを押した。

 「これは…」

 思わず画面に現れた少女の写真を見て紫薇は絶句した。熊のぬいぐるみを腕に抱えた少女の顔は、クレシェントのものと瓜二つだったのだ。いや、実際にはクレシェントの黄金比率を少し曲げたようだった。同じ銀色の髪を靡かせ、寂しげに笑っている姿を紫薇は暫し見詰めてしまった。そして写真の右下に書いてあった事実に目をやると紫薇は息を飲んだ。


 テルスティンバー・アーネスエヴァリット 享年十四歳

 この年にセレスティンは行方不明となり、現在も捜索中。尚、テルスティンバーが亡くなった際に妻とは離婚した模様。


 そっと紫薇は全てのタブを閉じ、今迄で得た情報を一つに纏めてみた。セレスティンの娘の死、巫家の軍事産業、真紅の女王、そしてこれらを繋ぎ合わせるのは遺伝子工学。紫薇は死んだ娘の遺伝子を真紅の女王と掛け合わせたものが今のクレシェントなのではないかと仮定した。腕を組み、仕切りにその可能性に矛盾はないか確かめたが、鵺義の言い分からしてもその線で間違いはなさそうだった。しかし気になることが二つあった。それは今の科学技術でそんなことが出来るのだろうか、という点と、もう一つはセレスティンの行方だった。

 いよいよもって紫薇はあの店に行かなくてはならないと思い、席から立ち上がって氷見村を呼んだ。

 「氷見村、帰るぞ」

 「え?もう終わったの?」

 「お陰様でな。否応でもあの店に行かなければならなくなった」

 「そ、じゃあ行きますか。何飲もうかなー」

 氷見村は楽しそうに週刊誌をもとに戻した。


 二人は図書室を抜けて学校を後にした。紫薇は逸る気持ちを抑えながらバッカスまでの道のりを歩いていった。だがやはり気持ちが表れてしまっていたのか歩いている途中では氷見村の話を碌に聞けなかった。

 レンガ塗りのアスファルトを抜けた先、陽炎の中に例の店はあった。しかし店のドアには紙が張ってあった。紫薇はまさかと思いながら店に近付いた。

 紙に書かれていたのは丁度今日から一週間、臨時休業をするとのことだった。紫薇は呆れながら溜め息を吐いて中を覘いてみたが、人の気配はまるでしなかった。

 「氷見村、悪いがまた日を改めよう。どうも休業中らしい」

 紫薇はそこでやっと氷見村の顔を見たが、意外にも氷見村の顔は平気な顔をしていた。それ所かどこか嬉しそうにも見えた。

 「そう、それは残念だね」

 「…折角なのに悪かったな」

 少し恥ずかしそうにしながら紫薇が謝ると氷見村はにっこり笑った。

 「良いよ、君からそんな言葉を頂けただけで大満足さ。それよりちょっと用事があるから、今日はここでおさらばするよ。またね、紫薇」

 そういってそそくさと店から離れていった氷見村に紫薇はぽかんとしてしまった。紫薇はもっと我侭をいわれたり嫌味をいわれたりするかと思っていたので、予想外な氷見村の行動に呆気に取られてしまった。だがそれも氷見村らしいのかなと思いながら紫薇は頭を掻いて家に帰っていった。


 家に帰ってみると、紫薇はまた玄関で立ち止まった。見慣れぬ靴があった。だがその靴は以前に見たもので、紫薇はやっと来たかと思いながら靴を脱いでスリッパを履くと、リビングに進んでいった。そこにはやはり青いローブを羽織った男がソファーに腰をかけて紫薇を待っていた。

 「こんにちは、お邪魔させて頂いています」

 「今日はあの口うるさい女はいないんだな。何よりだ」

 紫薇はそういってリカリスの前に腰をかけると、ふと気付いたことがあった。

 「…お前、どうやってここに?」

 「ちょっとした手品を使って」

 「俺は冗談が嫌いなんだ。下手なことをいうと叩き出すぞ」

 ぎろりと睨み付けるとリカリスは困った顔をして笑った。

 「そういきり立たないで下さい、恐い人だ。僕はこのソフィの合い鍵を使ってこの世界にやって来たのですよ」

 ローブの袖の下から小さな白い鍵をテーブルの上に置いた。その鍵はクレシェントが持っていたレミアの鍵と似ていたが、先っぽがちゃんとあって一見すると小洒落たアンティークのようにしか見えなかった。

