38話 伸びた〆の飯

 紫薇の耳の奥に誰かの叫び声が響いた。それはアルトやソプラノのような声質であったり、野太い男の声でもあった。念仏にもオペラにも似た声が絶えず鼓膜を刺激する。鈍い痛みが体に走ると、紫薇は薄っすらと瞼を開けた。

 「なにが…起こってる…」

 目を開けてわかったのは、自分の体が丘を砕いて地面に減り込んでいることだったが、そんなことよりも視界に映っている異形な光景に目を奪われてしまっていた。満身創痍の体でも現実は夢ではないと感じられる。

 「気が付いたか」

 いつの間にか紫薇の傍にはランドリアが立っていた。覚醒した紫薇を見詰めるその目はとても怪我人に対するものではなかった。半ば睨みに近かった。

 「…お前が、何故ここに…うっ…!」

 そういいかけた途端、紫薇の体は悲鳴を上げた。見れば腕や足があらぬ方向に曲がり、脇腹が破けて大量に出血していた。

 「その傷でくたばらないとは貴様もいよいよもってあの魔姫に近付いてきたな…。薬を体に突っ込んでやったが、無理に動けば死ぬぞ。痛みに気付かないままな」

 「薬か…道理でこの傷で痛みが少ない訳だ…」

 紫薇は小さく吐血して腹を汚した。

 「それよりもこの光景はなんだ?デカダンスにしちゃ前衛的だが…」

 「主とアシェラルが戦っている。お互いその力を出し切ってな…。この光景は二人の超越力に世界を形作っている因子が追い付かなくなった為だ。特にこの世界に限ってはその影響を受け易い。本来、この世界はあるべきものではないからな」

 「…お前も、アシェラルと同じで何か秘密を握っているみたいだな…」

 「そこまで詳しいことは知らん。だが…私の母が少なくを語ってくれた」

 そういうとランドリアはほんの少しだけ目を細めて地平線に目を向けた。

 「絵導紫薇、出来るだけ意識を張り詰めろ。でなければ二人の気に当てられ、貴様の魂がその肉体から離れることになる。…動くぞ」

 ランドリアの見詰めた先、天と地の狭間には二体の人影が浮かんでいた。一人はとても小さめで百九十センチほど、もう一体は七十メートルといったところだろうか。生後二、三ヶ月ほどの赤ん坊のような体をしていたがその体は奇妙でどこか神聖味を帯びていた。

 六つに伸びた足にふっくらとした胴体、へその代わりに人間の歯が揃って下半身と上半身が離れていた。腕は左右に二本ずつ、その姿は後ろから見ても前から見ても腕が二本あるようで、まるで二人の赤ん坊をくっ付けたようだった。真っ黒な翼も羽根が斜めに生えている。赤ん坊に顔はなかった。表情を隠しているのか前と後ろに白い仮面を着け、前の仮面は黒い翼を持った首のない裸体の女性が立ち、後部の仮面は太陽があってその中心に目が縦に描かれて人の腕が四つ伸びていた。

 先に動き出したのはデラだった。その体に赤い光を点すと徐々に体の大きさを縮小させ、やがて小さな人魂になると宙で対角線を描きながらアシェラルに向かっていった。細い軌跡を残しながらデラの体がアシェラルを貫いた。

 赤ん坊の体に丸い穴が空いた。しかしその穴はデラがアシェラルの体を貫こうとした直前に独りでに体が皮膚を開いたものだった。デラはその現象を見送ると、行動を止めてもとの体に戻すとアシェラルに手を掲げた。するとアシェラルの真下に陣が現れ、紫色の光を発しながら上空にその光を打ち上げた。暗い光に紛れて靄のようなものがアシェラルの体を覆った。その靄は人が苦しみ悶えた顔に似ていて電子音に近い女性の悲鳴を発した。

 アシェラルの体は暗い光に飲み込まれながらも、その陣の中から腕を二本出すと両手を合わせてデラを手の平の中に閉じ込めた。するとその両手は粘土のように混ざり合い、中にいたデラをもみくちゃにするように蠕動し、アシェラルを包んでいた光は消滅していった。

