22話 向かい酒

 笛の音が紫薇の耳元に囁いていた。穏やかで詫び寂びを感じさせる日本特有の音程が心地良い。いつしか紫薇は寝入ってしまっていたようで、笛の調子が一休みすると目を開けて辺りを確かめた。

 天井が窪んで屋根の形がわかる作り。目を左右にやると蝋燭の光に照らされる倉之介の姿があった。手もとには横笛があって、口に近付けると再び心が休まるような音色が鳴り響いた。紫薇の傍には他の人間も寝ていて、包帯を巻かれた理之介や倉之介の隣には鹿之介も横たわっていた。医務室のような所なのだろう。ベッドの代わりに布団が敷かれていた。

 不意に紫薇の頬を何かが舐めた。権兵衛だった。すっかり元気になったようで、紫薇の顔を見ながら尻尾を振っている。紫薇は少しだけ口を緩ませると体を起した。

 「すみません、起こしちゃいましたか?」

 紫薇が起き上がると笛の音を止めた。

 「うるさいかもしれなけど、この音色には体の治りを早くさせる効能があるんです」

 「それも巫の…鬼の力ってやつか。どのくらい寝ていたんだ?傷の手当てをして貰ってから気づいたら寝ていた」

 「今で五時間ほどですね」

 倉之介は懐から金色の懐中時計を出していった。

 「五時間か…もう夜中だな」

 紫薇は羽月が心配しているだろうなと思った。

 「あの…良ければ笛を吹き続けても良いですか?鹿之介や理之介の傷は酷いから、少しでも楽にさせてあげないと…」

 「好きにしてくれ。俺は巫の若君と話を聞きたいんだが、今はどこにいる?」

 「そんならうちが案内しますわ」

 そういって起き上がったのは鹿之介だった。

 「鹿之介…まだ寝てなきゃ」

 「倉之介の笛のお陰ですっかり治ったで。やっぱりいつ聞いても心が落ち着くわ」

 「倉之介…」

 二人は見詰めながら笑った。

 「なあ、早く案内してくれよ」

 「(空気を読まん奴じゃのう…)」

 寝ていた理之介は片目で紫薇を見ると、呆れた顔をした。

 「こりゃ失礼しました」

 マッチを手に取って火を点けると、側にあった行灯の中に火を入れた。

 「では行きましょか、うちについて来てください」

 

 「ここには電気は通ってないのか?」

 電気を使った灯りがないので注意して見ないと転んでしまいそうになるほど通路が薄暗かった。

 「この大社の中にはありませんわ。里には電気やガスは通ってますけど、お館様の命令でここだけは戦国時代から変わらぬ作りになってますさかい、堪忍したって下さいね。でも近代文明から離れた生活も良いもんですよ」

 「その辺りは同感だ、裸足で歩くのは嫌だが。…ところでスリッパはないのか?」

 ぺたぺたと床に足の裏が張り付く感じがして紫薇は嫌がった。

 「お宅、酔狂な人ですね。そういう人は好きですわ」

 「好きになって貰ったついでに聞いても良いか?」

 「この右目でしょう?詳しいことは若様から聞いた方が良いと思いますよ」

 「そうだな…なら他に一つ。十傑集という名前の割りにその人数が九名しか居ないのはどういう訳だ?極度の赤面屋でもあるまい」

 「稲之介兄さんのことですか…。本当は秘密なんですけどね、実は行方不明になってるんですわ。稲之介、本当の名前は八月一日やずみっていうんですけどね、あの人はちょっと風変わりな所がありはって…巫でありながら、巫である自分を嫌ってたんです。周りは神隠しやなんて言ってますけど、うちは本当は…どこか違う世界に旅立ったんじゃないかって思うんです。八月一日兄はこの世界が嫌ってましたから」

 「随分…知ってるんだな」

 「兄やんみたいに思うてましたわ。強くて、優しくて…実力だけなら、十傑集ぴか一ですよ。そんな人がね…元気でやってくれれば良いんですけど…。あっ、暗い話になってしまいましたわ。すんまへん」

