39話 芯まで凍ったアルミ缶

 「まだ徹夜でなんかやってんのかよ?」

 がっくりと上半身を机の上に置いて遠い目をしながら、窓の外を見詰める紫薇を見て赤縞は呆れた顔をした。

 「今回は違う…。寝られたが寝れなかっただけだ…」

 結局あのあとクレシェントは寝惚け続けたままずっと紫薇の手を噛み付いて離れなかった。デラは半ば酒乱になりながら、泣いたり怒ったりしてランドリアでも手が付けられなかった。そんな光景を知ってか知らずか、プランジェはまるで見なかったことのようにライプスと静かに食事を取り、二人が正気ではないことを知ると一人だけ寝床に着いていった。もとの世界に戻ってきたのは夜が明けた後で、クレシェントはやたら機嫌の悪い紫薇を不思議に思った。

 「彼、また何かあったの?」

 榊原はこっそりと赤縞に耳打ちした。

 「貧乏暇なしってか…いや、ちょっと違うか?」

 「…どゆこと?」

 榊原が首を傾げると赤縞も自分でいったことがわからなくなったのか首を傾げた。 

 「朝から楽しそうだな」

 疲れた顔をしながら蘇芳がやって来ると、榊原は小さく手を掲げた。

 「お早う、委員長。今朝も生徒会のお仕事?」

 「そう、今期の健康週間について議論をしてきた。今年の風邪はしつこいらしいからな、しっかりとうがい手洗いを呼びかけないと」

 「ん、了解」

 「絵導も手洗いやうがいを忘れずにな」

 「馬鹿は風邪引かねえから大丈夫だろ」

 「…言ってろ」

 やはり寝ていない体では反論も思うようにいかなかった。

 「おっと、そろそろ朝のホームルームが始まるな。ではまた」

 蘇芳が自分の席に戻ると、赤縞と榊原は席に向かっていった。紫薇は重い体を起こし、授業の間に残っているセレスティンの書籍の翻訳をしようと辞書を手に取ったが、疲れのせいで資料の一枚を床に落としてしまった。紙はすっと床を滑り、一人の男子生徒の傍で止まった。

 紫薇は舌打ちをして席から立ち上がり、紙を取ろうと手を伸ばしたときだった。その男子生徒が紙に気付いたのか、紫薇が取り上げる前にその紙を掴み、その内容を目で流した。

 「フランス語?」

 「…俺のだ。…返してくれ」

 紫薇は緊張を隠しながらその男子生徒に声をかけると、流暢にフランス語でわかったよと喋ってみせた。

 「なんでフランス語を勉強してんの?」

 「勉強してる訳じゃない。ちょっとした調べものだ」

 紫薇はその生徒から紙を受け取ると、出来るだけ足取りに平静さを装って席に戻っていった。ふうと溜め息を吐いて辞書を広げ、受け取った紙を見てみるといつの間にか上の段に節木 有彦と名前が書いてあったのを見付けた。

 「…いつ書いたんだ?」

 紫薇は驚いてその生徒の背中を見ると、視線に気付いたのかその生徒は紫薇の顔を見てにやっと笑ってガッツポーズをした。紫薇は変な奴だと思い目を逸らしたが、何故かその笑みが頭の中から離れなかった。


 昼休みになって紫薇は弁当を広げながら翻訳に勤しんだ。すると今の今まで近付かなかった節木がやって来て紫薇の隣に席に座った。

 「なあ、俺のサイン見てくれた?」

 紫薇は顔を向けずに見たよといった。丁度、翻訳に集中し始めた頃だったので紫薇は手が離せなかった。

 「何だよ、もっと驚いた顔しろよな」

 「したさ。わあ、お前の手先の器用さには驚かされた。これで満足か?」

 「うわ…お前マジで嫌な奴だな…」

 「放っとけ、生まれ付きだ。それより翻訳に集中したいんだ。邪魔だからどっかに行ってろ」

 そういった途端、紫薇は心の中でしまったと呟いた。こんなことだから前に進めないのだと、頭でわかっていても体が勝手に口走ってしまうのだった。動揺するように流している目は止まり、紫薇は気まずそうに節木の方に顔を向けた。だがそこに節木の姿はなかった。紫薇は溜め息を吐いて視線をもとに戻し、気を取り直して翻訳に取りかかろうとしたその時だった。