 くちゃくちゃと音を出す中、急にアシェラルの手が膨張を始めると、一気に弾け飛んだ。右腕から黒い血液、左腕から白い血液が飛び散る中に自然な色の血で出来た肉の塊があった。その肉の塊は役目が終わると二つに割れ、萎みながらデラの手の平に吸収されていった。その肉は毒を持っていたのか、砕いたアシェラルの腕をそのままの状態にさせた。

 赤ん坊はその痛みに体を震わせたが、その姿は喜んでいるようにも見えた。先のない両腕を空に掲げ、表情の読めない顔で眺めている。その行為は呪われた儀式のようで、地面に滴り落ちた灰色の血がふつふつと沸き立った。気泡となった血は黒い風船と白い風船となって宙に浮かび始め、辺りをコントラストに染めた。

 初めて赤ん坊の笑い声がその場に響いた。それと同時に浮かんでいた風船は中心から一斉に弾け、風船が弾けた後に不気味な光を残して広がっていった。不気味な光の正体は空間が裂け、その中に隠れていたのは宇宙の背景だった。その一般的な宇宙とそれは異なっているのか、宇宙の表面が現れてもその裂けた穴に吸い込まれるような現象は起こらなかった。しかしその避けた光景に次々と過ぎったのは無数の人間の姿だった。小さく、虫のようにわらわらと一つの塊なって裸の群集が過ぎていった。

 その群集を突き破ってアシェラルに飛びかかるデラの姿があった。蝙蝠に似た背中の翼が破れても飛べるのか、宙を滑空している。そんなデラの姿を見付けると、アシェラルは体を反転させて残った手に一本の槍を握った。その槍は黄金に輝いていたが、材質はりんごの木で出来ているようだった。

 徐にアシェラルは握っていた手を離した。すると槍は地面に落ちずに勝手気侭にデラを目指して飛んでいった。デラはその槍を目にすると空中で立ち止まり、その槍をタイミング良く手で受け止めた。だがその槍はデラの体を押し退ける程の凄まじい力を持っていた。徐々にデラの体は押し負け、ずるずると後退してしまう。

 デラの妖精のかけらが今以上に輝いた。するとデラの背中に赤い後光が現れ、円を描いてデラの体を押し出していった。デラは黄金の槍を掴んだまま離さず、その先端をアシェラルに突き出した。

 再び赤ん坊の声がすると、デラの前に薄く巨大な目が立ち塞がった。真ん中が黒く、そこから七色の輪が幾層も広がっている。目はアシェラルの傍にあり、彼自身を守っているようだった。デラはその目を粉砕しようと更に加速してみせるが、七色の目は槍の先端を通さない。二人の力は極限まで拮抗し、その間に反発力が溜まっていった。やがてその反発し合う力は限界を迎え、音のない爆発が宙で眩んだ。

 それからの光景を紫薇は見続けることは出来なかった。それが薬のせいなのか、魂を二人の気にあてられてしまったのかはわからないが、紫薇の限界は訪れて意識を失ってしまった。ただ眠りに落ちる中、紫薇は自分の身の周りに起こり始めた怪異は何故か自分とは無関係ではないような気がした。しかし同時にまるで自分が得体の知れない何かになってしまうようで、酷く身震いしたのを紫薇はおぼろげに感じた。

 

 ナーガが灰色に染まっている中、幾つかの目が宙で起きた閃光を眺めていた。一つはこの世界の司法を支配している場所から、もう一つは爆心地からさほど離れていない場所から、そして真っ白なピアノがある場所から。そのピアノを弾いている男は何かを思うように手を止め、じっと鍵盤を見詰めると体を起して明後日の方向を向いた。その男の目は黄金色に静かに光ると、口許を緩ませて空を仰いだ。

 空を見上げる視線は他にも幾つかあって、その中には醜い右腕を持った青い髪をした女の姿もあれば、どこか遠い別の場所からのものもあった。

 小高い山の上から容姿が限りなく女に近い男がアシェラルとデラの戦いの行く末を眺めていた。しかしその顔は苦痛に歪み、手の平から血が滲むまで指に力を入れている。そして震えた声を口許から零した。