 けらけらと笑ってみせたが、その顔はどこか寂しそうだった。

 「いや、特に気にしてない」

 「そら良かった。さっ、あそこが若君のお部屋です。うちらはおいそれと近付けないので、案内はここまにさせて貰います。ではこれで…」

 「…最後に聞かせてくれないか?」

 鹿之介がその場から離れようとする前に紫薇はいった。

 「こうまで態度を改めた訳を。あんたらにとっちゃ俺は地元を荒らしに来た害悪みたいなもんだろう?それを何故?」

 「確かに正直なところ、あんたを良くは思ってませんわ。…でも今回の件、うちらにも非がありますさかい、これ以上は突っ込めまへん。あとはご自分で赤縞の若君に聞くなり、若様にお聞き下さい。でば…」

 そういって頭を鹿之介は下げて暗闇に紛れていった。

 紫薇は手渡された行灯を手に先に進んだ。念の為に肩には権兵衛を乗せている。床や壁は檜で出来ているのだろうか。行灯の光に照らされて光沢を帯びている。壁には般若の面が飾ってあり、夜に見ると不気味だった。

 廊下を進んでいくと襖が見えて、その中から蝋燭の光が見えた。紫薇はここかと思いながら襖の前に立つと、

 「入るぞ」

 といって襖に手を伸ばした。

 襖を開けると、そこは十畳程の大きさの畳み部屋に書壇が置かれ、傍に徳利が幾つも散らばっていた。倒れた徳利の先に鵺義がいた。胡坐をかいて酒に入り浸り、頬を染めて乱れた衣は太股まで見えていた。

 「随分とご乱心だな」

 「ん?何だお前か…。我に何の用だ?」

 「聞きたいことがあると言っただろう。あの右目について教えろ。お前たちはあれをどこで手に入れた?」

 「ふん…勇璃といい、お前といい躾のなっていない砂利どもだ」

 鵺義は徳利を振って残った酒を見ると、最後の一滴を口の中に垂らした。

 「化け物相手に礼儀も糞もない。十傑集は倒したんだ、知っていることを話して貰うぞ。あの赤い目は…この世界とは異なるもの、女王と関係していることはわかっている。なぜ十傑集はあれを宿しているんだ?」

 そういうとその言葉に興味を示したのか、紫薇の顔をじっと見ると観念したかのように鼻で笑った。

 「巫が遥か昔から諸外国と手を結んでいることは知っているか?その目はな、仏国で生まれたものだ」

 「フランスだと?」

 「仏国の軍事産業と手を組んで新しい傭兵部隊を設立するつもりだった。鬼の血を引き継いだ完璧な兵士。それを取り組んで一気に市場を拡大する予定だったが…。あの男が実験に失敗したせいで碌なものが産まれなかった。今の十傑集はその過程で作られた試験管の赤子だったり、お前の言った女王の血を体内に取り入れてああなってしまったものだ」

 「待て…。なら十傑集は失敗作だと?それにどうしてそこに女王の血が必要になる?」

 「科学的に言うとだ…我らの遺伝子は人間の遺伝子に書き込まれていない情報がある。鬼の遺伝子だけを取り出し、人間に埋め込もうとすると拒絶反応が出てしまう訳だ。元々なかったものを無理やりに入れるんだ、そうなるのは当然じゃろう」

 「そこで女王の遺伝子が一役買ったという事か?」

 「近いが外れだ。実はあの男も我らと同じようなことをしていてな、女王の血を人間の体に適合させようとしていた。その男がいうには女王の血は凡そ全ての遺伝子情報を持っている。俄かに信じられなかったが、その情報は地球外も含み、更には失われたものやこれから先に起こりうる未来の情報も書かれているそうだ。ただ女王の血は生体反応が強過ぎて、鬼の血と同様に人の肉体を破壊してしまっていた。そこでだ、その男と我は手を組んでお互いの情報を共有した。そして共通の話題に辿り着いた。鬼と女王の遺伝子を交えたらどうなるのかと。実験は極内々で行われた。どうなったと思う?」

 「それで今の十傑集があるのなら、失敗だったんだろうな」

 「その通りじゃ!あろうことか女王の遺伝子は鬼の遺伝子を吸収し、巫に眠る鬼の力の殆どを食い尽くしやがった!しかも頼みの女王の力は鬼を食い破るので空になったのか、その証だけを右目に残して体から消滅した。あの目は抜け殻みたいなもんじゃろう。まあ、巫の間でずっと問題になっていたことは解消されそうじゃがな」

