25話 残り香を追って

 群青色のカーテンをかき分けながら前に進んでいく。その度に胸の中の鼓動が一つ、また一つと高鳴った。恐怖がないといえば嘘になる。しかし虚構を吐いてでもしなければ、とても足を動かすことなど出来なかった。王に謁見するための礼服が肩に圧しかかって息が詰まる。手の平はその目で見なくてもじわりと汗ばんでいた。

 全力で走って二、三分はかかるであろう広大な謁見の間は異様な静けさを孕んでいる。カーテンの先には権力の塊が腰を下ろしていた。その眼先に一人の女が跪く。

 「ご苦労だったな、一番隊副隊長」

 セルグネッド王の顔を見るとエナは左手で自分の目を隠し、下に降ろした。謁見の際に用いる身振りの一つだった。

 「して…メルタジアはどこにいる?まさか見付からなかったなどと、そんな報告をする為に戻って来たのではあるまいな?」

 その問いにエナはただ黙って目線を降ろすことしか出来なかった。全身から汗が噴き出し、喉がやけに渇いた。エナはもっともらしい解釈を伝えようと思っていたが、王の視線はまるで心の中を埋め尽くすかのようで、考えていたことなどあっという間に消えてしまった。

 「何故お前に…わざわざメルタジアと面識があったお前に、使いをさせた理由がわかるか?」

 エナは黙ったまま王の目を見た。メルタジアと同じ緑色の目をしていても、その中身はまるで違っていた。人を使役することに、支配することに慣れた目。とても血の繋がった者にはエナは思えなかった。

 「お前がメルアジアを連れて帰って来ないことなど初めからわかっていた。だがそれでもお前を行かせたのはな、確信を得る為だ。あの者が言っていた通り、本当にかの世界にメルタジアが居るのならば、必ずお前は奴に共感して今の結果を持って来るだろうからな」

 エナは息を飲み、こうまで人を操れるものなのかとエナは王に戦慄した。 

 「お前の働きには感謝している。ある意味でお前は王に尽力しているのだからな。しかしそれがお前自身の楔になろうとはよもや思うまい。いずれにせよお前に与えた役割は終わりだ。合い鍵は…返して貰うぞ」

 そういって王は椅子に座ったまま手を差し出した。

 「…王、一つだけお聞きしたいことが御座います」

 半ば声を震わせながらエナは話した。もうこの時には既にエナの心情は決まっていたのかもしれない。手のひらの汗は乾いていた。

 「何だ?」

 「王は、メルタジア様を一度でも抱き寄せてあげたことはありますか?」

 「どういう意味だ?」

 「あなたは…メルタジア様を人として扱ったことがあるのかと聞いているのです」

 「…ああ、あるとも。あやつが生まれたときだけだったがな」

 気付けばエナは眉間にしわを寄せていた。

 「あれを産ませたのは失敗だった。だがそれも今となっては口惜しい。お前があやつに与えたものなど、私は一片ほども感じたことはない。初めてだ、実の子であっても愛しいと思わなかったのは」

 「…ミグフェネス!」

 腰に差していた剣に手を伸ばし、エナは激高しながら刃を抜いて走り出した。

 「やはり貴様は王ではない!ただの俗物だ!」

 叫びながら切っ先を王の顔に向ける。エナはメルトに怨まれても構わないと思った。それでも自分を路地裏から拾ってくれたメルトを、将来の真の王と信じて違わない者への忠義を、蹴飛ばされて腹を立てずにはいられなかった。

 剣は王の鼻先で閃いている。王の目には一握りの焦りも恐怖もなかった。ただその目には背中から一突きされたエナの姿が映っているだけだった。黄金の刃がエナの心臓を突き立ている。エナの口許からは濃い血が流れた。

 「つ、ツヴァイベル…」

 エナの背後には黒髪の中に浮かぶ鳶色の目をした男が剣を握っていた。刃を突き立てたことなどまるで躊躇いのない冷酷な瞳、その顔立ちは酷くランドリアに似ていた。その人物が剣を勢いよく引き抜くと、エナは持っていた剣を落としてふらふらと後ろによろけると、穴の空いた胸を手で抑えながらその男を見た。穴から流れた血はもう止みそうになかった。

