30話 心臓に火を点けて

 「も、もう一度…お願いします」

 「私の名は…」

 「もう良いわ!」

 耐えかねたプランジェは敬語も忘れて怒鳴った。

 「ご、ご免なさいプランジェ…でも折角あの人が言ってくれるから…」

 「クレシェント様、僭越ながらどうせ切って捨てる身の相手の名前など一々覚えてどうするのです!?それに貴様!さっきから長々とした名前を口走っているが、要するに少数貴族の集まりだろう!筆頭の名だけ言えばそれで十分だ!」

 「失礼な!」

 ミロヴィーナの隣に立っていた女兵士が声を上げた。年齢は二十代になったばかりで幼さが目立ち、化粧もまだ慣れていないようだった。そのせいかミロヴィーナの化粧の濃さが際立っていた。背中に自分の背丈よりも大きいシルクのような風呂敷を背負っていた。

 「ミロヴィーナ様のお家に筆頭など御座いません!全家名が平等に、かつそのお家一つ一つに同格の権力になるよう取り計らっているのです!一括りにされてはご無礼千万!謝罪を求めます!」

 「構いませんわアレクシア…『美芸師(アポリタン)』でありながら貴族としても名高い私の崇高な家訓を、かのおぞましいゼルア級犯罪者に理解して頂こうなど端から思っていませんもの。ロメルニアの花は決して激情を表には出しませんわ」

 「流石です…ミロヴィーナ様!」

 二人だけで盛り上がっている中、クレシェントはプランジェに耳打ちした。

 「プランジェ、美芸師って何なの?」

 「ロメルニア地方で経験を積んだ響詩者のことです。広義には一般の響詩者のことも指しますが、あの地方は芸術の都ですから…取り分けプライドが高い連中が多いのです。確かに響詩者としては高尚な存在なのでしょうが…私に言わせればジェルファ地方の『芸闘士(デーチス)』と同じです」

 「そこ!私が最も忌み嫌う一言を口にしましたわね!…良くもあんな野蛮な、折角の妖精の賜物である私たちの新たな芸術性を…!」

 「ご安心下さいミロヴィーナ様!アレクシアはわかっております…!」

 二人だけで盛り上がっている中、クレシェントはプランジェに耳打ちした。

 「プランジェ、芸闘士って何なの?」

 「ジェルファ地方で経験を積んだ響詩者のことです。これは一般の響詩者のことは指しません。意味合いとしてジェルファ地方の兵士としての意味が強い為です。概念の具現化を芸術の一つとして掲げる美芸師に反して、こちらは純粋に武力として見ています。因みに初めて概念を人殺しの道具に使ったのは美芸師とされています。皮肉な話ですが」

 「そこ!私たちにとっての禁忌を気軽に持ち出すな!ですわ!」

 「だが事実だろう。故にかの有名なゾラメスは…」

 「ああもう、取って置きの禁忌も出すなですわ!兎に角、この私とアレクシアがいる限り、ここから先には進めませんことよ。それがかのゼルア級、壊乱の魔姫であってもですわ」

 「…どうしても引いては貰えないんですね」

 クレシェントはそう口にしていても相手の意思が変わらないということをその肌で感じ取っていた。

 「なら私たちは戦います。この名を更に汚すことになっても、やらなければならないことがありますから。プランジェ、副隊長をお願い。私はあの人を…」

 「わかりました」

 そういって二人は少しずつ進路を分かち合って歩いていった。

 「アレクシア、端から全力でいきますわ。ゲツラム《瞬間に生ける火》を出しなさい」

 「畏まりましたです」

 自分の背丈よりも大きい風呂敷を下ろし、縛ってあった紐をぐいと引っ張るとまるで魔法のように紐は一片に解れた。そして中から現れたのは一本の大刀だった。刀身はあちこちにくねり、刃には赤と青の宝石が散りばめられた絢爛な作りだった。

 その剣をふっと短い呼吸と共にミロヴィーナは手に取り、その刃先をクレシェントに向けた。アレクシアはその剣を取り払って身軽になると、肩をぐるぐると回しながらプランジェに近付いていった。途中、腰に差していた二本の剣を抜いた。

