31話 黒ずんだ羽織り

 一行はミロヴィーナに教わった道を進んでいった。何のことはないただの一本道、ただ以前の通路と違って今度は横に逸れる道がなかった。通路の奥には白い光があってその光は異様に大きかった。三人の体は何れも傷だらけだったが、残った力を振り絞りながら光を目指した。

 真っ白い部屋に延々と続いた青い階段があった。長方形の部屋は今迄のどの部屋よりも広大で、部屋の角がどこにあるのかわからない程だった。階段は目を凝らせば終わりがあるものの、段は横に広がり何十人もが一片に渡れるようだった。神々しい、それでいてどこか無機質なその部屋の階段に最後の番人が二人、腰を下ろしていた。

 一人は皮膚の色は白黄色、虹彩は黒褐色で毛髪は黒く、滑らかな光沢を持っていた。灰色の袴に白い衣、そして青い羽織りを着てまるでその人物は過去から来た侍のようだった。背丈はそれほど高くなく、顔は人形のように端整で性別の区別がわからなかった。

 もう一人は女性で薄い化粧を施していたが、唇は緑色に染まっていた。細長い礼装用の帽子を斜めに被り、右目には黒い眼帯があった。格好は軍服のような上着に長いスカートを履いて軍人と貴婦人が組み合わさったようだった。

 「あれが噂のゼルア級か…八月一日、お前はあれをどう捉える?」

 クレシェントの顔を一瞥してその女性兵士は羽織りの男にいった。

 「そうですね…僕の知っている人と似てます。底知れない力がじわじわと浮かび上がってくる…そんな感じです。とてもじゃないけど相手にしたくないですね」

 「そうか…ならば死に場所としては打って付けだな」

 女性兵士は小さく笑った。

 「またそんなことを言って…困ったものです」

 溜め息を吐いて困った顔をした。

 そうして二人はゆっくりと青い半透明な階段を下りて紫薇たちと対峙した。女性兵士は刃が三つ重なった槍を手にし、男は腰に差していた日本刀、太刀がやや長めの胴狸に手をかざした。

 「(…日本刀?)」

 紫薇はその刀の造形を見ておやと思った。柄や鞘の形、そして男が身に纏っている衣服に関しても日本のそれと同じものだったのだ。

 「皆まで言わずともわかっていると思うが敢えて名乗らせて頂こう。私は王宮守護兵団二番隊隊長クライヴ・マステオリッチである」

 「同じく二番隊副隊長…八月一日です」

 男は名乗りを上げる際にどこか口ごもった。

 「貴様らのような阿呆垂れに名乗りを上げた理由はただ一つ、正々堂々と戦い我が生涯に一片の汚れを残さん為にあり。散らば諸共立てよ同士。敵に臆せず、父母を思へ。お国の為に兄弟よ、我が背中を押し給へ!いざ、尋常に勝負!」

 手に持っていた槍の持ち手を床に叩き付け、場の空気を一気に張り詰めさせた。

 「クレシェント、敵の大将は任せたぞ」

 「…わかったわ」

 「ならば私はあの男の相手をする」

 「いや、あれの相手は俺だ。もしあの男が俺の予想通りなら、この中で勝率が高いのは俺だからな」

 「どういうことだ?」

 「鬼退治はお手のものってことだ」

 そういって紫薇は八月一日のもとに、クレシェントはクライヴのもとに近付いてそれぞれの相手と一緒にその場から離れていった。

 「ふっ、各自代役は決まったようだ。まさかゼルア級と合間見える日が来ようとは…これも魔性の導きか…」

 「(何だろう?この人の右目から嫌な気配がする…)」

 クレシェントはクライヴと対峙して彼女の右目、眼帯の奥から異様な気配を感じ取った。その右目に特別な気配はない。しかし右目からの威圧感はどうやっても拭えなかった。

 「貴様がゼルア級ならば、死出の弔いもより一層豪華なものとなろう…。なればこそ、ここで尾っぽを巻いて逃げるは一生の恥!父母や兄弟に顔向けが出来ん!行くぞ!」

 「この人、ちょっと戦いづらい…」

 クレシェントは頬に汗を垂らしながら思った。

 「はっ!」

 威勢の良い声を上げてクライヴが天井に向かって槍を突き出した。すると切っ先から金色の光が飛び出して天井を貫いていった。そしてその光に続いて槍の持ち手に光が捻れるように纏わり付きながら光は再び天井に向かっていった。

