34話 白髪の王子

 『デルファーレ・ガゼラブ・ネアオルフォシンサス(無敗を掲げた上演)』

 刃が擦れる音が喝采となり、中央に立った花形を祝福している。舞台の両脇は歯車の形をした黄金の剣が連なり、天井には槍の集まりが太陽の放射線を描き、床からは斧の刃が段を成して舞台を立体的に彩っていた。眩いばかりの刃の隊列が辺りを照らし、誰もが憧れを抱いてしまうような光景がそこにはあった。

 「どうだ?我が概念の美意識は?まるで戦場の舞台を見ているかのようだろう。これこそがレギスチオンの正当後継者の証だ。貴様の概念は廃れた劇場そのもの。安価で、陳腐な真似事だ」

 ランドリアはその光景に飲まれつつも鎌の持ち手を握り締めた。

 「その目に刻み付けるが良い…。本物と紛い物との差をな!」

 ツヴァイベルはまるで指揮者のように腕を払うと、辺りの景色が光を出して動き始めた。先ず始めに槍の雨が降った。雨は一箇所に集中して降り、ランドリアを追い詰めていった。次に剣の風が吹いた。剣で出来た歯車は一斉に飛び出し、ランドリアの体を切り刻んでいった。何度ランドリアが鎌を振るって抗っても、無数の刃を弾き切ることは出来ず、装甲に皮膚に肉に傷をつけていった。最後にランドリアの目の前に三本の柱が現れた。それは巨大な斧の刃で、天井すれすれまで聳え立ち、傷ついたランドリアを叩き潰すには十分すぎた。逃げ場など一切与えない、むしろ余力を超えていた。

 ランドリアは必死にその斧を見上げていたが、血で濡れた目ではもう殆ど視界が汚れてしまい、他所に動くことも出来ずにただ振り下ろされた斧を見ていることしか出来なかった。最後の力を振り絞って振り上げた鎌が虚しく宙で弾けた。

 斧が床にめり込み、刃の半分を隠している。それから劇場に喝采が鳴り響くと、その場に現れていた武器は消えていった。残ったのは床に沈み、装甲を引き剥がされたランドリアの無残な姿だった。

 「身に染みてわかっただろう。貴様と私では引き継がれている格が違うのだ。どんなに抗おうとも、呪ってみせても、これが貴様の限界だ」

 ツヴァイベルの言葉がランドリアの胸に重く圧しかかった。

 「貴様の血は水より薄く、油よりも軽い。怨むなら貴様の母親を怨むのだな」

 吐き捨てるかのように言葉を発してツヴァイベルは背中を向けた。


 ランドリアは朦朧とした意識の中で、とある記憶を思い返していた。その昔、血族に家を追われて途方に暮れていたときのことだった。

 手足の伸び切っていない小さな体を動かして、かつて紛い物(レーシア)と呼ばれた少年は道なき道を歩いていた。手荷物は母がくれた白いペレー帽と、追い出されるときに家から盗み出した一本の剣だった。その剣はかつて大将軍と賛美されたアニュエラ・レギスチオンの愛刀だった。剣は小さな体には余りにも不釣合いで、必死に両手で抱えているものの、今にもこけて落としてしまいそうだった。

 爪先が地面に突っ掛かって倒れる。レーシアは声を上げて痛がった。腕を擦り剥いたのか、袖が破れて肌が露になった。そこからレーシアは自分の腕に刻まれた黒い刺青を目にした。その刺青はレーシアの母親の両腕にあったものだった。


 「レーシア、その刺青はいつか貴方の助けになってくれるでしょう」


 ベッドの上、レーシアはその刺青を託された日のことを思い出した。まるで母親が子供に本を読んであげるような口調で話しながら、埃の被った部屋の中、一際目立った薔薇色の髪の毛をした女性がレーシアの傍に座っていた。

 「本来の私たちは、自分の血を受け継いだ子供よりも積み重ねた力を託します。意識や自己存在を捨て、より優れた個性を誕生させる。それが私の世界の在り方。でもここに来てから、私は愛を知りました。私が子供を作るなんて今にも信じられません。だから不思議なのです、こうして何の力も持たない貴方に、私の全てを捧げることが。…きっとこれが母性というものなのでしょうね。レーシア、貴方を心から愛しています。いつまでも一緒ですよ」


 レギスチオン家がレーシアとその母親の処罰を決したのはそれから間もない頃だった。誰も異界の血が混ざった子供を認めようとはせず、レーシア・バル・レギスチオンは極内々に処理され、その母であるマジョリカ・セイタンは地下牢に課せられることになった。そのことに逸早く気付いたマジョリカはレーシアを逃がし、代わりに自らが処罰を受けるようにした。

 幼いレーシアはただその歪んだ運命に身を任せるしかなかった。抗うことも出来ず、言い分を主張することも許されず、ただ黙って母親の曇った顔を見て外に出ていくことしか出来なかった。その時のレーシアの気持ちがどんなに辛辣なものだったか、それはそのときの本人ですら追い付いていなかった。

 行く当てのないレーシアはひたすら歩き続け、精魂尽き果て倒れたその場所は、魔人の巣窟と呼ばれたグリアデス地方だった。レーシアはそこで生涯の主となる怪人と顔を合わせ、その後にランドリア・プラファンドールという名を授かった。

 ランドリアは怪人の指導の元、着実に力をつけていった。その長い年月の中、ランドリアは心の奥底に母親の記憶と深い恨みを閉じ込めた。ランドリアは何も出来なかったという自分の無力さに目を背けたのだった。

 だがその嘘はある人物によって抉じ開けられることとなる。絶対的な力の格差を見せ付けると、その小僧は何も出来なかった。しかし後になってその小僧の目は反抗的な目に代わっていた。それどころか再びねじ伏せてやっても、一向に諦めようとしない。ランドリアはその目に、深い嫉妬と、同時に僅かな憧れを感じてしまっていた。