 「問題?」

 「やや子だ。鬼の血は巫に人知を越えた力を授けるが、その反動で肉体の消耗が激しい。おかしいと思わなかったか?この里に来て年老いた者を見なかっただろう。それもその筈、わしらの寿命は二十代。直系を除いてその殆どが若いままおっ死んでおる。十代前半で子供を産ませるのも珍しくない。今の十傑集は力こそ失ったが、代わりに天命を授かった。これで後継者の問題はなくなったが、無類を誇った巫の傭兵の名はがた落ちだ。お前のような小童に負ける始末だしな」

 「ご苦労なことだ。しかしその男も災難だったな、鬼の血を混じり合わせたばかりに実験に失敗するなど」

 「…いや、そうとも言い切れん」

 鵺義は急に目付きを変えていった。

 「なに…?」

 「あの男はこれで成功だと言っていた。嘘か真かはわからぬが、喜んで奇形児を抱えていた。肉の塊にしか見えないそれを後生大事そうにな。一番の失敗作だった人の形にも満たないあれが何故…成功だったのか?真相はわからないが、これが我の知っている全てだ。後にも先にも、もうこれ以上振った所で何も出んぞ」

 「いや、一つだけ明らかにしていないことがある。その男の素性だ。会っていたんだろう、名前や背格好を覚えている筈だ」

 「素性か…。少し老けていたが、髪の毛と目は綺麗な銀色をしていたのう。遺伝子工学を得意とし、その筋じゃ有名だった。仏国人で、確か名前は…」

 その名前を聞いた瞬間、紫薇は開いた口が塞がらなかった。あってはならない名前がいつまでも紫薇の耳の中に木霊していた。

 「セレスティン・アーネスエヴァリット。そう、そんな名前だったのう」

 「そうか…」

 謎が少しずつ線になっていったが、紫薇は何故かそれがとても恐ろしいもののような気がしてならなかった。そして更にこれでクレシェントの持ち帰って来る情報と照らし合わせたとなると、考えただけで血の気が引いた。

 「今すぐにでも家に帰りたいが…この時間だと電車はないんだろう?」

 「ないのう。それほどまでに帰りたければ歩いて帰れ。無事に着けるとは思わないがなあ…。くっくっ…」

 「不本意だが今日は厄介になるしかないか…」

 「朝一で里を出て行けよ。我は基本的に人間が嫌いだ。お前のような礼儀のなっていない砂利は特にな。話は終わったんだ、さっさと部屋から出ていけ」

 「言われなくてもそのつもりだ。邪魔したな」

 そういって紫薇は鵺義に背中を向けた。

 「一つだけお前に忠告して置いてやろう。あの男を追いかけるつもりならば止めておけ。あ奴の目は狂気に満ちていた。近付けばお前も飲み込まれるぞ」

 「…もう手遅れだ」

 襖を閉めながら紫薇はクレシェントの顔を思い浮かべた。改めて自分の周りで引き起こっている事態がいかに深刻なものか思い知らされた様で頭がくらりとした。

 ふと廊下を見詰めると、光の線が床に浮かんでいた。どうやら外からの光が漏れているようで、近付いてみると外に続いていた。紫薇は気分転換にそこから外に出てみると、真ん丸の月が夜空に浮かんでいた。雲はすっかり晴れたようで、そよ風が滝の音に乗って心地が良かった。切り立った崖が目の前に続いており、崖の傍には座るのに丁度良さそうな岩があった。紫薇は思い切って跳んで着地する。

 「随分と早まったことをしやがる。岩が落ちりゃ死ぬぜ」

 岩の反対側には同じ大きさの岩があり、その上に赤縞が寝そべっていた。

 「なんだ、居たのか…。見かけないと思ったらこんなところで何をしてる?」

 紫薇は縄張りを先に取られたようで少しむっとした。

 「別に」

 赤縞の手もとには鵺義の部屋で見た同じ徳利が傍にあった。その徳利をいっちょ前に傾けてらっぱ飲みしている。

 「生意気に子供が酒かよ」

 「おめえも餓鬼だろうが」

 「折角の月見もお前が居ると台無しだな。良い場所を見付けたと思ったんだが、戻って寝る。酔っ払って死ぬなよ」

 そういって紫薇が立ち上がろうとした矢先、赤縞は紫薇に向けて徳利を投げた。

 「飲めよ」

 徳利を受け取ると日本酒特有の匂いが鼻を刺激した。

 「…いるかこんなもの」

 「大吟醸だ。金を呑んでる気持ちになるぜ」

 「…俺たちにはまだ早い、酒の味がわかるほど年食ってないからな」

 「良いから飲めよ」

 紫薇はじっと徳利を見詰め、それを口にしなかったが代わりに腰を下ろした。

 「赤縞、はっきり言って俺はお前が嫌いだ」

 赤縞はその言葉を聴いて目線だけを紫薇に向けた。

 「初めは態度、次いで物言い、最後にはお前の目がどうも性に合わない。ここまで他人を認められないのは自分でも驚く位だ。でも…今になってお前と馬が合わない理由がわかった気がする」

