37話 黒い白鳥と死神

 「それじゃ最後の確認をするわね」

 リビングのテーブルの前でクレシェントは紫薇とプランジェに説明をし始めた。

 「まず私が一人でアシェラルに近付いてみるから、二人は離れたところで様子を伺うこと。間違ってもこのときに出て来たら承知しないわよ。良いわね?」

 「その前にそのゼルア級について聞かせろ。確かアシェラル・ノーバリスタだったか?協会の連中が言ってたな、死人を蘇らせることが出来ると。お前等のお陰で俺の常識はいとも簡単に崩されたんだが、流石に人の蘇生なんて話、信じられないんだが…」

 「実際には残留思念の具現化と言われている。アシェラルはナーガにおいて唯一その思念を支配し、意のままにすることが出来るらしい。一説には死の世界を司っているのではないかという話もあるくらいだからな。この世界で冥土の土産なんて言葉があるだろう?ナーガでは冥土という観念がないから、アシェラルの土産なんて使い方をする」

 「そんな代物を蘇らせて連中は何を企んでる?第一、残留思念を具現化して何になるっていうんだ?」

 「強い残留思念はときに人格をも形成するなんて話を聞いたことがあるわ。人格って魂に匹敵するものらしいから、それを使って何かするつもりなんじゃない?」

 「例えば?」

 「そうだな…セルグネッドの王が使っていた剣を覚えているか?あの銀色の奴だ。あれは王の権力の象徴であり、またその剣を扱う者が王の血族だと証明する物なのだ。王剣は所有者の意思を読み取って初めてその力を発揮する。つまり協会は何か特別な武器、或いは道具の為にネペタリシアの思念を蘇らせろと要求してきたのだろうな」

 「ネペタリシア・グリアデス・ゼンガーヴァルツェーレ、古代王朝最後の王女か。確かずっと昔に滅んだんだったな」

 「ああ、かつてナーガを一つに纏めていた巨大な王国らしい。しかしあるときを堺に謎の滅亡を遂げている。その頃の文献は殆ど残っていない」

 「今の六大王制はその後に出来たんだったな」

 「ああ。王国の滅亡後、散り散りになった者たちがゼロの状態から復興し、各地に集落を作った。その中には獣人や亜人のコミュニティも作られ、独自の文化として発展していった。そこから六つの勢力が頭角を現し、今の王制が作られたという訳だ」

 「協会はいつから出来たんだ?」

 「六大王制が出来た頃とほぼ同時期だな。協会はそれら六つの王国から代表が選ばれ、各地の法律に適した司法の組織が作られた。それに伴い、各国は軍備の増強をし始めた」

 「増強?穏やかじゃないな、その司法の組織とやらは上手くいかなったのか?」

 「いや、そこから話が少しもつれる。それに…」

 プランジェは急に唇を紡いでばつが悪そうな顔をした。その表情からクレシェントは何かを読み取ったのか、無理くりに話を変えた。

 「デラが住んでいる所がグリアデス王家の城だったのよね?」

 「…私もそう思っていたのですが、どうやらあれは日本でいう三の丸のような外郭でして…。やはり本城は跡形もなく消滅した模様です」

 「あの大きさで三の丸か…となるとグリアデス王家を滅ぼしたのはゼルア級か、果ては…」

 そういいながらクレシェントを一瞥した。

 「まあ、何れにせよ今の問題はアシェラルだ。穏便に済ませられればそれに越したことはないが…」

 「そうね…イルファード地方は沼地が多い場所だから、気付いたら死の世界に沈み込んでいたなんて成りかねないわ…『深淵の主』の忌み名は恐ろしいわよ」

 「だからこそ率先してお前が体を張るんだろう?囮役、期待してるぞ」

 「はいはい、わかってるわよ」

 やれやれと溜め息を吐きながらコーヒーを啜った。

 「それじゃ、そろそろ出かけるわよ。イルファード地方には前に行ったことがあるから、そんなに歩かないとは思うけど注意は怠らないでね」

 「了解しました」

 そういって一行が立ち上がると羽月が黒い洋服を持って来た。

 「クレシェントさん、お待たせしました。頼まれてたお洋服、出来ましたよ。あとプランジェちゃんのもありますよ」

 「本当ですか!」

 「おお、済まないな」

 「これからお出かけなんでしょう?着てみて下さい」

 「あ、でもまた汚しちゃうかも…」

 「そのときはまた私が綺麗にしますよ」

 「…じゃあ遠慮なく」

 そういいながらも少し遠慮がちにクレシェントは服を受け取った。

 「紫薇、覗いちゃ駄目よ?」

 「頼まれても覗かないから早くしろ」

 紫薇はそういってさっさと玄関に向かった。

 「可愛げないの!」べえっと舌を出した。


 庭先で紫薇は一人でクレシェントとプランジェを待った。空を眺めながら五分、十分と時間が過ぎていった。たかが服を着替えるだけにいつまで待たせるつもりなのだろうと思っていると、窓ガラスを通して三人の笑い声が聞こえた。どうやら服の出来を三人で楽しんでいるようだった。

 「はあ…今日中に終わるのか?これ…」

 クレシェントとプランジェがやって来たのはそれから一時間後だった。

 「お待たせ。どう?」

 紫薇は見る気にもならなかったが見ないと後がうるさいので仕方なしに目をやった。新調したクレシェントの服は以前のものと似てはいたがよりシンプルになっていた。ブラウスの代わりに黒い薄地のワンピースが足元まで伸び、少しだけ胸元が肌蹴ていた。肩が角張ったジャケットは腕の部分が更に細身になり、ブーティの代わりに夏らしいミュールを履いていた。ただどんなに夏の日差しが強くても全体を通して黒一色というコーディネートは譲らなかった。

