27話 沼とネオン

 銀色に閃いた槍が紫薇の頬を掠める。僅かな出血と共に紫薇の肩の辺りに汗がどっと吹き出た。既に体の殆どに騎槍の傷が付けられていて、その傷は小さいながらも確実に紫薇を追い詰めていた。

 「次はこれだ!」

 スヴェニグは紫薇の額、鳩尾、股間の上に目がけて騎槍を突き立てる。咄嗟に紫薇は体を曲げ、額の一撃をかわし、残りの突きは尾を展開させて防いだ。そして至近距離で炸裂弾を撃たれても良いように剣の切っ先を床に刺し、更に尾の毛を伸ばしてぴったりと体を固定させた。

 急に脳裏に稲妻が走った。権兵衛が必死に何かを叫ぶと、紫薇は頭上に顔を向けた。そこには既に騎槍に奏力を込めたスヴェニグの姿があった。スヴェニグの騎槍の一番端の部分に捻れた円が巻かれ、その力が集約すると一気に先っぽに伝わり不気味な光を帯びた。

 『イレンシヌ・ビルフォアー(慢性的な愛を)』

 紫薇の体が無意識に天井に向かって跳び上がる。権兵衛が紫薇の体の支配権を奪い、代わりに手に握っていた刃を騎槍に向けて振りかざした。騎槍の切っ先から凝縮された奏力が発射される直前、振り払った剣によって軌道がずらされ、その一撃は紫薇の肩を掠めたが、元から抉れてしまった肉がないのが幸いして大事には至らなかった。

 空中で火花が散ると、二人の体は離れ離れになって床に降り立った。しかし紫薇は呼吸を荒げて普段の調子を出せずにいた。ただ焦燥感ばかりが肩に乗っかかり、権兵衛の手助けにも気付けないほどだった。

 「(こんなところで…!こんな奴に感けている時間は…!)」

 苛立ちを隠せないまま紫薇は奥歯を噛み締めた。

 「ったく、てめえはいつまでそうやってんだ」

 いつの間にか赤縞は紫薇の隣に立っていた。しかし体中に痣を作り、左の頬は青たんから血が塗れてしまっていた。同じようにネーガルツもスヴェニグの隣に降り立っていたが、彼女と違って赤縞と同じ位の傷を負っていた。

 「ほほう、お前をそこまで痛め付けるとはあやつ、それほどか…」

 「無骨にして純粋、正に暴力の化身と言わせしめん存在ですな。しかもまだその片鱗で留まっているとは…」

 赤縞は口の中に溜まっていた血玉を吐き出した。

 「情けねえ…。それでも鬼退治をやってみせた男か」

 「そういうお前も思ったほど戦果を上げていないのに口だけは良く動く。なんだその体たらくは?」

 「てめえよりはまだマシだ。てめえが何でそんなになってるのかなんざ知りたくもねえ…。だがな、そんな状態でこの場所に立ってんじゃねえよ。何をビビってんだ、てめえは!」

 赤縞はその言葉を叫んだ瞬間、紫薇は心臓を掴まれたような気持ちになった。

 「俺が…何だと?」

 「寝小便がばれた餓鬼みてえにびくびくしやがって…。てめえがそんなんだから、メルトとかいう餓鬼だってどっかに行っちまうんだよ!」

 「うる…さいっ…!」

 やがて紫薇は何かを思い出すように肩をぎゅっと締めて震え出した。

 「お前と俺は…違うんだっ…!」

 ずきりずきりと紫薇の背中の傷跡が悲鳴を上げる。

 本当はわかっていたのだ。咆えて見せるのは強がっているだけ。誰かと目を合わせないのは、あのときに見た祖母の顔が忘れられなくて、誰かの顔が祖母の顔と同じになってしまったらと勘繰ってしまうからだった。

