第四章

36話 悟りは六日目にて開かれる

 紫薇はすっかり冷めてしまったコーヒーを啜った。いつもより味の悪い苦味が口いっぱいに広がる。

 「…まずい」

 「ああ、本当にな」

 「そ、そんなに美味しくなかったですか?」

 羽月は慌ててコーヒーを入れ直そうとした。

 「あ、いや…そっちではないのだ。ゼルア級犯罪者と戦えだと?幾ら協会の命令とはいえ狂気染みている!これでは死刑を宣告されたのと同じではないか!」

 「奴等にとっちゃ同じことなんだろうよ。生きて戻ればめっけもん、死ねば同じゼルア級犯罪者を葬れるってことだ。嫌な連中だよ」

 「しかも期限は一週間…我々には無理だ」

 「そうでもないだろう」

 ぐっと一口でコーヒーを飲み干した。

 「こっちには戦力としてゼルア級が二人、あそこの店主も少し脅せば嫌とは言わないだろう」

 「まさか…デラ・カルバンスとウェルディ・グルスの力を借りるというのか?」

 「じゃなきゃこうして涼しい顔なんて出来るか。ゼルア級の恐ろしさは身を持って体感済みだ。とても一個人の力じゃ立ち向かえない。あの女、それを見越してわざわざ俺に言って来たのさ。肝が冷えるよ、全く」

 ふうと溜め息を吐いて冷や汗を垂らした。

 「そういう訳だ。デラの方はクレシェント、お前に任せる。店主の方は俺が当たってみよう。聞きたいこともあるしな」

 そういって俯いていたクレシェントの方を見ると、彼女の口から予想だにしなかった言葉が出た。

 「…紫薇、今回は私一人で行こうと思うの」

 「な、何を仰るのですか!」

 「別に止めやしないが本気か?」

 「うん、もうこれ以上デラに迷惑はかけられない。それに店長さんだって」

 「ならば私も行きます!何の為の従者だとお思いですか!」

 「駄目よ、今回は相手が悪過ぎるもの。私は…いざとなったら魔姫になれば良いけれど、貴方は違うでしょう?」

 「…しかし!」

 「まあ、死んだら花でも添えてやるよ」

 「お前はその減らず口を何とか出来んのか!」

 「産まれ付いてのもんなんでね、今更どうしようもない」

 そういうとプランジェは顔を真っ赤にして歯軋りし、紫薇に背中を向けてソファーの上で胡坐をかいた。

 「…プランジェ」

 完全に機嫌を損ねてしまったようで、クレシェントの呼びかけにも応じなかった。

 そうしてストライキを起こした中年労働者のような背中のまま、プランジェは日が暮れるまでそこを動かなかった。夕食が出来ても一向に動かず、気を使って羽月が傍にお皿を置いても手を付けようとしなかった。

 「…プランジェちゃん、食べてくれませんね」

 「もう、頑固なんだから…」

 皿に盛られたシチューがすっかり冷めた頃、紫薇はプランジェの横にあった椅子に静かに腰かけた。

 「いつまで拗ねてるつもりだ?」

 紫薇が皿を見ると表面に膜が張ってしまっていた。

 「食わないなら口にねじ込むぞ。良いんだな?」

 それでもプランジェは何もいわなかった。石のように固い背中だけが彼女の意地を語っている。

 「…わかったよ」

 どっと溜め息を吐いて紫薇はその皿を持って台所に向かった。そして戸棚の中に手を突っ込むと、クレシェントと羽月は何をするのだろうと紫薇に目をやった。紫薇が取り出したのはラップで、少し扱い難そうにしながらシチューを覆い、電子レンジで温めるとそのシチューを持ってプランジェの傍に置いた。

 「間の抜けたあいつなら、ここを離れるときにこっそり追い駆けてもばれやしないだろう。手伝ってやるからさっさと食え」

 驚いた顔をしたのはプランジェだったが、彼女よりも驚いたのは他の二人だった。思わず顔を見合わせる。

 「…本当だろうな?」

 「嘘にしたくないなら黙って食え。人が作ったものを粗末にするのは失礼だぞ」

 するとプランジェは腹を鳴らしながら皿を見詰め、傍に置いてあったスプーンでシチューを啜ると、その一口が起爆剤のように一気に掻き込みを始めた。その姿を見ると紫薇はどこかほっとしたように目を緩め、プランジェから離れた。

 「という訳だ。この一週間で出来るところまで俺とプランジェを鍛えろ」

 去り際にクレシェントに向かってそういうと紫薇は書室の中に入っていった。

 「駄目って言ってるのに…」

 クレシェントは観念したようにため息を吐いた。

 「…でも本当に変わりましたよね、紫薇くん」

 台所のテーブルにクレシェントと向かい合いながら羽月はいった。

 「以前はもっと…取り付き辛そうにしていたのに、今では誰かと楽しそうにしたり、朝なんてお友達と一緒に登校したりして、何だからしくなってくれて」

 「そうですね。でもどうして変わったんだろう。初めはあんな目付きが悪かったのに…あ、それは今もか」

 「ふふっ、それはきっとクレシェントさんのお陰だと思いますよ?」

 「私の…ですか?」

 「だって他に理由がないじゃありませんか」

 「でもそんなこと言われたことないんですよね。それが本当ならもう少し柔らかくなっても良いと思うんですけど…。いまだに気を許すと睨んで来るし…」

 クレシェントはまさかなと思いながらも、半分はそうであって欲しいと思ってしまっていた。もしそうであったなら少しは相手の気持ちが自分に向いてくれるのだろうかと淡い期待を望んでしまったのだった。