 「みゃぎゃー!」

 いつの間にか節木が紫薇の前に立って翻訳していた紙をぐしゃぐしゃに丸めたのだ。実際には丸めようとしている手の動きだけだったが、急なことだったので紫薇の目にはそう映ってしまったのだった。

 「な…」

 「わはは、仕返しだぁい」

 「お前、何を考えて…」

 紫薇が顔を上げた時には節木は机の前から消えていた。いつの間にか隣に席に戻って椅子に凭れ掛かりながら紫薇を見ている。

 「…お前さ、何で頼まれてもないのに掃除なんかしたワケ?」

 その一言は場の空気を少しだけ変えた。

 「…何のことだ?」

 紫薇は何となくそれをわかっていながら敢えてとぼけた。今になって思えば、どうして自分が氷見村の手伝いを始めたかなんてわからなかったからだった。

 「体育館の床だよ。俺、バスケ部なんだけどさ…前に顧問の佐上が顔を真っ赤にして愚痴ってたんだ。くっそ下手なニスの塗りだって。後で聞いたらあれ、お前と氷見村先輩の仕業だったんだってな」

 紫薇は黙って節木の話の続きを聞いた。そしてその話の核を聞いて紫薇はぐっと胸の中を詰まらせた。                                                               

 「わかんねえんだよ…なんでお前が氷見村先輩の手伝いやって、皆の為に何かするってのが。お人好しで有名な先輩はわかるよ?でもお前はさ、そういう奴じゃないだろ。なんで?なんでお前、あんなことしたんだ?」

 締め付けられた胸が余計に重苦しい。紫薇は額に汗を垂らしながら必死に考えた。そしてやっとその回答を見付けると、ゆっくりと口を動かした。

 「…自分の中で、何かを変えたいと思った。ああ、お前の言った通りだよ。氷見村みたいなお人好しに、俺はなれない。でも…ああいう馬鹿に少しは憧れるんだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           口には出してはいないが、奴に手を貸したのもそれが理由なんだと思う」

 その言葉を口にすると、何人かの生徒は紫薇の顔を盗み見た。しかし中には何を今更と冷ややかな意見を口に出した生徒もいた。そんな中で節木は一人ちょっと違った顔をして紫薇を見詰めた。

 「お前さ、マジで嫌な奴から、ただの嫌な奴に変更な」

 にっこりと笑ったその節木の顔に紫薇は呆気に取られてしまった。だがその意味を理解すると苦笑いをしてみせた。

 「結局は嫌な奴なんだな」

 「そりゃあ、お前が悪いよ。口は悪いし、目付きだってうちの番長よりおっかないんだからさ。おまけにニスの塗り方もくっそ下手だったっけ」

 「…人の努力を何だと思ってる」

 「ゴミの上に油固めた奴がドヤ顔すんなよ」

 そういうと紫薇は思わず噴き出した。

 「お前、同じクラスなのに俺の名前すら知らないだろ。節木 有彦、その頭でっかちな脳みそによーく入れて置けよ」

 それから紫薇は翻訳のことなどすっかり忘れて節木の話に耳を傾けた。バスケ部に所属していて、期待のエースだと自分で口にした。がっちりとして背の高い体はその自身に満ち溢れていた。将来はレストランを経営する為に調理師の免許を取ろうとしていること。料理もシェフの父親から教わって既に基礎を積み、今では自分で弁当を作るのが趣味のようだった。