 月を見上げながら紫薇は自分の顔を思い浮かべた。

 「お前と俺は…どこか似ている。認めたくないがな。お前の好々爺が話してくれた。俺とお前の育ちは似ていて、二人とも親に恵まれなかった点だ。それが似てしまった理由なんだろう」

 紫薇は観念したように徳利に口をつけた。舌の上をただ苦味だけが流れ、焼けるような喉の痛みの後に頭の後ろがぼうっと火照った。

 「こんなもの…一生かかっても好きになれそうにない。いらん、返すぞ」

 徳利を投げると赤縞は体を起して受け取った。

 「不思議なもんだな。俺が思っていたことと、お前が言ったことが同じなんてよ」

 赤縞は紫薇と同じように観念すると、酒を飲み干して徳利を崖に向かって放り投げた。徳利は崖の先に続いていた滝の中に消えていった。


 静かに風が流れて木の葉が揺れる。


 「俺はこの世界の人間じゃねえ。餓鬼の頃、手足の伸び切っていない時に親父にこの世界に連れて来られた。親父は俺を置いてもとの世界に戻り、俺はジジィに拾われて育てられた。お前がその小っこいのとくっ付いたとき、お前の体から懐かしい感じがした。ナーバル・メズ・ガウシュリー、この言葉だけが、俺が唯一覚えている餓鬼の頃の記憶だ」

 紫薇はそのことを聞いて驚きを隠せなかったが、なぜかすんなりと受け入れられていた。と同時に聞いていた話がより現実味を帯びて紫薇は嬉しささえ感じていた。

 「碌でもない親父もいたもんだな」

 「ふん、おめえもか?」

 「負けず劣らずな。母親はどうした?」

 「とうの昔にくたばったよ。お袋の顔なんざろくに見てねえ」

 「俺もだ、話したことも一度もない。ここまで似ていると気味が悪いな」

 「同感だ、勘弁してくれよ」

 二人は揃って苦笑いした。権兵衛はそんな二人の姿を見て嬉しそうな顔をしながら、紫薇の膝の上に丸まった。


 枡の中に透き通った酒がゆっくりと注がれる。伸びていたのは龍義の手だった。目一杯まで注がれると仁衛門はおっとっとっといいながら口に近付けて枡を啜った。二人の目の前には漆で塗られた膳が置いてあり、その上には沢庵やひじき、煮魚をあしらった小鉢が置かれていた。

 「旨い。こうしてお前と酒を飲むなどいつ以来のことだろうな」

 「ざっと四十年は経ったからな、あれから」

 「しかし久し振りの再開というのに折角なら大吟醸を出さんか。吟醸でも文句は言わないが、ここの大吟醸は旨いからなあ」

 「ふん、贅沢な。鵺の奴にみな飲まれてしまったわ。あれば俺だけで飲んでいる」

 「鵺のお嬢さんか…。あの子の顔も見るのも十年振りだ。綺麗になった」

 「…鵺の奴はお前の孫を娶ろうとしていたらしい。知っていたな?」

 「嫌でもわかるさ。私らはそういう人種だからな。難儀なものだよ、鬼の血というのは…勇璃の奴が巫に仇名そうとしていたのはわかっていたが、まさか本当にやってのけるとは思わなかった。…済まないことをした」

 「良い。もとは鵺の奴がお前の孫をけしかけたのが原因だ。非はこちらにある」

 「そうまでして赤縞の家紋を守ろうとしなくても良いものを…馬鹿な奴め」

 「優しい孫じゃないか。それに比べて鵺の奴は、赤縞の名を捨てて婿養子にしようとは…それでは怒るのも無理はない。ずっと怒りを潜ませて来たのだろうよ、自分の牙が磨かれるまでな。並大抵の覚悟ではない」

