24話 はだかの王子様
目玉焼きにほんのり焦げたハム。ほうれん草のお浸しに昨日の残り物だった鯵の煮付け。梅干に二切れの沢庵。お味噌汁は豆腐と若布だけ。赤味噌と白味噌を半々に。お米は茶碗に並々と。納豆は卵と一緒。人によっては葱も一緒に。絵導家の朝食は和食中心のものだった。
「メルト、醤油とって」
「うん」
「む、味噌汁の出汁を鯖節に変えたな?」
「あ、わかります?」
「本当だ、いつもとちょっと違いますね」
「僕は…わかんないや、美味しいけど」
紫薇はものを食べるときには殆ど会話に入らず、黙々と箸を動かしていた。隣では権兵衛がドッグフードをかりぽりぱりぽりと噛み砕いている。食べ終わると満足そうに舌を出して傍にあった受け皿の中に入っている水を飲み干した。
「ご馳走様でした」
そうして一番最初に紫薇がご飯を食べ終わると皿を重ね、箸を茶碗の真ん中に並べると席を立った。それに続いて羽月は口付けていた箸を手もとに置くと紫薇の後を付いていった。
「何も食事を止めなくても」
「これもお仕事ですから」
紫薇が靴を履こうとすると、羽月は紫薇の鞄を持ち、履き終わるのを見計らって鞄を返した。
「ご苦労様です。いってきます」
「ふふ、いってらっしゃい」
紫薇は羽月に見送られながら、玄関を開けるとそこには意外な人物が待っていた。
「やあ、絵導」
「お前、蘇芳…」
玄関の先で待っていたのは蘇芳だった。出かける時間を見計らって向かいの家の壁に寄り添い、紫薇が家から出て来ると体を乗り出して手を挙げた。
「あら、お友達ですか?」
「…まさか」
羽月が蘇芳に向かって頭を下げると、蘇芳も同じように深々と頭を下げた。
「礼儀正しくて素敵な人じゃないですか」
「さあ、どうだか…」
紫薇はどこから家の場所を知ったのだろうと玄関から離れた。
「お早う、今日も気持ちの良い朝だな」
「お前、どこからうちのことを知ったんだ?」
「ん、ちょっとな。…綺麗な人だな、お姉さんか?」
「…誰だって良いだろう。行くぞ」
紫薇は何故だか妙に恥ずかしくなって、顔をほのかに赤らめながら歩き出すと蘇芳は顔を綻ばせながら付いていった。
「そういえば絵導、お前は確か風紀委員に入ってるんだったな」
坂を上りながら蘇芳はいった。
「…なかば無理やりに連れ込まれた感じだったがな」
「このまま生徒会にでも入ったらどうだ?あの人、氷見村先輩だったか?先輩も掃除や修理みたいな裏方だけじゃ物足りないだろう」
「いや、あの男はあれで満足してる。いつか尻尾を振って靴磨きまでしそうだ」
そういうと蘇芳は声を上げて笑った。
「なかなか面白いが…絵導、お前は酷い奴だな。物言いに遠慮がない」
「大口開けて笑ってる奴に言われてもな」
そういうと蘇芳は確かにと言って口を閉じた。
「さて、そろそろ学校だが体の方は大丈夫か?前回のようにまた気分が悪くなっては勉学に差し支えるぞ」
「耳をかっぽじったところで学ぶことなどたかが知れてる」
「そうか?思わぬところで足を引っ張られなければ良いがなあ」
「試験の成績は落としたことがないんでね」
「まあ、忠告として聞いてくれよ。明日は期末テストだ」
紫薇はそんなことをお構いなしにと肩を竦め、正門を潜った。
その日の授業はやはり真面目に聞いても既に紫薇が熟知していることばかりだった。教師の話を音楽にでも例えながら紫薇はこっそりと本を読んで一日を過ごした。お昼休みの時には赤縞が屋上に行ったので、紫薇は蘇芳と二人だけで落ち着いた昼食を取れた。午後の授業もろくすっぽ聞かずに読書に熱中し、その日は本を読みに学校に来たようなものだった。
下校時間になると、またもや蘇芳が声をかけてくるのかと思いきや、委員長の仕事があるとかで紫薇は一人で家路を歩いていった。自分の歩調でゆったりと足を動かせるのが嬉しかったが、一人になったことで心の隅ではほんのりと哀愁を感じていた。