 「…畜生」

 それはその男、キジュベドが今の段階では決して届かない人外の領域を妬む表れだった。その証拠にキジュベドの体は包帯だらけで、あちこちに治りかけの生傷が浮かんでいた。



 「起きたかい?」

 クレシェントが目を覚まして体を起こすと、そこにはデラが立っていた。

 「…ここは?」

 辺りを見回しても自分の知っている風景ではなかった。黒い壁に床はモノトーンのタイルが広がり、ふかふかのベッドは真っ白だった。

 「私の家だよ、ついこの間に改築したんだ。もとは城だったんだけどね」

 そういいながらデラはベッドの傍にあった椅子に腰かけた。

 「じゃあ、もしかしてここって…」

 「以前は孵夜城なんて呼ばれていた場所だよ。あれから壁や天井が穴ぼこだらけになってしまったし、椅子のない所じゃ落ち着いて話も出来ないからね」

 そういってデラは苦笑いした。

 「紫薇とプランジェ…!あの子たちは無事なんですか?」

 「ああ、二人とも隣の部屋で寝ているよ。怪我も殆ど治って今は静かに眠っている。安心しなさい」

 「そう…ですか…」

 クレシェントはほっと溜め息を吐いた後に視線を下げてデラに謝った。

 「ご免なさい、貴方に迷惑をかけてしまって…」

 「…また随分と無茶をしたね。まさか君たちだけでゼルア級に戦いを挑むなんて思いもよらなかったよ…。聞けば、彼女に唆されたそうだね?」

 クレシェントは黙ったままこくりと頷いた。

 「あの子も酷いことを押し付ける…。しかしクレシェント、何故私なりウェルディなりに相談をしてくれなかった?今回の件は、私にも責任があるというのに…。相手が悪過ぎだ、特にあのアシェラルではね」

 「ご免なさい、でも貴方にも迷惑をかけたくなかったから…。最悪、魔姫になれば逃げられるとは思ったのだけれど…。あんなにも恐ろしい人だとは思わなかった…。紫薇やプランジェが…死んじゃうかと思った…」

 体を震わせながらクレシェントは目尻から涙を流した。魔姫でも敵わなかった相手からの恐怖よりも、紫薇やプランジェが死んでしまうことの方がよっぽど恐ろしかった。クレシェントは嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。

 デラは手をクレシェントの肩に添えて抱き寄せようとしたがそれを途中で止め、手をクレシェントの頭に置いて髪の毛を何度も擦った。頭を撫でながらデラは改めて自分のしでかしたことを後悔するように歯を食い縛った。