 『デルシェス・シェーヴァ・トレミアーナ(ある日ある者によりある理想は)』

 出来上がったのは遥か彼方まで見渡せる黄金の塔の形をした槍の影だった。その中心に実体である元の槍が浮いていて、クライヴはその持ち手をがっしりと掴むとクレシェントに向けて振りかざした。

 「特攻万歳!」

 クレシェントは咄嗟に剣を捨てて両手を落ちてくる塔に向かって繰り出し、単奏詩で赤い腕を巻き起こして簡易の盾を作った。

 槍の塔は天井を壊しながら一瞬で倒れた。具現化された概念に質量はない。しかしその概念に込められた意思の力が実体のない質量を決める。クレシェントにのしかけられた重みはその塔の大きさと比例して強烈なものだったが、足もとが陥没しながらも辛うじて受け切ることが出来た。

 「お見事!ならば次よ!」

 ふっとクレシェントの腕にかかっていた重みが消えた。その代わりにクライヴの槍先に小さな光が宿り、クライヴがその槍をクレシェントに向かって突き出すと光は矢尻の形となって飛び出した。

 クレシェントは新たに剣を作り出さずに放り投げた剣を赤い腕で引き寄せた。始めに向かってきた矢尻を避けながら剣を手にする。その間、クライヴは何度も槍を前後に動かして矢尻を飛ばしていた。クレシェントは剣を手にすると迫り来る矢尻をしっかりと目で捉え、次々と剣で払っていった。

 「そーらそらそらそらそらそらそらそらァ!」

 何度も金属音が弾ける音がする。槍を動かす挙動はぶれて映り、矢尻を払う動作は目ではとても追えなかった。既にクレシェントの足もとには大量の概念の欠片が撒き散らされ、それが消滅するよりも早く欠片は増えていった。

 「愛!それは誠の信念なり!」

 連続の挙動を止め、槍を緩やかに横一直線に払うとその切っ先の軌道が具現化され、それを張り手で押し飛ばした。

 全ての矢尻を打ち砕いたクレシェントは最後に向かってきた槍の軌道を下から真っ二つに切り上げた。だが切り開いた軌道の先には次の一手を用意したクライヴの姿が映り込んだ。

 「国!それは誠の矜持なり!」

 クライヴが槍の持ち手をぐるりと回転させるとかちりと音が鳴り、切っ先にあった三つの刃が口を開いた。そして口が開いた槍の切っ先をクレシェントから、プランジェに向けると目を細め、その瞳の中に闇を走らせた。

 「心…それは誠の狂気なり…!」

 それは誰もが予想だにしなかった。向けられた狂気の先はあろうことか戦闘に関わっていない子供に向けられた。槍の切っ先は持ち手から飛び出し、その口を何の用意もしていないプランジェに襲いかかった。

 「プランジェ!」

 クレシェントは心臓をびくつかせながら赤い腕を発生させ、プランジェの体を包み込んでその狂気から守った。意識は相手よりもそっちの方に向けられ、狂い乱れたクライヴの挙動から外れてしまっていた。

 「三門一徹、これぞ我が家訓なり…」

 クライヴの手の平には三つの光が浮かび、そこから光がクレシェントに向かって移動して取り囲み、光がそれぞれ違った色を放ちながら床に沈んでいくと、床から小さな人の形をした像がそれぞれ三つ現れた。その像は火に焼かれて形が融けていて、どれも不気味に笑った顔をしていた。

 『ダンテロッサ・グース・トレミアーナ(ある自惚れはある時にある現実に)』

 クレシェントが意識を向けたときには既に彼女の真上には銀色の光が現れ、クライヴが手を握り締めると、クレシェントは何の手立ても出来ないまま光に押し潰されてしまった。光は丸い鏡のような形をして幾つもの光の筋が通い、中に入ってしまったクレシェントの姿を映さなかった。代わりに笑っていた銅像は次々と醜い泣き顔に変わり、その姿を崩していった。