駅の傍を通って住宅街を歩いていると、ふと見慣れぬ人物が目を過ぎった。短めに切り揃えられた赤毛が目立つ二十代位の女だった。手には十センチほどの紙を持って何かを探し回っているようだった。通行人に近づいて話かけるも、言葉が通じないのか頭を傾けられてばかりだった。
紫薇は厄介事にならないようにと足早にその場を去ろうとしたが、その女の足並みが異様に俊敏なためにあっという間に捕まってしまった。その女性は紫薇の目の前に立って言葉が通じないと思ったのか、困った顔をして手に持っていた紙を指差した。
それは紙に描かれた肖像画だった。モノクロで描かれた幼い顔付きに紫薇は見覚えがあった。絵の中の人物は見るも豪華な衣装に身を包んでいたが、どこか悲しげな顔をして遠くを見詰めていた。紛れもないその人物は新しい居候のメルトだったのだ。
「…メルト?」
紫薇がそう呟くとその女性は顔を明るくさせて喜んだ。
「ああ、良かった!言葉がわかるのですね?」
「あ、いや…」
紫薇はしまったと心の中で舌打ちした。また面倒なことがやって来たと紫薇は思い知らされ、やがて観念したようにその女性の顔を見た。
「この方をご存知ありませんか?」
「…うちの居候だ、新顔のな。あんた、保護者か何かか?」
「申し遅れました。私はメルト様の身の周りをお世話させて頂いているエナと申します。失礼ですが今、居候と仰いましたか?つまり貴方様のご自宅にいらっしゃると、そういうことですね?」
「そうだ、保護者がいるなら早いとこ連れて行ってくれ」
「仰る通りです。時間も余りないことですし、急ぎましょう」
紫薇はメルトの家ではよほど騒ぎになっているのかと思いながら家に向かった。そして自宅の輪郭がわかってきたとき、丁度クレシェントとメルトが近所の子供たちとの草野球を終わらせて帰ってきた頃で、家の中に入ろうとしていたところだった。
エナはメルトの姿を目にした瞬間、その場から駆け出しながら叫んだ。
「メルタジア様!」
その声に顔を向けるや否や、メルトの表情は見る見るうちに青ざめていき、言葉にならない悲鳴を上げて家の中に駆け込んだ。
「ちょっと、メルト!?」
クレシェントは驚いた顔をしてメルトを引き止めようとしたが、メルトは聞く耳持たなかった。
「メルタジア様…」
その勢いのまま家の中に入るのかと紫薇は思ったが、途中で足を止めるのを見るとほっとした。エナは落ち込んだ顔をしてその場に立ち尽くしてしまっていた。
「紫薇、一体どうしたの?」
「さあな、俺が聞きたいもんだが。エナって言ったか、あの様子じゃお前の話なんて気にも留めないみたいだが…。積もる話は中で聞く、そこで地蔵みたいに突っ立ってばかりでも困るからな」
「はい…」
眉を曲げるエナを家の中に上がらせると、紫薇とクレシェントも続いた。
「粗茶ですがどうぞ」
そういって羽月はエナに日本茶を出した。
「お気遣い感謝致します」
「それで…?さっき言っていたメルアジアというのはメルトの本名か?」
「はい、幼い頃より親しみを込めて私はそう呼ばせていただいています。その名前は私とメルタジア様だけの間でしか使っておりません。真の名はメルタジア・セルグネッド・レスカルウルクディア。セルグネッド王家の正当後継者にあられます」
「…な、何だと!?」
そのことに一番驚いたのはプランジェだった。空いた口を開けたまま目をぱちくりとさせている。
「知ってるのか?プランジェ」
「知っているもなにも…現政権の中で最も強大な権力を持った王族だ。セルグネッド地方には協会の本部もあり、立法の国と呼ばれている。しかし滅多なことではその姿を見ることが出来ないのだが…。まさか奴がセルグネッドの血筋だとは…」
「ナーガの政治体制は王制なのか?」
「『六大王制』と呼ばれる六人の王族から列なった機関があり、立法と行政を担っているのです。それとは別に司法の機関として協会があり、この二つの機関を合わせて『第七賢帝機関』と呼んでいます」
「その政界筆頭の跡継ぎが、今 部屋の中で咽び泣いてる子供なのか」
「聞いているだけで頭が痛くなりそうだ…」