 「二刀流か…ハイカラな奴だ。見せかけでなければ良いがな」

 プランジェの挑発にも乗らずアレクシアはにこっと笑ってみせた。

 「従者の躾がなっていませんわね…」

 鼻で笑ってみせるとクレシェントは少しだけむっとした。

 「ご免あそばせ。うちのアレクシアは品格や礼儀を徹底的に仕込んでありますの…。まあ、血生臭い殺人鬼の娘にはわからないでしょうけど」

 その言葉を発した瞬間、クレシェントは突発的に手を掲げた。

 『ディオレ・ジェネフィリア・ザード(我は惨劇を呈して)』

 手の平に凝縮された奏力が一気に解放されてミロヴィーナに向かって放たれた。その範囲は辺りの壁を巻き込み、ミロヴィーナの姿をあっとういう間に取り込んでしまった。その瞬間、クレシェントははっとした。思っていた以上に威力を高めてしまったのだ。殺してしまっただろうかと思っていた矢先、赤い閃光の中から火の粉が吹き荒れ、クレシェントの概念を掻き消していった。

 「まさか、あれは…」

 その光景に一番驚いたのはプランジェだった。

 辺りを紅蓮に染め上げながらミロヴィーナの姿が現れる。床に切っ先を斜めに刺し、燃え盛る炎はまるで盾のように彼女の体をしっかりと守っていた。

 「そうですよ。この世界で唯一無二の、概念の鍛冶師だったアルペジオ・コルトラスが、その息を引き取る前に作り出した五つの武器の一つ。彼の抑圧されていた感性を封じ込めた剣。その名も…」

 「ゲツラム《瞬間に生ける火》…その認識は仮に妖精であっても理解されることはない。しかし概念を具現化する我々にとって感性とは最も上等なものであり、同時にそれ自体が強い拒絶性を持った、言わば火花のようなもの。いかにゼルア級が強大と言っても、この感性の炎はそう易々と消せませんわ」

 次いで開いた口が塞がらなかったのはクレシェントだった。彼女の目の前で巻き起こっている炎は現実にある火の粉であり、この世界に完璧に具現化された概念そのものだった。

 「さて…前口上も終わったところでそろそろ始めますわよ?覚悟なさい、第ゼルア級犯罪者、壊乱の魔姫…今日ここが貴女の眠る墓標となるのですわ」

 クレシェントは咄嗟に剣を握って眉間に力を入れた。

 「ふふ…そんなに心配しなくてもお供え物くらいは差し上げますわっ!」

 ミロヴィーナがその場で剣を一振りすると、周りの炎は刀身に絡みながらクレシェントに向かって飛んでいった。先ほどまで焦土となっていた地形がそのまま襲ってくる。逃げ場などなかった。

 「(思ったより範囲が広い…!)」

 前回の戦いで自己を傷付け過ぎてアイロニーの盾は限界に近付いていた。あと一回か二回、それが限度だろう。奏力はまだ余裕があるが、見たこともない現象に迂闊に概念を使って良いものかとクレシェントは悩んだ。

 しかしただ突っ立っている訳にもいかなかった。引け目を感じながらもクレシェントは向かってくる火の壁に相当した数の概念を放出した。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 鮮血の腕が横一列に並び、一斉に手を伸ばして火の壁と押し合った。力はほぼ互角で、若干腕の方が負けているのか痙攣しながら踏み止まっている。すると奇妙なことが起こった。腕の表面がふつふつと気泡を上げて沸き立っている。壁と接触している部分からは焦げた音がこぼれた。

 「そんな…概念が熱を受けるなんて…」

 響詩者や嘆歌者はその概念を具現化することが出来るが、その具現化率は完全に形而上物を形而下のものにするのではなく、その半分だけを物質世界に現す。つまり仮に炎やそれに相当する熱を持ったような概観を具現化しても、実際にそこにある訳ではないので熱力学などの自然法則には当て嵌まらない。

 だがクレシェントが目にしている光景は確かに自然法則に支配された自分の概念の姿だった。腕は次々と蒸発している。

 「遠大な具現化力は時に触れるものを巻き込み、やがてその醜態を世界の摂理に晒すのですわ。高い買い物でしたもの、これ位はやって頂かないとね」

 クレシェントはその事態を目の当たりにして更に腕を具現化して壁に向かわせた。

 「…流石はゼルア級、具現化の量も生半可ではないですわね…でも!」

 剣をもう一振りすると、火の壁はまた一枚その厚みを増やした。腕が更に押されていく。その間、クレシェントは奏力を限界まで練っていた。ぐっと手を胸板の上で握り締めると心臓がどくりと高鳴った。そして握り締めた手をミロヴィーナに向けて差し出し、凝縮した奏力を手の平から放出した。

