第三章
23話 赤いドラマ
窓から差し込む太陽の光が陽だまりになって背中をぽかぽかと温める。この季節の日光はたまらないものだった。そんな温かな光を感じながらページの端っこを摘んで捲る。本のタイトルは「大人の女性に向けたアプローチ大全集」駅前の古びた書店で購入したもので、年老いた店主が気を利かせて表紙を古紙で包んでくれた。その紙の匂いが何とも読書心をくすぐらせる。授業などお構いなしに紫薇は本を読み耽る。しっかりと内容を把握しようとしていたのだが、どうにも後ろからの視線が気になって読書どころではなかった。
「よりによって俺の後ろがお前だったとはな…」
「なんか文句があんのか?コラ」
後ろを見なくても紫薇は柄の悪い男が座っているのが手に取るようにわかった。
「大有りだ。お前の獣みたいな気配のせいで気が散ってしょうがない」
「授業をサボってする事かよ、それが」
「不良が口にすることか」
「どうせ下らねえ本だろ。大体読書なんて陰気臭えんだよ」
「…何だと?」
「あ?やんのか?」
いつの間にか声を荒げて口論をしていると、周りの生徒たちは何だ何だと二人の顔を見始めた。
「不良が」
「根暗」
「たれ目」
「つり目」
目のことをお互い気にしていたのか苛立ちはピークを通り過ぎ、顔を向けて睨み合い始めた。流石にその状況に迷惑がって生徒たちは次々に嫌な顔をし始め、教卓の前に立っていた教師もその事態に気付いた。だが校内で一番の不良と称され、他校との喧嘩に明け暮れる番長の赤縞に、ある日を堺に急激な肉体変化を遂げ、以前から目付きの悪さで評判だった紫薇の二人においそれと口が出せる筈もなかった。
「ここでケリ付けても良いんだぞ」
「はっ、あの小っこいのがいねえのに俺に敵う訳ねえだろ」
「試してみるか?」
「ああ、来いよオラ」
一食触発の中、恐怖する生徒の中から一人の男子生徒が席から立ち上がった。
「二人とも、今は授業中だ。静かにしてくれよ」
眼鏡をかけた少し細めの目が特徴的な生徒だった。奥二重でやや利己的なものいいだが、周りの生徒はその生徒を何か特別な信頼を寄せているようだった。
「…ちっ」
「…けっ」
二人はその生徒に見られると何故か戦意が削がれ、大人しく席に座った。
「クラスのパシリが顔を効かせやがって…」
赤縞が小さい声で呟いたのを紫薇は聞き逃さなかった。
お昼になると各々の生徒が好きな席に座って持ってきた弁当箱を広げたり、学食に走りにいった。紫薇は羽月に作って貰った新しい弁当箱を広げた。今までの小さな弁当箱と違って重箱に変わっている。その重箱を見ると紫薇はまるで異様に食の太い居候の女を思い出し、自分に嫌悪感を持った。
「ここ良いか?」
そんなことをしていると、紫薇の隣に先ほどの生徒が席を寄せた。急な出来事に紫薇は驚いたあとに怪訝な顔をした。
「そんな顔するなよ、絵導と少し話してみたかったんだ。最近、学校には顔を出してるみたいだからな」
紫薇はなぜ一生徒が他の生徒の出席などを気にするのだろうと思った。
「さっきは嘴を挟んで悪かったな。二人の言い分はあるだろうが、どうしても授業の邪魔をしたくなかったんだ」
「はっ、委員長は気位が高いこったな」
「赤縞、俺の立場を知ってるだろ?学生とはいえこの組を任されてるんだ、皆が勉学に勤しめるよう管理する義務がある。青春という名の喧嘩は他所でやってくれ」
「クソまじめ過ぎんだろ…」
紫薇はその話を聞きながらも一人にしてくれと思いながら箸を弁当に伸ばした。
「それにしても美味そうな弁当だな、それに量も多い。部活に入っていないと聞いたが、近頃は体を鍛えているみたいだな」
「…悪いか?」
「いや、結構なことだ。食は何より大事、もりもり食べなければ勉学に差し支える。という訳で俺も飯を食おう」