 「マネキ…」

 そういいかけた途端にクレシェントにぎろりと睨まれ、紫薇は否応なしに真顔で拍手をしてみせた。

 「しかしその格好じゃ見てるだけで暑苦しいな…」

 「お洒落は我慢なのよ」

 そういうと紫薇は両腕を竦めた。

 「上着くらい脱いだらどうだ?」

 「…わかったわよ、ジャケットは置いていくわ」

 渋々と上着を脱いで折り畳む。裸の細い腕はいつ見てもマネキンのような細さだなと紫薇はしみじみと思った。

 「悪かったな、綾が記念写真を取り出したんだ」

 プランジェの服装はクレシェントと相反して爽やかな色を基準にしていた。白いペプラムに花浅葱のサブリナパンツを履いて、葡萄色のフラットを素足で履いていた。髪の毛はペイズリー柄のバレッタで一つに纏めて動き易い格好をしていた。

 「わかったからさっさとしろ」

 「あら、お気に召さなかった?」

 「…俺は黒は嫌いなんだよ」

 「腹は真っ黒なのにな」

 あっはっはとクレシェントとプランジェは笑ったが、紫薇が一睨みするとそそくさとレミアの鍵を開けた。


 「紫薇の好きな色って何なの?」

 白銀世界を歩きながらクレシェントはいった。

 「別にどの色も好きじゃない。取り分け黒みたいな単色は面白みがないからどうも好きになれなくてね。単純な奴にはぴったりな色だろうが」

 紫薇の捻くれた言葉にクレシェントは眉を顰めた。

 「…紫薇はそうね、ちょっと下品な紫って感じかしら。デリカシーないし」

 「あ、わかります。品性が足りてないところが特に」

 「…どうでも良い」

 紫薇はどんな色だと首を傾げた。

 「プランジェは黄色って感じね。羽月さんは白かな」

 紫薇は確かにと思った。

 「クレシェント様はどんな色もお似合いになると思いますが、やはり洗練された黒い服装がお似合いになると思います」

 「ふふっ、やっぱり?」

 会話は白銀世界の扉を渡って向こう岸まで続いたが、岸を抜けた所でクレシェントは気を張り詰めてぴたりと会話を止めた。

 「お喋りはここまでよ。紫薇、プランジェ…ここから先は私の命令に従って」

 紫薇とプランジェはクレシェントに視線を合わせると黙って頷いた。会話を続けていたのもこれから先に待っている脅威を少しでも和らげようとしていたからなのかもしれなかった。

 一呼吸置いた後、クレシェントは扉を呼び出してゆっくりとドアノブを回した。すると開いた扉の間から水が流れてきた。ドアを完全に開けてみるとそこには湿った空気が広がっていた。湿気が異様に高い。それもその筈、辺りは一面背の低い水溜りになっていて見たこともない植物が生い茂っていた。表面がやけにぬるぬると光沢を帯びたものばかりで植物というよりは虫のようだった。そしてその植物の突起から霧の様なガスを噴射して視界は悪く、また臭いは何故か香ばしい、茸に近い危険でどこか幻覚を見てしまうようなものだった。

 「足元、気を付けてね」

 先頭をクレシェントにして一行は先に進んだ。水溜りを避けようと思っても辺り一面が濡れていてとても安全な場所などなかった。地面の水は粘着質で足を上げると糸を引いた。

 歩いて間もない頃、ふと紫薇はアーチを描いていた植物に目をやった。黒い外皮にオレンジ色の幹、弧の間からは細長い根が下の水溜りの水を吸っていた。そのアーチを気味悪がって見ていると表面に丸い突起物を見付けた。するとその突起物はぐるりと回って段々と人の顔に近付いていった。

 「…アシェラルはどこに居るんだ?」

 咄嗟に目を逸らしていった。

 「ここを抜けると小高い丘があるの。そこにアシェラルが住んでいる筈よ」

 「物好きもいたもんだな…。こんな趣味の悪い物件、探しても見付からないぞ」

 「言うな…ただでさえ吐きそうなのに…」

 プランジェはこの特有な空気にやられてしまったのか手で口を抑えていた。

 「イルファード地方ってのは殆どがこうなのか?」

 「…元々は高名優美な湖畔が広がっていたのだが、あるときにアシェラルが住み着いてからこうなってしまったのだ。今ではイルファード地方の七割がこんな場所と化してしまっている。ゼルア級でも寄り付かないだろうな…うえうえ…」

 「そんな場所だってのに…お前は何でここに来たことがあるんだ?」

 「噂を聞いていたのよ、誰も近付かないような場所だってね。もし魔姫の力が暴走してしまっても、そんな場所なら誰にも迷惑がかからないでしょう?でも流石にここじゃ嫌だったわ…」

 話の途中でクレシェントは懐からハンカチを出して鼻を摘んだ。

 「…だってここ、不潔なんだもの…。飲み水だってねばねばしてるし、食べ物だってねばねばしてるし…こういうねばねばは嫌よ…」

 「…流石のお前でも無理か」

 紫薇は初めてクレシェントに共感が出来た気がした。


 クレシェントがいった小高い丘はそれからすぐに見えてきた。だが同時に紫色の煙が丘の向こうから立ち上り、空気はより一層汚れていった。丘からは煙と同じ色をした水が流れ、その水が地面を伝って沼地を作り上げている様だった。

 「紫薇、プランジェ…あれがアシェラルよ」

 丘の上に身を乗り出してみると、そこには山のように大きな人影があった。丘だと思っていた場所はクレーターのように地面が捲れ上がっていた部分だった。その窪みには紫色の水溜りがあって、その中に浸かりながら巨人、正確には人の上半身と尖った形をした骸骨が目を閉じて眠っていた。