「あなた方にはご迷惑をおかけしてしまい、なんと申し上げれば良いか…。我が王に代わりまして深く感謝いたします。きっと王もメルタジア様が見つかってお喜びになる筈です」
「でもそれって本当なのかな…」
そんなクレシェントの一言に全員の目線が集まった。
「メルトは何も話してくれなかったけど…私にはメルトが家に帰りたいようには思えない。それってつまり…メルトのお父さんと何か問題があるんじゃないかな…」
その話を聞くと、エナは躊躇いがちに目線を落とした。
「確かに部屋に籠っているところを見る限り、王宮に戻りたいとは思えませんね」
すると何を思ったのか紫薇はソファーから腰を上げた。
「紫薇?どこに行くの?」
「…大体の予想は付いた」
何故か紫薇は機嫌の悪そうな声でそういうと、二階に向かっていった。
「あの…良かったら話して頂けませんか?メルトを王宮に戻すにも、あのままじゃお互い納得出来ないだろうし…」
「保護してやった我々に対する義務でもある」
「…わかりました。確かにあなた方に話さなくてはなりませんね」
そういってエナは一呼吸置いて口を開いた。
「実はメルト様は…メルタジア様は正当な王位継承者ではないのです」
「なんと…!ならば実子ではないと?」
「実の子に違いないのですが、メルタジア様はジオネイズ第一王子の弟君なのです。本来ならば第一王子であるジオネイズ様が王位を継承する筈でした。しかし…ジオネイズ様はご病気により余命数刻とされ、今もなお病魔と戦っているのです」
「だがそれが何故、メルトの泣きっ面と関係がある?」
「あっ…」
クレシェントはエナの言葉の前に何かを悟ったように声を上げた。
「陛下のご寵愛は…ジオネイズ様ただ一人に向けられているからです。メルタジア様は幼い頃から余り勉学や運動に高い評価を頂けませんでした。それに代わってジオネイズ様は幼少の頃から文武ともに優れ、稀代の王として期待されていましたが、妖精はそれをお許しにならなかったようです…」
「(そう…だからなのね、紫薇…)」
クレシェントは紫薇が無性に怒りを覚えたことに胸が痛んだ。
「今でも陛下のお考えはジオネイズ様に王位を譲ることで一杯です。それを理由に、メルタジア様が王宮から逃げ出した際には協会に捜索指示も出しませんでした。しかし今となってはそれも無理な話…それで陛下はメルタジア様の捜索に私を遣わせたのです。このソフィの合い鍵も、どこぞの無法者から取り上げたものだと聞いています」
そういってエナは真っ白い鍵を差し出した。それは紛れもない、クレシェントが持っているレミアの鍵に瓜二つだった。
「まさかこれが…ソフィの合い鍵か…?」
「これをご存知なので?」
「いや…噂で聞いただけだ。まさかそんなものが本当にあろうとは…」
「でもソフィの合い鍵でこの世界に居られる時間はほんの僅かな筈じゃ…」
「はい、ですからそれまでにメルタジア様を王宮に連れ戻さなくてはなりませんが…正直に言って、私は今回の件に納得できません。親の都合で愛情を受けられなかったメルト様のお気持ちは痛いほどわかるからです。ここだけの話ですが、私はメルト様のお顔が見れればそれでナーガに帰ろうと思っています」
「でもそれじゃ貴女が…」
「報告には私の不備を申せば良いだけです。メルト様の痛みに比べれば、私が受ける罰など些細なもの…。お願いです、私に代わってメルト様のご面倒を見て頂けないでしょうか?」
「それは構わないが…良いのか?」
心配そうにエナの顔を伺ったプランジェだったが、エナの顔には一切の迷いが見受けられなかった。それどころかどこか吹っ切れて目の中に光さえ現れている。
「わかりました。私が責任を持ってメルトの面倒を見ます」
クレシェントはしっかりとエナの目を見詰めていうと、エナは安心して頬を緩ませるとありがとうございますといって笑った。
「何度も言うがな、その台詞はお前の為にある訳じゃないぞ」
いつの間にか紫薇が一階に下りてきていた。傍には目を真っ赤にさせたメルトもいて、鼻水をすすりながらエナを見ていた。