 赤紫色に染まった部屋には歪な顔をした人形が幾つも浮かんでいる。フェルト生地で出来ているのが余計に意味深な印象を与えた。その霧がかったような部屋の奥には丸い形のテーブルがあり、そこにはオレンジ色の髪をした女性が腰かけていた。その隣には青いローブの男が立っている。

 「それにしても、まさか彼等がああも簡単に罰を引き受けてくれるとは思いませんでしたね」

 「今更になって自分たちが仕出かしたことの大きさに気が付いたんでしょ。良い気味だわ。特にあの目付きの悪い餓鬼、途中から何も言わなくなっちゃって…。ああ、清々した。お陰でお菓子が美味しいわ」

 歪んだ笑みを浮かべながら、レヴィスは机の上に山のように広がっているカラフルな飴菓子を口に頬張った。がりがりと噛み砕いて、舌で転がす楽しみなど毛頭ないようだった。飴の中の糖分が歯を溶かしてもレヴィスは手を止めなかった。

 その手をふと止めたのはリカリスの何気ない一言だった。

 「成功しますかね?彼等」

 「…するわよ。調査によれば有り得ないことだけど、三人のゼルア級と面識があるんだもん。成功するのは確実だわ。きっと大丈夫よ、きっと大丈夫」

 そういってまたがりがりと飴を噛み始めた。レヴィスは自分でもその手を止められないようだった。口許から飛び散った飴の欠片が机の上に散らばった。

 「大丈夫って言ってくれる?…じゃないとクビにするわよ?」

 「それは困りますね」

 その様子を見てリカリスは困った顔をしながらも笑っていた。

 「じゃあ言いなさいよ、済ました顔してないでさ」

 飴をかじる手は更に伸びていった。

 「いつも言ってるでしょ私の命令は絶対だって高額な報酬も与えてるのに未だ何か欲しいの私の体だって二日に一度は抱かせてあげてるじゃない貴方の言った通りよがったり好きな方法でしてあげたり」

 片手では追い付かず両手いっぱいに飴を掬って浴びるように口に入れた。

 「いっぱいいっぱいいっぱいあげてるのに誰も私の言ったことを聞いてくれないでも貴方が私のペットみたいになればそれで良いの誰も誰も誰も私のことをわかってくれない美味しい美味しいもう止めたいのに止めれない早く言って言って私が…」

 「大丈夫ですよ、後は僕に任せて頂ければ」

 そういうと手はぴたりと止まってレヴィスの顔はもとに戻っていった。しかしその目にはまるで精気が感じられなかった。辺りに浮かんでいる人形のように目は淀み、視点の合っていない目で向こうを見詰めた。

 するとリカリスは手を伸ばしてレヴィスの顎を擦り、その顔を自分に向けた。

 「可哀想な人だ、大人になっても童のままだとはね…」

 そして目を閉じて唇を吸い寄せ、口の中で舌を動かすと顔を離した。その後にレヴィスの目は光を取り戻し、驚いた顔をした。

 「何をしてるの?」

 「口許に飴の欠片が付いていますよ」

 何気ない顔をしてレヴィスの口をハンカチで拭いてやると、リカリスは彼女の体から遠ざかった。レヴィスは恥ずかしそうに顔を赤らめたが、すぐに顔をもとのキャリアで塗り直し、凛とした表情でリカリスに顔を向けた。

 「次に無断で私の傍に寄ったら左遷させるわ、良いわね?」

 「畏まりました、会長」

 深々と頭を下げていった。

 「さて溜まっている仕事を片付けるわよ。リカリス、手伝いなさい」

 「はい、喜んで」

 頭を下げたままリカリスは卑しげに口許にしわを寄せた。



 紫薇は学校から帰って来ると、クレシェントとプランジェと一緒に白銀世界に赴いていた。モノクロの海岸から波の音と、印象深い妙なにおいを感じながら紫薇とプランジェはクレシェントの話を聞いた。

 「それでこれから何を始めるつもりだ?出来ることなら、この場所に留まるのは遠慮したいんだが…」

 「実は私も何の為にこの場所に来たのかわからないのですが…」

 するとクレシェントはふふっと得意気に笑った。

 「今日から二人を特訓したいと思います」

 「…特訓、ですか」

 「それは良いんだが、まだ俺の手が完治してないから碌に稽古も出来ないぞ」

 穴ぼこだらけだった両手はまともに動かせるまであと少しといったところだった。

 「大丈夫、今から鍛えるのは体じゃなくて二人の具現化能力よ」

 「まさかクレシェント様、あれを…?」

 プランジェはクレシェントの意図を掴んだのか、ぐっと手を握り締めた。

 「そう、一週間という短期間で少しでもゼルア級に対抗する為には、二人に私の力を上乗せするしかないわ。紫薇、概念は幾つかの分類に別れているのを覚えている?以前にちらっと話したとは思うけど」