そういってその生徒は紫薇の隣でパンの包み紙を開けた。
「他所で食え」
「そう言うなよ、絵導。実はお前に用があるし、さっきも言った通り話がしたかったんだ」
「良かったな、一人ぼっちから抜け出せてよ」
「嬉しくない。というよりもお前、誰だ?」
紫薇は見慣れない生徒が馴れ馴れしく近付いてくるだけで不快なのに、更にその人間と弁当を囲まなければならないのかと悪態を吐いた。
「な…」
「お前、馬鹿だろ…」
しかし待っていたのは意外な反応だった。
「絵導、いくら俺でもそれは傷付いた…」
「止めとけ蘇芳、こいつに常識を尋ねるだけ無駄だ」
「?」紫薇は訳がわからないといった顔をした。
「ま、まあ…あまり出席していなかったら無理もないよな。蘇芳だ、この組の委員長を任されている。初めまして、絵導」
「ついでに僕の紹介もして置こうかな」
いつの間にか赤縞の隣には今度こそ見慣れない生徒が座っていた。おっとりとした顔つきに色白い肌、体格は体を鍛えていなかったときの紫薇のように細身だった。
「僕は藤原ね、隣のクラスだけどよろしく。勇璃がお世話になったみたいだね」
赤縞の友達だというその生徒は赤縞と正反対の性格で、物腰低く、柔らかい印象があった。
「違え、俺が世話してやったんだよ」
「うん、そういうことにしておくよ。大変でしょ?この性格だと」
「あ、ああ…」
紫薇は見知らぬ二人目の緊張に苛まれながらも辛うじて相槌を打った。
「はい、お弁当」
更にやって来たのは面識はあるものの、名前も知らない女子生徒だった。赤縞に風呂敷で包んだ弁当箱を渡すと、赤縞の隣に座って膝の上に自分の弁当箱を広げた。その女子生徒は大人しそうな顔つきだったが、髪の一部に赤いメッシュを入れた奇抜な髪型をしていた。
「ああ悪い」
赤縞は待っていたかのように弁当を受け取ると、そそくさと開けて弁当を掻き込み始めた。
「あたしの名前 知ってた?榊原っての」
「いや…」
いつしか紫薇の周りは見慣れない生徒に囲まれてしまっていた。誰もが今までとは違って友好的に接してくれている。しかし紫薇は急な展開に頭と心が追い付いていかなかった。それぞれの会話が頭の中で反響し、その度に自分の心を触れては離れる。そんな事態に紫薇は身構えることはおろか、目の前の現実を受け止めることが出来なかった。本当は嬉しい筈なのに、それが簡単に受け入れられない。急激にその歪みは体に影響を及ぼし始め、吐き気が紫薇を襲った。
「おい、絵導…?」
赤縞の呼びかけにも答えられず、紫薇は口もとを抑えながら咄嗟に教室から抜け出してトイレへと駆け込んだ。便座が空いていたのが幸いだった。もし空いていなくても平気で吐いてしまっただろう。紫薇は腹の中に入っていたものを勢いに任せてぶちまけ、荒い呼吸と共に吐き下したものを流した。
蛇口から流れる水の音が延々と耳の中に木霊する。紫薇は深い溜め息を吐きながら、苦味の残る口の中を洗い流すと暫くそこから動けなかった。じっとりと汗ばんだ額を水で洗い流しても背中はべっとりと濡れていた。
「まだお前には早かったな」
蛇口の上にある鏡の中に蘇芳の姿が映っていた。
「まさかあれから二人もあの場にやって来るとは思わなかっただろう」
紫薇は目線だけをガラスに向けると、頭を落ち着かせようと額に力を入れた。するとまるで頭の中を読み取ったように蘇芳はいった。
「止めとけ、今の状態で頭を研ぎ澄ましても心が追い付かない。むしろ返って逆効果だ。受け入れることよりも、まずは自分に興味を持ってくれる存在がいる。その認識だけを頭に刷り込むんだ」
蘇芳はハンカチを取り出して紫薇に差し出したが、紫薇は受け取らなかった。
「強情な奴だ。だがそれもお前ならではだな」
そういって蘇芳は紫薇の傍に近付いて濡れた背中に手を置いた。