 堅実に練られた奏力、その力を込められた赤い腕は眩い光を見せると、炎の壁を飲み込んであっという間に消滅させていった。だが赤い腕は炎の壁を消滅させると、その力を使い果たして消えてしまった。それだけ炎の壁は強い力を放っていた。

 「まさかただ剣を振るだけが、私の取り柄だと思って?」

 ほっとしたのも束の間、既にミロヴィーナはクレシェントの傍まで近付いてサーベルの様な概念を具現化していた。

 『シュトーレ・リプルージュ(勲章よりも際立ちを)』

 ミロヴィーナの背後には石竹色の靄が浮かび、それが彼女の姿を幾つも形作っていった。そして人の姿になった靄はミロヴィーナから離れると、蛇行しながらクレシェントに迫っていった。手には片刃の刀を握りしめ、その切っ先をクレシェントに向ける。

 「ほらほら、ボサっとしてると串刺しにしますわよ」

 靄の分身と一緒にミロヴィーナは大刀を軽々と持ち上げてクレシェントに振りかざす。緩やかな曲線を描く斬撃やときに先端を螺旋状に動かしてクレシェントを翻弄しつつ、胴体を真っ二つに切り裂こうとした。クレシェントはその挙動を躱していたが、靄の分身までもミロヴィーナと同じ動きをするので回避に必死だった。

 『キュヴェーヌ・ポゥ・リプルージュ(こそばゆい称賛よりも冠を)』

 ミロヴィーナの大刀に七色の帯が巻かれ、鋭い螺旋の形になるまで締め上げられると、その先端をクレシェントに向けた。すると帯は一気に解かれて巨大な螺旋を広げながら突き進んでいった。

 クレシェントは放射された螺旋の帯を見ると、即座にアイロニーの盾を展開し、その衝撃を受け止めた。盾の直前で螺旋の先端は防がれているものの、その螺旋に込められた勢いは止まらず、アイロニーの盾ごとクレシェントの体を吹き飛ばして背後にあった壁まで押し込んでいった。爆音と共に壁が炸裂し、まるで巨大なドリルが硬い壁を粉砕するように土煙を上げた。

 「まさかこの程度で萎れるような花ではないでしょう?テテノワール」

 煙が晴れて現れたのは体中に傷を負ったクレシェントの姿だった。アイロニーの盾はクレシェントを概念そのものの猛攻から身を守ったが、壁に激突した体の損傷までは庇ってはくれなかった。剣を杖の代わりにして辛うじて立っている。

 「(この人…あの剣がなくても強い…!)」

 背中の痛みがクレシェントの片目を細めた。

 「クレシェント様!」

 「どこ見てますか!」

 戦いの途中にプランジェは相手から顔を背けたが、その隙を突かれてアレキシアの剣が体に刺さりそうになるのを慌ててかわし、歯軋りを立てながら顔を戻した。

 クレシェントは必死に膝に力を入れて体勢を持ち直したが、ミロヴィーナは情けをかけることなく二度目の炎を巻き起こした。再びクレシェントは手を前に突き出し、アイロニーの盾を繰り出すも、辛うじて火が近づくのを防ぐだけで精一杯だった。

 ミロヴィーナはその光景を鼻で笑って見せると、手のひらで大刀を引っぱたいた。すると大刀の刀身に赤い波紋が生じて炎の壁は更にその力を増した。さながらミロヴィーナがまだ力を本気で出していない下僕に喝を入れるようだった。

 炎が強まるのを見るとクレシェントは覚悟した。懸命に防いでいても炎の壁を取り払うことは出来ない。むしろ威力を弱めるだけで、いずれ押し返されてしまう。床に赤い剣を突き刺し、両手を使ってアイロニーの盾を強めた。