 「あれが…アシェラル・ノーバリスタ…」

 「人間じゃないのか…」

 予想を大いに裏切られ、紫薇とプランジェは絶句した。

 「私も見るのは初めてよ…。眠っていてもこんなにも鋭い気配がするなんて…」

 思わず息を飲んだ。

 「もしアシェラルと戦うことになったら真っ先にもとの道を引き返して。まだレミアの鍵は開いたままだから、上手くいけば逃げられるわ」

 そういってクレシェントは二人の反論を受ける前に一人で丘を滑っていった。丘は沼地の土と違って乾燥していて、麓に降り立つと乾いた音が足元から響いた。クレシェントは何事かと思って視線を下げると、大地だと思っていたのは累々と重なった骨だった。クレシェントはぞくりと背筋を震わせたが、勇気を振り絞ってアシェラルに近付いていった。

 その様子を紫薇とプランジェは息を殺して窺っていた。巨大な人の姿に近い化け物にたかだか百七十センチの女性が近付いているその光景は見るも怖々としたものだった。

 クレシェントはアシェラルとの距離を数メートルまで近付けると、出来るだけ落ち着いて息を吸ってから口を開いた。

 「アシェラル・ノーバリスタ!私の名前はクレシェント・テテノワール、貴方に頼みがあって来ました!どうか目を覚まして私の話を聞いて下さい!」

 一瞬の緊張が走った後、目を閉ざしていた骸骨は静かに瞼を開けた。黄緑色の光が現れ、視線を小さな体をしたクレシェントに向けた。

 「近頃は来客が多い…。忙しい、我輩は忙しいのだ」

 霞がかかった、モザイク柄の声が辺りにずしりと響く。しかしまだ敵意は感じられず、クレシェントは僅かにほっとすると話を続けた。

 「お休みのところをお邪魔して申し訳ないと思っています。でもどうしても私は貴方にお願いがあるの。お話だけでも聞いて頂けませんか?」

 「…ほう、またけったいな客人だ。その身に魂を三つ持った存在など、そうありはしないのだが…。なんとまあ、我等が継母であったか。その身を滅ぼされ、今はその娘を宿り木としているか。否、けったいな巡り会わせもあったものよ。して、一体我輩に何の用だ?」

 「…継母?どういう意味ですか?」

 クレシェントは本題よりもその言葉に意識を傾けてしまった。

 「奇なことを…お前の中に眠っているもう一つの魂、いや…この場合は形ある情報といった所か。我輩と同じように、お前はそれを引き継いでいるのだ。だがこれは…そうか、お前の中に眠っているもう一つの魂は、お前の名を呼んでいる。しかし当のお前はその声に気付いていない。悲しいことだ」

 「呼んでいる?私を?何の為に?」

 「さて…我輩には知らぬことだ。それに、仮に知っていたとしても、今のお前ではその声の本質を理解することが出来ない。だから魔姫なんぞになってしまうのだ。自らを制御することの出来ないものほど滑稽なものはない。わかるか?壊乱の魔姫よ」

 「貴方…私を知って…」

 「凡そ世界で起きていることは手に取るようにわかる。生命の声や無機物の波を通して我輩は情報を得る。そこに隠れている二匹の鼠のこともな」

 紫薇とプランジェははっとしていつの間にかアシェラルの視線が向けられていることに気付かされた。

 「ふむ、『アヴォロス・デ・アル』の『ヒト』か…面白いものを引き連れている」

 口許を歪ませけたけたと笑っていた最中、急に目の色を変えて驚いた。

 「…お前は!どういうことだ…何故お前がこんな場所に…。その魂の不浄、本来は有り得ぬことだが…否、通りで奴がやって来る訳だ…」

 アシェラルの目先は紫薇に向かっていた。

 「彼を知っているの?」

 「お前はあれが何だか知らぬのか…。だが無理もない、今の奴は魂を汚し、その存在理由を疲弊し切っているのだからな。奴が躍起になるのも頷ける」

 「さっき近頃は来客が多いと言っていたけれど、他にも誰かが来ていたの?」

 「そうだ、つぎはぎの肉体…作られた完全を持った男や我輩の馴染みがな。グリアデス王朝最後の王女の意識を蘇らせろなどと言ってきたが…。ハッ、叩き潰してやったわ。あの程度の力で我輩を消滅させようとは片腹痛いわ!」

 人が変わったかのようにげらげらと笑い出し、その声は辺りを揺らした。凶悪な気配を間近に感じてクレシェントは意識を飛ばしそうになった。そして体中の警報機関がけたたましいベルを鳴らし始めた。

 「大方お前の願いも予測は付いている。お前もグリアデス王女の残留思念が欲しいのだろう?良いとも、くれてやろうとも。お前たちの魂と引き換えだがな!」

 「…拙い!」

 胸に引っ付いていた四本の腕を引っぺがし翼のように手を広げ、口を開けるとその中から黒い液体を吐き出した。その体液はまるで意思があるかのようにクレシェントを取り囲み、広がっていった。そしてぶるりと蠕動すると体液の中から無数の黒い骸骨が姿を現した。たった一瞬でクレシェントの周りには千体もの骸骨が立ち並んだ。

 「紫薇!プランジェ!逃げなさい!」

 「逃がすものかよ、愚か者が!」

 アシェラルの背中から脊髄が空に向かって飛び出すと、宙で傘のように脊髄の先端から細い骨が辺りに広がって紫薇たちの行く手を遮った。

 「…ちっ、紫薇!腹を括れ!こうなっては致し方がない!」

 二人は一斉にその場から跳び上がり、骸骨の群れに向かっていった。地表に近付きながらプランジェは短刀を取り出し、着地するポイントに蔓延っていた骸骨を切り刻んだ。同じように紫薇は宙で半獣人に変身し、落下するスピードを速めて骸骨を踏み潰しながら地面に降り立った。