 いつの間にか紫薇は人と話すことの喜びを知った。まだ緊張こそすれ、紫薇は節木の話が面白くて仕方がなかった。話し方や表情の変化よりも節木の人格に惹かれていたのかもしれない。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。


 放課後、紫薇は図書室で翻訳に勤しんだ。気分が良かったからなのか翻訳のスピードはとても早く、二時間ほどでその半分を解いていった。しかしその内容がわかった所でセレスティンに対する手がかりは見当たらなかった。ただ翻訳を通して紫薇はセレスティンという人物が宗教を信仰しているにも関わらず、それを否定し始めていることを知った。それはタイトルを重ねるごとに強まり、最後の書籍になる「暗明」に至っては冒頭から神を冒涜した綴りから始まっていた。その綴りに狂気を感じた紫薇はとても翻訳を続ける気分にはなれず、本を閉じて翻訳を止めた。

 「…今日は帰るか」

 後片付けをして紫薇は図書室を抜けた。窓にはオレンジ色の空が描かれていた。

 紫薇は昇降口を通って外に出ると気晴らしに遠回りをして家に帰ることに決めた。ぐるりと普段の帰り道から向きを変えて銀杏並木の通りに向かった。町の小さな公園を抜け、陸橋を渡って道路に沿って歩いた先に石製の門がある。そこを通った先に目的の並木があった。銀杏の若葉は夕焼けに染まって紅葉に化けたようだった。

 並木の道は緩やかなカーブがかかってその途中にベンチがぽつんとあった。いつもなら散歩にきた老人や子連れがいるものだが、今日に限っては人の気配がせず、紫薇は気侭に道の真ん中を歩けた。

 ふと紫薇の足が止まった。ベンチまであと数歩のところで急に誰かの気配を感じたのだ。それも重い、生々しい殺気を帯びた視線を通じて。紫薇は辺りに誰もいないことを確認すると、その体を半獣人にさせて警戒を強めた。

 そのときだった。気配が背後に回ったの感じ、紫薇は体を反転させた。


 「遅い」


 聞き慣れた女の声が耳もとで囁いた。手を銃の形に真似て、人差し指を紫薇の目尻の傍に突き付けた。

 「ばーん」

 「…久し振りに顔を見せてやることは人殺しか?ジブラル」

 紫薇は溜め息を吐きながらも、どこか嬉しそうな顔をした。

 「なによ、相変わらず乗りが悪いわね。そういうところは変わってないんだから」

 くすくすと可愛らしい笑顔を見せたのはジブラルだった。その姿は変わっていなかったが、服装は新しいものになっていた。サンダルから襟の付いたブーツに暗色のタイツを履いてすらっとした足を見せ、エナメル質のパニエに薄地のジゴスリーブのブラウスを着ていた。


 紫薇は近くにあった自動販売機でジュースを買うとジブラルに手渡した。

 「ありがと。それにしてもこの辺りは妙に暑いわね」

 「この町は地形が変わっているせいで場所によって温度差が著しい。特にこの辺りは夜になっても熱いままだ。とても芝生で寝られやしない」

 「…野良猫の習性って凄いわね」

 「どういう意味だ?」首を傾げた。

 「何でもないわ。それより聞いたわよ、この所あちこちでどんぱちやってるみたいじゃない?中でも驚いたのはあのアシェラルに立ち向かったんですってね」

 「お陰でまた死にかけたがな…。どうしても奴に会って、ある人物の残留思念を蘇らせなきゃならなかった。結果としては上手くいったが、もう二度と奴に関わり合いたくはないな。正直、トラウマものだ」

