26話 剣劇鏡花

 王宮内では水面下での警報が広がっていた。さる筋の情報によれば、メルタジア第二王子が王宮に帰属した後、まもなくに賊が王宮に宣戦を布告するとのことだった。その情報を受け止めはしたが、誰もが内心で笑っていた。誰がこの世界の統治者であるセルグネッド王家に牙を剥くのだと。そう思っていた。戦争は協会の人間に任せればいい。我々は矜持を胸に掲げて来るはずのない侵入者を今か今かと待っている。それだけで上手い飯と酒が懐に入るなら簡単なものだ。隊長格は兎も角、下級の兵士の殆どはそんなことを頭に浮かべながら今日まで仕事をしてきた。しかしそのゆとりある柔らかな警戒は、突如として張り詰めた甲高い悲鳴のような警報に成り代わった。先遣によれば賊はたったの四人。恐れる相手ではない。数で包囲して槍で突いてやれば大概は終わる。そうしてその勲功を大袈裟に酒と共に声高らかに自慢するのだ。

 だがその些細な戦場で待っていたのは破滅だった。頑丈な鎧に守られた筈の兵が次々に床に寝そべっていく。下級兵士は重装備が多い。その理由は響詩者でもなければ優れた戦闘能力もないからだ。上の階級、即ちその力量が上がれば上がるほど鎧は肌蹴けて隊長格になると普段着で指揮鞭を振りかざすようになる。三番隊の隊長はそれでも鎧が好きなのか、常に白金色の鎧を着けている。

 重装備は硬度が命だった。ときに地面から発掘された鉱物であったり、魔獣の牙や鱗で作ったりもする。並みの武器では傷一つ付かないし、概念を受けても多少のことならへっちゃらだった。

 しかしそのへっちゃらが次々と破裂する。闇夜に蠕動する銀色の光。それに続いて細長い赤い光が兵を切り付けて敗北者を累々と重ね上げる。また一人、また一人と天井に手を伸ばして倒れる。女も男も関係なしに切り伏せ、ときにまるで突風が通り過ぎたかのように兵を吹き飛ばす。その邪悪な光の正体を、数人の兵士は身を持って知っていた。

 壊乱の魔姫。第ゼルア級犯罪者の一人。世界を破滅と混沌に陥れる可能性を持った者たち。同じ犯罪者の等級であるアレイド級やマクシミオ級とは一線を画した存在。それ自体が伝説や噂話としてナーガに語り継がれている超越力のイコン。その事実を受け止めてしまった兵はまるで泣き崩れた子供のように逃げ出していった。

 武器を手にした者にとって恥にならないことが二つある。一つは女や男を賭けた決闘での敗北。寧ろこれは名誉といっても良い。財産に匹敵するものだ。そしてもう一つは、ゼルア級から尻尾を巻いて逃げ出すこと。これはどの恥にも当てはまらず、生きて帰ればその功績は賛美される程だった。

 「あの女、マジで何もんだよ…」

 赤縞は鬼を引き連れて赤子を相手にしているような感覚だった。クレシェントの左右を担当していても取り逃がした獲物は一匹もいないし、ただ悠然と傷付いた兵士の上を走っているだけだった。

 「流石はクレシェント様、見事なお太刀筋。一人も死傷者を出していない辺りがまた素晴らしい。混乱の中に慈悲を見出すその力、正に賞賛せざるを得ません」

 「化け物はジジィだけじゃねえってか…。はっ、笑えねえ」

 圧倒的な戦力を前に兵士達は慄きながら、クレシェントに背中を向けて走っていった。わらわらと蜘蛛の子をばら撒いたように湧いた兵も今ではほんの一握りになってしまい、切っ先を震わせながら一塊になっている。

 「ひ…退け!退却しろ!」

 その中の分隊長であろう男が声を上げると臨界点に達していた恐怖が限界を超えて兵士たちは次々と武器を放り投げて逃げ出していった。刃が床を傷付ける音が何度も木霊する。その先に立っていたクレシェントの姿は正に絶対的な暴力のイコンとして君臨していた。しかし当の彼女は憂鬱な顔をしていた。

 「(慣れないものね…ああいう眼差しは…)」

 クレシェントはこの場所にやって来た時から覚悟はしていたが、やはり歪んだ顔を目にする度に胸の奥を強く揉まれたような感覚がした。そんな彼女の気配を察したのか、プランジェはそっと傍に近付いた。