 「あなたには…子供の気持ちがわからないのか?王といえど、所詮は人なのに…」

 「我がレギスチオンの家訓に抗命の意は記されていない。人を解くよりまず公務を果たせ、副隊長」

 その言葉を聴くとエナはずるりとその場に崩れ落ち、体を痙攣させながら笑った。

 「やはり私は…こんな生活など出来る筈もなかった…ご免なさい、メル…」

 動いていた唇は再び背中に突き刺された黄金の刃によって固められた。そして完全に命のもとをすり潰すように刺さった刃がエナの体の中で回される。エナの心臓はずさんに崩れ、開いた胸の穴からその崩れた形が見えた。

 「部下の不始末は私の責任です。王、非礼をお許し下さい」

 剣をエナの体に突き刺したままツヴァイベルは王に頭を下げた。

 「お前のその薄情さが私にとって何よりの信頼の証だ。なに、取るに足らん。それよりもお前には主命を与える。メルタジアを王宮に連れ戻して参れ。腕の一本は構わん、隻腕の王ともなれば民衆の心も掴み易かろう」

 「承りました」

 そういってツヴァイベルは再び頭を下げた。するとエナの体に刺さっていた黄金の剣は小さな光の粉となって消えていった。しかし床に広がっているエナの血液はいつまでもそこに残っていて、怨念でもあるかのように染みを着けた。



 「…っ!」

 瞼が開かれて暗闇だった視界に世界が飛び込む。短い間隔で息を吐きながらメルトは悪夢から覚めた。それはエナが血まみれになって床に伏している映像だった。

 そんな悪夢のことなど露知らず、隣にはクレシェントが気持ち良さそうにソファーでいびきをかいていた。メルトはその様子に助けられたような感じがして、つい気を抜いて小さく苦笑した。

 「そんなはず…ないよね?」

 メルトは自分を落ち着かせるように窓ガラスに映った自分の姿を見た。



 紫薇は学校の図書室でセレスティン・アーネスエヴァリット著書の本を探し回っていた。遺伝子学、遺伝子工学、生物学、外国語訳書の棚にある本を一つずつ漁っていく。その一役を氷見村に手伝わせていた。

 「紫薇、あったよ!」

 氷見村は紫薇に一冊の本を手渡した。

 「これで三冊目か…。しかし三冊とも仏語とは、翻訳に時間がかかりそうだ」

 積み重なった分厚い本のどれもが日本語訳ではなく、原文のままだった。それも一冊一冊が親指より厚い。紫薇は呆れながらその本を重なった本の上に投げた。

 「流石に君でもフランス語が相手じゃ形無しかい?」

 「まあな、凡そ文脈はわかるが、専門用語が並ぶとさっぱりだ。辞書を並べて一つ一つ確かめるしかない。悪かったな、手間を取らせて」

 「お、君からお礼を言われるなんて僕 嬉しいなあ」

 「ああ、後はもう用済みだから帰って良いぞ。いても邪魔だ」

 「…全然 嬉しくない」

 「腹の具合もあるだろう。余り無理して血を吐かれても困るだけだ」

 「ああ、お腹なら大丈夫。ちょっと時間はかかったけど、ばっちり治ったよ。それより急にこんな難しい本が読みたいだなんて…進路は大学院にでもするつもり?」

 「少し気になっただけだ。うるさいからもう帰れ」

 そういって紫薇は席に座ってページを捲り始めた。

 「ひ、ひど過ぎる…!」

 泣き出しながら図書館を飛び出していった氷見村に紫薇は流暢にフランス語でさよならといって手を振った。

 それから紫薇は日が暮れるまで翻訳に勤しんだ。一冊目の四分の一が翻訳し終わった頃、紫薇は疲れた目を擦りながら椅子の背もたれに寄りかかった。そしてちかちかと光る蛍光灯を眺めると、頭の中に流れるフランス語を止めて本を閉じた。