 「鵺の血を受け入れたのもその為か…」

 「どうするつもりだ?お前の孫を。家紋をくれてやるのか、それともやはり赤縞はお前の代で消し潰すのか?」

 「初代の主命は赤縞の血を野に帰すこと。大戦が終わり、巫との戦も終わって私らの役目は終わった。屋敷はくれてやっても家紋まではくれてやれぬよ。私ももう長くはない。お前に会えるのも今日が最後になるだろう」

 仁衛門は健気に笑ってみせた顔を隠すように枡を口にした。

 「『天乖君斉斧てんかいくんせいふ』は俺が貰ってやっても良いぞ。お前が死ねばあんなもの、俺以外には扱えぬからな。まさかそれも塵芥にするつもりではないだろう?」

 「無論、私の亡がらと共に勇璃に葬って貰うさ。鬼の秘宝の一つだとしてもな」

 「かつて神仏を切り捨てたと言われる鬼神の武器も、お前の骨と共に消えるのか…。儚いものだ。だがそれがお前の決めたことならば口出しはせん」

 「済まん。だがやはり私の友はお前だけだよ。ありがとう」

 笑いながらも寂しげな表情を見せた仁衛門に龍義はどこか不服そうにしながらも、酒を啜って気分を紛らわせた。


 次の朝、赤縞と仁衛門、そして紫薇は一番の電車で芽吹町に帰った。大社からの見送りは鹿之介と倉之介だけで他の者は顔も見せなかった。紫薇は特に気にとめなかったが、仁衛門は二人に深々と頭を下げて、他の方々にも礼を伝えて置いて下さいといって尼宿の駅を後にした。

 芽吹町に着くと赤縞と仁衛門とは駅で別れ、紫薇は一人で家を目指した。今日が土曜日で良かったと思い、家に着いたらまた一眠りしようと考えながら道を歩き、やっと玄関まで到着した。

 疲れと怪我のせいか軽い溜め息を吐いてドアを開けると、ふと見慣れない靴が置いてあるのがわかった。黒い革靴。サイズはプランジェのものより少しだけ大きい。嫌な予感がしながら、靴を脱いでいるとリビングの方から騒ぎ声が聞こえた。

 「ええい貴様!居候の癖に好き嫌いとは何事だ!」

 「嫌だったら嫌だ!そんな酸っぱいもの食べられない!」

 「いらないなら私が食べようか?」

 「クレシェント様、それでは意味がありません!」

 「まあまあ二人とも、少し落ち着いて下さい」

 紫薇がリビングに出ると、そこにはデラの居城で見かけた一人の少年の姿があった。どうやら食卓を囲んでいることから何か食べ物でトラブルを引き起こしているようだったが、疲れていた紫薇は溜め息を吐いて怪訝な顔をした。

 「あ、機嫌の悪い顔だ」

 クレシェントはうわといって嫌がった。

 「紫薇くんお帰りなさい」

 「ただいま帰りました。それよりもこの騒ぎは?」

 「む…紫薇か、お前からも言ってくれ。こいつは居候の癖に羽月の出した食事を口にしないのだ。全く何様のつもりだ」

 「だってこんな酸っぱいの食べられないよ」

 その少年の目の前には一口かじった梅干が置かれていた。

 「そんな下らないことは兎も角、どうしてお前がここにいる?確か…メルトだったか?クレシェント、お前が連れて来たのか?動物みたいにほいほい誰でも拾って来るな。穀潰しが増やされても良い迷惑だ」

 「紫薇くん、そんなことを言うなんて駄目ですよ」

 「う…」紫薇は面白くなさそうに頷いた。

 「実はデラの居城から帰って来る際に無理やり付いて来てしまったのだ。デラも迷惑だからと必死に止めたのだが、最後には駄々を捏ねて泣き喚いた始末。それで仕方なく連れて来たのだ」