 ランドリアがセルグネッドの王宮に忍び込んだのは全くの偶然だった。主の命などある筈もなく、ただランドリアの脳裏にあの目が焼き付いて離れない。それだけの理由でランドリアは腰を上げ、かつての自分を殺めようと奮い立ったのだった。ランドリアはその小僧を見かけたとき、これは運命なのだと悟った。自らに決着をつける、仮にそれが敵わない相手だと知っていたとしても。それは正しく、年端のいかない生意気で、牙も鬣も持っていなかった絵導紫薇と同じだった。


 「…やはり貴様は小僧だ」

 ランドリアは少しだけ口許を緩ませ、ゆっくりと体を起していった。その際に鎧が床に当たって音を上げると、歩いていたツヴァイベルの足がぴたりと止まった。

 「貴様、まだ…」

 まさかと思い、首を曲げたツヴァイベルは絶句した。全身を真っ赤にさせながらも確実に這い上がり、体を震わせても尚その目には揺るぎない闘志を点していた。何より遠大な力を目の当たりにしても、決して退こうとしないその目をツヴァイベルは恐れてしまっていた。以前にランドリアが紫薇に抱いたときのように。

 ランドリアの両腕に描かれた刺青からは途方もない力が溢れ、全身に回ろうとしていたがランドリアはそれを拒絶していた。自分の力だけで立って歩く。それはかの紫薇ですら出来なかったことだった。

 「(見せ付けられたその目の代わりに、私は貴様に出来なかったことをしてみせよう。何の鍛錬もせず手に入れた力などに溺れない、この四肢に刻み込んだ経験だけで、貴様を凌駕してやる。そうとも、私の外敵は自らを置いて他にない!)」

 再びその手に黒い鎌を具現化させ、その刃を光らせた。

 「始めるぞ、ツヴァイベル。この舞台はまだ終わっていない。今もこうして、もう一人の役者が立っているのだからな」

 「図に乗るなよ…この紛い物が!」

 ツヴァイベルが叫ぶと、同時に巨大な三本の斜め刃がそそり立った。

 『ゼペルファーザ・ガゼラブ(法の王)』

 右の斜め刃が倒れ始めると、残りの二本も後に続いて倒れていった。斜め刃は床を砕き、衝撃と煙を上げながら突風を生み出した。だが最後に倒れた斜め刃は球状に抉られており、その部分をツヴァイベルが見つけたときにはランドリアが煙を掻き分けて懐に飛び込んだ後だった。

 「それで詰めたつもりか!」

 ツヴァイベルは手に濡羽色の剣を具現化し、鎌を払い除けてみせた。ランドリアの走る速度は受けたダメージの為か、初めの頃に見せた勢いを出せずにいた。しかしランドリアは鎌が弾かれ体を切られても、構わずに前に進み続けて鎌を振るった。

 後退しながらもツヴァイベルはしっかりと鎌の軌道を読み取り、着実に弾いていった。ランドリアが途中で跳び上がり、背中に回って奇襲をかけても冷静に肌で殺気を感じ取り、対処してみせた。にも関わらず、ツヴァイベルは今迄に感じたことのない感情に駆られてしまっていた。

 「(何故だ…?何故、奴はあれほどまでに傷付いても立ち向かって来れる…?)」

 ツヴァイベルはあれから傷を一切受けていない。しかしツヴァイベルの中で芽生え始めた感情が大きな焦燥だと知る由を得なかった。代わりにふつふつと得体の知れない何かに心を惑わされているようで、感情の起伏がツヴァイベルの顔に見え隠れした。

 「(この感情は…この胸を引っ掻かれるような気持ちはなんだ…)何なのだ!」

 ツヴァイベルは剣を大きく振るってランドリアの体を吹き飛ばすと、握り締めていた濡羽色の剣を消滅させ、今度は濡羽色の筆を取り出した。その腕くらいの長さの持ち手の先には刃のように鋭い穂首があった。ぷっくらとその先に黒い水玉が膨れる。

 『フェセティーノ・ガゼラブ(憲章大帝)』

 筆が振るわれると、水玉が弾けてそこから黒い水があふれ出した。さながら瀑布のように辺り一帯を埋め尽くし、波濤と化して荒れ狂った。

 『アーガスト・ニヴェル・ギルフェバウス(青い客席に仮面が置かれ)』

 辺りを飲み込みながら迫る波にランドリアは拍手の波で対抗した。その勢いは一瞬だけ拮抗したが、すぐにランドリアの波は押し負けていった。ランドリアはその光景を見るとすぐに波の上に手の平で作った黒い花びらを撒き散らした。そして波が体を飲み込む前にその場から跳び上がり、黒い水の上に浮かんだ花びらを蹴飛ばしてツヴァイベルとの距離を詰めていった。

 『バルチェルグ・ガゼラブ(氷心皇帝)』

 その挙動を見るとツヴァイベルは即座に宙を滑空するランドリアに向けて透明な槍を繰り出した。だがランドリアはその槍が完全に具現化される前に残った力を振り絞り、最高速度を出して懐に飛び込むと、ツヴァイベルの胸を切り裂いた。その一撃に動揺が走ったのか槍は音を立てて崩れ、波もいつの間にか消滅してしまっていた。

 今度はツヴァイベルが自らランドリアと距離を取り、刻まれた刃創に苦しみ、声を上げた。ランドリアは追撃に向かおうとしたが体が悲鳴を上げ、爪先を止めて痛みを走らせた。

 「そうか…同じだということか…。あのときと…」

 先に言葉を発したのはツヴァイベルだった。指先で傷に触れ、血に塗れた中指を見てランドリアの髪の毛と見比べた。色の濃さはランドリアの髪の毛の方がずっと濃い色で、また気品に溢れた色をしていた。それはツヴァイベル自身が思ったことでもだった。