 「…クレシェント様!」

 悲鳴にも似たプランジェの声が響いた後にその場に倒れ込んだクレシェントの姿が現れた。目は半開きの状態で光を殆ど失い、まるで精気のないようだった。

 「ハハハ…死んだ死んだ…」

 クレシェントと打って変わってクライヴの目はしっかりと開かれていたが、その色は淀みとても正気ではなかった。麻薬を含んだかのように頭をくらくらと動かした。

 「…おのれ!」

 声を震わせながらプランジェが短刀を生み出したそのときだった。白い光を点した紫薇の概念である指先が飛来してクライヴに向かって突き進んだ。そのことに気付いていないのかクライヴは薄ら笑いを浮かべるだけだったが、いつの間にか彼女の目の前に八月一日が走り込み、その指先を刀で切り伏せてみせた。

 「あれをいとも簡単に…」

 その光景に驚いたプランジェだったが、傍にやって来た紫薇の姿を見て更に目を見開いた。

 「お、お前…!」

 紫薇の体は刃創で血に塗れてしまっていた。腕や足を刻まれ、顔の半分は真っ赤に染まっている。片目は開いているのか開いていないのかわからない状態だった。

 「プランジェ…クレシェントは任せたぞ…」

 覇気のない声の後にぼたぼたと血を垂らしながら、紫薇はプランジェの傍を通り過ぎていった。

 「なんだ、まだ歩けるんだね」

 抜き放った刃を鞘に戻しながら八月一日は笑った。紫薇はその笑いにぞくりと恐怖を感じたが、それに抗うように剣を構えた。

 「(糞ったれ、状況は最悪だ…)」

 紫薇は荒い呼吸をしながら心の中で思い切り悪態を吐いた。状況は確認をせずともわかっていたのだ。今さっき戦っていた八月一日の実力が、想像を遥かに越えていたことはまだ良い、しかしクレシェントが倒れたことは紫薇の最大の誤算だった。そしてその強敵に加えて更にもう一人、得体の知れない女兵士を相手にしなければならないという危機に紫薇は追い込まれていた。


 肉と骨を圧し折りながら血の川を踏み締めてゆっくりと歩いていく影があった。その影は血の川に負けない色の濃さを持った赤い目と唇を持ち、やがて影は一つの部屋に辿り着いた。その部屋は何の変哲もない四角い空間だったが、感の鋭い者ならばその部屋がいかに異様なものかわかる。

 「ここね」

 部屋の中心まで歩くと影の足元に薄い紫色の輪っかが現れ、それが波紋のように広がると床はまるでその存在を崩されたように音を立てて細かい粒になっていった。そして穴を広げながら影の体が床の下に続いている暗闇に落ちていった。重力など感じさせないその影が望んだ速さでゆるりと下っていった。

 床の下にあった空間はどこまでも先がない。今はただ赤い目と唇が光っているだけだったが、やがて暗闇の先に光が差し込んだ。もう入り口は指を丸めた程の大きさになり、影が暗闇の底に降り立った時には入り口は豆粒ほどになっていた。

 「これがある筈のない八番目の月か…」

 その影の目の前に浮かんでいたのは球状の光だった。光は太陽のように表面を煮え滾らせ、膨張を押し留めながらその中に入っているものを閉じ込めているかのようだった。事実、光の中に人の姿に似たものが見え隠れした。

 その影は神々しくも強大な光に物怖じせず、傍に寄ると懐から小さな箱を取り出した。青い、有り触れた形の箱を開けると光はまるでその箱の中に吸い込まれるようにして萎んでいった。人の何倍も大きい月はあっという間にその場から消えた。