 同じ扱いを受けていたメルトに、紫薇はいつしか自分を重ねてしまっていた。まるで本当にメルトが自分になってしまったかのようになるまで。それは同情というよりも、ただ復讐をしたいという動機が欲しかっただけだった。きっとメルトを救いだせれば自分を救ったことに繋がる。或いはその元凶を滅ぼせば、まともな人間に戻れるかもしれないと思った為の行動だった。そう、そこに皮肉にもメルトに対する博愛はなかったのだ。

 紫薇は、ふともしそれがメルトにわかってしまったらと、そんな焦りが募り始めてしまっていたのだ。それは手足を鉛のように重くさせ、頭は糠漬けのようにどろどろにさせてしまっていた。

 「別にそれで良いじゃねえか」

 赤縞の手が紫薇の肩に触れると、紫薇の震えは嘘のように収まった。

 「理由なんて後からどうにでも変わるもんだろうが。大事なのは、これからどうするか、だろ?そこで見てろ。てめえの気紛れで、人一人が変わっちまったところを見せてやんよ」

 そういって赤縞は肩に鉞を乗っけて前に進んでいった。その背中はとても大きくて、その時だけ紫薇はその背中を見ていると心の底から安心できた気がした。

 「まさか、お前一人で我々を相手にしようと言うのか?」

 「相方が腹が痛えってもんだからよ。まあ、そうしょぼくれねえで気張ってくれや。こっちも…そろそろ本気を出すからよ」

 赤縞は斧を床に叩き付け、両手をうなじに回すと親指を皮膚の中に食い込ませた。

 『赤縞流 益荒男』

 瞬時に赤縞の筋肉は高質化を始め、体は音を立てながらその力を増幅させていった。鬼の遺伝子を持っている者だけがその体に特殊なつぼを発生させる。そのつぼは人間でいう脳のリミッターを解除する仕掛けと同じだった。

 「…ネーガルツ、どうやらこれは本気で向かわなければ危険だな」

 「…左様で」

 そういうとネーガルツは握っていた鎖をぐるりと回転させた。するとまん丸の鉄球から角が一つ、また一つと飛び出て計七つの角が鉄球に付け加わった。

 その頃を見計らうと、赤縞は突き刺していた斧を引き抜いて二人に向かって走り出した。既に赤縞の筋肉は片手で斧を簡単に持ち上げてしまう程に昇華され、足の筋肉は即座にお互いの距離を詰めさせた。

 ネーガルツが鉄球を片手で握ってそれを赤縞に向けて放り投げた。勿論それに当たる筈もない赤縞だったが、斜めに前転しながらでなければ避けられず、走っていた勢いを殺されてしまった。その隙をスヴェニグは的確に狙い、赤縞の胸元に突き立てた。しかしあと数センチの所で赤縞は騎槍の切っ先を受け止めた。

 「赤縞!」

 その光景を見て紫薇は思わず声を上げた。その武器の中には重火器が仕込まれている。盾を張った紫薇ならいざ知らず、生身の赤縞ではその上半身が吹き飛ばされてしまうと紫薇は思った。

 紫薇が予期した通り、スヴェニグは持ち手を回転させて騎槍の刀身を展開させた。しかし妙な手触りだった。スヴェニグがいくら持ち手を回しても、一向に刀身が開かない。それもその筈、赤縞の握力はがっちりと刀身を抑え付けて開かせようとさせなかったからだった。

 それは物理の法則を少しだけ捻じ曲げた瞬間だった。バットの細い方と太い方をお互いに違う方向に回してみる。普通なら太い方が勝てる筈だが、それを捻じ曲げてしまったのは単に鬼の力なのだろうか。

 「この握力、革命的だな…!」

 スヴェニグは力いっぱいに持ち手を回したがびくともしなかった。しかし同時にそれは赤縞も動けないということになる。その間にネーガルツは鎖を置いて赤縞に殴りにかかった。すると赤縞は片手で持っていた斧を手放し、ネーガルツがスヴェニグの傍までやって来る頃を見通して握り締めていたランスを振り払い、二人に近付いてへその辺りに手を差し伸べた。