 紫薇の持っていた缶が僅かに震えた。

 「そうした方が殊勝ね。でも紫薇、あなたって奇跡の人間よね。五人のゼルア級に会ってもまだ命があるんですもの。ちょっとした才能じゃない?」

 「喜ぶべきなのか?それは…」

 紫薇が苦い顔をするとジブラルは高らかに笑った。

 「不幸の星に産まれて来たって思うしかないわね。あー、可笑しい…」

 「そういえばお前は?今も暴れ回ってるのか?」

 「今はちょっとした所に厄介になってるから大人しいものよ。お人形さんみたいに座って仏頂面をかましてるわ。窮屈、って訳じゃないけど」

 そういって肩を竦めてみせた。

 「そうか、人殺し以外に取り柄のないお前が誰かの役に立ってそうで何よりだ」

 「その口の利き方、直す気もないわね」

 「まあ、これが平常だしな」

 「…そんなんで羽月を口説けるの?彼女、高嶺の花よ~?口の悪い男に引っかかるかどうか心配だわ」

 「…放っとけ」

 紫薇は顔を背けるとばつが悪そうな顔をした。

 「あら、その顔は上手くいってないのかしら?それともクレシェントに心変わりしたの?」

 「それはない、間違ってもな。どう転がったらあんなマネキン女に惚れられるんだ?逆にこっちが聞きたい位だ」

 そういうとジブラルは不思議そうな顔をしてそう?といった。

 「…何だ?」

 「普通だったら…ううん、何でもない。ねえ紫薇、私だったらどう?自分のものにしてみたくならない?あなただけの女に」

 「お前か…せめてもう少しお淑やかだったらな。人殺ししか趣味のない女はちょっとな…」

 「あのね…別に人殺しが趣味って訳じゃ…」

 「それに…」

 「それに?」

 「今はあの人しか見れないよ」

 紫薇は自分の正直な気持ちを述べた。確かにクレシェントやジブラルは遠い目で見れば絶世なのだろう。しかし今の紫薇には羽月以外の女性は霞んで見えてしまうのだった。するとジブラルは紫薇の鼻を軽い力で指で弾いた。

 「生意気」

 「…それはどうも」弾かれた鼻を擦った。

 「あーあ、本当はもっと弄ってやるつもりだったんだけどなあ…。そんな真っ直ぐな気持ちを伝えられたら、意地悪できないじゃない。頑張んなさいよ、応援してあげてるんだから」

 ジブラルはベンチから立ち上がって空に向かって叫び、紫薇に顔を向けた。

 「失敗したらお前に転がるかもな」

 「そのときは突き飛ばしてあげるわ」

 「…何でだ?」

 「女の気持ち、考えなさい。その辺りはまだまだね」

 「人それぞれじゃないのか?」

 「意外と女の意見ってね、割と偏るもんなのよ。繊細なのは女より男だしね」

 「…そういうもんかね」

 紫薇は首を捻りながらいった。

 「そろそろ日が暮れるわ。良い子も悪い子もお家に帰りなさい」

 「寄っていかないのか?ベッドが足りないから…そうだな、クレシェントと同じ寝床なら歓迎するが」

 「部屋が真っ赤になっても良いならね」

 冗談めいて紫薇はいったつもりだったが、ジブラルは冷ややかに答えてみせた。紫薇は残っていた缶の緑茶を飲み干してベンチの傍にあったごみ箱に捨てると、意を決した様に膝を立てた。

 「…ジブラル、まだあいつと殺し合うつもりか?」

 「…そうよ。だって私、クレシェントが妬ましいんですもの」

 その回答は一時の間の後に口に出された。

 「俺にはお前を切れない。だがお前も俺を殺せない筈だ。違うか?」

 その言葉の後にジブラルは顔を歪めながら紫薇の首根っこを握り締めた。左手で、醜い右腕は姿を現わさずにぐっと手を握り締めながら震えている。

 「ふざけんじゃないわよ…私は…」

 ジブラルがその続きをいいかけたときだった。ぐっと苦しいのを我慢しながらしっかりとジブラルの目を見詰める紫薇の瞳に、自分の酷く歪んだ姿を映してしまった。まるで他人を見ている筈なのに、鏡に映った自分を見ているような気がしたジブラルは、口にしようとしていた言葉を喉まで持って来たが、その言葉を飲み下すと紫薇の首を掴んでいた手を振り払った。