 家に帰りながら紫薇は頭の中に残っていた本の履歴を思い返した。本のタイトルは日本語に訳して「遺伝子にこそ神は宿る」本の内容はセレスティンが進めていた遺伝子工学の研究をもとに書かれた自叙伝だった。やはり巫家で手に入れた情報通り、セレスティンは遺伝子工学の最先端にいたようだった。だが読んでいる中で何か真実に近付くようなことは書かれていなかった。

 「ただいま」

 頭を使ったせいで紫薇は足取りを重く感じていた。やはり喋ったことのない文学を日本語に翻訳するのは難しいなと紫薇は実感させられた。そしてふと思ったのは、クレシェントたちの言語は日本語なのだろうかと根本的な疑問が湧き上がっていたが、疲れた体ではそれを聞こうとも思えず、頭を整理して夕食を取るのが精一杯だった。


 「…今日はお疲れみたいですね」

 紫薇のカレーを掬うスプーンの動きが遅いことを読み取ると、羽月は心配そうな顔をした。

 「慣れないことをするもんじゃないと思い知らされましたよ」

 「紫薇にもそういうことがあるんだね」

 ご飯を頬張りながらメルトはいった。

 「メルト、食べながら喋るな。それと頬に米粒を付けるな、安っぽい漫才じゃあるまいし、ほら」

 そういって紫薇はメルトの頬に付いた米を指で落としてやった。その光景を見てクレシェントは笑い出した。

 「なんだか二人は兄弟みたいね」

 「こんな手間のかかる弟はいらん。それとお前の頬にも付いてるぞ」

 「え!?嘘!?」

 慌ててクレシェントは頬を拭いたが米粒は取れなかった。代わりにプランジェが申し訳なさそうに手で払ったのを見て、メルトはどっちがお姉さんかわからないねというと、一同は紫薇を除いてどっと笑った。プランジェも笑ってしまったが、はっとして手で口を抑えてクレシェントに何度も謝った。


 メルトは笑いながら今の時間を満喫していた。ここには沢山の喜びがある、生きている実感がある。泣き出しそうになりながらも、メルトは笑うことで自分を誤魔化そうとした。ここで泣いてしまえば全てが夢で終わってしまうのではないかと思ったからだった。だからメルトは精一杯笑った。悔いのないように、これからもこの場所で笑っていけるように。

 「お休み、紫薇」

 ソファーから腕だけを出して紫薇はひらひらと手を振った。

 ベッドが足りないのでクレシェントはプランジェと、メルトは羽月と一緒のベッドに寝ていた。メルトは羽月の部屋に行ってドアを閉めた。そして目を瞑る際にまた明日も野球が出来ると良いなと思いながら眠りに着いた。

 その夜は静かだった。余りの静寂に家の者はぐっすりと、まるでもう二度と目覚めないかのように息を沈めていた。その中でただ一人、メルトは急に催して目を覚ますと、隣で目を閉じている羽月を起こさないように成る丈音を立てずに部屋から離れ、一階のトイレに向かった。

 用を済ますとメルトは手を洗い、部屋から出るときに持ち出した私服に着替えるとリビングに出て辺りを見回した。団欒としながら皆とテレビを見る時はリモコンを奪い合ったものだった。食事の際は人の倍以上食べるクレシェントに負けないよう無理をしてお代わりを頼んだものだった。時々、台所に立った羽月の背中を見ては包丁の切り方などを真似したり、ときには手伝ったりもした。

 不意にメルトの目から涙が零れ落ちた。わかっていたのだ。こんな生活が長くは続かないということを。その証拠にしんみりと、かつて感じたことのある奏力が庭先から現れ始めていた。その気配には誰も気付かない。それはその人物がとても気の消し方に長けていて、その気配を感じることが出来るのはセルグネッドの血族だけ。かつても今も王の懐刀として君臨するレギスチオンの家の者だった。