 「この鍵をどこで手に入れた?」

 「秘匿義務がありますから、お答え出来ません」

 リカリスは目を閉じながら清々しい顔をしてソフィの合い鍵を袖の中にしまった。紫薇はその顔を見てこれ以上語ることはないだろうと、黙って黒真珠の指輪が入った小箱をテーブルに差し出した。

 リカリスはその小箱を開け、真珠の表面に映った女性の顔を覗き込むと、結構、そういって静かに蓋を閉じた。

 「ご苦労様でした。これで僕も会長に胸を張って報告することが出来ますよ」

 「満足したのならとっとと踵を返せ。これ以上…」

 「では次の依頼の話をしましょうか」

 二人の話を傍で聞いていたクレシェントとプランジェは目を丸くして驚いた。まるでさも当然に話を続けようとするリカリスの横顔に、プランジェは狂気を感じた。

 「ふざけるな!貴様たちの言った罰とやらはこれで終わりではないのか!」

 「罰に数を付け加えることは出来ません。それとも貴女方が仕出かしたことは、たった一度の償いで済んでしまうものなのでしょうか?いいえ、それは違う筈です。クレシェント・テテノワール、貴女はその意思があったにしろなかったにしろ、その猟奇的な殺人を犯してしまった事実をもっと認めるべきでしょう」

 クレシェントはじっと自分を見詰めてくる知った顔に似た視線にいいようのない不安を感じてしまっていた。一言一言がクレシェントの胸に深く突き刺さり、気付けば手を震わせながらリカリスの視線から目を背けてしまっていた。

 「貴様、知ったような口を…」

 「そしてそれに加担する貴女も同罪だ。貴女は幼いながらも彼女の意思を受け継いでしまっている。従者キュベルテスとは本来…他人の主張に同感し、その意思に従う者のことを指す。時を重ねて本来の意味は失われつつありますが、貴女の体の中に…いや、処女の庭園にはしっかりとその種が芽生えてしまっている。由々しい事態だ、これは。仮にも貴女はかのフィーリアスの名を持っているというのに…お亡くなりになられた先代もさぞがっかりしていることでしょう」

 「このっ…!」

 左目に一瞬、赤い光が点るとプランジェは短刀を手にして目の前に突き出した。切っ先が喉もとに触れる。だがそこからの進行をクレシェントは許さなかった。がっちりと体を抱き締め、暴れようとするプランジェを狼狽しながらも食い止めた。

 「プランジェ、止めなさい!」

 必死に叫びながらプランジェを抑え付けるがプランジェは言葉にならない悲鳴を上げて体を捩じらせ、クレシェントの胸元に顔を埋めて泣き声を上げた。

 「この行為が正にその証でしょうね」

 クレシェントが仕切りにプランジェの頭を撫でている中、リカリスは乱れた服を直しながらやれやれと呟いた。そのときだった。唐突にリカリスの体は床に吹き飛ばされ、頬を歪めながら唇を切った。羽月が小さな悲鳴を上げた先にはリカリスを見下ろす紫薇の姿があった。

 「酷いことをしてくれますね。これでも協会の使者だというのに…」

 リカリスが口許を指でなぞると人差し指に血が着いていた。その塗れた指を見ると意味深に笑ってみせ、リカリスは上半身を起こした。

 「口煩いんだよ、お前…」

 体を起した途端、リカリスから笑みが消えた。リカリスの目に映ったのは矮小な一人の子供の代わりに現れた一匹の白い影だった。実際にそこに現れている訳ではなかったが、リカリスの目には確かにその赤い目をちらつかせる巨大な体が辺りを押し退けながらすぐ傍まで迫っていた。