 「休んでいないでさっさと先に進むぞ」

 そんな二人を戒めるように紫薇は殿という役目を忘れて一行の前に出た。

 「お前の役割は殿だろう。真ん前に出て何をするつもりだ」

 「殿が前に出ないようにするのが前衛の仕事だがな」

 明らかに不機嫌な口調だった。紫薇の焦燥と怒りは城の中に入った時から着実とその数を増やし、棘の付いた言葉を平然と吐き捨てるようになっていた。

 「そうね、先を急ぎましょう」

 そんな紫薇を宥めるようにクレシェントは柔らかな声でいった。しかしプランジェはそのことが気に入らないのか、仕切りに紫薇の顔を睨み付けながら足を動かした。

 「(こんな調子で大丈夫か?おい…)」赤縞は心の中で悪態を吐いた。


 水面下で広がっていた警報は既にけたたましい喧騒となって城内を縦横無尽に駆け巡っていた。連絡班が怒鳴り声を上げる。その内容は第ゼルア級犯罪者が現れたとか、既に負傷者が百人を過ぎているとか、隊を下がらせて各隊長を直接に向かわせる様よう指示があったりしたものだった。その声は城内の隅々まで響き渡り、その中でベッドに蹲っている次世代の王の耳にも入り込んだ。

 眠っていたのか、薄っすらと目を開けてベッドから起き上がる。外の声に叩き起こされたようにメルタジアはぐったりとしながら部屋の扉を見詰めた。髪の毛はぐしゃぐしゃで上半身は裸だった。


 「二番隊から五番隊までの隊長と、副隊長にだけ対処させるようにとの伝令だ!」

 「既に五番隊の隊長が向かったようです!」

 「負傷者の回収に向かうぞ!」


 扉を通してメルタジアの耳に外の様子が飛び込んでくる。まだ意識がはっきりとしないのか、メルタジアは何が起きているのかわからないようだった。外に出て状況を確認しようと、傍にかけてあったブラウスに手を伸ばし、そこでメルタジアの意識ははっきりと、これ以上にないほど覚醒した。

 右腕の二の腕から先がない。何十にも巻かれた包帯を見てメルアジアは愕然とした。指先のない右腕が微かに震える。

 「そっか…右腕、もうないんだっけ…」

 そうして自分がベッドに横たわっていた理由を思い出した。実の父親に腕を切り落とされた後、自分で手当てをした後に激痛から逃れる為に麻酔の成分を持った木の実をかじって強制的に横たわったのだった。傍には血塗れの布が転がっている。メルタジアは扉に背中を向けて俯いた。

 「…紫薇、これで僕も紫薇みたいになれるかな…」

 そのときだった。不意に部屋の扉が開かれた。外から一人の兵士が部屋の中に入ると頭を下げた。メルタジアは背中を向けたままだった。

 「失礼します」

 「何の用だ?それにこの騒ぎは…何が起こっている?」

 「実は城内に侵入者が現れまして…それもかのゼルア級犯罪者の一人を見かけたとの報告が入っています。目下応戦していますが、何分かのゼルア級ですのでどこまで歯が立てるかどうか…」

 「隊長と副隊長以外は居ても邪魔になるだけだ、奥に下がらせてこの状況が外に漏れないように情報操作を急がせろ。協会に要請をしたのか?」

 「それが…陛下のご命令で、協会の要請は要らないと…。先程の報告もまだ確証が出来ていないので、現存の戦力で対処せよ…と」

 「(…どういうことだ?)」

 メルタジアは背中を向けながら泣くのを止めて思考を張り巡らせた。

 ゼルア級の存在は確証なしでも協会に応援を要請し、城を明け渡してでも逃げに徹底するのがセオリーだった。その応援も並みの要請ではなく、実質その殆どの戦力を集約してゼルア級の対処に向かわせる。宛ら決戦仕様といったレベルの状態にも関わらず応援を要請しない。メルタジアの頭の中には幾つもの疑問が飛び交った。

 「ゼルア級である危険性の為にメルタジア様は謁見の間までお越し願います。既に奥方様はヒオリズム地方に向けて避難なされています」

 「…わかった。下がって宜しい」

 「ではお部屋の外でお待ちしております」

 そういってその兵士が部屋から出ていこうとした時にメルタジアはそこで顔を向けた。ふとメルタジアは気になったことがあったのだ。

 「そうだ君、そのゼルア級の名前はわかるか?」

 「報告によれば…銀色の魔性、赤の女王とも呼ばれる第ゼルア級犯罪者、壊乱の魔姫です」

 その名前を聞いてメルタジアの開いた口が塞がらなかった。同時にメルタジアの脳裏に紫薇の姿が過ぎると、傍にかかっていたブラウスを左手で取り、歯を使って着込みながら駆け足で部屋の外に向かっていった。