 「ジブラル、お前…」

 紫薇はその一瞬の中で何かジブラルの苦悩を垣間見た気がした。それはあたかも背の高い影法師を必死になって追いかける少女の姿のようだった。

 「紫薇、一つだけ忠告してあげるわ。死にたくなければもうナーガに来ないことね。これから先、協会と、とある組織がその旗を掲げて争うことになるわ。その組織の名は虹拱結社、私が席を置いている場所よ。あなたが協会と面を合わせているのは知ってるわ。でも私の邪魔をすれば…あなただって死ぬことになるわよ」

 ジブラルの目にはかつて外敵に向けられていたであろう殺気が込められていた。凡そ紫薇がジブラルから感じたことのない意識が流れ込み、紫薇は思わず腰を抜かしそうになってしまった。しかし同時にやはり彼女の目の中に何かいい様のない苦悶を紫薇は感じ取っていた。


 紫薇が落ち着いたのはジブラルが去ってから大分経った後だった。空が星で満たされた頃、紫薇はやっと足を動かし始めた。ポケットに手を突っ込みながら視線は俯きがちで、紫薇は今日は気分が良かったり落ち込んだりと忙しい一日だなあと思いながら家に帰った。

 「お帰りなさい」

 玄関で羽月が紫薇を出迎えたが、紫薇はいつもより小さな声でただいまといった。

 「…何かあったんですか?」

 羽月はすぐにその異変に気が付いて心配そうな顔をしたが、紫薇は努めて素顔に戻しながら特に何もといった。

 「ただ…少し疲れました」

 「お風呂、沸いてますからゆっくり入って下さい」

 寂しそうな笑顔を見せた紫薇に、羽月は出来るだけ優しい口調でいった。紫薇はその気遣いを感じ取ったのか、どうもといってゆっくりと湯船に浸かり、一日の垢を落として静かな寝息を立てて眠りに着いていった。



 「お帰りなさい」

 ジブラルは不機嫌を引き連れて自分の寝床に戻ってきた。出迎えた人間の言葉などにまるで耳を傾けず、黙ったまま門を閉めてベッドに寝そべった。動物園の檻と同じ位の大きさの鳥かごが彼女に用意された寝床だった。格子に花があしらわれているがその外観は正にジブラルを封じるものだった。

 そんな彼女を見送ったのは中性的な顔をした人間だった。不完全な人の手で作られた完全性と違い、その人物は自然にその姿と化した魔性を帯びていた。その人物は椅子に腰かけながら手もとにあったカップを優雅に啜った。

 鳥かごがあった場所はその殆どが黄金に塗られた部屋で、部屋の中には惑星儀に似たオブジェや天井から釣り下がった風鈴のようなアンティークが所狭しと並べられていた。その部屋は科学館に似た博物館のようでもあり、また美意識を兼ねた美術館のようでもあった。

 常人にはやや理解のされ難い部屋の中で、その人物と共に丸いガラスのテーブルを囲んでいたのは巨大な人影だった。彼に用意されたカップはとても矮小で、その人影はそのカップを飲むべきか飲まぬべきか腕を組んで悩んでいた。

 「飲まないんですか?お茶は飲む量よりもいかに味わうかが肝なんですよ」

 「俺は茶よりたらふく酒を飲みたいんだが…」

 ぽりぽりと頬を掻きながらいった。

 「お酒もおんなじですよ。でもお望みであれば好きなだけ用意させましょう。第四械節に就任して頂いたのですから、そのお礼をしなくてはいけませからね」

 「負け犬の俺で良いなら構わんが、後悔すんなよ?」

 「かの『巨剛族アンセクル』の方にそんなご無礼は出来ません。頼りにしていますよ、ネロカロドゥス・ガスペリ」

 「あんたにそう言われちゃ気張らない訳にゃいかねえな。ま、デカい形だが一つ宜しく頼むわ、ゾラメス。で、さっきの嬢ちゃんが噂のゼルア級か…。ありゃ確かに化けもんだな。うちの門番よりもずっとやべえ」