 意識の低い場所、眠りの中で紫薇は誰かの呼び声が聞こえた。それは懐かしい、もう手の届かない声の主だった。

 「…権兵衛か?」

 姿はそこにない、しかし紫薇は背後に彼女を感じ取っていた。

 「紫薇、気を付けて…。君の敵が目覚めてしまった…。もう、ここからは…」

 紫薇は後ろを振り向いたが、そこには白い花吹雪の残り香が散っているだけだった。手の平に最後の花びらが乗ると花びらは砂のように砕けていった。

 「敵…?誰なんだ、権兵衛…」

 瞼を開けて紫薇は今はもういない彼女に語りかけた。

 「…どこだここは?」

 がばっと起き上がり、辺りを見回しても誰もいなかった。見知らぬ天井、見知らぬ床、見知らぬベッドを一通り確認してもここがどこだかわからなかった。

 「起きたか」

 いつの間にかランドリアが部屋の扉を開けてやってきた。傍にはプランジェもいて手には石で出来た器を持っている。器からは湯気が出ていた。

 「腹は減っているか、紫薇?薬膳を入れたスープを作ったのだが…」

 「減ってるには減ってるが…どこだここは?」

 「聞いて驚くなよ、デラの居城だ。そう、我々が戦ったあの城だ」

 プランジェは一頻り驚いた後だったのか、半ば呆れた顔をしていた。 

 「随分と変わったな…」

 「全くだ」

 部屋にあった机には植木鉢まで置かれていた。照明も凝った作りで壁にはっ付けてある逆三角形のライトや棒状のスタンドも作り手のセンスを感じた。

 「主がデザインした。その殆どが手作りだ、手間はかかっている」

 「その植木鉢もか?」

 「それは主の趣味だ」

 「奴はガーデニングが趣味らしい」

 「…………………」

 また人間味のあるゼルア級もいたものだと紫薇は思った。

 「因みにランドリアの奴は絵画が趣味らしい。見せて貰ったが中々の腕前だ」

 「…そうか」

 紫薇は汗を垂らしながらスープを啜った。スープはどくだみのような苦さだったが、紫薇の口には合った。

 「それでランドリア、お前は俺に何の用だ?何か言いたいことがあるからわざわざ俺の前に現れたんだろう?」

 スープを飲み終わった後に紫薇がそういうと、ランドリアは黙って鞘を紫薇の手元に放り投げ、背中を向けた。そして去り際に、

 「貴様にくれてやったものだが、粗末に扱うのなら切って捨てるぞ。偶には刃を砥げ、愚か者が」

 紫薇を一睨みして部屋のドアを乱暴に閉めていった。

 紫薇は試しに剣を鞘から少しだけ抜いてみると、刃は今迄よりも強い輝きに満ちていた。刀身に映った自分の顔が何だか眩しいと紫薇は思った。

 「…プランジェ、後で刃物の砥ぎ方を教えてくれ。刃毀れでもしてたら奴に尻を蹴飛ばされそうだ」

 「うむ、良いだろう。不遜な物言いだがその剣、よほど大事な物だったのだろうな。古いが素材は極上のものだ。名のある鍛冶師が作ったに違いない。…それとも鈍らの方が良かったか?」

 プランジェは笑いながらいった。

 「…寧ろそっちの方が気楽で良いかもな」

 紫薇は剣を鞘に仕舞って丁寧に傍に置いた。

 「それにしてもあのゼルア級を相手にして良くも生き残れたもんだ。クレシェントはどうしてる?まだ眠っているのか?」

 「いや、もう起きてデラと話をしている。紫薇が起きたら連れて来て欲しいと言っていた。何やらデラが話があるそうなのだ」

 「話ね…嫌な内容じゃなきゃ良いが…」

 紫薇は布団を退かすと、靴を履いてプランジェと一緒に部屋を出た。デラが待っている場所まで歩いている途中、紫薇はすっかり模様変えした廊下に驚いた。まるでどこぞの博物館のような廊下の作りで、床の中にライトが敷かれていた。壁にはランドリアの描いた絵が一定区間で飾られ、その間にはデラが育てたであろう花が壷や植木鉢に入って置かれていた。

 「やあ、お目覚めかな?」

 廊下を抜けた先は天井のないリビングが広がっていた。くつろげるソファーや背の低いダイニングテーブル、端にはキッチンがあった。料理の途中だったのか、鍋やまな板の上には具材が転がり、プランジェはキッチンに戻ると料理を再開し始めた。隣にはいつか見たライプスの姿があって、プランジェに料理を教わっているようだった。デラが座っていたソファーの傍には暖炉があり、ランドリアがその中に枯れ木をくべていた。テーブルには酒の入ったグラスやつまみが並び、クレシェントは既に出来上がって顔を真っ赤にさせながら紫薇を手招きしていた。