 『シューゲンゾルチ・ネア・オルフォシンサス(英雄は凱旋を口ずさむ)』

 ツヴァイベルの真上に具現化されたのは完全な人の姿だった。黒い髪を紡いだ戦乙女。美しい顔立ちに似合わない鋭い剣を持ち、人の何倍も大きい姿をしていた。がっしりとした鎧を身に纏い、その形はランドリアのものとそっくりだった。

 「レーシア…いや、ランドリア・プラファンドール。この概念こそレギスチオン家の正当後継者の証、私の持てる全てだ。余力の一切をもって、今ここで過去に味わった雪辱を雪ごう。そうだ、私があのときに感じたのは恐れではない。その血よりも濃い髪に…私は嫉妬したのだ、幻滅したのだ。貴様に、私自身に。結局は…我らは似た者同士という訳だった。半身、血が同じなのだから、当然といえば当然だが」

 自分を、そしてランドリアを皮肉りながら笑ってみせた。

 「覚悟は良いな、ランドリア」

 「敗北の味は疾うに知った。次は貴様が身を以って味わえ」

 『アーガスト・ロデンシュール(引き千切られた衣装)』

 ランドリアは残った奏力の全てを鎌に捧げ、刃に凝縮して揺れる刃を作り上げた。その刃を見ると、具現化された女は腰に差していた剣を抜き放った。そしてランドリアとその女が同時に動いた。込められた奏力は圧倒的にツヴァイベルが上位を占めていた。剣と鎌の刃が合わさる。と同時に鎌の刃は真っ二つにされ、二人の姿が交差していった。最後に勝敗を分けたのは響詩者の実力でもなければ奏力の差でもない、どちらが先に自分の非に立ち向かえたかだった。

 「ずるいなあ、レーシア…」

 女の上半身が斜めにずれ、そ師れに伴ってツヴァイベルの体から血が噴き出していった。単色の闘芸師が倒れる。するとランドリアの手にしていた鎌も崩れ落ち、ぶらりと腕を下げてその残り影を見送った。

 「何も変わらない。私も未熟なまま、か…」

 ランドリアは手を握り締めると、その場から背中を向けた。まだ自分の力に納得がいかないまま、今は戦いの余韻を残して過ぎ去ることしか出来なかった。



 朝露のような光が宙で煌いた。光は本物の露のようにその身を飛び散らせ、辺りいっぱいに広がった。その光景を具現化するように巨大な枝の形をした金属樹は床に張り付いてその鋭い先っぽを根のように広げ、紫薇に向かってその鋭い先端を向けた。

 以前として紫薇の目は狂気に駆られたままで、目の前で起こった事態が身の危険を及ぼそうとしても決して引かなかった。防御は権兵衛に任せ、ひたすら枝を避けながら前に突き進む。途中、何度も尻尾が自動で動いて繰り出された枝

を弾いた。

 ミグフェネスの目前で火花が散った。振りかざされた紫薇の剣を金属樹が受け止めたのだ。余りの硬さに紫薇の剣は音響を上げ、刃を欠けさせた。

 「若さに増して実力は不相応だな…」

 したり笑いを浮かべたミグフェネスの顔を殴り付けるように紫薇は剣の背に手を掲げ、有りっ丈の奏力を注いだ。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪のように)』

 赤と白い光がミグフェネスとその背中から現れていた金属樹を包み込んだ。光は後ろにあった壁を貫通し、尚もその勢いを弱めない。だがその光を掻き分けて青い光の塊が紫薇の胸元に伸びた。

 「紫薇、逃げて!」

 張り上げたメルトの声が耳に入っても、紫薇はその場から動こうとしなかった。それどころか迫りくる金属樹を消し去ろうと更に奏力を注いだが、枝の先はものともせずに紫薇の肩を貫いて宙に浮かばせた。

 「なんとも酷な色をした概念だ。これほど美に欠けた響詩者も珍しい」

 光が消えてミグフェネスの体が現れた。しかし彼の体に損傷はなかった。

 「可哀想な子だ、自己表現も碌に出来ないままこの力を手に入れても、何の意味も見出さないというのに…」

 紫薇の体に侵入した金属樹はめりめりと音を立てて肉を裂いていった。宙でじたばたしながら紫薇は死に物狂いで枝を掴み、体から枝を引き抜こうとしたが張り付いた枝の先は紫薇を逃がさなかった。

 「ああ…そこから抜け出したいかね?」

 ミグフェネスは枝を撓らせ、紫薇の体を宙で吹き飛ばして枝を無理矢理に体から引っぺがした。その際、草の根っこを引き千切るような音を出して貫かれた肩の肉は紫薇の体から離れていった。紫薇は低い声を上げて床に倒れた。

 「し、紫薇…」

 紫薇の肩の風穴から零れる血を見てメルトは膝を笑わせた。

 もう言葉も忘れてしまったかのように紫薇はけだものの声を上げ、体を持ち上げたがその姿は痛々しいものだった。

 「もう良いよ…!もう止めて!」

 メルトは身も心も廃れてしまったその紫薇の姿を見て涙を伝わせた。メルトには紫薇が傷を負う度に自分の心を捨てているような気がして堪らなかった。

 「大丈夫、僕は大丈夫だから…。紫薇、ちゃんと自分で考えて僕はここに来たんだよ?だから…だから余計なことしないで!」

 その言葉を真っ先に受けたのはクレシェントだった。ずっと心の奥底で潜ませていたもの。それはもしメルトが紫薇を拒んだなら、紫薇の正当性はどこにいってしまうのだろうか。その時、紫薇はそれを受け止められるのだろうか。クレシェントはそう思ってからミグフェネスに向けて概念を打ち出そうとした。