 「まさか…あれは…」

 紫薇の脳裏に鬼の姫君の姿が過ぎった。

 『巫流 達磨捻り』

 赤縞の手が二人の重心を支配する。そして体を無重力に陥らせたかの様にぐるりと反転させて頭から床に叩き付けた。だが二人はその技を体に沁み込ませていたかのように両腕を使って受け身を取っていた。

 「んだとっ!?」

 赤縞が気遅れしている間にスヴェニグは赤縞の腹を蹴飛ばし、その隙に床に落ちた騎槍を拾って宙でくるりと回転させてその切っ先を向けた。間一髪だった。赤縞は両手の手の平を使って切っ先を見事に止めてみせた。しかしその直後、背中に鈍い殺気を感じ取った。

 騎槍にはまだ力が込められている。その勢いを利用して背中に向かっているであろうネーガルツに切っ先を受け流した。金属音が鳴り響いた。赤縞の後ろに立っていたのはネーガルツ本人ではなく、彼が投擲した鉄球だった。そして本体のネーガルツは真横から赤縞の頬を殴り飛ばした。

 床を二度蹴飛ばして赤縞は体勢を立て直すも、それに続いてスヴェニグの騎槍が襲いかかる。それをクリーム色の刃が受け止め、そのまま更に前に向かって押し出して紫薇とスヴェニグは鍔迫り合った。

 「遅えんだよ!どぶ猫が!」

 「黙ってろ!負け犬が!」

 赤縞は丁度傍に倒れていた斧を拾い上げると腕の筋肉に力を入れ、全身を撓らせながら斧を振り回した。

 『赤縞流 紡ぎ断ち』

 斧の刃面はスヴェニグの体を狙ったが、その一撃をネーガルツの鉄球に防がれてしまう。しかし紫薇はその場の勢いを無駄にすまいと今の状態で持てる限りの奏力を刀身に込めた。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 そこで初めてスヴェニグの体は紫薇から離されていった。騎槍の刀身でその概念を受け止めはしたが、その力はスヴェニグの体を大きく後ろに後退させ、偶然にもネーガルツの反対側に吹き飛ばした。

 「ちったあまともになったみてえだな」

 「…お前のお陰だなんて言わないぞ、虫唾が走る」

 「はっ、そこまで口が悪けりゃ問題ねえな!おっ始めんぞ!」

 二人は同じ方向に向かって駆け出したが、向かい合う相手は違った。紫薇は再びスヴェニグに向かい、今度はやっと冷静さを取り戻して剣を向けた。赤縞はネーガルツとの肉の叫びを仕切り直し、お互いに叫びながら食ってかかった。

 スヴェニグの騎槍がまた紫薇の額、鳩尾、股間の上を狙う。今度は紫薇は盾を展開させずにそれら三つをいなした。そのことにスヴェニグは動じず、騎槍を手元に呼び戻すと持ち手を回転させて、切っ先と反対側の部分を切り上げた。反対側の部分は細い刀身に成り代わり、紫薇の肩の表面を切り裂いたが、それに紫薇はものともせずにスヴェニグに切ってかかった。

 「なんの!」

 それに黙ってやられるスヴェニグではなかった。回転させた槍を一瞬で止め、持ち手で紫薇の剣を受け止めたのだ。刃が持ち手の半分まで食い込むと、急に剣の刀身は赤く光だした。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪のように)』

 猩々色の光がスヴェニグを包み込むと、彼女の体は遥か後方に押し出された。そうして身に纏っていた鎧が打ち砕かれ、中のキャミソールのような服が肌蹴ると、スヴェニグは口許を緩ませて騎槍に奏力を込めた。

 『オルノアイン・ケルフ・ビルファー(利他的な愛を込めて)』

 スヴェニグが宙に向かって騎槍を十字に切ると、それは滑空しながら紫薇に向かって放たれた。銀色の十字は床を綺麗に裂きながら紫薇に向かう。紫薇はその光を見ると刀身に白い光を溜めて撃ち放った。