 豪火にさらされてアイロニーの盾に亀裂が入る。その途端、炎は亀裂をすり抜けてクレシェントを包んでいった。その間、クレシェントは必死に片手で別のアイロニーの盾を作り、それに隠れながら相手の動向に目を配った。それが幸を成してか、火炎の先に不適な笑みを浮かべるミロヴィーナの顔を見た。

 炎に包まれるゼルア級犯罪者を見ながらミロヴィーナは心底驚愕していた。自分の財産の殆どを使って手に入れた至高の一振りをもってしてもまだ相手を倒せていない。ミロヴィーナの笑みは失笑だった。

 大刀の刀身にミロヴィーナは思い切り爪を立てた。それこそ爪に施した装飾が壊れてしまうほどの力で、相手への嫉妬とそんな自分に腹を立ててしまう自分の腹いせと、そしてこの程度で終わらせてくれるなという大刀への渇仰を込めて刃を引っ掻く。すると大刀はまるで人間のように興奮して身震いし、その形態を変えていった。刀身は捻じれ、一本の槍になっていく。

 ミロヴィーナはその変貌した槍が持つ力にうっとりとした顔をしてから、炎に包まれるゼルア級の女に目をやった。身を焦がされていながらまだ息がある。その命のもとである心臓に狙いをつけると、じっと目を閉じて自らの醜い姿を浮かべた。羨望を何より求める自分の像、その嫌悪感が矛となった。

 「!」

 その瞬間、クレシェントは自分の心臓がどくんと暴れた気がした。その瞬間、何かが炎を貫いて眼前で閃いた。黄金の矛がアイロニーの盾を突き破り、クレシェントの心臓のすぐ下に強烈な痛みを引き起こした。

 「ごほっ…!」

 クレシェントの喉から血だまりが飛び出した。アイロニーの矛に包まれた黄金の槍が突き刺さっている。奇跡的に槍は心臓に当たらなかったが、それでも重症には変わらなかった。途端にアイロニーの盾が弱まり、光の粉になっていった。

 ミロヴィーナは槍が突き刺さった感覚があった。しかしそれは心臓ではないとわかっている。何故なら彼女の目の前には突き刺さっている槍を握りしめ、体から異物を引き抜こうとしているクレシェントの姿があったからだった。

 「まさか…!」

 次はミロヴィーナの心臓がどくんと暴れた。自分に危機が訪れている。それを核心したときはもう遅かった。自分が投げた槍が、今度は自分に向かって投げ返されていた。ふくよかな左胸の上部に黄金の槍が突き刺さる。

 「これが…ゼルア級ですのね…。確かに、末恐ろしいですわ…」

 ミロヴィーナは悲鳴をなるたけ我慢しながら槍を引き抜き、傍に刺して受けた損傷に耐えた。額から大量の汗を流しながらミロヴィーナは改めてクレシェントの、ゼルア級の脅威を思い知らされた。目の前には血にまみれ、体中を焦がした姿のクレシェントが立っている。ミロヴィーナは実際にその姿を目にしたことはなかったが、壊乱の魔姫と呼ばれたクレシェントの姿を彷彿とさせていた。

 「けど美芸師として…この王宮の守護を任された兵として、この場から逃れることは出来ないのですわ…!」

 

 ミロヴィーナの周りは彼女が王宮守護兵団になることを反対していた。ロメルニア地方で美芸師として働けば良いものを、あんな血生臭い兵士になるなどどうかしていると家中の者は不審に思った。父親や母親、兄弟や彼女の恋人であっても彼女を理解するものはいなかった。だからミロヴィーナはこの道を選んだのだ。優れた美芸師の感性は誰にも理解されることはない。彼女が金言としている美芸師・ゾラメスの言葉だった。だからかもしれない。誰にも理解されないまま埃を被ったゲツラムを見付けられたのは。それはまるで自分を映し出した鏡のようだった。そして同時に見付けたのだ、彼女の中にあったもう一つの可能性、いや、彼女自身を擁護するアレクシアという存在を。それはとても惨めだが、誉れ高い彼女の色を確かに具現化していた。


 「(やっとここまで戻ってきた…)」

 クレシェントの胸の下に開いた風穴の血は止まっていた。排出された奏力もやっと立ち戻り、クレシェントはぐっと手に力を込めた。ふとクレシェントがミロヴィーナの方に顔を向けると、槍を大刀に戻していたところだった。