 その気配を感じ取ったのかミグフェネスは我先にクレシェントに目を向け、金属樹を撓らせて赤縞とプランジェ諸共その場から叩き出した。傷付いた二人は辛うじて身を固めながら床に打ち付けられたが、概念に意識を向けていたクレシェントは諸に打撃を受けて床に叩き付けられた。

 「紫薇…」

 吐血しながらクレシェントは紫薇を見た。体をぴたりと止め、目を丸くさせながらじっとメルトに顔を向けている。その顔はまだ何が起こったのかわかっていないかのようだった。不幸にも体を張ったクレシェントが作ろうとした正当性は目に留まらなかった。

 「もう帰って…。僕は自分の意思でここにいる、誰かに強いられた訳じゃない。だから紫薇が、帰ってよ…。お願いだから…!」

 言葉の途中でメルトは我慢が出来なかったのか、ぼろぼろと涙を流したが必死に腕で目を擦った。だが涙は一向に拭えない。それもその筈、メルトは失った右腕で目を擦る振りをしていただけだった。

 「あ…」

 そのことに気付いたのか、メルトは涙を流しながら今はもうない手を見詰めた。するとメルトの頭に手が置かれた。

 「お前の言い分なんてどうでも良いんだよ」

 紫薇は傷付いた体を引きずりながらメルトの前まで歩いて手を乗せた。

 「何も出来ない餓鬼のくせに…難癖つけるな」

 そういって紫薇はメルトの代わりに頬に着いた涙を指で拭った。その時の顔はとても嬉しそうで、紫薇は誰にも見せたことのない小さな笑顔をメルトに見せていた。そして背中を向けると紫薇は再び重い口調でいった。

 「お前と同じ苦しみを…あの男に擦り付けてやる…」

 その時にメルトは見てしまった。じっとりと紫薇の背中に出来た傷痕から血が流れ、服をべっとりと塗らしていたのを。それはまるで紫薇が受けた苦しみも一緒に押し付けようとしているかのようだった。

 ふとクレシェントは奇妙なことに気が付いた。それはまるで自分の映し身を見ているような感覚だった。やがてそれは現実となって彼女の目の前に現れ始めた。

 紫薇の手や指先が痙攣する。剥き出しになった牙は更にその鋭さを増して口許からはみ出した。爪はより淀んだ色に変わり、手は人に似ても似つかなかった。尾は長細い形になり、宙に漂い始めるとその色を体全体に移し始めた。そして体毛が全身に回ると、人が身に着けていたものを飲み込んだ。伸びた口の先には黒い鼻、犬歯は一際長かった。中でも目を引いたのは紫薇の両目が真っ赤になっていたことだった。

 「紫薇…駄目よ、その力を使っては…!」

 半ば悲鳴を上げるようにクレシェントは叫んだが、その声は紫薇には届かなかった。

 低い唸り声の後、紫薇は大口を開いて腹の底から鳴いた。そしてその場から跳び上がり、ミグフェネスに向けて跳び付いていった。その直後、青い金属樹がミグフェネスの前に現れるも紫薇は構わずその金属樹に張り付いた。手や足を枝の先が貫いても平然とその狂気を向けている。

 「な、なんだこの化け物は…!?」

 膨大な知識を持っている王でも今の紫薇の姿をした獣人は見たことがなかった。いや、それ以上にこれほどまで禍々しい力を持った相手を目の当たりにしなことがないミグフェネスは完全に飲まれてしまっていた。まるで巨大な獣に一飲みにされてしまうような想像がミグフェネスを襲った。そしてそれは現実のものとなった。

 紫薇は、紫薇といっていいのかわからないそれは声を上げながらミグフェネスの肩にむしゃぶりついた。がっしりと肉に食い込んだ牙は王であっても悲鳴を上げずにはいられなかった。低い男の悲鳴が部屋に響く。牙の間から血と涎を垂らしながら尚も力を込め、ミグフェネスの肩は今にも引き裂かれてしまいそうだった。

 金属樹は今迄にない速度で蠢き、紫薇の腹部を貫いた。その一撃には参ったのか紫薇は口を開けて痛がった。その隙にミグフェネスは金属樹を操り、紫薇の体を体から引きはがした。紫薇は再び宙に放り出されたがその途中で体を回転させ、四つん這いになって床に降り立った。

 不意に紫薇の大口から吐息が漏れた。紫薇が四つん這いから二足歩行になって立ち上がると、あろうことか腹に空いていた傷は即座に肉と肉を繋ぎ合わせてもとの状態に戻していった。肩の傷や他の傷も同時に修復したが、背中の傷痕だけは未だ血を流したままだった。

 その光景を見てミグフェネスは咄嗟に肩の痛みと、紫薇の危険性を察知して金属樹を蕾のように体に巻き付けて一先ずは体を休ませることにした。外界の景色を閉ざし、金属樹の明かりだけが頼りの空間が生まれると、ミグフェネスは安堵の息を漏らした。しかし既に災厄は傍に降り立っていた。安寧の空間がぐらりと揺れた。紫薇が体当たりをしたのだ。

 「所詮は獣か…。考えもなしにただぶつかって来たところで、この壁を突破するなど不可能だというのに…」

 そうして肩の傷を落ち着かせていたときだった。再びぐらりと空間が揺れた。しかも今度はただの揺れではなかった。まるで空間そのものを揺らしているかのような感覚だった。それもその筈、紫薇は蕾となった金属樹を手に取り、持ち上げていたのだ。そうして宙に放り投げると口を空けて中から赤い光を発した。