 二つの力は同等だったのか、宙でぶつかり合って衝撃波を出すとお互いに消滅し、同じ手をもう一度行った。今度は二人とも今以上の奏力を込めたのか、ぶつかった後に消滅せずに拮抗し、その場で押し合いが始まった。

 だがその押し合いを跳ね除けるようにスヴェニグは既に次の一手を始めていた。

 『ゼルクアイン・シャドルフ・ビルファー(利己的な愛を告げて)』

 青い光が騎槍だけでなしにスヴェニグの体をも覆い尽くすと、彼女の体が宙にふわりと浮かんだ。するとそこからまるで弾丸のように一直線にスヴェニグの体が滑空し、その場に留まっていた銀色の十字を押し出した。

 二つの概念に紫薇の概念は敵わず、爪の一撃が破られると、紫薇は急いで尾を展開させた。膝の踏ん張りなど何も感じさせない力が紫薇の体を吹き飛ばし、後方になった壁の中に減り込ませた。そしてスヴェニグは止めといわんばかりに再び持ち手を回転させてランスの刀身を開いた。

 その瞬間を狙って紫薇は自分から盾を仕舞って自らその銃口に向かって身を乗り出し、切っ先を銃口の中に突き入れた。銃口の中では何かが割れる音がした。スヴェニグは構わず引き金を引いたが、砲身が炸裂することはなかった。その代わりに割れる音は銃口が裂ける音に代わり、べきべきと音を立てて銃口を切り裂き、やがて持ち手を真っ二つに割ってみせた。

 スヴェニグは堪らずその場から飛び退いていった。紫薇はその殆どをかち割った騎槍を傍に投げ捨て、スヴェニグに顔を向けた。スヴェニグは武器を壊されて呆然としているのか、紫薇をじっと見詰めていた。

 「ご自慢の一品とやらも最後はあっけないもんだな」

 紫薇はそういうとスヴェニグは急に声を上げて笑い出した。

 「見事だったぞ、まさかあんな方法で私の勲章を折られるとは思わなかった。素晴らしい。この気持ち、君に恋焦がれるかのようだ。おお、私の心臓がとても熱いぞ!だが…」

 紫薇は目を疑った。いつの間にかスヴェニグの手元には刀身の赤い騎槍が握られていたのだった。それは純粋に奏力だけで形作られていた。

 「私にも切り札があるのだ。この概念を使って、君に伝えてみせようこの思い!真の男児ならば…この思い、受け止めてみせよ!」

 そういってスヴェニグは赤い騎槍をまるで風の目を作るかのようにぐるぐると振り回し、次第にそれは巨大な渦となり始めた。

 『フィオツッセ・エピスキュルール・ビルファー(さも情熱的な愛を偽って)』

 赤い台風。紫薇の目の前に広がったのはもう王宮などお構いなしに辺りを吹き飛ばし、その風に触れたものを粉砕していく巨大な竜巻だった。奏力で作られた騎槍の刀身は回転する度にその身を伸ばしながら更にうねりを上げる。

 「あの概念は…そうか、もうそこまで…」

 その暴風のすれすれで戦っていたネーガルツは足を止め、スヴェニグの背中に目をやった。

 「奥の手って奴か…。奴さん、随分と追い込まれてるじゃねえか」

 赤縞は口に溜まった血反吐を飛ばしながら、下を向いていた斧を握り締めた。赤縞の右目や頬は紫色に滲み、右手に痛みが走っているのか指が小刻みに痙攣していた。

 「あの概念はかつてこの胸に消えぬ傷を刻み込んだもの。そう易々と切り抜けられるものではないのだ」

 肩から脇腹まで斜めに刻まれた大きな傷を懐かしそうにネーガルツは見詰めた。

 「…まさかてめえがもと隊長だった、なんて口にすんじゃねえだろうな?」

 「そのまさかよ。この王宮の兵団は着飾った兵士とは違う。常に天辺に目を光らせる飢えた兵どもの巣窟。故に我らは血気旺盛にして一騎当千なのだ」

 そういってネーガルツは筋肉を強張らせながら全身から闘志を発散させ、鉄球の鎖をぐるぐると振り回し始めた。すると辺りの床はまるでその鉄球から恐れをなして逃げ惑うかのように徐々に捲れていった。