 「感性は常に刺激という火種を求める。それが優れたものであればあるほど…。どうやら私は根っからの職人ということだったのでしょうね…」

 そういいながらミロヴィーナはくすりと笑った。

 「そろそろ本気になって良いかしら…?」

 その言葉を耳にするとクレシェントは愕然とした。

 「…アレクシア!」

 その言葉が部屋に木霊すると、プランジェと剣戟を繰り広げていたアレクシアの体がぴたりと止まった。

 「…何だ?」

 咄嗟にプランジェは距離を取った。

 「お戻りなさい」

 ミロヴィーナの一言はアレクシアの体をつま先から火の渦に変えて燃え散らし、その火の粉はやがて大刀の中に入っていった。すると急激な炎がゲツラムの中から現れ、まるで息吹を宿したかのように刀身に巻き付き、その姿を変えていった。

 「これがゲツラムの本当の姿ですわ。ゲツラム・イシュタリカ・エルゴ《我 辱める 故に我 哲学する》」

 現れたのは色取り取りのステンドグラスを捻って重ね、出来るだけ剣の形に近付けた硝子の塊だった。一見すると断じて剣の形ではなく、寄せ集めのようであり緻密に練られた造詣のようでもあった。柄の部分は火の粉で出来ていてるが、ミロヴィーナが握ってみせると、更にその勢いを上げて布のようにはためいた。

 「さあ、いきますわよ」

 クレシェントはその言葉を合図にしてその場から直感的に飛び退いた。ミロヴィーナからの不動の一閃。それは分散していた炎を一点に集めた刃だった。切られた部分はどろどろに溶け、クレシェントが着ていた服はその熱気で火が点いてしまった。慌てずに、しかし視線はミロヴィーナから離さずにクレシェントはその部分だけを引き千切り、生足を肌蹴させた。

 指鳴りの音が響いた。鳴らしたのはミロヴィーナだった。

 『ティボーレ・ピノ・リプルージュ(本音よりも隙のない贋作を)』

 音の後に天井から宝石で出来た巨大な彫刻が次々に落下してきた。人の形をしているが、どれも奇形でまともなものが一つもなかった。ルビーに似たもので出来たお腹のない女性の上半身と下半身、サファイアに似たもので出来た十本の指がある片手、アメジストに似たもので出来た男の顔は目から手が出ていた。他にもエメラルドに似たもので出来た自分の睾丸を持った顔のない男、オパールに似たもので出来た手と手を掴んで出来た王冠などがあった。

 クレシェントはその異形なものに驚きながらも落下物に目を凝らし、よけるどころかそれらに突っ込んでいった。お腹のない女性の体の中を背中から通り抜け、十本の指を半分に切り崩し、男性の顔は目を向けずに空中で走り抜け、顔のない男の背中を踏み台にして跳び上がり、床に到達すると床から赤い腕を発生させて王冠を握り潰していった。そしてすぐさま体勢を立て直し、ミロヴィーナの方を向いた。

 ミロヴィーナが剣の切っ先を後ろに向けると、はためいていた炎の布が刀身を覆うように捲れ、ミロヴィーナはその場から動かずに剣を振り払った。すると覆われていた炎の布はひらりと音を立てて進んでいった。

 その動作を予測していたのかクレシェントは既に動き出した後だった。ミロヴィーナに対して水平に部屋を駆け抜け、布の範囲から逃れようと何度も足を動かす。炎の布はその形とは裏腹に飛ぶ矢のように素早い動きで床や壁を飲み込んでいった。相手の動きを読んでいたクレシェントだったが布の範囲は広く、ぎりぎりまで近付かれてしまい、肌蹴た右足の表面を燻られ、更には肩の辺りが出火してしまった。

 クレシェントは舌打ちをしながら跳び上がり、宙を何度か蹴ってやっと炎の範囲から抜け出すと、びりびりと肩の部分の洋服を破いて放り投げた。肌蹴た腕はただれてしまっていたが、そんなことよりも服をこれほどまでに傷物にされたことにクレシェントは深い癇癪を起しそうだった。