「メルト様…」
「…本当?本当に僕を王宮に連れていかないの?」
「当然です。誰がメルト様の不幸など願いましょうか?仮に陛下がそう思っていたとしても、このエナはいつもメルト様を思っておりますよ」
「ごめん…ごめんね、エナ…。僕のせいで…」
「メルト様は良きご友人に恵まれましたね。きっとメルト様をご立派に育ててくれるでしょう。エナは嬉しく思います」
「おい、誰もそこまでは…」
「黙って」
口を尖らせる紫薇をクレシェントは手で塞いだ。
「僕、いつもエナを困らせてばかりだね…」
「いいえ、あなたに頂いたご恩があればこそです。それに私は一度だって困ったことはありませんよ。メルト様のお世話は私にとって素敵な思い出ですから」
にっこり笑ってみせると、メルトは嬉しそうにはにかんだ。その顔を満足そうに眺めるとエナは立ち上がり、
「クレシェント様…」
クレシェントに近付いて手を取ると自分の唇の手前にクレシェントの中指を寄せて頭を少しだけ下げた。
「何の儀式だ?あれは」
「目上の者や敬愛する者に対する姿勢だ」
紫薇は首を何度か傾けると、珍しそうに二人を眺めた。
「メルト様をお願い申し上げます」
「約束します。だから貴女も気を付けて…」
「はい」
エナはクレシェントの手を離すと、次いでプランジェに近付いて手を腰に回すとぽんぽんと叩いた。するとプランジェも同じように腰に手を回して叩き返した。
「これは?」
軽い力で叩かれながら紫薇は不思議そうにプランジェに顔を向けた。
「目上の者に対する信頼の印だ。お前も同じように叩いてやれ」
そういわれて紫薇はぎこちない動きでエナの腰を叩いた。
「信頼しておりますよ、紫薇様」
「もう好きにしてくれ…」
紫薇は反論するのも億劫になった。
エナは真っ直ぐに玄関に向かうと靴を履いて後を追った一行に顔を向けた。
「それでは皆さま、私はこれで…」
「エナ、ありがとう…」
「きっとこれが今生のお別れとなるでしょう。ですがエナは、いつでもメルト様のことを思っています。お幸せになって下さい」
そういってエナとメルトは抱き合い、別れを惜しみながら離れた。玄関の扉が閉まる最後の瞬間まで、二人はじっと視線を合わせたままだった。そしてドアが閉まって二人の視線が途切れると、メルトは目から大粒の涙をこぼし、クレシェントはそっとメルトを抱き寄せてやった。
紫薇はそんなメルトを横目で見ながらかつての自分をメルトに重ねていた。
もくもくと湯気が風呂場の天井に立ち籠める。紫薇は蛇口を捻ってプラスチック製の桶に湯を張ると、泡だらけの頭に被せた。紫薇はシャンプーの際、頭を洗い流すときにシャワーではなく、桶でないとすっきりしないという妙な癖があった。流れる湯が泡を根こそぎ落としていく。
ふと紫薇は水でぺったりと張り付いた髪を手で掻きながら鏡に映った自分の顔を見た。目付きの悪い年頃の少年が映っている。そのときにメルトの顔を思い出し、自分にもエナのような人がいたら、今とは違った顔をすることが出来たのだろうかと試しに笑ってみたが、どうも頬が上手く緩まず両手で頬を上に上げてみた。実に不気味な顔が出来上がった。
「お風呂お風呂!」
急に風呂場のドアが開かれると、素っ裸のメルトが入ってきて浴槽に飛び込んだ。紫薇は慌てて顔をもとに戻した。
「ふうーっ、あったかいや…。やっぱりどこの世界でもお風呂は大切だよね…って紫薇?どうかした?」
「…何でもない」
紫薇は少し恥ずかしそうにしながら浴槽に入った。二人の体重分のお湯が浴槽から流れ出る。筋肉が増強された紫薇の体重は以前の倍近くになっていた。
「紫薇、ありがとね」
風呂に浸かっているとメルトは顔を惚けさせながらいった。
「何がだ?」
「紫薇がああ言ってくれなきゃ、きっと僕は部屋から出れなかったよ」
そういいながらメルトは今日のことを思い返していた。