 「フハハ!良い余興だ。先ずはこの我輩の下僕を倒してみせよ!愛しの晩餐どもよ!」

 目をきらきらさせながら醜悪な笑い声を上げるアシェラルにクレシェントは怒りを抑え切れなかった。手をアシェラルに掲げ、最大限の力で概念を具現化させた。

 『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』

 巨大な体をしたアシェラルをすっぽりと覆ってしまう程の大きさを持った血の檻が現れ、アシェラルの体を封じ込めた。しかしその牢獄の中に入っていてもアシェラルの体は半透明になったままで少しもダメージを与えられていなかった。

 「そんな…」

 クレシェントはその光景を見て言葉を失った。

 「見事な概念だと否めないが、そのままの殺意では我輩は受け取れぬ。真のゼルア級とは、規定された存在量を凌駕した『超越者メタストロフィ』。お前もゼルア級ならば真の力を解放してみせるが良い」

 「…くっ!」

 歯軋りしてクレシェントはアシェラルに背中を向け、骸骨の群れに向かって走り出した。手に剣を具現化させ、骸骨を切り刻む。クレシェントは剣を振るう中、自分の不甲斐なさを呪った。

 紫薇は数ある骸骨を何の苦もなしに切り伏せていった。これだけ数がいても骸骨の実力はただ突っ立ってその鋭い手を伸ばしているだけのようなものだった。大振りで、目を瞑っても当てられる。そんなぬるま湯の戦闘だった。一閃、一閃、また一閃。その度に骸骨の骨を根元から切り落とし、纏めて野に返していたそのときだった。骸骨の肋骨の隙間からどこからか骨の槍が突き抜けて紫薇の顔面を通り過ぎた。

 急な緩急に紫薇はつい気を許してしまい、肩を少しだけ傷付けられた。自分たちを傷付けるつもりなのに殺意がない。明らかにそれは遊びを凝らしたものだった。

 「なぶり殺しにするつもりなのか…それとも単に挑発しているのか…。いずれにしろやり方があざとい化け物だ」

 紫薇は苛立ちを覚えながら更に剣を振るう速度を上げ、突っ込むようにして骸骨の群れを押し切った。その途中、同じ様に頬や手の甲に小さな切り傷を作って骸骨の上を跳びはねるプランジェと合流し、お互いの背中を預け合った。

 「アシェラルめ…我等を嘗め切っているな…」

 「なら一つ奴の目を覚まさせるか?」

 そういうとプランジェはくすりと笑った。

 「確かにゼルア級を相手に様子見もないな…。紫薇、叩き潰すぞ!」

 紫薇の体が獣人に変化した後、二人の意識の間に一輪の花が砕け散った。それと同時に真上には紫薇とプランジェの概念が複合した新たな力が具現化された。

 『パルヴェジュブネリアス(千紫万紅)』

 「…ほう」

 天に現れたのは無数の刀だった。それらが雨のように降り注いでうじゃうじゃと蔓延っている骸骨に向けて振り放たれた。狙いはクレシェントと自分たち以外の全てだった。クレシェントはその共鳴奏歌を見付けると動かしていた体を途中で止め、咲き乱れる剣の嵐を見守った。

 「これほどまでの共鳴奏歌を目にしたのは久し振りだ。我輩の下僕をここまで駄目にしてくれるとは…天晴れだな」

 最後に落ちた刃が千体目の骸骨の体を突き刺すとそこには墓標のような、それでいて艶の浮き出た刃の花が広がった。美しくも儚い二人の情景、そんな二人の庭園を具現化したようだった。

 「アシェラル・ノーバリスタ、我らはかのクレシェント・テテノワールの従者だぞ。火傷する前に手を引っ込めろ、痴れ者が」

 「俺は奴の僕になったつもりはないんだが…」

 そういってお互いが手にしていた武器の切っ先をアシェラルに向けた。しかしあろうことかアシェラルは溜め息を吐いて喜び始めたのだ。

 「…有り難い、これで千人分の仕事が浮いた」

 「仕事だと?何を言っている?」

 「我輩に課せられた仕事だ。我輩はあらゆる世界の魂を総括し、消化させるか消滅させなければならないのだからな。その数やとても数えられるものではない。丸一日を使っても一日に送られてくる魂を処理し切れん」

 「馬鹿な…貴様は本当に魂の番人だとでも言うのか」

 「二代目だが…正にその通りだ。初代と違って我輩は正規の死神ではないのでな、魂の処理が下手なのだ。故に下僕と言っても腹の中に残っている魂をぶちまけるだけ。しかし折角だ、つい先日に完成させた我輩のへそを媒介にした使い魔を見せてやろう。…出でよ、アスモデウラ」

 そういうとアシェラルの腹部が空気が入った様に膨れ上がり、やがてその皮膚を食い破って一匹の犬の顔が現れた。次いで人間の腕が腹の中から出ると地面を踏み締め、その全貌を曝け出した。犬の頭をした奇形の人の体。死人のように真っ青な体をして何十本もの腕が折り重なり、腹の部分は女の乳房が幾つも並んでいた。それは白い百足のようでもあった。

 「な、何だあれは…」

 犬の口から出たのは赤ん坊の泣き声だった。声は生前に上げる筈だった産声だった。その使い魔は生まれる前に死んでしまった赤子と赤子を失って身を投げた母親の魂を練り上げて作られたものだった。

 「魂の造詣は上々だ…間違っても食われてくれるなよ?腹の中に入ったら最後、肉体は幼子にまで逆行して死も生もわからぬまま母親の寵愛を延々と受けることになる。まあ、人生に疲れたのなら腹の中で一生を過ごすのも良いかもしれんが」

 その使い魔が放っていた気配は紫薇とプランジェが今迄に感じてきたものと完全に異質で圧倒的な力を孕んでいた。改めて自分たちが目の当たりにしているのがゼルア級だということを思い知らされてしまい、二人は思わず足を竦ませた。

 「どうした?何故その高々に掲げていた武器を引っ下げる?久し振りに我輩の力の一端を見せてやっているというのにそれでは何も楽しめんぞ?さあ、今一度その輝かしい魂の鼓動を我輩に見せよ」