 メルトは指で目を擦ると玄関に向かい、靴を履いてドアを開けた。その際、振り向きはしなかったが顔を俯きがちにしてありがとうといってドアを閉めた。

 「お迎えに上がりました、メルタジア様」

 玄関の先にはやはりメルトが予想していた通り、ランドリアと瓜二つの顔がそこに立っていた。

 「わかっている。その為にお前の前にわざわざ現れてやったのだ」

 もうそこに過去の幼さはなかった。あるのは次期王として訓練された完遂を求められたメルタジアの姿がそこにあった。目付きは紫薇よりも鋭く、重い。

 「…左様ですか」

 その言動に内心驚いたのか、ツヴァイベルは一瞬 目を細めた。

 「王を待たせる訳にはいかない。さっさとソフィの合い鍵とやらを開けろ」

 そういうとツヴァイベルは有無をいわさずに懐から白い鍵を取り出すとメルトの傍に近付き、宙で先端のない鍵を回した。すると鍵と同じ色の扉が現れ、二人の体を包んでいった。メルトは振り返ることも思い返すこともしなかった。ただ前を見詰めながら、ツヴァイベルに見られないようにじっと手を握り締めていた。



 扉の先は不気味な壁が広がった場所だった。メルトはいつの間にか自分の体が無数の手に巻かれていることを驚いたが、平静を装いながらツヴァイベルの後を追った。彼もまた体中を巻かれ、壁に向かって進むごとに手はその数を増やす。そうして壁を抜ける頃には二人の体中に手が張り付いていた。

 壁の向こうは暗闇が広がり、体中に巻き付いていた手は消えていた。メルトはその闇に恐れながらも足を数歩動かすと、体が引っ張られるような感じがした。するといつの間にか体は動いた後で、後ろにはあの不気味な壁が聳えていた。メルトは飲まれない様に注意しながら歩き、ツヴァイベルは再び宙に向けて鍵を差し出した。するとまた白い扉が現れ、その扉を開けるとそこは王宮の中に続いていた。


 青いカーテンがずっと奥まで続いている。その先にはメルトに似た顔が腰を下ろしてメルトを見詰めていた。いや、見詰めていたというよりは眺めていたといった方が正しい。そこに愛情はなく、ただものを眺めているだけだった。

 「お久し振りで御座います、ミグフェネス陛下」

 メルトは手を目で隠すと頭を下げた。

 「自らこの城を出て行った者が口にする台詞ではないな、メルタジア」

 「わかっています。なればこそ今より王となる為に勉学に勤めたいと思います」

 「知った口を効くでないわ、青二才が」

 ミグフェネスは目を強張らせ怒りに震えながらいった。

 「お前のような出来損ないに王の座を明け渡さなければならないと思うと身が引き裂かれるようだ。お前の心臓をジオネイズにくれてやりたいが、そんなことをしても手遅れだ。既にジオネイズは死んだ…。お前が俗世の空気を吸っている間にな」

 「それは心中お察し申し上げます。私も兄上が亡くなったと思うと不憫でなりません。この上は身を挺して学問に我が身を捧げましょう」

 少しも動揺を見せないメルタジアにミグフェネスは完全に憤っていた。今では些細な声で何度も言葉にならない声を上げている。その様子をメルタジアはじっと重く、冷たい目で見ていた。しかし急にその怒りは収まった。何かを思い出した様に口許を緩ませると急に弁舌になり出した。

 「その通りだ。死んだジオネイズの代わりに、お前は今まで以上に勉学や稽古、芸術に勤しまねばならない。お前が城を勝手に抜け出したことも、もう咎めても意味はないだろう。私もこれ以上は何も言うまい」

 「陛下の広いお心、真に感謝致します」

 「しかしだ…しかしやはり王ともなればそれ相応の覚悟と責任を伴わねばならない。わかるな?メルタジア」

 その直後、初めてメルタジアの目の色に焦りが現れた。その色を見付けると、ミグフェネスは嬉しそうにほくそ笑んだ。

 「どんな…罰を受ければ良いのでしょう?」

 「拷問などをするつもりはない。ただ…腕の一本を差し出して貰おう。確かお前は右利きだったな?」

 するとツヴァイベルは黄金に輝いた剣を取り出し、メルタジアに近付いた。

 「罰は必要だ。仮にそれが王であっても、否…民生の模範となる王だからこそ罰は必要なのだ。安心するが良い、民を守った時の怪我などとして誉れ高い勲章ということにして置いてやろう」