 「確か単奏詩や三奏詩以外で共鳴奏歌アルトリアムだったか?後は叙情奏歌アクペルなんてものがあったような気がしたが…」

 「その通りよ。今回はその共鳴奏歌を二人に身に着けて貰います」

 「その概念はどんな代物なんだ?」

 「共鳴奏歌っていうのは、二人以上の響詩者や嘆歌者などがそれぞれの概念を組み合わせ、新しい概念の形を誕生させる特殊な具現化能力なの。ただ人によって合う合わないがあるから、成功するかわからないけど…。今からそれを確かめるわ。紫薇、ちょっとくすぐったいけど我慢してね」

 「…何だって?」

 そういうとクレシェントは躊躇いがちに紫薇の胸に手を差し出した。するとクレシェントの指先は紫薇の体の中に沈んでいった。まるで水面に手を入れたかのようにするりと手が体の中に入ると、急に紫薇は体全体に妙な刺激が駆け巡った。こそばゆいような、いても立ってもいられない焦燥感のような感情が脳みそを蹴飛ばした。

 「…むむ…うわ…止め…くくっ…」

 「変な声出さないでよ…私だって恥ずかしいんだから…」

 目を閉じながら顔を赤らめ、何かを手探りで探した。

 「………………」

 プランジェも過去に同じ経験をしたのか頬を火照らせた。

 「…お前、何をしてるんだ…」

 「…紫薇の処女の庭園に私の種を蒔いてるの。お願いだからもうちょっと我慢して…んっ…あった…」

 その瞬間、紫薇は胸の中に何か熱いものが入って来るのを感じた。すると何だかとても恥ずかしい気分になり、思わずクレシェントから顔を背けた。

 クレシェントも同じような感情を持っていたのか紫薇の体の中から手を取り出すと、背中を向けて少し離れていった。

 「…どうだった?」クレシェントは顔を背けたままいった。

 「…何がだ?」

 「…温かい感じした?」

 「…ああ」

 「…そう」

 二人は暫し顔を合わせずに背中と背中で見詰め合った。

 「………………」

 プランジェはそんな二人を見てどことない気まずさを覚えた。

 「あんまり説明したくないけど…その、抽象的な電気接触なのよ。立場は…逆だけど…だから変な感じがしたの」

 「…ああ、そうかい」

 それから二人がもとに戻ったのは五分ほど経った後だった。プランジェはその間、頭の中で数字を数えて一人の時間を過ごした。

 「さてと…気を取り直して話を続けるわ。共鳴奏歌を扱うにはお互いの心理的相性が合わなくてはいけない。それを確かめる為に紫薇の心の中に私の庭園の極一部を芽吹かせたの」

 「…そうすると俺の中にお前が住み着いたってことか?」

 紫薇は気まずそうにいった。

 「住み着いた…まあ、平たく言えばそうなるかな。私の意識の一部が紫薇の庭園の中に根付いたってことだから」

 「うわあ…」

 嫌そうな顔を見せた紫薇を見て、クレシェントは何ともやるせない気持ちになったのだった。

 「そういえば前にお前とジブラルの概念が合わさった光景を見たんだが、共鳴奏歌っていうものは即興で出来るような代物じゃないんだろう?」

 「勿論よ、あの時はジブラルが無理に事を進めてしまったから具現化こそ出来たけど、きちんと共鳴していなかったからジブラルの体が拒絶反応を引き起こしていたわ。本来なら時間をかけて昇華させるものだから…」

 「それでも具現化まで持っていった辺りがゼルア級の恐ろしさだな。…待てよ、そんな小難しいものを一週間やそこらで習得出来るのか?」

 「ううん、させるの。出発の前日までは睡眠ゼロだからお願いね」

 「………………」

 紫薇はやっぱり止めて置けば良かったと今更ながら後悔した。

 「最低でも私との共鳴奏歌が成功しなきゃ連れていけないわ。それはプランジェ、貴方もよ」

 「(三百十一、三百十二、三百十三…)は、はい!?わかりました!?」

 やっと三百を切った所でプランジェは我に返った。

 「お前とプランジェでもまだ完成していないのか…」

 「どういう訳か私とクレシェント様は相性が悪いのだ…。シンボルの共産を行ったならば普通はこんなことは起こらないのだが…」

 「後は私のせいもあるわ。多分、私の体が普通と違うからでしょうけど…」

 二人揃ってばつが悪そうに俯いた。

 「(そういう所は似てるんだがなあ…)」

 紫薇は汗を垂らしながらしみじみと思った。

 「下ばかり見ていても気が落ち込むだけだ。さっさと始めるぞ」

 「…そうね」

 少しほっとしたようにクレシェントは笑った。

 「じゃあ先ずは精神を落ち着かせる為に座禅でも組みましょうか」

 「随分と古典的なやり方だな」

 その場に腰を降ろしながら紫薇は意外な取り組みをするものだと思った。

 「そうでもないわ。座禅は古来から瞑想を通して心身の状態にある変化を起こさせる特殊な身体技法なの。最近じゃスポーツにも積極的に取り入れられていて、フランスの誰だったか忘れたけど、その人は瞑想によって自分の体を改造して普段なら出来もしない様なことをしてみせたのよ。正に座禅や瞑想は画期的な精神統一の方法だと思うけど…ああ、ラインホルトって人みたい」