 「…そこまでだ」

 影が箱を閉じたと同時に低い声が響いた。

 「セルグネッドには秘密裏に活動をする部隊がいると聞いていましたが…。やはり英雄の名は伊達ではないという訳ですね?コールポージュ」

 「そいつはお互い様だ。近頃の妖精教ってのは物取りまでするのかい?キジュベド・デウロ・ラ・カーミラさんよ」

 影はくるりと回ってデイサンに顔を向けると、薄ら笑いを浮かべた。赤い目と唇が暗闇の中で煌々と光った。

 「その情報は貴方個人のものですか?それとも協会ぐるみで?」

 「残念だが後者だよ、近頃の…いや、随分と昔からお宅らの教祖様とやらはきな臭いって噂だからな。叩けば埃どころかすっぽりぼろが出そうだな。…あんまり司法ってのを嘗めるなよ?オイ」

 「ふふっ、肝に命じて置きましょう」

 「命じたところでお前は牢獄行きだ。人様の、それも王様の宝を盗みやがって…そんなもんを使って何を企んでる?戦争でもおっ始める気か?」

 「さあ、どうでしょう?」

 「…ここ最近でお前らが虹拱結社と繋がり始めたのは知ってる。その月を渡して奴らの起爆剤にするつもりなんだろうが…どうにもしっくりこねえのさ。今からこの世界の秩序を変えたところで、お前らに何の得がある?本当の目的は何だ?」

 「何も変わりませんよ、ただ妖精を崇拝するだけ…我々の目的はそれだけです」

 「…月は世界を監視する為の目だった。ある筈のない八番目の月は女王の残り火、そんな所か?」

 その言葉をデイサンが口にすると、初めてキジュベドは目を丸くした。

 「嘗めるなっつったろうが。中に入ってるもんは何だ?いや、その月の中に封じられたもんがお前の狙いだったんだろう?かつて女王がその身を犠牲にして封印したものは何だ」

 「いやはや…優秀過ぎるというのも困りものですね…」

 そういってゆっくりとデイサンに向かってつま先を近付け始めた。

 「確かに貴方が見立てた通り虹拱結社と手を繋いだところで我々に利はありません。しかしそれでもことは必要なのですよ」

 足音がまるで壊れたレコードのように延々と流れた。

 「月の封印は強大です。それもその筈、かつて女王は文字通りあらゆる生き物の頂点に君臨していたのですから」

 デイサンは短刀の切っ先を向けたまま動かなかった。足音はまだ続いている。

 「だからこの世界がある程度の成長をするまで待たなければならなかった。そう、ここの住人がかの女王と匹敵する力を有するまで、ね…。ゼルア級犯罪者とはまた大層な名前だとは思いませんか?」

 そうしてキジュベドはデイサンのすぐ傍まで近付いて最後に耳打ちをした。

 「生贄と同じですよ、これから起きる大きな事件は全てね。妖精は常に貴方のお傍に…安心して土に還りなさい」

 そうしてキジュベドがデイサンの傍を通り過ぎると止まっていたデイサンの体は音を立てずに赤い砂粒となって崩れていった。

 不意に金属音が床に響くとキジュベドは足を止めて顔を後ろに向けた。そこには赤い砂に埋もれた一本の刃が突き出ていた。キジュベドはほんの少しその場で立ち止まるとその短刀に手を伸ばした。

 「これも何かの縁…頂いて置きましょう。感謝しますよ、貴方の勇猛な血にね」

 その短刀を大事そうに懐に仕舞うとキジュベドはその場から去っていった。


 じわりと滲んだ汗が傷口に染み渡った。切り刻まれた痛みでまともな思考が出来ず、ただ必死に柄を握ることしか出来なかった。紫薇はじっと八月一日とクライヴを見ながら心臓を極度に高鳴らせていた。絶対絶命の状況の中、打開策の見付からないまま紫薇は八月一日の挙動に注意した。

 八月一日の戦法は正に足の生えた居合いそのもので、距離を自在に操って適当な合間に刃を仕掛けていた。受け身かと思えば抜刀してちゃんばらを始めたり、独特な足裁きで翻弄しつつ切り込んでくるから紫薇は何度も傷を負わされた。急所から外れているものの、傷口からの出血で紫薇の体力は半分を下回っていた。