 紫薇と一行は王宮を突っ走っていた。城の作りは横には狭く、縦に長い作りをしていて右や左に必ずといっていいほど他の場所に繋がる通路の口が開いていた。しかし再び足を動かした辺りから、わらわらとその通路から顔を出していた兵士たちが一人も出て来なかった。気配はある。それは全員が感じ取っていたことだった。しかし一向に道を塞ごうとしない。その静寂が返って紫薇たちの緊張を強めていた。

 「ひとまず曲がってみるわね」

 その無音に嫌な予感がしたのか、ずっと直進を譲らなかったクレシェントは急に右に曲がって通路の中に入っていった。それに続いて赤縞とプランジェ、最後に紫薇がその通路の中に紛れる。すると今度は縦が狭く、横に広い大部屋が現れた。

 その場所は一見するとただの長い通路だったが、その先に二人の兵士が仁王立ちをしながらその道を立ち塞いでいた。一人は白金色の鎧に身を包んだ濃い暗緑色の髪の毛をしたお河童頭の女性で、その手に図太い針のような武器を持っていた。もう一人は上半身が裸だった。筋肉質の体を持っていたが顔はしわくちゃで、皮膚は小麦色に染まり、手には鈍い色の鎖を持ってその先はまん丸い鉄球に繋がっていた。

 そのときクレシェントの足が止まった。実際には止まらされたのだが、それ程までに二人が放っていた気配はけたたましいものだった。一目で二人の実力を感じ取ると、クレシェントは全員に止まるように手を掲げ、一行はそれぞれに足を止めたが、その中で紫薇だけは勢いを弱めるどころか、更にスピードを上げて二人に食ってかかった。

 「あれが切り込み隊長か」

 「踏み込みは良しと言ったところでしょうな」

 二人の兵士は紫薇の強襲に動じることなく武器を握った。

 「その粋は宜しい、ならば正々堂々と立ち向かうまで!我に続け!」

 紫薇の剣とその女性兵士のランスがぶつかり合った。硬い金属を打ち合った音が廊下に走る。つま先をしっかりと床に押し付け、腰に力を入れて両腕を力いっぱいに押し合うその姿は正に決闘の図だった。

 「あの馬鹿者…!一人で突っ走ってからに…!」

 プランジェはわなわなと体を震わせながら手を握った。同じことを思っているのか、クレシェントも口には出さないが眉間にしわを寄せながら紫薇の背中を見た。

 「行けよ」

 ふと二人の間を赤縞が通り抜けた。

 「あの馬鹿野郎は俺が見といてやるよ。何を血迷って手当たり次第に噛み付こうとしているのかは知らねえが、さっさと先に進んだ方が良いんじゃねえのか?」

 そういって肩に乗っけていた出刃包丁型の斧を包んでいた帯を緩めた。

 「…紫薇をお願いします」

 クレシェントはその場にいる全員を押し退けてでも紫薇をぶん殴りたい気持ちに駆られたが、それよりも優先させるべきことがあると頭の中でいい聞かせ、赤縞の傍を通り過ぎていった。

 「余裕があったらあの馬鹿を殴っても良いぞ」

 「蹴りも入れてやらあ。ってんなことよりさっさと行け」

 「うむ、では頼んだぞ!」

 プランジェはクレシェントの後を追いかけていった。その間、赤縞はもう一人の兵士とじっと顔を見合わせ、二人がその通路を駆け抜けると、お互いに距離を詰め合い始めた。

 「とっとと引退すりゃ良いものを、年よりの冷や水って知ってっか?」

 「凱旋の歌詞は老兵が作るもの、弱卒はそれに従っていれば良い。貴殿は弱卒か?それとも新たな凱旋の道標になる者か?試して進ぜよう」

 「途中でぎっくり腰なんて落ちは止めろよ?骨のある獲物しか好きじゃねえんだ、俺あよ!」

 斧の持ち手が軋むほどの力を入れ、赤縞はその場から跳ねるように走り出した。

 「五番隊副隊長、ネーガルツ・ベネガドネザル!押して参る!」

 ネーガルツは鉄球の鎖を握り締め、先っぽを置いてその巨体を動かした。

 その二人を他所に紫薇と女性兵士が何度もお互いの武器を傷付け合っていた。女性兵士は長い持ち手を器用に操って、時に振り回したり攻撃に用いない持ち手の先で紫薇の肩を貫こうとした。