メルトはクレシェントと一緒に近所の子供たちと草野球をするのが日課になっていた。始めはクレシェントが近所を散歩していたときに子供たちが野球をやっているのを見かけ、毎日それを見ている内に子供たちの方から誘ってきたのだという。今ではメルトを引き連れて、立派にチームの一員としてボールを飛ばしている。
今日もクレシェントと一緒に隣町との試合をやったばかりだった。結果は善勝、最後はクレシェントのホームランで皆が万歳をした。喜びを分かち合い、また来週の試合も頑張ろうと約束した矢先、家に帰ってみるとそこには来てはならない人物が待っていた。
その人物をメルトは見た瞬間、喜びよりもあの群青色の光が脳裏に閃いた気がした。セルグネッド王家の人間は響詩者として代々精通した概念を持っている。それが群青色の光だった。メルトはその光に恐怖しか覚えていなかった。思考は急激に錯乱し、気付けばメルトは奇声を上げながら家に駆け込み、二階に上がって部屋の鍵を閉めて布団の中に潜り込んでいた。王宮にいた頃、唯一親しかった人物に喜んだ顔を見せず、ただただ布団の中で震え上がっていた。エナの気配が家の中に入ってくる。きっと事情を説明しているのだろうと思うと益々メルトは怯えた。
王宮にいた頃、父親も母親も、兄ですら自分を構ってくれなかった。それどころか冷たい目で、鬱陶しがられる毎日だった。エナの励ましもあって必死に生き抜いてきたが、ある時にメルトは恐ろしい話を聞いてしまった。それは兄が病気になる前、ジオネイズが王位を継承し終わった際には自分を追放するか、事故に見せかけて殺してしまおうという話を王宮の兵士が話していた。
行き過ぎた愛情はときに狂気を産む。その矛先が終に自分に来たのだとメルトは知ると、急に恐ろしくなって無我夢中で王宮を飛び出した。自分を励ましてくれたエナのことなど頭の隅にも置けず、城下町を走り抜けた。皮肉にも自分の存在を守ってくれたのは王族にも関わらず、それほど高い生地を使っていない服のお陰で、誰も自分が王子だと知られなかった。
それから流れ流れて、今はやっと落ち着いた生活を送ることが出来た。しかしその平穏も今正に崩れようとしている。メルトは泣きながらこの家から逃げ出そうと考えていた。するとドアをノックする音が響いた。
「ひっ…!」
メルトは身を竦めて慄いた。風の噂で兄が病気になったことを知っていて、きっと自分を連れ戻して王位を継がせる気なのだろうと、メルトはわかっていた。しかしそれは同時にまたあの辛い日々に戻ることと同じだった。まるで呪いのようにメルトの体を恐怖が支配し、全体が痺れていった。きっとドアの向こうには自分を連れ戻さなければならない、王宮守護兵団総隊長補佐としてのエナがいるのだろうと思うとメルトはさらに腰を抜かした。
何度かノックした後にドアノブを動かす音が聞こえた。しかし鍵がかかっているのを見計らうと、どうやってかその鍵をいとも簡単に開けて中に進入してきたのだ。メルトは舌を噛んでやろうかと思い詰めたが、そんな気力がある筈もなしにただただ震えるばかりだった。
布団が持ち上げられる。メルトの顔は涙と恐怖で歪んでしまっていた。しかし布団の先にいたのは思わぬ人物だった。
「しかしまあ酷い面だな。これで王族なんだから世も末だ」
まず悪態を吐いてきたのはそう、この家の主である紫薇だった。紫薇は布団を持ち上げたかと思いきや、メルトの顔を見ると持ち上げた布団を元に戻し、傍にあった椅子に腰掛けた。
メルトは何がどうなっているのだろうと布団から顔を出して辺りを伺った。そこには誰もいない。目付きの悪い紫薇だけが椅子に座ってじっとこっちを見詰めている。
「…お前も貧乏くじを引かされたんだな」
紫薇はメルトの顔をじっと見ながらいった。その目にどこか悲愴を感じると、メルトは身を乗り出して紫薇に顔を向けた。
「碌でもない父親か母親か、それとも兄弟か…。兎に角、お互いまともな肉親を持たなかったのは事実だな」
「紫薇も…同じなの?」