 「…まさか『聖少女』がこんな所に隠れていたとは」

 リカリスはその気迫に飲み込まれながらも再び乱れた服を直し、ゆっくりと立ち上がってテーブルに置かれた小箱を手に取った。そして紫薇の顔をまじまじと見て口を開いた。

 「今回は手を引きましょう。ですがこれだけは覚えて置いた方が良いですよ。絵導紫薇、貴方はただ、踊らされているに過ぎない」

 「…何だと?」

 紫薇は思わずその言葉に目を細めた。

 「その意味は何れわかります。そのときまでしっかり生きていて下さいよ」

 そういって背中を向けるリカリスに、紫薇は自らに問いかけるようにいった。

 「…お前は敵なのか?味方なのか?」

 「…貴方は僕を嫌いかもしれませんが、後に手を組まなければならない日がやって来ます。貴方の外敵と、僕たちの外敵は同じなのですから」

 リビングに二十秒の沈黙が流れた。紫薇はその場から動けずにただ玄関の方を一人向いていた。その目に迷いを映しながら。

 それから紫薇は深い溜め息の後にソファーに尻を落とした。その音をきっかけにクレシェントはプランジェを嗜めながら二階に連れ、羽月は何をすれば良いのかわからずおろおろとしていたが、コンロの上で温めていた鍋が吹き零れると、慌ててガスを消し、途中だった料理を再開した。

 紫薇は再び溜め息を吐いた。リカリスの言葉がどうにも頭に引っかかる。この状況に自分が何か関係しているのではないか。そう予想はしていも、いざ実際にその事実を突き付けられると、そのことを受け止めきれない自分に苦悩してしまっていた。三度目の溜め息を吐こうとするのを何とか止め、代わりに手で自分の目を隠して少しでも気持ちを落ち着かせようとした。しかし結局は先の見えない暗闇を現実に呼び起こしてしまっただけで、荒んだ思考はもとには戻らなかった。

 その荒みは夜になっても治らなかった。ソファーの上でごろごろと寝返りを打ってはその繰り返し。シーツはすっかりしわだらけになってしまった。普段なら死んだように眠っても、今夜だけは思うように眠れなかった。

 「…紫薇」

 寝返りを打って偶然にも玄関の方に顔を向けると、そこにはクレシェントが立っていた。何故か寝巻きの格好から普段着に着替えている。

 「どうした?」

 紫薇は起き上がらずに顔だけをクレシェントに向けた。

 「寝れないなら、ちょっと付き合ってくれない?今夜は何だか私も眠れなくて…その辺りを散歩しようと思っているんだけど」

 小さな溜め息を吐いてやっと上半身を起こすと紫薇は付き合うよといった。


 紫薇は寝巻きのまま素足で靴を履いて家を出た。空は北極星の一つだけが控えめに光っていた。夏の空気のお陰で頭はやけにぼけ、自分の足音がいつもよりも低い音に聞こえた。ヒールの音は靴に寄らず離れずの距離を保ち静かなものだった。

 「あの場所に行ってみない?」

 ぬるい風が一つ吹くと徐にクレシェントは口を開いた。

 「…どこだ?」

 「始まりの場所、かな…」

 そういうと紫薇は爪先を曲げ、クレシェントもまたヒールの先を曲げた。

 二人は初めて出会った場所に着いても会話を続けなかった。紫薇は鉄骨の上に寝そべり、クレシェントはその傍に腰を下ろしてお互い明後日の方角を見詰めていた。

 ふと紫薇はクレシェントの横顔に目をやった。流れた銀色の髪の毛が北極星の僅かな光を受けて輝いた。紫薇はクレシェントの髪の毛に関しては嫌いではなかった。寧ろ思わず見惚れてしまう程だった。しかしそれも作られたものだと知った今では素直に触れて良いものなのかわからなかった。

 ふとクレシェントは紫薇の顔に目をやった。鋭い、まるで野良猫のような目が北極星の僅かな光を受けて輝いた。クレシェントはそんな紫薇の目が好きだった。始めは恐いと思っていた目付きも、今では見る度に胸を締め付けられる。でもいつかその目が向けられなくなる日が来るのではと、クレシェントは不安になる日もあった。