 「デタラメな戦い方だが、野郎が押してるのは事実だな…」

 「いや、それはまだわからん…」

 「あ?どういう意味だ?」

 「あの男にはまだ、この世界を制御する為に作られた王位の象徴があるのだ…」

 プランジェは吹き飛ばされて床に横たわった青い蕾に目を向けながらいった。

 蕾の表面に裂け目が生まれると二枚の葉になって別れ、肩から血を流したミグフェネスが出てきた。出血は酷く、見るも無残な姿だったがミグフェネスの顔は決して敗者の色をしていなかった。じっと獣と化した紫薇を見詰めながら、懐に差してある銀色の柄に手を伸ばしていた。

 紫薇は獲物を目にすると今度はぶら下げていた手を少しだけ広げ、撓りを効かせて宙で振り払った。すると指の間から白い光が産まれ、それは以前に見せた概念となって床の上を滑空していった。その形はより完成された形で、獣が放ったものながら人の手にそっくりだった。

 「化け物の分際でこの王たる私を…」

 しかしその指はミグフェネスの一刀と共にその場から消滅した。正確には抜き放った銀色の剣がその光に触れた瞬間、刀身が光を吸い込んだのだった。

 「やはり出たか…。セルグネッド王家に伝わる秘宝、クレトヴァリステア…あらゆる概念を吸収し、そして…」

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 ミグフェネスが握っていた剣に白い光が点り、宙に向かって剣を振りかざすと刀身から紫薇が撃ち出した概念と同じものが具現化された。

 「それと同格の概念を扱うことが出来る…」

 繰り出された概念は紫薇に直撃すると、紫薇の体を後ろに大きく吹き飛ばし、壁に激突させた。勢いは尚も止まらず、壁の中に寝そべった紫薇の体を引き裂きながら奥に消えていった。

 「ハハハ…どうだ化け物、少しは思い知ったか?統治者に歯向かった罰だ。もっといたぶってやるぞ。そら、これで死んだ訳ではないだろう?来い!」

 瓦礫の中から赤い光が閃いた。上半身を起こしながら紫薇の口から赤い光が放たれる。しかしその光も銀色の剣の前ではあっという間に吸収され、複写されてしまった。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪のように)』

 投げられたボールを打ち返すように掲げられた刃からは同じ色の光が繰り出された。その光が瓦礫を貫通する前に紫薇はそこから跳び上がり、天井に近付いた。そのときに体から流れた血が床に落ちて宛ら血の雨のようだった。

 「脳みそ付いてるのか貴様は!見え透いているわ!」

 宙に浮いた紫薇に向かってミグフェネスは金属樹を小さな棘の様に伸ばした。紫薇は再び口の中から赤い光を出そうとしていた最中で、体に枝が突き刺さるとぐったりと項垂れて串刺しにされた。

 「はァ…はァ…。そこを動くな…と言っても動けないか?ン?」

 笑みを浮かべながら刃を向けるミグフェネスの顔色は青ざめていた。それもその筈、王剣は使用者の血液を媒介にしてその力を発動させる。多量の出血でミグフェネスの頭は有頂天になりがらも体は疲れ切っていた。

 「私の城をこんなにしやがって…。糞が…殺してやるだ?私を誰だと思っている。お前のような低俗な者が、この私に口を出すな!」

 刃に光が点った瞬間、紫薇は項垂れていた顔を上げて口内から同じ色の光を吐き出した。二人の間で光が拮抗し、その中心がミグフェネスに近付いたかと思えば紫薇に押し戻され、また中央に戻ったりを繰り替えし、やがて限界を迎えた光は紫薇の間近で爆発した。

 紫薇の体は天井に減り込み、意識を失ってそのままぐらりと床に落ちていった。クレシェントはその瞬間を見逃さず、残った力を振り絞って空中で紫薇を受け止めたが僅かな力では完全に紫薇を受け止めきれずに最後には二人揃って床に転がった。

 「紫薇…紫薇…!しっかりして…!」

 紫薇の体にしがみ付きながらクレシェントは体を揺らした。しかし紫薇は口をだらしなく開けるだけで目を覚まそうとしなかった。傍から見れば死んでいるようにも見て取れてしまった。それでもクレシェントは必死になって紫薇の名前を呼び続けた。


 水の流れる音が微かに紫薇の耳を打った。せせらぎのような心地よい音に紫薇は暫し身を任せてしまった。少しずつ紫薇の意識が覚醒されると、体の半分がしっとりと水に浸かっているのがわかった。目を覚ました紫薇は上半身を起こして辺りを見回した。一寸先も見えない真っ白な空間が広がり、すぐ傍には小さな噴水から水が湧き出ていた。そしてその真上には裸の少女が体を丸めて浮かんでいた。

 「こうやって話をするのは初めてだね、紫薇…」

 目は閉じたまま自分の背丈よりも長い白髪を靡かせながらその少女はいった。

 「お前は…?」

 「ふふっ、僕が誰だかわからない?」

 そう言われて紫薇は考えたが、その少女から不思議と懐かしい感じがした。

 「まさか…権兵衛なのか?」

 「ふふっ、そうだよ」

 目を閉じたまま嬉しそうに笑った。

 「…俺は死んだのか?」

 「どうしてそう思うの?」

 「別に…ただ、そんな気がした。蘇ったお前を見たとき、似ているがどこか違う感じがしていたんだ。だから俺も、本当のお前と同じところにいるかと思ったのさ」

 「まるで僕に蘇って欲しくなかったみたいな言い方だね」

 「当たり前だ。お前は…俺が殺したも同然なんだ。あのとき…もっと的確な手当てさえしていれば…お前が死ぬこともなかった。お前が再び俺の前に現れた時、死に神が来たのかと思ったよ。罰がやって来たってな」