 「初見でもわかりますか」

 「情けない話だが一目でブルっちまった。さっさとケツ捲ってお暇したい位だぜ。ゾラメスよ、本当に大丈夫なんだろうな?嬢ちゃんの力は、あんたよりも上らしいじゃねえか。あんな豆粒みたいな檻で良いのか?」

 ジブラルよりも遥かに大きな体を持っていたが、その顔は雲ってしまっていた。耳打ちするようにその巨大な顔をゾラメスに近付けた。

 「それどころか我々が束になっても勝てないでしょうね」

 あははとゾラメスは笑ったがネロカロドゥスの顔は引きつっていた。

 「でも単純に力だけを緩めることなら出来るんですよ。彼女は未だ、子供ですからね。あの鳥かごは見た目以上に磐石ですよ。特に、心を縛るにはね」

 そういうとゾラメスが持っていたカップの水面に波紋が浮かび上がった。

 「それに月の力を引き出すには彼女の力は必要不可欠ですから…。我々にたくさんの贈り物を送ってくれたキジュベドには感謝をしないといけませんね」

 そういってゾラメスはテーブルの上に並べられた白い鍵を見詰めた。その隣には有り触れた形の箱があり、『同じ姿の隣人より愛を込めて』と書かれた小さな台紙が添えられていた。

 「(しかし彼女の心は未だ染まり切っていない…。話に聞いた異世界の少年がその引き金だとしたらどうする?炎獄の魔皇帝がいては迂闊に手は出せないが…)」

 視線を鳥かごに向けながらゾラメスは思った。

 「さて、どうしますか…」

 溜め息混じりにそう呟くと、テーブルの傍にあったソファーに体を丸めて眠っている一匹の狼が静かに目を覚ました。赤い目がぎょろりと動いた後に、その狼はソファーから降りて二足歩行を始めた。そしてテーブルの上にあった白い鍵を手に取ると、自分を見詰めているゾラメスに顔を向け、二人の視線が交じり合うとゾラメスは意味ありげに笑ってみせた。


 その日ジブラルは夢を見た。鳥かごの中、一人では広過ぎるベッドに顔を埋めながら、場面は青い雪景色へと移り変わっていった。それは身も凍えるような冷たい夢、ジブラルの遠い昔の記憶だった。

 積った雪の上にジブラルは唇を紫色に染めて座り込んでいた。雪上に似合わない真っ赤な血が彼女の周りに広がり、その傍には胴体が体から別れてしまった人間の姿が幾つもあった。その中にジブラルと同じ青い髪の毛をした中年の男もいた。身なりはとても厳かで、その手に握ったナイフがなければ誰もが敬意を払ってしまうような人物だった。ジブラルの右腕は象のように皮膚が厚く、また指の一本一本が腕の太さほどあった。ジブラルはその指から血を滴らせ、また目の先で崩れてしまっている塔を呆けて眺めてしまっていた。何が起こったのか、幼いジブラルにもわかっていないようだった。


 「どうしてあの子に妖精のかけらがあるんだ!」

 ジブラルはカーテン越しに自分の父親の叫び声を耳にした。初めて聞いた父親の怒り狂った声は、ジブラルをどうしようもなく不安にさせた。

 「あれはあってはならないものなんだ…。不幸を呼び寄せる…私たちじゃあんなものを扱い切れない…。どうしてフォレスミュアが…」

 「あの子のせいじゃないわ…。きっと運が悪かったのよ…きっとそうよ…」

 そういいながらも母親の声は恐怖で裏返ってしまっていた。

 「殺すしかない…」

 その言葉が出た瞬間、ジブラルの体は凍り付いた。指先はかじかみ、じわりと目に涙が浮かび上がった。そしてジブラルは声を我慢しながら死ぬ物狂いで右手の甲に埋まっている妖精のかけらを掻き毟った。