 話の途中で懐に隠しておいた本をちら見した。

 「途中までは良かったな、そのページを盗み見るまでは」

 「と、兎に角!先ずは目を瞑って精神を集中させる。具現化に移るのはそれからよ。プランジェを見て、もう目を閉じてる」

 クレシェントが指差した方を見ると確かにプランジェは胡坐をかきながらぴたりと体を止めていた。何故かその格好がやけに様になっていた。

 「さっ、紫薇もやってみて。座禅って見た目より難しいのよ」

 「目を閉じるだけだと思うんだが…」

 一呼吸してから紫薇は目を瞑り、ゆっくりと体の力を抜きながらも意識は決して落とさないように努めた。視界が真っ黒になっても紫薇は自分の周りに二人の気配を感じ取っていた。

 「…驚いたわね」

 十分ほど経った後にクレシェントは思わず口に出してしまった。

 「二人とも、もう良いわよ」

 そういうと紫薇とプランジェは目を開けてふうと息を吐いた。

 「まさか二人揃って石みたいに動かなくなるとは思わなかった。特にプランジェ、座禅なんて教えたことあったかしら?」

 「はあ…やってみたことはないのですが、何故か体が勝手に…」

 「紫薇はどうして?」

 「だから言っただろう。ただ目を閉じるだけだって」

 「そう…」

 クレシェントはこの日の為に作っておいた木製の尺を残念そうに見詰めると、懐に仕舞った。

 「…お前それで何をするつもりだった?」

 「べ、別に何もしないわよ!」

 「なら良いが」

 疑り深い顔をして腕を組んだ。

 「じゃあここからが本番よ」

 そういってクレシェントは座って胡坐をかいた。

 「紫薇、自分の処女の庭園を思い浮かべて。漠然としたもので良いの」

 「…わかった」

 紫薇は初めて概念を具現化した時のことを思い返した。背中を身震いさせながら頭の中に心の奥底を抽象化する。漠然とした意識の中、暗闇の中にぽうっと白い光が浮かび上がった。

 「…まだ?」

 ふとクレシェントは紫薇の顔を覗き込んだ。

 「おぼろげだがもうイメージは出来てる」

 「え?じゃあ何で概念が出て来ないの?」

 「…俺が知るか」

 「半獣人にならなければ具現化が出来ないのでは?」

 徐にプランジェがそう口にすると紫薇ははっとした。

 「そうなの?」

 「ああ、この響詩者の権限は権兵衛のものだったんだろう。姿を変えないと具現化はおろか体だってまともに動きやしない」

 「…権兵衛、今は紫薇の中にいるんだよね?さっき紫薇の庭園に触れた時にわかったの。まるで権兵衛が紫薇の庭園を守ってるみたいだった」

 「そう悲観することでもない。権兵衛はもうとうの昔に死んでるんだからな」

 そういいながらも紫薇の顔は寂しげでどこか欠けてしまっているようだった。

 「それにしても、体の中に流れている奏力が魔力に変換されたというのにどうして紫薇の目は黒いままだったのでしょうね。それに権兵衛と同化したからと言って、概念を具現化できるなんて不可思議な話です」

 「生前の権兵衛が響詩者だったからじゃないのか?」

 紫薇は自分の体を半獣人に変化させながらいった。

 「奏力と魔力を併用していることが有り得ないのだ。普通、どちらか片方の力だけが、その体に流れているものだからな」

 「お前、大食らいの自分の主人を忘れてないか?魔姫になればクレシェントも魔力に取って代わるだろう」

 そういうとプランジェはあっと声を上げた。

 「もしかしたら…権兵衛も私と同じで、外部から刺激を与えられた存在じゃないかしら?ただ私と権兵衛じゃその力の安定性が段違いだけど…。何ていうか、権兵衛は自然なのよ。体の作りやその力の源が私と違って、もっと馴染み易いっていうか…上手く言い表せないけど…」

 「まあ、権兵衛が何にせよ、今はどうだって良いさ。それにお前と権兵衛を一緒くたにしたらあいつが可哀想だからな」

 「…どういう意味よ」

 クレシェントは急にむっとした。

 「お前は可愛げがないってことだ。尻尾を振られても撫でる気がしない。それとプランジェ、お前に至っては噛み付いてきそうでとても愛玩には向いてないだろうな。まあ、二人揃って小汚い捨て犬ってところか」