 「馬鹿の一つ覚えに振り回すだけかよ…!」

 「男なんざそんなものよ!たった一つ、芯になるものだけ頭に入れて置けば良い!ちゃらちゃらした飾りなどいらぬわ!」

 「うちのジジィみてえなことを口にしやがって…。だから年よりはでえ嫌いなんだよ!」

 そういいながら赤縞は体の奥底に眠っていた力を徐々に解放し始めた。

 紫薇と鬼退治に向かったとき、赤縞は自分の中に何か強大な力が眠っていることを知った。そしてそれは強い感情が引き金となってその蓋を開かせるようだった。その力は鵺義から分けられた鬼の力でもあり、赤縞自身の血の情報に眠っているものでもあった。

 「この期に及んでまだ力が跳ね上がるか…。面白い、ならば渾身の力を持って、打ち砕いてくれるわ!」

 ネーガルツは全身の筋肉を引き千切るかのような力を込め、その威力を右手に込めながらずしりと腰を落として鉄球を解き放った。投げられた速度は二人の距離をあっという間に縮めた。

 が、鉄球は赤縞の目前で垂直に曲がり床に減り込んだ。鉄球の表面には赤縞が振りかざした斧の刃が見事に食い込んでいた。その光景を見るやいなや、ネーガルツは手に持っていた鎖を振り投げ、赤縞に向かって駆け出した。赤縞は斧を捨てると手首の少し下の中に左手の親指を食い込ませながらネーガルツに向かった。

 何度も縫った痕のある拳が赤縞の視界に飛び込んだ。赤縞の右手は固まったかのようにぴんと伸び、ネーガルツのとある部分を狙っていた。赤縞はその迫る拳を左手を使って受け流し、右手の指先はがらんどうになったネーガルツの懐に飛び込み、そして上がって顎の下、柔らかい肉を貫いて口の中から顎をがっしりと掴んだ。

 『赤縞流 虎掴み』

 顎の下を貫かれたネーガルツは堪らず声を上げようとしたが、がっしりと掴まれて声を出すことが出来なかった。そしてそのまま赤縞に右腕を持っていかれ、両足を払われてその勢いのまま頭からぐるりと床に叩き付けられた。

 「年よりは縁側で、茶でも啜ってりゃ良いんだよ」

 赤縞は血で塗れた右手を払いながらいった。

 「さて…後は向こうだが…あんなもんに打ち勝てるのか?ええ、絵導?」

 赤縞は先の方で巻き起こっている赤い台風に顔を引き付かせた。

 風は更に勢いを強めながらその大きさを増やし、徐々に徐々に紫薇の間近に迫ってきていた。風の色はてらてらとした赤い色に染まり、恍惚と情熱を表わしているかの様だった。

 紫薇は健気に切っ先を台風に向けているがその顔には追い込まれた焦りの色が見え隠れしていた。

 「(どうやってあれを切り抜ける?どうすれば…)」

 頼みの綱の尾っぽは前方の、それも一部分しか防御できず、全体を巻き込むような攻撃には適していなかった。あれこれ模索をしている暇はなかった。既に風の目は紫薇の傍までやって来ている。

 紫薇の脳裏にふとメルトの姿が過ぎった。いや、それはメルトと同じ位の背丈だった自分の姿だった。その幼い自分がじっと紫薇を見詰めている。悲しそうな目で、まるで何か救いを求める様な目で。しかし紫薇はその視線が実は自分に向けられているのではないと気付いた。すると自分の後ろに誰かが立っているような気配がした。それと同時に心の奥底からぐっと滾ったような気持ちが現れ、その自分の後ろに立っている自分の父親の姿に向かって睨み付けた。