 「いや、駄目だ…。僕は何を考えているんだ…。実の娘を手にかけるなんてこと出来ない!僕には出来ない…!」

 仕切りに首を横に振り、手の平で焦る顔を隠したが動揺までは覆えなかった。ジブラルはそんな父親の影を見ながら掻き毟る手を止められなかった。そうして爪に手の肉がこびり付いた頃、母親がぽつりとその場を凍らせる一言を呟いた。

 「…そうよ、殺せないなら手を切り落とせば良いじゃない」

 カーテン越しでも母親の歪んだ笑みは手に取るようにわかった。ジブラルは思わず手を止めてその場に立ち尽くしてしまった。しかしその意見が妥当だと思い知らされると、父親はわかったと乾いた声で笑った。

 「そうだね、フォレスミュアだって話せばきっとわかってくれるさ。あの子は頭が良いし、何より大人の言い分を理解してくれる出来た子なんだ。さあ、フォレスミュアを一緒に探そうか。おいでフォレスミュア、どこにいるんだい?」

 「おいでフォレスミュア、お母さんと一緒にお話をしましょう」

 二人の声がまるで死を誘う呪文のようにジブラルは聞こえた。ジブラルは過呼吸になりながらそれこそ必死に部屋から出ていった。一心不乱に廊下を駆け巡り、奥歯をがたがた震わせながらジブラルは逃げた。その途中で通り過ぎた女中や執事の顔は真っ白な肌をしたのっぺらぼうのように見えた。誰も彼もがまともじゃない。ジブラルは右手に残った妖精のかけらを怨みながら塔の外に出た。そこから懸命に走ったが、幼いジブラルの体ではすぐに体力が尽きて転んでしまった。

 「フォレスミュア、見付けたよ」

 顔のない父親がいつの間にか後ろに立っていた。その周りには同じ顔をした憲兵が立っていて、ジブラルの体を次々と抑え付けた。嫌だ嫌だと泣き叫んでも、その姿は誰の目にも映らなかった。顔がないから当たり前だ。父親の手にはナイフが握られ、刃先がジブラルの手首に触れた瞬間、ジブラルは生まれて初めて父親のいうことを聞かなかった。右腕が、まるで自分のものではないような感覚がした。

 その一振りはあらゆるものを断ち切った。塔の中にいた命、その周りを取り囲んでいた山脈、ジブラルが手を振ったらいつも笑顔で手を振り返してくれた憲兵、優しい父親、そして他人の絆を妖精のかけらは余す所なく引き千切った。

 右腕が元に戻るとジブラルは手の甲を見詰めた。掻き毟った痕がなくなっている。しかし手の平にはべっとりと人の血が着いていた。涙が出なかった代わりに、ジブラルは何度か頷いて雪を手に取ると自分の胸に押し付けた。そして表情をそのままにして惨劇を後にした。ジブラルは自分の心臓を雪で凍らせたのだ。過ちを理解できない様に、その感傷から逃れる為に。少女が咄嗟に思い付いたことだった。


 「…冷たい」

 夢の中でジブラルは自分の体が凍えるような寒さを体感していた。ジブラルの唇は紫色に染まり、体を震わせながら仕切りに蹲っている。その時だった。ふとジブラルの脳裏に銀色の髪の毛を靡かせた女性が現れた。するとジブラルは眠りながら歯軋りを始め、体に熱が加わると唇はもとのピンク色に戻っていった。クレシェントに対する怒りが彼女の生きる糧となってしまっていた。曇った熱は体を火照らせ、ジブラルは再び意識を深く落としていった。

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