 「紫薇は休憩なしね」

 「おやつもな」

 二人は表情を変えずにいい放った。

 「…お前ら」

 「さあ、さっきの続きをしましょう。プランジェも処女の庭園を思い浮かべて」

 「わかりました」

 「……………………」

 紫薇はもう少しだけ口に気を付けようと後悔した。

 そうして軽い冗談を飛ばしながら三人は各々の概念を具現化した。クレシェントの手の平には赤い螺旋状の光が生まれ、プランジェの手の平には赤い光の中に白い立方体が生まれ、更にその中には赤い球体が出来た。紫薇の手の平には白い光の中に淀んだ色の蛾が生まれた。

 「うん、上出来ね。これが処女の庭園を客観的に、そして抽象的に具現化したものよ。この概念を『箱庭(ガウシュリー)』って呼ぶ人もいるわ」

 「その名前は確か…」

 「そうだ。ナーバル・メズ・ガウシュリーとは『壮大なる夢の箱庭』という意味を持っている。誰が名付けたのかは知らないが、大方昔の人間が名付けたのだろう。そしてナーガと呼ぶようになったのは、その長ったるい名前を古臭いと忌み嫌った美芸師が勝手に名付け、それに便乗した周りの人間によって広まったものなのだ」

 「…豪く人間味のある理由よね」

 「歴史なんてそんなものだろう。どんな偉人だって所詮は人だしな」

 「そうかもね。じゃあそろそろ始めましょうか。紫薇、先ずは私の箱庭と紫薇の箱庭をくっ付けるわよ」

 クレシェントと紫薇の箱庭が徐々に近付いてお互いの光を吸収し合った。光の表面が崩れるように細かい粒子となって合体していく。だがその途中、二つの光の間に起きていた現象が急に活動を止め、あろうことかクレシェントの赤い光が紫薇の白い光を蝕み始めたのだ。

 「紫薇!気をしっかり持って!飲み込まれるわよ!」

 「そうはいってもお前の力が強過ぎて…!」

 紫薇は必死に箱庭をその場に維持しようとしたが、白い光の殆どが赤い光に飲み込まれてしまった。白い光は赤い光の端っこの部分にだけ際どい状態で残っている。

 「完全に箱庭が消えてしまったら終わりよ。私の力を上乗せするだけだから紫薇の意識が消滅しなければ良いの。その状態を続けなさい」

 既に紫薇はクレシェントの言葉に耳を傾ける余裕はなかった。汗をだらだらと垂らし死に物狂いで自分の箱庭を消させまいと踏ん張っている。クレシェントは手を掲げながら今度はプランジェに顔を向けた。

 「さあ、今度はプランジェの番よ。ゆっくりと落ち着きながら意識を和らげて」

 クレシェントは左手に同じ箱庭を具現化させたがその螺旋の色は紫薇に向けているものと違って青い色をしていた。二人の箱庭がくっ付き始める。紫薇の時と打って変って二人の箱庭はスムーズに吸収し合った。そうして半分までやって来た所でプランジェは更に意識を高めた。プランジェの思惑通り、その現象は起きた。二人の光が半分を越すと、今度はお互いの箱庭がまるで磁石の様に反発し始めたのだ。

 「やはり起きたか…!」

 歯を食い縛りながらプランジェはより一層力を入れた。

 「プランジェ、先ずはこの状態を維持することを考えなさい。共鳴はそれからよ」

 「は、はい!」

 紫薇とプランジェはそれから長い時間ずっと意識を集中させながら箱庭を維持することを努めた。その間クレシェントは一言も喋らずに二人の様子を見守り、持って来た時計を数時間ごとに一瞥した。

 紫薇とプランジェの顔色がフルマラソンを完走したみたいになった頃、クレシェントの傍にあった時計がけたたましい音を立てた。その音を合図にクレシェントは自分の箱庭を消滅させ、怒り狂った時計のアラームに手を伸ばした。

 「今で六時間って所ね。夜食を取ったらまた始めるわよ…って、聞いてないか」

 顔をもとに戻すと、そこには地面にぐったりと横たわった紫薇とプランジェの姿があった。二人とも大の字になって酷い格好だった。

 「…思った以上に…どぎついな…」

 「…体を…動かすよりも疲れるとは…やはり…修行が足りぬのかあ…」

 そんな二人の姿を見てクレシェントは苦笑いしながら夜食のおにぎりを頬張った。

 夜食を吐きそうになりながら何とか飲み込み、一行はそれから更に四時間集中を続けた。


 二日目


 紫薇は頭をくらくらさせながら登校した。

 「…大丈夫か、絵導?何だか四十過ぎの中年みたいだが」

 「…倒れたら負ぶって運んでくれ」

 学校では授業などそっちのけで居眠りに没頭した。


 学校から帰って来て眠い目を擦りながら玄関を開けた。そして靴を脱いだ所で大きい欠伸を一つして、目を開けるといつの間にか白銀世界にやって来ていた。後ろを見てみるとレミアの鍵が閉じられた所だった。