「顔も見たこともない母親に、育児放棄をした父親。虐待を続けた祖母に、それを見過ごしていた祖父。どうしようもない家系だ。奴らと血が繋がってると思うと反吐が出る。お前もそんなところだろう」
「知らなかった…紫薇もそうだったんだ…」
ずっと紫薇を冷たく、恐ろしいと思っていたが、急に親近感が生まれてメルトはいつの間にか紫薇に近付いていた。
「怨め、好きなだけ」
「え?」
「愛したところで愛は返って来ない。なら憎んで憎んで、その感情を生きる糧にすれば良い。モラルなんて気にするな。そんなものは舐ぶり子の代わりにもならない。俺はそうやって生きてきた。だからお前もそうしろ。詰まらん正義感や糞の役にも立たない道徳観なんて捨ててしまえ。あったところでお前を傷付けるだけだ」
「そんなこと…誰も言わなかった…」
「当たり前だ。まともな親に育てられなかったんだ、まともなことでやっていける訳がないだろう。俺は物語の主人公のように人間の鑑になんてなれないからな」
「それは紫薇がまともじゃないってこと?」
「そうだ。ところがどっこい、物語の主人公はまともな奴が少ないんだが。ああ、今のは笑う所だったがわかったか?」
意味がさっぱりわからずメルトは首を傾げた。
「俺なりの冗談だったんだが…まあ良い。お前のことだ、お前が決めて、好きに生きろ」
「…僕がここにいたいっていったら、紫薇は許してくれるの?」
「そうだな…穀潰しのままじゃこれから先 使いものにならない。しっかりと家の手伝いをしたら考えてやらないこともない。結局はお前次第だ」
「全て…僕次第…」
「そうだ」
「でも…僕は…」
メルトは幼いながらも物事の本質を見抜く力を持っていた。やがてそれはメルトにとってある種のイデオロギーに繋がり、メルト自身を形作るそのものになっていた。そしてメルトは自分の真意を自分で悟ると、そっと紫薇に自分の気持ちを伝えた。
湯気が天井に纏わりついて雫となり、メルトの鼻先で弾けた。二人の頬は火照って皮膚に艶がかかってきていた。
「ねえ紫薇、背中、洗ってあげようか?」
「生憎だがもう洗った後だよ。また次の機会にしてくれ」
「良いから良いから、背中って洗いづらいの知ってるでしょ?洗わせてよ」
腕を引っ張るメルトに紫薇は嫌そうな顔をしながらも結局はメルトに従い、紫薇は産まれて初めて他人に背中をまじまじと見せ付けた。
メルトは紫薇の背中に付いた生々しい傷跡に圧倒されながらも、その背中にどこか共通したものを感じていた。手ぬぐいに石鹸を付け、泡立たせて紫薇の背中を擦る。意外にも紫薇の背中は綺麗に洗われていた。
「…最初はさ、紫薇ってもっと怖い人かと思ってたんだ」
「人相は悪いと自覚しているよ」半ば諦めたようにいった。
「ううん、そういうんじゃなくて…何ていうのかな、本当は怖い人じゃないのに、誰かがいるから自然とそうなっちゃうっていうか…きっと紫薇は優しいから、そうすることで皆を守ってるんだよ」
その言葉に紫薇は一瞬、体を強張らせた。
「似てるよね、ランドリアに」
「…何だって?」
紫薇はこれ以上はないというほど怪訝な顔をした。
「ランドリアもね、厳しいことを言ってくるけど、それは愛情の裏返しなんだって。デラが言ってた。だから二人は同じなんだよ。うん、そっくり」
「止めろ。俺があんな奴と一緒だなんて胸糞悪くなる」
そういうとメルトはわかり切ったように笑い出した。
「あはは、やっぱり似てるよ。だっておんなじこと言ってるんだもん」
「な…」
「ランドリアもね、余り良い境遇じゃなかったって言ってた。きっとそれも関係しているんじゃないかなあ…。はい、お終い。流すよ?」
紫薇は背中を流されながら、いっそこの人格も洗い流してくれないものかと仕切りに唸った。
「…はくしっ!」
「風邪か?ランドリア」
「かもしれません。主、暫時 私に近付かないで下さい」
そういいながらランドリアはちり紙で鼻をすすった。
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