 そういってプランジェに視線を向けた。小さな青い目は魔王と目を合わせると全身を震わせ、手に持っていた武器を落としてしまった。まるでアシェラルの視線がプランジェの体、心をがっしりと掴んでしまったようだった。

 「や、止めろ…」

 「健全なる肉体を我が喉元に、健全なる精神を我が喉元に、健全なる魂を我が喉元に。我は死海の王であり、また奈落の主である。理の名に於いて、その手に狩人の証を許された黒き白鳥。さあ、お前がかのヒトならば我に委ねよ」

 呪文を受けてしまったようにプランジェの体はぴたりと止まって動かなかった。彼女の唇は紫色に染まり、目玉が飛び出してしまうほど瞼を開けて使い魔を通してアシェラルから目を離すことが出来なかった。

 『ベルウェルン・ジェネフィリア・マーギ(独唱はみな光を遮って)』

 使い魔の傍に人の頭ほどの赤い球体が現れ、その球体に向かってクレシェントの具現化した腕が渦を巻いて吸収されると、球体は急激に収縮し、破裂音を立てて飛び散った。凝縮された概念が荒々しい赤い津波となって辺りを飲み込み、紫薇とプランジェが立っていた場所を除いて使い魔を押し退けていった。

 「邪魔だてするな、若輩者が!」

 使い魔を押し倒して地面に叩き付けると波濤は蒸発するように消えていった。しかし使い魔は頭を震わせると再び立ち上がり、舌を出してプランジェに狙いを定めた。

 「プランジェ!しっかりしなさい!」

 クレシェントは紫薇とプランジェを守るようにして前に降り立ったが、焦りと不安で動揺してしまっていた。

 「さ、寒い…寒いのです…。私を…私の中をアシェラルが蠢いている…」

 両腕で体を擦ってもプランジェの震えは収まらなかった。それ所か顔色はますます青ざめて精気が失われていった。

 はっとしてクレシェントはプランジェを見た。いつの間にかプランジェの体を包み込むようにして半透明の骸骨が後ろから彼女を抱き締めていた。咄嗟にクレシェントは剣を振るってその骸骨の頭を切り裂いた。悲鳴を上げてしゃれこうべが消える。

 「紫薇!あの使い魔を殺さないと、プランジェがアシェラルに取り込まれるわ!もうあの人の狙いはこの子にしか向いてないのよ…!」

 アシェラルの顔はプランジェに釘付けだった。含みのある涎を垂らしながら舌なめずりしている。

 「…何だって奴は選り好みを!」

 紫薇は使い魔に気を飲まれながらも身を固め、プランジェの前に立った。しかしその直後に使い魔からの反撃を受けてしまった。巨体をまるで連想させない素早い動きで紫薇と距離を縮めるとその頭で紫薇の体を突き飛ばした。

 「紫薇!…くっ!」

 丘まで吹き飛ばされた紫薇を気遣う前に使い魔はクレシェントに牙を向けた。大口の中には淀んだ空間が広がっていて一度でも飲み込まれれば二度と出て来れないような雰囲気を醸し出していた。

 クレシェントは顎が閉じられる前にプランジェを抱え、その場から跳び上がった。その後に犬の口が地面を食い破り、顔を上げてクレシェントに狭めていった。宙で二度三度と牙を鳴らし、プランジェごと飲み込もうとするのを必死に避け続けたが、使い魔は数本の腕を伸ばして行く手を封じていった。

 「しまっ…」

 視線を背中に向け、前に戻した時には既に遅かった。向けられた口は縦に広がり、更には口が十字に裂けて横から逃げられないようにしてあった。クレシェントは自らを皮肉しながら手を掲げ、不可侵の盾を築き上げた。

 「自我を制約から解放させたか…」

 その透明な壁に使い魔の口が弾かれると、アシェラルは眉間にしわを寄せた。だがすぐに口許を歪ませ、再び使い魔の口を繰り出させた。使い魔の口とクレシェントのアイロニーの盾が宙で拮抗した。

 「だが所詮は模造品よ!飽く迄その担い手の瞬間的衝動を具現化しているに過ぎんのだ!道を開けるが良い、我輩の使い魔のそれとは次元が違うわ!」

 限られた時間の絶対防御と思っていた壁にひびが生じるとクレシェントは息を止めた。そして反射的にプランジェを手放し、地面に放り投げると両手を使い魔に向けて概念を具現化させた。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 アイロニーの盾が破られたと同時にクレシェントの背後から大量の赤い腕が具現化され、四つに割れた口の先を受け止め、首を握り締めて使い魔の進行を止めた。しかしその力は余りに強過ぎた。全力でクレシェントが踏ん張っても使い魔の進行は徐々に徐々に迫ってクレシェントの掲げていた腕を飲み込んでいった。

 「あっ…」

 使い魔の口の空間の中にクレシェントの腕の半分が吸い込まれるとクレシェントは指先の感覚を失い、全身に稲妻のような痛みが走った。目を瞑って痛みに耐えながらクレシェントはもう一つの概念を頭の中で構成し始めた。

 「うっ!」

 不意にクレシェントの息が詰まった。使い魔の手がクレシェントの体に伸びて彼女の体を締め上げたのだ。その力は大の男よりもずっと強力で、クレシェントを握り潰そうとした。その痛みに悲鳴を上げ、使い魔を抑えていた力が緩んでしまった。弱った力では使い魔の進行を止められず、クレシェントの体はその半分を飲み込まれてしまった。

 「あああっ!」

 体中の血管が浮かび上がり、まるで皮膚が紫色になってしまったようだった。

 そのときだった。獣の雄叫びを上げながら空から紫薇の体が落下し、剣の切っ先を使い魔に突き立てた。それだけでは小さな虫が人間に張り付いたのと同じだったが、そこから紫薇は刺した刀身に向けて奏力を注いだ。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪のように)』

 赤い光が使い魔の体を通り抜けた。その穴は体の殆どを貫いて使い魔は堪らず顔を仰け反らせて声を上げた。クレシェントの体が空間から戻って来ると、その瞬間を狙ってクレシェントは準備していた概念を具現化させた。

 「やれ!」口許から血を吐き出しながら紫薇が叫んだ。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 刃を持った何十本もの槍が使い魔の体を次々と突き刺し、使い魔の体を宙に掲げていった。しかしそれでも使い魔は残った力を振り絞ってクレシェントを握り締めている力を強めた。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 紫薇は使い魔の体から飛び退いて剣に魔女の手を具現化させると、宙で刃を振るってクレシェントを苦しめている使い魔の腕に向けて放った。魔女の手は青白い手を引き裂き、クレシェントは残った力を振り絞って体に取り付いていた手を弾き飛ばした。そして紫薇の顔を見て合図をすると、二人は使い魔のもとに走り出した。

 二人の体が使い魔の真下で交錯すると、紫薇とクレシェントはお互いの中に眠った本能を呼び覚ますかのように咆哮した。

 『ダリアジェネファーリエント(戦戦兢兢)』

 紫薇とクレシェントの脳裏に赤い花が砕け散った。二人の周りに赤黒い火柱のような波が無数に現れ、その波を食い破るようにして二人の体から更に黒い波が赤い波を押し退けて広がっていった。まるで二人の声が形のある殺意を辺りに撒き散らし、使い魔の体を細々と引き裂いた。

 「うっ…!」

 共鳴奏歌の後、紫薇は腹と口を抑えて地面に蹲り嗚咽を漏らした。強い衝撃を受けて体の中に損傷をきたし、手の平を血で汚してしまった。それに加えて二度の共鳴奏歌が紫薇の体をより弱めてしまっていた。

 クレシェントは紫薇を気遣おうと手を差し伸べた途端、自分にも体のふら付きを感じてしまった。紫色に浮かび上がった血管はまだその半分が皮膚に残っていてクレシェントは膝が笑ってしまっているのを感じた。

 唐突にアシェラルの叫び声が響き渡った。使い魔をやられた痛みなのかそれとも邪魔をされて昂ぶっている声なのかはわからないが、アシェラルの声は二人の戦意を削っていった。そして声が止むと四本の腕の内、その一本が紫薇に向けて振り落とされた。その衝撃にクレシェントの体は真横に吹き飛ばされ、地面に転がされた。

 「…し、紫薇!」

 仰向けになりながら衝撃が出来た場所に目を向けると、紫薇の周りに白い壁のようなものが立ち塞がり、アシェラルの腕を止めていた。だがアシェラルはそんな紫薇の鎧などお構いなしに何度も何度も腕を叩き付け、次第にその展開させた尻尾の力が弱まるとその尻尾ごと紫薇の体を押し潰した。残っていた力で紫薇の体は吹き飛ばされはしなかったが、最後に受けた衝撃の後には紫薇はぴくりとも動かなかった。

 「悉く邪魔をしおってこの独裁者めが…。我が使い魔を退けたことは褒めてやるが、我輩の楽しみを奪うつもりならば容赦はせんぞ」

 クレシェントの視界が急にぐらぐらと揺れ動き始め、その揺れが地面の下から起きていることを知るとクレシェントはまさかとアシェラルに顔を向けた。

 かたかたと地面に転がっていた骨が音を立て、散らばっていた使い魔の破片がアシェラルの体に戻っていった。破片はアシェラルの腹に集中し、犬の頭が腹に生えると再び犬は赤ん坊の声を上げて蘇った。アシェラルの腹から下を覆っていた地面が炸裂すると中から蜘蛛の様な足が現れ、アシェラルの全体像をその場に見せ付けた。優に七十メートルはあろうその巨体は丘を跨げる程だった。

 「これが…アシェラル・ノーバリスタ…」

 その姿を仰いでしまったクレシェントは倒れた体を起せなかった。敵わない、その一言が自然とクレシェントの口から漏れてしまっていた。

 「こうしてお前たちを見下してしまえばやはり前菜にもならんな…。しかしその小娘は禁忌の味だ。是非とも口にしてみたいものだ。奴との約束など知ったことか…。舌で転がし、ゆっくりとその魂をしゃぶってくれる」

 「や、止めて…!」

 クレシェントは必死になって叫んだが、その声を高らかにアシェラルは嘲った。

 「嫌だというなら足を動かせ手を動かせ。その四肢を使って我輩を止めてみせよ!…しかし今のお前からは我輩に対する恐怖しか感じられんな。恐いか?小便を漏らしそうか?我輩はそれすらも飲み込んでやるぞ?小娘の後にはお前もじっくりと味わってみることにしよう…ん?」

 アシェラルがプランジェに手を伸ばそうとしたときだった。ゆっくりと手を震わせながら紫薇は剣を地面に突き刺し、か細い息を立てながら立ち上がった。

 「流石は独裁者だ…汚れた魂でもそこまで意思の強さを見せ付けるとは…。だが今は珍味に興味はない!」

 クレシェントの視界から紫薇の体が通り過ぎていった。巨大な骨の手の平が紫薇の体を弾き飛ばし、遥か遠くで力なく倒された。

 「…っ!」

 その光景が銀色の目に浮かんだ途端、目は血と同じ色に染まった。頭の天辺から爪先までクレシェントの中に眠っていたものが染み渡り、クレシェントは牙を剥き出しにしてその力を呼び起こそうとした。

 「ふん、下らんわ」

 しかしアシェラルの手の平がクレシェントが寝そべっていた辺りに沈み込む。蚊を叩き潰すかのようにアシェラルの手はしっかりと地面に食い込み、手の平を上げるとそこには半ば意識が事切れたクレシェントの姿があった。目の色は元に戻り、口許から大量の血液を流していた。