 「糞っ、一息する暇もないのかよ…!」


 三日目


 紫薇は頭をふらふらさせながら登校した。その際、一度だけ倒れそうになったのを蘇芳に受け止められ、五分だけ蘇芳の肩を借りた。

 教室に着いた紫薇を赤縞は嫌な顔をして見た。

 「…おい、なんだその目の隈は?夜遊びするにゃ未だ早いんじゃねえのか?」

 「…夜遊びの方がまだマシだ」

 あしらいも以前の半分ほどの力になってしまっていた。


 「…そう来たか」

 紫薇が学校からやっとのこと帰って来て玄関を開けると、そこには既にレミアの鍵が口を開けて待っていた。紫薇はその行為に悪意を感じざるを得なかった。


 四日目


 老人のような息をしながら紫薇は学校に一時間かけて登校した。蘇芳はそんな紫薇を不憫に思ったのか同じペースで歩き、初めて遅刻をした。

 「…ねえ、絵導君って危ない薬とかやってるの?」

 「いや、根は腐ってるがそこまでじゃねえ…筈だ」

 赤縞と榊原が引いてしまうほど紫薇の外見は衰弱していた。


 四日目は家に帰って来るまでまた一時間かかった。流石に朝に見た紫薇の姿を不憫に思って赤縞は半ば紫薇を担いで家まで送った。

 息も絶え絶えになりながら玄関を抜けると、意外なことにレミアの鍵はどこにも仕掛けられていなかった。紫薇は多分、クレシェントも流石に前回の仕打ちを反省したのだろうと思った。


 「クレシェント、ちょっと試してみたいことがあるんだが」

 「何?」

 共鳴奏歌の訓練を始めてから一時間、紫薇はふと思い付いたことがあった。箱庭を消滅させ、紫薇は靴と靴下を脱いで目を閉じた。そして頭の中に権兵衛の唸り声をイメージさせ、肉体を半獣人から獣人に変化させた。

 「この状態で箱庭を共鳴させたらどうなる?」

 「うーん、どうかしら?やるだけやってみる?」

 何気ない気持ちで箱庭をくっ付けみると意外な結果が現れた。半獣人の時よりもずっとスムーズに二人の箱庭は共鳴を始めたのだ。紫薇の箱庭は四分の一ほどでその状態を維持している。

 「な、何だと…!?」

 プランジェは一足先に追い越されたようで衝撃を受けていた。

 「だいぶ…楽だな。てっきり俺は奏力と魔力は別物だと思っていたんだが…」

 「…となると紫薇と共鳴奏歌を具現化するのは紫薇がその状態になったときだけね。紫薇、その状態はどのくらい維持することが出来るの?」

 「どうだろうな、一時間は固いと思うが…何しろこの状態も前の状態も、魔力や奏力が徐々に減っていくからな。あまり長時間は出来ないな」

 「じゃあその効率を上げる為にもその状態で続けるしかないわね…ってプランジェ?どうかしたの?」

 どこか恨めしげな目で紫薇を見詰めるプランジェの視線を感じ取った。

 「(おのれおのれおのれ…)」


 五日目


 獣人になることで更に疲労が高まった紫薇は三時間かけて学校に辿り着いた。蘇芳は何もいわずに懸命に歩いている紫薇を影ながら応援した。二度目の遅刻だった。

 「ほらよ」

 赤縞はそっと紫薇の机の上に滋養飲料を置いた。

 「絵導君、うちのパパが飲んでた強壮剤あげるね」

 「絵導、何か欲しいものはあるか?そうだ、本でも買って来よう。なあに、お代なら心配するな。俺からの奢りだ」

 そうして紫薇の机には豪華なお土産で溢れた。

 「プレゼントでどっちゃりだね。じゃあ僕も」

 最後に藤原が湿布とレモンを置いていった。

 


 「さっきから何を睨んでる?」

 集中している最中にプランジェの妖しい視線を感じ取った。

 「いや、何でもない」

 「ならその怨み積もった目はなんだ」

 紫薇の目には積年の怨念を身に纏ったプランジェの姿が映っていた。言葉は発さない。しかしながらその背景に浮かび上がったどす黒いオーラは一目で敵意を抱いているとわかった。

 「こらプランジェ、ちゃんと集中しなさい」

 「…はい」

 そういいながらもプランジェは不服そうな顔をして箱庭に向かい合った。そのプランジェの横顔を紫薇は黙って見詰めると徐に箱庭を消滅させた。

 「ちょっと紫薇?」

 「少し休憩しよう。根を詰め過ぎても空回りするだけだしな」

 体を獣人のままにして持って来た水筒に手を伸ばした。するとクレシェントは肩を竦めて立ち上がり、紫薇の隣に座って弁道箱を開け始めた。

 「…………………」

 二人の後姿を見てプランジェは少し寂しそうな顔をした。自分だけ箱庭の共鳴が上手くいかないことにプランジェは苛立ちと焦りを覚えていた。

 「…しかしこんなにも共鳴奏歌とやらが難しいとはな」

 額から滲み出た汗を拭きながら紫薇は水筒に入っていた麦茶を口にした。

 「でもこんな短期間でここまで出来るとは思わなかったわ。紫薇がその姿で共鳴を始めようなんて言わなかったら、きっと間に合わなかったでしょうし」

 プランジェは水筒のキャップを握りながら視線を落とした。

 「あ、そうだ。紫薇にちょっと説明して置かなきゃいけないことがあるの」

 「なんだ?」

 「月と魔力についての関係よ。紫薇は半獣人から獣人に変身するときに奏力が魔力に変わるわね?このときにもしナーガの空に月が昇っていると、月の恩恵によって魔力は底上げされるわ。月は魔力の結晶と言われ、その体の中に眠っている女王の血を呼び覚ますの」