 紫薇はその猛攻を寸でのところでかわしてはいるが、そこから反撃して相手の体に当てるという動作が出来ずにいた。初めからあった焦燥感が更に募り、紫薇は防御にかまけて段々と乱雑な戦い方になってきてしまっていた。

 それもその筈、女性兵士の戦い方は実に緻密なもので、見せかけの攻撃などを用いて半ば蜂のように紫薇を翻弄した。その戦い方から紫薇は女性兵士の練度の高さに驚いていた。槍やランスなどの長物の相手はプランジェにみっちりと一年間叩き込まれていたお陰で致命傷に至る一撃を受けていないが、段々と紫薇の領域に侵入し始めていた。

 猛攻を続けながら女性兵士が半歩後ろに下がり、振り回していた武器を胸の下で押し留め、腰を下げて左手を持ち手から離し、手を開いてその指先を紫薇の心臓に向けて狙いを定めた。そして右手に最大の力を入れて溜めていた腰の力と共に一気にその力を解放した。

 「ふんぬっ!」

 その気配を感じると紫薇は咄嗟に前に出ようとしていたのを止め、尾を展開させて殻のような盾を作り出した。通常の槍と違って突き刺すというよりも押し通すことに長けたそのランスは紫薇の盾を貫けはしなかったが、その力は盾の表面をまるでゴムのようにきりきりと伸ばし、その切っ先は紫薇の心臓の目元まで伸ばされた。

 尾を後方にも伸ばしていたお陰で体は吹き飛ばなかったが、踏ん張っていた膝や脛に鈍い痛みを覚えていた。この盾をそう易々と破れはしないだろう、紫薇がほっとしたのも束の間、あろうことかそのランスは女性兵士が切っ先を少しだけ離し、持ち手をくるりと回転させるとその刀身は四つに割れ、中から巨大な銃口が現れた。

 鈍色の口を体毛の間から覗いたときだった。凄まじい力で紫薇はその場から吹き飛ばされた。強烈な破裂音。銃口が文字通り火を噴いた。数十メートルは宙を滑空しただろう紫薇の体はそれから二度、床に叩き付けられた。

 「ふむ…。この一品でも破れないか…サルマンの新作だというのに」

 銃口と倒れた紫薇の毛皮から吹き出た煙を見ながら呟いた。

 紫薇は銃の衝撃と床に叩かれた衝撃で倒れたまま数十秒は動けなかった。全身に痺れるような痛みが走り、掠れた声を上げた。立たなければ止めを刺される。その恐怖に突き動かされながら、紫薇はやっとのこと膝を曲げて体を起した。しかし当の女性兵士はゆっくりと持ち手に付いていた引き金から指を離し、熱せられた銃口に手を着けてあちちと熱がりながら中に入っていた空の薬莢を取り出して、その辺りに捨てずに律儀に腰のベルトに着けるとそこから新しい弾丸を引き抜いて銃口に入れた。

 「直撃はせずとも衝撃波は相当に堪えただろう。私も初めてこれを使ったときは腕の痺れが半日は取れなかった」

 再び持ち手を回転させるとランスの刀身は蓋を閉じた。

 「体の痺れは取れずとも慣れはする。準備が出来たら申してみよ。それまで手出しはしない」

 「余裕のつもりか…」

 紫薇は強がってはみたものの、激しい嘔吐感を我慢するので精一杯だった。

 「戦いに余裕などない。そしてそこに品格など必要ない。ただ己の力を込めて渾身の一撃を繰り出す。ただそれだけだ。この私の、王宮守護兵団五番隊隊長、スヴェニグ・キルファーの信条は、刃を向けた者にのみ遂行される。お前が向かって来ないのなら手出しはせん」

 「古典的な女だ…」

 「女である私を笑ってくれ。男根主義は私の理想だ」

 「女でありながら男に憧れる。酔狂にも程がある…!」

 体の痺れは鈍い痛みに成り代わり、紫薇は柄を握って走り出した。

 「そう来なくては…男は良い!全く羨ましいな!」

 そういってその象徴たる武器を深々と握り締め、恍惚の表情を上げながら紫薇に立ち向かっていった。


 クレシェントとプランジェは空気のざわめきを肌で感じ取りながら前に進んでいった。それと同時に小さな揺れが壁を通して辺りをぐら付かせる。背中に残してきた二人の戦闘が激化しているのだろう。クレシェントは今になってやはり残して置くべきではなかったと後悔した。