 「ふふっ、やっぱり紫薇は優しいね」

 「違う!俺は…俺は死にたくなかっただけだ…。罰を受けるのが恐かったんだ…」

 紫薇は体を震わせながらいった。

 「紫薇…僕が帰って来たのは君の為なんだよ。君の途方もない過酷な運命を少しでも和らげたいと思ったから、僕は契約を結んだんだ。それが僕に出来る君への恩返し。だって僕は君が大好きなんだ。最初は、君に噛み付いてしまったけどね」

 「…ああ、右手の人差し指だったな。歯が食い込んで酷く痛かった」

 紫薇は自分の人差し指を見て口許を緩ませた。

 「ごめんね、あのときは誰を信用していいのかわからなかったから」

 「権兵衛、お前に聞きたいことは山ほどあるが…お前を傷付けたのは誰なんだ?」

 「それは…言えない…。もしそれを口にしてしまったら、君の運命は更に歪んでしまうから…」

 そこで初めて権兵衛の顔は曇ってしまった。

 「俺は…どうすれば良い?どうすればその過酷な運命とやらに立ち向かえる?俺にはまだお前の助けが必要なんだ」

 「残念だけど僕に与えられた時間はもう尽きようとしている。あと少しで僕の体と理性は消え、残るのは僅かな力だけ。だからそうなる前に、君に僕の最後の力を託したい。君の中に眠っている絶望を受け入れられるように」

 そういって目を開いた。少女の目は片目だけ真っ赤な色をしていた。

 「この力はたった一度だけ、この世界のあらゆる存在を裁くことが出来る。仮にゼルア級であってもそれは変わらない。でもその力の代償は僕の全てだ。そして君は響詩者としての権限を失う」

 「…そんな力、誰が使ってたまるか」

 「紫薇、もうお別れはとうの昔にしたよね?今の肉体は見せかけと同じなんだ。そこにあるのにないのと同じ、君は見せかけで騙されるほど鈍感じゃないでしょう?だからお願い、僕の手を取って」

 そういって少女は紫薇に近付いて手を差し伸べた。

 「…嫌だ」

 「紫薇…」

 「…嫌だよ」

 そっぽを向いた紫薇の頬を小さな粒が伝った。そのときの声はまるで子供が駄々を捏ねたように純粋だった。

 「…ねえ、もし僕が人間になれたら、紫薇は振り向いてくれた?好きに、なってくれたかな?」

 「…ああ、きっと好きになるよ」

 「良かった。僕もね、同じ気持ちなんだ。だから紫薇、僕に守らせて欲しいんだ。君が僕を守ってくれたように、今度は僕が君を守りたい」

 紫薇はその言葉を聞いてもすぐには頷かなかった。権兵衛の視線から逃れるようにそっぽを向いたまま、じっと部屋の片隅を眺めて自分の気持ちと向き合った。

 「…わかった」

 紫薇は権兵衛の手に触れる直前、一度だけ躊躇ったがしっかりとその小さな手を握り締めた。すると権兵衛はありがとうといって光に包まれ、その姿を光に変えると紫薇の胸に入っていった。じわりと心臓に熱が篭ると紫薇は急に瞼が重くなり、気付いた時には背中から体を倒して意識を失っていった。目尻に浮かんだ涙は辺りの光を反射して白い光のように輝きながら消えていった。


 血の臭いに混じって微かに霧の香りが鼻を突いた。紫薇が目を開けるとそこには顔を歪ませたクレシェントの顔があり、目線を合わせると嬉しそうな顔をした。

 「耳元で叫んでたのはお前か…。道理で目も覚める訳だ」

 「もとに…戻ったのね」

 「お陰様でな」

 紫薇は自分の姿がもとに戻っているのを確かめると体を起した。そしてもう傍に権兵衛がいないことを知った。

 「…紫薇、権兵衛はどこなの?」

 その異変に逸早く気付いたが、紫薇は黙ってクレシェントを目で制した。

 「クレシェント、合図をしたら剣を寄越せ」

 「駄目よ、また飲み込まれて…」

 「もうああはならないさ…。黙って見てろ」

 そういって紫薇は自分の体の中に託された権兵衛の力に手を伸ばした。今迄とは違った感覚が紫薇の体を駆け巡る。今度は誰も導いてくれない。手探りで権兵衛の力を探し出し、全身に纏わせるように力を広げる。半獣人の後、紫薇の体は再び獣人に変わった。

 「また理性を捨ててかかって来るというのか?愚かな…」

 紫薇が閉じていた目を開くとクレシェントは驚愕した。体から溢れ出ている力は確かに奏力から魔力に代わっていたが、その片目だけは元の黒いままだったのだ。暴走していた時に感じた禍々しい力も、あれほどまでに殺気立っていた醜悪さの片鱗もない。宛ら全ての力を完全な支配下に置いたかのようだった。

 「クレシェント、上手くタイミングを合わせろよ」

 そういって紫薇は目線をミグフェネスに向け、両膝に力を溜めると一気に爆発させて距離を縮めた。しかしその軌道に向けて既に金属樹が伸ばされ、紫薇を串刺しにする準備を進めていた。

 誰もが鮮血の結末を予測したときだった。急に床の一部が破裂したかと思えば今度は天井の一部が破裂し、いつの間にか紫薇の体はミグフェネスの後ろに立っていた。その気配を感じてミグフェネスが後ろを振り向く。その動作よりも前に紫薇はその鋭い爪でミグフェネスの背中を引き裂いた。紫薇の爪に裂いた肉がこびり付き、ミグフェネスの鮮血が飛び散った。

 「ぐっ、おのれ…!」

 ミグフェネスは体を回転させながら剣を振りかざした。だが既に紫薇はその場から抜け出した後で、切っ先は虚空を切った。

 「逃がさぬわ!」

 即座に辺りを見回して紫薇を見付けると、その場所に向けて金属樹を枝分かれさせながら伸ばした。床に張り付いて所々から芽を突き出しながら、その手を伸ばす光景を見ると紫薇は背中を見せて走り出し、その途中で四つん這いになって床を駆け抜けた。