 「そうなるともし相手が獣人だったらこっちの不利になる訳か」

 「その通りよ。だからこれから先、ナーガに出かけるときは月の出没に気を付けないと思わぬ反撃を受ける嵌めになるわ」

 「月の出没はどうやって見極める?」

 「こっちの世界で日数を照らし合わせると二日に一度は現れるみたい」

 「随分と雑把だな…」

 「そうね、でもこっちの世界みたいにいつも月が空に出ていたら、魔力を持っている人や動物は狂っちゃうわよ。あとそうだ、魔力が上がるのは月光を直に浴びているときだけよ。遮蔽物があったり建物の中だと効果がないから注意して」

 「…出鱈目なようで意外と整った世界なんだな。まるで奏力と魔力が上手いこと均一になるように作られているみたいだが」

 「言われてみればそうね…プランジェ、貴方はどう思う?」

 「…え?あっ、はい?」

 矢庭に会話を向けられプランジェは慌てふためいた。どうやらプランジェの耳には今の二人の会話は入っていないようだった。

 「大丈夫?なんだか顔色が悪いけど…」

 「まあ、これだけ徹夜を強いられてればな」

 「それを言わないでよ…」

 クレシェントは悪いとは自覚しているのか気まずそうな顔をした。

 「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」

 笑顔を作って頭を下げたがその顔はどこか優れなかった。

 「…なあクレシェント、また一つ思い付いたんだが」

 「今度は何?」ちょっと呆れ顔でいった。

 「俺とプランジェの箱庭を共鳴させたらどうなる?」

 そういうとプランジェは驚いた顔をして紫薇を見た。

 「どうって…そんなに上手くいかないと思うけど。プランジェは私の抽象種だから箱庭の相性は良いと思うけど」

 「ものは試しだ。プランジェ、手を出せ」

 水筒を傍に置いて紫薇は手をかざした。プランジェはどうせ駄目だろうと半ば諦めながら手を掲げてみると、意外な結果が引き起こった。二人の箱庭はすんなりと半分まで吸収し合ったのだ。

 「こ、これは…」

 「嘘…こんなにも簡単に?」

 二人は驚いて意識を乱してしまい箱庭は消滅してしまった。

 「さてこれをどう捉えるべきか…。俺の負担が増えたと嘆くべきか、それともプランジェ、お前と肩を並べて喜ぶべきなのか…」

 「凄いじゃないプランジェ!私だって共鳴が出来るまで一ヶ月はかかったのに…二人の相性が良いだけじゃこうはならないわよ!おめでとう!」

 「あ、いや…私は…?」

 プランジェは何が起こったのかまだわかっていないようだった。

 「となれば先にプランジェとの共鳴を終わらせるか?それとも…」

 「ってちょっと待って、本来は私との共鳴なんだけど…」

 「代わりだよ、代わり。いつまでも出来もしないものに頼っても仕方がないだろう。ならそれに代わるもので埋めてやれば良い。まあ、その分俺の負担は倍になる訳だが。なあ?プランジェ」

 「紫薇、お前…」

 プランジェはまさかと思った。まさかあの紫薇が自分の為に気を利かせたなどと思いもよらなかったのだ。

 「さて喉も潤ったことだし始めるぞ。プランジェ、気味が悪いのはわかっているが、さっさと俺の中にお前の種を入れろ。クレシェント、お前は事故らないようしっかり見張ってろよ」

 「あっ、待ってよ!」

 慌ててクレシェントは菓子パンを口に詰めて紫薇の後を追っていった。

 プランジェは座ったまま紫薇の背中を見送った。その時の紫薇の背中はいつもよりも大きく見えて、プランジェはいつの間にか笑ってありがとうと小さく呟いた。


 六日目


 紫薇の足取りは重かった。二倍の仕事をした体は疲れを通り越して無意識に動いているかのようだった。羽月には学校を休むように薦められたが、何故か紫薇は学校に向かってしまった。その根性と努力のお陰か、最後の日はいつもと同じ時間帯で登校できたが、校舎の中での紫薇の動きはまるでスローモーションのようだった。それが災いして廊下を歩いていると、朝の掃除をしていた生徒がうっかりバケツの水を零してしまい、紫薇の頭をびしょびしょに濡らした。