 にやにやと笑うミグフェネスだったが、唐突にその笑いは止まった。それもその筈、恐れ慄くと思っていたメルタジアはあろうことか自分から右腕を掲げ、ツヴァイベルに向けて差し出していたのだ。その光景を見たミグフェネスの怒りは頂点に達し、ツヴァイベルに向かって切り捨てろと怒鳴り散らした。

 途端、か細いメルタジアの二の腕が半分になった。黄金の刃は骨などなかったかのようにするりと肉を裂いて腕を体の外に飛ばした。小さな手の平から下腕が床に落ちる。切られた二の腕からはどぷりと血が流れ、メルタジアの額は汗がこびり付いた。しかしメルタジアは平然とした顔をしていた。

 「確かに罰を承りました。ではこれにて失礼致します」

 メルタジアはマントを王に見せ付けるようにひらめかせ、背中を向けてその場から去っていった。その毅然とした態度は流石のミグフェネスも予想をしていなかったようで、呆気に取られてしまっていた。

 「(やはり幼くとも王の血筋か…。末恐ろしいものだ…)」

 手元から黄金の剣を消しながらツヴァイベルはメルタジアの背中を一瞥した。



 背筋を伸ばしてゆっくりと起き上がる。窓から差し込む光を受けながら紫薇は朝一番に目を覚ました。しかしその少し前に羽月が起きていたようで、髪の毛を縛りながら朝食の支度をしようとしていた。

 「おはようございます、紫薇くん」

 「おはようございます。土曜日なんだからゆっくりして貰っても良いんですよ?たまには遅い朝食でも誰も文句は言わないですし」

 「最近は食べる人が多くなったから、ちょっと早めに起きないと間に合わないんです。メルトちゃんもクレシェントさんに習って沢山食べるようになったから」

 「(嫌なところが似てきたな…)」

 紫薇は心の中で二人を引っ叩いた。

 羽月は鍋に水を入れて出汁パックを浸すと火を点けた。その間に冷蔵庫からネギを取り出すと、慣れた手つきでリズミカルに刻み始めた。紫薇はその様子をちょっとだけ覗いてからリモコンに手を伸ばし、テレビをつけようとした。

 「あれ?」

 急に羽月が手を止める。気持ちの良い音がなくなると、紫薇は何事かと後ろを振り向いた。

 「どうしました?」

 「紫薇くん、メルトちゃんって下に降りて来てますよね?」

 少し顔色を悪くさせながら羽月はいった。

 「トイレか書室でも居るんじゃないですか?」

 「そうかも…しれないですね」

 そういうと羽月はほっとした顔をしてネギを切り直したが、どこかその顔は覚束ない。紫薇はまさかなと思いながらリモコンを置いて書室に向かった。

 リビングを抜けて右奥に向かい、書室の部屋のドアを開ける。そこには散らばった本が無造作に置かれていた。大体はクレシェントの仕業で、使ったものは使いっぱなしだった。

 紫薇は目を見開いて書室のドアを勢いよく閉めた。そして大急ぎで浴室に向かい、中を見るも誰もいなかった。他の部屋を探すたびに紫薇の心に焦りが生まれる。トイレも物置も探したが、どこにも見当たらない。最後に玄関を見てみると、メルトの靴がなくなっていた。

 「…糞がっ!」

 紫薇は両手で髪の毛を搔きむしった。わかってはいたのだ、メルトが誰にも悟られずにこの場所を離れることなど。紫薇は一目散に二階に駆け上がり、クレシェントとプランジェの部屋に入った。二人はまだ眠っていたが、そんなことなどお構いなしに布団を放り投げてクレシェントの胸倉を掴んだ。

 「クレシェント!レミアの鍵を出せ!」

 「…え?紫薇、どうしたの?」

 まだ覚醒していないのか、クレシェントの反応は鈍かった。

 「き、貴様…!何をやっている!」

 プランジェの牽制に目もくれず、紫薇は握りしめる手の力を強めた。紫薇の顔は焦燥と怒りに満ち溢れ、今にも泣きだしてしまいそうなほど目を赤くしていた。

 「紫薇…落ち着いて…。苦しいよ…!」

 眉を曲げるクレシェントの顔を見て、紫薇ははっとしながら手を解いた。

 「…何があった?紫薇」

 「…あの馬鹿が、メルトがいなくなった…!」

 「そんな…!?」

 「すぐに出る準備をしろ」

 そういって足早に部屋を出ていった紫薇の姿を二人は困惑しながら見詰めた。


 十分後、二人はリビングに集まった。紫薇はその間、とても落ち着きのない様子だった。ソファーに腰掛けながら何度も貧乏揺すりを続けていた。目を閉じてじっとしようとしても、体のどこかしらが動いてしまう。二人の足音が耳に入ると紫薇は時計に目をやった。七時半、いつもならまだ眠っている時間だった。