「心を花園に模してみたとして、一度その花が枯れてしまえば、違う種を育てるしかない。その為に枯れた花は根っこごと摘み取らなければな」
蘇芳は意味深な台詞を口ずさんだあと、紫薇を置いて去っていった。紫薇はその言葉に違和感を覚えるも、そこから動けずに流れ続けている蛇口の水を見つめている。ふといつの間にか気分の悪さがなくなっていた。それは蘇芳が紫薇の背中に触れた辺りから不思議と和らいでいた。
それから紫薇は何とか体を落ち着かせると、教室に戻った。自分の席に戻ると、蘇芳は委員長の仕事があると言って席を外していた。紫薇は気分が優れないのを紛らわせるように弁当を掻き込み、舌の上に残っている酸味を飲み込んだ。
「…おめえ大丈夫かよ?」
「ああ、たぶんな」
弁当を食べ終わったあとに藤原と榊原のことを聞いた。
藤原はとある理由から赤縞と交友を持ったと紫薇に話した。その理由については説明しなかったが、代わりに趣味のギターを赤縞と一緒に楽しんでいることを教えてくれた。いつか舞台に立つことを目指して週末は二人で練習しているらしい。
榊原の名前は覚えていたが、赤縞との関係は紫薇が思っていたものと違って恋人同士だった。赤縞はそのことをやんわりと否定していたが、弁当を貰っている辺りでその関係は密接なものだろうと紫薇は思った。学校の番長の女ということで、あらぬ悪評が広まり、榊原自身も余り交友関係が少ないと聞いた。趣味はドラムを興じ、赤縞と藤原で音を合わたりしているそうだ。
紫薇は半ば聞き流しながら適当に相槌を打って気分の悪さを誤魔化した。昼食が終わるまでは本当に苦痛で、次の授業はまるで頭に入らなかった。そしてやっとのこと一日の授業が終わると、そそくさと紫薇は鞄を持って一人で教室から出ていった。体が妙に火照り始め、ネクタイを緩めながら廊下を抜けた。
途中、何度か倒れそうになったが、必死に顔を上げてアスファルトを蹴った。家に着くと乱雑に玄関のドアを開け、いつもは戸棚を開けて気分のスリッパを選ぶものだが、今日ばかりはそんな余裕もなしに素足のままリビングに向かった。
「お帰りなさい」
リビングで羽月が出迎える。すると羽月はすぐに紫薇の異変に気付いた。
「…具合が悪いんですか?」
「少し熱っぽいだけで…横になれば治ります」
羽月は心配そうにしたが、紫薇は碌な反応も出来ずに鞄を羽月に渡すと、ソファーに向かってそのまま倒れるように寝そべった。しかし目を瞑ってみるも、体の火照りで意識が落ちず、体の不調だけが延々と続くようだった。
不意にひんやりと冷たい感触が額に伝わった。紫薇は驚いて目を開けると、羽月が腰を屈めて手を額に添えていた。
「すごい熱…!ちょっと待ってて下さい。今、なにか冷やすものを持って来ます」
そういって羽月は慌てて台所に向かった。
「何だ、紫薇の奴が帰って来たのか…。綾、どうかしたのか?」
台所にはプランジェがいたようで、慌てる姿を羽月を見ると不思議そうな顔をした。
「紫薇くんがすごい熱なんです。プランジェちゃんは薄めのタオルと、それより少し厚めのタオルを持って来てくれますか?」
「うむ、わかった」
プランジェは早足で風呂場に向かっていった。
「何だか大事になって来たな…」
権兵衛が心配そうに紫薇の顔の傍にやって来て頬を舐めた。
「大事です…!そんな熱で動かないで下さい…!」
紫薇に怒った顔を見せると、羽月は氷を適度な大きさに砕いて袋に詰め、プランジェが戻って来るとタオルを二重に巻いた。そしてそれを持って紫薇の傍にやって来ると、眉間にしわを寄せたまま紫薇の額にそれを乗せた。
「う…」
始め氷の冷たさがずきりとしたが、表面が溶けてくると少しずつ体の火照りが和らいでいった。次いでプランジェがシーツを持って来て紫薇にかけてやると、まるで王様だなと野次った。
「ただいま~」