 「…ご、ごめん!(うわ、絵導だ…!)」

 その生徒は紫薇の悪評を知っていたのか紫薇の顔を見ると青ざめた。

 「いや、他の生徒じゃなくて良かった。それより朝の掃除、ご苦労だな」

 そういって紫薇は何事もなかったかのように歩いていった。その生徒は聞いていた評判と大分違っていたこともあって目を丸くさせていた。

 「…疲れ過ぎて悟りを開きやがった」

 赤縞はその様子を後ろから見ていた。



 学校から帰って来ると紫薇はクレシェントから白い帯を渡された。

 「…なんだこれは?」

 「鉢巻よ。最終日だから気合を入れてみようと思って」

 「いらん」

 そういって紫薇は鉢巻を投げ捨てた。

 「後で後悔してもしらないからね!」

 「そんなもんで気合が入れば壬生狼は死ななかったよ」

 「この恨み計らいでか…」

 わなわなと手を震わせた。

 クレシェントはその時の恨みを晴らすかのようにクレシェントは箱庭に入れる力をこれでもかと強めた。

 「…馬鹿かお前は!最終日なのに余計に力を入れる奴があるか!」

 ただでさえ二人の箱庭と共鳴させて疲弊している体に鞭を打つような仕打ちに紫薇は意識を飛ばしそうになった。

 「この程度でへこたれるようじゃ実戦なんて夢のまた夢よ。さあ、私の箱庭を食い潰す気で来たらどう?尤もそれが出来ればだけど」

 「…糞っ、マネキン女が…!」

 紫薇の箱庭は擦り切れて半分にも満たない状態になってしまっていた。それでもクレシェントは紫薇の意識を飲み込むように箱庭に詰めた力を強めた。

 「(確かに紫薇とプランジェの共鳴奏歌は絶大な具現化力を垣間見せていた。下手をすれば私の概念を打ち破る位に…。でもそれじゃまだ足りないのよ、あのゼルア級に太刀打ち、ううん…少しでも怯ませることが出来なければ、とてもじゃないけど逃げることだって出来ない。わかってるわよね、紫薇?貴方はそれを身に染みて知っている筈なのだから)」

 クレシェントは更に意識を高めて箱庭を大きくさせた。

 「…ぐっ!」

 紫薇の頭に電撃が走った。強過ぎるクレシェントの意識が紫薇の意識を共鳴はおろか乗っ取ろうとしてしまっていた。それに伴ってプランジェに向けていた箱庭も徐々にその形を失っていった。

 紫薇は自分の箱庭が、庭園が赤の他人に土足で踏み荒らされるような気分に襲われた。と同時に秘めていた庭園の根幹を暴かれるような気がして紫薇の箱庭は益々消滅していった。

 「紫薇、共鳴はお互いを拒絶し合うことじゃないわ。自分の心を少しだけ、誰かに許すことなのよ。私の力が強まってるんじゃない、貴方の他人に対する恐れが自分の力を弱めてるのよ!」

 実際の所クレシェントは少しも力を強めてなどいなかった。三人の箱庭が同調を進める度に紫薇の心が後退してしまっていたのだ。紫薇はそれがわかっていながらも迫って来るクレシェントの思いを跳ね除けてしまっていた。

 「(…わかっている、そんなことは…わかっているんだ…)」

 じわりと背中の傷痕が痛み出した。紫薇はどうしても他人と触れ合うことでいつかその人間が自分を傷付たり裏切ったりしないかという不安が拭えなかった。そのことを裏付けるかのように背中の痛みが物語る。紫薇は恐怖で叫んでしまいたかった。

 「紫薇、自分を信じて。誰かを信じる自分の気持ちを」

 ふとクレシェントが笑ってそういった気がした。紫薇は時折クレシェントが見せるそんな笑みが嫌いだった。にっこりと、屈託のない満面の笑みを容易くしてみせるそんな彼女を紫薇は疎ましく思い、そして一筋の情景を抱いていた。

 「嫌な笑みだよ、全く…」

 閉じていた紫薇の扉がまたほんの僅かに開いた。すると紫薇の箱庭の中に入っていた蛾が一瞬だけ七色の光に輝くと紫薇の箱庭は輝きを強め、クレシェントとプランジェの箱庭と一つになってそれぞれの手の平の間に花が咲いた。

 クレシェントとの間に出来た花びらは力強い真っ赤な色合いで白い葉っぱと茎を持っていた。プランジェとの間に設けた花は桜に似た儚げな八重咲きの花弁だった。

 「これが共鳴奏歌の証なのか…」

 プランジェはその花を手に取ってまじまじと見詰めた。

 「そうよ、お互いの箱庭から取り出した種を交配させた新しい概念の形、共鳴奏歌…その発動の鍵となるものは個々のイデアに他ならない。共鳴とは単に二つの意思を通わせるだけじゃないのよ。こうして未知の概念をも作り出すことが出来るの」

 「ですが…あの…宜しいのでしょうか?まだ、私はクレシェント様と…」

 「…良いわ、今はもう何を言っても聞かないでしょうし。でもちゃんと私の言い付けは守るのよ?」

 「は、はい!」

 プランジェが嬉しそうに笑うと、クレシェントも自然と笑みを浮かべてしまった。だがそんな二人を置いて紫薇はついに限界が来たのか、白目を向いて倒れてしまっていた。紫薇が倒れた音を耳にしてやっと二人は事態を把握した。

 「し、死んでる…」

 「だから鉢巻をして置けば良かったのだ…」

 「なんて冗談を言っている場合じゃないわね。さっさと運ばないと」

 二人はあたふたしながら紫薇を家の中に運んでいった。

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