 「何故そうまでしてこの世界に来たがる?何か口に出来ない訳でもあるのか?」

 「そ、それは…」

 目線を泳がしたメルトに紫薇は体を一歩前に出して迫った。

 「理由は?言え」

 「う、うう…」

 「厄介事がある?そうだな?」更に前に出る。

 「う、うう…」

 目に涙を浮かべ、傍から見れば小さい子を虐めているようにしか見えなかった。

 「さっさと言わないと尻を蹴飛ばして外に叩き出すぞ。一体何を…」

 「ちょ、ちょっと紫薇!誰だって言いたくないことだってあるわよ」

 まるで助っ人のようにクレシェントは紫薇の前に立ち塞がった。

 「一番の穀潰しが何様のつもりだ?」

 ぎろりと睨むとクレシェントは堪らず後ずさりした。

 「な、なんか紫薇…前より気迫が強くなってない?」

 「鬼と戦ってみれば嫌でも胆はつく。前々から思っていたんだが、お前も少しばかり自分の立場をわからせてやらないといけないらしいな」

 野良猫に追い詰められた鼠のうおうに二人は縮こまって震え上がった。

 「紫薇くん」

 しかしその野良猫をあやすように羽月は困った顔を紫薇に見せた。

 「私からもお願いします。きっと他の人には言えない訳があると思うんです。食費が足らなくなったら私のお給金を減らしてでも構いません。だから家に置いてあげてくれませんか?」

 「わかりました。月々の金額で上手く回らせて下さい」

 紫薇はころりと態度を変えて言った。

 「(さすが綾だ…あの紫薇をこうも易々と…)」

 「(ホント羽月さんには弱いのね…)」

 「(羽月お姉ちゃん凄い…)」

 各々が羽月を絶賛する中、紫薇はやるせないといった感じでソファーに寝っ転がった。権兵衛は紫薇に気遣いながら小さな前足で紫薇の頭を撫でた。

 「それより紫薇は何をしてたの?家を空けるなんて珍しいことじゃないのはわかってるけど、見たら怪我してるし」

 「鬼退治」

 「は?」

 「何を馬鹿な…。本で読んだが鬼とは空想上の生き物だろう。へそで茶は沸かぬぞ、紫薇。どこぞで手ひどい喧嘩でもしてきたのだな」

 「マネキン女や口うるさい小娘を相手にしている方がよっぽど酷だよ」

 クレシェントとプランジェは顔を見合わせるとむっとした。

 「兎に角…今は休ませろ。色々あって疲れた…話さなきゃいけないこともあるしな…そう、話さなきゃ…」

 その瞬間、紫薇はぱっちりと目を開けて飛び上がった。

 「きゃあ!」

 「うわっ!」

 クレシェントとプランジェは寝落ちする紫薇に腹いせに洗濯ばさみを持っていたが、急に紫薇が飛び上がるもんだから驚いて腰を抜かした。

 「寝ている場合じゃない。お前に話さなきゃいけないことがある」

 一気に真剣な顔になった紫薇を他所に二人は必死に洗濯ばさみを後ろに隠し、汗をだらだらと垂らして笑って誤魔化した。

 「そ、そうなの?じゃあコーヒーでも入れようか?」

 「そ、そうですね…。積もる話でしょうし…」

 「そうだな、眠気を覚ます為にも丁度良い。羽月さん、一杯貰えますか?」

 「はい…」羽月は苦笑いしながらいった。

 「…ところでなんでお前らそんな顔をしてる?」

 「な、何でもない~」

 「う、うむ…何でもないぞ」

 「?」

 怪訝な顔をする紫薇だったが、メルトは顔を隠して笑っていた。


 冗談をやっていた二人だったが、いざ紫薇の話を聞いてみると見る見る内に顔は強張り、いつの間にか乾いた空気が流れてしまっていた。コーヒーの匂いがいつも以上に苦々しい香りを立ち込めている。

 「セレスティン…間違いない、デラが言っていた男の名前と同じだ」

 「その男がクレシェント、お前の出生に関わっているとみて良いだろう。ただ問題なのが、その男がこちら側の世界の人間だということだ。俺はまだあの男を信用した訳じゃない。…この意味はわかるな?」

 「…わかってるわ」

 そういいながらも目の力はどこか冷めてしまっていた。

 「しかしソフィの合い鍵か…そんなものをどこで手に入れた?とても個人で作り出せるような代物じゃないだろう」

 「奴はキジュベドという男に貰ったと言っていた」

 「誰だそれは?」

 「セレスティンとデラの仲介を担っていた人よ。私は会っていないのだけれど、そのキジュベドいう人が情報の伝達やソフィの合い鍵を提供したりしていたみたいね。ただ、やっぱりその人も一癖あるのよ」