 「どうして助けてくれなかったんだ…」

 紫薇が無意識の内にそう呟くと体中から凄まじい力が、怨念のような奏力が湧き始めて紫薇の体を覆っていった。その色こそ変わっていないものの、醜悪なオーラは禍々しい力を紫薇の中から呼び覚ました。

 『ノヴェント・ディベラ・キグタリアス(その腕は割れた鏡のように)』

 それはまるで白い手が幾重にも重なって出来上がったかのような一本の刀身だった。その高さは城の天井など遥かに越えていた。巨大な刃を紫薇は何の躊躇いもなしに振りかざした。白い刃は次々と赤い風を引き裂いて痛烈な概念をスヴェニグに叩き付けていった。

 「何だこの概念は…!?酷い劣等感、いや…叫び?これではまるで…嘆歌者ではないか…!止めろ、そんなものなど私は求めていないぞ!」

 しかしそれでも白い刃は止まらず、女性の叫び声など聞いていないかのように紫薇は柄を離さなかった。そしていよいよスヴェニグの体を引き裂こうとしたその時だった。


 「だめ!」紫薇の頭の中に一人の少女の声が飛び込んだ。


 「戻ってきて、あそこに戻ってはだめ!」


 紫薇がはっとしたような顔をすると、刀身はそれと同時に消滅してもとの大きさの剣に戻った。台風は既に掻き消された後で、目であったスヴェニグは床に倒れて気を失っていた。

 「今の声は…」

 紫薇は頭がぐわりぐわりと揺れているような感覚がしながら、必死に今の声が誰だったか思い出そうとしたがわからなかった。その声は聞いたことがない人物のものだったが、懐かしい、とても見ず知らずの人間のものではないような気がした。

 「おい、絵導…お前…」

 赤縞は見てはいけないものを見てしまったかのような顔をして紫薇に近付いた。

 「赤縞、俺は…」

 何をしようとしていたんだと口にする前に、

 「…先を急ごうぜ、随分と時間を食っちまった」

 赤縞は紫薇に背中を向けてしまった。紫薇はそれ以上は何も口にできず、赤縞の後に続いて先に進んでいった。



 辛うじて人の形をした手の平がまるで虫の群れのように次々と城の床を食い潰していく。その標的は壁や床ではなく一人の女、クレシェントだった。その腕の一本一本に凄まじい力が込められていたが、クレシェントにとってその攻撃は酷く単調で、加減しながら足を動かせば殆ど労せずに避けられた。

 クレシェントは片手をぐっと握り締め、爪を手の平に食い込ませて爪に血を吸わせた。そして手を振り払うと、そこから弧を描いた血の刃が伸びた腕を切り離していった。

 クレシェントは分があっても決して油断はしなかった。十分に距離を取り、相手の出方を伺いながら対処する。その理由は嘆歌者の持つ概念がいかに恐ろしいか過去に聞かされていたからだった。

 概念を新たな芸術の一種として生み出し、自己の心を解き放つのが響詩者であるのに対して、嘆歌者は心の安寧やアイデンティティの一種として生み出され、自己の心を塞ぎ込む為にあるべきものだった。心の闇や閉塞感、外部からの圧迫、うつなどから身を守る為にそれらを概念として具現化し、自己の保存を行う。それは安易に負の意識とは呼ばず、ある意味で嘆歌者自身が求めた自己表現の一つであった。それ故に嘆歌者の概念は並の響詩者のものよりも鮮烈で、理解するのに時間がかかり、その概念を受け止めて心が混乱や停止してしまう場合があった。

 「だからこそ嘆歌者の前では、自分の心を曝け出してはいけない。最小限の概念で挑まなければ意識の保存に巻き込まれる」

 しかしクレシェントの右手はいつの間にか震えてしまっていた。単奏詩でもクレシェントの肉体は嘆歌者の概念が放った心の電波に侵食されてしまっていた。

 「単奏詩だけでこんなにも追い込まれるなんて…」

 腕を切られ、痛みに体を震わせる女性兵士を他所にクレシェントは目に見えない痛みに苦しんでいた。

 「アイロニーの盾を使いながら肉弾戦に持ち込むしかない…!」

 クレシェントは剣を消滅させて女性兵士のもとに向かった。

 しかしアイロニーの盾は文字通り自己の皮肉、つまり自分を傷付けることであり、多用すれば心に障害を齎してしまう危険があった。クレシェントはそのことに気を配りながら体の全体に盾を散布させた。