 「(降魔の利剣を出して来ないところを見ると、相当 嘗めらてるな…)」

 紫薇は歯を食い縛って何とか冷静さを取り戻した。しかしそれでも今の状況は切り抜けられそうになかった。

 「紫薇、私も出るぞ」

 「駄目だ」

 短刀を握り締めたプランジェを戒めるように紫薇はいった。

 「あの女の遣り口を見ただろう…。俺たちの意識が外れた途端、奴はこいつを狙ってくる。今度こそ逃げ場を失うぞ、黙ってそこにいろ」

 「だが…!」

 プランジェの言い分も尤もだった。自分一人でこの状況をどうにか出来るほど紫薇は己惚れることは出来なかった。更に相手も悪かった。痺れを切らしたかのようにクライヴは甲高い笑い声を上げて紫薇に向かって槍を突き出した。

 紫薇は咄嗟にプランジェとクレシェントを庇うように尾を展開させて守りを固めた。突き出された槍から矢尻が飛び出す。その全てを紫薇は一人で受け止めた。とてもクレシェントのように飛んで来るものを剣で弾き返すなど出来ない。ただその連射が終わるまで耐えるしかなかった。

 矢尻を受ける中、紫薇は妙な光景を見た。あれほど責めに来ていた八月一日がその場から一向に動こうとしないのだ。刀を鞘に収め、心なしかクライヴの動向を辛そうに見詰めている。紫薇にはこれが好機なのかどうかわからなかった。

 「…死…シは真、ものの…モノノフの本懐ナリ…来たらば行かん…我が我が…」

 クライヴの声はまるで低い電子音のような声質に変わり、壊れた玩具の様に口許をぱくぱくさせながら笑った。そして動かしていた槍を止めると急に顔を項垂れてぴたりと止まってしまった。

 「…何が起こってる?」

 そうして紫薇が尾を元に戻した時だった。

 「ィィィィイ一ッ分アァァァァァァァァァ!」

 クライヴの体はびくりと跳ねて紫薇に向かった。奇声を上げながら既に目は狂い、頬から黒い涙をぼたぼたと垂らしながら槍を振るった。闇雲に振り回した力は強力で差し出していた剣ごと紫薇の体を吹き飛ばした。

 紫薇は宙で体を反転させてそのまま後方に向けて三度跳び、体勢を立て直しながら向かってくるクライヴに向かって刃を向けた。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 刃から放たれた白い指は床を削りながらクライヴに牙を剥いた。だがその直前に八月一日が彼女の前に立ち塞がり、再び抜刀して概念を真っ二つに切り払った。

 「…糞っ!またか!」

 何の苦もなしにへし折られる自分の概念を見て、紫薇は焦りと苛立ちで酷く動揺してしまっていた。

 粉々になった白い欠片を押し退けて再びクライヴが紫薇に近付いて槍を突き出した。動揺していた紫薇はその対処に数秒遅れ、左肩を刻まれてやっともとに戻ると放って置いてしまっていた剣を振り上げた。

 短い金属音が鳴った。剣の軌道を止めたのはクライヴのブーツだった。靴裏は金属製で、振り上げようとしていた刃をがっしりと踏み付けて止めていた。紫薇の手があらぬ方向に曲がると紫薇はその痛みで柄から手を離してしまった。折れてはいないが手首から亀裂が入った音がした。

 『カロッサ・トレミアーナ(ある偽善はある兵に)』

 首を傾げたままクライヴはにたりと笑い、手に日章の形をした赤い光を握り締めてその光を紫薇の胸元に押し付けた。鳩尾の上、心臓に近い場所にその光が入ると紫薇はびくりと体を痙攣させ、体の中では尋常でない痛みが暴れ回った。

 「胸が…焼ける…」

 堪らず紫薇はその場に膝を落としてしまった。ぎゅっと胸を手で握り、必死に痛みに打ち勝とうとしているが余りの胸の熱さに上半身を倒しそうになった。

 「…あー…アァ…ヴァー…」

 その光景を見てクライヴは口許を緩ませたがその顔は黒い涙で汚れ、どちらが瀕死の重症かわからなかった。しかし二人の間で決定的に違ったのは次の一手を取れるか取れないかだった。クライヴは両手で槍を持つと切っ先を紫薇に向けた。