 「得体の知れない男ね…」

 「ああ、その男は虹拱結社と呼ばれる政治的運動の組織に身を委ね、暗躍しているらしい。ただでさえあの男を出し抜いたんだ、只者ではない」

 「あのとき…私をセレスティンのもとに引き渡そうとした時に一悶着あったみたいなの。私がセレスティンの失敗作で、これ以上の関与は必要ないって。それを理由にあの時にセレスティンはデラの居城に来なかった」

 「捕まえようとしたらしいのだが、あと一歩の所で逃げられたらしい。勿論、傷は与えたそうだが」

 「逃げ切ったのか?奴から…」

 「信じられん話だがな。しかしクレシェント様、デラの話からするとこれから先の脅威は去ったとみて良いのではないでしょうか?」

 「そうね…複雑だけど、これで誰かから逃げ回る生活は終わったわ。素直に喜べないのが残念だけど…」

 「なにか厄介事に巻き込まれた顔だな」

 「…鋭いのね」クレシェントは苦笑いした。

 「今度は我々が追いかける側になってしまったのだ。先の一件が協会に知れ渡ってしまってな、見逃してやる代わりに捜査に協力しろと脅されたのだ。ああ忌々しい。なにが司法の執行人だ」

 「だがそれを引き受けたということは、それなりの覚悟があったということだろう?危険を承知で真相に近付くつもりか」

 「紫薇に迷惑がかからないように私たちだけでするわ。それに向こうは紫薇のことを知らないみたいだし」

 「馬鹿かお前は…。お前が首を縦に振った時点で俺も逃れられないようになるんだ。俺の存在もいずれ知られるだろうよ」

 「ご、ご免なさい…」

 「しかしこれらの大前提として何がそこまで奴らを駆り立てる?デラにしろセレスティンにしろ動機がわからない。これが一番の重要な点だが、奴らは何をしようとしていたんだ?」

 紫薇はそういってコーヒーを啜った。

 「…紫薇は、神様っていうものを信じる?」

 「何を素っ頓狂なことを…信じる筈がないだろう」

 「少なくともあの二人はその存在を信じていた。いや、神というには聊か語弊がある。奴等は世界の理を解き明かそうとしていた。特にセレスティンの方は何か確信めいたものを持っていたらしい」

 「『招かれざるエベンス・ペトラ)』その扉の先に、無限の可能性がある。そうデラは言っていたわ。そして魔姫の力がその扉を開く鍵になっていると」

 「話が眉唾ものになって来たな…と言ったところだが、どうにもお前やデラを見ている限りだとそれが嘘だとは言い難い。だがお前が鍵とはどういう意味だ。まさか女王にでもなってその扉を取り壊す訳でもあるまい」

 「そこまではデラも聞かされていなかったみたいだけど、もしその扉が開かれたなら、あらゆる願いが叶うと言っていたわ。デラは…それで自分の過去の清算をしたかったのよ。それで私を…」

 「願いが叶うか…。もしそんなものがあるとしたら誰でも死に物狂いで求めるだろうな。俺にはそれが古典的な風刺にしか見えないが。お前の力で消し去ってやった方が世の為になりそうだ」

 「私もそう思ったわ。だから捜査に協力することにしたの。そんなものの為に悲劇が繰り返されるなら、いっそのこと壊してしまった方が良い。そうすることが私が殺めてしまった人たちへの償いになると思うから…」

 「クレシェント様…」

 「お前らしいご立派な理由だな。まあ、死なない程度に頑張ってくれ」

 「…酷い人ね」

 「まるでお前は何の関心もない言い方だな」

 「当然だ。慈善がやりたいなら好きにやってくれ。俺は知らん」

 そういって紫薇はごろんと横になって欠伸をした。

 「お前…」

 「疲れてるんだ、寝るからそっとして置いてくれ。邪魔したら尻を蹴飛ばすぞ」

 本当に疲れているのか紫薇は目を閉じると、ものの数秒で眠りに落ちていった。クレシェントは苦笑いし、プランジェはむすっとした顔をしながら紫薇の体にシーツを放り投げた。

 「あの人っていつもあんななの?」

 メルトはああまで自分勝手な人間を見たことがなかった。

 「そうだ」

 「そうね」

 半ば呆れながらそう応える二人を見てメルトは頬に汗を伝わせた。そんな気もしらないで紫薇はぐうぐうとそれから半日以上を寝て過ごした。

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