 そのときだった。突如として女性兵士は声を殺した叫び声を上げた。それは子供の笑い声のようでもあり、布を引き裂いたような女性の声でもあった。その声を出しながら体を震わせ、体に埋め込まれた甲殻の隙間から細いオレンジ色の触手を伸ばした。それらは紐のようで、一斉にクレシェントに向かってその手を伸ばした。

 「くっ!」

 始めはアイロニーの盾を使って防いでいたがその猛攻や凄まじく、終には上半身の殆どを触手に巻き付かれ、体を縛り上げられながらクレシェントが苦しんでいると女性兵士の腹部がぼこりと膨らみ、びりびりとへそが横に割れ、その隙間が巨大な口となって涎を垂らした。

 クレシェントはずるずるとその口許に引きずり込まる。触手にかけられた力は今にもクレシェントのか細い手首を折ってしまいそうなほどだった。だがその女性兵士、いや、彼女に巣食っている概念はクレシェントが所有していた腕力の度合いを知らなかった。更に悪かったのはクレシェントの手の平の自由を奪わなかったことだった。

 クレシェントは引き摺られながらも触手をがっしりと掴み、全身に力を入れながら徐々に体の向きを曲げていった。その度に触手が音を立てて千切れる。そしてクレシェントの張った声と共に女性兵士は投げ飛ばされ、壁に激突すると壁を崩しながら倒れた。

 触手の力が弱まった。クレシェントは纏わり着いた触手をアイロニーの盾で吹き飛ばし、倒れ込んだ女性兵士に顔を向けた。しかし一行に女性兵士が起き上がる気配はなかった。ぱらぱらと小さな破片だけが音を立てている。

 「(…今のでのびたのかしら?)」

 クレシェントは油断こそしなかったが少しだけ安堵した。

 「ちっ、あの女…!面倒なことをしやがった…!」

 矢を発射していたのを止め、戦闘中でありながら柄の悪い兵士はクレシェントの方に顔を向けた。

 「面倒なことだと?」

 プランジェもそのただならぬ気配に足を止めた。

 「あの女がティーレクークの意識を止めやがったせいで、奴の…概念が目覚めて肉体の主導権が取って代わる。そうなったらただの化け物に成り下がっちまうんだよ。自閉的な女だからな…」

 最後の部分にだけ感情的になったのをプランジェは聞き逃さなかった。

 突如として女性の金切り声に近い叫び声が鳴り響いた。すると倒れていたはずの女性兵士の体は起き上がった。しかし起き上がったのは下半身だけで上半身は意識がないようにぐったりとしていた。腹部は打って代わって口を空けたままひくひくと動いている。上半身と下半身が別の生き物のようだった。

 再び奇声を上げると、下半身がもごもごと蠕動して上半身を包み込み、完全に体の支配権を乗っ取ってしまったようだった。全体となった下半身は無骨な音を立てながら体を組み替えていった。そして現れたのは首と腕がない化け物だった。胸部には人の口に似たものが開いていて、肩から太い触手が垂れてコートのようだった。華奢な体だが背も一段と高くなり、顔の代わりに七色の球体が浮かんでいた。

 「これが嘆歌者の『自閉概念』…『魂奏歌クジャラ』…」

 クレシェントは目の前に具現化された響詩者とはまるで異質の存在に圧倒されてしまっていた。そして同時に、彼女が受け取った身近な者の危険性を再認識した。やはり絵導紫薇は、響詩者よりも嘆歌者に近い気質を持っている。そのことをクレシェントは直に感じ取っていた。

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