 「…くっ!」

 紫薇の体の中で起きていた痛みは権兵衛にも通じているのか、尻尾はぱたりと倒れて動こうとする気配がなかった。

 槍の切っ先に力が入ったその時だった。突如としてどこからともなく突風が巻き上がり、クライヴはその場で声を上げて驚いた。それは何か強い力を孕んだ風だった。禍々しい、それでいて紫薇はその風の力にどこかで嗅いだにおいを感じた。そしてその風を背中で受けると、紫薇の中で眠っていた権兵衛の目はしっかりと開いた。

 その風を受けてまた誰かの指先がぴくんと動いた。クレシェントは目をぱっちりと開いて即座に辺りを見回し、紫薇の前にクライヴが立っていることを知ると、上半身を起こして手を掲げた。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 無尽蔵に現れた赤い腕は紫薇の目の前で洪水となってクライヴの体を飲み込み、そのまま壁に向けて叩き付けた。

 「クレシェント様…」

 目に薄っすらと涙を浮かべてプランジェはクレシェントを見た。

 「無事で良かったわ、プランジェ…」

 体の痛みに悩まされながらもクレシェントはにっこりと笑ってみせた。

 「胸の痛みが…」

 紫薇は風を受けてから胸の痛みがすっと消えたの感じた。それどころか中の権兵衛も元気を取り戻したのか、尾を鞭のように撓らせてみせた。

 「今のはいったい…?」

 驚いている紫薇の前を通り過ぎたのは八月一日だった。特に敵意もなしに紫薇を見送ると瓦礫に埋もれているクライヴのもとに向かった。

 「う…私は…」

 壁は分厚く、穴の空いた真下に瓦礫に背中を凭れながらクライヴは倒れていた。

 「瓦礫の寝床はいかがですか?隊長」

 「八月一日か…私は、意識を失っていたのだな…。ふふ…また負けたのだ…ざまあない…ざまあないぞ、八月一日…」

 手で顔を隠しながらクライヴは泣きじゃくり、その途中で堰をした。手には黒い血がべっとりと着いた。

 「八月一日、私はいつになったらこの呪いに打ち勝てるのだ?『左の悪夢』はいつ…私を…」

 そういいながらクライヴは目を閉じて意識を失った。八月一日はクライヴの顔を見て目を細めると、自分の羽織を彼女にそっと被せて背中を向けた。

 「悪いけど、もう帰ってくれる?」

 八月一日は紫薇の顔を見てはっきりといった。

 「…なんだと?」

 「君が僕に勝てないのはわかったでしょ?何度やっても無駄だよ。命だけは助けてあげるから、もう帰んな」

 「上司が倒れてやっと尻に火が着いたのか?生憎だが…」

 「二度は言わないよ…」

 それは瞬時の出来事だった。数メートル離れていた二人の距離を八月一日はものの一瞬で詰め、いつの間にか抜刀していた刀を紫薇の頚動脈に近付けた。

 「わかるだろ?お互いの差が…。僕だって人をだれ彼構わず切りたくないのさ。もう僕は巫じゃない。ただの八月一日なんだ。でもね…やっぱりこの体の中には忌まわしい鬼の血が流れてる。あんまり騒がせないでおくれよ」

 そういって刀の先を首から頭に移し、紫薇の尖った耳に近付けた。

 「これ…本物なんでしょ?取れたら痛いよね?」

 矢庭に八月一日の持っていた刀が弾け飛んだ。紫薇の手の甲には深い切り傷が生まれ、顔に鮮血が飛び散った。

 「…ごちゃごちゃと屁理屈ばかり口にする。俺の嫌いな人種だ」

 手で顔を拭きながら立ち上がった。

 「お前が何者であろうと、俺はこの先に進む。邪魔をするなら叩き出すぞ」

 「やってご覧よ、命の保障はしないけれどね」

 紫薇と権兵衛は一緒になって牙を剥き出しにして威嚇をした。二人は今迄にないほど同調し始め、紫薇の片目は薄っすらと赤みを帯びてきていた。

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