 紫薇が部屋の隅まで逃げても金属樹はしつこく追いかけた。その代わりミグフェネスを覆っていた金属樹の大きさは伸ばした分だけ小さくなってしまっていた。そのことを紫薇は走りながら確認すると立ち止まり、今度は壁に向かって跳び上がった。そして走った距離の半分の場所の壁に減り込み、壁を蹴飛ばしてミグフェネスの背後を狙った。

 「クレシェント!」

 叫び声の後にクレシェントは剣を紫薇に向かって放り投げた。狙いはしっかりと紫薇の手元に向けられ、空中で剣を受け取ると刀身に魔力を注ぎ、床に降り立つと同時に剣を振り払った。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 具現化されて床を走り抜けた光がミグフェネスの体に直撃した。小さくなった金属樹では手の全てを防ぎ切れず、ミグフェネスは剣を振るったが刃が触れたのは手の指の内、三本だけで残りは体に受けてしまい、肩と下半身から血を流した。

 「捨て身の覚悟でないと手傷は負わせられないか…」

 紫薇は尾を剣の柄に巻き付けて手の代わりに尻尾で剣を握ると体を丸め、ミグフェネスの懐に飛び込む準備をした。

 「お…お…オォォ…おのれェ…!」

 ミグフェネスはそれまで戦闘という戦闘を行ったことがなかった。訓練は嫌というほどやらされたが、実戦に関しては殆ど経験がなかった。現場の流れを読み取り、それに合った行動を取ることは圧倒的に紫薇を下回ってしまっていた。体に刻み込まれている英雄の血が紫薇のポテンシャルを越えていても、次に何をしてくるのか今のミグフェネスでは検討も付かなかった。故にミグフェネスは伸ばした金属樹を元に戻し、二本の枝に形を戻すと防御体勢を取りながらその先っぽを紫薇に向けた。

 四奏詩は一度の具現化で物質世界に概念を永続的に存在し続けられるが、その反面、他の概念を具現化できないといった短所もあった。

 手と足を床に付け、紫薇は正面からミグフェネスに向かって走り出した。全力で、類を見ない程のスピードで懐に飛び出す。しかし立ちはだかったのは金属樹の先端だった。紫薇はそれを見ると減速しながら両手で先端を掴んだが、尖った先は手の平を容赦なく突き刺し、更には枝を伸ばして紫薇の両腕を侵していった。

 手を伸ばせばすぐそこに相手がいながら、紫薇はそこから先に進めなかった。紫薇は声を上げて手に力を込めると、徐々に腕を外側に広げて閉ざされた道を抉じ開けていった。既に金属樹の枝は腕の半分まで入り込み、至る所から肉を飛ばしていた。更に紫薇は声を上げて力を入れると、ミグフェネスもそれに負けじと腹から声を出して金属樹に力を注いだ。

 力は僅かに紫薇の方が勝っていたが、それでも隙間を空けるのは精一杯でそこから先には進めなかった。だがその隙間こそ紫薇が狙っていた勝機だった。腕に力を込めながら尻尾にも意識を向け、尻尾を動かして剣の切っ先をその隙間に目がけて突き入れた。僅かに空いた隙間から刃が滑り込み、ミグフェネスの胸部に切っ先が入り込んだ。確かな手応えを感じると、紫薇は剣を引き抜いた後に手を金属樹から無理矢理離してその場から逃げた。

 「暫くは剣を握れないか…」

 ぼたぼたと血を流しながら両腕をぶら下げた。手は小さな穴ぼこだらけで見るも無残なものだった。紫薇の奥歯は痛みを我慢するので削れてしまっていた。

 「血が…血が止まらん…」

 胸に空いた穴をしきりに手で抑えても出血は止まらなかった。剣の切っ先は心臓こそ掠めていないものの、急所を狙われたことでミグフェンスは精神的に追い詰められていた。その心象を表わすかのように周りを漂っていた四奏詩に亀裂が生じ始めていた。しかしそれは同時にミグフェネスの中に眠っていた英雄の血を呼び起こす切欠にもなっていたことをミグフェネス自身も気付かなかった。

 「戦わねば…我は負けてはならぬ…。虚栄を現にしてはならぬ…戦わねばァ!」

 ミグフェネスは金属樹の防御を解いて紫薇に向かって走り出した。

 「…何っ!?」

 紫薇は急に戦い方を変えたミグフェネスを見て動揺を隠せず、その場に立ち竦んで動くことを忘れてしまった。

 剣を握りながら凸凹になった床を駆け抜け、瓦礫を跳び越えると背中に回していた金属樹を後方に伸ばして宙を走り抜けた。そしてその体勢のまま剣を振り上げ、二人の間を急激に縮めながらミグフェネスは剣を振り落とした。

 咄嗟に紫薇は横に跳んでその一撃をかわすも、自ら攻めにやって来たミグフェネスに気後れしてしまった。半ば奇声に近い声を張り上げるミグフェネスは今の紫薇にとって理解の範疇を越えていた。

 「(こいつ…!)」

 紫薇は二度目の太刀筋を避けてみせたが。ミグフェネスの力量は見事なもので、一瞬でも気を許せば骨ごと持っていかれそうな勢いだった。紫薇は三度目の太刀筋を辛うじて避け、自分も剣を握ろうとしたが余りの痛みに目を閉じて痛がってしまった。その直後、胸から太股にかけて鋭い痛みが弾けた。