玄関から声が響くと、クレシェントとメルトが帰って来た。顔や服に泥が着いて汚れている。
「お帰りなさいませ、クレシェント様。勝負の方はいかがでしたでしょうか?」
「メルトのお陰で九回裏で逆転勝ち。皆、喜んでたわ」
「それは良うございました」
「たまたまだよ。でも初めてやったけど面白いね、野球って」
「やってみて正解だったでしょう?…あれ、紫薇どうかしたの?」
「何やら熱を出して寝込んでいるようで…まあ、放って置けば宜しいかと」
「そう…あ、そうだ。メルト、お風呂に入って体を綺麗にしないと。そのままじゃご飯は食べられないわよ。一緒に入る?」
「ぼ、僕一人で入れるよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶメルトをクレシェントは笑って見ていたが、
「二人とも、しーっ…」
羽月は指を口もとに近付けてそういうと二人は慌てて口を噤んだ。その隣には目を瞑って安らかに眠る紫薇の顔があった。
「寝たのか?」
「ええ、きっと学校で何かあって疲れていたのかもしれません。今日はこのまま寝かせてあげないと…」
「紫薇も寝てるときは大人しいんだね。いつもはおっかないのに」
「…寝顔は可愛いんだけどね」
そういうと全員が静かに笑い合った。
好き好きに紫薇を皮肉っていたがそれは紫薇に対して信頼を寄せていることの表れでもあった。そんなことを微塵も知らないであろう紫薇は気持ちが良さそうに眠っていた。それもまた全員の笑いを密かに持ち上げていたのだった。
かつかつかつと足音が響き渡る。その音は真っ青な石の床を踏み躙りながら、その先に腰を下ろす威厳の象徴に近付いていった。その場所は白を基調とした造りをしていて、見るも華やかで絢爛としていた。そこに赤い目と唇が浮かんで薄っすらと光る。
「お初にお目にかかります、王よ」
その光の持ち主は跪いた。
青い道の先には小さな段が重なり、天辺には黄金の椅子が置かれている。その椅子には一人の男が座っていた。床と同じ色の外衣を羽織り、王冠の代わりに一本の剣を腰に差していた。白金のような銀色の剣が光を帯びて閃く。
「何者か」
「私の出現に驚かれないところを見れば、恐れながら感嘆いたします。私はただの通りすがりの者。故あって王の御前に参上させて頂きました」
「面白い、ただの通りすがりが我が城に忍んだか。手打ちにする前に用件を聞こう、賊よ」
「では…聞けば王はとても困っていらっしゃるとか…。非力ながらお力になりたい所存です」
「王は困らぬ日などない。今もこうして賊が目の前に居るのだからな」
「私はただ…次の手を差し出せればと思っているだけでございます」
その言葉を口にすると王は目を強張らせた。
「ですからお力になりたいと…。私には良く動く足はございませんが、長い腕を持っています。メルタジア様はこの世界にはいらっしゃいません。こことは異なる場所にいらっしゃるのです」
「異なことを口にする…。そなた、この私に何を求める?」
「褒美を頂きたいのです。飛び切りの褒美を…そう、この地下に眠る月を」
「…あんなものをどうするつもりだ?禁じられた力を手にしても、世界を滅ぼすほどの力がなければとても扱い切れんぞ。その身を月の火に焦がさせるつもりか」
「陛下のお心、至極痛み入ります。ですがその上でのお願いです。王、どうかご英断を。誉れ高い群青の血統を途絶えさせてはなりません。さあ…この手をお取り下さい。私めに陛下のお心を…」
そういってキジュベドは先っぽがない白い鍵を差し出した。すると王はまるで何かに囚われてしまったかのように少しずつ手を伸ばしていった。その時、彼女の目と唇は血よりも濃い色をして輝いた。
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