 「言ったであろう。声の本質に耳を傾けていないお前が魔姫になったとしても我輩には通用せん。さて…やっと二人きりになれたな」

 腰を浮かせてその場に蹲っているプランジェを見ると、アシェラルは口許から涎を流した。

 「ああ…やはりお前は美味そうだ…。今、我輩のものにしてやる…」

 そういって長い指先を一つに集め、プランジェを摘み取るようにして手を伸ばした。

 「(クレシェント様…助けて下さい…。クレシェント様…)」

 その場から逃げることも出来ずにプランジェはただクレシェントの名前を心の中で呼び続けることしか出来なかった。

 「…に、逃げて…プラン…ジェ…」

 辛うじて意識が戻ったクレシェントだったが、その光景を眺めることしか出来なかった。手を伸ばしても既にアシェラルの指先はプランジェの目と鼻の先に届いてしまっていた。

 「(…姉さん!)」

 プランジェは心の中で姉の名前を叫び、目を閉じた。そしてアシェラルの手の影がプランジェの体を覆うと、その手はぴたりと止まった。

 「…えっ?」

 うっすらと涙を浮かべながらプランジェは目を開けた。するとそこにはアシェラルの指先をしっかりと手で受け止めた男の姿があった。

 「お前は…」

 「デラ・カルバンス…」

 プランジェは何故そこに宿敵であるデラがいるのかわからなかったが、その後姿を見るとほっとしてしまった。

 「手を引け、アシェラル。この子たちの魂をお前にくれてやる訳にはいかない」

 そういうとアシェラルは黙って伸ばしていた手をもとに戻していった。だがその直後にアシェラルが叫び声を上げると空から紫色の光がデラの元に降り注いだ。稲妻のような光がデラの真上で炸裂する。デラは予めその行動を予測していたのか宙に方陣を具現化してその光を防いでいった。

 「…相変わらず口より先に手を動かす奴だ」

 デラはその光を受けながらプランジェの肩と膝の裏を持って抱き上げ、クレシェントのもとに降り立った。そしてプランジェをクレシェントの傍に置いて自分の手首を爪で切り、その間から流れた血をクレシェントの口許に近付けた。

 「飲みなさい。少し苦いが体が楽になる」

 「どうして…貴方がここに…」

 クレシェントは躊躇いがちにその血を啜ると体の痛みが和らいでいった。

 「静かに、今は体を治すことに専念しなさい。この場は私に任せてね」

 クレシェントに血液を飲ませると、デラは二人に向かって手を掲げた。するとクレシェントとプランジェの足もとに光の線が走り、円を描いてその中に五亡星に似た印が現れた。

 「くれぐれもそこから出ないでくれよ」

 「紫薇が…紫薇が…」クレシェントは掠れた声でいった。

 「安心しなさい。今ランドリアが彼のもとに向かっている」

 小さな笑みを見せると、デラは二人を置いてアシェラルに近付いていった。

 「アシェラル、もし私とお前が戦ったとしても決着はつかないと思うが、それでも続けるのか?賢い者のすることとは思わないが」

 「我輩の食事に横槍を入れた挙句、この上説教まで垂れるとはいつからお前はそんなに偉くなったのだ?我輩はそんな風に育てた覚えはないぞ」

 「たった一度の教鞭でそんな大きな顔をされてもね」

 「ふん、相変わらず可愛げのない…。もとより決着などつけるつもりもない。だが憂さ晴らしには付き合って貰うぞ。そうでもなければ我輩の機嫌はずっと悪いまま…口当たりの悪い魂を飲み込む作業に戻っていられるか」

 「…相変わらず傲慢な師だ」

 そういうとデラは体を変化させていった。片翼が背中から、それよりも小さな翼が右腕から伸びていった。耳の形は暗緑色に変わり形は鱗に近付いた。口許からは犬歯がはみ出て、目は真っ赤な血よりも濃い色に輝いた。

 二人の視線は奇妙なものだった。殺し合いをするには殺気が足りず、馴れ合うには興味が足りなかった。だが一つだけ確かなことは二人の持っている力が余りにも強大でその現場を目にすれば誰もが尻をまくって逃げ出してしまうことだろう。事実、二人の姿を間近で見ているプランジェは二人の気配に当たられて悲鳴を上げながら逃げ出してしまいたい位だった。

 先に動き出したのはアシェラルだった。蜘蛛のような六本の足の内、体を持ち上げて前の二本の足を地面に突き刺すと、アシェラルの手前から灰色をした鋭い骨の先端が現れ、そこから無数の尖った骨が目前に向かって走り出した。その一本は大木のような太さで先端はどんな剣よりも鋭かった。

 デラはその光景を見るや否や右手から伸びた小さな翼を折り畳み、一枚の刃の形して腕を振り払った。すると迫っていた無数の骨は突風に当てられたように吹き飛ばされ、更に鋭利な刃物で断たれたようにばらばらにされていった。

 切り負けた骨は無残にも地面に散りばめられ、切り裂かれた勢いはアシェラルに届いてその巨体を何十にも分断していった。しかしアシェラルは自分の体があちこちに転がってもものともせずに次の一手に移った。辛うじてくっ付いている二本の腕と地面に転がった一本の腕、そして三つに切られた四本目の腕を天に掲げると、アシェラルの頭の先から黒い光が集まり、やがて小さな太陽のようにその表面を焦がし始め、掲げていた腕を下げるとその光は徐々に落下していった。

 まるでこの世の終わりがやって来たような絵でもデラは平然とその光を見詰め、親指の表面をかじって血を滲ませると宙に円を切った。すると親指の血は宙に留まり、その両端から小さな円が四つずつ並ぶと円の中の空間が歪み始めた。