 「 『クレシェント』『紫薇』 」

 二人の声が重なった。すると二人は何か反応を示す訳でもなくお互いに見詰めあった。黒い目と銀色の目にそれぞれ相手の色が映し出される。その中で思い描いている絵は同じだった。しかしそのもとになるものが違うことを二人は表面的に分かり合ってしまった。

 「お前、何を口にしようとしていたんだ?」

 「紫薇こそ、何を言うつもりだったの?」

 すると二人は視線を外して考えた。

 「俺は…リカリスのことをどう思っているか聞きたかった。それ…だけだ」

 「私も…同じようなことよ。紫薇はどう思ってるの?」

 「嫌いだな、一言で済ませるなら。二度と関わり合いたくない」

 「でもあの人が言っていたこと、引っかからないの?踊らされてるって…」

 「…お前は、俺と出合ったことが偶然だと思うか?」

 短い溜め息を吐いた後にいった。それは今さっき思っていたことを吐き出すような仕草にも似ていた。

 「奴の言っていたことが本当なら、お前やジブラルがこの場所に来れたこともわからんでもない。あのときの光景が…お前の意思で引き起こしたことじゃないならな」

 「じゃあ、紫薇は誰かが私とジブラルをこの場所に引き寄せたって言いたいの?確かにあの白い…何かに飲まれたことは事実だけど…」

 「仮定の話だがな…。きっとプランジェも同じように連れて来られたに違いないさ。はっきりと…いや、正直に話すとな、不安なんだよ」

 「…紫薇?」

 クレシェントは驚いた。今まで見たことのない紫薇の表情を見てしまったのだ。どこか脅えたような不安な目。それは魔姫になってどうしようもない力に戸惑ってしまっているときの自分とまるで同じ姿をしていた。

 「今までは俺に関係のないことだから、平然として来れたが…。今はこの流れの中心に浚われているような気がしてならない。…こんなこと、誰かに話すようなことじゃないんだが…。不思議とお前には本音を言ってばかりだな」

 そういいながら寂しそうな笑みを見せる紫薇に、クレシェントはいてもいられない気持ちに駆られてしまっていた。気付けばクレシェントは紫薇の肩を引っ張って自分の膝の上に乗せていた。紫薇もこの時だけは抗えずにそのままクレシェントの人肌を通じて心を落ち着かせた。

 「…誰だって不安になるときはあるわ。でも私は紫薇だったら、乗り越えられると思うけど。自分ではそう思ったことはない?」

 「…ないな、俺はお前みたいな化け物染みた強さなんて持ってない。いつも目の前のちっぽけな壁に悩まされる。馬鹿になれればどんなに楽か…。なあ、どんな気分なんだ?その馬鹿ってのは」

 そういうとクレシェントは紫薇の頬を抓った。

 「知らない、そんなこと」

 「…可愛げのない奴」

 「どっちがよ」

 二人は静かに笑い合った。紫薇は笑い終わると体を起こし、クレシェントから離れると鉄骨から降りた。

 「もう十分だ、帰るか」

 「そうね」

 クレシェントも鉄骨から降りてその場から立ち去ろうとしたが、紫薇は歩き出さずにどこか恥ずかしそうにクレシェントを見ていた。

 「どうしたの?」

 「いや、一応…感謝はして置こうと思ってな。ありが…とうと…言ってやる」

 クレシェントは嬉しそうにどういたしましてといって空に向かって背中を向けた。紫薇もやっと一息が吐けた様に安心すると、クレシェントの後を追って歩き出した。いつの間にか夜空には白い光が浮かび上がっていた。二人の一歩先に四角い影が現れる。紫薇とクレシェントはまさかと思いながら体の向きを変えた。

 「レミアの…鍵?」

 「いや、違う!あれは…!」

 白い扉がその表面を光らせ、二人の傍に向かって薄い階段を伸ばした。すると扉がゆっくりと開かれ、中から赤い光がぼうっと揺らめいた。宙に浮かんだ階段に細い爪先が踏み締められる。胸に巨大な傷を持った灰色の狼が二本の足を使ってその場所に現れ、背骨を立たせながら宛ら暴君の様に紫薇とクレシェントを見下した。

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