 「来たか…行くぞ」

 紫薇はいてもたってもいられなかった。

 「先ずは落ち着け。そう足踏み立っては見えるものも見えなくなるぞ。いつものお前らしくないではないか」

 そこで紫薇は初めて二人の目の色を知った。まるで逆立った野良猫をおっかなびっくりに見ているようだった。紫薇は舌打ちをして顔を背けた。

 「出かける前に状況の整理をしましょう。良いわね?紫薇」

 紫薇は黙って頷いたが釈然としないようだった。

 「初めに…メルトの姿が消えてしまったのはいつ頃でした?」

 「朝、目が覚めた時にはメルトちゃんの姿はありませんでした…」

 半ば泣きながら羽月は控えめな声を出した。

 「ということは夜の内にここから出て行った可能性が高いですね。しかしそれなら私や紫薇は兎も角、クレシェント様が気付かない筈がないのですが…」

 「レミアの鍵の痕跡もなかったし、やっぱりメルトはこの世界にいるのだと思うけれど…」

 「ならば一体どこに…」

 じっくりと討論を交わせる二人に再び紫薇は怒鳴った。

 「どうでも良い話は放って置け!」

 二人だけならず羽月も目を丸くして驚いた。

 「あいつが向かった先は一つしかないんだ。セルグネッドの王宮、そこに…」

 「行って何をするつもりだ?」

 紫薇の口をぴしゃりと止めたのはプランジェの一言だった。そこからまるで立場が逆転したようにプランジェの口調は怯えたものから、相手を威嚇するものに変わっていった。

 「まさかメルトを連れ戻すなどと言うつもりではあるまいな?馬鹿馬鹿しい、王族に刃を向けるなどもっての他だ。お前はアレイド級やマクシミオ級の犯罪者にでもなるつもりか?」

 「珍しく臆病風に吹かれたな、プランジェ」

 「…何?」

 「普段のお前なら、王などただのお飾りに過ぎん、などと言って先陣を切るお前がやけに弱腰じゃないか。それともやはりお前は虎の皮を被った狐なのか?」

 「生憎と私は今のお前のように能無しではないのでな。これ以上クレシェント様の立場を悪くさせる訳にはいかん」

 「これ以上どうやって悪くなる?最悪を背負った女だぞ」

 「口を慎め、この青二才が」

 「二人とも、もう止めなさい」

 一触即発な状態の二人をクレシェントは間を割って止めた。

 「しかしクレシェント様…」

 「なんだ?気に触ったか?」

 「貴様…」

 「紫薇、貴方の気持ちはわかるわ。でも今はしっかりして」

 「お前に何がわかるっていうんだ」

 「口に出して欲しくないんじゃない?喋っても良いなら構わないけど」

 「お前…!」

 まっすぐに紫薇を見詰めるクレシェントの目は透き通った水のように純粋で、一切の濁りがない銀色だった。紫薇はその色を見続けられず、目を細めると顔を背けた。

 「確かに紫薇の言った通り、私がこれ以上汚れることはないわ。それを否定なんてしない。でもね、これから紫薇がしようとしていることは紛れもない犯罪なのよ。紫薇は、私と同じになれる?ここから先は相容れない意見を押し通す、純粋な暴力と否定的なイデオロギーの連続。それが出来るの?今の貴方に」

 ずしりと紫薇の肩に目に見えない重りが圧しかかった気がした。紫薇は彼女が脅しでいっているのではないのだとはっきりわかっていた。実際にその手を血に染めた者だけが口に出来る呪われた理論。その根底を紫薇は今、飲み下そうとしていた。