 「クレシェント様、差し出がましいようですがあの二人ならば心配はいりません」

 するとクレシェントの心情を読み取ったようにプランジェはいった。

 「確かに今の紫薇は猪突猛進と化してしまっていますが…。なに、奴とて並の修羅場は潜っていません。それにあの赤縞という武士もなかなかの手練、すぐに追い付いて来るでしょう」

 そういわれるとクレシェントは小さく笑ってそうねといった。

 「(でも…何かとても嫌なものが近付いて来ている…誰なの?)」

 クレシェントはそれとは別に一握の不安を感じていた。不明瞭な気配。それは強い存在感を持ちながらも影のようにその身を隠しながらねっとりと城に近付いていた。

 しかしその不安を忘れさせてしまうかのようなだだっ広い部屋が現れた。そこは八の字を描いた階段があり、一階と二階が連なった作りになっていた。一階には二階を支える為の太い柱が左右に三本ずつ立っていた。そして二階にはクレシェントとプランジェを見下ろしている二人の兵士が階段に腰掛けて待っていた。

 「どっちがゼルア級の女だ?」

 背中を曲げて腰を降ろしていた男の兵士の人相は紫薇並に悪く、端正な顔立ちをしていて右の頬から上半身全体に刺青が広がっていた。手には太くも小柄な弓を持ち、じっと二人を睨み付けている。服装は至ってシンプルで、袴の様なズボンだけを履いていた。腰には細い鞘のようなものがあってそこから数本の矢の持ち手が頭だけを出していた。

 「…………………」

 それは言葉にならない声だった。もごもごと人に近い声というか、泣き声のような声を出したもう一人の兵士は前髪が異様に長く、逆に背中の髪は殆どないアンバランスな格好だった。髪の毛の隙間から鼻の輪郭が立ち、口の周りをマスクのようなものが封じて全く人相が見て取れなかった。全身をゴム質のタイツに身を包み、その皮膚の殆どを埋め尽くすように大小様々な丸い盾がくっ付いていた。

 「あいつか」

 しかし男の兵士はその人語ならざる言葉を理解しているのか、その言葉を聴いてクレシェントに焦点を合わせると鼻で笑ってみせた。

 「それが本当ならティーレクーク…お前があのゼルア級の相手をしろ。あんな化け物と戦っておっ死ぬのはご免だぜ」

 「………………」

 顔のない女性兵士は言葉でない言葉を発して応えた。

 「ガキの方を片付けたらそっちに行ってやらァ…。それまで精々ゼルア級に弄られてこい。んじゃ、始めるぜ」

 そういって落としていた腰を上げると、男の兵士はその場から足裏に力を入れてプランジェに向かって跳び出した。それに続いて女の兵士もクレシェントに向かって襲いかかった。

 男の兵士は右腕だけに手甲を着けていた。それは金属と皮で出来ていて、指先はナイフのように鋭利でその手甲を真横に振り払ってプランジェの首元を狙った。その一撃をプランジェは予期していたのか、予め握っていた短刀を交差させて一瞬だけ火花を散らせると、そのまま兵士の体ごと受け流した。だがプランジェの短刀の刃は幾つもの歯零れが生じ、その刃先を見たプランジェは舌打ちをした。

 「生意気な…良い業物を使う…」

 女の兵士はクレシェントに向かって飛びかかるのかと思いきや、十分な距離を取って床に降り立つと明後日に顔を向けた。しかしクレシェントは眉間に力を入れながら剣を手にした。髪の毛で目先がどこを向いているのかわからないが、確実にその意識は自分に向けられているとクレシェントはわかっていた。

 「初めに断って置きます。私がゼルア級とわかっているなら、身を引いた方が懸命です。このまま黙って私たちを通して」

 しかし返って来たのは思いもよらない言葉と、髪の毛から見え隠れした女の兵士の顔立ちだった。

 「(何、あれ…)」

 一瞬だけクレシェントが目に見えたのは目玉のない顔だった。顔立ちは確かに女性特有のふっくらとしたものだったが、そのおぞましい顔色を見るとクレシェントは背筋を凍らせた。

 「(奏力を取り込もうとしているものがある…。あの体に着いているのは…いや、巣食っている?あの体が別の意思を持った何かなの?)」

 そのときだった。女の兵士の右腕がまるでゴムのように一瞬にして伸縮しながら、クレシェントに向かって今度こそ襲いかかった。クレシェントはその空気に飲み込まれそうになるのを寸でのところで我に返り、その場から飛び退いて二階に降り立ってその女の兵士に目を凝らした。