 「あ、紫薇だ~。こっちおいでよ、美味しいもんいっぱいあるよ~」

 「これは…どういうことだ?」

 紫薇はその光景をちょっと理解できなかった。

 「あ、いや…私はどうも改まって話をするのが苦手でね。食事をしながらでもと思って彼女に食前酒を勧めたんだが…。どうも下戸だったらしい…」

 「まあまあ、座りんしゃい。そんな恐い顔してないで」

 紫薇は思いっきり嫌な顔をしながらソファーに座った。

 「お酒飲む~?あ、紫薇は未成年だから駄目かー、あははのはー」

 「デラ、悪いんだがこいつを眠らせてくれ。今日は構わないから思いっきり強い概念をぶつけてやってくれ、頼む」

 「い、いや…流石にそれは…」

 「そうやって冷たくしちゃってさー、格好良いと思ってる訳?今どきニヒルな男なんてモテないよ?」

 ぺちぺちと頬を引っぱたきながらいった。

 「話をするような感じじゃあないんだが…」

 「(あ、怒ってる)」

 プランジェは紫薇を見てそう思った。

 「ごろーん、男の人の膝枕ー。あ、太もも固ぇー」

 紫薇がテーブルに置いてあったナイフに目をやると、デラは慌てて止めに入った。

 「お、おつまみでも食べて機嫌を直してくれ…」

 デラが必死に食べ物を勧めても紫薇は口にしようとせずに仕切りに怒りを我慢した。それもその筈、クレシェントは酔っ払ったまま紫薇の膝の上でいびきをかいて眠りこけていたからだった。

 「むにゃむにゃ…お腹いっぱーい…」

 「(いっそ死ぬまで食ってろ)まあ、大人しくなったからまだマシか。それで?話ってのは何だ?悪い話なら遠慮したいが」

 塩漬け肉のスライスを一つ摘んで口に咥えると、デラは生ハムに似た薄い肉とハーブが重なった一口サイズのトーストを紫薇に勧めた。

 「悪い話じゃないさ。クレシェントから聞いたんだが、何でもアシェラルに近付いたのはグリアデス王家の魂を蘇らせることだったみたいだね」

 「…今回は冗談を抜きに危なかった。あんたが来てくれなきゃどうなってたか…礼を、言うべきなんだろうな」

 「いや、その必要はないよ。私も償いをしなければならないと思っていたんだ…。彼女と同じようにね」

 すやすやと眠っているクレシェントを一瞥するとデラは神妙な顔をした。

 「あの後、アシェラルはどうなったんだ?辺りが歪んで見えたが」

 「お互い力を出し切って切りの良い所で止めたよ。後は少しばかり世間話をして、君たちを家に連れて来たのさ。そうそう、アシェラルからの贈り物だよ」

 デラは小箱を取り出すとテーブルの上に置いた。一見すると結婚指輪が入っていそうな小さな箱を紫薇は手に取って蓋を開けた。中には黒い真珠に似た球状の石があって、それを下から支えるように金色のリングが見えた。

 「随分と洒落たものを…」

 そういいかけた途端、黒真珠の中に人の顔が浮かび上がった。紫薇は慌ててふたを閉め、小箱をテーブルに戻した。

 「その真珠の中にグリアデス王朝最後の王女の残留思念が封じられている。後はそれを溶かしてお望み通りに仕立て上げれば良いという訳だ」

 「…何故、真珠なんだ?」

 紫薇は暫し蓋を閉じた手を離さなかった。紫薇はどうしても真珠という言葉をデラが知っているのかが気になって仕方がなかったのだ。デラは紫薇の考えを感じ取ったのか、酒の入ったグラスを口許に傾けた。

 「その言葉は、どうして私が真珠という言葉を口にしたか?と捉えて良いのかな?勿論、君の思っている通り、この世界に真珠というものは存在しない。しかし私はかつてアシェラルに魂の扱い方を習ったんだ。そう、アシェラルはもとを正せばナーガで産まれた訳ではない。彼は幾多の世界を渡り歩いてやって来た、言わば放浪者だったのさ」

 「だが異なる世界を行き来するには妖精のかけらが必要じゃないのか?奴も妖精のかけらを?」

 「彼は姉妹の許可を受けている。それはアシェラルが『理の存在ヴィス・エファース・リブルス』と言われる立場にいるからだ。死したものの生末を管理する黒い白鳥、それこそが放浪者の手形なのさ。私もね、その証を一部借りている。呑魂族なんて言われているが、実際は魂を吸い取ることなんて出来やしない。我々が扱うのは精々生き物のエナジィに過ぎない。そこにアシェラルの手助けがあって初めて昇華できる」