 『アグシェイド・セタンタ(幻世からの招待状)』

 その歪みを突き破って現れたのは青い炎を身に纏った人の姿だった。布を被ったようなその体は半透明で顔は隠れ、女性のようにか細い体付きだった。真ん中の円から続いて左右の円からも同じ人の姿が飛び出し、黒い太陽にぴったりと張り付いた。

 その直後に黒い光は空中で一気に膨張し、ひし形に伸びていった。だがその勢いを抑え付けるように四つの人影は宙で踏み止まり、その姿を黒い火に焼かれながら光の爆発を食い止めていった。

 そうして人影と黒い光が消滅すると、アシェラルの周りが十字に割れてその中から青白い火の玉が浮かび上がり始めた。その数は急激に増加し、空に向かって旋風を巻いていった。その内の幾つかの人魂がアシェラルの口許に集まり、アシェラルは大口を開いてその人魂を食い漁った。するとばらばらになっていたアシェラルの体はもとの姿に戻り、それを喜ぶようにけたけたと笑い出した。

 「なるほど…溜めている命を減らすつもりはないらしい」

 デラは笑みを浮かべているアシェラルを見て小さな溜め息を吐いた。

 アシェラルは引き裂かれた体をもとに戻すと、渦を巻いていた魂の群れに指先を一つ掲げ、デラに向かってその指を振り下ろした。すると魂の群れの先は渦を巻くのを止めて一斉にアシェラルが指差した場所に駆けていった。

 光の洪水がデラの目前に迫った。デラは今度は畳んでいた翼を広げ、魂の群れの先に手を掲げると手の平に人の目玉が一つ浮き出た。そしてその目が赤い光を点すと押し迫っていた魂を次々とその瞳の中に吸い込んでいった。

 「底なし食らいとは言ったものだな…アシェラル!」

 小さな砂粒を掃除機で吸い込むように魂を封じ込める中、デラの顔に少しの焦りが見え隠れしていた。それもその筈、同じ魂を取り扱うことが出来ても二人の間には決定的な差があった。

 「かつてお前に死神の証を分けてやりはしたが、我輩とお前の腹では一度に食い切れる魂の量は歴然だ。さて、いつまで粘れるか見ものだな」

 したり顔で更に魂の量を増やし、デラに送り込んだ。その余りの魂の量に辺りは竜巻の中にいるような光景に成り変わっていった。それに伴ってデラの顔に映っていた焦りも濃くなり、手の平に出来た瞳からは赤い涙が流れ始めた。

 「私もただ黙って年を食っていた訳ではないよ、アシェラル」

 真っ赤に充血した手の平の瞳は急にその血管を緩め、徐々にもとの白い色合いに戻っていった。デラの頬に埋まっていた紫紺色の宝石が強い光を発し、それによって目の力が増幅されているようだった。やがてその目が肉々しい生のものから透き通った光の球体に変わっていくと、デラの腕に黒い白鳥を模した刺青が描かれた。

 「なんと!?我輩と同じ極致に降り立ったか!」

 アシェラルを目を見開いて驚いた。

 「一時的だがね…。もう青二才とは呼べないぞ、アシェラル」

 「ハッハッ!その力、妖精のかけらによるものだな?羨ましいものだ、かの独裁者と同じ地位に立っていられるのだからな!あやつは狡猾よ、一体そんなものをばら撒いて何を考えているのか…」

 「まさかお前はあれを知っているのか…?」

 デラは酷く興奮しながらその顔を歪ませた。渇仰と狂気に近いその顔を見ると、アシェラルは肉のない頬を緩めた。

 「かつて招かれざる扉の先であれと契約を交わした。そうだ、お前が必死になって退けようとしていた扉のことだ。あの場所は世界によって様々な呼び名がある。招かれざる扉、ルーメンの川、羽衣の桟橋、エシュタトリカの壁画…そして、ソフィとレミアの鍵、そう呼ぶ者もいたな」

 その言葉がアシェラルの口から放たれた直後、デラはその背中に付いていた片翼を広げて宙に飛び上がった。そして体の中に溜まっていた力を解放し、更なる肉体の変化を見せ付けた。頬に着いていた妖精のかけらから文字の様なようが体中に広がり、衣服はその文字の中に吸収されていった。そしてデラの後頭部には長い、厚みのある尻尾のような角が伸びていった。

 「本性を現わしおって…。良いだろう、お前がこの世界を省みないというのなら、我輩も禁じられた力を使ってくれる」

 そういってアシェラルは四本の腕を外側に伸ばし、勢いを付けて自分の胸に手を食い込ませた。指先が体の中にずぶずぶと侵入して肉の中から何かを見付けるとそれを体の外に曝け出した。それは黒い卵で、心臓のように脈を打っていた。その卵を取り出すと腹の部分を占めていた犬の口許に近付け、その犬が卵を一飲みするとアシェラルの体から黒い光が溢れ、背中から黒い翼が現れた。その大きさは翼の先を広げると辺り一体が影になってしまう程だった。そしてアシェラルの骨ばかりだった体に灰色の肉が集まり始め、やがて歪な人の姿を形成していった。それと同時に空は真っ暗になり、まるで明けない夜がやって来たかのようだった。

 「いったい…何が始まろうとしているのだ…?」

 プランジェはその光景にただ愕然とするばかりだった。いつの間にか空は暗闇に染まり、辺りの景色はプランジェが知っている景色とはまるで違っていた。暗闇の空には人の顔に近い靄の映像が流れ、地平線の果てには裸体の女性、それも千切れた人体のパーツが転がり、どれもまともな形の体がなかった。まるでこの一瞬で世界が何もかも変わってしまったかのようだった。

 異界の中心にそれはいた。黒い翼と灰色の体をした奇形児。その歪な赤ん坊がこの歪な世界を作り上げた元凶だろうとプランジェは思った。既に世界はプランジェの理解を超越し、思考することの出来ないプランジェは意識を落としていった。次に目が覚めた時はもとの清らかな世界に戻っていると信じながら。

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