 「………………」

 クレシェントは物寂しい目で燃え尽きる袖を見ると、ミロヴィーナに視線を戻した。するとそこにはだらりとゲツラムの切っ先を落とした彼女の姿あった。

 「やっぱり…そう何度も使えませんわね…」

 顔は青ざめ、荒い呼吸をしながら必死に倒れそうになるのを堪えていた。

 「…全く、貴女たちのような化け物には心底驚かされますわ…。これほどまでに遠大な力をそんな涼しい顔をしてほいほい扱うんですもの…。ホント不公平ですわ…」

 「私は…好きでこんな力を手に入れた訳じゃ…」

 「でもご覧なさいな…さっきお腹に開いた穴がもう塞がってきているじゃありませんの。確かに過ぎた力は身を滅ぼすと良いますわ…でもその力があるからこんな場所まで来れたのではなくて?」

 「それは…」

 まるでこの力のお陰で今の自分が成り立っているような言い方をされてクレシェントは戸惑った。

 「大切なのはそういったものに振り回されることよりも、乗りこなす方じゃないからしら?ねえ…壊乱の魔姫」

 「どうして…そんなことを…」

 「さあ、どうしてでしょうね…」

 ミロヴィーナはクレシェントの概念を通じてクレシェントという存在がどういう人物なのかはっきりと感じ取れていた。いや、最初にクレシェントの概念を目にしたときから、クレシェントの高潔さを一流の美芸師であるミロヴィーナは認識していたのだった。

 「貴女、化粧を変えたばかりなのね。まだ塗り慣れていない感じがしますわ」

 「!」急な突拍子もない言葉にクレシェントは頬を赤らめた。

 しかしその一瞬の緩んだ空気を張り詰めさせるようにミロヴィーナは剣を構えると、クレシェントは顔をもとに戻して体勢を戻した。

 「そろそろ決着をつけましょう…。私も…限界ですの」

 そういうと剣に纏っていた炎は音を立てて萎んでいき、終いには消えてなくなってしまった。代わりに刀身にはミロヴィーナから放出された奏力が蓄えられていき、切っ先がするすると伸びていった。そして曲がっていた刃はまるで花が開いたかのように外側に広がり、その中から大小三つの幾何学模様が描かれた球体が現れた。

 「そこのおちびさん…死にたくなければこの部屋から離れた方が良いですわよ」

 剣は既にその原型を失い、いつの間にか持ち手は床に突き刺さって細かく枝分かれしながら根のように広がっていった。それは一輪の花のようであり、また一本の燭台のようでもあった。ミロヴィーナが球体に手を掲げると、球体はそれぞれ円運動を行い始めた。

 クレシェントはその球体の中に込められた概念と莫大な奏力の塊を見ると、即座に赤い腕を出してミロヴィーナを燭台となった剣から引っぺがそうとしたが、腕は彼女の傍で目に見えない壁に弾かれてしまった。

 「このままじゃまずい…!」

 三つあった球体の一つがもう一つの球体の中に取り込まれ、その大きさを減らした。クレシェントが感じ取っていた力はそれに伴い更に肥大化した。燭台はその球体が持った熱でどろどろと溶け始めていた。

 「ただ力を貯めてるんじゃない…感性そのものを凝縮して解放しようとしてる…。これが、新たなる自己表現の爆発、美芸師の力だと言うの…?」

 クレシェントはどうして響詩者と美芸師が分けて呼ばれるのか、その本当の意味を身を持って知らされた。あの燭台など関係なしに美芸師が具現化する概念の表現は並の響詩者など逸していた。

 「ほんの少しでも力は緩めませんわよ…。貴女がゼルア級である以上、私の身を削ってでも消滅させてみせますわ…」

 「そんなことをしたら貴女だって…それにこの辺り一帯を根こそぎ灰にするつもりですか!?この城の王様だって…」

 「残念ですけど、王には不屈の盾があるのですわ。アイロニーの盾とはまた違った盾が、ね…」

 「…違った盾?」

 「さあ、アシェラルに召される準備は出来まして?貴女の残留思念、王に参上して差し上げますわ!」

 残り二つの球体が今度は乱運動を始め、左右一体に並ぶと静かにその二つは組み合わさって心臓の形へと姿を変えた。そしてその盛り上がった部分の間にひびが入ると、そこから光が溢れ出た。

 「止めて!」

 クレシェントの脳裏に紫薇や赤縞、そして傍にはプランジェの姿が飛び込んだ。その時だった。クレシェントは深い、それでいて手を伸ばせば届きそうな花園から一筋の淀んだ光がやって来たのを感じた。