 デラの右腕には濃厚な墨で描かれた黒い白鳥が頭の部分だけ描かれていた。

 「理の存在、ね…。また訳のわからん奴らが浮かび上がって来たな。そいつ等は勝手気儘に世界を行き来できると…。前にお前たちが使っていたソフィの合い鍵とは何だ?レミアの鍵とどう違う?」

 「ソフィの合い鍵はレミアの鍵を真似て作られたものらしい。しかし完全にその能力をコピーすることは出来なかった。やはり世界に律せられた理というものがあるからね。ある一定の時間を過ぎてしまえば、ソフィの手がもとの世界に引き摺り戻してしまうようだ」

 「そういえば初めてランドリアに会ったとき…誰かに無理矢理に戻されていたな」

 ランドリアの体が無数の白い手に引き込まれていたのを思い出した。

 「お前とアシェラルの関係は何だ?知り合いにも見えなくはなかったが…」

 「昔…まだ私が若かった頃、無謀にもゼルア級に戦いを挑んだんだ。そのときにぼろ負けしてしまってね、そこから一時的に教えを頂いたのさ」

 「…お前にも突っ張っていた時期があったとはな」

 「ウェルディとよく暴れ回っていたよ。いや、恥ずかしい話だがね」

 紫薇はその時の光景を想像して思わず背筋を震わせた。

 「…デラ、そもそもゼルア級とは何なんだ?アシェラルにしろあんたにしろ、こいつが俺の常識を壊してきたことよりも遥かに…異様だ。まるであんた達が神か妖精にでも見えてきてならない」

 紫薇は今までに起きた自分の理解を越える異常事態を思い返し、打ちひしがれるようにソファーに持たれかかった。

 「協会の言葉を借りるならば、この世界を滅ぼす可能性を持った存在、またはその因子…。だが私個人の意見からすれば、力を持て余してしまった哀れな存在なのさ」

 「どういうことだ?」

 「…そもそもゼルア級という格付けの始まりはナーガで起こったある戦争のせいなんだ。一人の少女と、この世界の全てをかけた小さくも巨大な争い。後にこれは十剣戦争と呼ばれ、多大な被害を被った。戦局はジリ貧になりながらも辛うじて食らい付いていたらしい。そしてアニュエラ・レギスチオン率いる九人によって決戦を迎え、その半分の命を削ってやっと追い詰めることが出来たらしい。だが追い込まれたその少女、アステルは残っていた力を解放し、自らが『大いなる無生物の母のレヴェンチェ・ビヴァーナ』を有する異界の存在だと口にしたそうだ。彼女との邂逅、そのときから異界の来訪者は続々とやって来るようになった。話は戻るが…戦局は一変した。追い詰めていた筈の英雄たちは膝を落とし、各々の武器を折られていった」

 デラは再びグラスを傾け、一気にその中身を飲み干した。

 「そこに現れたのが、後に我々の階級を決定付けた男だった。『永劫の原罪人』ゼルア・ベルヴォルトウォーゼ…。奴は滅びに近付いていた戦局をひっくり返し、たった一人でその少女を追い払っていった」

 「何故…その男が悪名を背負わせられる?普通なら英雄と称されるだろう」

 「戦い方が悪かったんだよ。奴は彼女を貪るように襲いかかり、まるで自分の血肉にしようとしていた。辺りに被害を出しながら、ゼルアはその場所にいた英雄もろとも犠牲にした。全てが終わった後には英雄たちの遺体だけが残っていたそうだ」

 長い話を終えてデラは一息吐くようにボトルに入った酒をグラスに注いだ。とろみのある黄金の液体がグラスの中で揺れた。

 「十人いた英雄のうち、生き残ったのはたった二人だけ。中にはその高貴な血脈を失ってしまった者もいたそうだ」

 「その女とゼルアはどこに?」

 「生き残った者の話によれば、ゼルアがアステルを追い詰めた際に、また別の者が現れてその進撃を阻止したらしい。そして逃げた少女を追ってゼルアも何処へと消えたそうだ。この事態を気に後に設立される六大王制はゼルアを永遠の罪人とし、世界を滅ぼす危険性を持った存在を第ゼルア級犯罪者としたのさ」