 「本当に良いのね?怨み積もって呪われたとしても、後には引き返せないわよ」

 「…ああ」

 紫薇はゆっくりと喉につっかえそうになりながらも確かに飲み込んだ。すると圧しかかっていた肩の歪みは抜けて、クレシェントは寂しそうな顔で笑った。

 「もう大丈夫?」

 「お前に揶揄されるとは思わなかった。屈辱だよ」

 「さっきの状態で傍に居られても邪魔なだけだもの。少しは反省して」

 「手厳しい女だ」

 紫薇はやっと落ち着いたように溜め息を吐いた。

 「少しはまともに戻ったか?」

 「お陰様でな。産まれ変わった気分だ」

 「なら良い」

 「プランジェ、王家の戦力はどれ位だ?」

 「戦力と言っても昔と違って軍備縮小の流れでその数は万に及ばない。だが千単位の軍団が王宮に蔓延っている。それらの兵を束ねるのが各隊長だ。私が知っているものと変わっていなければ隊長格は全部で五人、そしてその隊長には当然ながら副隊長が就いている」

 「つまり一隊に数百の兵士が配備されているのね」

 「その通りです。隊長格や副隊長格は誰も響詩者と見て良いですし、腕も滅法強いでしょう。現役の兵士ですらどの程度の実力を持っているのか想像がつきません。更にその兵団の頂点に立っているのが、セルグネッド王宮守護兵団総隊長ツヴァイベル・レギスチオン。かの有名な十剣戦争で英雄と呼ばれた血筋の者です」

 「…紫薇、貴方はメルトを連れ戻すつもりでしょうけど、その後はどうするの?仮にこの世界に引っ張ってきたとしても、またソフィの合い鍵を使われたら同じことの繰り返しよ?」

 「そのことなんだがな、お前の弁舌のお陰で頭がすっきりて妙案を思い付いた。さっき言った最悪のことだが、ゼルア級の烙印はどの程度の効力を持っている?その名前を聞いた奴が股から恥を漏らす位か?」

 「…多分、実際にゼルア級の被害を受けた人ならそれ以上だと思う」

 「おい、まさか貴様…」

 「クレシェント、お前自分から壊乱の魔姫だと名乗れ。相手がゼルア級なら兵も少しは足並み崩れるし、メルトを連れ戻した後も手ぐすね引かないだろうからな」

 「ふざけ…」

 「わかったわ」クレシェントは間髪入れずに応えた。

 「決まりだな、レミアの鍵を出せ」

 「ま、待て待て…!クレシェント様!本当に宜しいのですか!?」

 「良いのよ。そうすれば被害も抑えられるし、その後だって上手く収まるかもしれないから」

 「しかし…」

 「その方が懸命だよ。逆に城の人間をこいつに皆殺しにさせた方がもっと害悪だ。そっちの方が手っ取り早いし、俺も汚名を着せられずに済むんだが。プランジェ、お前が決めて良いぞ」

 「な、何だその二択は!?決められる訳がないだろう!」

 「だから妙案だと言っただろう」

 「そ、そんな馬鹿な話が…」

 「(やっぱりもとの性格も最悪だわ…)」

 クレシェントは心の中で舌を鳴らした。

 「ただ戦力が足りないとは思う。だからもう何人か人手が欲しい所だが…良し、少しだけ待ってろ。先にレミアの鍵を出して置けよ」

 紫薇は二人を置いて玄関に走り、靴を履いてどこかに飛び出していった。二人は顔を見合わせて首を傾げたが、いわれた通りに庭に出てクレシェントはレミアの鍵を出して紫薇の帰りを待った。