 『エルゼキュオ・ジェネフィリア・オーズ(牢獄はさしも安息に似て)』

 心臓の形をした爆弾が着火されて辺りに撒き散らされる直前、その炎を取り囲む、いや、閉じ込めるかのように赤い線が現れた。それはクレシェントの心の中にあった自己を封じ込めてしまう心の鬱憤だった。それが概念となって今正にこの世界に具現化され、彼女の手足となって蠢いている。

 だがその概念はやはりクレシェントにとって負の概念だった。意識に反して自分の意思に従わない力がつま先から頭の天辺を支配しようとしていた。

 「(…駄目、この概念はまだ私には強過ぎる…!)」

 既に左目が真っ赤に染まってしまっていた。どろどろと頭の中が蕩ける。このままでは再び惨劇を引き起こしてしまう。クレシェントは必死にそのことを否定しながらもどこかその力を受け入れてしまう自分に酷く嫌悪した。


 「この感覚…まさか…!」

 突如として肌をざわめかせた感覚に紫薇は一旦足を止めてその方角を睨むと、一気に駆け出していった。


 クレシェントは叫び声を上げながらまるで水の中に溺れたような幻覚に陥っていた。血溜まりの中でもがいてもがいて、それでも一向に出口は見付からず、ただ深い水底に溺れていった。そうして意識が徐々に薄れていった時、クレシェントは自分の背中を誰かが引っ張ってくれたような気がした。

 「…誰なの?誰が私を意識の浅瀬に戻してくれるの?」

 「もう少し、もう少しでここから出られるわ」

 無邪気で、それでいて優しい笑った声が耳元で囁かれた。

 「忘れないで、ここはみんなが産まれた場所なのよ」

 「…みんな?」

 「そう、あらゆる世界で生まれた色。そしてこれから産まれようとしている生きとし生けるものの世界の全て。貴女も私も、ここから始まった」

 クレシェントは自分の足もとで何かが光ったのを目にした。水の中で赤い光と青い光が渦を巻きながら絶えず交錯して光を放っていたのだ。その光は花火のようでもあり、延々と輝きを失わない太陽のようでもあった。

 「次はあなたの番なのよ」

 「私の…番?」

 「あなたは三人目のお母さんになるの。私の声に耳を傾けて…自分の意思で私の姿を受け入れて…。姿は醜いけれど、大丈夫…きっとあなたなら…」

 不意に頭上が光ってクレシェントはその横顔をはっきりと目にすることは出来なかったが、最後に見えたのはその声の主が女性で、まるでガラスのように透き通った髪の毛を持っていたことだった。


 左目の輝きは純粋なまで見事に銀色に輝いた。しかしそれと同時に溢れんばかりの力は嘘のように消え去り、その代わりに檻は今にも弾き返されそうになってしまった。クレシェントははっとして手を掲げながらぎゅっと力を入れて檻の力を強めたが、その反抗や凄まじく気を抜けばいつでも破壊されてしまいそうだった。

 腹の底から声を上げてクレシェントは手の平を檻の中心に合わせ、握り締めようとするがまだ爆弾の力は緩まない。それ所か更にその炎の温度を上げてぐいぐいと檻を押し出している。檻の表面には亀裂が生じ、それに呼応するかのようにクレシェントの腕の血管が破裂していった。

 「ま…だ、ま…だあっ!」

 再び魔姫にも似た咆哮を上げてクレシェントは檻に捧げる奏力を強めた。その際、彼女の歯は殆ど魔姫になった時と同じように歯から牙へと変わっていた。手の平がゆっくりと拳に近付いて檻も炎も封じ込める。そしてクレシェントの手が閉じ切った時、檻もその炎を完全に封じ込めて最後には一つの小さな立方体になった。

 疲弊したクレシェントの体がぐらりと倒れそうになったとき、檻を跳ね除けて強烈な残り火がクレシェント目がけて飛び出した。解放していた炎を身に纏い、まるで火の女神のように実際に服装が変わったミロヴィーナが大刀の切っ先を向ける。