 鎧かと思っていたものは実際は体中に纏わり着いた寄生虫のようなもので、盾と思っていたものは昆虫の硬い甲殻のようなものだった。しかしその生きた鎧からは確かに人の意思をクレシェントは感じ取った。悲しみ、妬み、深い憎悪の塊。人のマイナスの意思が凝縮されたもので、いわば呪われた鎧とでも呼べば良いのだろうか。その鎧は女の兵士の体を貪りながらも彼女の命を支えているようでもあった。

 「たしかマルテアリスが言っていた…。この世界の根幹が人の概念で基づいているのなら、浮き足立った自閉的な感情もまた自己表現の一つなのだと…。もう一つの可能性、『嘆歌者ヌーヴァ』…独創性の成れの果て…」

 全身に張り付いていた盾の形をした甲殻がぎょろぎょろと目の様に動いてクレシェントに視線を集めると、それぞれが一斉に照りを出してそこからさっき出した腕を、甲殻と同じ数だけ繰り出した。先程の暗い緑色をしていた腕と代わって、赤みを帯びた手がクレシェントに再び襲いかかる。

 クレシェントは逃げ場がないと判断すると、じっと目を瞑って出来るだけ醜い姿の自分、壊乱の魔姫になった自分をイメージした。するとクレシェントの周りには透明な壁が出来たかのように襲いかかる腕はその壁に弾かれた。しかし概念の中に込められた意識だけは別で、衝撃は寄せ付けなくてもその意思の波がクレシェントの心臓に染み渡った。


 ときどき、何の理由もないのに憂鬱だと感じるときがある。その日は何をする気にもなれず、仮に何かをしてみたとしても殆ど上手くいかない。気紛れにシャワーを浴びてみるといつもより水の温度が冷めていて、ねっとりとした頭のぐらつきが起きる。風呂場から上がってみると辺りの空気が薄っぺらに感じて、太陽があるのにその光がやけに薄い。白いもやがかかったように感じる。ベッドに寝そべってみると天井がぼやぼやと滲んで、視界がぼやけ始めて段々と脳みそが擦れていく感じがする。何も考えられない。何もわからない。そんな感情が延々と続く。


 人の負の部分を穿り返したような感覚がクレシェントの頭の中にいっぱいになりそうになる。それを必死にクレシェントは耐えながら奏力を放出することに努めた。

 「これが…意識の溝に溺れた概念…」

 その様子をプランジェは何度も一瞥していた。異様な感覚が背中を駆け巡る。実際に面と向かっていなくてもその場に流れていた空気は異質だった。

 「そんなにもあいつの気配が気になるか?」

 男の兵士は何度もプランジェの隙を見付けたが、そこを突こうとはしなかった。

 「あれは嘆歌者…概念に飲み込まれた異形が何故こんな守護兵団に属している?あれは本来、あらゆるものから隔離しなければならないものだぞ」

 「何をほざいてやがる…。俺らはロメルニアやヒオリズムのような華やかな格好をした戦士団じゃねえんだ。外敵から城を守護する為の傭兵集団。それがセルグネッドの兵団だ。表向にはこ洒落た格好をした奴らが胸を掲げて踊ってるよ。ここに来るまでに尻尾を巻いて逃げていった奴らがそうさ。張り合いのねえ、大した奴らだ」

 「それが噂されていたセルグネッドの闇の歴史か…。隠蔽と虚栄を武器に一大王国を築いたとされる英雄の一人…コーランド・セルグネッド。メルトの奴が駄々を捏ねるのも今となっては頷ける…」

 「納得したところで続きを始めても良いか?そんな隙だらけの獲物を仕留めるほど落ちぶれてもいねえんだよ」

 「…ふん、そんな子供が使いそうな小さな弓で何が出来ると言うのだ?」

 プランジェは相手の弓を見て悪態を吐いてみせたが、それはすぐに後悔へと変わった。男の兵士が彼女の言葉を跳ね除けるように弓を撓らせると、折り畳まれて小さくなっていた弓はその骨格を徐々に広げていき、最後にはニメートルほどの巨大な弓へと変貌していった。

 「大きけりゃ良いってもんじゃねえだろうが…この弓の撓りはお前が思っているよりも遥かに優れたものだ。精々逃げ回ってくれよ?狩猟ってのは娯楽の一つなんだ。頼むぜ?」

 プランジェはその巨大な弓を見て思わず喉を鳴らしてしまっていた。

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