 「ゼルアは…もとは他の世界の存在だったってことか…」

 「そう思うだろう?だがね、ゼルアは紛れもないナーガの住人だったのさ。その身に妖精のかけらを宿し、レミアの鍵を開いて他の世界に旅立っていった最初の冒険家。奴が生きてきた年数は千年女王と呼ばれるメディストアと同等だ。妖精のかけらがね、禁忌として忌み嫌われているのもゼルアの首筋に光っていたからなんだよ。紫薇、私やクレシェントは神でも妖精でもない。だがそれらに匹敵する力を持ってしまったのは事実だ。だから紫薇、どうかこの子の傍にいてやって欲しい。過ぎた力は身を滅ぼすが、有り余る力は世界を滅ぼす。そんな力、この子には似合わないと思わないか?」

 紫薇は眠っているクレシェントの横顔を見た。完璧な黄金比、作られた命の中に自分ではどうしようもならない力が潜んでいる。そう思うと紫薇はクレシェントが哀れに思えて仕方がなかった。そして、その哀れな女を慈しもうとしているこの男でさえも。紫薇は胸の奥がじわりと痛んだ気がした。

 「だが俺にどうしろって言うんだ?俺には…こいつを止められる気がしない」

 「止めるのは私の役目だ。だが諭すのは君だけだと、私は思う。君の中にある何かが彼女を変えた。きっと君が居なければ、こうして肩を並べて食事をすることも、話し合うことだって出来なかった筈なんだ。紫薇、君にクレシェントを任せたい」

 「…止せよ辛気臭い」

 紫薇は何だかデラの熱い思いに気負わされてしまっていた。

 「良いや!君にはその責任がある!」

 急にテーブルを叩いてデラは大声を上げた。顔は真っ赤で、耳まで染まっていた。

 「大体な、若い男女が一つ屋根の下で暮らしているなど言語道断だと思わないかね!しかも男は君一人じゃないか!同居だってそんな状況にならないぞ!良いかぁ?クレシェントをたぶらかすような真似をしたら、私は君を許さないぞ…」

 「(そうか…この男も…)」

 紫薇はいつの間にかボトルが空になっているのを見付けた。

 「…仮に和姦だとしても着けるものは着けるんだぞ」

 「何を言って…」思わず紫薇は顔をひくつかせた。

 「大事なことだ。出来ちゃったでは済まされないんだぞ!なあ、ランドリア?」

 「主、そろそろお開きに致しましょう」

 「何を言ってるんだランドリア、これからじゃないか!私だってまだまだ若いんだぞ?そりゃあ童顔だから年は誤魔化せるが、実際の所はなあ…。ちょっと白髪が目立ってきたりして…そろそろ食事にも気を付けないとなあ…」

 ぶつぶつと髪の毛を弄りながら溜め息混じりに呟き始めると紫薇はこっそりとクレシェントの頬を引っ叩いた。

 「おい、起きろ…。今の内に引き上げるぞ…」

 「うーん…もう一口だけ…」

 しかしクレシェントはまだ夢を見ているのかいやいやと体をくねらせた。

 「…ちっ、さっさと起きろこのマネキン女!」

 そういった直後、紫薇の手に凄まじい痛みが襲った。尖ったクレシェントの牙がしっかりと紫薇の手の甲と手の平に食い込んでいる。紫薇は堪らず声にならない悲鳴を上げた。

 「ランドリア…お前は未だ若くて羨ましいなあ…。気を付けろよ?老いは二十六を過ぎてから一気にやって来るからな…」

 「主、飲み過ぎです」

 キッチンの向こうでそれぞれが騒ぐ中、プランジェとライプスの前には真っ黒なイカ墨パスタのような料理が出来上がった。

 「という訳でこの料理を〆に出すのだが」

 「あっちは締まらない状態ですけどね」

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