 クレシェントは剣を作り出し、すっと息を吸い込んでミロヴィーナに剣を突き立てた。お互いの切っ先が、体に突き刺さる前に切っ先同士で重なる。だがその直前、ミロヴィーナの体を変化させていた火は消滅し、もとの姿に戻りながらクレシェントの刃に大刀を真っ二つにされ、喉元に近付けられるとミロヴィーナは今度こそ自らの負けを認めた。

 「私の…負けですわ…」

 しかしそこでクレシェントの限界も来たのか、ふらふらと足もとをぐら付かせ、剣を手元から落として背中から床に倒れ込んだ。

 「…おっと」

 肩をしっかりと掴んで受け止めたのは紫薇だった。急いでいたのか息を切らしてクレシェントの目を覗き込んでいる。その色が銀色だとわかると紫薇はほっと溜め息を吐いた。

 「化け物になりそこねたか?」

 「…もっと他に言うことがあるでしょう?」

 クレシェントは紫薇を見上げながら眉間にしわを寄せた。

 「他に何がある?」

 「もう少し気遣って欲しいわ…」

 「だからこうして急いで来たんだろう。嫌な予感がしたからな」

 「そう…なの?」

 クレシェントは珍しそうな顔をしたが、そのことがわかると少しだけ頬を緩めた。

 「随分と仲が宜しいのね」

 ミロヴィーナは座りながら半ば呆れ顔でいった。

 「腐れ縁だ。仲が良い訳じゃない」

 そういって紫薇はクレシェントを突っぱねた。

 「わっとと!」

 「紫薇!もっと丁寧に扱え!」

 目くじらを立てながらプランジェはクレシェントの体を支えた。

 「お前も生き残ってたか。まあ、何よりだ」

 「ふん、手酷い格好だな」

 「…思っていた以上に強かった。あんな暑苦しいのはもうご免だ」

 「暑苦しい…ああ、スヴェニグのことかしら?貴方も彼女に当たるなんて運がないですわね」

 「同感だ。俺の運はこいつらに出会ってから下がりっぱなしだよ」

 紫薇は肩を竦めていった。

 「…そんなことよりもメルタジアはどこにいる?こう闇雲に探していっても拉致があかない。出来れば手荒な真似はしたくないんだが」

 「あら、意外と女性に優しいんですのね」

 ミロヴィーナがそういうとクレシェントとプランジェは手を横に振った。

 「余計な体力を使いたくないだけだ。それより…」

 「王子と王、二人揃って謁見の間にいますわ。そこの通路を抜けて、階段を上っていけばもうそこですわよ」

 「随分とあっさりだな…」

 プランジェは怪訝な顔をしていった。

 「正直なところ…別に忠誠を誓った訳じゃありませんもの。それに相手がゼルア級ともなれば誰も文句は言いませんわ…ねえ?」

 口許を緩ませながらクレシェントを見るとクレシェントは困った顔をした。

 「さっさとお行きなさい。何が目的か知りませんけど好きにすれば良いですわ」

 「ああ、そうさせて貰う」

 紫薇はミロヴィーナに背中を向けて教わった通路に向かって走っていった。

 「あの…ミロヴィーナさん…」

 「まだ何かあって?貴女、ぐずぐずしている暇はないでしょう?」

 「はい…でも、その…ご免なさい…こんなことになってしまって…」

 そういうとミロヴィーナは驚いた顔をしたが、すぐに笑ってみせた。

 「貴女、本当に不思議な人殺しね。…気にしなくて良いですわ、久し振りに良い着想が浮かびそうですもの」

 「でも…」

 「手遅れになりますわよ?」

 そういわれてクレシェントははっとした。

 「もし貴女たちの目的がメルタジア王子なら納得がいきますわ。ええ、聞いていて気持ちの良い話ではないですわね。ただそれが本当に王子が望んだことでないなら…ですわ」

 「どういう…意味ですか?」

 「それは王子自身に聞いてみることですわね。貴女たちがした事が無駄にならなければ良いですけれど…」

 クレシェントは納得のしないままミロヴィーナと別れて紫薇の後を追った。そしてその途中、最後にミロヴィーナにいわれた言葉を思い出した。

 「子供はどんな親でもそこに愛情を求めるものなのですわ」

 クレシェントは自分たちのしていることが実はメルトにとって必要のないことなのではないかと不安になりながら足を動かしていった。

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