 「…がっ!」

 不幸中の幸いだったのはミグフェネスも胸に空いた傷のせいで四度目の太刀筋を鈍らせてしまったことだった。刃創の深さは指の半分ほどで済んだが、それでも強烈なダメージには違いなかった。紫薇の足元には数秒で血溜まりが出来た。紫薇は何とか片目を開けながら後ろに下がろうとしたが、背後に何かの気配を感じ取った。

 「逃がさんぞ」

 紫薇の後ろに回り込んでいたのは金属樹だった。二本の枝を繋ぎ合わせて輪を作ると宛ら決闘状のように仕立て上げた。そしてミグフェネスは羽織っていたマントを脱ぎ捨てると剣峰を突き立てた。

 「最後は剣で勝負を付けようではないか…男らしく…」

 紫薇は尻尾に巻き付けた剣を器用に目の前に持って来ると、一呼吸してから柄を握った。息の止まりそうな痛みの後に手の穴という穴から血が噴出した。

 二人は各々の構え方で剣を向けると、声を出しながら足を動かした。どちらの体も満身創痍で勝負は一度で決着が付いた。ミグフェネスの挙動は紫薇よりも先に動いた。刃が紫薇の目の前で閃く。ミグフェネスの刃は振りかざしていた紫薇の剣を弾いて鎖骨から股の骨まで一直線に滑った。その部分から血が飛び出すと、ミグフェネスの顔が緩んだ。

 紫薇の背中が傾いた。気絶しそうな痛みが紫薇の意識を遮り、全身の力を弱める。視界がくすみかけたときだった。紫薇の目に過ぎったのは幼い自分と同じ姿をしたメルトだった。いや、実際は幼い頃の自分が見えたのかもしれない。そして目の前に映っていたミグフェネスは見知らぬ男から見知った男の姿に成り代わると、紫薇の心の奥底に強い火が盛った。

 閉じかけていた紫薇の目がはっきりと開いた。深い、淀んだ感情が紫薇の体を突き動かし、膝に力を入れて傾いていた体を立て直すと、これ以上ない力で剣を握り締め、紫薇はその虚像を切り裂いた。そして揺らめいた虚像を悲鳴のような声を上げながら殴り飛ばした。ミグフェネスの体は宙を飛び、床に倒れると二人を囲っていた概念は崩れていった。

 紫薇は思わず腰を落とした。傷を浅くしたとはいえ、その体に刻まれた傷は重過ぎた。顔が力なく項垂れる。それでも紫薇は目だけはミグフェネスから逸らさなかった。その瞳に殺気を込めたままじっと睨み付ける。殴り飛ばされたミグフェネスの顔は変形し、意識を失っているようだった。

 「…紫薇」

 恐る恐るクレシェントは紫薇の隣に座り込み、倒れそうな体に手を添えた。

 「メルト…!」

 紫薇はその手を払い除けると残った力で叫んだ。余りの迫力にメルトは驚いた顔をして紫薇の顔を見た。

 「後は…お前に任せる。煮るなり焼くなりだ。腕を奪ったって良い、殺してやっても良い。何をしたって構わないんだ。お前が嫌なら俺が代わりにやってやっても良い。さあ、どうしたい?」

 紫薇の顔は半ば喜んでいるようにも見えた。

 全員の視線がメルトに向けられると、メルトはゆっくりと立ち上がって倒れているミグフェネスの顔を見た。頬にはしっかりと手の痕が着いて両目は明後日の方向を向いていた。

 「紫薇、何も言わずに帰って…」

 そのとき、初めて紫薇の顔が歪んだ。信じられないといった顔をして固まった。

 「お前…何を言って…」

 「こんな人でも…僕の父親なんだ…」

 その一言で紫薇の視線は床に落ちていった。数秒の沈黙がまるで永遠のように感じたのは紫薇だけだっただろう。そこからの紫薇は魂が抜けたように大人しくなった。

 「お前、頭がおかしいよ…」

 「そうだね、きっとまともじゃないんだと思う」

 「メルト、それが本当に貴方が自分で考えた結論なの…?」

 そういうとメルトはしっかりと首を縦に振った。

 「だが…私も紫薇と同意見だ…!お前はこんな扱いを受けてもまだ、この場所に居残るというのか!?」

 「だって…もうこの人たちには僕しか居ないから…。二人だけだなんて寂しいよ」

 「だがそれは…!」

 「…プランジェ、もう止めなさい」

 「…ですが!」

 「この餓鬼が自分で決めたことなんだ。外野が何を言っても仕方あるめえよ」

 そういって赤縞は力尽きた紫薇の肩を組んで立ち上がらせた。

 「お前みたいなませ餓鬼には同情すんぜ。ただな…もっと我侭でも良いんじゃねえかとは思う。この先、苦労すんぞ。…おら絵導、帰るぞ!」

 メルトは無理に笑いながら紫薇の背中を見送った。

 「…メルト、ご免なさい。こんなことになってしまって…」

 「クレ姉のせいじゃないよ。悪いのは問題を野放しにしてしまった僕の責任なんだ。そのせいで…エナも死なせてしまった…」

 「そん…な…だってあの人は…」

 クレシェントは胸が締め付けられる思いでメルトの顔を見た。どうしてこの子はこんなにも冷静でいられるのか、クレシェントはメルトの異常なまでの強さにただただ胸を打たれるばかりだった。

 「…あっちに帰ったら、紫薇にありがとうって伝えて…。僕は大丈夫だから、立派な王様になってみせるよって」

 クレシェントは泣きながらメルトを抱き締めた。

 「メルト…何があっても挫けちゃ駄目よ…。きっと貴方なら乗り越えられるわ」

 「…うん、ありがとう」

 そうして二人は別れを告げ、一行はレミアの鍵を使ってその場から去っていった。その場に年老いた王子を残して。紫薇の目は下を向いたまま後ろに振り向くことはなかった。

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