 それから二十分ほど経った後に紫薇が一人の青年を連れて帰ってきた。その青年は紫薇と同じような柄の悪い顔付きをしていた。

 「なんで俺がおめえの手助けをしなきゃならねえんだよ」

 「この間の借りをここで返して貰う。嫌とは言わせないぞ。なんせ猫の手どころかお前みたいな野良犬の手も借りたい状況なんだ」

 「はっ、情けねえ…」

 「二週間前のお前に言ってやりたい台詞だな」

 「あんだと?」

 「…その人が助っ人なの?」

 クレシェントは赤縞の顔を見ると余所余所しく会釈し、プランジェはじろじろと赤縞を眺めた。

 「紫薇、なんだかお前に似たにおいを感じるのだが…。それに素行も悪そうだ、紫薇に似て」

 「こいつと一緒にすんじゃねえよ」

 「確かに見た目通り荒い男だが、戦力としては申し分ない。邪魔になりそうなら途中で捨てていけば良いしな」

 「てめえが一番の邪魔にならなきゃ良いがな」

 「言ってろ」

 「(…なんだか子供の喧嘩みたい)」

 クレシェントは呆れた顔をしながらもどこか嬉しそうだった。

 「クレシェント、呆けてないでさっさと鍵を開けろ」

 その視線が気に入らなかったのか紫薇は不機嫌そうにいった。はいはいとクレシェントはいいながら手から赤い鍵を出してレミアの鍵を開けた。

 「…行くぞ」

 我先にと紫薇は扉の中に入っていった。少しずつだが紫薇の焦燥感は戻ってきてしまっていた。その異変を感じたのか赤縞は不思議そうな顔をして紫薇の後に続き、クレシェントとプランジェもその後を追った。



 一行は未だに慣れないその海岸に掲げられた橋をゆっくりと歩いていった。水の中が見えないことに恐怖を覚えながら足を進める。流石の紫薇でもこの環境にだけは付いていけなかった。自然と足並みが遅れ、きょろきょろと辺りを見渡してしまう。だが一行の両側には白い波が立っているだけだった。

 「クレシェント、どこに繋げようとするつもりだ?王宮まで直通なら楽だが」

 「鍵の行先は自分が実際に行った、認識している場所でないと繋げないから、流石に王宮の中には作れないわね。辺りを囲っている壁なら見たことがあるから、その付近には繋げると思うわ」

 「どこから行こうが結局は敵と鉢合わせんだ、片っ端から潰していきゃ良い」

 「面倒だが、そうするしかないだろうな」

 「布陣だがクレシェント様を先頭に私と赤縞が左右を担当する。紫薇、お前には殿を勤めて貰うぞ」

 「わかった。出来れば先頭にいる化け物に兵隊をぜんぶ任せたいところだがな。頼りにしてるぞ、壊乱の魔姫」

 「うん、まあ…」

 クレシェントは半分、空返事だった。

 「貴様、もう少し言葉に布を被せろ…!」

 「良いのよ、プランジェ」

 「ですが…」

 「そんなことよりもナーガへの扉を開くわよ。皆、用意は良いわね?」

 そういうと各々は懐や背中にしょった武器を取り出し始めた。そのことを確認すると、クレシェントは手の平で握っていた鍵を宙に差し込み、右側に捻った。すると宙に赤い扉が現れ、扉が開かれると目の前には巨大な王宮が聳え立った。

 一行が降り立ったのはその城を囲むまた大きな壁だった。壁の高さは高層ビルの屋上に立ったほどで、下に見える家の灯りが蛍のようにぽつぽつと見えてしまう。そんな高い壁よりも更に目の前の王宮は巨大だった。

 「こんなにも王宮に近付いたのは初めてです」

 「私もこんなに大きいとは思わなかったわ…。でもこんなに大きくする必要ってあるかしら?まるで何かを閉じ込めるための檻みたい」

 王宮が四角い形をしているのをクレシェントは不思議に思った。

 「だべってる場合じゃねえぞ。さっさとやることやって、ずらかろうぜ」

 一行の中で城をじっと見詰めていたのは紫薇だった。柄を握り締める音が誰の耳にも入ってしまう。

 「…紫薇、わかっているとは思うけど、軽率な行動はしないでね」

 紫薇は頷いてみせたが、その言葉の意味を殆ど理解していなかった。クレシェントは不意に以前 見た顔に×印のある写真を思い出していた。きっと紫薇は昔の自分と、今のメルトを重ねてしまったに違いない。だからこそ滾るような怒りを隠さずにはいられないのだろうと、クレシェントは思った。

 「…行きましょう」

 クレシェントの一声と共に一行は城壁から跳び上がり、王宮の門を目指して落ちていった。

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